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結合エネルギー:不思議の砦

結合エネルギーの世界
最近高等学校の化学の授業内容で結合エネルギーがあることを知った。ヘスの法則も1840年頃の発表であったらしい。しかし1954年に受けた授業の化学には無かった内容のように思うが、勉強しなかった為に知らなかっただけなのかも。筆者の知らない世界の化学であった。時代遅れを恥じる。結合エネルギーと言う用語は、高等学校での電気工学の教科「発変電」を教える時に、原子核分裂の物理現象の解釈理論として学習書を通して初めて学んだ。原子理論の質量ーエネルギー等価則として理解して来た。その原子理論の結合エネルギーを今考え直してみると、混乱してしまうほど理解できていない自分に戸惑う。筆者も高校1年生で化学の授業を受けた。原子結合の共有結合がクーロンの法則の原則に従わずに手を繋ぐ意味が分からず、化学への学習閉塞を来たしてしまった過去が在る。そんな過去を今まで引き摺って来たのかと思うほど、高等学校の理科の科目、化学の結合エネルギーと原子核理論のそれとは真逆の意味ではないかとさえ錯覚するほど混乱をしている。原子の鉄を境にして変わると原子論では唱えられる。そこで、結合エネルギーの物理的意味は『エネルギー』の空間実在量として解釈する時、どのようなものと捉えれば良いか疑問に突き当たる。高校生が学習できるのに筆者には理解できない現在の化学の結合エネルギーのように思う。結論への話がマグネットの結合模様につながればと儚い期待を持って。結合エネルギーの空間像をどのように描き得るかと。

高等学校の理科「化学」での結合エネルギー その結合エネルギーの意味は原子結合での外殻電子の共有結合の結合エネルギーとして解釈しているようだ。その時の電子の結合に果たすエネルギーをどのような物理的意味で捉えているかと解説を読んで確認しても、極めて漠然とした曖昧な意味にしか見えない。共有結合とは、どのように『負の電荷と質量を統合して空間を支配する実在物の電子―これが専門家の素粒子論で曖昧な実在性のままだ―』と言う素粒子が互いに他を共有し合うという結合の理屈が見えない。何故電子同士が結合の力を生みだし得るのか。その共有結合という役割を担う科学論の論理性に基づくエネルギーがどのようなものと捉えているか?その電子同士の結合に関わるエネルギー概念の論理的な解釈・意味合いが全く見えない。それは考える科学と言うより、科学常識を覚える理科教科にしか見えない。生徒も疑問に思っても、授業を邪魔してはいけないから、何故かとは質問もし難かろう。筆者もこの度初めて化学結合の結合エネルギーと言う解説が在ることを知った。検索から学習させて頂いた。しかし残念ながら、筆者の能力では化学での結合エネルギーの意味が理解できない能力不足の壁に突き当たったまま前進できない。その疑問が結合エネルギーの専門家の解説を読んでも、高い砦となって立入れない始末だ。その疑問を恥ずかしながら、ここに記したい。

結合エネルギー 結合エネルギーの意味が理解出来ずに、その疑問の対象に水素、酸素および水について検索から拾った関係式を挙げた。先ず、(1)、(2)式について考える。(1)式は2個の水素原子が結合して水素分子になると、432kJのエネルギーが放射されるという意味なのか?水素原子が分子でなくても普通に存在するという意味か。その原子が2個結合すると放射するエネルギーと水素分子で式の等号がエネルギーの等価の意味で成り立つという意味で捉えたくなる。当然質量がエネルギーとして等価換算された意味での等価性として。その上で、2個の水素原子が結合すると、その水素分子は質量が減少して、結合のエネルギーに費やされてしまうそのエネルギーが432kJの結合エネルギーだという意味か?総体として質量のエネルギー変換量と質量の総和はエネルギーとして同じ意味でなければならないと考える。式の等号の持つ意味に照らして、その+432kJの意味が理解できない。(2)式の酸素の関係についても同じく理解できない。(3)、(4)式の水の生成について286[kJ]と言う生成エネルギーが在ることも初めて知った。この式の意味するところは燃料電池との関係でとても興味を持つ。286[kJ]のエネルギー量は化学の標準気圧で温度273[K]での評価量であろう。燃料電池は水素ボンベの高圧ガスが使われるから水素の保有エネルギーは高いものである。そのような実際の技術との関係で解説が欲しい。その時本当の意味で、286[kJ]の意味が分かる筈だ。燃料電池は電気エネルギーの供給源で、電子で解説されるが、この286[kJ]を電子が負荷に運ぶのだろうか。そんな意味が理科の化学に解説して頂かなければ、「理科基礎」への統一は困難だと思うから。

燃焼 前にお恥ずかしいながら、焚火の科学などを書いた。それも今年(2018/05/26)の記事だ。結局この式を知らなかっただけのことであった。炭素と酸素の結合エネルギーと言うことで、高校生の化学の教科書の内容である。そこで考える。焚火の科学にも有る、何が等価であるか である。上の394[kJ]のエネルギーが結合エネルギーと言う意味なんだろう。炭素と酸素が化学的に結合して、炭酸ガスになる。ここで解説によれば、炭酸ガス1[mol]を分解するには394[kJ]のエネルギーを加えないと、構成要素の炭素と酸素に解離することが出来ないとある。その意味を咀嚼すれば、394[kJ]はCO2の分子の中に結合力として内在しているエネルギーと言う訳ではないようだ。それなら結合エネルギーと言う表現の用語の意味とは異なるように思う。分子CO2内に結合の働きとしての役割を持っているなら、その中に在るエネルギーの筈である。従って外部から394[kJ]のエネルギーを加えて要素に分解するという意味とは異なると思う。新しい大学入試試験問題の内容も記憶だけでなく思考力を重視すると考えられているようだ。この結合エネルギーと言う意味を取上げても、そのエネルギーと言う意味を教育する側が具体的にどのようなものと納得できているのだろうか。何かただ教育手法として過去を引きずっているだけではないか。やっと燃焼の意味が分かったかと安心したのだが、良く考えると能力不足から高校生が学習する内容さえ理解できないで混乱している自分の無様を恥じる。疑問が増えるだけで、理解に至らない。炭素C、燃料の薪を燃やす時の化学的燃焼現象を日常生活の中で理解することが自然科学の理科の教育内容として求められることであろう。炭素と酸素を反応させるには条件が在る筈だ。炭素の1モルは炭素分子(ガス)と言う捉え方はしないようだ。炭素がガス化しないと燃焼条件を満たさないだろう。炭素と高温水蒸気との関係での結合もあるようだ。394kJのエネルギーがどのような意味を持ったものなのかが明確でなければならない。燃焼の発熱エネルギーは結合エネルギーとは関係ないものなのか?炭素と酸素の化学的結合で発生する熱エネルギーが幾らか、またその燃焼環境条件が何かが日常生活に関係した自然科学論として教育すべき内容になると思う。山に柴刈りに行って、薪を蓄え生活の竈を守る営みの中で燃料・炭素の酸化現象は飛び抜けた燃焼の意味になろう。単に結合エネルギーで説明が付くとは思えない。そこには原子構造で硬い粒子の原子構成要素と言う捉え方でない、エネルギー粒子が見えるからの解釈である。当然「電荷」は実在しない事になる。同様に水素燃料電池の発電エネルギーと結合エネルギーの286kJとの関係も明らかにされなければならないと思う。

原子核分裂理論の結合エネルギー 

科学技術の拠り所が原子論である。エレクトロニクスは現代社会の情報革命を成した。エレクトロンはその根源概念の電子である。原子構造論がなければ電子もなかった。原子構成の基は陽子、中性子そして電子となっている。人の意識には『電荷』が在って初めて科学を論じられる。自然の世界は『電荷』の支配と人は意識する。その中でその『電荷』を否定する観点から原子構造に疑問を掛ける。原子核分裂元素で発電技術に利用されるのは殆どウラン235である。核分裂における結合エネルギーは化学結合の結合エネルギーとは意味合いが異なる。原子核内の陽子と中性子が結合することによるその原子の質量欠損分を結合エネルギーと評価しているようだ。基の陽子と中性子の質量の総和よりウラン原子の質量が減少していることを質量欠損として捉え、その質量減少分のエネルギー換算値を結合エネルギーと呼んでいる。そのウラン原子核が核分裂すると、エネルギーが放射されるとの論理が核分裂現象の理論となっている。おかしくは無いか?核分裂の前後で少ない質量から分裂後に質量が増える結果になる。ウラン原子が中性子と陽子の質量の総和より増加していれば、分裂によって質量がエネルギーに変換したと理屈が成り立つ。核分裂して分裂後の質量が増えていれば、核分裂で質量がエネルギーに変換されたとは成らない筈だ。原子核理論の結合エネルギーの意味は、核分裂によるエネルギー放射の理屈が成り立たないではないか。確かに分裂後に陽子と中性子になる訳ではないが、分裂後の分裂原子の全ての質量を算定するなど不可能である。検証はできないが、質量が欠損したウランのどこに質量がエネルギーに変換される論拠が在るのだろうか。実際に原子核分裂でエネルギーを利用している。結合エネルギーの意味にはエネルギーを生み出す原理が見えない。もう一つ理解できない原子核分裂理論が在る。ウラン235はウラン鉱石に0.7%しか存在しない。ウラン238は99%も含まれているが、それは核分裂燃料には成らないようだが、その訳は何故か?自然界の存在限界に近い質量のウランでありながら、何故238は分裂しないのか。その理由が明確でなければ原子核理論が論理的とは言えない。人の科学理論の理解し得ない砦の魔境が在るようにも思える。

マグネット結合 

マグネットは天からの贈り物だ。眺めても何も見えないのに、周りに不思議な力を作り出す。魔法の力だ。物理学でも、磁束を作り出す『磁荷』は世界に存在しない事になっている。電束の基は電荷となっているから、磁荷がなければ磁束も無い筈だ。とは言っても電荷が実在しないにも拘らず電束があると解釈されている電磁界理論であるから、磁束を責める訳にもいかない。実在する世界の根源要素はエネルギーだけで十分である。マグネットもその近傍空間、NSの磁極近傍のエネルギー流がその磁気の機能を特性付けているのである。1年程前に水と水素とエネルギー流として絵図にした記事水の妖精七変化(エネルギー)が在る。水素をマグネットのエネルギー流として解釈した。次のマグネット結合になる。

マグネット結合 結合エネルギーは質量欠損と関連付けられている。結合すると安定するから質量が減少すると解説される。質量は全くエネルギーと等価である。その事からマグネットの結合をその原理の解釈法に取れば納得出来ると考えた。マグネットには磁極近傍空間にエネルギー流が在る。3個のマグネットを結合したとする。それが②である。結合した結果、結合面のエネルギー流はなくなる。3個のマグネットで、6個のエネルギー流が有ったのが、その内のエネルギー流4つが消える。エネルギーと結合(2018/10/10)にも有る。

 

 

水の妖精七変化(エネルギー)

水は産業革命の力を象徴して科学の世界を広げた。蒸気機関車が今もその威力を見せてくれる。水を加熱すると水とは思えない魔法の力を生み出す。燃料電池はエネルギーを生み出す。水を介したエネルギーと力の関係は日常生活の湯沸かしから巨大科学技術機関の発電所まで広い。酸素分子O2と水分子H2Oに悩むの記事を読んで、また自分の頭の知識貯蔵庫に違和感を覚えた。蒸気機関の熱サイクルで、水蒸気の乾き度と湿り度と言う用語がある。乾き度100%は高温・高圧の水蒸気状態である。水蒸気は酸素と水素の混合状態に簡単に変化する。乾き度100%の水蒸気は完全に酸素と水素のガス混合体と考えて良かろう。高温高圧のガスである。酸素と水素と水とエネルギーの間は、日常生活の中で、いつもそこに潜む妖精が支配している世界のように感じる。酸素と水素と水の間柄には、お伽の世界が現実に現れたようにさえ思える不思議を感じる。湯沸かしの沸騰で幾らかが酸素と水素に分解するのもあろう。と言っても湯の中を上昇する内に水蒸気に戻ってしまうだろうが。

水の電気分解 水の電気分解と言う化学反応は良く知られた現象である。水に電気エネルギーを加えることで酸素と水素に分離される。水の電気分解は酸素と水素の原子が結合したものを『電子』と言う素粒子(?)の電気回路を通した供給で元の原子に分解する現象と解説されている。『電子』と言う『電荷と質量の集合粒子』が水の原子結合をどのように分離するのかの詳細な解釈を知らない。理科の大切な実験例として取り上げられ、観察する機会も多かろう。ただ解説によれば、水酸化ナトリュウム等の電解質分子成分が必要らしい。水は電流を流さないからと説明がある。電流と言う電子電荷(質量不要)の逆流は一つの解釈方便でしかないので、『エネルギー』の関係で解釈する以外ないのだ。イオンの『電荷』を否定すれば、酸素と水素の結合・分離は『エネルギー』で解釈するより他になくなる。水酸化ナトリュウム等の電解質イオン水の電気分解で、得られたガス成分の検証を火に因る燃焼音などの現象で確認しているが、それだけで水が電気分解で発生した分離酸素と水素だと言い切れるのだろうか。また、そのガス内に炭などを電極にして発電作用(燃料電池)の確認が出来るかも興味がある。また『エネルギー』で、電気エネルギーと熱エネルギーにどんな違いがあるかと考えるてもその差が分からない。電気エネルギーには二本の導線の間で流れる方向が決まっているから、負の電極(水素)側からエネルギーが供給されるだろう。正の電極(酸素)側のエネルギーはどのよう考えるか。水酸化ナトリュウムは電極と水との間の触媒としての働きを成しているのだろう。原子、分子あるいはイオンの媒体環境でのエネルギーレベルの差がイオン化傾向として理解されている事に関係しているのだろう。ナトリュウムがその鍵を握っているかも知れない。

何故酸素か 南極上空のオゾン層が増減したとニュースになる。物は酸素と結合して燃焼現象を呈する。燃焼は熱・光エネルギーを放射する。その訳を説き明かすのは物理学だ。何故酸素原子が他の元素と違って、結合でエネルギーを放射するのか。そのエネルギーは何がエネルギーに変換したものか。燃料電池は酸素と水素の結合でエネルギーを作り出す電池だ。水に電気のエネルギーを加えると酸素と水素に分解できる。酸素と水素と水の間の変換を取持つのがエネルギーである。酸素と水素の化学結合と言う現象が元の酸素と水素原子に変化が全く無くてエネルギーが創りだせる訳は無い。エネルギーに何が変換されたのかが物理的解釈の要点であろう。決して『無』からエネルギーは生まれない。エネルギー(光や電気)に何かが変換するのである。その何故かが説かれなければ、エネルギーの意味が分かりはしなかろう。いつまでも同じ事(戯言と言われそうだが)を言って申し訳ない。燃える『酸素』の力とは?(2013/11/07)、   『水素』に思う (2013/09/29)など。以上理解力の弱い頭で科学常識について行けない迷い事を述べた。理論無しの、自然の真理はただ純粋の一つに因って解釈すべきだろうと創造力・妄想力を働かして描いた。それが次の絵図である。水とエネルギー流 酸素は2価、水素は1価と考えている。酸素1原子に水素2原子で丁度分子構造が安定した水H2Oになると。酸素、水素の単独では2個が対の分子を成すと。エネルギーの吸収か放出かで水と酸素、水素の関係が決定されるようだ。その辺を『エネルギー』一つで関係付けたらと考えたのが上の絵図である。『電荷』無しの『エネルギー』での解釈である。マグネットじゃないけれども、空間に粒子性のエネルギーと言えば、エネルギー円還流しか思いつかないので、結局磁石と同じような軸極性を持った物になってしまう。序でにもし『電子』と言う科学概念の解釈粒子を考えるならそれも最小のエネルギー円環流になるだろうと考える。水素は最小の原子として少し中心にエネルギー流の塊(質量化)があるのだろう。こんな研究を細々続けられるところが大学の自主体制に必要なのだと思うけれども。経済的利潤・価値を求めた競争研究だけでは、研究の幅が狭まり、延いては大学の独立性・教育力が危ぶまれる。役立たずの夢の絵図かもしれない。

体温と身体活動エネルギー「理科基礎(仮称)」を想定して

すべての市民が現代社会においては科学技術に関わることの大きな比重を占めて生活している。私も、少しは自然科学の事を記事にして公開している。そこで高等学校の理科(物理、生物、地学および化学)教育で習得して置かなければならないと決められている文部科学省の『学習指導要領』の内容を知る為に、『生物』の参考書(新課程版2012年4月以降入学生対象 大学入試で云々・・)を読ませて頂いた。高校生が学習する内容は一般市民として理解していなければならない内容なのだろうと思う。しかし能力不足で、内容がまったく理解できなかった。そこで『アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学 D・サダヴァ他著 石崎泰樹/丸山 敬 監訳・翻訳 BLUE BACKS 』で勉強させて頂こうと購入した。

恥ずかしい生物学理解不能力 私は殆どの記事を読んでも、全く理解できない。こんな難しい生物学を高校生は理解できるのかと驚きだ。そこで、自分の生物学的能力の無さの原因はどこにあるのかと考えた。確か高校の1年生で、生物を習った覚えはある。赤ガエルの足の皮をむいて(今は生物生存環境が人間に因り劣悪化して、殿様ガエル、赤ガエルなど殆ど見掛けない)、神経の反応で筋肉がピクピクするのを電極を使って調べた記憶がある。先の細胞生物学の教科書の中で、第3章 エネルギー、酵素、代謝 の部なら『エネルギー』の事が関係しているから少しは理解できるかと思って読み進んだ。世界は、医学・生物学の分野で新しい認識に因り、細胞の再生医療が現実味を帯びている。高度医療に因る恩恵の一方、医師不足が社会問題として将来に暗雲さえも感じられる事態に成った。余りにも自分の医学的理解力の欠如と現実的医療内容の高度化との乖離が大き過ぎて、社会的不安感が自分を苛む。そんな現実の中で、己の生物学に対する無知が恐ろしくもある。高等学校の理科教育の未来の指標「理科基礎(仮称)」を想定してみれば、その内容がどのようであるべきかと己の無能を一つの基準として考えるのも有効な視点に成るかと思った。エネルギーとアデノシン三リン酸(ATP)の解説を読みながら疑問を拾い上げて考えてみようと思った。

アデノシン三リン酸とエネルギー

ATPとエネルギーATPとエネルギー アデノシン三リン酸の意味は細胞をはじめ生物の身体活動の『エネルギー』との関係で理論的解釈が示されている。その説明の殆どが理解できないので、図のように?マークを付けざるを得ない。解説を読んでも理解できない能力不足の自分を曝すことで、高校生が理解できると言うその意味を確認してみたい。先ず基本的視点として『エネルギー』とは何かが問題なのじゃないかと思ったのでその点を考える事から始めたい。

?体温とエネルギー 生物学的理論では、分子構造とその合成・分解に伴うエネルギー論が主体的論点に成っている。しかも解説によれば、エネルギーは物理学的認識に基づいて運動エネルギーと位置エネルギーの二つを基本的認識に据えている。さらにエントロピーやエンタルピーと言う熱力学的概念を取上げて基礎と説明されている。しかしATPの化学反応過程の説明では、『エネルギー』と言うが、それがどのような運動エネルギーなのか、位置エネルギーと関連する事なのかの理論的結びつきの説明が全くない。その解説の中味を追っても論理性がまったく見えず、ただ解説内容をそのまま鵜呑みして覚えなさいと強制されている様な圧迫感を受ける。どこにも「考える」意味が見えないのだ。これが自然科学の論理性なのかと恐ろしくも感じる。『エネルギー』の実体がまったく解説の中に見えない。不図思った。素人ながら、電気磁気学の考察感覚から考えて、生命を保持する基本的身体的条件があるのじゃないかと。『体温は生命体の保全環境基準』と言う意味で捉えるべきなのじゃないかと。送配電線路のエネルギー伝送設備で、線路電圧と言う電気概念がある。今まで『電流は流れず』に因り、電線内を電荷が流れると言う電気概念は間違っていると説明して来た。『電荷』概念に基づく電磁気学理論に矛盾がある事に留意して、送配電線路の『電圧』とは何かを探って来て、結局エネルギーで観る線路電圧 においてその本質を示した。何かその電気回路の『エネルギー』と身体の『エネルギー』とが同じ意味に見えた。そこからの類推しての解釈でもあるが、体温は身体全体に分布した『エネルギー』の姿であると。送配電線路は発電所でただ電圧を制御すれば末端までのエネルギー供給が成され、電力系統は保持される。身体もただ体温を制御すれば、どこの筋肉の動作にも必要な『エネルギー』が容易に得られる筈である。『熱エネルギー』が光や電気信号(神経)のエネルギーとまったく同じものである。医学・生物学について全くの素人解釈ではあるが、高校生が学習する初めに同じ思いを持つかと思って、アデノシン三リン酸のエネルギー論に対する疑問を拾い上げておきたい。それは高校生の考える『生物学』の参考にもなるかと思うからでもある。

?1 最初の?としてアデニンと言う分子(遺伝子DNAを決める塩基)を取り上げたい。この分子は?2のDNA(4種の塩基)の中の一つである。大よその理解で考えれば、この4種の分子が全ての生物の遺伝情報を支配する基本分子であるようだ。人間に必要な『必須アミノ酸9種』は人が外部から取り込まなければならないとされている。しかし、このアデニンはどこで合成されるのか。植物の光合成でのみ得られるものなのかと疑問がある。人が細胞内で合成生産できるものなのか。他の3種の塩基も同じくどこで産生されるのか。細胞内での細胞分裂では無限に必要な分子であるから、常に細胞内に取り込まれていなければならない筈だ。4種の塩基、リボースの糖およびリン酸が十分に供給されなければならない筈だ。その上で、生命活動に必要な『エネルギー』の供給に何故ATPだけが論点に成るのかも知りたい。他の3種の塩基チミンT、シトシンC更にグアニンGはなぜ『エネルギー』論の対象から外されるのか。例えばグアニンGもアデニンと似た分子構造であるから、リボース、リン酸と合成されGTP等と言うものも有っても良かろうと素人は考える。何故アデニンだけが『エネルギー』論の対象に成るかが考える理科教育には重要な論点ではないかと考える。教育者及び『学習指導要領』関係者はその辺の事も「考える」疑問に答えて欲しいのだ。そこに今、今日からの子供達の未来が掛っているのだ。

?3(リボース) 勉強不足で申し訳ありませんが、時どき結合手の表現でこのような太線表現がある。炭素結合の表現法であろうが、特別の意味があるのだろうか?

?4 ATP アデノシン三リン酸の『エネルギー』論の解説で、ATP→ADP+エネルギーと示される。リン酸が3個から2個に減少して、その結合分の『エネルギー』が放出される意味らしい。じゃあ、2個から1個にもならないのかと疑問が浮かぶ。更にそんなリン酸1個が分離するだけで『エネルギー』が得られて、そのエネルギーはどこにどのように使われるのかと質問したくなる。自分の高校時代を思い出すが、授業中に質問ばかりして、授業の進行を妨げた事をお詫びしなければと思いだした。御免なさい。それにしてもリン酸1個が合成されるか分解されるかで、『エネルギー』が論じられるなら、アデノシンの部分は大げさで、図体だけの邪魔なのじゃないかと思った。そのアデノシンの部分は『エネルギー』供給にどんな役割を担っているのだろうか。アデノシンの分子構造が酵素との結合に重要らしい事は説明されているが、『エネルギー』の発生にどんな役割があるのかが見えない。結局『エネルギー』とは何かが見えないのだ。

?5 結合手 結合手の2本線と1本線の違いは意味があるのか。ベンゼン核の分子構造とその立体構造の問題であろう。『電荷』の電気結合手表現であるのだろうが、ベンゼン核の炭素は6個とも対等であろうから結合手1本と2本の違いは無い筈だ。しかも空間構造も平面的ではなかろう(2018/01/03 考えが変わった。ベンゼン核が平面構造であるとすれば、その対称性は軸性とエネルギー貯蔵の機能を担っているのかと考えられる)。そのことから、アデニンも立体的な構造を考慮した表現では、結合手1本、2本の差は無かろう。もし窒素Nに1本と2本の差があるとすれば、その立体空間構造でもその差異を示さなければならない筈だ。すべてが『電荷』概念の結合手に基づく科学理論の根本的問題なのだ。この世界に『電荷』等実在しないのだ。なお生物学においてはベンゼン核は殆ど無関係のようで、取り上げられない。

?6 水素とプロトン 分子結合には必ず水素-Hがある。水素とプロトン(陽子)にはどんな違いがあるのだろうか。水素は世界に存在する最小の原子で、質量の構成単元とも言えよう。その陽子と水素原子は質量で差はなかろう。元々もし電子・電荷を仮定しても、その『電荷』は核の陽子と電荷的に釣り合っていて、外部と結合する電気的力の働きを持てない筈だ。だからもし水素原子の結合があるとすれば、素粒子の陽子が張り付いて、質量のバランス程の意味しか持たなかろうと思う。陽子なら水素原子以上に小さな質量単位と考えられる。

「理科基礎(仮称)」の生物学 化学とも関係する分子構造に関して、その詳細が解って来たように見受けられる。その構造の決定法が教科内容のトピック的に取り上げられれば、科学技術として有効な教育効果をもたらすと思う。それは素人的にはとても興味がある問題だ。また、人間の身体的機能、臓器の働きあるいは循環器系など保健教科と重なるかもしれないが細胞理論より大切と思う。

神経細胞とその機能 常日頃の疑問。出来たら教えて欲しい。身体活動全てで、その働きを支配し制御するのが神経伝達系だと言うように解説されているようだ。神経細胞を通して指令信号が『脳』から発しられ身体活動が起こると解釈されているように思う。しかし、神経伝達方向は末端から『脳』に向かって神経細胞を通るのではなかろうか。『脳』からの発信信号は神経細胞を通るより、身体構造全体、骨格、靭帯などを通して伝達される。神経細胞はすべての情報を検知し、理解するフィードバック信号の伝達機能を担っているように思う。五感で受け取る情報を常に『脳』で把握していなければならないから。こんな人間臭い素人の話は、高尚な学理の問題として取り上げるべきでないと言われそうだが、蛙の受精論より身近な大切な話と思う。日常生活に根差した新しい理科教育を行うべきと考える。関連記事に脳の機能と個性および脳と生態制御の謎がある。

鉄Feと銅Cu

電力無くして現代生活は成り立たない。電力エネルギーを利用するには鉄と銅を多量に使わなければならない。発電機も変圧器も鉄と銅の金属の塊である。『電荷』と磁束を破棄して、エネルギー伝送をどう説明するかが難問題だ。先ずは、鉄と銅の意味を考えたいが、難しい。その疑問を何かの手掛かりにならないかとまとめてみた。

鉄と銅希少金属のネオジムも付記した。(2014/09/22)追記。折角ネオジムが出たので、関連記事ネオジムマグネットを挙げたい。

上に挙げたのは何の解釈も示してないが、ただ疑問を列挙しただけでしかない。鉄と銅は隣同士の様なものである。そんなに何が原因で異なる原子の特性の差を産むのかが疑問である。

誰もが疑問に思って、新しい解釈法を提唱して欲しい。自然科学は未知の宝の山である。

(2014/09/17)追記。鉄に関して、専門的解説を見た。恥ずかしいが、何も知らない事を知った。金属結晶格子には、体心構造と面心構造があると。鉄は体心構造でニッケルは面心構造らしい。鉄原子の構造が体心構造だと言う。鉄原子を中心にして立方体の角の8個の鉄原子と体心構造を成すもののようだ。全ての鉄原子がどれをとってもその体心構造を構成していなければならないと思う。今考えた立方体の角のどれか一つの鉄原子を取上げて考えてみよう。その角の原子も他の鉄原子と等距離で8個の原子と体心構造を成さなければならない。さて角の原子がその隣の角の原子との距離は立方体の中心までの距離とは異なるから、隣同士の鉄原子間では体心構造を執り得ない筈だ。さて、それではその角の鉄原子はどのような配置の鉄原子と体心構造を構成すると解釈すれば良いのだろうか。中々同じ中心間距離の体心構造の構成を探り出すのは難しい。やはり自分のような素人には専門家の解釈を理解する事自体が無理なのだろうか。ああ、体心構造、体心構造と呪文でも唱えようか。面心構造も同じ事になったらどうしようか。

 

金属結晶と自由電子―怒りの科学論―

金属原子の結晶はどのような原子結合により、どんな結晶構造と成っているかを考えてみる。原子理論によれば、金属結晶は化学結合と言う結合によるらしい。共有結合でもなく、イオン結合でもない。Wikipedia の解説でも、化学結合である。標題に副題―怒りの科学論―と追加した。何故かと言えば、化学結合なる結合概念は原子間を強く結合させるべき結合力の実態が何も見えないのだ。少しも原子同士を結合する力などないのであり、幻の結合力である。そんな不明確な結合概念で、科学論が成り立っていることに怒りを覚えずにはいられない。怒りの科学論等と息巻いてみても、どうせ筆者も原子の中を見る訳にはいかない訳だから無理ではある。炭素結合の秘め事に原子結合新建築法を考えてはみたが。クーロンの法則を斬るなど辻斬りと思われる極悪非道の罵りにあいそうだ。

化学結合の矛盾 金属原子同士は相当強い結合力で結ばれていると見做してよかろう。ところが、化学結合と言う結合の描像は誠に怪しいものである。その空間的描像を思い描くとしたらどんな物になるだろうか。金属原子が規則的に並んで、その間を自由電子が満たしていると考えれば良いだろうか。兎角科学論は数学的表現で記述しようとする。数式がより高度な正統的科学論のスタイルと見做されるようだ。その科学論については、空間描像を数式で誤魔化しているように思う事が多くなってきた。言葉で数式なしに伝えられないものは、本当に伝えたいことがその筆者には分っていないように見える。

金属結晶と自由電子

結晶と原子結合 上に考えるための金属結晶とその原子結合の空間的構造を教科書的な概念から描いてみた。あくまでも教科書的な解釈の矛盾を抉り出せればと言う観点からの考察の参考図である。描こうとしても、具体的にその『自由電子』や原子の空間的認識ができない物を図面に描こうとする事自体が無理なのである。そこを何とか描けばであるが、一応仮想図とでも名付けておこう。金属の切断面をみると、細かい区画に分かれて表面が構成されているように見える。その区画ごとに結晶がまとまっているようだ。その結晶間には壁で仕切られているようにも見える。しかし、その結晶区画間の壁は自由電子の移動に何か影響があるようには解釈されていない。そこで原子結合とその周りを思い描くには、その原子を取り囲んで自由電子が浮遊しているような図で考えれば良いのかと言う教科書的解釈に見える。その絵図を描いてみた。自由電子が空間的にどのような形状で、空間に分布していると捉えれば良いかは、あまり具体的には詳しい解釈が示されてはいないだろう。詳しい事を説明する程、誰も自由電子を明確に捉えている訳ではないのだ。それは自由電子なるものが粒子なのか、波なのかなどと、物理学理論で曖昧のままに今日を迎えているからである。要するに分らないのである。真実は、『電荷』を持った電子なるものが存在しないからなのである。

格子と真空

原子結晶格子の真空 原子の空間寸法をどのように認識でるのか。金属結晶の空間格子構造を観測は出来ないのだろう。教科書による原子概念を理解しようとしても、その原子の空間的形状や寸法が明確に捉えられていないことから、元々無理なのかもしれない。結晶構造を検索で調べても、どの解説も一つ一つの原子が格子状の構造で示され、そこには原子とその存在する空間との関係を少しも考える意識がないように見える。ITの検索には、子供か市民か専門家ではない人達の適切な疑問による質問が寄せられている。それに応える解答の記述内容は質問者の感性に対応できない、決まり切った方法の解説で終わっているようだ。その質問の中に、原子が結合したその周りの空間は真空か?と言うものがある。それを図に描いてみた。このような単純な感覺に基づいた疑問に、答えられない事が現代の自然科学論の社会的課題である事と思う。詳細の状況を日常用語で説明できない筈はないと思うが無理なのだろうか。その具体的考察の材料として、単純な原子結合格子像を描いてみた。原子の空間的実像とその原子結合の意味を解説して欲しい。

原子の構成源はエネルギー 素粒子などが原子、陽子あるいは光の構成源ではない。質量が光に変換する。その意味を理解しているならば、決して素粒子などを特別に必要とする筈はないのである。『電荷』がどんな素粒子から出来るか。光がどんな素粒子から出来ているか。エネルギーが空間に存在する事を理解できるかは、光がどんな物理量であるかを認識できるかどうかに掛っている。質量に依存した運動エネルギーと言う概念しかエネルギーを認識できない現代物理学論に問題が有るのだ。上の絵図の原子間空間は真空かどうかを解釈するに、原子その物が空間のエネルギーの局所化した状態と認識すれば、空間が真空かどうかでなく原子その物が空間にエネルギーの広がりとして原子間を塞ぐと考えれば問題はないのである。格子全体が原子の中心からの広がり同士で重なっているとみなすべきである。《真空》とは何かになるが、光が通過している空間もエネルギーから見れば、何もない真空ではないとも言えるから、真空と言う定義も改めて考え直さなければならなかろう。

自由電子と原子結合 最初の仮想図に、結晶内を『自由電子』electronと電子を放した原子との二つの空間配置で書き表した。金属原子が電子を放せば、電気的にはプラスになると見られよう。原子が格子状に堅く結合して、その周りに自由電子が浮遊している形状でしか教科書的解釈の『化学結合』を捉えようがない。そこで『化学結合』の原子同士を強固に結合させる力が生まれると説明できるかを考えてみよう。その結合力はどのような法則の力で解釈するのだろうか。クーロン力だろうか。プラスの原子とマイナスの電子ならば、教科書的クーロン力で説明できようが、問題は電子が自由電子で何にも束縛されずに自由に浮遊していると考えるべき電子と思うから、原子間の結合力になる何らの役割も無いと見做さなければならない。 束縛がないから自由電子と特別に電子に自由の名を冠したと見做すべきだろう。だから自由電子は原子結合の力に関与できないと観る。それなら原子同士はプラス同士だから、どんな結合力を仮想すれば良いのだろうか。

自由電子が導体電流の基になり得るか 今日まで『自由電子』の存在を疑いもしないで過ごしてきた。何故意味の無い、明確な定義づけの出来ない『自由電子』を科学世界の常識として認めてきたのか。さて改めて、『自由電子』が自由に移動して、電流の概念を満たす要件を備えているかを考えてみよう。電流が持つと定義される要件は何だろうか。代表的な周期律で29番目の銅Cu、その金属内部を思い描いてみよう。物理学者は、その電気銅の表面に問いかけてみても、その金属結晶の中を負の『電荷』を身に付けた『自由電子』が自由に移動する方向性を持った流れと成り得ると思えるのだろうか。静電界の問題では、金属で遮蔽された空間内に、『電子』が存在すれば、静電誘導問題として議論になる。今考えている銅金属内の自由電子が銅原子格子間の空間に浮遊しているとしたとき、それは真空内に浮かぶ電子だろうか。その電子に働く電界は在るだろうか。電子はある決まった電界の存在によってはじめて移動する筈だ。銅金属導体内に電界の存在を考慮できなければ、電子が移動するとは考えられない。導線に外部から電圧を掛ければ、それは直ちに電源短絡の事故になる。導線は殆ど電界に堪え得ない導電性を持って考えられている。抵抗がないと見られる。だから銅金属に電界を掛けることなどできないのである。自由電子の負電荷が電子移動の原因とする力をどのように理解すれば良いか。

自由電子が導体外部の磁場発生原因となり得るか 自由電子が電流(電子の逆向き)となり、それが導体外部の磁気発生の原因となるかどうかで確認できる。電子をその具備条件から考えれば、負電荷を持つもので磁気の性質は持っていない。自由電子が導体の中を移動しても、その影響が導体外部に及び、しかも本来保持しない磁気を発生させると言う解釈はどんな論理性で、説得力を得るのか。磁気と言うものも、その存在する空間の(磁気)エネルギーなのである。電子が空間に存在する事がその周りの空間に磁気を伴うか?と言う論理性に疑問を持ったのが『電荷』否定の道への出発点であった。自由電子と言う西洋科学概念が世界の論理を支配して来た訳であるが、それは東洋哲学に照らせば矛盾以外の何ものでもない。東洋思想で検証する科学の道が市民に開かれた自然科学論に成る。自由電子が何故磁気を作り得るかを考える事が科学論なのである。数式では論じられない。数式に乗せるには、決められた概念・法則に従うから可能なのである。その概念・法則を解剖してみれば、自ずから論理性とは何かに思い至り、その概念の矛盾に気付く筈である。『電荷』否定を数式では論じらない。同じく、『電荷』の実在性を数式で論説できない。

電気回路と自由電子 電流が流れると言う電線と同軸ケーブルを例に取上げて、自由電子の意味を探ってみよう。

回路と自由電子

模式的に自由電子を赤色で書き表した。負の『電荷』を懐に入れた自由電子など存在しないと説得するために、自由電子を使って解説するなど全く面倒な科学論説だ。しかし、教科書が間違っている等と言う事を説得するには、教科書の中身の矛盾を説明しなければならないと言う、本当に変梃な論法だ。

①導線の自由電子 銅Duの導線側面を削り取り、中身をみる事を想定しだ図だ。銅原子同士が結合して、格子状になっているとしたら、銅線の外側表面は拡大するとその格子状態が剥き出しになっているかどうかで一思案だ。せめて教科書の意図をくんで、何とか自由電子の面目の立つ方法を考えてみるが、どうしても図のような自由電子の立ち居振る舞いの表現しか浮かばない。そもそも自由電子が固体か流体かも分らない。分らない物を空間に書き表そうなどと考える事自体が間違っている。数式に頼る意味は、具体的に深く事実を探ろうとすると、自己矛盾と言う世界に迷い込むから、権威ある方はそんな迷い道に入らないようにとても上手く逃れる方法の道を堂々と歩むのである。市民が自由電子とは何かと追究するための参考になれば、こんな図が役立つかと思って描いた。後は誰でも想像力を働かせれば、自由に考えられるかも知れない。少し電気の事を知っている者として、問題の考え方の例を挙げてみよう。『電荷』に対する電気的小難しい数式による問題に、静電誘導の解析がある。自由電子が導線内を移動する場合に、その自由電子は自分を生んだ親に当たる銅原子の格子が静電誘導の鏡面の役割をすると考えれば良いのか。もし今でも授業でそんな静電界の解析をする教師がいたら、それは困りものだ。自由に移動する負電荷の電子は金属内で、誰を相手に鏡に映して鏡面現象の理論を全うするのだろうか。その電荷の相手は導線金属の外側に結局負電荷を誘導すると言うのが静電誘導の理論解説になっている。自由電子は結局導線の外側面に全て現れる事になるのが教科書的な、高度の数式による静電誘導の理論である。しかし、この場合は自由電子の負電荷に対して、親の銅原子の正電荷が丁度電荷を打ち消すから、静電誘導も上手くゆかない。静電誘導現象の辻褄を合わせようとすると、自由電子は銅原子のプラス電荷と未練がましく離れられない姿を晒すようにしか見えない。自由の筈がちっとも自由に動けない籠の鳥電子に成ってしまう。中々理論と言うものは、あっちを立てれば、こっちが立たずで、何とも見苦しい様を晒すものだ。筆者も電気の専門家(文科省などの政府には邪魔であろう)として誠に恥ずかしい。どう考えても理解できないのは、プラスの銅原子同士が結合して格子になり得るか。その様なプラス電荷の格子の中をマイナスの電子が何故クーロン力の縛りから解き放たれて自由に動けるのか。『電荷』の存在矛盾が、電気理論の論理性を筋立てて解釈をしようとすると、どうしても避けられない矛盾の壁に突き当たる結果を生む。プラスとマイナスの『電荷』で自然界を解釈しようとした事があらゆる矛盾を生む原因に成っているのだ。この辺の詳しい意味を『電荷』概念で電気磁気学の教科書を執筆される専門家は、しっかりとその専門性を発揮して、矛盾の無い深い解説をして頂きたい。電気技術でなく、理科や物理学においてこそお願いしたい。

②同軸ケーブルの自由電子 同軸ケーブルはテレビの信号用配線ケーブルとして多く使われている。その断面構造は中心に導線Duが一本通り、有機材(ポリエチレン)被覆の絶縁の外側が網組銅線で囲まれている。デジタル信号など高周波の信号が通る。電気回路としては、二本の導線と同じものである。一本が中心を通り、もう一本が外皮の網状導線と形態が変わっているだけである。何故高周波では、同軸ケーブルになるのだろうか。電気信号の伝播速度は高周波であろうと、50ヘルツの商用電気であろうと全く同じである。教科書の電気理論上は、自由電子が移動する話になっている。ただ、送配電線路と同軸ケーブルの配線とはその長さが極端に違う。その長さが何に影響するかと言えば、信号のエネルギー密度が極端に異なる点に求める事ができよう。信号はエネルギー量が極めて小さいから、長い線路亘長では減衰してしまう。電力の場合は、エネルギーロスが有っても、エネルギー密度が極めて高いから送電が可能である。微弱の高周波エネルギー密度の信号を伝播するには、外部放射損失を抑えた信号伝送回路が求められる。幾ら周波数が高くてもエネルギーが大きい訳ではない事を認識してほしい。(蛇足ながら、量子力学で、e=hν [J]の周波数νが高ければエネルギーが高いと勘違いし易い表現は間違いだ。)さて、この同軸ケーブルで、自由電子の振る舞いを考えてみよう。中心導体の中は銅原子の格子の中を浮遊する自由電子は①と同じ事になる。中心と外装の網組導体での自由電子の流れる方向は逆向きでなければならない。網組みの中を流れる自由電子は網の線間を渡り行かなければ上手く電流の役割を果たせない。網の間の渡りが出来る自由電子は中々超能力を持つものだと感心する。高周波デジタル信号を伝えるには、自由電子も難儀な役割を担わされたものだ。本当はそんな役割を人間様に課せられても、自由な自然は我関せずで、人間の思考に副えないのだ。実際自由電子が流れても行ったり来たりで、何にもエネルギーなど運べないのだ。自由電子が辿り着いても、電子はエネルギーを運ぶ訳ではないから、電子の行きと帰りでエネルギー保存則の観点から、負荷へのエネルギー供給分は電子の魔術的能力に因ると考えなければならなくなる。『エネルギー』と言う独立した物理的実在量の認識に欠けている。例えば、自由電子についても『電荷』と『質量』で定義されているから、自由電子のエネルギーはその『質量』に運動エネルギーが付加され、その加速時の力に『電荷』の電界加速の原理が要請される。そこには、エネルギーは運動エネルギーしか見えない。もしその解釈を電気現象の基本とするなら、自由電子が負荷端に到達したとき、そのエネルギー分を負荷に供給して、戻る自由電子は運動エネルギー分に相当する増加速度を減速して電源・送信端に戻らないと、エネルギー保存則の意味が否定されると思う。その様なら、自由電子には誠に御気の毒様とお悔やみ申し上げなければならない。

電気エネルギーの伝送形態 エネルギーは決して電子等必要としていない。『エネルギー』の独立独歩の気概を損ねたら、物理学における電気磁気学の未来は無い。上にエネルギー流として緑色の色付けで示した部分がある。導線の外表面に沿ってエネルギーが縦波として流れるのである。

参考論説記事 電流計は何を計るか 電流は流れず 『電荷』と言う虚像 クーロンの法則を斬る 電流と電圧の正体 電子科学論の無責任 力学から見た電流矛盾 回路とエネルギー流―電流解剖論― 生活電気と『光速度』 電荷の否定は科学的発見か 『電荷』否定への道

自由電子科学論への怒り 中曽根臨時教育審議会とは何だったのか。『電荷』否定の科学論が科学界の常識にそぐわなかった事は誰よりも理解できる。ガリレイ・ガリレオも地動説で社会(宗教権力の教義)の常識にそぐわなかったがために、死後300年後まで罪人の汚名を着せられた。『電荷』概念の過ちを何処で、どのように正すことができるのか。26年と言う年月は長かったが、それでも先が見えない。未来の子供達に、広い視野で正しく見渡せる新しい常識を教えてゆかなければならない。本質を見極められれば、無駄や間違いも少なく済むのである。原子力発電の廃炉を考えたときの経費対エネルギー量の評価係数が間違って未来への借財として加算される事は、ガリレオ・ガリレイの300年の話の比ではない。

大気成分の分析法は?

大気成分。窒素(N2)78.1% 、酸素(O2)20.95% 、アルゴン(ArかAr2か?)0.9% 、二酸化炭素(CO2)0.04% そして水蒸気(H2O)が1%~4%程含まれていると検索に出ている。水蒸気無しで、99,99%となる。

気体が混合状態である地球の大気成分を分析する方法は簡単ではないだろう。上の成分分析結果のデータはどこで誰が確定した値だろうか。どのような科学的方法か。自然科学は、常識と決めつけられている事が多いが、本当かどうかが疑わしい。

生命の本質(C.H.ウォディントン著)を読んで

遥か昔に購入して、途中まで読んで投げ出していた。昭和39年5月のケース入り、岩波書店第一刷本、350円。生命の本質、表紙カルボキシル基、アミノ基等とでると頭に収まり切れなかった。今でも生命科学の話は電気磁気学と違って理解困難である。当時に比べれば、人のDNA、遺伝子解析も可能となり、生命科学の研究分野は格段に進んだ。それでも生命の不思議は尽きることない未知の謎に満ちている。生命の本質は、ITで検索したら、You Tubeの動画にも紹介されている有名な著書であった。今回また、標記の本の第一章だけを読んだ。名著は時代が変わっても、その言説の内容は多くの感銘を、変わらずに与え続けるものと驚いている。

第一章に、NaCl塩の話が載っている。豊富な学識と深い洞察に基づいた話で、誰もが理解し易いように、卑近な例を基に展開されることに賛同した。改めて、尻切れトンボの記事原子と分子の妙を追記してみようかと思った。読み進める程にきっと新しい知見を与えてくれるだろうと期待している。追記で感想を記したい。

(2014/10/6)追記できずに・・ 本を開いて読み始めるが、なかなか内容を汲み取れずにむずかしくて追記できず。原子と分子の妙も同じく。

燃える『酸素』の力とは?

身近な事を考えると殆ど分からない事ばかりだ。『酸素』は『水素』と同じくとても日常に密接な元素だ。しかし、何も分かっていない事に気付く。酸素がなければ生きては行けない。地球には十分の酸素がある。何も答えを得られないままに『酸素』への疑問だけを記す記事ではある。

その酸素の最大の謎はこの地球上に『いつ、どのようにして酸素ができたか』であろう。水も植物もいつどのように生まれたかが分からない。水と酸素が無ければ地球上に生命は誕生しなかろう。水と酸素が植物をどのように芽生えさせたかと不思議に迷い込んでしまう。

酸素は誰が造るか

酸素の働き

そんな大本にまで答えを探すなどは間違いとしよう。

現実の日常生活の中で、本当に基本と思うような事さえ分からないのである。そこで、酸素の働きとはどんな事かと分類してみた。大体3つ程に成るかと思う。

1.空気中の燃焼 火を使うには酸素が要る。透明のガラス容器に燃料を封入して、レンズでその燃料を加熱しても容器内が真空なら、燃えないだろう。いや、燃えるかも知れない?そんな実験はしてないから、結果は想像するだけである。一応仮想実験として、何の経済効果も無さそうな純粋の『物理学』に特化した考察図を挙げておきたい。仮想真空燃焼実験真空容器の中に可燃性の黒い布切れでも封入した。真空管でも良いが、頭に焦点距離の合うレンズがある。『問答』:日光に当てると、布切れは燃えるだろうか?こんな答の見えない問題が、自然現象としてどれ程考える感性を持っているかの自己評価に成るかと思う。Exhaust pipe(用語?) から真空に排気しているとする。考える時は自由な発想が好ましい。光とエネルギーの関係をどう解釈するか、振動数で説明しても良い。ギリシャでのオリンピック聖火の採火式は太陽光線での加熱(反射鏡)方式である。摩擦熱と同じく、光はエネルギーそのものの縦波の流れである。(2017/10/30)追記。一応問答の『答』を書き足す。想像の結果やはり燃える筈だ。真空中でも布切れが太陽光線エネルギーで加熱されるから、熱分解してガスの発光燃焼になる。従って結果的には真空でなくなる。この燃焼は布切れの熱分解で酸素も発生するから酸素燃焼と言えるかもしれない。結果的には、太陽光線が真空容器内に入るため、元の布切れの質量に太陽光線入射エネルギー分だけ等価質量が増加したと同じ意味で解釈すべきだ。即ち光と質量は全く等価であると言う結論だ。

学術的物理学理論による光エネルギーは、「振動数とプランク定数の積」で解釈する。学術論では、市民が『光の振動数』を認識できなければ理解できない高度な理論なのである。市民的感覚論で捉える事を第一に考えたい。お日様に当たると暖かい。それは光の振動数が体を振動させるからではない。光一粒でも、それはエネルギーそのものの流れであり、身体に入り込み、熱エネルギーに成るからである。その光の流れと観る場合は、光エネルギーが質量(分子)内の空間への蓄積に因るエネルギー変換方式による着火(エネルギー放射)と看做す。これは普通の日常的な酸素の燃焼の働きにも関係するものと看做したい。この燃焼における酸素の状態はどのような変化によるのだろうか。単に酸素が何の変化も無しに、燃料の高温加熱でのガス化だけでは燃焼には至らないだろうと思う。「何を言いたいのか?」と訝しく思うだろう。『酸素』原子の8個の電子周回構造を破棄したいのである。IT検索では、まことしやかに『電子』の増減で様々な酸素の活性化を論じている記事がある。『電子』でなく、酸素原子の状態が環境の熱エネルギーに因りどのようにエネルギーが増加し、活性化されるのかの問題であろう。何で電子同士が二つ重なるような『クーロン則』違反の結合論が罷り通るのか。クーロンの法則を斬るに反して電子の負の『電荷』同士が「対を成す引力」を発生するのかを論理的に説明しなければならない。結論を言えば、空気中の『酸素』も加熱の熱エネルギーにより、そのエネルギー量が増えて、活性化した事で燃焼の力を発揮できるのであろう。『酸素』原子そのもののエネルギー量が増減すると解釈する。

燃焼作用における疑問 熱化学方程式と言うものがある。燃料ごとにモル当たりの発生熱量が異なる。炭素、水素、窒素と酸化の発熱エネルギー量が事細かに分かっているようだ。燃料電池が未来のエネルギー源として注目されている。発電装置としての役割で考えても、結局発生熱の『熱エネルギー』の形を変換しているのでしかない。自然科学は、自然の科学的に解釈する方法で、その仕組みを社会生活に利用できれば、それが主目的であり、科学のすべてである様に捉えられているようだ。だから、『酸素』が燃料の元素と化合して発熱するだけ分かれば十分と考えている。そこには何故かという『問答』が欠けている。物理的本質を理解しようと考えないのが、今までの「理科教育」の実情である。子供達の質問と思うが、IT検索のなかにも貴重な『問答』が多くある。しかし、回答者がその質問に十分応えようと考えていない。お座成りの『こういうものだ』式回答で済ませている。最大の燃焼の疑問は「何故酸素が他の元素と異なる性質・特性を持っているのか」である。原子構造上にその本質が隠されている筈である。それを見極めるのが「物理学」の道であろう。『電子』では決して結論には到達できない。何故窒素と少し異なるだけで、特別な燃焼特性を示すのか?

電気エネルギーと熱エネルギーが異なるエネルギーと考えて欲しくない。電気エネルギーも空間の伝播エネルギーである事から、熱の伝播エネルギーと全く同じものである。『電荷』が実在しない事実に立てば、電子と言う実体概念をどのように考えるかが重要な観点となろう。原子構造上のエネルギーの増減をどのような空間に描くかであろう。生活電気と『光速度』ご参照ください。

2.生体内の生命活動エネルギー生産 生命が燃えるにも酸素が欠かせない。血液循環により生体内のあらゆる細胞・組織の生命の機能保全を司る。細胞が生きるには酸素を必要とし、燃えカスを廃棄する。その運搬の役割を赤血球のヘモグロビンが担っている。ヘモグロビンの寿命も120日で再生されるらしい。時間管理されている生命の循環は世界・宇宙に秘められた絶対的原理と観ると、とても不思議に思える。『癌』は生命の循環の原則から、時間管理(細胞再生循環)の狂いによる絶対的原理違反の宿命と観たかった。生命の全体像を思うと、その細胞一つからの営みが全てに広がり、統制制御される活動全体の姿は何と不思議であるかと驚くばかりだ。人間が設計するロボットがあるが、二足歩行一つをとっても、まっすぐ伸ばした足で、つま先立ち歩行の平衡感覚の全体制御性を比較してしまう。そんな細胞に酸素が果たす役割を考えると、『酸素』元素の力は神の力に思える。どんな秘力を尽くして、生命のエネルギーを生み、そのエネルギーをどのように細胞の活動に生かしているのかと考えてしまう。酸素とエネルギー及びその細胞運動への活かし方に不思議を思う。エネルギーが世界の素原と言う解釈から見ると、指先の筋肉運動にエネルギーがどう生体的・生理学的機能を司っているかを考えてしまう。『鉄』が元素周期の変遷の到達点と言う考えもあるようであるから、世界の循環から『元素』も変遷すると観る。エネルギーが世界の素原であるから、元素もエネルギーの局所化の諸相であると観られる。エネルギーと空間と質量に関連して。

生体・生理学的身体活動とエネルギー 確かにヘモグロビンが末端細胞まで酸素を供給しているのは間違いないだろう。それでは、細胞に酸素が供給されるとその酸素はどのような生理学的働きをするのだろうか。単に細胞内の細胞質の分解・再生の為だけに酸素が使われる訳ではあるまい。細胞の生命活動に酸素が必要な筈だ。活動エネルギーを生みだし、そのエネルギーが何に使われるかが重要な視点に成ろう。筋肉のどのような生理機能がエネルギーを運動に変換するか。皮膚感覚をどのようなエネルギーとして神経伝達機能に生かすのか。それらの生命活動全てが酸素の働きにより造り出されるエネルギーによってなされると観る。エネルギーが筋肉の収縮・弛緩に変換される。それがエネルギーが消費されると言う事の意味であろう。二酸化炭素と酸素の呼吸作用におけるTCAサイクルとどんな関係に成るのか等、観えない事ばかりである。

ヘモグロビンは何故赤い? 赤血球の構成分子がヘモグロビンらしい。赤血球と言うように血の色は赤い。ヘモグロビンで、鉄原子Feが酸素の運び手の役を担っているらしい。廃棄する炭酸ガスCo2の運搬もFeが担うとはなかなか上手いものだ。そんなFeがあるが故に赤色となると解釈すれば良いのだろうか。ヘモグロビンの分子構造に占める鉄Feの比率はとても小さかろう。あの血の赤色はやはり色の不思議に挙げて良かろう。色の世界を尋ねてに重ねてみたい。色彩も不思議がいっぱいだ。

3.水、高タンパク質などの分子構成元素 燃焼を司り、エネルギーを生みだす酸素が水素と結び合えば、その分子が燃焼を消す水になると言う。燃焼と消火を繋ぐのが酸素とは。

光合成と酸素 植物の生命活動。地球上の生命を支える基に成るのが緑の森林である。太陽光線と葉緑素の生命の紡ぎ合いに『酸素』がどんな役割を果たしているかと疑問が増える。

『水素』に思う

今朝の直覚は水素が急に頭に浮かんだ。「浮図」と言う用語は急に図となって頭に浮かぶと言う意味なのだろうか。昨日は、電荷否定は科学的発見か と直覚に絡めて書いた。歳を取ると、理屈や計算は苦手になる。せめて過去に辿った頭の経路の中から関連した事象を引き出して、科学的解釈をする以外はない。2011/03/11東日本大震災での福島第一原子力発電所の『原子炉崩落事故』で気掛かりのことがあった。『水素爆発』である。水素が空気に触れると、7気圧の爆発力になることは工業高校で生徒に教えていたので知っていた。その凄まじさに、新聞記事での写真に遭遇してその水素爆発の意味を改めて考えてしまった。まさか、『陽子爆発』と言う意味ではないのだろうと疑念のままで来た。陽子と水素の違いはなんだろうかと考える。何も違いは無いだろうと。

水素の命名者は誰か? 元素名がそれぞれ成程と言う思いにさせる用語で付けられている。IT検索で、塩素を調べた。幕末の蘭学者 宇田川榕庵が「舎密開宗(セイミカイソウ)」に塩酸の翻訳用語で表したらしい。しかし水素を誰が初めて使ったかは分からない。それにしても、『水素』と言う命名は誠に巧いと感心した。また、元素に『素』の字を使う語感にも感心する。昔の日本人は、優れた翻訳の語感を持っていたと改めて思う。今日の直覚は酸素、炭素、窒素の日本語の命名者は誰かと思った事からである。漢字『素』を自分も使いたい。世界を構成する基が『エネルギー』であると考えた。その『エネルギー』の日本語訳に『素原』を使いたい。何処か『元素』に似ている。『エネルギー』が世界の「素粒子」である、それが前からの思いである。

水素の発見 1766年ヘンリー・キャヴェンディッシュが分離発見したらしい。1783年アントワーヌ・ラヴォアジェがhydrogeneと命名したらしい。その日本語訳を『水素』としたのは巧い翻訳と感心する。物理的には、陽子と水素の判別が分からないけれども。それは電子の実像不明である故。電荷否定について『電荷』という虚像 をご覧いただきたい。

水素製造の消費エネルギー とても不思議に思っている事がある。『燃料電池』のことである。新しい発電方式として、急に脚光を浴びて、実用化が進められている。家庭の発電方式やハイブリット自動車などに燃料として使われる。水素の製造過程で、どれ程のエネルギーを消費するのかがとても気掛かりだ。エネルギーを生み出す原料・燃料『水素』を造り出すことになるが、その製造工程でのエネルギー消費量がいくらなのかという素朴な疑問が解消しない。家庭の発電方式で使う場合は、その機械の製造から材料の調達・発掘すべての産業の関係したエネルギー消費量を計算して、発電エネルギー量との損得勘定を明らかにする必要があろう。燃料自動車は確かに、排気ガスでは水だけしか排出しないから、環境の問題は幾らか改善されるだろう。地球環境過熱化の問題は科学技術全体のエネルギー消費量の総量で抑制する方向でなければならないのである。経済成長と言う視点だけで、政策・技術が論じられ、推進され易い現実を未来の為にどう考えるべきかが問われているのだ。悩ましい問題に、リニア新幹線問題がある。どれ程エネルギーを多量に使うかを考えているのか?地球がどんどん過熱化されて、植物が枯渇し、生物の多様性が消滅し、生態系全体が崩れた時、すでに人間もその生存が不可能になることを認識したうえで、エネルギー消費を競って行くのだろうか。北極海の航路開設とエネルギー掘削など、温暖・過熱化の加速である事を。水素熱資源活用の問題を地球過熱化との視点で見るべきだ。

燃料電池の原理? 水素の酸化現象。それが化学反応によるエネルギー発生の原理らしい。化学反応式で表せば、 O2+2×H2=2×H2O+E(エネルギー) となるようだ。こんな単純な化学反応でも、水が生まれて、エネルギーを利用できるとは大変なことに思える。原料の酸素と水素の保有する熱エネルギーと化学反応後の水の保有して排出されるエネルギーおよび利用される熱エネルギー(あるいは電気エネルギーと言うのかもしれないが)(損失も含んで)等の総エネルギー量は幾らなんだろう。原子が結合すると何故エネルギーを放出するのだろうか。『質量とエネルギーの等価性』から解釈すれば、水素と酸素が結合して、どんなエネルギー変換を引き起すのだろうか。どの質量がエネルギーに変換するのだろうか。そのエネルギー変換現象の物理的意味を理解できないのである。燃焼と言う熱エネルギーに関する関係記事、燃える『酸素』の力とは?および太陽は何故燃える? がある。

焚き火と蝋燭

焚火と蠟燭次々と分からない事に自分なりの解釈を重ねてみる。膨張に熱が隠れる極意かな」は2年前の年賀はがきの版画である。熱エネルギーが気体分子運動論で解釈されているのが現代物理学の常識論である。大学の理学系で仰々しく取り扱われている内容である。しかしそんな理論は理解できないし、間違いであるとの思いを表現した版画である。右の蝋燭は同じく熱エネルギーがともし火の光となる意味を考える絵図に描いた。

燃焼過程燃焼の化学式は

C + O2 =CO2 + E(熱、光エネルギーあるいは圧力・膨張エネルギー) のように書き表されよう。

薪も炭も蠟も燃焼時に高温度でガス化して、その燃焼成分の炭素 C と酸素 O の化学的結合として、エネルギー E を発生すると考える。その解釈が教科書での燃焼説明になっている。私はその解釈に納得出来ない。先ず化学式では、炭素も酸素も幾ら燃焼しても、その元素は増減しないとの前提での式と観れる。エネルギーEは燃焼エネルギーとして、丁度原子核分裂原理の核の結合エネルギーの開放と言う解釈に似て、魔法の力の如くエネルギーが放射されるように見える解釈である。原子核分裂では、結合エネルギー(この意味も捉えようのない用語である)と言うが、質量欠損としての意味は含んだ解釈になっている。だが、焚き火の燃焼現象は、どうも質量の変化は認識されていないようだ。様々な元素と酸素との結合が燃焼としてのエネルギー解放に利用できる。それぞれの元素ごとに燃焼の熱量が決まっているようだ。燃焼とは何か

燃焼とは何か 何故そのように燃焼熱が決まった量で発生するのかが不思議だ。その解放エネルギーの意味を理解する事が燃焼現象の物理的解釈であろうと思う。IT検索すると、詳しく燃焼熱量の数値が示されている。それがどのように確認された値であるかは、実際に実験して測定しないと必ずしも正しいとは確認できない。なかなか実験は難しいと思う。燃焼の意味を理解するには、逆に木材・石油などの燃料が太陽光線によるエネルギー蓄積で、この地上に生まれた訳まで遡って理解する必要が有ろう。それも難しい事ではあるが。ただその中でも植物の光合成の事はある程度分かっている。植物が地上の生命を育む為に、太陽からの光エネルギーを質量として変換して、その御蔭で全てのエネルギー連鎖が可能になっている訳である。考えて見れば不思議である。地球が生命を育んでいる訳ではない。全てはその太陽系の中心に在る太陽と言う『お日様』の御蔭なのである。地球の心臓部は地球の中心に在り、更にその系の中心の太陽がすべての生命を育んでいるのである。太陽電池も太陽光線を如何に効率良く取り入れて、エネルギー変換するかの技術として見られよう。シリコン表面から太陽光線を取り込む技術と見られよう。燃焼現象も太陽光発電現象も、どちらもエネルギー変換・獲得技術である。どちらもエネルギーに変わりは無い。

植物光合成 CO2 + E(太陽光線など) + 諸成分(水、土・空気中成分)= C(植物構成細胞成分リン、硫黄あるいは窒素など) + O2 + H2O

上の文章式で、光合成の意味を自分なりに表現してみた。

燃焼熱・光放射のエネルギーはどこからもたらされたか? 質量変換以外なかろう。質量とエネルギーは等価であるから(2018/02/13)。