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深山クワガタ

クワガタの来訪 

どこかで飼われていたのか、珍しい来訪者。暑さを避けてかコンクリートブロックに入る。胡瓜を与えて、翌日見たらいなくなっていた。

 

ところが昼過ぎにまた戻っていた。今度スイカを与えた。スイカが気に入ったらしく、口を刺して吸っていた。

 

 

 

 

 

蟻とスイカ  しばらくして様子を見たら、小さなアリが集まってクワガタにも群がり、振り払いながら辟易しているようだった。その後にはもう居なかった。アリはどこから来たのかスイカに群がっていた。アリには不思議な習性がある、スイカなどに土をかけて覆いつくしてしまう。土で覆うのは保存する意味と他のものから守り独占する意味かと思える。しかしナメクジは被った土を気にせず食する。

おまえはどこから生まれ

どこに向って行くのか

その行方も見えない

だが確実なこと

それは

おまえが世界を

創っているということ

目に見えない現実の中に

ずっとひそやかに

その世界を

支えて来たのだと

光によって世界を見る。しかしその光の本質を知っているだろうか。光の本質と言えば、その物理的空間像の意味で捉えたい。光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。プランクの理論によって観測上の評価法が確立された。観測の基準は振動数である。振動数によってその光の物理的特性が評価できる。可視光線なら、その色によっても目で大まかな波長(振動数)は理解できる。それでも光は振動する実体を持ってはいない。しかもその光の一波長のエネルギー量は測れない。空間を光速度で伝播するエネルギーの縦波を計測することなど不可能であろうから。光の本質を知ることは電気磁気学の本質を知ることにつながる要でもある。電界や磁界の意味を知ることにつながる。『エネルギー』の意味を知ることにつながる。

 

 

生きる雨蛙

(2019/07/11)追記。雨蛙と幼生生殖 (2012/10/04) の記事がある。今でも信じてもらえるかが気になる。誰もが信じられないかも知れない。しかしもう一度述べておきたい。日本雨蛙は決して水の中でのオタマジャクシの生態は取らない。これが全ての基になる。では普通のカエルの生殖行動が土の中で可能か。しかも、日本雨蛙の雄がいることも確かである。雄は比較的細い体形をしている。しかし、人目に付く場所にはあまり現れない。素早く草の茂みに逃げ隠れてしまう。先日、少し予想と異なるものを見た。雨蛙の鳴き声がした。当然鳴くのは雄と理解していた。ところがその鳴き声の雨蛙は色が茶色系の雌の体形であった。(2019/07/16)追記。色は茶色でなくご覧のようであった。喉元も膨らんで鳴き声を立てそうに見える。雄の体形ではなく、腹部のずんぐりした雌雨蛙であった。この点は初めてのことで、鳴くのは雄との認識が正しいかどうか悩ましいことになった。幼生生殖との生態も科学的な検証結果があるわけではない。土の中で雄と雌の生殖行動が卵胞になされるかは理解困難であることからの推論として幼生生殖にたどり着いた。この点は今でも絶対正しいと断言できる訳ではない。雨蛙の度胸ある生活とその悟りの姿が並の生物に観えない。

生きると言う意味

日本雨蛙は土の中に生きる。土の中で生きるものに蝉がいる。蝉は7年間土の中で成長し、地上に出てからは短い生命で終わる。しかし日本雨蛙は長い年月地上と土の中の生活を繰り返して、生き続ける。決して1年では親雨蛙にはならない。しかし土の中での生態が分かっていない。新生雨蛙となって地上に誕生するまでの生態が分からない。何年土の中で幼虫の生活をして地上に生まれ出るかが分かっていない。ハッキリしている土の中の姿、それはたった一度の春5月頃に遭遇した土の中に観た事実である。木の苗木か花かを植えようと土を掘って、そこに見た光景である。それは白くて、1.5cm程のマッチ棒より細い幼虫が数十匹も絡み合って一塊りで蠢いているのを観測した。それは長い尻尾があり、4本足で細いオタマジャクシと同じ形状をしていた。その時は未だ全く雨蛙の生態に何の関心もなく、これは何だ?と一瞬感じただけでまた土を被せて、その事も忘れて過ごした。その後何年か経って、全く水や池のない狭いその場所に毎年雨蛙が溢れ出ることに何故かと気付いた。それまで水の中でカエルはすべてオタマジャクシの生態を取るものと世間の常識どおりに思っていたのに、不図気付いたら、眼の前の雨蛙の発生が理解できない疑問となった。それから何年も毎年そこに棲む無数の雨蛙をじっと観察することに成った。特に母親雨蛙は大きくて、貫録が有り、傍でじっと観察しても逃げもしなければ、隠れもしない。毎日夏の日照りの中で背中に強い陽を受けてもじっと過ごし、同じ梅の盆栽の木に棲み続ける。特に雨蛙の生態で不思議に思ったことがある。保護色の茶褐色かと思わせる色で毎日居る。そんな生き物がいることを知って、自然の世界は不思議に満ちていると驚嘆せざるを得なかった。そのような雨蛙を見ていて、あの過去の土の中の蠢く白い虫の存在が頭に蘇った。それからが、雨蛙の筆者が考える生態と世間の科学常識(百科辞典でも、専門書籍でもすべて水中のオタマジャクシ説)との間での葛藤が始った。夜行性の生態で、夕方寝床の傍に糞一つを残して、食事に出かける。朝はまた同じ場所に帰って来て、夕方までじっと一日そこで過ごす。そんな姿を見れば、如何にも禅僧の悟りの象に見える。それは相当年数を生きた親雨蛙の日常生活であるが。

地上への誕生。

雨蛙の形状で、特筆すべきは決して生れ出たその瞬間からオタマジャクシのような尻尾は無いことである。既にあの特有な美しい緑色をして、とてもか細いが逃げ足は速く、多くが集団でいる。水の中から生れ出るなら、尻尾が残っている状態を見せる筈だ。決してそれは無い。或る専門図書に薄赤色の尻尾の有る姿を雨蛙として示してあるが、それは無い筈。すべては推論の域であるが、雨蛙が水のない場所に長い間生まれ出る意味を考えれば、その誕生まで地中で何年も過ごしているのではないかとも思える。解らない不思議を秘めた日本雨蛙にささやかな応援を送りたい。

アジサイに姿を見せた。親雨蛙1っ匹。

大きな親雨蛙であるが、少し寸法が小さく見える。

 

全部で、姉さん雨蛙が3匹。妹(今年の新生なら大き過ぎる)雨蛙が1っ匹。計5匹。

 

姉妹で。右側の妹雨蛙は今年の新生児にしては少し大きい。あるいは1月前ぐらいに生まれたか?正面の雨蛙は今年の新生ではない。

 

 

ハーブに娘。傍に昨夜の糞一つ。雨蛙の生態で特徴となるものが昼夜の生活スタイルである。

 

 

 

もう一匹の姉さん。

 

 

 

 

 

 

雨粒と波紋

雨粒と科学

今は梅雨。日本雨蛙も田んぼの畦の柔らかな土の中(水中のオタマジャクシではなく)から深夜に新生児が多く誕生していることだろう。最近は雨も豪雨災害となり、犠牲者も出ることが多くなった。無事過ぎて欲しい。気象災害が地球規模で起きている。その原因を海水の温度上昇と観る。汽力発電所(水蒸気で蒸気タービンを回す発電方式、原子核分裂方式や石炭、重油燃焼方式)では、水蒸気熱サイクル利用の為熱効率は40%程度である。燃焼、発生熱量の50%以上は海水などに放熱しなければ機能しない発電方式である。結果的に、復水器を通して海水を加熱して初めて発電が出来る方式なのである。我々が1[kWh]の電力量を使えば、それ以上の相当エネルギーで海の海水を加熱していることを科学リテラシーの基礎知識としてみんなが認識していなければならない。それもサイエンスコミュニケーションの現代的科学常識として広く知ってもらわなければならない。雨粒一粒は小さい。しかし時間雨量30mmと言えば、土砂降りの雨となる。海の海水温度が高くなれば、広い海水面からの水蒸気の蒸発は増加する。海水温度の上昇は直接蒸発量の増加を来たし、偏西風などに因る高水蒸気密度の気流の流れ込みを生み出す。

水面に踊る水滴と波紋

先日強い雨が降った。バケツに溜った水の面に雨粒が踊っていた。珍しい現象に出会ったと写真に収めた。運良くバケツには水が満杯に張っていて、雨粒に比して水深が深い状態であった。水面に雨粒が白く光っている。同時にその雨粒の水面落下現象の波紋が広がって見える。水と雨粒は同じ物体と思う。両方化学記号で表現すれば H2O の液体であり、水面に落ちた雨粒は溶けて消えると思う。しかし雨粒のままその姿を保持し続けている。立派に一つの雨粒の象を保持しつつ、独立の物体として水面に波を作っている。如何にも水面の水と異なる物体の如くその存在を躍らせている。

雨粒の衝撃

時には小さな雨粒が多数できて、波紋の中に踊って見せる。雨粒の物理現象として解釈を示さなければならないかも知れない。注意して見ると、水面の右上に深い窪みも見える。きっと雨粒が水面に落ちて質量の落下エネルギーの運動理論に基づく最初の衝撃力を示している様子と観てよかろう。以前日本学術会議の提言「理科基礎(仮称)」を読む-エネルギーと波-で少し考えた。その時は落下物体は堅いものを想定した。しかしここでは、水の雨粒であるから、深く底に沈むことなくその形状のまま水面に跳ね返されて、浮き上がって雨粒の姿を見せている。雨粒は一つの塊としてその表面張力の膜で囲まれたものとなっている。水面に落下衝突した時、水面も表面張力で強い膜となっていると見做される。それにしても、複雑に重なり合った波面の乱れにも拘わらず、雨粒と水面が異なる物体同士の如くに、作用し合う姿はまた不思議な物理現象に思える。こんな雨粒の自然現象が起きていることを物性論や水力学の理論で想定できるのかな。なかなか自然現象は理論で捉え切れない魅力に満ちている世界のように思える。雨粒は、その体積に比して、核に塵が含まれ更に落下運動速度エネルギーを表面張力と言う衣で包み込んだ単一の質量体として頑張っている主役の演技舞台の象かもしれない。

波紋とエネルギーの伝播

波紋は互いに重なり合って、その合成波の形は如何にも山岳地帯の山を見る如くに思える。水面で雨粒が一つトランポリン運動をしたら、どんな波紋に成るか。写真の波面を見れば、決して正弦波ではない。やはり波頭値が衝撃波のように中心から円周方向に広がっている様子が見える。波形の半径が広がるにつれて、だんだん正弦波形に近づいては来るだろう。津波の波形は必ずしも円周方向に円形に広がる波形ではなく、殆ど衝撃波状の形を保って伝播して来る。しかし遠方、南米西海岸からとなれば波頭値も衝撃度は少なくなろう。上の雨粒の波紋も徐々に正弦波に近くなって広がる。その波の波形についての物理的解釈を如何に考えるか。何が原因で、そのような波紋を生むか。波は上下する性質を持っているものだ等と解説するのでは物理学・理科教育にはならない。しかも波は半径方向に進む縦波である。雨粒が水面を叩きつけて落ちる。その雨粒は水面に垂直に圧力として衝撃力を加える。水面は圧力により圧縮する。それは圧力波と言う圧力エネルギーに因る水の体積収縮波となる。それは水面に垂直に掛り、水面の下降で水圧の上昇に因る雨粒を押し上げる力が強くなる。その反動力で雨粒は上昇し、しかも雨粒のまま水面との間の力の作用力で次にはまた落下しはじめ、水面を押し下げる。それは水面から離れないが、丁度雨粒が水面との間でのトランポリン運動をしているようなことになると看做せよう。圧力のエネルギーが波面を広がって行くことに成り、円周の長さが広がるにつれ衝撃波形は正弦波形に変わると考える。こんな解釈で自分の感覚とエネルギーの間の繋がりに納得して終わる。殆ど気分の整合性を求めているようだ。

エネルギー変換物語(炭火とエジソン電球)

はじめに  火は人類の生活基盤を成す。人類の文明の始まりにも関わる生活科学であろう。炭火や囲炉裏火は生活そのものであった昔に思いを馳せる。それはエネルギーと科学論の懸け橋にもなる深い意味を含んでいる。そんな日常生活の古い姿を振り返って、誰もが思い描ける生活の中にとても深い科学の視点が残されていることを拾い上げてみたい。難しい数式も要らない、しかし現代物理学理論が疎かにしてきた『エネルギー変換論』を展開しようと思う。物理学理論が『エネルギー』の意味を認識していない事を考えてみたいと。

炭と光熱 木炭がいつ頃、何処で使われたかははっきりしなかろう。木を燃やし、残り火を灰で覆えば炭が残る。火の扱いは生きる技術として必須の知識であった筈だ。図1.炭と光熱 科学の知識や科学理論を知らなくても、生活の中心に在った囲炉裏の火や火鉢の炭火が人の繋がりに欠かせない居場所を作っていた。ただ燃える火の揺らめきが心にぬくもりを与えてくれた。ゆっくりとした人の生業が穏やかで、効率で監視される現代の心の歪みなど有りようがなかった。寒い雪国には、行火(アンカ)が有った。夜の就寝時に布団の中に入れる個人用移動炬燵である。朝までに炭はすべて灰に成り、熱源としてのエネルギー変換作用を応用した生活道具であった。図2.行火がそれである。

炭火や焚火にはとても不思議な意味が隠されているように思える。今までも、その不思議に誘われて幾つか記して来た。焚き火と蝋燭 (2013/02/01) 、焚火の科学 (2018/05/26) など。しかし、それでもまだ肝心なことに気付かずにいた。それは炭や炭素原子のエネルギー変換作用についてである。それは不図した気付きでしかないがとても大きな意味に思える。最近は年の所為か夜中に目が覚めて、詰まらぬことを思い巡らす。なぜ炭素や抵抗体は熱エネルギーに変換する機能を持っているのかと、不図思い付く。それが記事の基だ。

図3.mc^2とエネルギー変換 図に①電池エネルギーと②燃焼エネルギーの場合を取上げた。①の電池エネルギーで電池のエネルギーとはどのようなエネルギーなのかと不図疑問が浮かんだ。すでに電子は破棄してしまったから、科学論を展開しようとすれば、電池に蓄えられているエネルギーとは何かを明らかにしなければならないことに成った。たとえ電子論を展開するとしても、電池の陰極側の化学物質に電子を負荷に供給するだけの電子が蓄えられていることを前提にしなければならないとなろう。その電子論では電子は負荷を通って電池の正極に戻ることに成っているようだから、電池内から供給したエネルギーはどのようなものと解釈すれば良いのだろうか。電池の質量が減少する理屈にはなっていないようだ。エネルギーと言うものが電池内に蓄えられていて、それが負荷で消費されると考えるのだが、電子論ではそのエネルギーをどのような理屈で消費すると解釈するのか。図①で表現した電池の陰極側からのエネルギーが電線路空間にどのように分布するかの見極めがまだ付いている訳でなく、疑問符?を書き込まなければならない不明は残る。ただ、電線路空間に表れる電圧とは空間のエネルギー分布によって生じる電気技術量・概念であることだけは間違いのないことである。だから如何なるエネルギー分布かを明らかにすることも自然現象の解明の学問として物理学の究める研究対象である筈だ。ランプから放射される光や輻射熱は紛れもないエネルギーである。『エネルギー保存則』とはどのような意味と解釈するのか。電池にエネルギーが有ったからそれがランプを通して高熱のエネルギーに変換されて放射されたと考えなければ、『エネルギー保存則』の意味までも曖昧になってしまうだろう。これはエジソンが工夫した木綿糸のフィラメントにどんな思い入れで取り組んだかにもつながろう。

①エネルギー変換原理は?   エネルギーとは誠に不思議なものである。ランプ・白熱電球は抵抗体の中で元々電池などの冷たいエネルギーを高温度の熱エネルギーに変換する機能が有っての結果に因って利用できる現象である。電線路空間に分布するエネルギーの大きさは電線路電力送電量の規模を規定する電気技術量・電圧の大きさで認識、評価できる。その電線路の負荷端に抵抗体が繋がった時、その負荷端子空間には光と同じ冷たい電気エネルギーが分布しているだけである。光も光速度伝播するエネルギー密度分布波では何も熱くはない。皮膚や吸収体で受け止めたとき熱エネルギーに変換されて熱くなる。光の速度が零に成る現象と看做せる。電気負荷抵抗の物理的機能は光エネルギーを吸収し、抵抗体の構造格子の中にエネルギーを速度ゼロの状態にして、吸収する熱化現象とも見做せよう。その詳細な物理機構は炭素などの結合格子構造に原因が有ると観なければならなかろう。マグネットの磁極近傍空間に在る軸性エネルギー回転流もおそらく電磁現象としての速度流で有り、光速度に近いと見做せれば、そのエネルギーも冷たいエネルギーである。それらの光的エネルギーは熱はないが抵抗体内に吸収された時、エネルギーの熱化現象が起き、新たな光エネルギー化に因る生まれ変わりの輪廻転生の一コマを演じることと見られよう。物理学として極めなければならないことは、抵抗体内で何故冷たいエネルギー・光エネルギーが熱い熱エネルギーに変換するかのその訳を解くことであろう。それには光エネルギーの正体を空間エネルギー分布として捉えない限り困難であろう。なかなか電子の逆流では解けそうもない事だろう。

②化学式の意味は? 炭火の話に成るが、炭素の炭と空気が混ざっても火は起きない。煙草の吸いがらでも、マッチ一本の火でもある条件が整えば、発火・燃焼に成る。化学式では炭素記号Cと酸素分子記号O2が有れば炭酸ガスCO2と熱・光エネルギーに成る様な意味で表現される。先ずこの両辺を結ぶ等号はどのような意味を結び付けているのか。勿論エネルギーのジュールでもないし、質量でもない。化学式に使われる原子、分子に込めた意味は何か?図3.のように炭には炭素だけでなく燃え残る残差物も含まれていて、燃焼後に灰が残る。その燃焼で発生する熱と光エネルギーは『無』からは生じない筈だ。それでは何がその光熱エネルギーに成ったのか。等号はその何がを意識に含んだ意味でなければ自然科学論としては肝心要が抜けているように思う。光熱エネルギーを含むからには、科学論としての等号にはエネルギーの次元で成り立つ意味でなければならないだろう。何が言いたいかと言えば、質量とエネルギーはその本質で等価であると言うことである。両辺の炭素原子記号と酸素原子記号の持つ意味で、質量が同じではない筈だ。炭素原子と酸素原子が結合して炭酸ガスに成ったとすれば、その原子質量が両辺で等しいならば光熱エネルギーなど発生する訳がない。無からエネルギーは発生しない事ぐらいは、高度な科学理論を学ぶまでもなく分かる筈だ。そんな日常生活上で感覚的に感じる科学常識を身につける為の理科教育でなければならないと思う。如何でしょうか?教育専門家の皆さん。塾の教育関係者もどのようにお考えですか。mc^2=E[J]と言う式をどのような意味で捉えていますか。特別素粒子など無くても質量とエネルギーは相互変換を通して等価なのです。

mc^2^から物理学を問う (2019/04/29) でも述べた。その意味を具体例として、独楽の心 (2019/01/05) や 熱の物理 (2019/02/07) でも考えた。

エネルギーとは何か

科学論としては『エネルギー論』が核となっている。ようやくその意味の全体像が捉えられるような心境に在る。そこで、改めて『エネルギーとは何か』と検索してみた。とても有益なエネルギー論考に出会った。少し古い(2009年)が、とても論理的で、よく考えられた記事の小人さんの妄想である。今まで、エネルギー(ENERUGY)とは? (2011/09/07) などをはじめとして電磁気現象の自然世界を『エネルギー』一つによって捉える論理的世界を捉えたかと思いたい心境に在る。それでも、『エネルギーとは何か』に答える助けになれればと論考を重ねる。(2019/06/15追記)また、EMANの物理学・力学・エネルギーとは何かと言う記事が有る。136万件の検索のトップに在る。この記事は所謂物理学教科書の解説に成っている標準的内容であろう。「エネルギーとは仕事をする能力」と言う定義に因って、「力×移動距離=仕事(エネルギー)」の解説に成っている。しかし、ここで考える内容はその解釈では通らないものに成っている。重力場(加速度g[m/s^2])での持ち上げる力も必ずしもf=mg[N] とは限らない。

小人さんの妄想の論考に応えたい。位置エネルギーを主題にして、重力加速度g[m/s^2]と力の関係を論じている。そこで論じられていることはその通りである。考える拠り所として、図に表した。m[kg]の質量が有る。基準からh[m]の高い位置に有れば、その物は位置エネルギー E=mgh[J] を保有していると解釈する。小人さんが論じていることは、物体を持ち上げる時重力 f1 と 持ち上げる力f2 の間に力が釣り合っていて、物体に掛る力は常にゼロではないか。それなら位置エネルギーは増加しないだろうと言うことの論理的矛盾を問うものと理解する。しかしそこのところは少し違うだろう。物 m[kg] に掛る力 f [N] はその物に生じる加速度によって捉えることが力学論の定義であろう。もし加速度  α[m/s^2^] で運動するなら、それが力の意味になる。その時は力 f [N] はゼロではない。だからと言って、小人さんが指摘した力の関係の問題に納得出来る訳ではなかろう。そこで更に問題となることが図の(※)の場合だろう。上昇速度が一定なら加速度はゼロである。従って、加速度ゼロなら力の定義からやはり力はゼロとなる。エレベーターを一定速度で上昇させた時、加速度ゼロだから力学論の定義によれば、エレベーターに掛る力はゼロとなる。力と距離の積で解釈するエネルギー即ち位置エネルギーはゼロと言うことになる。幾らなんでも、それは理屈に合わない。エレベーターを上昇させれば運転動力を使いエネルギーを消費する。エレベーターが高く上がれば、それだけエレベータは位置エネルギーを増加して保有することになる。少し付け加えて置くが、エレベーターの場合は平衡重りが掛けれれているので、重力あるいは位置エネルギー量には注意しなければならないことが有る。 それにしても加速度ゼロでの運転では、位置エネルギーの問題は小人さんの仰る通り、運動力学の理屈に合わないことは事実である。それを『力と位置エネルギーのパラドックス〈理屈と実際の間の矛盾〉問題』としておこう。

力と位置エネルギーのパラドックス問題。この問題の解釈の仕方について筆者の考え方を述べよう。地上から高くなれば、そこに在る物体は地上に落ちる時そのエネルギーを利用できることは間違いない。その物理現象は十分エネルギーの意味を説明するに役立ち、正しい。それが力学理論の『エネルギー』とは仕事をする能力として定義したことに対応した正にその意味でもある。しかし、重力に基づく位置エネルギーの増加の意味の力の概念は一般的力学理論による解釈に因る理屈で素直に受け入れられない矛盾が残る。

追加されるパラドックス。人が重い荷物をじっと持ち上げて居るとする。荷物を動かさないで、静止状態とする。それは仕事をしていることに成るのか?運動力学の問題になるか。力学が人の日常生活に結びついた、生きた学問となるにはどうしても『エネルギー』に視点を置いて納得できるものでなければならない筈だ。子供を負んぶしているだけで、人はエネルギーを消費し、仕事をしていることに成る。力と移動距離の積が零でもエネルギーのジュール[J]の消費に成る。この場合の力は、速度ゼロであるが、正しく重力に等しい値だ。エレベーターで、モーターに電源を繋いで回転停止の途中階で静止した状態の運転に等しかろう。モーターをロックしていないから重力に平衡した上向きの力で、運転エネルギーは消費している。法則は解釈の手法としては便利である。科学的な一律の解釈法が実際の世界の真理を示しているとは限らないことも有ると言う事を意識の片隅に認識しておくべきであろう。

結論と解答。 以上、小人さんの妄想の論考に応えたい で考えを述べた。しかし何も答えに成っていない。如何にも尤もらしい解釈をしたが、加速度と力の関係で間違いが有った。多分気付かれた方も多いと思う。何が間違っていたかの問題としてそのまま残しておく。図で再び訂正する。それは『加速度とは何か』の問題であった。重力場で、上昇力ベクトル fo  の加速度ベクトル αo [m/s^2] とする。今、質量m[kg]が地表面に対する加速度α [m/s^2] で上昇しているとする。その場の重力加速度 g [m/s^2] が高さに関係なく一定と仮定すれば、上昇力 fo [N] の加速度 αoα と更に重力加速度 g の合成加速度となる。静止した質量mを支えるだけで、重力加速度に対抗した力を掛けることに成る。その時位置エネルギーは増加しないが、力を掛けるだけでエネルギーは消費する可能性がある。mを荷台に乗せたとする、その時は荷台がエネルギーを消費するとは考えない。エレベータのモーターを機械的にロックしておけばエネルギーは消費しない。さて、速度が如何なる値でも、加速度α=0 ならfo=mg[N]で上昇するから、その力 fo と上昇距離との積の分だけ位置エネルギーは増加することに成る。従って、位置エネルギーは E= mgh [J] となる解釈に矛盾はなかった。しかし、α≠0 の時にE=mgh が成り立つかは分からない。そこには、位置エネルギーと言う概念が規準面からの高さh [m] だけで決まり、過程の状況には無関係に決まると言う意味にみえる。一つ簡単な例で確認してみよう。質量 1 [kg] の物体を1秒間だけ加速度α=0.2{m/s^2] で上昇したとする。その時の力の加速度はαo=10[m/s^2] となるから、力はfo=10[N]となる。この1秒間の上昇距離⊿hは0.1[m] だから、力との積は10[N]×0.1[m]=1[J] となる。しかし、位置エネルギーの算定は E=mg⊿h=0.98[J]となる。これは 1≠0.98[J] で等しくないから、力と距離の積に因るエネルギー量[J]の関係は成立しないことが検証される。そこに、位置エネルギーの高さ h[m] とは何か?と言う意味が持ち上がる。暗中模索式導水路。暗中模索さんに水力発電所の導水路の設計をお願いした。誠に穿った設計をなさった。途中の水流速度が複雑に変化する。速度v1の位置は水流が加速度の有る状態で、速度v2の位置では低速度の定常流に成る。ベルヌーイの定理で解釈するが、位置エネルギーはすべて規準面からの高さ h[m] だけで捉える。水の加速度や速度が如何なるかには関わりなく、ただ高さのみで位置エネルギーだけは決まることに成っている。速度エネルギーや圧力エネルギーのような相互間の変換は考慮されていない。位置エネルギーと言う物理概念も、考えればその論理性で単なる科学技術概念でしかないのかも知れないと。規準面を何処の位置とすればよいかは論理的に厳密ではない筈だ。地上5mの高さに10kgの重りのハンマーを設置し、地表から100mの深い穴に楔を打ち込むハンマーに利用する。利用するエネルギーは幾らか?しかしそのハンマーを地表面に戻すにはエネルギーがいる。差引科学技術利用エネルギーはやはり地表面を基準とした解釈に成る。さて、自然現象としての位置エネルギーを物理学理論として定義付けるには、本質的な意味で納得出来るかと言う疑問が残る。地表面に居るだけで、我々は地球の自転・公転の運動エネルギーの支配する自然環境に居ることに違いはない。折角回転運動エネルギーの意味を物理学で学んでいながら、地上高さがその回転運動エネルギーとは関わりのないものだとは解釈出来なかろう。位置エネルギーの『位置』と言う意味は、エネルギー利用技術からの量と看做したい。結論としては、地表面での重力加速度概念の場での位置エネルギーは、上昇力や消費エネルギーがどの様であろうと、過程には関わりなく、ただ高さ h[m] に在る質量 m[kg] の地表面で利用できるエネルギーは E=mgh [J] であると言う科学技術概念でしかないのだ。

 

電子は流れず

電流は流れず と述べてきた。しかし少し表現を変えた方が分かり易いと思う。電流は科学技術理論の要として重要な計測量である。電流計で計れると言うことが如何に優れた科学技術文化であるかを認識することが重要である。ただ、その電流と言う計測量が電気回路の導線内を流れている訳でもないことも確かなことである。さらに、その意味を解説する時、導線内を『電子』が逆向きに流れていることが電流の物理的現象の意味だと説明されるのはもっと科学理論の怪奇さを深めることになる。電気回路の自然現象は『エネルギー』が導線の近傍空間を流れるものである。導線の中など何も流れてはいないのである。電流だけでなく電子も流れてなどいないのである。

中学2年生の理科勉強法として、向きが逆なのは何で!?電流とは何かを・・が検索569万件のトップに在る。何故中学生にこんな意味の分からない内容を教育に取り入れているのか。結局このような内容を覚えさせることが、理科の国家教育統制で、考える力を失わせる原因になっているのだ。若い考え方の柔軟性を失わせているのだ。電池における電子の役割を問う (2018/05/24) で取上げた電子の責務と珍道中の図を載せておくので電子の役割を考えて欲しい。

蜘蛛の巣

(2019/08/20)追記。

とうとう城の主が消えた。巣も居住席も寂れて、いかにも廃墟の風情が寂しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2019/08/11)追記。記録として報告。今もほぼ毎日巣を作り直しながら、元気だ。既に3か月近く経つ。

 

 

 

 

 

(2019/06/18)追記。事件だ。昨日はとうとう蜘蛛も居なくなり最後の廃墟として、寂しい巣を写真に収めた。

 

 

 

 

ところが、今朝は新しい巣に新装して、戻っているではないか。お帰りなさい。少し脱皮と修行の結果か、黒く逞しくなったようだ。

 

 

 

 

(2019/06/14)追記。事件だ。昨日から蜘蛛の姿が見えない。一昨日近くに他の種類の蜘蛛が巣を掛けた。

 

 

 

 

これは蜘蛛の脱皮の殻か。小真弓の葉に殻が付いていた。行方不明の蜘蛛の姿に似ている。脱皮後行方を晦ましたか?近くに移住した蜘蛛が原因か?その蜘蛛も居ない。

 

 

(2019/06/11)追記。巣の巻き方向に二通りある。蜘蛛の表側から見て。

反時計巻

 

 

 

時計巻

 

 

 

 

(2019/06/08)追記。只今巣の改築中。

 

 

 

 

(2019/06/07)再追記。蜘蛛が姿を見せた。

 

 

 

 

 

見事な棟梁ぶり。巣の概形寸法を採った。

驚いたことに支点が5点ある。どのような空間感覚で平面を構築するのか。

 

 

 

 

 

(2019/06/07)追記。この蜘蛛を観察し続けて。何度も巣の張り替えをしながら今もここに生きている。5月の末には誤って巣の大事な支え糸1本を水遣りのジョロで切ってしまった。蜘蛛は危険を感じて生活の場を変えるかと思った。しかし残った2本の糸を生かして新しい面で巣を張った。その様子を報告する。

 

巣を改築。

再び巣が損傷した。

 

 

 

 

その後に誤って壊してしまった。御免なさい蜘蛛さん。しかし新しい巣を新築。

 

 

 

 

 

 

 

 

何度も改築しながら、巣の中心部の居住空間は隠れ場所としての機能を備えどんどん大きくなっている。

 

蜘蛛(クモ)(2019/05/18)
漢字も珍しい。音読みはチチュで蜘蛛の他には使われない文字のようだ。それぞれの漢字の意味も良く分からない。昆虫の中でも蜘蛛は特別の物に思える。巣網を空間に張って獲物を捉える。その巣は幾何学で言う所謂平面の美学を醸し出している。支点が3点なら必ず平面に成る。その縦糸(?)は風の吹き方で決まる訳だが、蜘蛛はその支点の位置を風の流れから関知しているのだろうか。蜘蛛が巣を張る張り方を観察できれば良いのだが、暇でも中々その機会には巡り遭わない。蜘蛛 その神業 (2013/03/18) にも。

名も知らぬ蜘蛛

余り見かけない蜘蛛の巣が目に入った。中心に蜘蛛がいる。巣の中心に蜘蛛が居るが、何か擬態のカモフラージュの意味でか帯状の物がある。支点が3点と平面幾何学の蜘蛛の巣の張り方に納得していた。しかしこの巣をよく見ると、支点が4,5点ある。3点の1つが枝分かれして、支点が多い。それでもその支点がすべて平面上にあるようだから不思議だ。蜘蛛の足のさきで巣の張り具合が幾何学平面に成っていることを知って支点を決めているのかと不思議だ。

巣の新装改築

何日かで、新しく巣を改築している。古い巣に付着したゴミは綺麗に片づけられている。支点に張られた縦糸はそのままに残されて、横の網糸(?)だけが貼り替えられているようだ。お釈迦さまも蜘蛛には特別の使いをさせると古い話にある。1月15日には地獄の釜の蓋が開き、罪人を救うために蜘蛛が糸を釜に垂らす。しかし罪人が我先にとその糸に縋り、大勢が我が強欲に走り、結局誰も助からずに終わるというお話。と言う様に、古くから特別視されるだけの神秘を備えた生き物に思える。こんな小さな命の姿にも、その生き方には自然の不思議が沢山詰まっているようだ。蜘蛛よ万歳。