原子構造と光放射現象

(2021/04/06) 量子力学理論は理解困難だ。

 『電子』と原子構造。本当のところ、自然界に存在もしない『電荷』の話を取り上げたくはない。多くの科学者の反感と無視と蔑みを覚悟しながら取り上げたくはない。しかし教科書が科学理論の基礎岩盤概念として、『電荷』中心に解釈論を展開し、子供たちに教育している。その教育の間違いをどう質すべきかが緊急の課題でもある。儚い無駄とは思いながら、科学パラダイムを取り壊すには当然の事として取り上げざるを得ない。

 現在の科学理論の根源的基礎をなすのが原子構造論だ。その構造は図のように示されよう。全ての原子は中心の核の周りを電子が周回している構造体として解釈されている。電子殻の電子周回軌道がどの様な球面軌道かは分からないが、一般の表記は平面図で示される。原子の結合、分子構造は平面的ではないから、原子の球面像が然るべき姿と考えるが何方もあまり問題にはしないようだ。ただ太陽系のように、星座の星軌道のように平面として理論が成り立っているとされているのかも知れない。この構造で、電子のエネルギーとの関係から、光放射の原理や自由電子の意味を取り上げて、電子による原子構造の非論理性や矛盾を指摘したい。力不足の文学論に成るだろうが。原子論を問題にする事等、決して誰も論じないだろうから。

 さて、誰も科学者はその構造に対して異論を唱えない。本当にそれで納得しているのか?決して心から納得している訳ではなかろう。『電子』の空間像など考える暇は無いと言うのが実情であろう。専門の研究に心血を注いで日々を送っているから。しかし、子供たちに教えるべき教育内容の事柄は、ただ覚えるだけの過去の科学パラダイムに固執していて良いものだろうか。そこに論理的矛盾や虚飾的な権威論が有ってはならない筈だ。そんな意味で電子にまつわる『エネルギー』の姿、物理的概念と解釈手法を取り上げて、問題点を指摘したい。

 電子とはどの様な実体か?電荷と質量から成ると定義する、その空間構造を示せるか。電荷とはどの様なエネルギーで捉え得るのか。世界に存在する物に『エネルギー』に関わりない物は無い。質量は mc^2[J] なる解釈で捉え得る。しかし、その質量の解釈の真意がどの様であるかは極めて曖昧である。自然世界に存在する物は、必ず空間的体積を占有する。物理学的理論が抽象論であっては破綻する。必ずその空間に実在する具体像を示さなければならない。『電荷』と『質量』の合体空間構造とはどの様な論理性で説得できるのか。そんな油と水を混ぜ合わせるような合体構造は自然空間では存在し得ない仮想概念である。『電子』は、その質量の運動エネルギーしか保有する特性は持ち合わせていない物理的解釈論である。その速度の変化として捉える以外『エネルギー』の解釈法はない筈だ。原子周回電子はその軌道が速度によって決まる解釈法である。

物性論と自由電子。

 電子は必ず原子構造の中しかその存在は定義されていない。電子が空間に存在するには、原子から解き放たれる以外は自然界に存在しない原則と理解している。他に勝手に空間に自由に大量の負電荷の粒子があるとは教科書には示されていない。電気回路などではことの外、簡単に正と負の電荷が無限に存在するかの如く、原子とは無関係に解釈されている。「雷」の解釈なども負の電荷が必ずしも「電子」と認識している訳でもなく、正の電荷がどの様な「原子イオン」であるかも全く意に介さずに論じられる。そこでは、ただ『正の電荷』と『負の電荷』だけで論理が成り立つ。とても自由な気分で解釈されているようだ。それぞれの解釈手法が専門家ごとに異なるのは科学理論の特徴的な実状の姿だ。だから、原子から『電子』が解き放たれて、自由電子になって原子結合空間に漂うと理解するには、どの様な物理的原理に因るか、その詳細を理解しなければならない筈だ。余談ではあるが、先日NHKの番組で、原子と周回電子の関係をグラウンドを例に取り上げて解説していた。ピッチャーの位置が原子核で電子の周回軌道は観客席の位置に当たるというような解説であった。それ程離れた位置関係で解釈される電荷同士のクーロン力での原子構造結合論が真理として公共放送で取り上げられるとは不思議の極みだ。教育効果が絶大だからその責任は大きい。『電荷』とは何かと認識できているのか?と疑わざるを得ない。さて、電子がどの様な原理で原子から解き放たれるのか。何故電子が原子核の周りを回らなければならない事に成っているのか?自由電子は如何程の『エネルギー』を保有しているのか。その速度は如何程か?速度は直線的でも原子空間に矛盾はないと説明できるのか?原子構造の間の空間でどのような速度を保ち得るのか、そのような自由電子は如何程の『エネルギー』を保有していて、それをどのような機能によって放出する事に成るのか?その時の『電荷』の機能はどう働くのか?その論理的説明は可能か?自由電子となる前と変わりない『エネルギー』を保有している事に成っているのか?具体的理屈が自由電子の空間での機能として求められる。電気回路の金属内に『電子』が存在し得る訳が無いのだが、教科書は違う。茫洋とした曖昧さで論説される教科書の理論であってはいけない。

原子からの光放射論の意味を問う。

 もう一つの論点は量子力学として現代物理学理論の根幹を成すものだ。原子からの光放射を解釈する理論だ。その原理には電子の周回軌道の運動が基礎に据えられている。白熱電球の発光現象もタングステン原子の周回軌道の電子によると言う解釈だろうか。蛍光灯の発光現象は水銀蒸気の放射紫外線が蛍光物質の分子を励起し、その電子軌道の変換により電子のエネルギー差分を光として放射すると解釈されている。さて、ここで原子からの光放射は、原子の軌道電子の運動エネルギーが光のエネルギーに変換されるという解釈である事にその原理は採られている。

 それでは電子が周回軌道を変える原因となるものは何だと解釈するのか。さらに、電子が速度を変えることによって、何故光のエネルギーとして電子から放射されると解釈できるのか。

 電子が原子の周回軌道を回りながら、下の軌道に落ちるとき光を放射すると教科書で解説される。その原理は電子の速度エネルギーの差分を放出する意味と解釈せざるを得ない。そもそも電子、その構成が「質量と電荷」の混合体と言う事らしいから、空想でもなかなか描けないもどかしさがある。空間の物理的実在粒子・電子が電荷と質量の混合体と言う定義をどの様に捉えたらよいか、その実態を認識できずに困惑にある。専門家はとても優れた頭脳によって、筆者のような電気回路現象しか分からない、原子論の素人にとっては理解し得ない理論を構築成される。ご指導を乞いたいものだ。

 レントゲン検査の技術理論とその原理について確認したいと思った。『熱電子』が登場し、原子構造論が解説される。再び真空管の『熱電子』の意味を電気回路動作から考え直さなければと思った。『熱電子』の物理的概念の不可解さを。『熱電子』とは単なる「熱エネルギー」の流れでしかないだろうと。『電荷』などそこには不要だから。この辺の事はまた宿題としたい。

 レントゲン検査の原理を調べると、原子の周回電子論がその解説の基に成って論じられている。そんな教科書的解説が溢れている現状で、未来の教育が良い筈はない。何も考えない古い知識を踏襲するだけの理科教育は未来につながらない。科学者すべてが考えるべき問題だ。専門分野の研究だけで済ませられる時代ではない筈だ。周回軌道電子の速度がどの様な原因で減速し、その減速によって何故光の放射になると言えるのか。その意味を上の図にしました。

 その発光現象には多くの軌道電子の内、特定の電子が減速する訳は何だろうか。電子が原子空間の中で、摩擦ブレーキでも受けてその熱エネルギーを光として放射するとでも言うのだろうか。電子の運動エネルギーが光エネルギーに変換される原理・訳が全く理解できない。電子の運動を何が止めるのか?そこには、光のエネルギーとはどの様なものかと言う疑問に答えなければならない、初めの前提が関わる。電子の運動エネルギーと光のエネルギーで、『エネルギー』に違いは無いことを知らなければならない。光のエネルギーは光量子の運動エネルギーじゃない。プランク定数との関係で解釈、評価できる空間像は有り得ない。

光の振動数とは?

 振動数γ[Hz]によって認識しようとしても、それでは光のエネルギーを理解できない筈だ。例え電子の存在を認めたとしても、電子一つの放射するエネルギー量はプランク定数によって評価するエネルギー量には成り得ないから。プランク定数で評価するエネルギー量は光の強さが強かろうと弱かろうと、その表現する意味のエネルギー量は同じ量に成るから。そんな『エネルギー』がある訳はない。完全な論理矛盾だ。即ちプランクの表式はエネルギー量を評価できない概念なのである。プランク定数による評価式の『エネルギー』は光の単一の波長成分の作用性を評価する概念でしかなく、『エネルギー』量の評価はできないのだ。光は空間を伝播する『エネルギー』の空間分布の縦波なのだ。この認識をすべての人が理解しなければ、物理学の未来はない。残念ながら、この光の空間エネルギー分布の概念は物理学概念には無い。理科教育でも教えていない。それは空間分布のエネルギーを計測できない科学論の限界の問題でもある。だから現在の科学理論の実験的検証を前提とした限りは無理かもしれない。そこには哲学的な論理性を極める考え方が必要になる。そこには自然と科学理論との間の統合性が求められる。光の『振動数』とは何か?に答えなければならない。

光の空間像。それは『エネルギー』の縦波伝播現象である。

まとめ。空間の『エネルギー』の流れを認識する事に、考える理科教育の未来が掛かっている。

花の名は?

(2021/04/07)追記。先程削除された記事を書き直した。しかし再び削除された。何故、誰が削除するのか。ボールドにした。気味が悪い!!

不思議だ。吉祥草に似ている。しかし、春に咲くとは考えられない。10月頃に咲く筈だ。

(2021/04/06) 名を知らぬ。

吉祥草の株根の処に咲いている。何故か文章が削除される?花迄削除された?下書きに移して公開し直す。

自然に一分

(2021/04/01) 。一分(イチブン)を守るのは困難かも知れない。欲望が自然を破壊する。

自然を仰ぐは哲学の道
自然を支配するは虚飾の道
この星に生きて人の一分を守りたい

自然への一分は環境破壊でビニル一つで守り難い。自然に🙇。しかし、無知であっても『武士の一分』は通したい。

科学理論の『電子』は虚飾。

ー短縮URLが欲しい。ー

 

日本犯罪行政国家

何故『クラシックエディター』でないのか?『ブロックエディター』は止めたい。

(2021/04/08) 追記。後から気付くことばかりだ。昭和46 (1971) 年4月、産業教育中央振興会の研究助成を受ける事に成った。下記にも記したが、1944年10月から無届で、東京工業大学、宮入・片岡研究室での半年間の研修を受けた。1945年度はその研修で学んだ「パワーエレクトロニクス」の基礎の研究・実験で夜遅くまで実験室で過ごした。ダイオードの整流回路の理解の為に。そこで変圧器の直流偏磁現象の起こる訳を理解した。電気回路には、電気理論の学習では理解できない事が実際の技術を実験で感覚的に身に付けなければ成らないことを学んだ。その為か、昭和46(1971)年4月末にとうとう『A型急性肝炎(この原因?邪魔な人材で、3月頃コーヒーにネズミの糞でも入れられたか?)』で黄疸を発症し、3か月間の入院となった。思い出した事・その不可解な事。それは、入院して職場を休んだ。しかし「病欠届」をどこにも出したことはない。提出を求められもしなかった。考えてみれば、その前にも、事故(湯たんぽの加熱爆発で、上半身と顔面の火傷を負った)で4月末に1月以上入院して、休んだ。しかしその時も「病欠届」のような「休暇届」を提出もせず、事務局からの要求も無かった。考えればすべて、新潟県教育委員会には採用もされていなかったから、幽霊人材扱いだったとしか考えられない。これは人権侵害・存在無視行政ではないのか?病気休暇中の給与が銀行振り込みでないからどの様に支給されたか不可解だ。新津から現金が汽車に乗って長岡まで送られる訳はない❓考えれば職歴は初めから無かった事になる様だ。原子構造と光放射現象など意味が無いご時世かも。

(2021/04/05)追記。理解の限界を超え (2021/02/01)。にも述べた。昭和44年10月からの6月間の東京工業大学、電気工学科の研究室での『内地留学』は全くの無届であった。新潟県教育委員会にも、新津工業高等学校にも何も『内地留学許可申請書』などを全く提出していなかった。それ程無知の自分であった。当然新潟県に採用されたなどと言う意識も無かったし、そのような採用の決まりがある事さえも知らなかった。採用事務を受けた経験も機会も無かったから。昨年新津工業高等学校に『内地留学』の件を尋ねた。そんな履歴は何も無いというご返事であった。何故そのような無届での職場放棄が『処分』されないで過ごされたのか。しかもその時の学校長が『勇退』という事で辞められたらしい。その後に県教育委員会から源川管理(課長・主事?)が赴任されてきた。全く不可解なことなれば、そんな行政が罷り通ること自体が信じられない異常なことである。

更に昨年、公立学校共済組合本部に尋ねた。その時、厚労省発行の『年金番号』を聞かれ、答えたらその番号は存在しないと言われた。確認のため、長岡市発行の『ナンバーカード』の写しを添えて、文書での共済組合登録の有無をお尋ねしたが回答頂けなかった。今でも時々、闇の声⦅戻って来い⦆?と聞こえる。そんな人権侵害状態で、何処の闇の幽霊機関に行けるところがあるのだろうか。以上(2021/04/05)追記。

 

今(11時10分)も、この記事の関係か?飛行機が上空で音を立てていった。

(2021/04/01) ずーと気掛かりであった。

『柏崎』と言う声が聞こえていた。

眞坂と思うような事❓

昭和62(1987)年5月の連休が過ぎたころ。長岡技術科学大学、電気系の研究棟(パワー研)の廊下で、奇妙なことを尋ねられた。難波江教授から“柏崎に行ってきたか?”と聞かれた。更に奇妙に思う事は、その当時韓国から研究生が留学で研究室に来ていた。多分同じ日だと思うが、その留学生からも難波江教授と同じことを聞かれた。確かに妻と柏崎の米山の観光地に行って来たので“そうだ”と答えた。

眞坂という意味は筆者を『泥棒』に仕立てたのではなかろうと言う疑念が強くなってきた。その月には、「学長選挙」があり、新聞などでも事件扱いされた。

投稿が消されるようなので、『このブロックには、想定されていない無効なコンテンツが含まれています。』と記されているから、公開しながら追記する。

今まで、気味が悪かったが、確認する術もなく、相談する者もいない闇の中に居た。実は、2013年頃の話であるが、筆者を『ある者(肝臓機能障害に因るアンモニア脳症の病気に因り意識がなくなる時期)』の取り調べのために連れて来い。と言う長岡検察庁、佐藤 副検事の通知が届いた。何故筆者を指定したのか今に成れば極めて不適切な検察庁の行政手法だ。筆者の無知を良いことに、筆者が長岡検察庁の二階に呼ばれ、そこで佐藤副検事が筆者に何か訳の分からないことを話し、こちらは『ある者』の事と思っていたが、今考えれば、無関係の筆者を拘束して話すこと自体が行政犯罪だ。しかも冒しなことに、『ある者』が言うには、後で二階に行って同じく佐藤副検事の話を聞いたが、何の話か全く意味が無かった。と言っていた。筆者を犯人に仕立てた法務省の行政犯罪だ。

この検察庁事件の基は長岡警察署の若井刑事が関わっていた。無理やりに筆者の写真を撮って、犯人に仕立てた。恐ろしいことが成されている。

元を糺せば、新潟県教育委員会に正式に採用されていない、公立学校共済組合に登録されていない筆者が、昭和54(1979)年文部省の『工業高等学校教員指導者講習会』に、登録されて参加する筋が見えない。しかも7日間、東京工業大学での講習を受けるとは?

昭和60(19859)年4月からの「中曽根教育審議会」の対象候補に選ばれるのは、排除・抹殺の意味しか見えない。

(2021/04/01) ずーと気掛かりがあった。

『柏崎』と言う声が聞こえていた。
眞坂それは❓昭和62年春、5月の連休過ぎの或る日に冒しな事を尋ねられた。長岡技術科学大学の電気系の研究棟の廊下であった。

エディターが変って投稿が困難になった。

『ブロックエディター』は止めて欲しい。投稿が混乱して、記事が消えてしまう。『旧エディター』だけで投稿したい。

ダッシュボードから表示をすると、何故「フォロー」マークが出るのか?筆者の投稿と認識しないのか?

御蔭さまで『旧エディター』が使えるようにして頂いた。有り難い。

操作が分からない。どうしたら良いか?

図版の投稿が上手く出来ない。

固定ページは『旧エディター』が可能なのに、何故記事は出来ないのか。

スパムメールがコメントに在り、削除して『現在1件のコメントをスパムとして捕らえています』とそのまま有るかのように表示されている。

『現在保留中のスパムは有りません。』となった。

旧エディターに戻らないかな?

少し古いエディターが使えるようになったので、画像を載せられ安心した。しかし、古い投稿記事のリンクがし難い。古い記事の『年・月』検索が困難で困る。これは回復していたので安心した。しかし、まだダッシュボードでの検索が出来ない。

新規投稿記事の短縮URLが取れない。

貝野小学校が閉校になった

(2021/04/04)追記。今思う、世界は科学技術によってその生活環境が予測しがたい状況に直面している。その地球環境の未来への希望は、すべてその基本が子供たちの教育に掛かっていると思う。日本及び世界の教育の課題が改めて気掛かりである。その期に及んで次の点がある。それは『教育の基本』である。

記念誌に、南原 繁 の書(どなたかの寄贈)が体育館に掲げられていたとある。どんな書か知りたかった。昭和22年3月31日、新しい日本の教育制度の基礎が『教育基本法(原)』として制定された。その教育刷新委員会 委員長が南原繫である。東京帝国大学総長であった。その新しく制定された教育の理念の意味について、南原繁は次のように述べたと言う。

「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようと、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」

改めて、その『教育基本法(原)』の前文を記す。

“ われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かの文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。”

以上がその『教育基本法(原)』の前文である。

しかし残念な事にその『教育基本法(原)』が 2006年12月22日に『教育基本法(改)』に変わった。なお、(原)と(改)は筆者が区別の意味で付けた。残念という意味はその『前文』までも変えたその理念が理解しかねるからである。教育の政治的中立性(2020/07/22) 。

(2021/03/ 28)その閉校記念誌を頂いた。やはり寂しさがある。貝野校の歴史を記念誌から知った。

昭和31 (1956) 年9月30日 中魚沼貝野村は閉村となり、残念ながらそれ以降、故里はその学校区ではなくなってしまった。

貝野小学校新築記念 (2016/08/31) が昭和3年12月3日の事だ。記念誌には校舎増改築落成式挙行とある。

姿校  明治7年 (1874) 2月 創立し第6中学区第4番小学姿校(興源寺)と称す。

明治22年6月 村立姿尋常小学校と称す。

貝野校 明治7年 (同)  3月 創立し貝野校と称す。

明治22年6月 村立貝野尋常小学校と称す。

合併 明治25年7月 合併により、村立貝野尋常小学校となる。

以上が創立当時の歴史と知った。

記事などから、

明治6年6月 柏崎県が新潟県に統合され、新潟県となった。知らなかった。

歴代職員(明治25年以降)

その4人目に、祖父 金澤 信策(ノブツグ) 明治26年4月~同29年3月 が載っている。年齢を数えれば、15歳ほどだ。村で若い頃に教えていたと聞いたことがある。また、金澤 憲治(大正6年)の名も載っている。

明治30年9月。姿と宮中で赤痢が発生し、41人死亡とある。何か現在のコロナウイルスの状況との関係を考えさせられる。

明治32年5月 私立塾設置。塾長に石原信 氏を招聘(姿 金澤 道賢が招聘)とある。

 

自然と言う世界

(2021/03/28) 追記。下記の記事で、光と視界認識の機能について述べた。眼球構造とその機能は生活環境、即ち水中か地上かによって多少は異なるだろう。しかし人だけでなく他の動物、馬や牛あるいは鯨や蛸など目の機能はほとんど同じ筈だ。全ての生体の殆どの眼球の構造は同じで、黄斑円孔が視神経となって、何処かで繋がっている筈と思う。牛や馬の眼球の解剖により、その視覚機能が分かれば、人も同じ機能と構造と解釈して良かろう。こんなところに科学理論の少しでも専門的な研究対象を広げた、より自然に寄り添う哲学的広がりによって、真の自然感に因る科学論が展開できるのではと思う。

(2021/03/22)。こんな素晴らしい不可解。それは光の世界。

上の眼球の図はーカラーでみせるやさしい解剖(南江堂)ーの絵図を写させてもらった。眼球の光ファイバーと色覚 (2010/11/28) のブログのはじめの頃の記事に関わる。その記事は改めて科学理論の常識に大きな衝撃を受けて書いたものだ。筆者のような医学の素人が、眼科学会の専門家の科学論に反論するなど正気の人間のすることではない。改めて、現在の『電子』否定の確信からの、科学理論全体への疑念をどう伝えればと悩みの中に在る。専門家はそれぞれの科学業界理論の中で、論議はするが、筆者のような素人の論は無視されて、反論もされない。眼球構造で、網膜に視界の像が結ばれるとの解説が眼科のお医者さんのお部屋には掲示されていると思う。上の図で、網膜は硝子体膜と脈絡膜の間の厚い部分であると示されている。水晶体のレンズなどで、光が屈折して網膜に像を結ぶと本当に解釈しているのかと思えば、原子力発電所の危険な科学技術程ではないとしても、みんなに考えて欲しい科学理論の現実として提起せずにはいられない。網膜全面に亘ってどのような光検知の細胞が、しかも色覚の基となる光の空間エネルギー分布波迄検知できる細胞機能が備わっているなど理解できない。光の物理的空間像が物理学理論で認識されていないことが全ての科学理論の曖昧さに関係している原点である。プランクの定数の次元が [Js] である意味をどの様な物理的概念として理解しているかが問題と思う。今日もある新聞ニュースレターの記事に、『老害』と言う言葉が使われて‥とあり、筆者の様なものも『老害』には成りたくないが、しかし・・。自然の中に現れる千変万化の不思議は、科学論で示そうとすれば、その純粋な自然の心に沿う思いが基に無ければ、観えないように思う。光が網膜に視界の像を結ぶという科学常識は間違っている。硝子体管は光ファイバーである。

心 ホウズキに遊ぶ (2021/03/14)。で、「木瓜(ボケ)の真赤な花が咲く こんな素晴らしい不可解 風景の意味でも極めんと」と訳の分からないことを綴った。

念頭に光の不思議を思い描いての事である。

真赤な花弁は木瓜だけではない。

なぜ花弁が赤いか?と己に問うてもその訳を説明できない。決して花弁が赤いという色の光がある訳ではない。光に色はない。光の本性を考えれば、それは空間に分布した『エネルギー』の縦波でしかない。だから色など光には無いのだ。光の空間構造が赤い色を本質的に備えている訳ではない。その意味を分かって頂けると思うが、如何でしょう。光を振動数で捉える習慣の理論物理学の専門家には異論があるかも知れない。しかし光の『振動数』と言う概念は誠に意味の分からない概念に思える。何かが振動している状態と解釈するとすれば、それは何が横向きに振動するものかの何かを示さなければならない。電界とか磁界とかが横に振動する訳がない。マックスウエル電磁場方程式の信奉パラダイムにおられる専門家には承服しがたいことと推測する。しかし、光に色彩の差を示す性質はない。それは自然が人との間の心のつながりを演出した結果と思えばよい事であろう。それ以外特別な物理的本質などない。同じ光が花弁に当たれば、その花弁の表面の空間構造(あるいはその内部に侵入して)、に対して屈折して波長(エネルギー分布の空間構造)に変化を生む。そのエネルギー分布の縦波の構造にその花弁の特徴が現れるからと解釈する。光は何も振動などしていない。光は単にエネルギーの空間分布波形の縦波でしかない。その単純性が光の基本特性だ。だから光は無限の変化で人に計り知れない複雑な世界の印象を与え得るのだ。

物が見え、風景が見える。

それはすべて光と目の関りに因っている。先ず、光が空間に展開される訳だから、その本質は光の空間像を認識することから始めなければならない筈だ。光の振動数とはどの様な意味かを理解しなければ『振動数』と言う物理概念が余りにも曖昧なまま使われてしまう。それは科学理論の基本である論理性を無視した科学論に成ってしまう。自然の基本は極めて単純なのである。風景や物を見て認識できる訳は光が決して曲がらない。その意味は極めて日常生活の中の単純な事にある。真っすぐ光は進むから風景が見える。光が曲がったら風景や物の像など見えない。そんな単純な意味を感覚的に意識する事しか、自然の世界と分かり合える道は無いと。

眼球の機能で全く分からない事の一つ。視神経と黄斑の繫がりがある筈だ。その解剖的構造が知りたい。

科学理論に危機感を!

科学技術の驚異的な進展社会に生きている。それはまた、自然を人の思惑でその環境を作り替える事に成る。どれだけ過去に科学技術の過剰な適応によって過ちを犯してきたか。今は、全世界的な科学技術による経済競争と言う坩堝の中に嵌まり込んで、自然が破壊され、地球の命の輝きが消え失せようとしている。海の温度が高まれば、魚貝類の生存領域が狭まる。結局人の自然による恩恵が失われ、人の生存が出来なくなる。そんなことさえ考えない、論理矛盾の経済競争が繰り広げられる。必ず全ての人に、一本の木を育てる義務を課さなければ、酸素も水も貧弱な環境に生きなければならなくなる。町の中に、住宅の傍に、大きな葉を広げた、桐の木さえ何処にも見掛けなくなってしまった。哲学を忘れた専門家の世界になったからだ。

(2021/04/07) 追記。

以下の記事がすべて削除された。

今足元の生活を思えば、空恐ろしい不安に駆られる。全く身の周りの環境の科学技術の現状を理解できない自分を観るから。

 生命に関わる、生物・生化学、医学生理学などの基本の基の字も理解できていない自分を分からない。高校生の学習する教科の理科の中でも、「生物」となると全く解説の意味が頭に入らない。DNAや細胞の中の機能など恐ろしい程無知である。世界は『クローン人間』の怪しさにも科学技術の可能性が重なる恐怖に、成す術もない自分を知る。分かる、分からないのレベルをはるかに超えた世界、宇宙を遊泳するに等しい現実離れの中に居る恐ろしさ。

 人は体温がどの様な細胞の機能によって保たれているのか?体温中枢の働きに因ってと言われても、体温の仕組みさえ理解できないのだ。ヘモグロビンが呼吸による『酸素』を体に運び、生命維持の機能を果たしていると言われても、何処でどのように『酸素』が使われて生きていられるかも分からないのだ。高度の細胞内の生化学と比べれば、余りにも基本の話の筈と思う内容で、日常生活の基礎の内容と思う。こんな命の話の基礎への不安、無知の我が身である。

 科学技術と科学基礎理論。

 DNAの細胞編製技術の壁に対して、電気回路の中に解かれる『電子論』の嘘が罷り通っている現状をどの様に捉えればよいかと、危機感が募る。

 命の水を心に載せて!

 『水』は酸素と水素の原子結合分子だ。と解説される。教科書で、学校教育によって教えられている。酸素も水素も電子が核の周りを回っている原子だと教科書にある。みんなそう理解している筈だ。そんなことが本当な筈はない。教科書が嘘を書いている。自然界には決して『電子』など存在し得ない事だけは間違いない。水の分子が酸素一つと水素二つの結合から成っているらしい。電子が核の周りを回っているなら、どの様な空間構造で、回転する電子が水分子を構成し得ると理解できるのか。120度の空間角度で水素が酸素に結合するとも言われる。回転する電子がどの様にそんな空間構造構成の力を発揮できると考えられるのか。皆そんな訳を説明できるのか。

 水の妖精七変化 (2017/11/02) 。この記事で水への疑問や思いを記した。水分子の構造を周回電子で解釈することは無理である。全ての分子がそれぞれの空間的な構造体をなす。原子の周りを結合を担う『電子』なる粒子が回転していて、一定の方向性を持った構造体を構成できる論理性等どこにも無い筈だ。周回電子なる仮想概念で、原子結合論を論じるなどできない。科学パラダイムは狭い科学論者の理論の寄せ集めとして教科書に纏められているだけだ。専門家は決して狭い他の専門領域に口を挟まないし、異論を唱えたりはしない。電力制御技術者が決して原子構造論など論じない。『電荷』否定論など決して唱えない。そんなことをするのは余程の愚か者である。気が狂ったと専門業界から排斥される。水の分子構造が分からないなどとは決して言わない。電気回路の専門家は、その専門家同士の積み上げてきた科学論の中での共通に理解し合える内容のパラダイムでその集団の力を高め、結合力で社会的、経済的利益を得る為の共通の目的に邁進する。

 専門家の理論。それは極めて保守的に伝統の維持に働く。だから曖昧な真の基礎概念など誰も研究対象にしない。『電子』は役立たなくても、専門家集団の理論の安泰の為には異論など挟まない。哲学など経済的所得に役立たないだけでなく、社会的の技術家・専門家集団から葬り去られる。

 科学者に欲しい哲学。空間に存在する『エネルギー』を認識してほしい。それは感覚的に自然との心の関係によって得られるもののように思う。薬缶(ヤカン)で湯を沸かす。沸騰する水を見つめる。水面に到達して、大きく膨張した気泡。水面から沸騰して飛び出す水蒸気。直ぐに消えて見失う。水の姿と熱エネルギーを沸騰現象にどのように解釈するか。『エネルギー』が分かりますか。心に描けますか。物理学理論には無いでしょう。水の膨張と水分子に関するアボガドロ定数の意味は?気体分子運動論?

以上が削除された。恐ろしや!!

科学と哲学

『電荷』概念の否定に思う。

科学は専門分野から構成される学問体系。

哲学は専門分野の解体によって始まる学問。

科学理論は専門家によって創られる。

科学理論を論理によって崩壊させたところに哲学が生まれる。

専門家・技術者。
大学等で、専門教育を受け、所謂科学パラダイムの信奉者として、特定の専門分野の科目・学術に精通して、その分野の研究・学習の積み重ねによって、その技術・知識の伝承の役目を担った社会的専門家となる。
国家試験、資格試験あるいは学術論文などにより、一定の専門的能力の基準を超えると認められることが多い。
その専門的学識は、その取得者にとっては生活が守られ、また社会的権威を保って、その専門分野の集団的組織の拡大が人によっては人生の一つの目的化となり易い。それは拠り所の科学パラダイムの死守につながる。

哲学者。科学革命が起こり難い。社会的専門家集団の科学パラダイムの死守に因る抵抗が大きな社会的壁となるから。安定した生活の糧と社会的指導者としての権威および社会的混乱回避の願望によって起きる変革への拒否。

『電荷』否定。それはやはり科学革命と呼ぶにふさわしく、社会的達成困難な哲学に成ろう。

(2021/03/17)追記。お恥ずかしながら同じような 哲学と科学 (2018/04/08) があった。