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2017センター試験 物理レンズ問題を見て

大雪の中センター試験が実施された。受験生はじめ関係者の皆様御苦労さまでした。2日目の物理にレンズの問題があった。昨年の暮れに、レンズと焦点距離で『レンズの焦点』を否定した。3年前にレンズと光路で、レンズの焦点の意味を取上げて疑問を記した。今年の問題を見て、自分の能力不足のために教科書の理論が理解できない事からの誤解であれば、社会的混乱を引き起すようなことがなくて良いとも思うのだが、やはり残念ながら問題が間違っているとの意味を述べるべきと考える。御免なさい。
試験問題

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上の問題を見て少し異様に感じた。それは物体(蝋燭の火?)とレンズの寸法の違いである。余りにもレンズ寸法が大き過ぎると感じた。この図の寸法の違和感の原因に教科書のレンズ解釈に原因があるのではと勘繰らざるを得ないのだ。教科書の指導内容で重要な点はレンズの焦点の理解であろう。観測対象物体からのレンズ軸に平行な光線は必ず軸上の『焦点』を通る。と言う点であろう。
物体寸法拡大変更図

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物体の寸法が大きいと何が違うか。それは『実像』と言う図形の形状に違いが現れる。
実像とは何か?

%e5%86%99%e7%9c%9f434レンズ軸に平行な光線光路は『焦点』を通ると解釈されている。またレンズの中心点Oを通る光線は真っ直ぐ進むと解釈されている。試験問題の『実像』とは何かがハッキリとは理解できないのだが、写真機のフイルムに像が写る時のその『写像』の事なら焦点距離(この焦点距離と言う意味が曖昧である。太陽光線の写像位置を焦点距離と決めれば、レンズに一つの焦点距離が定義されることになり、曖昧さは消える。2017/12/31追記)の位置に、レンズ軸に垂直に表れると解釈される『像』の事であろう。教科書の理論の『焦点』の意味を図面上に用器画法で描いてみたのが上の図である。何方が描いてもそんなに違う筈はないだろう。図のように、得られる『実像?』は多分予想する図とは異なっているだろう。無理に教科書通りの『焦点』の意味を生かして描けば、ご覧のとおりの奇妙な『実像』となるのだ。こんな『実像』を教科書は求めて教育しているのか?物体の寸法がレンズの寸法に比べて小さければ、用器画法で得られる実像はこんなに奇妙な姿であるとははっきり分からないだろう。

レンズ機能の原理 焦点距離(写像距離と言うべきであった。その事はレンズと焦点距離で訂正とその訳を示した。2017/12/31追記)の位置に像は結ばれるのだ。その位置のフイルム面(カメラ)全面が対象物体からの『焦点』である。レンズ軸上に『焦点』があるのではない。レンズ軸上の『焦点』は物体のレンズ軸上の光だけが通るのである。だからレンズ軸上の『焦点』には物体のただ一点(軸上の物体の点)からの光しか像を結ばない。

単レンズでの両眼視界

Space of Yoshihira

金澤 喜平(カナザワ ヨシヒラ)の漢字氏名が何故Kiheiと間違って翻訳されるか?

My name is Yoshihira Kanazawa.

我々は2眼一対の眼で世界を見る。2眼で遠近を計り、周りの全景を意識する。遠い対象は望遠鏡で拡大してみる。1個のレンズで両眼を使って遠景を見ることなど誰もしないだろう。無意味な事だから。しかし、眼の視覚の機能を理解するのに役立ちそうであるから、考えることにした。

一個のレンズと両眼視界 観測対象の遠近はどのような眼の機能で認識するのだろうか。単レンズをかざして、遠方の景色をそのレンズを通して両眼で見る。視界がハッキリしないで、二つの遠景が見えるように感じる。レンズ無しでその遠景を見れば、普段の正常な視界が見える。その正常な視界はその距離がどれ程かを脳で評価して認識するのだろう。遠近認識の眼の機能は両眼に届く対象からの光(視界)の角度で脳が判断していると考えていたが、どうもそれは違うのではないかと思う。

%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba%e3%81%a8%e9%81%a0%e6%99%af%e8%a6%96%e7%95%8cレンズと遠景視界 レンズを両眼の中心軸にかざし、遠景を観測すると、像が二つに見える。そこで両眼の内の片方を閉じて、それぞれ片方の眼で観察してみる。するとレンズも遠景の像も左右の眼と反対側に移動した様な視界に代わる。眼で見るレンズを通した視界は予想とは異なるのである。その視界が何故そうなるかを光路とレンズの関係で描いた。この光路の関係が何故起こるのか。この図の意味は普通の遠近認識の眼の機能とは異なる特殊な場合である。その特殊な場合から見えることは、普段の遠近認識の機能の意味を考える実験としての役割を示すと思う。レンズなどの無い普段の両眼に依る遠近の視界認識の仕組みを考える切っ掛けになった。両眼で見るとは両眼の瞳の方向をその対象の方向に回転して揃えることで、両眼の光路が対象に対する角度を確定し、両眼と対象の間に二等辺三角形を構成する。眼に入る光の筋道即ち光路の集合としての遠景は、その対象の各部からレンズに入り、屈折して目に届くまで、すべて一筋の光路の集合に依り全体が構成された視界として眼の情報を脳で総合評価した認識機能になっている。その事の意味は、今まで光の眼の瞳への入射角度で理解していた遠近認識の解釈と実際は異なるように思った。

遠近認識と外眼筋(ガイガンキン) レンズ無しの平常時での眼の視界を考えて見る。眼球には左右それぞれに6本の外眼筋がある。視界はまず脳の水平感覚がその方向性を判断する基本条件になっていよう。それは内耳に在る平衡感覚器官の状態を脳が判断して認識しているのだろう。その上で、眼球の上下左右の方向を外眼筋で調節したその状況を脳は認識し、眼球の回転角で遠近認識をしていると考える。その時の光路は左右の眼の瞳が僅かに内向きに向いているので、対象からの各部の光がまっすぐ瞳に入り、殆ど屈折無しに眼球の硝子体管を経由して黄斑に達する。この解釈の基には眼の内部での視界認識機構が大きな意味を成す。眼での像認識が網膜に映るカメラ機構での解釈を採るか、硝子体管の光ファイバーを通した黄斑の中心窩の解釈を採るかによって変わってしまう。網膜説を否定しなければ、視界認識の脳機能を理解するのは困難であろう。これも素人の光の縦波空間像解釈からの感覚的解釈論である。眼の視界には焦点がまったく無意味であると同時に焦点距離さえも無関係である。従って、眼球や硝子体レンズ調節による屈折制御のカメラから類推した仕組みなど視界に関しては殆ど意味の無い事に思える。メガネに依る調節は角膜から硝子体管の入り口までの間の調整に役立っている事であろうと考えざるを得ない。網膜で像を認識する訳ではないから。

眼の機能に焦点距離の概念は意味を成さない。カメラとは違う。

レンズの機能

教育と科学がとても大きな問題に思える。今過去の、いや現在の教育内容で何か空(ムナ)しい、無意味なものが多くあるように思えて来た。来年度の新入生を迎える為の学力評価の『入学試験』が始る時期に来た。日本の教育制度では「理科教育」で『科学教育』ではない。理科の問題に既に伝統のレンズの問題も予定されているだろう。レンズの『焦点』と言う概念が何時から使われているかは知らないが、長くレンズの機能解釈の基本原理として教育内容に位置付けられて来た。『焦点距離』は重要な概念であるが『焦点』は存在しないのである。電磁気の『マグネット』の意味はその自然現象の本質を理解するには難しいかもしれないので、磁束で教育されている事をそれ程非難できないかも知れない。しかし、レンズの『焦点』については余りにもお粗末すぎるだろう。一体理科の教育者は何を教えているのか。考えない教育する側の社会的問題と言えないだろうか。天眼鏡、ルーペ、拡大鏡と呼び方もさまざまにある程に身近なレンズで、メガネなどもその機能を使う日常生活の必需品である。その機能がレンズを手に持って誰も確認しなかったなどとは信じられないじゃないですか。レンズの中心軸に平行な光線が一点の『焦点』を通過するなどと言う理論が罷り通る科学・理科とは何なんだ。ここに記す内容もただ感覚に頼るだけの思考が導くだけなのだが。

レンズに二つの機能 レンズには大きく分けて二つの機能があると観る。一つは拡大機能(ルーペ)、もう一つは写像機能(カメラ)の二つであろう。天体望遠鏡も顕微鏡も拡大機能を利用する器具・道具である。しかしそこには写真に記録する写像機能も重要なものになっている。拡大機能と写像機能の二つを兼ね備えているのである。肉眼で観測する拡大機能がレンズの基本の利用価値になっている。カメラのフイルムに映す仕組みは眼で観測する拡大機能とは異なるのである。カメラの焦点距離の位置で眼で見ても全く像は見えないのである。フイルムに映す写像のピント・焦点距離と眼で観測する視覚像の光の関係は全く異なるのである。眼は何を・どんな光の入射を見るかの認識の問題かもしれない。

拡大機能 レンズを使うのは拡大して、詳細に視たいからである。

%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e6%a9%9f%e8%83%bd%e8%a6%96%e7%95%8c拡大機能 レンズの焦点距離をFとする。単位は勿論[cm][mm]の長さである。確かに焦点距離が重要なレンズの機能を表す科学概念・用語である。ルーペで文字を見ようとする時、文字とレンズと眼の位置の間には自然にある関係があろう。レンズと文字の間の距離にはD<F、眼とレンズの間にはF<leの関係があろう。しかし丁度文字とレンズの距離Dが焦点距離Fと同じくなると何も見えなくなることが分かろう。その何も見えない状態は何故かと考えないだろうか。何か訳の分からないぼんやりとした普段経験しない視界が見える筈だ。何か見えるが、見えている物が何かが分からない視界である。きっとカメラの焦点ボケと同じ事と簡単に解釈して、気にも留めないで過ごすのだろう。拡大機能でレンズが使えれば何も不満はない訳だから、そんな見えない視界の意味を考えるなどの無駄はしたくないのが普通の生活の人だろう。何の得にもならないから。本当はそんな意味の分からない事にこそ大切な意味が隠されているんじゃなかろうか。その眼で見ている物の正体は、文字の一点の像(光)がレンズの全面から眼の瞳に入っているのである。だから眼は文字の一点の拡大像だけを見ている状態である。眼の位置を動かせばまた文字の異なる部分の光だけを瞳に取り入れている状態になるのである。その眼の位置にスクリーンを立て、像を写せばレンズを通した文字の像が写像される筈だ。なお、D=Fの状態は丁度レンズを通した像が正立像の拡大から、縮小の反転像に切り替わる境の点である。また、眼に映る視界、脳で認識する普通のルーペ利用時の視覚像は即ち拡大機能の場合は、眼の位置が変わっても拡大像の大きさは変わらないようだ。leが大きくなればレンズを通した視界が狭まり、眼をレンズに近付けleが小さくなれば、視界が広くなるだけで像の大きさはほとんど変化しないだろう。

拡大機能と眼の光路 眼のレンズからの位置が変わっても、拡大像の大きさは変化しないように見える。その訳はどう解釈したら良いか?

%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e3%81%a8%e4%b8%80%e7%ad%8b%e5%85%89%e8%b7%af拡大と一筋光路 あくまでも拡大の視界は感覚的な認識が基である。厳密に測定できるものではなかろう。拡大像の位置は感覚的に基の対象の位置と同じ所に在るように思える。その条件で解釈すれば、観測対象の或る一点からの光はレンズのそれぞれ無数の方向に入射している筈だ。その無数の光路の内眼の瞳に入る光の筋は一筋である。眼の位置をレンズに近付けても対象からの光の光路の内その位置に対応した光だけが眼の瞳に入ると解釈する。その様子が図となる。眼の光路の入射角が同じかと勘違いしたが、拡大像の位置が変わらないと感覚的に思えるので、結局角度が変化してしかも大きさが変わらないと言う現象で捉えた結果が図となった。拡大像の位置は全く感覚的なものであろうから、その意味では上の解釈図は場合に依れば人によって違うかもしれない。

スクリーン拡大写像 実験による確認。厳密な距離設定が必要だが、そんな装置は持ち合わせていない。天眼鏡の柄をクランプで挟んで固定。LEDランプ光源を観測対象に選ぶ。レンズの焦点距離Fも太陽光線の反転写像(そこには一緒に空の青色や白い雲の姿も一緒に写っている)の状態から大よその寸法として測る。残念ながら実施した科学実験の厳密性など保証の限りではない。しかしこれでも立派な科学実験として通用すると思う。レンズの機能の原理くらいは大体理解できるから。少なくとも『焦点』などの誤りはない。

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%8f%8d%e8%bb%a2%e5%86%99%e5%83%8fdfスクリーン拡大反転写像 D=F時のスクリーンの写像である。レンズの拡大機能を実験で確認した。光の像を写す必要から、LEDの小型ランプの光をレンズを通してスクリーンに映した像である。それを写したカメラの性能が良くないので鮮明さに欠けるが、紙面のスクリーンに写した像は拡大されて、LEDのランプの中のリード線らしき2本の影まで映っているのが分かるほど鮮明な写像である。この像の意味はもし眼で見るとしたら、視界の意味が分からない茫洋としたものになるのである。像が見えないのである。レンズとスクリーンの間で、眼で像を観測すれば、写像の一点に当たる位置に対応する瞳の点に入る光は同じ観測対象の一点からの光だけが全方向から入射するから、何も像は見えないのである。

実験結果に対する考察 少し距離の厳密設定での測定が出来たら良いがと思う。数mm程度の精度で実験できたら申し分なかろう。この大まかな実験では、測定対象距離Dと焦点距離Fとの間の関係が厳密にどのように切り替わるかは確認できない。D=Fと言うが、その今回の実験上の精度は曖昧なものである。クランプで挟んでランプとの位置関係は目視で適当なものでしかないから。さらにスクリーンの位置もいい加減である。何しろ光に関係した科学実験だから、もう少し光の物理的厳密性に沿った実験でなければ、世界の王者の光(『エネルギー』の素粒子と言う意味で)に失礼かとも思う。実験結果は拡大機能と写像機能の両方の機能を同時に映し出した結果である。D>Fで写像機能に移り、カメラの縮小反転写像となると思うのだが、このD=Fなのかどうか厳密ではないが、実験結果の写像は拡大反転写像である。Dが遠い遠方の大きな値なら、例えば太陽のような場合なら、縮小反転写像が焦点距離のスクリーン(スクリーンが燃えてしまうが)に鮮明に写る訳である。

レンズの写像機能 観測対象が遠い場合のレンズの機能である。スクリーンやカメラのフイルムにレンズを通して像を写す機能である。

%e5%8f%8d%e8%bb%a2%e5%86%99%e5%83%8f%e6%a9%9f%e8%83%bdレンズの反転写像機能(カメラ) この場合も、眼で観測するのとスクリーン上に映すこととは違うのである。写像機能のスクリーンで映る像は、その位置で眼で観測しても何も見えない。その位置は焦点距離で、ほぼls=Fに近い(少し大きい)関係にある。眼でレンズを通した反転像を見ようとすれば、相当距離leが大きくないと見えない。しかもその位置はどこでも見える。反転した小さな像が見える。

 

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%86%99%e5%83%8f%ef%bc%88d%e2%89%abfスクリーン写像機能(カメラ) D>FでのLEDランプの反転写像である。いわゆるカメラの機能である。ルーペの姿も影で写っている。そのルーペの像はランプの影絵であるから何も反転等していない。その中心の光の像がLEDのランプの光の写真の像に対応するものであり、それがレンズの機能に依る反転した像である。このレンズとランプの間の距離Dが変化するとその像を写すスクリーンの位置も変えなければならない。それがカメラの焦点距離を調整するピントを合わせる操作と同じ事になる。

自然の心 レンズは世界を見る不思議の窓である。レンズは教育の意味を考える要に見える。自然はただそこにその心を伝えている。君の居るそこで、君が見ている物に自然の心が開かれている。君がその思いを読んでくれなければ自然も哀しかろう。物理学は自然を見つめることがその学問の肝心である。自然を見ないで数式に頼り、数式で理解できると考えるような教育をしてはいけない。眼もレンズも自然そのものの心である。数式ではレンズの心は見えないだろう。身近で、自然の不思議を見つけることに教育の本源があろう。眼もレンズも世界を見る為に在る筈なのに、その本質(機能)を見ていなかったのである。理論と言う人間の創りだした色眼鏡の頭脳意識で都合よく考えていただけだったのである。いつ官製理論の『学習指導要領』による官製統制教育から日本が解放され、自由の学習が出来るようになるのか。

眼球の光路とカメラ機能ー?ー

科学は『科学的』と言う一種特有にして、日常生活と隔絶した別世界で発揮される高度な知的能力が要求される学問分野と看做されている。そこは伝統に縛られ、過去の業績に支配された共通認識の上に積み重ねる競争的発見の慣習の世界である。しかも、分野ごとに概念や手法が必ずしも共通であるとも限らない。そんな『科学的』と言うべき対象に人の眼球の機能があるように思う。そんな中で全く医学には無知の素人の私が考える事であるから、『科学的』と言う範疇には入らない話になる事には間違いなかろう。しかし、『科学的』から外れた日常感覚だけからの考え・思索でも『科学的』以上の科学的な論理があると思うのだ。それは光とは何かを問う事から始まる視点が必要であろうからだ。光の意味を、その空間像を捉えることに於いては実験的には無理であろう。光一粒の形状を見ることなど困難であることは誰もが分かろう。そんな光と眼球の関係を理解することは大変かもしれない。しかしカメラと言う科学技術の結晶が日常生活に生かされ溶け込んでいる。それは光と人間の世界認識の間を繋ぐ架け橋の具体例でもあろう。眼とカメラの間の光の綾取りを考えてみようと思う。

眼球構造の光学的機能

%e7%9c%bc%e7%90%83%e3%81%ae%e7%84%a6%e7%82%b9%e8%b7%9d%e9%9b%a2眼球構造と焦点距離 光の形と同じく眼の中味を理解することは困難かもしれない。殆ど水とタンパク質でできた構造体であろう。殆どの専門的解説図には『硝子体管』は描かれていない。それは解剖しても『硝子体管』と硝子体液の区別がつかないからであろう。『硝子体管』は発生過程で血管が通りレンズの水晶体の成長に重要な役割を持っていただろうから、その時点ではその存在は確認できたのであろう。眼がどのように成長するかの過程までは謎であろう。何故『硝子体管』があると考えるか。それはカメラの原理と比較した時に網膜上に視覚の像が結ばれると解釈することは無理であると考えざるを得ないからである。光の屈折はどのような条件で起こるか。光の伝播空間の媒体の物性的変化で起こるのである。眼球は殆ど蛋白質と水であろう。屈折を起こす場所は空気と角膜の境界であろう。光が眼球の中に入れば、水晶体でも殆ど伝播媒体の物性的変化はないと考える。水晶体構造は発生学的な関係から積層構造ではないかと仮想する。水晶体内部における光の伝播状況を空想すれば、その積層分布構造が光の垂直進行を整える役割になっていると思う。カメラのレンズのような伝播媒体間での物性的差による屈折現象は起きないと解釈せざるを得ない。なおこんな素人の水晶体解釈は、魚類の眼球構造が蛋白質の球状積層構造をしていると言う遊び心の発見からの推察でしかないが、生物的共通性からの類推でもある。それは魚眼の標本?に在るように、眼球は玉葱状の積層を成していることを類推した。さて次に『黄斑』の解釈である。眼底検査で、粒粒の点が見える場所が『黄斑』であるらしい。その『黄斑』の点は何故『点』に見えるのか。その訳は何なんだろうか。眼球の解剖学的所見は大昔からの解釈であった筈だ。『光ファイバー』等の科学技術もない時代の解釈である。だから、伝統的解釈の科学論には『硝子体管』など有りようがないのだろう。一本一本の蛋白質の線状繊維の光ファイバーなどが光の伝播通路・光路になるなどの解釈概念は存在しないかもしれない。光がエネルギーの縦波と言う概念がないと横振動波ではなかなか感覚的にも捉え難いと思う。しかし『黄斑』部が視力・視覚認識の重要な部位である事は専門的に共通理解されている。網膜全体ではない事は分かっていると思う。さらにその中心部は「中心窩」と言う窪んだ形状をしていると言う。カメラでフイルム面に視界を映す事と比較してみたい。

眼球型カメラ

%e7%9c%bc%e7%90%83%e5%9e%8b%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9眼球型カメラ 眼の機能をカメラの機能で解釈するのが教科書的常識であるようだ。だからその事を逆にカメラに眼の構造を応用して、カメラを作ったらどうかと考えた。それがこんな設計図になった。特に工夫した点はフイルムの形状である。その面は基本的に球面の一部を成し、更に焦点距離の概念を覆すべく窪みを付けた点である。なかなか難しい撮像面であるが、こんなフイルム面を工夫したら、教科書の解説用カメラになるかと考えた。日本人の眼球の長さは平均的に24~25㎜程らしい。レンズの『焦点』の物理学的解釈が間違いだと指摘した。平行光線が焦点に集まると言う理論は有り得ない。その『焦点』の解釈が眼球の中心窩の窪みについても焦点距離の意味にそぐわないとは感じない教育的問題になっているのではないかとも思う。光の屈折現象がどのような伝播媒体の境界で起きるかも感覚的に理解していないのではないかと危惧する。みんな教育効果であろう。

レンズと焦点距離

極める専門を見失った浦島太郎は競争社会に向かないのかな?昔は電気工学が自分の専門分野だと少しは思っていた。去年は変圧器の奇想天外診断などと言う思い付き実験が長年実験的証明も無しで悶々としていた電気回路に明確な電線路空間におけるエネルギー分布の姿を捉えることに結びついた。それも電気の教科書の内容に背くような結果になった。その流れから電気回路現象の解釈に今年は幾つかの進展を得たと安心している。いつも考えることが物議を醸すようなことが多いようで誠に恐縮している。レンズと焦点距離などと言って何を書くかと責められそうで誠に心配ではある。高等学校の3年生の物理の授業でレンズの機能を教わって、感心して了解し、納得して長いことその教科書の解釈を信じて来た。ここ数日眼とカメラの関係で、レンズの焦点距離に頭の中で混乱が生じていた。以前書いたレンズと光路を見たのが切っ掛けでもある。焦点距離と光路の話として、雑科学ノートー光学機器の話 などがある。この光路と焦点距離の解説が理解できないのである。そのレンズと光路の関係を全く数式を使わずに、日常用語で説明してみよう。

(2017/11/18)追記。 『焦点距離』とはどのような定義用語なのか分からなくなってしまった。一つのレンズには一つの焦点距離しか存在しないのではないか?と考えたいのだが、カメラの焦点距離はそんな意味では使っていないようだ。 理科や物理で教えるレンズの機能は一つのレンズで、その光学的光の道筋を説いて理解を促している。しかし実際のカメラの『焦点距離』は上の説明にあるように、11mmと数100mmとで、遠くの像が大きく拡大された望遠レンズでの像が示されている。カメラの『焦点距離』はレンズの機能説明の意味とは全く異なった使い方をしている。デジタル一眼レフカメラの基礎知識は画角と言う用語との関係で解説されている。もう少し考えたい。コメントに対する意見で考え違いであった事から追記となった。用語『焦点距離』の定義が明確か(?)の問題でもある。次の図で考えて見た。

レンズの写像と焦点距離(焦点距離とは?) カメラで使う焦点距離とレンズの焦点距離との用語の意味が必ずしも同じとは見えない。筆者自身も明確に捉えていなかったようで、実に不甲斐ない。実用的にはレンズはカメラとしての光学技術を生かす事を求めるものである。しかし学校教育でレンズとしての機能を学ぶ場合には、カメラの焦点距離は理論的に難し過ぎて、学習するには困難である。単一レンズの光学的機能を理解する事が先ず基礎として必要であろう。その場合の焦点距離とはどのような意味で定義するかの問題として捉えたい(筆者の独断であるが)。無限遠の太陽の写像はレンズに決まった写像距離即ち『焦点距離』を示す。それを焦点距離と定義すれば分かり易いと思う。そのレンズを使って被写体の像を写すと、その写像位置は太陽の写像より必ず離れた位置に結ぶ。その関係をレンズ径11㎝のもの(下の手持ちレンズの①)で調べた結果が上の図である。同じ寸法の観測対象・被写体A、BおよびCをレンズを通して衝立に写す。少し遠いAは太陽の写像距離とほぼ同じ距離に小さな像を結ぶ。観測対象が近付くと、写像位置は離れて結び、像は大きくなる。この写像位置をすべて対象に対しての、それぞれの焦点距離と言っているようだ。それがカメラの焦点距離の意味に近い。ただカメラでは、望遠レンズなども含めるとなかなかその焦点距離と言う用語の意味はレンズの意味を理解する事とは繋がり難いように思う。『焦点距離』と言う用語も観測被写体に対する鮮明な写像を得るそれぞれのレンズからの写像距離であるという意味で使われている。無限遠の太陽の写像距離を焦点距離と決めれば、レンズ単体に対して、一つだけの焦点距離となり混乱しないと思う。ただカメラでの使用とは違ってしまうが。さて上の図のような写像距離を簡単に調べるには、手にレンズを持ち被写体を観測しながら、レンズと眼の距離を変えて、丁度被写体の姿が消えた時(被写体の像が正立像で見える状態から眼を離すと或る位置で像が見えなくなる。視界が靄のように何も見えない状態に成る。その眼とレンズの距離が写像位置に成り、衝立に像が写る焦点距離と言われる距離である。それ以上に眼を離すと、反転像が見える事に成る。その眼で見えるレンズとの間の距離は焦点距離・写像距離とは何の関係も無い距離である。)のその距離が写像距離(普通に言う焦点距離)である。形が消える未経験の写像となる距離の時が所謂一般に言う焦点距離に当たる。その点の前後で、視界に見える像は正立像から逆転像に丁度切り替わる境でもある。眼で見えなくなる位置がいわゆる焦点距離(フイルムに写る写像距離)であるという意味が分かれば、レンズの実像と言う意味が理解できたと言えるだろう。教科書の『焦点(レンズ軸に平行な光線が収束するという点)』と言う概念は無意味であり必要が無い。また理解不能の状態だ。ウイキペディアに焦点距離がある。この焦点距離の定義は太陽の焦点距離と同じ意味である。カメラの写像の距離(フイルムの位置)とは異なる意味だ。??。

 

%e5%ae%9f%e5%83%8f%e3%81%a3%e3%81%a6%e4%bd%95%e3%81%a7%e3%81%99%e3%81%8b実像って何ですか? 凸レンズの機能の説明の教科書的解説方法である。レンズに入射する観測対象からの軸平行光線の光路は焦点を通り、レンズの中心を通る光路との交点に実像が結ばれると説明される。そんな実像はありません。おそらくカメラの撮像面に写る反転像を解釈する原理としての説明になったのであろう。

%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9%e3%81%a8%e7%84%a6%e7%82%b9%e8%b7%9d%e9%9b%a2カメラと焦点距離 カメラのフイルムや撮像面は丁度焦点距離(この焦点距離と言う意味が曖昧なのである。カメラの写像距離で被写体までの距離で変化するから焦点距離と言う用語で解釈すると、焦点距離は無限に存在する訳である。その『焦点』と言う意味にどのような意味を持たせているかが明確でなければならない。その『焦点』の用語が、単一レンズの原理として使う教科書用語『焦点(こんなものは存在しない)』との意味と関係付ようとする処に混乱の基が生まれる。平行光線の『焦点』は存在しない事を知るべきだ。2017/12/28追記)の位置に在る。光が焦点を通過した後に出来る像などではない。カメラの像は確かに反転像である。カメラについてはデジタル一眼レフカメラ (この解説記事でも、「レンズの焦点距離」と言う表現が使われている。しかしレンズに決まった焦点距離が定義されている訳ではない。レンズと観測対象との距離で、その写像距離はそれぞれの距離に対して、無限に存在する。だからレンズの焦点距離と言う表現は誤解と混乱を招く。太陽光線の焦点距離と言う意味で定義すれば、確かにレンズに一つの焦点距離が確定する筈だが、そのように定義されている訳でもない。2017/12/28追記)が参考になろう。

%e3%82%ab%e3%83%a1%e3%83%a9%e3%81%ae%e5%8e%9f%e7%90%86カメラの原理 薄暗い部屋で、障子戸をレンズを通してレンズから焦点距離(太陽光線の焦点距離で、実際はそれより少し大きい筈であった。写像距離とすべき意味を間違っていた。2017/11/21追記)だけ離した紙に写すことが出来る。レンズと距離と像の関係はカメラの原理を表している。この紙に写った像を実像と言えばそれは理解できる。しかし教科書の説明の焦点距離より後方の像は存在しない(文末のコメントの指摘通り、間違いでした。太陽光線の焦点距離より必ず後方に写像位置は来る。2017/11/21訂正追記。)。

焦点の意味が分からない

%e6%89%8b%e6%8c%81%e3%81%a1%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba手持ちレンズ ①は直径11.5cm 、f=30cm (焦点距離)でジオプター+3Dとある。②は直径5.25cm 、f=10.5cm程。焦点距離は太陽光線を集光して測定した。老眼鏡も同じ凸レンズで、同じ機能の特性を示す。メガネの焦点距離についてはハヤシメガネ度数・焦点きょり早見表 にジオプターとの関係が示されている。また高校物理の教科書の理論がメガネの理論ーFNの高校物理 に解説されている。この高校生が学習する内容がとても難しくて私は分からないのである。特に問題と考える点が焦点距離と光路の関係である。

拡大鏡の例

3d%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e9%8f%a1+3D拡大鏡 焦点距離(約30cm)より短い5cm程での拡大。目の位置には無関係に同じ大きさに見える。

%e5%86%99%e7%9c%9f381焦点距離(この焦点距離は太陽の写像距離で解釈していたが、必ずしもそのような定義ではなかった。2017/12/28追記) レンズを手にして考えた。レンズで文字を拡大してみる。文字とレンズの距離が焦点距離以内なら、眼をレンズに近付けても、遠避けても文字の大きさは同じように見てとれる。

%e5%86%99%e7%9c%9f375眼で見るレンズの像① 正立拡大像はAが焦点距離fに対してf以下であれば、ほぼ同じ大きさに見てとれる。目の位置Bの距離に関係なく。この拡大鏡のレンズ機能はどこに像を結ぶと言うものでもなく、眼とレンズの距離Bがほとんど零でも文字は同じく見える。この意味は目に入る光の光路がどの位置でも同じように存在することを示している。目の位置がBの範囲のどこにあっても眼の瞳に『ア』の文字の各点からの光が同一立体角の中に含まれた立体錐の範囲で入射すると言う事である。

%e5%86%99%e7%9c%9f377眼で見るレンズの像② 反転縮小像。Aが焦点距離より相当大きい場合で、カメラに近い状況。Bが焦点距離以下で像はボケる。Bがf以上なら比較的鮮明な反転像が見える。B=fの時が焦点距離の意味を如実に説明している。その時何も眼に像は見えない。その意味を考えて欲しい。その答がカメラの光路の解釈になる。

レンズを通した眼およびカメラの光路 これが難しい。カメラの光路はどのように結像を結ぶか。フォーカス(絞り)に依る光量の意味を合わせて考える必要がある。

カメラの写真と光路 カメラは焦点距離(写像距離か・・?)にフイルムがあり、そこに像を結ぶ。今は技術革新が進み、カメラもその機能をデジタル技術の仕組みにしてしまった。像も画素の点のパズルの組み合わせになった。カラーフイルムは一部を拡大してもアナログであるから鮮明な像が印刷できる。そんな昔のカメラを眺める。

nikon-fe2一眼レフカメラNikon FE2  裏ぶたを開ければ、カメラの原理が見える。

%e7%84%a6%e7%82%b9%e9%9d%a2%e5%83%8fカメラバルブ(解放)のフイルム面の像、像は何も見えない。

%e3%83%88%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%83%9a%e3%83%bc%e3%83%91%e3%83%bc%e5%86%99%e5%83%8fフイルム面のトレーシングペーパー上の写像(解放撮影)。フイルム面の反転像(障子戸)が鮮明に写っているが、その焦点距離面で眼で観測すると何も像は見えない。

レンズ機能の焦点距離 焦点距離(これも写像距離と言うべきか?)に結像する写像はその位置で眼で見ると決して像は見えない。フイルム面の2次平面上の各点にレンズの全面を通した被写体の各一点からの光が到達する。その光路は焦点などを通らない。

%e6%9c%aa%e7%b5%8c%e9%a8%93%e3%81%ae%e8%a6%96%e7%95%8c未経験の視界 今チューリップをレンズを通して見るとする。目がレンズの焦点距離に在るとする。その位置には2次元平面でチューリップの反転像の光の模様が描かれている。しかし目で観測すると、その観測像は現実世界では決してお目にかかれない渾沌の視界である。目の瞳にはチューリップの或る一点からの光がレンズ全面を通して到達する。だから瞳には上下左右全面からチューリップの一点の赤い光が入射することになる。それがフイルム面なら、その点に鮮明なチューリップの一点の像が写ることになる。目の位置を動かせば、その2次元平面のそれぞれ対応した反転像の光線の視界になる訳である。

レンズの光学理論と教育 (2017/11/21追記)単一レンズの解釈で、『焦点』と言うレンズに平行な光線が収束するという点など存在しない。その単純な疑問からレンズの機能を理解しようと考えたが、高度の光学機械のカメラ、望遠鏡および顕微鏡等の虚像概念なども含めて考えるととても複雑な機能で、単純には理解できない事を知った。以下の記事での教育に関わる問題については、筆者も『焦点距離』の意味を太陽光線の焦点距離と捉えた間違いもあったようでお詫びしたい。光学と言うレンズ一つの機能でも、その基礎的理解が教科書の『焦点』の解釈で間違っている事が何故なおざりにされているかは、教育者側の大きな問題であると思う。教育に対する専門家が問われているのではなかろうか。顕微鏡や望遠鏡の光路の意味を考えて見る必要を感じている。焦点距離と写像距離の用語の使い方なども含めて。以上2017/11/21追記。レンズの話は高等学校の物理教育で教える内容である。上に述べた考察は教科書の理論が間違いであることを論じた事になる。何も特別に科学研究費を請求する程高度の研究などではないのだ。レンズを手にして光の像がどのように出来るかを眺めてみれば分かる筈だ。日常の遊び心で分かる問題だ。どんな高度の数式を扱っても理解できない問題だ。こんな基本的な光の現象が間違って教育されていたことになる。教えるとなれば真剣にその意味を理解し、とことん納得して疑問の無い自分の考えを子供達に教える筈だ。教科書に書いてあるからと言うだけで、納得できるのだろうか。科学理論とは何なんだ。入学試験では、レンズの解釈に焦点は必ず光が通ると答えなければ間違いとなる。しかしその答が間違いである。誤った教育である。学習指導要領が間違っている。電気現象で『電流』が自然界の真理であるかの如く教育される『物理学』の問題と同じ事である。日常の生活感覚と厳めしい科学理論の間を遮る絶壁のような社会問題と看做せよう。なお、とても詳しい解説がある。光と光の記録ーレンズ編 は所謂専門家の解説であろう。このような厳密に理論を展開されている方の解説にも異議を唱えなければならない事が哀しいのだ。レンズへのレンズ中心軸に平行な光線が焦点を通過すると言うレンズ機能の解説が間違いである。(2017/08/24)追記。極めて専門的な記事に失礼でした。確かに近軸光線について焦点がずれることまで詳しく解説されています。平行光線がすべて焦点を通ると言う『焦点』があると言えば、それは違うと言うことを言いたかったのです。それ程単純ではないと言う意味です。この論説はさすがに専門家の詳細な検証記事で素晴らしい。それが近軸光線について焦点の意味に踏み込んだ解説であり、平行光線が『焦点』を通る訳でない事を示していると思う。

眼は一筋の光を観る

「一筋の光路」という意味で間違っていた。文末に訂正させて頂いた(2020/4/25)追記。%e4%b8%80%e7%ad%8b%e3%81%ae%e5%85%89%e8%b7%af一筋の光路

自分の眼の観る感覚を思い巡らしてみる。目の事など何も分からない者が眼の機能を考えるなど困ったものだと自分を責めながら書かせてもらう。目の機能はカメラとは違う。網膜に像を映す訳ではない。カメラはフイルム、撮像画素等の平面に全面に被写像を映す。眼球も水晶体と言うレンズ体があり、カメラに似ているが、網膜に被写像は写さないと解釈する。網膜は光の量がどの程度かは判断する機能を持っているかもしれないが、像の認識の機能はなかろう。網膜全面に亘っての細胞に光の情報を分別、認識する機能を持っていると解釈することが感覚的に困難と感じる。済みませんが科学的裏付けもデータもない話です。

黄斑 眼底に点々の模様が見えるようだ。その模様の意味は眼球の機能としてどのような意味なのか。2.黄斑って何ですか に解説されている。さてその黄斑で視界の全てを認識するとすれば、水晶体のレンズをカメラのような機能で捉えることは難しいだろうと考える。その事に対する合理的解釈は光ファイバー機能の『硝子体管』しかなかろう。硝子体管は人の幼児のときには、見えるが成長すると消えてしまうものらしい。眼球の硝子体と同一の蛋白質であれば、消えて見えなくても光の通路としての役割だけは残っている筈だ。そのファイバーの切断面に現れる模様がファイバー一本一本の形として黄斑の模様になっていると解釈したのである。眼球の光ファイバーと色覚 がその意味での解釈。この記事についての「つっこみどころ・・」の論評がある。人の色覚を物理的に説明 に在るように色覚についてはなかなか分からないようだ。

一筋の光を観る(2020/4/25追記)この一筋の光という意味を取り上げた訳が理解できない。人の視界は角膜に入射する視界の対象の一点からの多くの光路の光が角膜表面で屈折をして多くの筋で入射する。その多くの筋の入射光が水晶体レンズに入り、その水晶体の終端部で、光ファイバーの硝子体管の入口で焦点を結ぶと解釈する。光の一筋という意味が間違っているようで以下を削除する。

レンズの焦点距離についての考察の途中の話として取り上げた。

電界とは?

電気磁気学には『電界』あるいは電界強度という言葉で定義する概念がある。そんな常識的な用語の意味さえ理解できない自分は少なくとも専門家とは看做されないだろう。しかし、『電界』などの意味が分からないと言う方がより深く電気磁気学の本質を理解している筈と言いたい。いつものことで恐縮するが、『電荷』を否定したら空間に電気力線も描けないから、分からないというより他に言いようがない。

古い研究会資料 電気回路のエネルギーの記事を書きながら、空間の電界、磁界をどう説明したら良いかと少し考えた。29年も前の資料に同じように『電界』についてあれこれ考えていた記事を見つけた。それをついでに書き直してみた。

電界の意味?電界の意味は? 分からないことを穿り返した記事で申し訳ありません。これでも真剣だったのです。ファラディの法則と速度起電力の所で、ご意見もありましょうが、多分コイルリングを磁場内で横切る位の意味に取ったのかと思います。

電界の意味?(2)電界と光速度 当時は既に電気現象『エネルギー』によるものと確信していた。その点では現在論じている内容も殆ど変りのないものと言えよう。『エネルギー』の流れとして磁束概念に見切りをつけて、試みていたことが分かる。こんな考察を考え合わせれば、『電界』など分からないという以外ないと思う。

衛星放送の電磁波方程式を解剖する

1864年マックスウエル電磁場方程式が世に現れた。ファラディの電磁誘導の発見から30年程経った。1887年、ヘルツの実験(感応コイル間での火花放電信号の空間伝播)で証明されたのが、ヘルツは無線通信の可能性を否定していたという#文献#。イタリアのマルコーニが1896年3kmのモールス信号による無線送受信に成功。無線通信は海軍の軍事利用や、1912年タイタニック号沈没事件で、無線通信の義務化などの話が#参考文献に面白い#。

1930年半ば過ぎには、アメリカ全土にラジオ商業放送が行き渡ったと。テレビ放送から、衛星放送更には携帯通信器、IT通信と現代生活に電波通信は必須の科学技術となっている。その通信技術の理論的原理はマックスウエル電磁場方程式をその根拠にしている。学校教育ではその方程式が電波信号伝播の欠かせない知識として教えられている。結構難しい偏微分の数学的素養を要求されることになる。本当にその方程式しか電磁波の伝播現象を理解する方法が無いのだろうか。

マックスウエル電磁場方程式の意義 今まで、長い科学技術の理論的根幹として、歴史の中で学校教育を通して世界の模範であった。しかし、もうそんな難しい微分式を使わなくても、光の縦波の伝播現象と同じ見方で理解できる筈である。星の姿を捉えるのに、電界や磁界など全く関係ないのである。星の光は、何も星が放射信号を制御して放射している訳ではない。ただ光の量を歪みなく反射望遠鏡(パラボラ球面鏡か放物面鏡かは知らない)で多く取り入れるだけで鮮明な星の姿が見えるのだ。それは光がただエネルギーの縦波でしかないからである。光と電磁波は同じエネルギーの縦波でしかないのだ。

衛星放送電磁波衛星放送電波 衛星放送を例に、その電波送受信機能を電磁場伝播方程式の電気的概念でどのように理解できるかを考えて見よう。衛星放送の特徴はその電波送受信方式の基本にパラボラアンテナを使う事である。パラボラアンテナは反射望遠鏡の反射面と同じ放物線の曲線から成り立つ球面に成っている。その様子を図で上に描いてみた。衛星も電磁波の送受信にはパラボラアンテナが使われる。勿論衛星放送の受信にはみんなパラボラアンテナが必要である。

放射電磁波 衛星からの放射電磁波はパラボラアンテナの中心軸に対称な球面波として放出される。その電磁波の有る立体角の波面を受信パラボラアンテナで捉える。その僅かな球面波の部分で、もしマックスウエル電磁場方程式を考察対象として取り上げるとすれば、その面で変位電流、電界および磁界の空間ベクトルを決めなければならない。元々衛星からの電磁波の電界、磁界のベクトルを決めなければ、受信面の電磁波の電磁界ベクトルを決める訳にはいかない。衛星からの放射電磁波は先に言ったように、軸対称の球面波である。放射源からの立体角内ならどこからも同じ電磁波を受信できる。従って、電界、磁界および変位電流のベクトルが軸対称に描けなければならない筈だ。衛星のパラボラアンテナから放射された電磁波の球面に、その電磁波の変位電流、電界および磁界を描けるだろうか。中心軸上の電磁波が一番強い筈だ。中心は軸に対称に電磁界は分布している。その最も強い中心軸の変位電流が描ければ、マックスウエルの方程式の有用性も理解できる。電界、磁界の模様が空間に描けないと私は理解できないのである。難しい数式よりも、目の前に空間を仮想して、そこに電磁界などの様子を描く事から始めて、それを数式に表現する手順を踏むのが日頃の思考方法である。だから抽象的な数式表現は能力不足で、不可能なのである。

電磁波の形 放射された電磁波は要するに縦波のエネルギー密度波でしかないのだ。そのエネルギー密度は軸対称の電球の配光曲線の球面の分布面と同じでしかない。ただデジタル信号波によるエネルギー波の縦波である。だからどこで受信しようとそのエネルギーを捉えれば同じ放送が見られる。何も電界,磁界など理論は要らないのだ。エネルギーの強さだけである。放送技術はその中に想像もできない技術革新の積み重ねによって可能になっている事は忘れてはいけない。その恩恵を受ける事に依って、現在の生活が成り立っているのだ。技術への感謝と、マックスウエル電磁場方程式の意義は全く違うのである。光のエネルギーの縦波伝播を理解すればそれで十分である。空間エネルギー波は数式に表現できないから、理論式化としては難しいかも知れない。空間分布波形は厳密には、正弦波形とは異なるだろうから。

#文献#電気の技術史 オーム社(山崎俊雄、木本忠昭共著)。

新世界-科学の要ー

少し遅すぎた。新世界への扉ーコンデンサの磁界ーに対する解答である。『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質ーを昭和62年電気学会全国大会で発表してから、電磁界の本質に辿り着くまでの年月は長かった。今年の桃の節句に、ようやく本質を捉えた。余りにも単純すぎる結論である。その結論を示そう。(2017/11/02)修正追記。下の図のエネルギーフローにはやはり電気的『極性』が無い点が欠点である。電極の負極性側のエネルギー流の電極面にそう流れは図の通りで良かろう。正極性側は少し修正したい。2017/11/07 訂正した。

静電界静電界のエネルギー流のエネルギー流

次のように修正する。

写真590コンデンサ内のエネルギー貯蔵機能を考えた時、極板間に二つのエネルギー流があるとは考え難い。静電界と言う空間にはエネルギーが貯蔵された状態である。コイル内の磁気エネルギーもコンデンサ内の誘電体エネルギーもエネルギーに違いは無い。『電荷』での解釈には矛盾で論理的に成り立たなかろう。そのコンデンサに相当するロゴウスキー電極間の高電圧の空間にはコンパスで検出される磁界が存在する。そのコンパスと静電界と言う空間の間には『エネルギー』一つで統合した解釈が出来るのだ。そのコンパスのエネルギー流と平板コンデンサ間のエネルギー流との間の相互協調力(エネルギーの流れが同一方向に合わさることで力が強まる意味)で、コンパスの指示方向が決まると解釈する。平板電極でも上部電極と下部電極の周辺で、それぞれの磁気方向が反対になる。その訳を修正前の図では、下部電極(正極の電極)でも表面からエネルギーが流入すると解釈して、そのコンパスの指示方向が決まると考えた。そこに早とちりがあったと反省して、修正した。しかし、この解釈も実験的に明確にその原因・理由を示せる訳ではないので、あくまでもロゴウスキー電極に因る実験データをどう解釈するかの筆者の感覚に因るところが基本になっていることを申し添える。以上追記(2017/11/07)した。

その発表当時の認識は、只電磁界理論の論理的矛盾を確信していたから、発表内容については些かも不安を抱いたことはなかったが、エネルギー流の実相を捉えるところまではいっていなかった。『静電界は磁界を伴う』の解説に矛盾の意味を記してある。しかし、上に記した結論に至るには磁場のエネルギー流を捉える必要があった。2008年に日本物理学会で、磁力密度 f=rot(S/v) を発表するまで、待たなければならなかった。その結論が磁界・磁気概念の本質である。地磁気とコンパス にエネルギー流とコンパスの指示方向の意味を解説した。その磁石とエネルギー流の力の関係から、静電界の磁針の指示方向の変化する訳が明らかになる。以下#・・#の部分は早合点の間違いとして削除する。#留意頂きたい点は電界の極性には無関係である。プラスとかマイナスとかの電界方向には全く関係ない。金属電極の表面に沿って、外部から中心方向へ『エネルギー』が流れ込むのだ。従って、電極ギャップの中間平面から外部に『エネルギー』が流れ出ると解釈しなければならない。その『エネルギー』の流れる閉ループは、電極外部空間での様子を捉えなければならないが、そこまでは分からない。また電極中心軸には『エネルギー』の流れは無いと解釈する#この結論を持って、長く追究して来た『電荷』概念否定の長旅は終わって良かろう。クーロンの法則を斬るの説明でもある。

ここに示した静電界のエネルギー流の解釈が、すべての電磁界の本質を理解する要である。エネルギー流の速度は光速度に近いだろうが、電極によって拘束されている点から、どの程度の速度かは分からない。

『電荷』による科学理論、原子構造論、あるいは分子結合論や分子立体構造の解釈にも認識の変革が要請されるだろう。少なくとも、学校教育での『電荷』の取り扱い方は緊急を要する問題である。理科教育全般の問題でもある。『電荷』概念による教育は無駄なのであり、間違っている。

コンパスの回転現象 電極の周り、東西南北で、エネルギー流の方向は変化する。例えば西側で考えれば、上部電極付近では地磁気の方向と電極エネルギー流による磁気方向は逆向きになる。その結果、磁針に働く力も二つの逆向きの力が作用することになる。その為、コンパスが交互に不安定な力関係で回転する現象を来たす。それは当時の実験中に経験した現象であった。東側でも下部電極付近で同じように回転現象が見られるだろう。

『電界』も『磁界』も『エネルギー流』である。電界も磁界も自然の物理としては同じ、ただ『エネルギー』の観方でしかない。この解釈が『物理学』の基礎概念と成らなければ、真の科学技術の重要性を理解できない。大学は日常生活の最先端科学技術を的確に理解する為の基本を教育する機関でなければならない。高尚な学理など何の役にも立たない。実学の指導に徹するべきだ。実学ほどその根底は深い。原子核燃料のウラン235の原子構造を説明できますか?外殻に電子が92個回る原子構造が論理的に成り立つ訳が無い。空想の論理で大学が遊んでいる。

『以下余白』の不覚  30年の科学基礎理論の研究もその原点で不毛と成るか。外務省、法務省、総務省等日本政府の戦争処理に掛かっていよう。住所履歴に京都府舞鶴市溝尻海軍住宅が無ければ?私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府 。

人の色覚と光の三原色

人の色覚。人が身の周りを見渡せば、そこには彩り豊かな世界がある。何故こんなに豊かな色の感覚が目に備わっているのか。光に色がある訳ではない。光に色が無いのに周りは色彩の世界だ。色彩は光が運んで目に入ることで生まれる、脳の認識世界なのだ。人は共通の色彩感覚を備えている。こんな常識外れの疑問や『問答』は、経済的な利益からは全く無関係の領域の科学論考と言えよう。むしろ科学と言うより哲学の領域かもしれない。きっと誰もが薄々気付く事であるかも知れないが、社会的・時間的束縛や置かれた競争的立場から、追究するだけの余裕が無いのが現実である為の、無関心の部類に捨てているのであろう。しかも科学論文にするだけの、説得できる資料・データを揃える事が難しい。論ずる視点も、論点も広い範囲を俯瞰しなければならないから、データを揃えられない。そこに描く世界は、自分の感性に響く現象の姿を、感覚的認識の世界を、矛盾のない未来像として示す論述になるだけである。光の物理的本質と人の光に対する神経細胞の間に存在する総合的統合の解釈を示すことが必要になる。IT検索すると、光は横波の振動波だと決め付けられる。その教科書的論理を筆者は理解できない。光の振動波ではとても色覚について論じるべき筋道は見えてこない。光はエネルギーの縦波である。この光の捉え方で初めて色覚の疑問に沿える話になる筈だ。眼球内の光伝播現象が最初の論点になる。眼球の構造認識の問題である。光伝播の導路である『硝子体管』の光ファイバーの認識が関門である。眼球の光ファイバーと光量子 第65回日本物理学会年次大会で、発表資料のOHPシートの印刷が濃すぎて、投影できなかった恥ずかしい経験がある。研究機関にも所属していないため、予行練習も出来ず、ブッツケ本番で臨む。その資料が次のものだ。

OHP朝日の分散OHP資料(襖上の模様は金魚鉢の傍の襖に映った朝日の分散模様である。暫くした時間経過後にその分散模様が移動して、畳上に投影されていた。その二つの太陽光線の分散模様を、運良く捉えた写真である。自然が語りかける一瞬の姿である。)

眼球の色覚の説明資料が示せなかったので、失礼な発表であったと後悔。眼球の光ファイバーと色覚 に既に論考を示したが、光の三原色と言う観点を含めて、改めて考えてみる。なお分散に関するIT解説で光の分散がある。

写真224光の三原色と分散 (疑問追記、2015/01/03)絵具は24色などがあるが、光の三原色は紫や土色など何色を演色出来るのだろうか。

光の三原色という大変重要な人の色覚に関係する原理がある。TV等の色彩はこの原理によって可能になっている。この光の原理は人の色覚と色彩世界の間に秘められた不思議を提示している。科学技術との結びつきと言う面で見れば、この三原色の色の関係そのもので十分である。しかし、色の世界の物理的意味は何も理解できていない。何故かと言う『問答』に何も答えられないのだ。たとえば、赤(R)と緑(G)の混合色が何故黄色(Y)になるかに答えられるか?人の色の認識が何によって決まるかと言う本質的疑問には何も答えられないのである。生理学と物理学の統合した科学論の問題であろう。生理学で、神経細胞の情報伝達の物理的認識が如何なるものであるかに掛かっていよう。光ファイバーのタンパク質の繊維構造がどのようであるか?情報はすべてエネルギーの縦波である。電磁波ともいうエネルギーである。それはおそらく『熱エネルギー』とも言えるであろう。エネルギー波の解釈は電気磁気学の教科書的解釈では捉え切れない問題である。電界、磁界論では神経細胞を伝達する情報網の解釈には対応できない筈だ。電界、磁界と言う概念そのものが如何にも人間臭の科学概念であるのだ。電磁エネルギー伝播現象は空間であれ、細胞内であれ横に触れる波の実体など何処にも存在しないのだ。その物理的解釈・認識が科学論の基本的認識にないと、矛盾や混迷から脱する事が出来ない筈だ。そこで改めて、赤と緑の混合色が何故黄色になるかと言う『問答』を取上げる意味が成り立つ。物理学と言うものはその問答を拾い上げて初めて成り立つ学問であろう。この『問答』に今答えられるもの等何もない。しかしその答えられないと言う事を認識した上で考えを深めるべきと思う。なお、上の朝日の分散の色で、緑色が殆ど無い。その訳も理解できないが、畳上の分散模様には緑色がはっきり分かれている。一つの疑問として置きたい。

色の世界を尋ねてを参考に挙げておく。

追記(2014/12/13) 疑問に疑問が重なり続ける。単純な疑問が不図浮かぶ。光の三原色で「茶色」はどのように構成されるか。土色は自然のありふれた茶色だ。TVで「黒色」は光を零にすれば得られる。しかし茶色は三原色には無い。IT検索にはいろいろ質問があるが、満足できる回答が余り無いようだ。光と絵具の混同した質問もあるが、絵具の発する色彩の物理的意味が光の場合と何故異なるかも明確に理解できている訳ではなかろうから、混同するのも当然であろう。絵具を混合すれば、その混合絵具の分子構造により、光の変換特性が決まるからと解釈したい。分子の空間格子のColor Cellが光変換の原因であろうと解釈する。蝶の鱗粉と同じ意味である。絵具と光の三原色の間の関係も放射光と人の色覚との関係で全てが決まる訳である。だからその間の物理的意味合いは理解できる筈である。光が色を持っている訳ではない。解決できなくても、疑問が理解を深める基になる望みにしたい。