カテゴリー別アーカイブ: 昆虫

奇跡の遭遇

日本雨蛙。

この写真は名刺にも使ったものを額に収めて、傍に飾っているものだ。『いつも脇にある』雨蛙と幼生生殖 (2012/10/04)の写真だ。

偶然とはいえ、こんな表情をされたら、撮る自分の気持ちをすべて見通しているよと言われているように思わざるを得ない。

普通の雨蛙の写真は多く検索結果に出ている。それは普通に昆虫を撮ったものに見える。少しも、特別の感情は起きない。しかし、この狭い箱庭に現れる雨蛙は、鳥などに捕食されずに残れば殆ど何処にも行かず、ずーとその狭い中で過ごすようだ。いつも現れる自分の姿も見慣れて覚えているから、こんな表情で写真に納まったのかとさえ感じさせる。他にも、梅の盆栽に毎日、毎日同じ枝で過ごし、筆者が近付こうが、写真を撮ろうが全く意に介せず、暑い陽を背に浴びて平然と日中過ごす、茶色の保護色(梅の木の茶色と同色)の大きな親雨蛙が居た。そんな生態の虫が雨蛙なのだ。冊子『雨蛙 その謎』(2006年7月)の裏写真の一部、上(2000/04/30 .撮影)がその蛙だ。

いつも脇にある、こんな表情を見て、皆さんは何も感じませんか?他にも、信濃川での鯉との出会い。雀の恩返し(稲穂)など考えられない不思議に出会った。

心は、その情報は空間伝播の『エネルギー』であれば、不思議も夢の出会いと思っても良いだろう。

こんな日本雨蛙に出会うこと自体が奇跡と思う。しかし、日本雨蛙が水中の「オタマジャクシ」の生態を採らないとの解釈に至るまでには他にも大きな観察の不思議があった。

それが右図の観察経験である。植木のため、土を掘った。其処に白い精々2㎝程の見たことも無い白い昆虫が、無数に塊となって絡み合いながら、蠢いていた。その時は、まだ雨蛙の事には関心も無く、青ガエルと捉えていたからそのまま意識も無く、埋め戻した。しかし、その後何年か経って、何故こんな水の溜まりも無い狭い庭に毎年雨蛙が30匹以上も棲んでいるのか?と気付いた。その当時は、まだ雨蛙の生態を常識の通りに水中の「オタマジャクシ」から成長すると思っていた。その不思議に気付いて、雨蛙に注意しながら、日々観察を無意識にするようになった。今は、年に1,2匹しか新生の雨蛙は出ないが、当時は相当多く居た。雨蛙は親雨蛙になるには相当の年数掛かるようだ。新生のものから、2年、3年と年数も幅が広いものまで居る。そんなことを観察しながら、土の中の白い虫の群れが居た事を思い出した。2度とそんな白い虫の群れを観ることは無い。その奇跡の遭遇が日本雨蛙についての、「オタマジャクシ説」の否定につながった。

蠢く(ウゴメク)の文字は?

春の新芽が生えて日差しが強くなる頃に、その草の下で虫が動き出す情景を象形文字にしたのが『蠢く』の文字に思える。白い虫の塊に成って、蠢くという意味に土の中の雨蛙の幼虫がそれに合うように思う。

しかし、日本雨蛙の土の中での生態は全く不明だ。幼生生殖かどうかの確認も出来ない。雄の雨蛙がどの様に関わるかは全く不明だ。何年土の中で過ごして誕生するかも分からない。生れ出る年数もまちまちで、異なる様な気がする。

拾遺科学論題考 (2021/ /  後日投稿) の一つとしてもう一度取り上げておきたかった。私と雨蛙 (2021/07/08)。

懐かしき W の大花火

今日も古い投稿記事を見直した。光が世界を華やかにする色彩の意味を考えて、色の世界を尋ねて (2012/01/05) との関係を取り上げる心算だ。

初めの頃に、Wordpress から記事に文字[W]の大花火が揚がった。新年の最初に、前の年の記事に対して嬉しい花火だった。思い出に纏めさせていただきます。

超電導とは何か? (2011/03/18)。日本雨蛙 (2011/05/16)。庭に驚きの世界 (2011/08/05)。雷と指数関数 (2011/11/15)。原子と分子の妙 (2012/06/28)。小真弓 (2012/11/16)。電圧計が計るもの (2014/03/01)。おにやんまの飛翔の極意 (2014/04/13)。私は役立たず (2014/05/14)。『熱』の正体 (2014/05/16)。地震発生の原因 (2014/06/15)。空間感覚(詩心 124号) (2014/07/21)。浮足立った基盤技術劣化社会 (2014/08/27)。花筏に蝶 (2014/10/03)。pq理論のリサジュ―波形を見つけて (2014/11/21)。心に刻む歴史 に触れて (2015/03/13)。戦争とは破壊だ (2015/07/06)。手習いに (2015/09/24)。磁気特性(B-H曲線)と計量単位の意味 (2015/11/30)。

確かにと、嬉しく思う。

実生の水楢

水楢の生命力に驚嘆。

いつの事であったか、どんぐりの実を拾った。恐らく15年以上は前のことだ。小さな土鉢に植えた。高さ80cm程で、それ以上伸びない。

 

 

 

 

 

植木鉢にセミを置いた。この蝉もここで生れて飛び立った3匹の一つだ。不思議に思うが、蝉も生まれた場所に戻って死ぬように思う。

水楢の生命力について。この小さな鉢で、一度の植え替えもしない。鉢の大きさに合わせて、高さも幹の太さもそのままで葉を茂らせて、生き続ける。普通の盆栽なら数年で根腐れして枯れてしまう。

深山クワガタ

クワガタの来訪 

どこかで飼われていたのか、珍しい来訪者。暑さを避けてかコンクリートブロックに入る。胡瓜を与えて、翌日見たらいなくなっていた。

 

ところが昼過ぎにまた戻っていた。今度スイカを与えた。スイカが気に入ったらしく、口を刺して吸っていた。

 

 

 

 

 

蟻とスイカ  しばらくして様子を見たら、小さなアリが集まってクワガタにも群がり、振り払いながら辟易しているようだった。その後にはもう居なかった。アリはどこから来たのかスイカに群がっていた。アリには不思議な習性がある、スイカなどに土をかけて覆いつくしてしまう。土で覆うのは保存する意味と他のものから守り独占する意味かと思える。しかしナメクジは被った土を気にせず食する。

生きる雨蛙

(2020/07/07) 追記。先日から雨蛙の声がしていた。先ほどボケの葉にオス雨蛙の姿を見つけた。写真に撮ろうと試みたが、案の定素早く逃げられて写せなかった。その日本雨蛙はお尻が細く尖っているから、「オス」と直ぐに見分けられる。未だ大人でなく、今年のこの雨で土が柔らかくなったから生まれたように見える。雨蛙も鳴くのは「オス」で先日からの鳴き声の主であろう。雨蛙は土の中で相当の年数暮らしているように思う。生れ出るまで何年と決まっていないような気がする。早く生まれるものと何年も土の中で過ごすものといろいろの様に感じる。蝉のように7年とか決まっていないようだ。日本雨蛙の「雄」と雌」に特徴的な特性がある。オス雨蛙を写真に収めるのはなかなか難しい。「メス」は決して人が近付いても動じる事はない。しかし「オス」は直ぐに逃げて草などの茂みに隠れてしまう。それが日本雨蛙の特徴の一つだ。

(2019/07/11)追記。雨蛙と幼生生殖 (2012/10/04) の記事がある。今でも信じてもらえるかが気になる。誰もが信じられないかも知れない。しかしもう一度述べておきたい。日本雨蛙は決して水の中でのオタマジャクシの生態は取らない。これが全ての基になる。では普通のカエルの生殖行動が土の中で可能か。しかも、日本雨蛙の雄がいることも確かである。雄は比較的細い体形をしている。しかし、人目に付く場所にはあまり現れない。素早く草の茂みに逃げ隠れてしまう。先日、少し予想と異なるものを見た。雨蛙の鳴き声がした。当然鳴くのは雄と理解していた。ところがその鳴き声の雨蛙は色が茶色系の雌の体形であった。(2019/07/16)追記。色は茶色でなくご覧のようであった。喉元も膨らんで鳴き声を立てそうに見える。雄の体形ではなく、腹部のずんぐりした雌雨蛙であった。この点は初めてのことで、鳴くのは雄との認識が正しいかどうか悩ましいことになった。幼生生殖との生態も科学的な検証結果があるわけではない。土の中で雄と雌の生殖行動が卵胞になされるかは理解困難であることからの推論として幼生生殖にたどり着いた。この点は今でも絶対正しいと断言できる訳ではない。雨蛙の度胸ある生活とその悟りの姿が並の生物に観えない。

生きると言う意味

日本雨蛙は土の中に生きる。土の中で生きるものに蝉がいる。蝉は7年間土の中で成長し、地上に出てからは短い生命で終わる。しかし日本雨蛙は長い年月地上と土の中の生活を繰り返して、生き続ける。決して1年では親雨蛙にはならない。しかし土の中での生態が分かっていない。新生雨蛙となって地上に誕生するまでの生態が分からない。何年土の中で幼虫の生活をして地上に生まれ出るかが分かっていない。ハッキリしている土の中の姿、それはたった一度の春5月頃に遭遇した土の中に観た事実である。木の苗木か花かを植えようと土を掘って、そこに見た光景である。それは白くて、1.5cm程のマッチ棒より細い幼虫が数十匹も絡み合って一塊りで蠢いているのを観測した。それは長い尻尾があり、4本足で細いオタマジャクシと同じ形状をしていた。その時は未だ全く雨蛙の生態に何の関心もなく、これは何だ?と一瞬感じただけでまた土を被せて、その事も忘れて過ごした。その後何年か経って、全く水や池のない狭いその場所に毎年雨蛙が溢れ出ることに何故かと気付いた。それまで水の中でカエルはすべてオタマジャクシの生態を取るものと世間の常識どおりに思っていたのに、不図気付いたら、眼の前の雨蛙の発生が理解できない疑問となった。それから何年も毎年そこに棲む無数の雨蛙をじっと観察することに成った。特に母親雨蛙は大きくて、貫録が有り、傍でじっと観察しても逃げもしなければ、隠れもしない。毎日夏の日照りの中で背中に強い陽を受けてもじっと過ごし、同じ梅の盆栽の木に棲み続ける。特に雨蛙の生態で不思議に思ったことがある。保護色の茶褐色かと思わせる色で毎日居る。そんな生き物がいることを知って、自然の世界は不思議に満ちていると驚嘆せざるを得なかった。そのような雨蛙を見ていて、あの過去の土の中の蠢く白い虫の存在が頭に蘇った。それからが、雨蛙の筆者が考える生態と世間の科学常識(百科辞典でも、専門書籍でもすべて水中のオタマジャクシ説)との間での葛藤が始った。夜行性の生態で、夕方寝床の傍に糞一つを残して、食事に出かける。朝はまた同じ場所に帰って来て、夕方までじっと一日そこで過ごす。そんな姿を見れば、如何にも禅僧の悟りの象に見える。それは相当年数を生きた親雨蛙の日常生活であるが。

地上への誕生。

雨蛙の形状で、特筆すべきは決して生れ出たその瞬間からオタマジャクシのような尻尾は無いことである。既にあの特有な美しい緑色をして、とてもか細いが逃げ足は速く、多くが集団でいる。水の中から生れ出るなら、尻尾が残っている状態を見せる筈だ。決してそれは無い。或る専門図書に薄赤色の尻尾の有る姿を雨蛙として示してあるが、それは無い筈。すべては推論の域であるが、雨蛙が水のない場所に長い間生まれ出る意味を考えれば、その誕生まで地中で何年も過ごしているのではないかとも思える。解らない不思議を秘めた日本雨蛙にささやかな応援を送りたい。

アジサイに姿を見せた。親雨蛙1っ匹。

大きな親雨蛙であるが、少し寸法が小さく見える。

 

全部で、姉さん雨蛙が3匹。妹(今年の新生なら大き過ぎる)雨蛙が1っ匹。計5匹。

 

姉妹で。右側の妹雨蛙は今年の新生児にしては少し大きい。あるいは1月前ぐらいに生まれたか?正面の雨蛙は今年の新生ではない。

 

 

ハーブに娘。傍に昨夜の糞一つ。雨蛙の生態で特徴となるものが昼夜の生活スタイルである。

 

 

 

もう一匹の姉さん。

 

 

 

 

 

 

蜘蛛の巣

(2019/08/20)追記。

とうとう城の主が消えた。巣も居住席も寂れて、いかにも廃墟の風情が寂しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2019/08/11)追記。記録として報告。今もほぼ毎日巣を作り直しながら、元気だ。既に3か月近く経つ。

 

 

 

 

 

(2019/06/18)追記。事件だ。昨日はとうとう蜘蛛も居なくなり最後の廃墟として、寂しい巣を写真に収めた。

 

 

 

 

ところが、今朝は新しい巣に新装して、戻っているではないか。お帰りなさい。少し脱皮と修行の結果か、黒く逞しくなったようだ。

 

 

 

 

(2019/06/14)追記。事件だ。昨日から蜘蛛の姿が見えない。一昨日近くに他の種類の蜘蛛が巣を掛けた。

 

 

 

 

これは蜘蛛の脱皮の殻か。小真弓の葉に殻が付いていた。行方不明の蜘蛛の姿に似ている。脱皮後行方を晦ましたか?近くに移住した蜘蛛が原因か?その蜘蛛も居ない。

 

 

(2019/06/11)追記。巣の巻き方向に二通りある。蜘蛛の表側から見て。

反時計巻

 

 

 

時計巻

 

 

 

 

(2019/06/08)追記。只今巣の改築中。

 

 

 

 

(2019/06/07)再追記。蜘蛛が姿を見せた。

 

 

 

 

 

見事な棟梁ぶり。巣の概形寸法を採った。

驚いたことに支点が5点ある。どのような空間感覚で平面を構築するのか。

 

 

 

 

 

(2019/06/07)追記。この蜘蛛を観察し続けて。何度も巣の張り替えをしながら今もここに生きている。5月の末には誤って巣の大事な支え糸1本を水遣りのジョロで切ってしまった。蜘蛛は危険を感じて生活の場を変えるかと思った。しかし残った2本の糸を生かして新しい面で巣を張った。その様子を報告する。

 

巣を改築。

再び巣が損傷した。

 

 

 

 

その後に誤って壊してしまった。御免なさい蜘蛛さん。しかし新しい巣を新築。

 

 

 

 

 

 

 

 

何度も改築しながら、巣の中心部の居住空間は隠れ場所としての機能を備えどんどん大きくなっている。

 

蜘蛛(クモ)(2019/05/18)
漢字も珍しい。音読みはチチュで蜘蛛の他には使われない文字のようだ。それぞれの漢字の意味も良く分からない。昆虫の中でも蜘蛛は特別の物に思える。巣網を空間に張って獲物を捉える。その巣は幾何学で言う所謂平面の美学を醸し出している。支点が3点なら必ず平面に成る。その縦糸(?)は風の吹き方で決まる訳だが、蜘蛛はその支点の位置を風の流れから関知しているのだろうか。蜘蛛が巣を張る張り方を観察できれば良いのだが、暇でも中々その機会には巡り遭わない。蜘蛛 その神業 (2013/03/18) にも。

名も知らぬ蜘蛛

余り見かけない蜘蛛の巣が目に入った。中心に蜘蛛がいる。巣の中心に蜘蛛が居るが、何か擬態のカモフラージュの意味でか帯状の物がある。支点が3点と平面幾何学の蜘蛛の巣の張り方に納得していた。しかしこの巣をよく見ると、支点が4,5点ある。3点の1つが枝分かれして、支点が多い。それでもその支点がすべて平面上にあるようだから不思議だ。蜘蛛の足のさきで巣の張り具合が幾何学平面に成っていることを知って支点を決めているのかと不思議だ。

巣の新装改築

何日かで、新しく巣を改築している。古い巣に付着したゴミは綺麗に片づけられている。支点に張られた縦糸はそのままに残されて、横の網糸(?)だけが貼り替えられているようだ。お釈迦さまも蜘蛛には特別の使いをさせると古い話にある。1月15日には地獄の釜の蓋が開き、罪人を救うために蜘蛛が糸を釜に垂らす。しかし罪人が我先にとその糸に縋り、大勢が我が強欲に走り、結局誰も助からずに終わるというお話。と言う様に、古くから特別視されるだけの神秘を備えた生き物に思える。こんな小さな命の姿にも、その生き方には自然の不思議が沢山詰まっているようだ。蜘蛛よ万歳。

秋空の下に

久しぶりの秋の青空。

スナップ写真を。

紫蘇の葉に居た。まだ2,3年の娘雨蛙。カメラを10cm程に近付けてもじっと動かないで我慢している。雨蛙のメスはその動かない姿勢が悟りの境地に観える。近くでオスが鳴いている。殆どオスは姿を見せない。見付けても、すぐに藪に逃げて隠れる。オスは体型が細いから見分けられる。

住人の蜥蜴。

秋の花、花虎の尾。

数日前の蟷螂(カマキリ)も。鎌を伸ばした威嚇の姿勢。ピンぼけ写真で失礼。

 

色の世界を尋ねて

世界は不思議に満ちている。『色彩』という彩りの意味一つを取り上げても、その自然の深みを知ることが出来ない。日常生活は彩りの世界にある。目に入る光の基の繰り広げられる感覚の世界である。しかし、光には『色』は無い。色の無い光が人に演ずる『色覚』の世界である。何故そんな事が起きているかを考えると、その不思議な意味に取り付かれてしまう。庭の佛相華(辞書を引いたらー仏桑花ーとある。何処かで見間違ったものかとも思うが、「佛」という文字とその姿という意味の「相」が花の呼び名に相応しいと以前から使っていた)、南国の花ハイビスカス、に揚羽蝶が止まる。なかなか羽を広げた写真を撮らせてくれない。赤い大きな花弁と揚羽蝶の彩りが、ひと際『色の世界』を演出して見せる。日中の花びらの赤い色は、何故赤いかが解らない。背景の葉の緑色も同じく、その色の訳の何故かは分からない。解らないと言う意味は、光の物理的意味が理解できないと言う意味である。揚羽蝶の色は『生物物理』の研究対象として、その『鱗粉』の解釈の問題となっているようだ。陽の光が空気を通して揚羽蝶の翅に当たり、鱗粉の構成分子と空洞構造の中での反射共鳴の結果として翅から放射される光が微妙な色模様を演出していると私は解釈している。赤いハイビスカスの花弁は、陽の光を吸収して、何故赤い色に見えるのかを理解できない。いつもの事ながら、最終の決まりが何処に行くかが不明のままに書き出した。書き始めるに当って、相当思考の纏まるに困難と思うような題材を選ぶ時の習慣のような気がする。だから、纏めるに困難でありながらもそこには新たな解釈や斬り込みが予想される時のようだ。一日以上下書きのままにして置いた。検索で「蝶の翅の鱗粉」を調べて見た。相当のデーターが検索に応えられる。電子顕微鏡写真でその複雑な構造が見られる。そこで考えた。『顔料』は日本画等の色彩の材料だ。宝石もルビーの赤や水彩絵の具の色彩も『色』の代表に思い浮かぶ。そこで、その色が何故『色』という個性、特徴を示すのかと考えて見た。「Color cell 」という言葉が浮かんだ。『色』とは『光』と空間を占める『物質』の間に繰り広げられる独特の自然現象である様に思える。物質は分子や原子による空間の構造物である。分子も原子も本来は『色』を持たない。どんな『顔料』もその構成分子が色を持つ訳ではない。色を示す訳は、物質が本質的に『色』を持っている訳ではない。何が『色』を演出するかと言えば、物質が構成する『光』を閉じ込め加工して放射する『色空間』あるいは『光の壺』とでも言いたい分子構造による『格子状微細空間』の仕業として解釈する以外に方法が無い。その『色空間』を「Color cell」と考えた。光について「振動数概念」の捉え方ではこの解釈は生まれないと判断した。『光量子』の一粒の捉え方が決め手である。可視光線の『波長』の寸法と『色空間』の寸法が丁度釣り合う大きさに思える。

色の実相 (2012/01/30/ 追加挿入) もみじの紅葉、銀杏の黄葉また、DVDディスクの色模様を具体例に挙げて考えて見よう。情報化社会だから、検索すれば一通りの知識は容易に手に入る。もみじの紅葉の訳などは、いろいろのサイトに解説されている。ブドウ糖と結合した赤色のアントシアニン系色素が「赤い色」の原因だとある。その分子構造も分かっている。そこまでの解説でほとんどが終わっている。そこに「何故か」と言う疑問が生じるのである。光に「色」は無い。色の無い光がもみじ葉に当たると、何故赤い色の光が反射されて出てくるのだろう。アントシアニン系色素分子の何が赤い光に変換させるのだろうか。赤以外の光をすべて吸収して、赤色の光だけを放出すると言うのだろうか。もみじ葉への入射光の内のどんなスペクトラムをアントシアニン系色素が赤色の光に変換するのだろうか。そんな疑問で「何も分からない」と言う事だけははっきりして来る。確かに、アントシアニン系色素がもみじの紅葉の原因であろう。それだけで、その色素が紅葉の原因であると言うだけで、化学的、物理的解説として済ませるだろうか。色素と言う「赤色」を生む原因はプリズムの分散と同じ原理に因るのか、そうでなければ、色素分子の構造の『色空間』が光の加工・変換の原因になるのだろうか。こんな『疑問』を捉えて、『問答』を頭の中に循環させることが「科学研究」の種となる様に思う。IT「検索」は至極当たり障りのない何となく誰もが暗黙の了解で済ませている程度の「曖昧な認識」の範囲に留まっている。色素が原因だ、程度で満足出来ない疑問感知能力が大事であろう。「DVDディスク(音楽CDの間違いのようです)」の分散模様をカメラに収めた。ディスクの構造は3層に成っているらしい。表面に有機樹脂の透明な保護被覆がなされている。基底は銀かアルミの光反射鏡に成っているらしい。上の写真の光分散模様は小さな蛍光灯スタンドからの光の反射を捉えたものである。スタンド光源の平面寸法は10cm×7cm程度である。色の分散模様はどうも光源の種類に無関係の様である。白熱電球も太陽光線も光源の大きさによる分散模様の形状は異なるが、分散光の色模様はほとんど同じようである。それも『謎』に見える。その音楽CDの分散模様の分析を始めたが、なかなか難しい。

(2013/07/27)追記。右の解釈図は間違いです。(2013/07/31)追記。その間違いの図を残しておく。間違い図間違いの訳は、CDの表面での光の屈折による分散と解釈した点である。それは分散模様で、目に入るディスク色模様は三色が逆になる筈だ。しかし、観測する三色の色の順序は中心から、青、緑そして赤となっている。この矛盾は図解に間違いがあるからだ。きっとすぐ分かった人も多いだろう。

「間違いを正してください」と『問答』にするのも良いか?光源の放射光の面が反転した像を見ていることになり、その訳を次のように考え直した。CDの分散模様を確認した結果、大いに反省した。改めて解釈を述べたい。CD光分散光路先ず光源の光がどのような光路を通って目に入るかを①図に示す。蛍光灯の面光源が基本的に何色にも分散して目に入射している。黄色や紫系も有るが青、緑及び赤の三色が強く現れている。例えば青色は光源全体の面からの光が全て青色になって映るのである。緑も赤もそれぞれが光源の全面の分散光を映している。CDには光源が何面も映っている事になる。この色分散模様で、疑問が二つある。第一は、何故青、緑次に赤と順序が決まるかである。第二点は左右が反転して映る訳である。CDの事には素人であるため、なかなか理解できなかった。その訳は、全てCDの記録の方式に隠されていた。CD記録ビット結局記録信号が盤の円周上に「穴」が掘られて記録されているものと思えた。その「穴」の長さや数の密度で、信号を記録しているらしい。所謂デジタル信号として。その様子を②で解釈した。疑問の第二点の左右が反転して映る訳を、次のように解釈した。光路交叉理由

左右光路交差の訳。 円周上にビットの穴があいているから、その穴に光が入射すると、側面で反射され、光源からの光路が交差して、右からの光路は右側に戻ることになる。だから、目に映る光の映像は、右側の光源がCDの左側の盤面からの光として見えることになる。だから左右が交差した光路の光を観測することになる。光源の映像が左右反転するのである。

第一の疑問の解釈。 この解釈には戸惑った。屈折から考えると、どうしても説明がつかない。色の配置が逆になるのである。その解釈はやはり「穴」に求めざるを得ない結論になった。IT検索すると、専門的な解説が出て来る。確かに『屈折』では説明できない。『回折』と『干渉』による説明がなされている。私がこれから述べる解釈も、どれ程のものでもない。原因をその「穴」にしか求められないと言う直覚的判断である。それは「回折」でも『干渉』でもない。単純な穴の中での反射からの解釈である。Color Cell のように見える。やっと図にまとめた。スリットの貫通穴じゃないから、『回折現象』は当てはまらないと考える。光の波長による屈折の違いとして解釈した。屈折と分散保護膜に入射した光は波長により屈折角が異なる。その僅かな違いが穴の中で異なる光路を辿ると解釈した。その結果、青色と赤色の場合で、光路を示せば、図のように成るだろうと考えた。穴を通して、屈折の光路が逆方向に反射されることになる。勿論緑色も、その中間の方向に反射されて放射されることになる。以上で、修正の解釈とする。

大した事でもないのに、考えると色々複雑な現象と思った。私なりの解釈でしかないので、異論、批判を歓迎します。

 可視光線の寸法と電波波長 光の寸法という空間概念は一般的な物理概念としては認識されていないであろう。『光量子』『光子』という光の物理学的認識では、振動数が理論的な認識の基本的条件となっている。「振動数」がどの様に『光子』の空間的存在形態で捉えられるかについては、物理学理論では問わないで済ましていると思う。振動数が空間にどのような意味を持つかは『問答』の対象とはしない。だから光の寸法という捉え方を物理学では認識していない。私が主張する点は、正しくその『光の空間的寸法』である。そこで、今回ITからの検索などで、集めた電波技術の利用状況と「可視光線」との範囲を波長から纏めて見た。普通は振動数で表示する事が多いと思う。可視光線の配色を同時に表現しようとすると、波長範囲が長く伸びて、簡単ではなかった。適当に切り貼りしてまとめて見た。ここでの『波長』は、その寸法では十分説明できない処がある。それは『波長』を正弦波の1サイクルで捉えるのが「教科書」あるいは『物理学理論』の基本である。しかし、私が解釈する『波長』の寸法は『エネルギー』から見た寸法である為、正弦波の1サイクルには2つの波長が含まれる事に成る。その点は、ここでは一先ず「教科書」の波長で解釈する事にして置く。その点については、エネルギー伝播とその検出回路における「交流条件」という事との関わりがあるので、簡単ではない。さた、可視光線の範囲がここで取り上げる『光の世界』の話の基に成る。光はエネルギーの流れであり、『光子』というような言葉で認識する時に、光の粒子と頭に描くか、雲のようなエネルギーの流れと捉えるかによって、認識に差が表れよう。粒子ならどのように振動するかも頭に描けなければならないと思う。兎も角「色の世界」として話題にする波長の範囲は極めて狭いのである。その範囲だけで人は無限の色彩の世界を享受しているとも言えよう。

追記(2012/01/25)  今日の朝日新聞1面に「始祖鳥は黒でした」という囲み記事があった。科学誌ネーチャーコミュニケーションに発表される「始祖鳥の翼は黒かった」という記事の話である。まさに、色素・色彩の謎に迫る研究である。しかも誰も見た事の無い「始祖鳥」の化石動物の色彩に関する事である。古生代の世界の色彩は誰も知らない。恐竜の色がどんなに煌びやかであったかどうかなども想像できない。だから画像は全て土色か灰色で描かれている。昔の世界がそんなに単調な色ではなかろうと想像しても、本当の色彩を知る事は出来ない。だから、その一つの研究として「始祖鳥」に挑戦した事は意味があろう。しかし、翼の色が「メラミン色素」から単純に「黒」と結論付けた事を私は理解できない。まさに私が『色彩』という物の本質をどう捉えるべきかを考えたのが上の記事である。蝶などの昆虫や雉などの鳥類の色彩の『色の世界』の仕組みが謎に満ちていると思うからである。タンパク質に本来色がある訳ではない。元もと光に色がある訳でもない。煌びやかな色の輝きは翅の構造が生み出すものであろうと見る。だから、この度の記事を見てとても理解できるものでないと思った。