カテゴリー別アーカイブ: 生命と脳

生命活動とエネルギー

(2019/06/17)追記。2月9日に泳いだが、何か規制されているようだったので、それから中止している。何故このような、精神的に圧迫感で塞がれる毎日なのか。その捌け口として、記事に記す。

(2019/02/05)追記。身体活動でどのように何処でエネルギーが使われるかが知りたい。こんな単純で、初歩的な疑問が日常生活に結びついた大切な科学になると思う。いわゆる学術的でない科学論だ。生化学は理解するにとても多くの基礎を学ばなければならない。8年間ほど全く中断していた水泳を身体機能維持のため少し再開した。1時間ほど泳ぐと、体重が800gほど減少した。汗や尿として何かが使われた筈だ。酸素を呼吸で取り入れ、何かを燃焼させたのであろう。食事を取って養分を肝臓や血液中に、また皮下、内蔵脂肪として蓄えているのだろう。身体活動では体中の筋肉細胞を働かせ、おそらく体脂肪を酸素で燃焼しているのだろう。炭酸ガスや水あるいは尿酸などとして細胞の窒素やカルボキシルキ(?)などを酸素で分解した結果身体体重の減少となったのだろうと考える。そんな科学論は学術研究の対象とするには経済性を伴うものでないから、殆ど見向きもされない事になるのだろう。だから教育の授業内容が学術の為の基礎訓練教育になって、いわゆる自然を説き明かす科学感覚の日常性とかけ離れたものになっているのだろうと考える。身体の筋肉の働きにエネルギーがどのように関わっているかは極めて日常的な科学論の筈である。科学リテラシ-が叫ばれるが、学術的でない日常生活感覚としての理科教育を目指すべきと考える。

合エネルギー 焚火の科学(2018/05/26)を書いた。その後に結合エネルギーの事を知った。高等学校の化学の内容で結合エネルギーの事項が詳しく取り上げられていることを。恥ずかしいことだが筆者の化学の知識には結合エネルギーは無かった。前の記事、結合エネルギー-不思議の砦-(2018/12/02)を先に纏めた。エネルギーの意味、物理学でのその概念が曖昧なことを電気磁気学を通して指摘し、見えないエネルギーの実相を論じてきた。やはり最後にもう一度身体活動のエネルギーについて、生物学ではどのように取上げているかを確認したかった。しかしその意味はATPのアデノシン三リン酸の結合エネルギーとしての解説で論じられ、如何にも曖昧な状態である。その解説を読んでも、どのように身体活動の筋肉細胞でエネルギーが仕事をすることに繋がるかの具体的なイメージが全く湧かない。それでは生物の活動エネルギーの意味が理解できない。生物学に無知の筆者の解釈としては、酸素による細胞内の栄養素分子分解で、炭酸ガスと水に分解されて活動エネルギーが得られると感覚的に感じる。酸素と水と炭酸ガスに繋がらない生物学の化学反応理論では残念ながら感覚的に理解に至らない。確かに分子結合・分子分解の仕組みを結合エネルギーで捉える解釈は大切であろう。ただ電磁気学の空間エネルギーの物理的認識から考えると、エネルギーそのものがどのように生命活動に関わっているかの解説がもっと論じられて良いと思う。脳でのエネルギー発信(電磁信号はエネルギー分布の縦波である)や筋肉の何にどのようにエネルギーが関わって生命活動、身体運動が行われているかの日常生活の基本的意味についての解説が全く見えない。生物学の科学理論で幾ら新しい知見が論じられても、おそらく高校生もATPのエネルギー論の解説では理解するのは無理であろう。NHK高校講座/生物基礎/生命活動を支える代謝に、筋肉収縮とATPの関係が実験で示されている。ATPを使い切るとADPになって筋肉は次に弛緩して伸びるのか。エネルギーとその筋肉との分子結合の仕組みの解説が欲しい。こんな疑問こそ自然科学の基礎理論研究の学生の原動力になるのであろう。 『疑問こそ理解への道標』。分かった事より何が分からないかの授業解説がより分かりやすいのではないか。疑問を沢山拾い集めよう。気付いたら過去にも同じ疑問を綴っていた。本記事の末尾に挙げた。やはり残されたエネルギー論の最後の関門は生物学になるかと思う。そんな思いで以下に蛇足を付け加える。

ATP 生物学のエネルギーはATPで論じられる。そのエネルギーはやはり物理学の命題であろう。エネルギーとは何か?との問いに答えられるのだろうか。朝、歯を磨きながら疑問に思う。歯磨き動作は心(脳機能)と身体活動の調和がとれた行為である。脳の指令と歯磨きの手の状態信号との付き合わせのフィードバック制御系統の調和が整えられていることで可能なことと思う。こんな単純な動作も基本的にはとても深い生命活動の神秘が隠されている筈だ。身体の情報とその伝達はすべて電磁エネルギー波が支配している筈だ。細胞体や骨格更に神経細胞すべてがその信号の伝達経路になっていると素人ながら考える。情報伝達はほぼ光速度で伝達されているだろう。手の動き一つもエネルギーを消費しなければ出来ない。それがエネルギー保存則の原理であろう。物理学のエネルギーが運動エネルギーと位置エネルギーではこの身体活動のエネルギー論には役立たない筈だ。生物学も物理学のエネルギー論に論拠を置いて解釈するから、明確なエネルギーのイメージ・機能が湧かないのではなかろうか。筆者には生命活動のエネルギー論にATPが中心になっている論理が理解できないので、その辺を専門家の方々に御説明いただければ有り難いという思いで疑問を披露している。

ATP 生命活動のエネルギー論はこのアデノシン三リン酸が中心になっている。リン酸の結合と解離でエネルギーの解説が完結しているようだ。図はこのATP周りの生物学の基礎が疑問符に埋もれた筆者の知識レベルを表した。末尾の記事(1)で取上げた図である。

神経細胞の機能 生体には生命活動を司る制御信号が有ろう。それは空間エネルギーの縦波の筈だ。自然は電気回路の電気エネルギー伝播も光伝播現象も基本は同じ原理・現象に基づいている筈だ。その根本はエネルギーが支配している。歯磨きで、どの歯に歯ブラシが当たり、手がどのように動いているかは脳が、その脳でも専門書に依れば特に小脳が、その状態を検知していると思う。その情報検出回路が神経細胞の主たる役割であろう。近光速度伝播速度の信号は神経細胞内を伝播するエネルギー波が担っている筈だ。電気制御回路のフィードバック回路がその神経細胞に当たると思う。

エネルギー論の課題と展望 『静電界は磁界を伴う』から始まった、電荷否定の非常識の科学へ歩む道を辿って来た。もう残念ながら「電荷」を拠り所とした科学論を信用出来ない処に来てしまった。エネルギーの実相を感覚的に感じることが自然を理解するに欠かせないと思う。そんな意味でエネルギーの解釈がそれぞれの学問の中にどのように的確に描写されているかを確認したいと思う。自分の身体活動はやはりエネルギーの仕事をする物理現象の一つであろうから、その学問を構成する基本を科学リテラシ-に照らして学びたいと思う。そこにはエネルギーを消費するという場合の、エネルギーの科学的意味合いが具体的に明確に認識されなければならないと思う。運動エネルギーと位置エネルギーでは全く論理的な解釈は示せないだろう。筋肉にエネルギーがどう働くかを知りたい。

記事(1)体温と身体活動エネルギー「理科基礎(仮称)」を想定して

過去の関連記事。2014年に筆者が生物学の基礎くらいは理解できないかと参考書などで学習した。しかし余りにも理解困難な壁であることを知らされた。筆者が疑問に思った事を綴ったものである。ただし(6)脳の機能と個性は自分ながら気に入ったものである。

(2)脳と生体制御の謎 (2014/03/21) (3)染色体と遺伝の仕組み (05/08)

(4)細胞分裂の意味を問う (04/18)  (5)生命の始まりと脳 (05/11)

(6)脳の機能と個性 (09/05)      (7)アミノさん(amino acid)を追って (11/06)

(8)ニューロン(Neuron)を尋ねて (11/13)

青空と白い雲

青空に雲の浮かぶ 何故透き通った青か。

新雪に朝日が輝く。真っ白い雪。青空に浮かぶ白い雲。青と白には特別に色の不思議を感じる。僅かな科学知識からその不思議を読み解こうとすれば、感覚的なものに頼らざるを得ないようだ。実験的に検証する方法が無ければ止むを得ない。

冬の晴れた日の青空 その青色はどこから来るのだろうか。人が見る光はすべて一筋の光の総体である。青空の一点からの光をその点の光の情報として取り入れている。その空の一点の先には何も無い暗黒の色の宇宙しかない筈だ。眼とその宇宙との間にあるものは地球の空気層のみである。空を見るとは空気を見ているのだ。ならばその青色は空気の色と考えるしかない。眼と空の視点の先の空気の一筋の直線の部分の発する光の流れを取り込んでいる事になる。幾重にも繋がる直線状(ユークリッド幾何学)の光の筋の流れを見ていると。一筋の光路と青空

その直線状の空気の発する四方八方への放射光の内の、眼に届く光のみをその空のその一点の色と認識している訳である。その空気の発する光が青に見えると考えざるを得ない。空気は光が伝播するに障害に成るとは考えていなかった。しかし空気に色があるとすれば、その空気は太陽光線を受けて、その光を原因として空気から光が放射されているとしか考えられない。空気分子が光を放射するとすれば、太陽光線の内の一部を空気が一度は吸収して再放射する以外なかろう。この現象を散乱と言う用語で解釈しているのかも知れない。散乱と吸収・再放射とは少し意味が異なるだろう。それは光の波長が変換するかしないかの異なる解釈で分けられる。空気が太陽光線の障害になる周波数成分は眼に見えない紫外線ではなかろうかと想像する。太陽光線のスペクトラムがどのようであるかは宇宙ででも観測しなければならないだろうから大変だ。直接フィルターなしですべての太陽光線スペクトラムの強度分布を測定するとは至難の業かと思う。特に紫外線領域の広い範囲の強度分布がこの青空の意味には関わって必要かと思う。もう一つの青空の意味に関わるかと思う事は地球表面からの反射光が空気層に反射して見えると言うことも考えられる。海の色も青いかと思えば、その色を写しているかとも考えられそうだ。兎に角空気も光の吸収放射をしていると考えなければ、青空の色の意味が理解できない。光の吸収・放射は光の周波数変換現象でもある。青空の青い色は太陽光線の青い色が散乱して眼に入ると言うものとは違うだろう。眼に見えない波長の太陽光の紫外線が空気中で吸収・再放射されて目に見える波長の青色に波長伸長(周波数低減)変換されていると解釈する。光は変換する基本特性を持っている筈だ。それは世界が変化する原理でもある。

青空に浮かんだ白い雲 雲はなぜ白いのだろうか。雪が何故白いかが分かれば雲の白い訳が同じ意味として理解できるだろう。雪の結晶は誠に美しい六角形の花模様である。その結晶が積雪として雪の山を成すと、その雪は内部に構造空間に富んだものとなる。そこに光が当たると光はどのような雪との関わりを産むのだろうか。その雪の色は白である。太陽の日が当たれば、雪の表面が純白に光り輝く。その白と言う色は周波数がどのようなスペクトラムに成っているかに強く興味を覚える。白いと言う雪の表面の或る一点から周りの世界を見れば、その点に全立体角の風景の色彩が見える。それは天然色の色の光が到達している訳である。その色の光が雪の表面かその内部で一度反射や屈折を経て、雪の空間構造に因る周波数変換によって新たな周波数成分の光として放射されていると解釈する。新雪の雪の結晶と融けた雪の表面とでは周波数変換に違いがあるだろうが、見た目で余り白さに違いは見えないように思う。それでも雪原に太陽光線が当たっている面は明るく白く、日陰の表面は少し青みがかった白に見えるように違いも感じる。雪の表面に窪みが有れば、その中はより青みが増しているように見える。それでも白かと意識では思う。窪んだ穴の空間内で光は反射を繰り返しながら幾らかの光が放射されることで、同じ雪を見ると言っても雪の白さとは異なる色合いに成るのだろう。無垢で純白の白と言うが、単一周波数の光成分で白色は無い事に成っている。同じ光の周波数成分の空間環境の中で、雪の白さが目立つ。同じく青空の中に浮かぶ白い雲。雲が白い訳ではない。雲の表面、内部での光変換後の放射する光の周波数成分のスペクトラムが人が見て白と認識する仕組みに成っている訳である。その周波数成分分析が可能なら科学的結論が得られるのだろう。

光の色 世界が彩り豊かなものとして映る。虹は七色に輝くと言う。だから光は七色で出来ていると考えるかも知れないが、光に色がある訳ではない。光の三原色と言う物理学的解釈がある。目立つ赤色も光に赤色と言うものがある訳ではない。光は様々な波長成分を含んでいる。どんな光もその光の空間構造は多くの周波数成分の混合による合成波形として、その波形が違うだけでしかない。波長の違いとして光の周波数分布の分析を科学的共通理解の解釈法として採っている。光の色の違いと解釈しているのは、実際は見る光の周波数スペクトラムの違いに因っているだけである。光の波長が違う即ち波長が長いか短いかで光そのものの物理的空間像が異なる訳は無かろう。光の空間形状に周波数が異なっても本質的違いがある訳ではない。あるとすれば、合成波形に違いが出るだけである。その特徴的な例を挙げれば、揚羽蝶の翅の色彩豊かな世界であろう。燐粉の微細構造を拡大して見れば、その格子模様に因る空間構造内での光空間周波数変換現象に因る光の特別の輝きを発生させていると解釈している。その空間をColor Cell (*)と名付けている。人が光の波長、波形に感応する感覚器官の仕組みで色の違いとして捉える生命の世界との繋がりに意味を持たせるための機能でしかないのだ。機能でしかないと言うと夢も無いことに成りそうだが、その単純さが人と天然の世界の懸け橋に成っている仕組みとすれば、何と素敵なことかと思う。科学技術で、テレビの光の三原色で全ての色が表現出来ると言う誠に素敵な手法が利用できる恩恵を自然が与えてくれたと感謝すべき事なんだろう。それにしても白と言う色は赤、青、緑のそれぞれどの周波数成分とその強度の組み合わせで演出されるのだろうか。ノートの白色、絵具の白色はどんな分子構造が生み出す仕組みなんだろうか。

Color Cell (*) : 色の世界を尋ねて (2012/01/05)。

体温とエネルギー

エネルギーって何だろうか? またも同じような事をと眉を顰(ヒソ)められそうだ。

分子とエネルギー 書き初めのネタも尽きたので、体温の意味を考えながら感覚に浮かぶ空間像を筆にした。

体温はエネルギーの貯蔵量に因ると観る。身体全体に分布したエネルギーである。細胞の隅々にまで貯蔵されたエネルギーである。光も熱も同じエネルギーである。熱を奪って冷凍すれば、体温は低下し細胞の機能は失われる。温度とはその物体に蓄えられたエネルギー量の評価指標である。エネルギーの貯蔵容量はその分子や細胞の空間構造によって違い、指標の温度も異なる筈だ。それが比熱と言う特性値になる。燃料電池は酸素と水素の結合でエネルギーと水を作り出す。そのエネルギーと同じエネルギーが体全体に貯蔵されているのだ。おそらく細胞自身がその機能を発揮するに必要な環境を整える為に、自動的に発熱と水を作り出していると考える。そのエネルギーを検出しようとしても体温としてしか計測できない。光のエネルギー分布波形を計測できないと同じことであろう。だから『エネルギー』とは何かを確認したいのだ。決して質量の運動エネルギーや位置エネルギーではない『エネルギー』だ。古くは『熱素』と言ったらしいが、質量や時間あるいは寸法、体積と並ぶ物理量、いやもっと根源的な世界を構築する基本物理量なのである。それは素粒子に相当する物理量だ。決して振動する気体分子運動論などのような筋肉の振動で解釈してはいけない物理量なのである。運動エネルギー的解釈はしてはいけないのだ。熱エネルギー量はジュールと言う単位の質量mのmc^2^[J]と等価変換し合う同じ物理量である。体温は体温と身体活動エネルギー「理科基礎(仮称)」を想定してでも取り上げた。

磁気共鳴画像(MRI)と水分子

はじめに 前に磁気共鳴画像(RMI)診断法の原理を知りたくての記事で疑問を記した。6年程前である。今までに電磁気学と言う物理学の知見を現場の電気工学の技術的感覚を基に、納得出来るかどうかを自身に問い続けてきた。電気回路や電気要素のコンデンサなどのエネルギーに対する機能をその現象と照らし合わせながら考察して来た。ほぼ電磁気現象の本質が『エネルギー』一つで統合的に捉えられるようになったかと思う処に辿り着いた。光と熱エネルギーまた質量もみんな『エネルギー』の自在に変換する姿の場面でしかないと思う様になった。そこに水と言う分子および水素の際立つ特性がエネルギー処理の根底に重要な役割を成しているように思えてきた。

体の細胞組織とエネルギー特性 人の体はそれぞれ異なる細胞組織が境界を持って接しながら全体の隅々まで統合された生命体として輝いている。科学で習う世界の根源は原子と言う単純な単位の組み合わせとしか見えないにも拘らず、その構成するたんぱく質の分子構造がすべてを取り仕切っていると思えば、単純が如何に複雑な姿で実在するかは恐ろしい感覚にもなる。更に思う事は原子も決して変化しない訳ではない。『エネルギー保存則』の原理をどのような意味で解釈するかも議論になろう。ダイヤモンドの誕生のお話が『おとぎ話』になれば、それは不思議な世界を作る筈だろう。丁度シンデレラ姫の物語に似て、基は人に嫌われる塵溜であったなどと。水素も始めから、また行き着く先も水素とは限らない。原子も変転する一時の姿でしかなかろう。『エネルギー』一つも、その実在する姿は人の観方で決まる。光をエネルギーとして見るに、振動数で解釈するかどうかで理解が違う。人の生命の全体を取り仕切っているものは何だろうかと愚にもつかない妄想の先にはやはり『エネルギー』しか見えない。脳が取り仕切る信号は『エネルギー』しかないだろう。脳から制御物質を送るには荷が重過ぎよう。エネルギーの縦波信号波形しかない。脳が受け取る外界情報も縦波のエネルギー信号波形しかない。体温も気体分子運動論よろしく、細胞分子が振動している訳ではない。電磁波と言うエネルギーの縦波密度分布波形の信号波の貯蔵量である。体温も細胞内に貯蔵されたただエネルギー量の指標である。細胞の活動を保つに必要な生体環境としてのエネルギーレベルである。その波形を観測できれば良いのだが、神経細胞・骨格細胞を伝播するほぼ光速度伝播のエネルギー分布波形を見ることは残念ながら無理であろう。磁気信号、電波信号はX線、マグネットで医療機械で多用されている。みんな同じ縦波のエネルギー密度波である。身体にもその生命活動を担うあらゆる情報や体温などがエネルギーであると言う意味でお馴染のエネルギー信号波である。X線は少し負担が大きいだろうが。『エネルギー』の物理的実在性の意味を伝えたい。

エネルギーと水分子・水素 雷は熱爆発現象と言った。『電荷』は必要ない。水蒸気が上空寒気によって体積収縮時に放出した熱エネルギーの貯蔵限界越えの爆発現象である。空間貯蔵の熱エネルギーの光変換放射現象である。白熱電球で、コイル空間の熱エネルギーが光変換放射されるのと、原理は熱から光への変換現象として似通ったものと見られる。水は熱エネルギーとの特別の相性で日常生活に君臨している。生命の水は細胞と共にある。中でも水素の比熱は14000[J/kg K]と他に比して一桁高い。水の妖精七変化(エネルギー) は水の電気分解について考えた記事だ。MRI やCTの医療診断装置はX線を含めて電磁エネルギーを人体細胞に照射して、その細胞の吸収エネルギーに因る分子構造の形状変化歪みの回復現象を利用した放射エネルギーの違いを検出する基本手法と考える。水分子や水素のエネルギー吸収・放射反応の物理的意味が分かれば、ほぼ誰でもその医療装置の基本的原理が理解できるものと思う。難しい2分の1の電子スピンなどで頭を悩ます必要もなかろう。もっと単純な原理である筈なんだ。ここでのエネルギーと水分子・水素の関係を理解するには、先ず電磁気で電界と磁界と言う二つの物理概念がどちらも『エネルギー』の見る観方の区分でしかなく、一つの『エネルギー』であると言う単純な自然の姿であると認識することであろう。横に触れる波など無い事を理解するべきである。単純な『エネルギー』の姿を認識して欲しい。電荷やプロトンなどと複雑な概念を使わなくてもよい筈だ。

水素スペクトラムと画像検出 MRIの原理の解説が載っている。その原理を知りたいと思うが、装置の構造に対して印加電磁界の方向と磁場強度などが知りたい。超伝導磁石の磁界ともう一つの磁界が互いに直交して加えられるのかと勝手に解釈する。何テスラと言う磁界とあるが、変圧器用ケイ素鋼板の最大磁束密度でも1.5[T(テスラ)=(Wb/m^2)]程度であるから、たとえ超伝導磁石でも装置の空洞内の磁界強度はそんなに高くはならないだろうと言う感覚であるが、3テスラ等と言うと想像できない強度だ。装置内のコイル近傍で、身体に掛かる磁界強度はどの程度なんだろうか。その数値が知りたい。簡単に解釈する概要は、MRIとは静磁場の磁石と超電導磁石の断続磁場の直交した磁界間での被測定体(患者)へのエネルギー照射の断続により、身体からのエネルギー放射信号を検出して、計算機データ処理に因る身体各部の断層写真データを収集する手法の装置と理解している。そこでMRIの物理的原理はどのような事なのかを知りたい訳である。少しは電磁気現象についての専門的な感覚でもって考えたい。水素原子プロトンの歳差運動と言うのが重要な原理に成っているように解説されている。MRI-新潟大学 にその内容が詳しく解説されている。

水素原子核プロトンの歳差運動とはどのような意味か? 残念ながら筆者にはプロトンの歳差運動と言う意味が理解できないのだ。科学技術応用の原理と言う本質としての物理学的理論は余り当を得ていないように思えるから困惑してしまう。地球ゴマの歳差運動に関係付けても、プロトンが磁界によって歳差運動しなければならない訳が理解できないのだ。水素原子が比熱では他に抜きんでて高い特性を持っている。高い比熱とはエネルギーの吸収量が大きいと言う事である。水がエネルギーの吸収に於いて際立っても居る。水と水素は切り離せない程エネルギーに対して特異性を発揮する。おそらくそれは水素に負うところが大きいからであろう。磁気応用としてのMRI装置の理論的原理は解説通り、水とその構成水素の放射信号スペクトラムが重要な意味を持っているのであろう。水素が吸収するエネルギーが身体細胞にどのような意味を持つと考えるかが重要であろうと思う。磁気であろうとX線であろうと、照射するのはエネルギーである。身体細胞がそのエネルギーを吸収し、外部印加電磁界が断続されれば、切られた時にそのエネルギーを放射する筈である。おそらくその放射エネルギーの周波数帯が水素原子のスペクトラムに特徴的であるのだろうと想像する。

電磁エネルギーと細胞空間構造歪み 難しい理論は分からないので、単に電磁気現象の持つエネルギー概念から身体への照射と細胞エネルギー放射の関係を感覚的に考えて見た。細胞は高分子構造体であろうから、その中に含まれる水や水素原子は様々な細胞ごとに特有な立体構造の一部を占めていよう。その細胞内で照射されたエネルギーがどのように何処に吸収されるかで、細胞内の分子構造体に空間的ひずみが生じるであろう。電磁エネルギー照射が中断されれば、細胞の空間的ひずみに因る力が元に戻ろうとしてエネルギーを放射する筈である。その細胞空間形態ひずみは水素のエネルギー吸収特性が担っているのだろう。水素の体積増加として空間ひずみを起こす。水素そのものがエネルギーの質量化である筈だから、水素はそのエネルギー吸収で際立っているからと考える。医学に全くの素人の妄想かもしれないが、電磁気現象から考えた解釈である。自然は難しい理論は好きではないと思う。それにしてもMRI装置の科学技術は、その断層写真映像を検出する信号処理などの電気情報処理については余りにも理解する限度を超えているので己の無知が恐ろしくさえ感じる。何も分からない市民が知らなければならない筈の科学技術の未来を考えれば、どのように関わるべきかの社会的課題が残されてゆく。

光の筋道―眼と望遠鏡ー

光の道 始めに光あり。光無しに質量は有り得ない。光は世界を知る鍵である。光は障害が無ければ真っ直ぐ筋道を通して進む。地球の傍を通る時は、地球は障害物になる。だから光は筋道を曲げる。それは自由空間でなくなるから。光の速度もその筋道も、観測者との相対関係にあることを理解する事が世界を知る鍵になる。光と観測者の関係は普通の運動速度の相対性がそのまま当てはまる。その関係は決して『特殊』ではない。レーマーの光速度の相対性検出の基本認識が大切。光の速度がその伝播空間によって決まっているから。光が空間の距離と時間の関係を規定する世界の基準であるから。いま店先をシクラメンが飾る。じっと眺めて、何故惹きつけるのかと思う。尋ねても応えは無い。何の役にも立たない時間が過ぎる。シクラメンの花弁の分子構造が光の色合いを人の心に届けて人とつながる。光が無ければつながらない。光が『エネルギー』の縦波であるが故に世界が成り立つ。

(1)眼の機能 眼にはレンズの機能は無い。空気との境界を決める角膜の曲率でほとんどの入射光線は決まる。角膜が光の第一門の関所である。瞳への通行手形が切られる。眼の機能については教科書はじめいろいろと解説されている。カメラのレンズ機能と同じく網膜に像を結ぶと。しかしそれは有り得ないと医学の素人ながら筆者は考える。眼にはレンズ機能が無いと考える訳を説明したい。既に眼は一筋の光を観る で述べてはいるが。

眼の機能 確かに眼球には水晶体と言うレンズがある。しかしその成分は蛋白質であろう。蛋白質(角膜)と空気の境界では、光はその媒体間での透過率*(2017/11/29訂正追記。用語の間違いです。訂正してお詫びします。と同時に適切な用語が浮かばない。光伝播空間媒体の特性であるから、その媒体特有の透磁率と誘電率に基づく伝播速度の意味を表現したかったところ、透過率と早合点して使ってしまった。光の空間エネルギー密度分布波が進行方向に縦波として媒体内を伝播する。その媒体の光伝播現象に対する空間特性は、空間に特有の伝播速度が決まっている。その伝播速度は光の波長に因っても少しずつ違いがあるだろう。それは分散として現れる。従って、媒体間での違いを表現する用語としては光の縦波の『伝播速度』が適切であろう)が変わるから境界面に於いて入射角度によって屈折現象を引き起す。しかし眼球内は光伝播媒体が全てタンパク質と水分(?)であろう。そこでは屈折は起きない筈だ。魚眼の標本? が参考になるとも言えないが、蛋白質の玉葱状の積層構造と思える。人の眼もレンズのような屈折現象を起こす境界は空気と角膜の曲率面しかないと思う。そこに到達する光の内、眼の中心軸上の方向に在る対象からの光だけが瞳に入射するものと考える。 図の①一筋光路認識で文字『ア』を読むとする。文字の各部はあらゆる方向へ光を反射している。カメラのレンズ機能は、対象の一点からの多くの幾筋もの光路を通った光がフイルム面の一点(焦点)に集光し、対象全ての各点の集光された集合画像が写真として鮮明に写される。それに対して眼は対象の一点からの光の内唯一筋の光だけを受け入れる。観測対象『ア』の各部からの光のそれぞれ一筋の光路のみの光を取り入れる。眼の水晶体では光を整える積層構造に成っていて、レンズ終端でファイバー(硝子体管)に光が伝送され、黄斑に届く。網膜に視界の映像などできない。次に②の視界距離感をどのように認識するかも不思議である。望遠鏡や顕微鏡は殆ど片目で観測する。両眼で対象の距離は計れると理解している。しかし片目では、一筋の光による画像に距離を計る識別機能は備わっていないように思う。細い紙筒を覗いて、映る対象のその距離をどのように感じるかを確かめて見た。普通は片目でも、周りの光景も一緒に認識出来るから、長い感覚的脳の学習機能で距離を正しく理解できるだろう。しかし周りの景色が遮断されて極限された狭い平面の対象の距離を計る時、少し遠くに在る様に捉えるのかと感じる。それは各人の感覚に因り違いがあるかもしれないが。以上二つの意味が、望遠鏡(顕微鏡も)で対象を観測する場合の眼の機能として捉えておくべき要点と考えた。

(2)望遠鏡の原理 望遠鏡の解釈では、虚像とか実像と言う用語で解説されることが多いようだ。しかしその様なレンズの『焦点(存在しない概念)』に因る光路合成の作図法での虚像とか実像などは存在しないと考える。実像はカメラのフイルム面(写像面)の二次平面全体がすべての対象点からの焦点になるという意味で、そこに写る写真の画像とすれば、それは実像として理解できる。しかし、眼に因る観測視界は実像とか虚像などの概念では説明できない筈だ。レンズを使うか使わないかに関わりなく、普段の裸眼での視界認識と眼の機能は角膜への入射光線の角度で、全く同じ光路に因って認識している筈だ。その意味を次の図で示す。

望遠鏡の機能 望遠鏡の原理なども今回初めて考えた。ケプラー式で考えた。ここには実像も虚像も無い。眼で観測する光学器具はすべて一筋の光の光路から成り立っている筈だ。対象各点からのただ一筋の光だけで認識する原理である。眼は虚像も実像も見ることはできない。ここでも教科書の解釈とは異なる。図では遠方の大木を観る様子を描いた。天体望遠鏡なら星を観測する事になろう。観測対象の或る一点からの光は四方八方に放射している。その光の内、望遠鏡に入射し、観測の光となる光路は唯一筋の光の道しかないという意味を示した。ここが教科書での解釈と全く異なる。普通の解説は少なくても二筋の光で、望遠鏡内にその交点として在る像を結び、その像がそこに在るかのように考えて、その仮想の像を接眼レンズを通して見ると解釈している。その接眼レンズでの眼に因る観測となっている。それに対して図では、対象の観測点の光情報はある仰角θoの一筋で対物レンズに入射する。対物レンズで僅かに屈折しθで接眼レンズに入射する。接眼レンズの位置を動かせば、レンズ面の曲率によりレンズ入射角が変わることになる。それは屈折角が変化し、結局眼への入射角度が変わることになる。その角度を図ではθeとした。視野角度θeを観測対象の大きさを観る角度として認識する事になる。ただ観測対象の距離を片目でどのように認識するかは理解できない。

レンズの焦点・焦点距離とは?  に(2016/10/28)以降のレンズの記事をまとめた。

生体電流と生体制御

生体電流と言う言葉が有ることを知った。ブログのダッシュボードに質問らしい言葉が載る。そこに「生体電流って何か高校生」とある。その事に触れて、述べよう。電流と言うのだから、電気現象の電流と同じ意味で使っている用語であろう。しかし生体に流れる電流と言うには電流の概念とそぐわないと言う意味で無理がある。電気現象で電流と言うのは必ず2本以上の往復導線が必要である。生体内の神経細胞やニューロンの神経索のようなエネルギーの伝達経路は光ファイバーに近い1本の通路であろう。元々電気現象の『電流』と言う技術概念(『電子』の流れ)が『エネルギー』の電気現象の真理を語れる訳ではないのであるから、生体電流と言う意味に疑問を抱くのは当たり前のことである。『エネルギー』は電荷などの移動現象ではなく、空間を伝播する光と同じ縦波なのである。だから生体電流と言うものも、神経細胞の伝達空間が有れば、そこを流れる縦波の『エネルギー』なのである。近年は義手の開発も進み、脳信号を義手に伝えることも可能になっているが、検出器と脳との間の空間を通して、脳の考える情報の制御エネルギーが自由に伝達可能になっている。それは電流と言う2本の導線の電荷の移動などと言う古い電気現象解釈では理解できない事を示していると思う。少し前に細胞に関する疑問などを書いた。脳の機能と個性脳と生体制御の謎が有る。

電流は流れずと言う電気現象に対する解釈から、生物学は全くの素人ではあるが、生体電流と言う意味の理解に役立つかと思った。『電荷』での科学理論には綻びが多過ぎるように思う。

世界はなぜ天然色か

この問いに答えることは科学論か哲学か。光と波長は物理学の話になろう。色覚と認識は生物学の話になろう。その両方とも科学論のようだが、両方を合わせて考えると科学論では収まりきれないように思う。光には色はない。色がない光を瞳に取り入れるとそこには色彩豊かな風景が見える。赤いバラの花びらが何故赤いかは答えようがない。紅葉の葉はアントシアニンが云々と解説されるが、アントシアニンがなぜ赤いかには答えられないだろう。眼と脳の認識の生物学的解釈が関係して来るからなかなか難しい。光には本質的に色彩は無いのだから。この世界の生物全ての生まれ来た存在の因縁に関わる事柄と観る事も出来よう。何故空気があり、水があるかを尋ねる事にも匹敵する存在の根源を問う事でもあろうから。それは哲学の領域の話となる。世界は調和と多様性の創造物で創られている。目の前の世界の意味を一つ取り上げても答えは見つからない。簡単に科学論で世界を理解できるとは考えない方が良いのだろう。多様性と個性が世界の豊かさの指標でなければならない。山の樵(キコリ)、炭焼き、街の仕立て屋さん、文房具店、靴屋さん、そこにはそれぞれの専門の職人が居た。コンピュータ制御ミシンが故障すれば廃棄するより方法がない。人の世界が貧相な色彩の世界に変わって行く。この競争と言う世界、それが人類が求めて来た理想の未来なのか。

単レンズでの両眼視界

Space of Yoshihira

金澤 喜平(カナザワ ヨシヒラ)の漢字氏名が何故Kiheiと間違って翻訳されるか?

My name is Yoshihira Kanazawa.

我々は2眼一対の眼で世界を見る。2眼で遠近を計り、周りの全景を意識する。遠い対象は望遠鏡で拡大してみる。1個のレンズで両眼を使って遠景を見ることなど誰もしないだろう。無意味な事だから。しかし、眼の視覚の機能を理解するのに役立ちそうであるから、考えることにした。

一個のレンズと両眼視界 観測対象の遠近はどのような眼の機能で認識するのだろうか。単レンズをかざして、遠方の景色をそのレンズを通して両眼で見る。視界がハッキリしないで、二つの遠景が見えるように感じる。レンズ無しでその遠景を見れば、普段の正常な視界が見える。その正常な視界はその距離がどれ程かを脳で評価して認識するのだろう。遠近認識の眼の機能は両眼に届く対象からの光(視界)の角度で脳が判断していると考えていたが、どうもそれは違うのではないかと思う。

%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba%e3%81%a8%e9%81%a0%e6%99%af%e8%a6%96%e7%95%8cレンズと遠景視界 レンズを両眼の中心軸にかざし、遠景を観測すると、像が二つに見える。そこで両眼の内の片方を閉じて、それぞれ片方の眼で観察してみる。するとレンズも遠景の像も左右の眼と反対側に移動した様な視界に代わる。眼で見るレンズを通した視界は予想とは異なるのである。その視界が何故そうなるかを光路とレンズの関係で描いた。この光路の関係が何故起こるのか。この図の意味は普通の遠近認識の眼の機能とは異なる特殊な場合である。その特殊な場合から見えることは、普段の遠近認識の機能の意味を考える実験としての役割を示すと思う。レンズなどの無い普段の両眼に依る遠近の視界認識の仕組みを考える切っ掛けになった。両眼で見るとは両眼の瞳の方向をその対象の方向に回転して揃えることで、両眼の光路が対象に対する角度を確定し、両眼と対象の間に二等辺三角形を構成する。眼に入る光の筋道即ち光路の集合としての遠景は、その対象の各部からレンズに入り、屈折して目に届くまで、すべて一筋の光路の集合に依り全体が構成された視界として眼の情報を脳で総合評価した認識機能になっている。その事の意味は、今まで光の眼の瞳への入射角度で理解していた遠近認識の解釈と実際は異なるように思った。

遠近認識と外眼筋(ガイガンキン) レンズ無しの平常時での眼の視界を考えて見る。眼球には左右それぞれに6本の外眼筋がある。視界はまず脳の水平感覚がその方向性を判断する基本条件になっていよう。それは内耳に在る平衡感覚器官の状態を脳が判断して認識しているのだろう。その上で、眼球の上下左右の方向を外眼筋で調節したその状況を脳は認識し、眼球の回転角で遠近認識をしていると考える。その時の光路は左右の眼の瞳が僅かに内向きに向いているので、対象からの各部の光がまっすぐ瞳に入り、殆ど屈折無しに眼球の硝子体管を経由して黄斑に達する。この解釈の基には眼の内部での視界認識機構が大きな意味を成す。眼での像認識が網膜に映るカメラ機構での解釈を採るか、硝子体管の光ファイバーを通した黄斑の中心窩の解釈を採るかによって変わってしまう。網膜説を否定しなければ、視界認識の脳機能を理解するのは困難であろう。これも素人の光の縦波空間像解釈からの感覚的解釈論である。眼の視界には焦点がまったく無意味であると同時に焦点距離さえも無関係である。従って、眼球や硝子体レンズ調節による屈折制御のカメラから類推した仕組みなど視界に関しては殆ど意味の無い事に思える。メガネに依る調節は角膜から硝子体管の入り口までの間の調整に役立っている事であろうと考えざるを得ない。網膜で像を認識する訳ではないから。

眼の機能に焦点距離の概念は意味を成さない。カメラとは違う。

眼球の光路とカメラ機能ー?ー

科学は『科学的』と言う一種特有にして、日常生活と隔絶した別世界で発揮される高度な知的能力が要求される学問分野と看做されている。そこは伝統に縛られ、過去の業績に支配された共通認識の上に積み重ねる競争的発見の慣習の世界である。しかも、分野ごとに概念や手法が必ずしも共通であるとも限らない。そんな『科学的』と言うべき対象に人の眼球の機能があるように思う。そんな中で全く医学には無知の素人の私が考える事であるから、『科学的』と言う範疇には入らない話になる事には間違いなかろう。しかし、『科学的』から外れた日常感覚だけからの考え・思索でも『科学的』以上の科学的な論理があると思うのだ。それは光とは何かを問う事から始まる視点が必要であろうからだ。光の意味を、その空間像を捉えることに於いては実験的には無理であろう。光一粒の形状を見ることなど困難であることは誰もが分かろう。そんな光と眼球の関係を理解することは大変かもしれない。しかしカメラと言う科学技術の結晶が日常生活に生かされ溶け込んでいる。それは光と人間の世界認識の間を繋ぐ架け橋の具体例でもあろう。眼とカメラの間の光の綾取りを考えてみようと思う。

眼球構造の光学的機能

%e7%9c%bc%e7%90%83%e3%81%ae%e7%84%a6%e7%82%b9%e8%b7%9d%e9%9b%a2眼球構造と焦点距離 光の形と同じく眼の中味を理解することは困難かもしれない。殆ど水とタンパク質でできた構造体であろう。殆どの専門的解説図には『硝子体管』は描かれていない。それは解剖しても『硝子体管』と硝子体液の区別がつかないからであろう。『硝子体管』は発生過程で血管が通りレンズの水晶体の成長に重要な役割を持っていただろうから、その時点ではその存在は確認できたのであろう。眼がどのように成長するかの過程までは謎であろう。何故『硝子体管』があると考えるか。それはカメラの原理と比較した時に網膜上に視覚の像が結ばれると解釈することは無理であると考えざるを得ないからである。光の屈折はどのような条件で起こるか。光の伝播空間の媒体の物性的変化で起こるのである。眼球は殆ど蛋白質と水であろう。屈折を起こす場所は空気と角膜の境界であろう。光が眼球の中に入れば、水晶体でも殆ど伝播媒体の物性的変化はないと考える。水晶体構造は発生学的な関係から積層構造ではないかと仮想する。水晶体内部における光の伝播状況を空想すれば、その積層分布構造が光の垂直進行を整える役割になっていると思う。カメラのレンズのような伝播媒体間での物性的差による屈折現象は起きないと解釈せざるを得ない。なおこんな素人の水晶体解釈は、魚類の眼球構造が蛋白質の球状積層構造をしていると言う遊び心の発見からの推察でしかないが、生物的共通性からの類推でもある。それは魚眼の標本?に在るように、眼球は玉葱状の積層を成していることを類推した。さて次に『黄斑』の解釈である。眼底検査で、粒粒の点が見える場所が『黄斑』であるらしい。その『黄斑』の点は何故『点』に見えるのか。その訳は何なんだろうか。眼球の解剖学的所見は大昔からの解釈であった筈だ。『光ファイバー』等の科学技術もない時代の解釈である。だから、伝統的解釈の科学論には『硝子体管』など有りようがないのだろう。一本一本の蛋白質の線状繊維の光ファイバーなどが光の伝播通路・光路になるなどの解釈概念は存在しないかもしれない。光がエネルギーの縦波と言う概念がないと横振動波ではなかなか感覚的にも捉え難いと思う。しかし『黄斑』部が視力・視覚認識の重要な部位である事は専門的に共通理解されている。網膜全体ではない事は分かっていると思う。さらにその中心部は「中心窩」と言う窪んだ形状をしていると言う。カメラでフイルム面に視界を映す事と比較してみたい。

眼球型カメラ

%e7%9c%bc%e7%90%83%e5%9e%8b%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9眼球型カメラ 眼の機能をカメラの機能で解釈するのが教科書的常識であるようだ。だからその事を逆にカメラに眼の構造を応用して、カメラを作ったらどうかと考えた。それがこんな設計図になった。特に工夫した点はフイルムの形状である。その面は基本的に球面の一部を成し、更に焦点距離の概念を覆すべく窪みを付けた点である。なかなか難しい撮像面であるが、こんなフイルム面を工夫したら、教科書の解説用カメラになるかと考えた。日本人の眼球の長さは平均的に24~25㎜程らしい。レンズの『焦点』の物理学的解釈が間違いだと指摘した。平行光線が焦点に集まると言う理論は有り得ない。その『焦点』の解釈が眼球の中心窩の窪みについても焦点距離の意味にそぐわないとは感じない教育的問題になっているのではないかとも思う。光の屈折現象がどのような伝播媒体の境界で起きるかも感覚的に理解していないのではないかと危惧する。みんな教育効果であろう。

意識とは何か

「文藝春秋」2015年 4月号を買って読んだ。立花 隆氏の記事 「脳についてわかったすごいこと」 を読んだ。話の内容が『臨死体験』についての脳の働き方のようである。間もなく、NHKで放送される予定の話のようだ。私には、このような脳の機能の科学論はあまり興味を持てない。何か超常現象の話とも思える内容だから。どうもNHKはこの種の話が好きなようである。初めに「意識とは何か」との解釈の話から入っている。『臨死体験』など経験がないから、余り考えるつもりは無かったが、『意識とは何か』と疑問を呈されているので、その点で興味を覚えて、自分なりに考えてみた。記事の中では、その問答が主題となって、多くの科学者の研究を紹介して踏み込んではいるが、解答となる結論は示されていないようだ。

「意識とは何か」を考えて この「意識」とは何かと問う意味を考えた。その問いを出すことの意味を考えた。「意識」という意味が分かっていないから「意識とは何か」という『問答』になっていると思った。結局、「意識」という用語の意味が元もと定義できる程はっきりしていないと言うことでしかなかろう。「意識」の用語の意味がハッキリしているなら、「意識とは何か」という問はでない筈だ。「意識」そのものが分からないのである。結局『脳とは何か』と同じ意味ではなかろうか。記事は『臨死体験』を『脳』の機能から解釈しようとしているのだと思った。『臨死体験』など科学論としてなりたつ訳はなかろうと、素人の直覚から思った。とても面白いと思った話が有る。麻酔がなぜ効くのか、科学的には何も分かっていないという麻酔科医の話である。そこでまた疑問が浮かんだ。それでは何故睡眠薬は効くのかも分からないのだろうかと?何故睡眠が必要なのだろうかと?脳の機能回復に必要と言われても、何故かと疑問が湧く。すべての生命は睡眠が必要なのだろうかと?ミミズも眠るのか?細胞も睡眠をとるのか?睡眠が生命=脳の本質を説く鍵かもしれない。細胞の働きは何が支配しているのか?自律か、他律か?『脳』と繋がっているか?何にも分からない事から始まる。

これからも、科学は常に解釈の余地を残し続けると思いました。の結論に安心した。