カテゴリー別アーカイブ: 日本の風物

朝のひと時

お寝坊さんの黄揚羽。

済みません安物写真機での寝姿写真。

昨日夕方5時過ぎに、お休み処と決めて頂き今日の朝まで御逗留でした。陽が射した8時には旅に御出立。珍しく、久しぶりの黄揚羽にありがとう。

 

 

 

佛相崋。🌺❣

夏が過ぎた秋に残り香を、花の化粧の朝模様。

自然と言う万能の神の造形美だ。光を操るその匠・ご師匠様の技だ。何処にも論理的な矛盾はない。自然は完全だ。振動数では解釈したくない。

 

 

露草も朝に彩を。水色の天然の美を奏でる。

写真機が良ければと、天然の美を収めきれずに、済まぬ思いだ。

 

 

 

 

 

 

 

雨蛙と自然

梅雨の終わりには豪雨災害に悩まされる。最近は災害の犠牲が尋常でない。

自然の巡り会わせで、気になるのが雨蛙である。今日は7月4日、ネジバナの咲くころだ。日本雨蛙 (2011/05/16)をはじめ関連記事を書いてきた。英語では Tree frog と言う。木のカエルで、雨と関連した意味が見えない。その意味には水に関連したカエルでなく、木に生息するカエルという意味で解釈したい。日本語では雨との関係で表現する。しかし、雨蛙は余り水が好きではないようだ。何故「雨」の文字を付けて呼ぶかと言えば、梅雨の時期の雨が降った頃に多く発生するからという意味で付けたと解釈したい。丁度今頃の特に梅雨の終わりごろ、ネジバナが咲く頃に雨蛙は多く生まれることに関連して付けたと思う。不図気づけば、小さな雨蛙が幾つか全く水辺の無い庭に生まれていた。

先ず一つ。

 

 

 

 

 

 

2匹目。

 

 

 

3匹目。

 

 

 

 

4匹目。

 

 

 

 

 

5匹目は素早く逃げられた。今年の雨蛙を見て、少し気になることがある。どうも雄系ばかりの様な気がする。雌はもう少しぷっくり太った形の筈だから。それにしても、それ程逃げ足が速くないから、2,3匹目あたりは形態から雌かも知れない。

少し雨が降ったから、土が柔らくなって、土の中から生まれ出たのだ。最近は以前のように3,40匹も生まれることは無くなったが、数匹は生まれ出る。時には9月頃になっても生まれる蛙もいる。

ここは全く水が無い場所だから、土の中から生まれ出るのだ。親雨蛙は春に既に土の中から這い出している。雨蛙がオタマジャクシから成長すると言う、専門家の自然認識は間違いである。雨蛙は、人の目に触れ時には決して尻尾は見せないのが雨蛙の自然の生態だから。学校教育で、水田の中からオタマジャクシを採って、育てる愚かな観察がある。とんでもない間違いだ。

最初から常識的な、頭で決めてかかる自然解釈が間違った論理を広めるようだ。

自然をじっくり観察し、疑問を持ってから自分の感覚と自然との間の関りを見つめ直すことをしてほしい。

専門家と言う使命。専門家は受けた教育を受け継ぎ、広める業界の枠組みの中で社会的役割を担う事に成る。だから、津波の解釈やあらゆる科学論がその先輩の指導の枠の中での社会活動の定めに在る。さもなくば指導に反旗を翻した道しか残されない。 雨蛙―その謎― (2011/08/31) にその意味の一端(2006年7月の事)がある。

雨蛙の「オタマジャクシ説」をその代表例として挙げる。

 

花の名は?

(2021/04/07)追記。先程削除された記事を書き直した。しかし再び削除された。何故、誰が削除するのか。ボールドにした。気味が悪い!!

不思議だ。吉祥草に似ている。しかし、春に咲くとは考えられない。10月頃に咲く筈だ。

(2021/04/06) 名を知らぬ。

吉祥草の株根の処に咲いている。何故か文章が削除される?花迄削除された?下書きに移して公開し直す。

2020年まとめ[4]自然と災害と哲学

(1/23)  無為自然

(3/18)  クロッカスと太陽

(3/27) 津波とその速度

(3/29) 津波とそのエネルギー

(5/7) 巡る季節の花

(5/10) 自然と科学理論の懸け橋はいずこに

(5/14) 度胸と可憐さ

(5/15) The electron did not exist in the world.

(5/22) エネルギーの虹

(7/4) 分かるという事

(8/14) 観自在菩薩

(9/9) 信濃川

(11/13) 植物二題

(11/18) お日様と日向ぼっこ

(12/16) 山が呼ぶ 謎が囁く

(12/25) 自然は『エネルギー』の象形

 

植物二題

白花頂上華。
灌木と言えようが、細い枝を伸ばし、その先に1cmにも満たない真っ白い多弁の花を咲かす。

 

 

花瓶に挿して部屋を飾ったが、余り輝かない。きっと寒い外気に輝くのだろう。

 

 

 

 

 

 

ポトスと気根。
もう十数年部屋につるしている。不図気づけば、長い気根を伸ばしている。適度に水は差している。調べると根が充分張れなくなると伸びるような解説がある。ほぼ30cm前後の長さに伸びている。
植物の命と地球の古代の不思議に思いが飛んでゆく。

 

 

 

最近の壁紙に米国、ミシガン州スペリオル湖の情景が出た。地質学の専門的解説はとても詳しく、岩石について語られている。しかし、このスペリオル湖の岸の岩も、地球が成長してその痕跡として今ある。初めから地球がこの大きさであった訳はない。すべて太陽からの光の『エネルギー』が創り上げたとしか考えられない。地球の命はすべて植物が創り上げたと空想が広がる。どんな火山もその噴火する溶岩も古い地球の何かの命が噴出したものと思う。太陽の『光』が命の基の⦅エネルギー⦆であると。植物の細胞一つの姿も筆者には理解できない不思議が詰まっている。白花の花弁一つも、ポトスの気根の命の仕組みもみんな驚嘆の自然の姿だ。その自然の姿にはどこにも物理学理論の『電荷』も『電子』も不要だ。

信濃川

きっと自然の命を教えてくれた、それが信濃川だった(2020/09/09)。

信濃川。

それは故里

我が心

紺碧の空

水面に輝く

白い雲

 

水飛沫

銀鱗の跡

山肌の緑陰

嗚呼大河

永遠なれ

思い出を連れてくる信濃川。思い出せば、不思議がいっぱい。人はみな、人類を『霊長類』と誇りにしているかも知れない。近頃、運動能力が落ちて考える。当たり前と思っていたことが、不思議に思える。以前も考えたかも知れない、『二足歩行』のことを。当たり前が当たり前に思えなくなる。爪先立ちになっても歩ける。100m10秒以下で走り切るスーパー能力の持ち主もいる。長い荷物に二本の支持棒を付けて、立たせようとしても力学設計が難しい。接地面積と重心の位置の関係が平衡の要だ。歩くとなれば、一本足での平衡力学だ。爪先立ちで階段を昇るなど、ロッボト工学の研究対象かも知れない。不思議な夢の中にある。『霊長類』の話は、生物間のコミュニケーションのことだ。人と人以外の生物との。

信濃川での鯉とのコミュニケーション。鯉の思いを自分が受け止められなかった後悔が何時までも残る。『霊長類』などと人を思えないのだ。高校生の頃か、浪人の頃か定かではない。夏は毎日『古淵』と言う崖の深い水辺で、一人泳いでいた。誰もいない毎日だった。岩の張り出しから底の深さが知れない深みに飛び込んで、過ごした。欠かさぬ毎日の日課のように。ある日もそこに行って、さて泳ごうかと思ってその深みに目をやった。直ぐ足元のその水面に大きな鯉がじっと動かずにいる。当然鯉は自分がそこまで歩いてくる足音の響きを知っていた筈だ。深い水の中ならいざ知らず、水面でじっと待っていたかのようにしか考えられない。その水面で手を伸ばせば、すぐに触れる近くである。じっと動かないのだ。その大きな鯉を見て、一瞬たじろいだ。体長30㎝以上は有った。少し眺めてから、足でその足元をトンと突いた。するとゆっくりと向きを変えて、深みに静かに入って行った。少しも逃げる様子もなく、ゆっくりと諦めて去った感じである。その日は泳ぐことが出来なかった。思い出せば、その時何故、鯉と水中でハイタッチでもやれなかったのかと後悔が残る。もしもの話で、ひょっとしたら、毎日鯉と戯れていたかも知れない竜宮城の例えにと。

別にも、雀の稲穂の恩返し。プールサイドの揚羽蝶。助けたカラス。雨蛙。みんな不思議なお伽の世界。

 

度胸と可憐さ

(2020/08/02) 追記。先日鳴き声の主の雨蛙を写真に収めようとしたが、素早く逃げ隠れてしまった。雨蛙の雄は中々写真に撮れない。オス雨蛙は、お尻が細くスマートである。それに対して雌雨蛙は人が近付いても動じない。有り触れた姿であるが、何年土の中で過ごして生れて来たのかと思えば、愛おしい。

 

 

 

 

 

少し模様がついている。

 

 

 

 

こんにちは!と声を掛けたくなる。

まだ若い娘の日本雨蛙。二歳ほどかと思う。今朝鉢にジョロで水遣りをした。逃げるかと思いながら。しかし、水を掛けても動かない。雨蛙は水が嫌いの筈だ。雨が降れば、雨水の掛からないところに避難する。此方の気持ちが分かっているかと思う程のその動かない『度胸』に悟りを感じてしまう。それが『可憐』に映る。

巡る季節の花

(2020/07/13)追記。桔梗。

やはり6月の花であった。

 

 

 

 

ネジバナ。梅雨の花。先端まで咲くと梅雨が終わるらしい。いつからか小鉢の中に根を張って毎年咲く。鳥が運んできたのか、風に飛んできたのか。自然は自由だ。

 

 

 

 

2020年春の花 華やかな春を彩る。

木瓜(ボケ)2種

強い朱色

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イカリソウ(碇草)

 

 

 

 

紅梅

 

 

 

 

深山苧環

平安時代を匂わせる。

 

 

 

 

花海棠

桜の後を追って咲く。庭に下ろして初めての花。

クロッカスと太陽

春を告げる花 それがクロッカス。
春の陽射しが眩しくなると、その光をいっぱい吸い込んで輝く。陽射しと花弁の春の競演を観る。

ようやく芽を出しこれから咲こうと。8日の夕方5時。

 

 

 

9日日差しを浴びて 12時半。

 

 

 

 

13日夕刻6時前

寒く閉じる花。

 

 

 

14日朝雨に濡れて。

 

 

 

 

 

今日も咲く。

 

 

 

 

 

雪割草も春開く。

 

光源の輝度とは?

はじめに 風景を見れば、それは天然色に彩られている。何故万物はそれぞれの固有の色彩なのか。視界をなす光の特性の謎が増す。その光源は何か。

照明工学と輝度 風景は光の反射現象によって成り立つ。

その光の光源は何か。視界の物理現象を理解しようと考えたら、その視界の光源の意味が分からない。日中は太陽の光で視界全体が明るい光の中にある。直接太陽の陽が当たらなくても、視界は天然色に彩られている。その色彩を奏でる光源は空全体の輝度と見做せるかと考えた。視界の物理現象として理解を深めようとしたが、結局は無理であったかと考えざるを得なくなった。その訳が照明工学での、技術用語の定義や概念にあると理解した。上の絵図で、ローソクの炎を例にまとめてみた。照明の用語には光の量を捉える『光束』、その単位ルーメン [lm] があり、その量を基に単位系が構築されている。一応「電気工学必携」を参考にして、光度 I[cd] (カンデラ)および輝度 B[sb=cd/㎠] (スチルブ)の定義をまとめた。

光束[lm]が物理量『エネルギー』との関係で定義されないところに、色彩や照明の物理的解釈ができない原因がある。人の視感度曲線で、可視光線しか認識できないため、紫外線などの自然界の現象を司る成分を我々は閑却しているのだと気付いた。自然の万物の天然色の色彩は我々が意識しない光の波長成分が大きな意味を持っているのかとの予感がする。光束[lm(ルーメン)]と比視感度 (2010/11/25) が原点にあった。

薔薇は何故赤い。

詩心 乗せて観世の 帆掛船 177号(2007/08/07)

「深紅の薔薇は何故赤い」の色彩の考察の絵図である。薔薇の色を演ずる自然の仕組みは深すぎる。深紅の光が有る訳ではない。人にその薔薇の命の営みに共感してほしい願いの姿と見たい。その色彩を演色する花びらの物理的機能を何と捉えるか。花弁に入射する光が如何なる波長変換機能によって、赤い色に変換されるか。入射光が決して赤い光の訳ではない。元々光に色が有る訳ではないから。命同志の心のつながりの仕組みを奏でているのだと解釈した。

参考記事。色の世界を尋ねて (2012/01/05) は自慢の色彩論である。視界と光の科学を纏めるに、視界の光源の役割は何かと少し別にまとめた。光の波長変換機能として万物の色彩の意味を解釈する外ないと考えた。薔薇の花弁の分子構造体の空間格子構造内での光エネルギーの共鳴現象と捉える。それには光が空間エネルギー分布波と解釈する必要が有ろう。振動数では空間像が捉えられないから。