カテゴリー別アーカイブ: 物理学基礎理論

熱の物理

熱の概念
熱とは何か。熱はエネルギーの或る状態と解釈するだろう。それはどんなエネルギーか。日常の環境評価では温度と言う指標で熱の多さを捉えると言ってよかろう。例えば気体では、気体の熱エネルギー量を温度・気温として捉える。気体の熱エネルギーとは、物理学では気体分子運動エネルギー(気体分子運動論)として認識・解釈していると思う。この気体分子運動論が曲者に思える。その訳はエネルギーが質量に関係なくそれ自身で空間に実在しているものだから。光はエネルギーの伝播現象であり、質量はその光のエネルギーを論じるに必要ない筈だ。光が質量の運動エネルギーとは考えないだろう。その光の空間に実在するエネルギー像を物理学で認識していない処に問題の根源がある。

物理学理論(気体分子運動論)を斬る それでは、その気体分子運動エネルギーとはどのようなものを考えているのだろうか。気体にエネルギーが加えられると気体分子がエネルギーを吸収することになる筈だが、おそらく気体分子質量の速度の増加としてエネルギーを吸収すると物理学理論では解釈しているのだろう。何故気体分子が速度の増加を来たす事になるのか。気体を加熱したからと言って、分子の速度が上がる理由が見えない。調理用の圧力釜がある。加熱すれば、圧力釜内の水が蒸発し気体となる。加熱に因り圧力が上昇し水分子の圧力上昇としてボイルの法則の通り圧力エネルギーとして加熱エネルギーが蓄えられる。何も水分子が運動などする必要もない。蒸気機関でのピストンの仕事は水分子の運動エネルギーなど無関係で、水蒸気の圧力がその役割を果たしているだけである。水蒸気の圧力とは水分子が加熱によって体積膨張しようと内部圧力に変換されるから圧力上昇するのである。それが単純なボイルの法則による解釈である。水分子の運動速度など無関係だ。物理学理論でエネルギーと言うと、質量の運動エネルギーと位置エネルギーしか対象にしていないのではないかと誤解しそうになる。圧力エネルギーと言う概念が余り考えられていないようだ。ボイル・シャルルの法則も気体分子運動論としてボルツマン定数に因る解釈に終結している。圧力も膨張でなく分子運動速度に因る衝突力として捉えるようだ。気体の体積、水蒸気分子の体積膨張と言う現象は考慮されていないように思う。気体の発光現象も、気体に加えられたエネルギーが分子や原子に貯蔵され、その貯蔵限界を超えたエネルギーが放出されることと解釈できよう。原子の外殻電子の運動エネルギーが増減する解釈は意味がなく、間違っている。そもそも電子が回転していると考える必要など無い。電荷など無い筈だから。エネルギーと圧力の関係で一つ取り上げておきたい。海底1万メートルの水は静止状態でも途轍もない高圧に在る。その水圧も水の空間に蓄えられたエネルギーの筈である。さて、水圧だけではなく、海底の地殻深くになれば更に圧力が増していると考えられよう。その空間のエネルギーは特別の意味を持ち、日常生活での物理現象として関わることも無い異次元の世界の話であるが、圧力エネルギーであることには変わりがない。ただ、その圧力エネルギーと言う解釈が地球の中心核まで続くと解釈すべきかどうかを判断するべき根拠は不明だ。何も地殻が運動エネルギーの空間貯蔵帯とは考え難いという事からも、気体も同じように気体分子の運動エネルギーとして解釈すべきと言う論理性が見えないということである。当然気体の圧力分布に因り気体は流れて風を引き起すが、それは気体分子運動論でのエネルギーとは異なろう。温度の解釈には風は余り関係なかろう。

熱エネルギー 熱が物に蓄えられる時、物の質量の運動エネルギーの増加となるのではない。物の結晶格子等の空間に貯蔵されるエネルギーそのものの増加が熱の増加と言うことである。熱エネルギーは電気エネルギーや光エネルギーと同じく、空間に実在するエネルギーなのである。質量構造体の内部空間に貯蔵されて温度が高くなるのである。温度が高いということは、計測温度計にその物体から放射されるエネルギーが多いということであり、温度計に入射する熱エネルギーが多い準位で、温度計の出入りのエネルギーが平衡するのである。熱も電気も光もみんな同じエネルギーなのである。それは空間を占め、そこに独立した実在の空間エネルギー密度なのである。基本的に、熱とは光であれ電気であれ物に蓄えられたそのエネルギー量によって周辺空間に放射、伝導するエネルギー量が影響され、その量を計量する人の感覚や温度測定器の表示量として捉えるエネルギーの評価なのである。物のエネルギー量とその物の入射と放射のエネルギー平衡特性が比熱などの評価係数となっているのだろう。物の原子・分子の結合構造(勿論エネルギー還流のマグネット結合構造)でそれらの係数も決まると観て良かろう。

質量とエネルギー等価則

熱エネルギーとは 今常温でMo[kg]の鉄の塊がある。その鉄を加熱した。高温の鉄の塊からは熱と光が放射される。その熱い鉄の塊の重量を計ることを考えると仮定する。鉄の質量は計りに掛けると、加熱によって加えたエネルギー分だけ等価的に質量が増加する筈と考える。それが『質量・エネルギー等価則」の意味である。エネルギーは質量に等価である。しかしここまでエネルギーを実在物理量と捉える考え方は現代物理学の中に受け入れられるかどうかは分からない。高温の鉄の塊から熱放射・光放射が続く。その放射エネルギーは鉄の持つ熱エネルギーと等価な質量の一部をエネルギーとして放射するのである。『エネルギー』も質量と同じく物理的実在量なのである。と言っても、鉄の重量を計って、熱エネルギーに相当する質量・重量の増加した結果が観測など出来ることは無理であろう。熱エネルギーの増加分をほぼ光速度の2乗で除した分など計測に掛る筈はないだろうから。実験的に検証する科学的論証は無理であろう。それでも、原理的に熱エネルギーが質量と等価であるという意味は熱く加熱されたエネルギー分だけ質量が増加しているということである。同じ様に電気コイルに貯蔵される電磁エネルギーが有れば、そのコイル内に溜ったエネルギー分の質量換算量だけ質量が増加したコイルとなる。一般的な現代物理学理論で、エネルギーが質量とは無関係に実在するという認識がどの程度理解され、受け入れられるかははなはだ心許ない。化学理論でも同じく、原子構造で電子が外殻を周回運動しているとの捉え方をしている限りは受け入れ難い考え方であろうと思う。

 

エネルギーの象形

エネルギーが世界 自然世界はすべてエネルギーから構成されている。そこにはエネルギーの姿容が表象されている。エネルギーは見えないが、その表れる象形は自然世界として眼前に広がる。

エネルギー像 

実在

不可視の物理量

それが エネルギー

質量

それはエネルギーの

艶姿

エネルギーはどんなものも見えない。しかし世界はその実在によってこそ存在し得る。質量はエネルギーが現れた姿である。エネルギーと質量の等価則が意味することがそのことである。質量はエネルギーになって見えなくもなるし、エネルギーが局所化して質量として眼の前に表れもする。光は光である限りそのエネルギーを見ることはできない。しかし吸収されればその空間で変換されて姿容を現し、見える質量になる。

 

エネルギー その見えざる正体

見えないもの 世界を光によって見ることが出来る。しかし、その光を見ることは出来ない。光がどんな形をしているかは分からない。その光の形を科学的に検証して確かめることも出来ない。しかし光は世界の実在的物理量で、空間に実在する。光は空間エネルギー分布波であると言っても、そのエネルギー波を検出をする測定法は無いだろう。何しろ1秒間に30万キロメートルの速度で通過する空間エネルギーの密度波であるから。そのエネルギーの分布状態を計る測定法が見つかれば夢の世界が広がるのだが。 見えるもの 見えないもの  にも見えないものについて述べた。その科学的に測定・検証できない電磁波の空間エネルギーについて述べようと思う。エネルギー程自然世界の根源を成しながら、その姿を見ることが出来ない不思議なものもないと思うから。大学教育に求められる「電気磁気学」 はその眼に見えない空間エネルギー波が光の本質であることを理解することを求めたものである。その見えざる正体を電磁波の中に観ることを論じたい。 眼で見えない物を心で観る夢としたい。 

電磁波はエネルギー波

図1.電磁波とエネルギー分布 正弦波の電磁波はマックスウエル電磁場方程式の解釈により、電界E と磁界Hの直交したベクトルの波動として表現される。その電界と磁界の偏微分形式で方程式に表現されている。しかし、電界や磁界が空間にあると考えるなら、その空間にはエネルギーがあると解釈される筈であるが、エネルギー分布についての解釈は電気磁気学の電波伝搬現象には見えないようだ。エネルギー波という解釈の記述について見た記憶がない。何故なんだろうか。電波伝播現象ではない静止電磁場については電界エネルギー「(1/2)εE^2^[J]」とか磁界エネルギー「(1/2)μH^2^[J]」とかの解釈がされているにも拘らずである。光速度伝播での電磁界については空間エネルギーという概念が消えてしまう人間の不思議な科学的習性を観なければならないのかと。そこで、今回はその光速度伝播の電磁界についても空間エネルギーが実在するのだということを伝える為に、その正弦電磁波のエネルギー分布を描いてエネルギーの実在性を解説しようと考えた。電磁波の本質は電界や磁界ではなく、エネルギー波なのである。それが光が空間エネルギーの縦波だという解釈に通じる事の要になるのである。図のように、正弦波の波長λとすれば、その半波長 λ/2 の繰り返し正弦波分布波となる。実はこのエネルギー密度分布波δ[J/㎥]の空間伝播現象を解説しようと考えたとき、このエネルギー波の表現法に困惑してしまった。そのことで、前の記事、瞬時電磁界と概念になった。エネルギー波が電気磁気学で取り上げられない訳の一つに、その空間表現が困難であるからかも知れないと考えるに至った。それが見えないものを観る困難かとも思う。しかし、エネルギー単位量子という捉え方で電磁波のエネルギー縦波伝播現象の解釈が欠かせないと考え、その意味を解説したい。

エネルギー単位量子

図2.エネルギー単位量子 ε=(λ/2)(δの平均値)[J]  見ることのできない空間エネルギー分布密度波を、空間に図形表現してみたのが図2.である。石や花のように眼で見ることが出来るものは空間に描ける。平面表現であっても絵にして伝えられる。しかし、空間に実在すると言っても眼に見えない、形の表現のしようがないものを示す事は困難である。質量に付加される運動エネルギーは質量体とその速度を併記すれば、理解できよう。しかし、質量のないエネルギーは目に見えないから形に示せない。これは『禪問答』の部類かもしれない。そこを何とかご容赦頂いて論じさせて頂く。空間を伝播する電磁波は正弦波波長の半分の長さの空間エネルギー密度波の繰り返し波形である。今仮に単位面積あたりを通過するエネルギー波を考えれば、単位面積1[㎡]で長さλ/2[m]の体積のエネルギーε[J]の光速度の縦波伝送として捉えられる。それをエネルギー単位量子と定義する。

見えざる正体

見えない空間エネルギーは光の視界を遮ることもないから、そこに在るとは見えないのだ。電気コイルの中や磁石の周りにエネルギーが在ってもそれは目に見えないのだ。地磁気のエネルギー流が在ってもそれは目に見えないのだ。見えざる正体それが空間に実在するエネルギーなのだ。世界を構成する基であるエネルギー・素原の光がその代表なのだ。その見えざる正体のエネルギーが理科教育に求められる本源だ。サーフィンが夏の海に運動力学の絵を描く。津波とサーフィンは同じ水力学の形を見せている。波のエネルギーとは何かと尋ねれば、振動数が何とやらの解説が検索に出て来る。エネルギーの実在性が見えない理科の解説は間違いである。

『課題』が残る。光の波長はこの「λ/2」を捉えて今まで論じてきた。正弦波波長と光の波長との関係を明確にしなければならない。

過去から今まで

32  『静電界は磁界を伴う』 -この実験事実に基づく電磁界の本質ー

1.まえがき 現代物理学の基本概念に電磁界概念がある。しかし、マックスウエル電磁場方程式には時間的に変動しない電磁界いわゆる静電磁界に対してエネルギー伝播の概念は含まれていない。この解釈から「電荷も電流も時間的に不変である限り電気と磁気とは別々の現象である。」(1)という当然ともいえる結論が得られる。しかし、マックスウエル電磁場方程式をエネルギー伝播という観点から考察したとき、筆者は「電界あるいは磁界のみが単独に存在するような場は有り得ない。」という結論に到達せざるを得ない。・・・

と書き出した、1987年(昭和62年)4月の解釈から少しも進歩していない同じ事を論じ続けているようだ。

大学教育に求められる「電気磁気学」

光は電磁波である。

光とは何かとの問いにそう答えるようだ。

その訳は、光も電磁波も同じ『エネルギーの縦波』であるからだ。

その意味を理解しなければ、電気磁気学の眞髄を教えることは出来ない。

電界や磁界の科学的仮想概念を幾ら論じても求められる大学教育には成らない。

『エネルギー』と電界、磁界の関係をどのように理解しているかが大学教育者に求められていることである。

『電荷』とは何か?と考えることを忘れた大学は歌を忘れたカナリヤと同じだ。

『電荷』無しで、空間を伝播する『エネルギーの波』で電磁波を描いて欲しい。

そうすれば光の意味が観える筈だ。

 

金澤:波はエネルギー流 日本物理学会講演概要集 第66巻2号2分冊、p.310.

金澤:瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会、電磁界理論研究会資料 EMT-88-145 (1988-10) 『電荷』の物理概念を問う実験写真データ。

世界の実在物理量エネルギー

Energyとは何か? 日常生活で最も関係の深い物理量は何だろうか。陽が昇れば太陽光線を受ける。太陽からの光のエネルギーである。お茶を飲めばお湯の湯加減の熱エネルギーに関わる。テレビを付ければ電気エネルギーを使う。物理学の教科書でエネルギーとは“仕事をする能力”と定義される。確かに太陽光線も電気コイル内のエネルギーも体温の熱エネルギーも仕事をしている能力保有物理量と言えるかも知れないが、どこか落語の頓知話に似ているように思う。世界を構成する根源的物理量は素粒子と言うようだ。どうも気にかかることがある。『エネルギー』も世界の構成源に思えるのだが、どんな素粒子から出来ているというのだろうか?エネルギー(ENERGY)とは?にコメント(スパム?)が多い。

プランク定数の概念

光とは何か 光の物理的意味をどのように理解するか。光を振動数や電磁波の横波で論じていてはその本質を理解できない筈だ。光は粒子であり、波動であると言われる。確かに粒子のような性質で解釈できる現象を示し、また波動であると解釈できる現象をも示すであろう。その粒子性と波動性の両方を備えた光の空間像を空間エネルギー分布像 光とは何か?-光量子像-として提唱した。また、光の物理的特性はプランクの定数h[Js]によって決定的に特徴づけられる意味が分かっている。すべての光がプランク定数hによってそのエネルギーの評価が出来るという画期的発見に支えられて、光の特性を理解できると考えてよい。

光とプランク定数 光を述べる教科書には必ずプランク定数が登場する。プランク定数がどれ程重要であるかは、教科書をみれば良く分かる。ところが、物理学での光は振動数で解釈されている。光に振動する物理的実体など全く無いと考える筆者には、その振動数という意味が理解できない。改めて、振動数とは何を意味しているかをエネルギーの縦波との関係で解釈したい。合わせてプランク定数の物理的意味を光エネルギーの空間像との関係でもう一度示しておきたい。

光の空間エネルギー像 光は空間エネルギー分布波の縦波の連続波である。観測の実験経験も無い筆者がトンデモナイ事を言うと批判されることは承知だ。科学の世界ではあり得ない事だから。しかも、実験で証明できない空間エネルギー密度波での解釈であれば、科学論として受け入れられないかもしれない。しかし、最初から光を振動数で解釈する物理学理論に疑問を持っていた。『エネルギー』に対する電気技術感覚からの違和感であった#脚注(1)。

光の物理的最小単位 光は空間を光速度で伝播する物理的実体である。空間内にある体積を占有する物理量実体である。その実体をどのように認識するかが問われていると考える。光を振動数で解釈するのであれば、光の何が振動しているかを明確に示さなければなるまい。筆者は光の実体として、振動数に変えて空間エネルギー分布の最小単位εの連続の縦波で解釈する考え方を提唱したい。

物理的最小単位 ε=hνの表現に空間的な意味は観えない。しかし波長λで表現すれば、空間寸法内のエネルギー量と観ることが出来よう。波長λに因るその光の最小エネルギー量を物理的最小単位εと解釈する。その光の最小単位が占める空間寸法をどのように解釈するかの問題は残るが、波長λに関係付けた体積と考えて良かろう。このエネルギーε[J]が波長λの空間長さ内に一塊りとしてある分布形を成す物理的実体と看做す。全く質量の無い空間エネルギーの実在体。このエネルギー感覚が物理学理論・概念には無いように思う。その認識が理解されるかの問題と思う。

波長について(2018/09/04)追記 今まで光の波長λ[m]について無意識にエネルギー分布波の繰り返しの波長として取り扱って来た。その波長は標準的な正弦波の波長とは異なる。一般には正弦波の一サイクルを1波長と定義している。正弦波の一サイクルはエネルギー波で見れば二つの繰り返し波から成り、エネルギー波の2波長分を指す。例えば正弦波50[Hz]の電圧波ではエネルギーの波100[Hz]となる。従って電磁波の周波数および波長に対して、エネルギー分布波の周波数は2倍、波長は二分の一の長さとなる。光の物理的実験の経験が無いから実際の光の波長観測の意味は分からない。この事から、振動数νと波長λについての意味もエネルギー波で全て評価して来たので、一般的な定義と異なることを指摘させて頂きたい。

光量子空間像と概念 光の正体で示した図である。(2018/09/03)追記。この光量子空間像の表現には波長とエネルギー分布波形で、波頭値の意味が分かり難い。波長との関係を次の図で示す。

波長とエネルギー分布模様 大よその波長比較として、赤、緑、青および紫外線を念頭に取上げてエネルギー分布模様を描いた。その光の先頭値である波頭値の比較を(波頭値比較)として描いた。光の波長で、その作用の強さが異なる訳は、周波数が高い程エネルギー分布の波頭値密度が高いからだと解釈する。その波形分布式を次に示す。

光の空間像 光のエネルギー分布波形を時間を止めた瞬間でのエネルギー分布波形の一つの表現式である。この波頭値Hλ[J/㎥]が波長の4乗に反比例する場合の式である。この表現式はエネルギー分布が進行方向に均等分布平面波との一つの条件での式であり、条件で変わる筈である。光のエネルギー分布の軸性(光の偏光に関係すると考える)は考慮していない波形である。

  プランク定数の物理的概念 光の最小エネルギー単位εの空間寸法λは空間を通過する時間の周期τで置き換えられる。すべての光はその最小エネルギー単位εとその空間通過時間の周期τとの積が一定であるというプランク定数の物理的意味を持っている。特別目新しい内容は無いが、プランク定数の物理的意味は光の空間エネルギー分布形態で解釈する処にあると言えよう。

 

#脚注(1)

  • 金澤:物理学が問われていること 日本物理学会講演概要集 第55巻2号2分冊310頁(2000)
  • 金澤:プランク定数の次元と実在概念 同上 56-1-2、p.310. (2001)

エネルギーから電子殻を問う

はじめに 電子殻(ダッシュボードに掲示された)という用語を初めて知った。その電子殻についてどう考えるかと問われているのかと思った。『電荷』概念の意味が分からず、30年以上にも亘って教科書の科学理論に疑問を感じてきた。むかし(1982)『静電界は磁界を伴う』という電気磁気学理論の科学常識に反する内容を電気学会全国大会で発表した。今となれば、それが技術屋の感覚的挑戦であったが,間違いなく的を獲ていたと驚くばかりだ。静電界という電場がむしろ磁場とも看做すべきエネルギーの流れであったという発見だから。たった一つのその実験結果の意味が如何なるものであるかを科学理論の根幹に照らし合わせながら考察を積み重ねてきた。物理学の根本である電子殻に因る原子像さえ否定しなければならない羽目に陥ってしまった。もう一度、先人が創り上げた科学理論ではあるが、その根幹を成す電子の概念および機能をエネルギーとの関係で、考えを整理して置かなければならないと思った。結果的に図らずも伝統的科学理論を否定するような仕儀になってしまった事誠に申し訳のないと思ってもいる。『電荷』の自然世界での実在を否定するという事がどれ程大きな社会的混乱を教育に与えるかは想像に難くないから。手元にあった 科学革命の構造 トーマス・クーン 中山 茂訳 みすず書房 (1987 第19刷) を開いて読めば、余りにも溝が深すぎると・・。電子とは『エネルギー』の一つの姿でないかと思いながら。

原子構造 原子の周りを電子が何故回転していると分かるのだろうか。最近も新しい113番目の原子の発見が話題になっていた。それ程厳密な科学研究の証拠が示されている中で、電子が原子核の周りをまわっている意味が理解できないと言ってみても意に介されないとは思うが、エネルギー感覚から述べておかなければならないと思う。

電子の責務 電子に対してどのような科学的責務が課せられているか。電子が獲得したものでなく、人間が付与した役割である。自然界が『電荷』と質量を持った電子に取り囲まれた原子核の原子構造体から成り立っていると理解されていると思う。その原子にもいろいろの特性がある。シリコン、酸素、窒素、炭素あるいはネオン等とそれぞれ際立った特徴を持っている。それらがすべて電子殻の電子によって構成されている。みんな同じ電子殻構造の話で統一されるものと思う。筆者の拙い高校生程度の知識に因る電子像を先ずまとめてみたい。

電子統一情報 ウイキペディアから拾った。とても理解できない専門的な電子像の規定であると思う。空間に占める大きさまで分かっているようだ。この9ケタ、10ケタの数値が堂々とまかり通る電子像に近寄りがたい科学理論の畏れ多さを感じる。

電子に付与された任務・責務(期待される電子像) 昔教育の審議会で期待される人間像という考え方が論議されたことがあった。電子像を的確に捉えようとしても期待される任務・責務が超人的な機能でなければならないかの如くに思われ、科学理論の世界が巨大な構造体で入り口から怖気づいてしまう。電子も観方によって哀れとさえも思える。過重労働の期待で瀕死の状態にならなければ良いがと陰ながら心配である。筆者のお粗末な電子像の認識をまとめてみた。

さて、上に挙げた電子像が普段頭に描く姿に思える。原子同士が隣り合わせれば、先ず原子の外周を取り囲んでいる電子同士が相手との情報交換の遣り取りを任され、相手原子を認識する責務が課されている。手を繋いで良いと判断するのも電子で、原子同士を繋ぐ役目も電子の仕事だ。化学結合とか共有結合とかイオン結合とか、とても判別し難いような複雑さの判断も電子自身に任されている。「オラ―そんなのやだ―」などと言って、「東京さ逃げる―」てな訳にはいかないのだ。それが電子の科学的宿命だ。何しろ過大な期待が掛けられているのだから。期待を掛けるお偉方はどこに居るのか姿も見えないが。兎に角電子は大変な重責に怯え続けているようで、何とか少しでも開放してやれないものかと思う。

4番目の任務 原子エネルギーの収支取締役という、日々雑兵の激務に追われる中で、特段のお役目を頂戴してしまった。原子に降り注ぐ『光』がある時、先ず外堀の電子にすべての的確な対応が義務付けられている。電子はどのようにその光との関係を処理すれば良いか、与えられた責務を忠実に執り行おうと考えた。決して外堀から母屋の御主人・核主(お昼寝中かもしれない)様に影響が及ばないように処理しなければならないのだ。最初に挙げた1番目の任務との関係では、足を踏み入れてはいけない禁制帯とかがあり、そこは飛び越えなければならない事になっている。現代物理学の大きな学問領域を成す量子力学では、光と電子の責務との関係がとても詳細に分かっていて、その関係が自然科学を理解する根本原理になっているようだ。しかし、その材料などの量的評価に因って科学技術が進歩したかといえば、それは理論と実際は余り関係ないようだ。光エネルギーをどのように電子が苦労をして責任を果たそうとしているかを拙い科学認識で掘り起こして考察してみたい。すべての電子はどれも同じ電子統一情報に因って細密に規定されているようだ。光エネルギーを処理するに当って、もしうまく禁制帯を飛び越えて伝導帯の位に跳躍出来たとする。その時光エネルギーをどのように、統一電子情報との関係を厳守したままで、処理出来るのかに悩んでしまった。エネルギーというものは電子の情報という質量、電荷および空間寸法には全く影響を与えないで済むものなのか。高等数学式で考える能力が無いので、日常言葉でしか解釈できずにいる。さて、もしもの仮定での話ではあるが、電子が雲のような掴みどころのない波動(その実体が何を指すかを理解できないのだが)であるとしたら、それも質量と電荷を波動の中に備えているのだろうか。その波動もやはり原子核の周りを周回運動していると考えるべきなのだろうか。そこでその波動が光を外部から受けたときは光エネルギーをどのように電子波動の中に取り込むことになるのだろうか。兎に角、陰に隠れた主の核主様に影響が及ばないようにしなければならないとなれば、電子雲の全てが総がかりで対応しなければならないように思える。連射砲のように降り注ぐ光を禁制帯を飛び越えながら処理する技は如何なる理論で可能なのかが理解し難いのだが、その理論まで電子に負わせるのは期待する電子像の範囲を超えてしまうだろうと気掛かりだ。

電子とエネルギー 電子がエネルギーを保有するという意味はどのような物理的現象で捉えるのか。電子にはいろいろな状況があるように思われる。自由電子と電子殻内の電子とでは必ず違う筈と思うが、その訳・状況がハッキリと認識されているのか、説明できるのかそこが良く理解できない。電子には速度の違う状態があると理論では唱えられているように思える。教科書によれば、導線内を流れる電子を自由電子と唱えているように思う。その自由電子でもそれぞれにはエネルギーに違いがあるのか、無いのか。その伝導帯の自由電子には速度の違いがあるのだろうか。酸素の電子が電子殻から解放されて自由電子に成る議論は無いから、原子核の束縛から解放されて自由電子に成る場合は、金属導体や半導体原子だけに当てはまる電子とエネルギーの関係なのだろう。電気回路の導線には電子が充満して流れるように解説されている。超伝導等のように、極低温のエネルギー環境の低い場合は、電子殻の電子は特別の能力を賦与されて、自由に原子核の束縛から解放される自由電子となる資格(特殊任務)がある電子なのだろうか。その自由電子のエネルギー状態はどのようなエネルギーレベルと捉えるのだろうか。原子の環境がエネルギーが高い場合が自由電子の生まれる条件かと思えば、極低温での超伝導の自由電子とはエネルギーが多いのかあるいは『無』なのか良く意味が理解できない。

原子の司令官は誰か 周期律表という科学分析の宝がある。原子の個性と特徴で分類されている。原子の特性を発揮する司令官は誰か。原子の本基は原子核が握っている筈だ。司令官という機能の物理学的基幹は如何に在るか。外堀を守る電子じゃ役不足であろう。

原子構造体と役割分担? 原子構造が原子核と電子殻から構成されているとの解釈に因る意味とその電子機能について考えてきた。殆どの教科書の解説は原子外殻の電子が担っているように説明されている。原子の質量は殆ど中心の核が占めている。一体核は原子の特性に因る外部事象との関係機能としてどんな役割を担っていると考えれば良いのか。核は分裂の時だけ意味を持つような、日頃は原子の中心に隠れた存在であるように見受けられる。電子殻の電子だけが仕事をするような原子で周期律表の顔が立つのだろうか。

電子殻電子が原子の特性を表せるか 元素にはそれぞれ異なる特性がある。その中で幾つかの原子を取上げて、原子の特性がその電子殻の電子でどのように解釈すればその電子殻を論理的に適正に評価出来るのかに思いを寄せてみた。

炭素C この原子の結合の代表例がダイヤモンドの宝石であろう。ダイヤモンドの結合空間構造は炭素原子の表面を4等分した立体角π毎に結合面を持つものであろう。決して平面結合ではない。もし電子殻で4価の電子で炭素原子を解釈するなら、その電子にはエネルギー差はなく、同一の電子殻内に存在する筈だ。そこで、その電子が隣の炭素と結合する時、電子は原子表面を周回運動していると考えるのだろうか。結合する時には運動は停止するのだろうか。電気磁気学理論によれば、クーロンの法則で同一電荷は反発することに成っている。今でも電気の教科書がクーロンの法則を基本理論に据えているなら、どのような論理性で負の電子同士が結合の責務を担い得ると解釈できるのか。しかもダイヤモンドという特別に結合の強い状態を電子が担うという科学論理は余りにも矛盾と欺瞞で構築されているとしか思えない。共有結合とは一体どんな電子の魔術結合力を利用しているのか。電子が周回運動しながらとなれば、とても電子に因る結合論に論理性があるとは見えない。科学は平易な基本に分かり易い忠実な解釈がなされなければならない筈だ。

炭素C (2) 炭素といえば、電気回路では抵抗体のカーボン被膜抵抗などがある。さて、炭素の特性で電気エネルギーの熱変換機能が日常の電気技術の基本に成っている。こんな考察は誰もしないだろう。何も得るものがなく、反発を買うだけであるから。しかし電気技術に携わった事がある者として、少し専門家としての解釈を示しておこうと思う。ここでの話は矛盾の中の教科書の解釈理論からの内容であり、『電流は流れず』という筆者の論理の視点とは異なる。事実は、電線路導体内を電子が流れている訳ではない。しかし教科書に依れば、電子が流れていることに成っているので、その電子が抵抗負荷内を通過する時どのような電子の機能で炭素原子の外殻周回電子にエネルギー的働きをすることが出来るのかという疑問を提起しようということである。炭素抵抗は負荷としては熱を発散している。触れてみれば熱いから分かる。その電気エネルギーを熱に変換する機能は炭素原子の電子殻電子のどのような与えられた責務として働いた結果の現象なのだろうか。こんな基本の基の字のような初歩的な愚問が現代科学理論に欠かせない入門の課題なのである。高度科学理論が取上げられても、足元の理論の根拠が矛盾なく説かれなければ、砂上の楼閣にも見えてしまう。

酸素原子O 酸素は生命の維持に欠かせない。呼吸の問題。 等とまた愚問を取上げれば科学には相応しくないと常識の世界では非難される。常識という科学理論がおかしいとの思いに掛けての科学論であれば止むを得なかろう。酸素が燃焼を司る元素であることは間違いない真理である。酸素を燃焼機能原子として知ることは自然科学の基礎知識として重要であろう。そのことと酸素原子の電子殻電子の科学論理との関係はまた別の基礎科学論である。自然の真理を説き明かすに欠かせない科学的思索・考察でもあろう。原子構造論の基本が電子殻の電子概念に委ねられていることだあれば、その論理性を質しておかなければならなかろう。酸素原子の外殻電子殻の電子数は6個であろう。その電子が何故燃焼の機能を発揮すると考えるのか。電荷と質量を持った電子が周回運動をしていると考えているようだ。燃焼に電子の何が機能するのだろうか。電荷か質量か運動か?電荷も質量も速度にも燃焼エネルギーを発生する機能が観えない。酸素原子の特性は熱エネルギーを放射する自然現象を司る機能である。無から熱エネルギーは生じない。何かを熱エネルギーに変換するのである。それが何であるかは分からない。原子構造そのものの解釈の問題に通じている課題であるから。

ネオン原子Ne 不活性ガスとして捉えられているようだ。外殻電子殻が8個の電子で充満され、化学反応機能が無く安定した元素と看做されているようだ。気体分子結合(Ne2)もしないとの解説がある。同時にネオンサインとして、夜の街の広告照明灯に活躍している。酸素と違って、熱でなく発光現象である。このネオン原子も8個の電子が同等のエネルギーを持って、電子殻内を周回運動していると解釈しているのだろう。どんな軌道で平衡を保ちながら運動できるのか空間的描像を描き難く、理解の域を超えてるが答える能力も無いので我慢も止むをえない。さてネオンサインの発光現象では不活性原子の電子が電気エネルギー(高電圧のエネルギー供給空間)に反応して、どのような光エネルギー放射変換機能を発揮すると解釈するのだろうか。本当のところは電子が存在して関わる現象ではないのであるが、電子殻で理論が構築される限りは、その発光現象の訳が示されなければならないと思う。ネオンサインに量子力学は場違いな話で笑われそうだが、ネオン原子の電子が高電界中を飛んでくる電気の電子と衝突し、禁制帯を飛び越えて高エネルギー電子に成り、再び原子に戻るから発光機能を発揮できのだろうか。電子殻電子の原子構造論から判断すれば、そんな特殊任務付与解釈にしか辿りつけない。内心は無理なこじ付けと思いながら。

リチュウム原子Li とても興味を覚える記事「リチュウムは躁病と欝病を治すだけでなく、それにかかりやすい人を病気から守る働きもする。さらに、リチュウムはほかのさまざまな精神病や情緒不安定、とくに鬱病に効果のあることが知られてきている。」(発見と創造 科学のすすめ W.I.B.ビヴァリッジ著/松永俊男・鞠子英雄 共訳 培風館 p.60.  昭和58年初版)を見た。最近は携帯電話の電池にも使われ、核反応の三重水素とも関係が深いとある。3価で、反応性の高い原子のようだ。電子殻の電子の機能と考えるには理解に戸惑ってしまう。原子とは不思議だ。

むすび どんなに原子とその特性を電子殻構造論から理解しようと思っても、納得できない現実に突き当たる。『電荷』あるいは電子概念に基づく電磁気現象解釈は一見理に適っているように思えても、細かく考えてみると全体としての統合性で辻褄の合わない点や矛盾が見つかる。結局『電荷』に基づく基礎的論拠は物理学理論にそぐわないとしか思えない。『エネルギー』の千変万化する自然の現象に思いを寄せれば、『電子』もその一つの姿に思える。

半導体とバンド理論を尋ねて

追記(2018/05/16) 反省を込めて追記。既に前に同じような記事を投稿していた。半導体とバンド理論の解剖 (2014/01/25) である。さらに太陽電池の解剖 (2014/02/06)にも有る。辿れば、その前年のトランジスタの熱勘定 (2013/01/30)から始まっていたようだ。そこで、電気エネルギーと熱エネルギーが同じものであると考えていたようだ。現在は、『電荷』概念では自然現象の本質を理解することは無理であるとの認識にある。このトランジスタの熱勘定で論じた意味が極めて大切なことを示唆していたと思う。荒っぽくて、反感を買うようの記事が多くて誠にお恥ずかしい。2013年には「量子力学」とは何か?電子科学論の無責任など。

半導体の電子とは? 電力技術における電子の意味を尋ねて30年以上過ぎた。結論は『電荷』も自然界には実在しないと確信するに至った。それならば当然電子も『電荷』などとは関係ないことになる。電気回路の金属導体中を電子が通り、電流になると解釈されている。ただし、筆者は電流は流れず等と言ってきた。だから以下の記事も科学論として認知されるようなものではないかも知れないが、市民や電気の初学者が疑問に思うことに対する『問答』としての価値は十分にあるものと思う。言わば統合的な理屈の自然科学論として見て欲しい。専門的な領域を超えた論理として。さて、現代物理学理論の根幹を成すものに量子力学がある。その代表的な適用が半導体である。半導体の電子のエネルギーレベルとその動作領域の抽象的認識概念が理論構築の原点になっているように思う。フェルミ準位がその要のエネルギー基準値として存在することになっているように思える。そのフェルミ準位は半導体の物性特性に因って、そのエネルギーレベル(電子のエネルギー量)が何ジュール[J]、あるいは何[eV]と決まった値があるのだろうか。

エネルギーバンドとフェルミ準位 電気工学、電気物理と同じ電気エネルギーを取り扱うのに、その専門分野ごとに理論的解釈法や概念がまったく異なる。ただ、原子構造については原子核とその周りを回る電子から構成されているという解釈は自然科学論の基本原則として世界の共通認識になっている。原子構造が科学論の原点にある。『電荷』否定はその科学論から除外されてしまう。永年電力技術で感覚的に身に付けたエネルギーの実在性が染み付いた論理構成の習慣が『電荷』概念の曖昧性に拒否感を抱くようになってしまった。電気物理での半導体の電気現象解釈理論はバンド理論で、正しく原子構造論の電子のエネルギー論を論じているように思う。それは『電荷』概念に基づいて理論構築されている。半導体結晶は基本的にダイヤモンド結合の構造と解釈されている。電子による共有結合が基本になっているように思う。原子核の周りをどのような速度で電子が周回運動をしているかは分からないが、それぞれの電子が回転し互いの隣り合う原子同士の間では、核の周りは複雑な電子回転に伴う『負電荷』の空間場になっているように思われる。単純な電気理論から考えると、負の『電荷』の空間場で、隣り合う原子同士の間でダイヤモンド結晶になる訳が理解できないのだ。電子が回転しながら隣の原子同士が結合する姿が現実世界の空間概念で描けないから理解できない始末にいる。そんな理解能力の無い者が現代物理学理論のバンド理論の意味を考えるなど誠に恥ずかしい極みではある。しかし、初めてバンド理論を学ぶ若い方々も同じような疑問を抱くのではないかと思うので、少し考えを述べてみたい。電気材料を導体、半導体および絶縁体と三つに分けてバンド理論の基礎が説かれる。全てに価電子帯と伝導帯がある。半導体と絶縁体にはその帯の間に禁制帯と言うバンドギャップが存在する。それらのバンドの『帯』と言う幅で表現される意味は電子の持つエネルギーの量の大きさに関係したように見受けられる。電子が回転運動していることに因る運動エネルギーの量の大きさを意味しているのかと思う。電子には質量があるから、その御蔭で運動エネルギーの解釈だ可能である。水素原子は原子構造が単純だから、電子のエネルギー量は基礎物理学では良く算定されて議論されているが、シリコン原子の電子になれば、その運動エネルギーは算定は可能なのだろうか。どの程度の回転速度になるのだろうか。その算定が出来て初めて、新しい半導体の技術開発にバンド理論の意義が生きて来る訳と考える。決して理論が理論の為の理論であってはならない筈だ。『電荷』の実在性はその理論構成に具体的に生かされてこそと思う。リン(P)やヒ素(As)の不純物が添加されると実際の電子のエネルギー量はどの程度のジュール[J]になるのだろうか。

太陽光発電理論と電子 量子力学の理論として大まかに理解している事は、原子や分子にエネルギーを与えると、原子の外殻周回電子がそのエネルギーを受け取って、電子の質量の運動エネルギーの増加を来たし、遠心力と釣り合う様な電子軌道の膨らみを来たすと理解している。光などのエネルギーが電子の運動エネルギーとして吸収される訳をどのように理解すれば良いかも分からないので困惑している。更に何らかの原因で逆に電子の軌道が下のレベルに落ちると光としてエネルギー放射を来たすらしい。勝手な解釈と言われれば、致し方ないが電子の運動エネルギーと光との変換過程が理解できない。量子力学の基本理論を理解している訳ではないが、太陽光発電での半導体は太陽の光を吸収して、電気エネルギーに変換する発電機能設備である。発電パネル内で、電子が光エネルギーを吸収してエネルギーの高い状態で伝導帯に入る。その伝導帯では電子が自由電子となり、原子の束縛から解放されると解釈して良いのだろうと思う。伝導帯の電子はどの程度のエネルギー増加になっているのかを知りたい。発電パネルから次は電気回路を通して負荷に電子はエネルギーを運ぶのかと理論のつながりを考えるのだが、電気回路内の電子による電流概念となると、どうも電子はエネルギーを担う役割は想定されないことになっているようだ。一体半導体内で光エネルギーを受け取ったかと理解するが、回路理論になるとそのエネルギーを担う電子と言う概念は無いようであるため、どこか論理的な繋がりが無いようで理解に苦しんでしまう。もう一度述べる。量子力学における半導体のバンド理論では原子の周回電子のエネルギーの増減を論理構成の基本に据えている。伝導帯の電子は増分エネルギーを電子質量の運動エネルギーとして余分に担ってエネルギー供給機能を果たす役割が期待されているようだ。そこでの電子は速度の増加としての特別の電子になるのであろうか。次に半導体理論によって理論付された電子に関係して、その太陽発電パネルをエネルギー源として捉える電気回路理論では、折角のバンド理論で担ったエネルギーの増加分を電流の根拠である電子には求めていないのである。当然のことであるが、電気回路論では電子に質量に関わる概念は意味を持たないから、電子における『電荷』と電界との間の電気磁気学理論に基づく論理しか考察対象には成らない。だから原子構造論における電子エネルギーに関する運動エネルギーは全く無意味に成る。総合的に全体を見渡した時、半導体パネルで受け取った太陽光エネルギーは電気回路のエネルギー伝送にどのような機能で関わり、負荷に太陽光エネルギーを供給することになると考えるのだろうか。『エネルギー』を基本に考えると、太陽光線も電気回路を伝送する電気エネルギーも負荷に供給されるものも、みんな同じ『エネルギー』でしかないのである。電子の『電荷』は理論的に『エネルギー』を持ち得ないのである。

過去の関連・関係記事 今迄に取上げた考察記事は半導体、電荷およびエネルギー論については次のようなものがある。

「金原の物理」を繙いてみて

手元に大好きな本が残っている。筆者が高校生の頃、物理の受験参考書として一世を風靡した本である。今でもその内容は、重厚で考える理想的なものに思える。
物理の研究 (上巻) 262頁 旺文社 昭和31年3月1日 重版 定価200円。『金原(キンバラ)の物理』と言って大学受験の有名な参考書であった。時代の雰囲気がある。

今、電気工学の回路理論を電気物理と言う視点から考えた見たとき、物理学理論の教育的に取り扱う教科書の内容が何か不都合な状況にあると思えてならない。現代物理学理論が本当に自然界を理解するに有用な未来への指針を示していると言えるかに大きな疑問を抱かざるを得ない。『非力学的エネルギー』と言う視点で『エネルギー』の意味を考えている。どこか物理学では『エネルギー』の意味が間違って捉えられて、そして教育されているとしか考えられない。

金原の物理の緒言  はじめに緒言として述べられていることが、今読んでも古典的名著としてのその風格の高さに敬服させられる。相当長い文章(42字× 60行)であり、その内容には深い哲学的な意味合いが込められていると思う。そこには

『われわれには自然界に向かってかくあるべきだと命令する権利は少しもないのである。このようにして得られた法則を基礎としてこれを一つの体系に組み立て、学問としたものが自然科学である。』とある。その最後の文章に

『こうして根本を掴み理法を整え、整然とした完全無欠な体系を作り上げることが物理学の目的であって、この体系が出来上がれば今度はこれを基にして新しい現象を説明することも出来るし、応用して種々の発明をすることも出来るのである。 しかしこれはどこまでも目的であって、現在の物理が、この域に到達しているわけではない。今までの物理学者達が練りに練って作り上げた体系もまだまだ不完全なものであって、この体系では到底説明の出来ないような新事実が次から次へと発見されている。矛盾するような新事実が発見されたときにはその都度体系に修繕を加えて、これをも包含するように作り変えてきた。しかし変えても変えても、矛盾の種が尽きることがない。恐らくは、体系の作り変えというこの努力は永久に絶えることはないであろう。これが生きた物理学の姿であり、そしてその物理学を生かして行くのがわれわれに課せられた任務である。』と締めくくられている。

この緒言には、自然に対してとても敬虔な姿勢で向き合っている気持ちが表れている。それに対して現在の物理学教育の姿勢が、何か全てが分かってしまって現在の理論をそのまま学習すれば良いと言わんばかりの硬直性に縛られているようで、危険にさえ思える。

研究的態度の養成 寺田寅彦』 が検索に出る。そこにも上の『金原の物理』の緒言の心掛けに似た思いが綴られている。

光の正体

光とは何か? 光ほど日常に関わる物理量は無かろう。しかしその正体は何かと問わずにいられない程理解困難なものも無いかも知れない。検索で、光とは何かと尋ねると多くの記事がある。光を見ているのに、その正体を見ることはできないからであろう。光は眼の前の空間に満ち溢れている。しかし光は直進するから、眼に入る光は眼と対象の各点とを結ぶ直線の一筋の光路の光のみである。対象の各点からは四方へ光が放射されている。しかし各点からの一筋の光のみを受け入れるから、景色の全風景を見る事が出来る。光の基本の特性は直進性である。ただし光の進行を妨げる様な障害物が無い限りにおいて。衝立の端に掛れば光の分布エネルギーに作用して、光の直進性が影響を受け回折する。

光の空間概念 簡略な表現で表せば、エネルギーの衝撃波と看做せる。雷の衝撃波が指数関数形状として捉えられている。自然は基本的に単純な統一性で捉えられよう。雷は空間の貯蔵エネルギーの爆発現象と観る。光の放射もエネルギーの放射現象に因る。初めに光の基本概念を提示し、以下で論じたい。

光の基本的特徴 1.粒子性と波動性 2.光の色調の意味 3.光の振動数と空間像 4.偏光性 5. 空間定数と相対光速度 の五つを話題にしたい。

  1. 粒子性と波動性 光の特徴はその正体を確認するに、粒子としての性質と波としての性質の二つが現れる。しかし、それはどこかで解釈の仕方あるいは観測の手法に因る観方に表面的な捉え方で満足しているからと思わなければならない。二つの異なる性質で解釈しなければならないのは、解釈する側の考え方に不十分な点があるからであろう。同じ光を粒子か波動かで観方を変えなければならないのは、その観方の解釈の根本に深い考察の不十分な点があるからではなかろうか。即ち粒子性とか波動性とかの一方の特性で捉える観方に解釈上の混乱があるのではなかろうか。光は常に両方の特性を持っているとしたらどのような物と考えるべきかの問題ではなかろうか。粒子とは質量の特徴的な運動エネルギーを持つ性質が見られるからとなろうか。波動とは電磁波の横波と看做す解釈に似た特徴的な現象・作用を持っているからであろう。電磁現象の波動を物理学では縦波としては見ないようだ。その粒子性と波動性の両方の特性を兼ね備えた光とはどのような物理量か、どのような観方が出来るかと考えることが必要ではなかろうか。以上がこの問題点であろう。
  2. 光の色調の意味 光は周波数でその特性を比較する解釈法が常識であろう。光に本来色がある訳ではないが、風景や物には異なった色があるように観察される。それは観測する主体と観測される対象との間の世界の仕組みに因るからだと簡単には考えて置いて良かろう。光には基本的に決まった色など無いと考えるべきだ。一つの光もそのまま変わらない訳でなく、どのようにも変化するのである。光はその周波数が変化する本性を備えている。光の周波数は放射源とその環境条件で変化するのだ。光と対象との相互干渉で周波数は決まる。一つの具体例を挙げておこう。白熱電球を考えてみよう。タングステンフィラメントで50,60ヘルツの商用電気から可視光線の光の周波数領域に変換をして利用しているではありませんか。これがこの問題点である。
  3. 光の振動数と空間像 プランクの定数が光の物理的評価・解釈に欠かせない。それは光の振動数・周波数によって評価する手法の基本になっている。先ずプランクの定数の意味をどのように理解するかであろう。その次元がエネルギー量と時間の積であると言う意味をどのような物理概念として捉えるかではなかろうか。h[Js]である。このエネルギー量のジュール[J]とは何を指すと考えるか。更に時間[s]はどんな時間を含意していると考えるか。そのエネルギーと時間の積が定数であるとはどんな意味と解釈するか。その辺が重要な物理的意味合いを知る手掛かりとなろう。
  4. 偏光性 光を薄膜に通すと入射光と透過光の間に特徴的な変化が見られる。場合によっては入射光が透過できない光遮断現象も起こる。それらの現象は偏光と言われる。何故光に偏光が起こるかは光の正体を解釈する大事な性質と看做せよう。光の空間像の捉え方に影響する意味と看做す。
  5. 空間定数と相対光速度 光の伝播特性の認識の問題がある。光が伝播するのは空間である。光の速度は世界の最高速度で、光速度一定で理解している。その光速度一定とはどの空間に対して定義するのかが明確でなければならない。その光が一定で伝播する空間が規定・定義されれば、その空間に対して運動する光の観測者にとっては、必ず光との間に相対性が存在する。『特殊相対性理論』はその光と観測者の間の相対性を否定する理論である。その問題の考察が必要であろう。光速度一定であるが故に相対光速度に成る。

光の正体 上に挙げた五つの観点から光の正体を解剖しよう。見ているが見えない物の代表が光のエネルギーである。ものの姿容は光を通して認識出来る。世界を理解する事は必ずその世界の中からエネルギーを取り込むことで初めて可能になる。青空に一つの白い雲が浮かんでいる。白い雲から光が放射されている。その光は雲の各点から無限の光エネルギーが放射されている。その内の各点からの一筋の光路のエネルギーの波の総体像が眼に入る。その眼への入射光のエネルギーを取り込むから雲の姿容が認識出来る。電気回路に電圧計を繋いでその電圧値を知る事は電気回路から電圧計に線路のエネルギーの一部を取り込む事によってはじめて電圧を計る事が出来る。見る雲の色が白いと分かるのは、その色を白い色と学習して色彩の評価の常識に従って理解しているからでしかない。それは何も考える必要の無い、自然と人の感覚に因る世界認識の「生命の機能」である。光を自然科学的解釈で捉えるかあるいは日常生活感覚で捉えるかで観方も変わって来るのではなかろうか。自然科学論的理解が優れていると一概に言えるかどうかも分からない。それでもその訳を知りたいと思えば、それは無理だと青空に笑われる。青と白から一先ず青空と白い雲に退散する(青空の色は太陽光線の紫外線、γ線など遠紫外線が原因と観る)。さて、光とは何かと尋ねても余りにも日常的な生活そのものにまつわるものであるから捉えようがない。光の正体を突き止めようとすれば、光の呈する色の違いの訳は何かと考える事から始めるしかないのかも知れない。光はすべて太陽が有っての事から始まる。発電で電気エネルギーを得るにも太陽のエネルギーが地球に蓄えられたから使えるのだ。石油資源や核燃料としてすべて太陽によって育てられた地球の辿り尋ねるも困難な古い昔の生命・動植物が元に成っている。光が世界の全ての基であると言う意味で。光の基本的特徴を五つの観点からまとめようと思うが、過去の記事の整理とかねて追記として順次論じたい(2018/01/26 公開)。

粒子性と波動性 光の基本認識で、粒子性と波動性と言う二つの観方でなく、一つの捉え方でなければならない。満足する光の基本特性は空間エネルギー密度分布波の縦波以外なかろう。しかし、物理学理論に「空間エネルギー」と言う物理量や概念があるかと言う誠に困った問題がある。考えてみると粒子と言うが、粒子性と言う意味はどのような光の性質を捉えた用語なのかわ分からない。コンプトン散乱現象がその論拠には挙がっている。誠に特殊な物理学実験室での特殊性に注目した実験結果をその論拠にしているように思える。デジタルカメラの撮像理論に応用されていると解説がある。カメラ技術はそんな理論などには無関係に技術開発されている筈だ。光電子が飛び出して云々と言う解釈も、それはそれで一つの理論と言えば理論に成るが、光電子がどのような物かは誰も証明も観察できない。光電子の質量と電荷がどのような物理量として認識するかは意味不明で、曖昧な筈である。光電子などでなくて、エネルギー即ち空間エネルギーであっても何ら困らない筈だ。光電子でなくて光エネルギーの散乱現象で少しも困らない筈だ。光が当たって光が放射される現象でしかない筈だ。この世界に電荷は無くてもエネルギーは実在する。太陽光線はエネルギーである。そこに電荷など必要が無い。光が空間エネルギーの縦波の波動であることは間違いないが、粒子である必要は全く無いのだ。この光の話に『電荷』概念を持ち込む事は論点を曖昧にするから止そう。しかし、空間エネルギーの存在を認識しないでは話が進まない。質量に無関係なエネルギー即ち空間エネルギーを物理学では認識しているかと言う根本的問題がある。

光の色調の意味 色の鮮やかさは動物・植物に際立っているように思う。雉、孔雀の羽根や玉虫、黄金虫更に揚羽蝶などに見る色合いはとても微妙な光を放っているようだ。日本の伝統工芸で、玉虫の厨子や螺鈿細工がある。玉虫の羽は厨子の細工模様に使われてもその輝きを失うことなく不思議な輝きを保っている。夜光貝や阿古屋貝の微妙な輝きは螺鈿細工にそのまま残っている。薄暗い中でも微かな光で輝くのだ。その輝く光はどんな波形の光の合成から作り出されるのだろうか。すべてその輝く対象からの放射光が奏でる色合いである。光の波長範囲でも可視光線は1000分の0.38mmから0.76mmの範囲である。1万分の数ミリと言う長さの光の空間寸法で光を捉える。その空間寸法と言う概念は空間エネルギーの寸法と言う解釈から来るものである。1万分の4ミリの波長の光は紫色であろう。1万分の7ミリの波長の光は赤色を呈するだろう。その光の長さと言う空間寸法は振動数と言う概念だけでは捉え切らない筈だ。光がエネルギーの空間分布波と言う捉え方をしなければならない。その一波長分でも光はエネルギーの塊である。その光に質量は必要がない。さて光の呈する色合いは、上の螺鈿細工に見る姿がどのような訳で演色されるかの解釈に負う事が出来よう。それは単純な波長では捉え切れないものであろう。複雑な波形が周期性を持って繰り返されることで創りだされているのだろう。合成波形の演色効果とでも言えよう。それは観測対象の物質の分子構造に因る空間格子模様が、その空間構造内でのエネルギー共振を生じ、そのエネルギー放射現象として造り出される光の合成波と言う感じがする。エネルギーの共振現象は電子レンジマグネトロンの空洞共振現象に似たものと言えよう。光エネルギーの共振空間をColor Cell と呼ぶ。過去の記事色の世界を尋ねてを整理せずに挙げたい。いつか書き換えたいが。

光の振動数と空間像 先ず光の振動数と言う用語の概念をどのように認識するかの問題があろう。何が振動すると言う意味なのか?エネルギーの縦波と捉えれば何も振動する実体は無い筈だ。光の特徴を振動数で捉える考え方が科学常識である。紫外線などのように、光の振動数が高くなれば作用力が強まる。その訳をどのように理解しているのだろうか。振動数が高いとは光のどのような働きとして作用すると考えるか。何か実体が分からないが、質量的な物が振動して対象物体に強く働くような想定で解釈しているように思える。しかも実験的には計測可能な振動数しか評価法がないから、光の振動数と言う概念が科学的論証には欠かせない訳である。そこにプランクの定数が光の量子性を表現するに極めて有効な概念を提示している訳である。その定数h[Js]と振動数ν[1/s]の積と言う極めて簡便な表現式 hν[J] が光の作用性の強いか弱いかを判断する実験的証明を果たしているからなのだろう。この式の意味をどのように解釈するか。振動数が何故光の作用性に効くのか。振動数νの逆数1/ν[s]は光の一波の波長分の時間である。光が対象に作用する時間t[s]はその作用性に対してどのような意味で捉えれば良いのか。時間の長さは作用性に影響するのか。長い時間光を照射してもその作用性には影響がないはずだ。エネルギーの照射量ではないと言うのが基本的特性であろう。おそらく光の一波長の分でも作用力が発揮される場合もあろう。振動数で評価する光の特性は1秒間の振動回数が意味を持っている訳ではなく、光の一波長分のエネルギー空間密度分布波形がその作用性の鍵を握っている。光量子とプランク定数の意味を図に表すと次のようになろう。

光量子空間像と概念(プランク定数の物理的意味) 光の作用性を振動数(1秒間に何個の光量子列の放射をするかの意味を振動数と言う用語で表現している)で評価する意味を図に示した。光量子1つが空間エネルギーの塊である。それが光量子のエネルギーε[J]である。その波長λ[m]の長さの空間に衝撃性のエネルギー密度分布を持っている。プランク定数h[Js]がどんな光に対しても定数の意味を持つと言う事は光量子一つのエネルギーεとその周期τ[s]の積が一定であると言う意味である。図の振動数が高い光量子ε2が空間領域の狭い範囲で高エネルギー密度の粒子性を持っていると言うことである。丁度弾丸のように破壊力・作用性が高いと解釈する。しかしこの解釈を実験的に証明する事は難しかろう。科学論と言うより哲学的と非難されるかもしれない。この光量子のエネルギーεの算出法は大よその意味を光とは何か?ー光量子像ー に示した。エネルギー波の波頭値H[J/m^3^]がその光量子の作用性に影響する。

偏光性 この偏光性も光の空間エネルギー分布波形に関係している。偏光板が伸展される薄膜の方向性に関係しているようでもある。光が透過する薄膜の分子の格子構造と光エネルギーの極性の関係が直交するか平行かで左右されるのではないかと思う。後日図で示したい。

空間定数と相対光速度 現代物理学が抱えた重い課題がある。『光速度一定』と言う意味は明確であるか?光速度と言うが、それはどのような伝播空間座標に対して定義したものであるか。光の観測者と光の伝播速度を定義する空間との間には常に相対関係が存在する。観測者が光の伝播空間と定義する空間座標に対して運動していない場合以外は、光の観測は必ず相対関係にある。その立場はレーマーの光速度算定実験の解釈を正しいとして理解する立場である。アインシュタインの『特殊相対性理論』の立場に立つか、レーマーの立場に立つかのどちらかで、光の光速度一定と言う認識がまるで違ってくる。まず、光の伝播する空間の媒体特性が光の速度を決めると観て良かろう。真空、水中、空気中あるいはガラスとその伝播媒体の特性で光の速度は決まる。電気回路でも同軸ケーブルなどではその充填される絶縁体で電気エネルギーの伝播速度は殆ど決まろう。さらに光でもその周波数で光速度一定ではない。プリズムの原理はそのガラスの特性が光の周波数に対して異なる事が基になっている。光速度が周波数で異なるのだ。地球の表面での光伝播特性は地表や上空の電離層の影響を受けやすいだろう。それでもある基準の周波数を決めて、その伝播速度・光速度を光の速度を定義できる基準空間でどうであるかを論議する事は出来よう。地球の運動と光の光速度の関係をマイケルソン・モリーの着眼点に立って論議する必要がある。『光速度一定』と言う意味は、その定義する空間が明確でなければ論議できない筈だ。光は放射源から放射された場合に、その放射源の運動の影響を受けると考えるか否かも明確にしておかなければならない。放射源の運動速度の影響は全く受けない事を前提にしなければ、議論は不可能だ。『光速度一定』と『光速度不変』の意味から明確にしなければならない。光の速度は一般的には変化するものと解釈しなければならない。決して速度不変ではない。それは光速度一定と言う事にも同じことである。伝播媒体の空間定数に従って光は伝播する掟にある。厳密に論議するには真空空間しか論議する場は無い。(a)『光速度一定』、『光速度不変』の定義空間。(b)光のドップラー効果。(c)光の伝達時間。(d)空間・時間概念。に分けて考えてみようか。

(a)『光速度一定』、『光速度不変』の定義空間 一般に速度と言えば必ずその基準が明確である。100m競争の記録が9秒幾らと注目される。その時は地球がどの方向に回転していようが全く無関係に競技のトラックが基準である。しかし光の速度と言えば、そう簡単には行かない。どのような空間基準に対して光速度が秒速30万キロメートルと言うかが明確でなければならない。光の速度はその伝播空間の掟に従う筈だ。すべての物には速度が幾らと言う意味が付いている。地球は太陽に対して相対的な回転速度を持っている。星空の観測をする時、そこには少なくとも3つの速度が関係している。観測対象の星の速度、光の速度そして観測者の速度である。『光速度一定』と定義基準空間 星空を見上げれば、有名な星座はその形に時が経っても変わりは無いようだ。億年単位でも変わりないとは信じられないのだが。図に描いた星からの光を観測する。今観測する光はどのような空間を辿って来たのかその一筋の光路が描く筋道を認識できるかの問題がある。見ている星は既にその位置には無い筈だ。光が直進すると言う意味をどう解釈するか。その光の辿った一筋の直線を描く空間が実在する。その空間は光がどのような方向に伝播しようと直線が描かれる。そのように定義する空間が存在すると考えるかどうかの問題であろう。その空間に対して、星やその観測者は速度を持つ。その空間ベクトルをVsVe とした。その速度を定義する空間の存在を認識するかどうかに掛ってこよう。その空間が認識出来れば、その空間こそ光の伝播する定義基準空間となる。星から放射されて観測者に届くまでの時間の長さは、その定義空間で過去の星の位置と今観測している観測点間の直線距離の長さを光速度で除した長さの時間となる。この空間と時間の関係には空間歪みも無ければ、時間の短縮も無い。空間に対する光の速度が極めて高速であると言うだけのことで、普通の運動力学のままで『特殊相対性』など全く無いのである。ただ問題は観測者自身が如何なる速度であるかを知り得ないというジレンマにある。我々は太陽に対しての相対的回転、自転の運動速度である。しかし太陽の速度が光規定空間に対して如何なるかを知り得ないから結局自分の速度を明確には知り得ない。更にもう一つ指摘して置かなければならない事がある。それは観測する光の周波数・波長は一般的に変化する事である。観測者が定義基準空間に対して速度を持って居れば、必ず光の速度との間で相対速度の観測になるからである。(b)光のドップラー効果および(c) (d)については過去の記事 光の速度と空間特性 (2011/05/22)で例題も挙げて述べてあるので、ここで一先ず区切りとする。