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ロゴウスキー電極空間の磁界(戻し)

ロゴウスキー電極空間の磁界(2020/6/18) の記事が消えた。その分を回復する意味でここに記す。

消えた記事。

静電界中の磁界。初めに結論を示そう。それが下図のロゴウスキー電極空間のエネルギー流である。自然界には『電荷』は存在しない。だから、高電圧工学の研究の基礎概念である『電荷』による電極空間の電界は実際はその空間を還流しているエネルギー流の場である。その空間にマグネットを設置して、いわゆる電界強度を強めれば、マグネットの向きが変化する。現在の科学理論の『パラダイム』では解釈できない現象である。以下の記事の結論を示した。

ロゴウスキー電極間の空間に、磁界が存することを実験で確認した。

『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質-
その実験結果の写真は Friction heat and Compass (2020/03/22)でも説明した。

『静電界は・・』の結果の、そのむすびに、4.実験結果に基づいた電磁界への考察と課題 として良くまとめてある事を知った。現在は、そこで指摘した課題を忠実に確認して、全体像として科学理論の矛盾を解明してきたと一つの安堵に居る心地だ。その翻訳を印す。

以下の翻訳文の中に出てくる方程式とその番号(3)、(4)および(5)を示した。これらの式はマックスウエル電磁場方程式を光速度ベクトル c=cによって表現したものである。エネルギーの伝播方向を座標の yj 軸とした。なお、(3)式はポインティングベクトルであるが、この式は瞬時値としては余り意味が無い(1秒間の値と見える)ので、別に取り上げて論じたい。

(翻訳)

 4.Considaration of electromagnetic fields based on experimental results and future challenges. It was experimentally confirmed that a magnetic field exists in a constant electric field (electrostatic field)as shown in equation (5). Therefore ,it can be said that equation (4)and (5) are basic equations that express the essence of electromagnetic fields. The meaning of equation (4) also includes the concept that there is an electric field around the permanent meaning and the earth, and there is also a flow of electromagnetic energy. Next we discuss the relationship between “charge” and “energy” as an important point discovered from the experimental results. Figure 3. The fact that the directions of b and c are opposite, we must conclude from Equation(3) that the directions of electromagnetic energy flow are opposite in b and c. This means that “positive charges” radiate electromagnetic energy to the surrounding space, and “negative charges” have the property of absorbing energy from the surrounding space. Although the current electromagnetic field theory is constructed based on the concept of Coulomb force acting between electric charges, experimental facts demand the need to regard it is “field proximity force” from the concept of electromagnetic energy flow. I am keenly from the electromagnetic energy and it’s propagation trajectory.

    新世界―科学の要―  (2015/03/05) にロゴスキー電極間の空間のエネルギー流を示した。その意味を冒頭に既に示した。結局その結論が上のむすびで述べた目標であった。

ロゴウスキー電極の負極の電極間のエネルギ流は、Fig.Energy flow and proximity action force.の図のように流れると一つの結論に達した。そこにはマグネットの磁極近傍が Axial energy flow の場であるとの解釈が必要だ。その事によってはじめて電磁場の電磁力がエネルギー流間の近接力に因るとの解釈に至る。発表当時に予稿論文で述べた通り、下部電極側(正極側)は正の電荷として理論は捉えているから、そこからエネルギー流が外向きに流れ出る意味で同じことと言えよう。上部電極は周辺からエネルギーが流れ込む意味で、適切であった。

 

 

 

電子が物理学の癌だった。

(2021/04/12)。結局、長い旅の結論は標題であったのかと思う。これから如何ように未来に向かって科学論を構築すればよいのか。重い課題に直面させられていると悟った。科学者すべてが考えなければならない課題である筈だ。

思考停止の科学理論。
その元凶が電子であった。最近の物理学の科学技術の成果に LED がある。消費電力の少ない高輝度照明用の光源だ。p型半導体とn型半導体の接合素子で、発光ダイオードと同じものとも言えよう。その動作原理は所謂量子力学で解釈される半導体素子の機能原理である。量子力学は『電子』がその原理の主役となっている。しかし、その『電子』は電気回路の動作においては何の役にも立たない伝統科学理論用のお飾り概念でしかないことが分かった。『電子』とは何物かを、科学理論で明確に定義できていなかったところにその原因がある。LEDと白熱電球における電子が、物理学理論においてどの様な機能で解釈されているかを検索によって拾い上げてみよう。

(1)LED その解釈論。

LEDの原理。
インターネットを検索すれば、その解説が為されている。その文面を参考にさせて頂く。

『発光原理』ある代表的な会社の解説記事に次のようにあった。

「LEDチィップに順方向電圧をかけると、LEDチィップの中に電子と正孔が移動し電流が流れまimg426す。移動の途中で電子と正孔がぶつかると結合(この現象を再結合という)し、再結合された状態では、電子と正孔がもともと持っていたエネルギーよりも小さなエネルギーになります。その時に生じた余分なエネルギーが光のエネルギーに変換され発光します。これがLEDの発光原理です。」と解説されていた。実はその記事がその後消えてしまった。 図は他の記事を参考にした。

さて、解説に因れば、p型半導体とn型半導体との接合体素子内で、電子と正孔が図のように接合面に向かって移動するという。その意味を理解するには幾つかの疑問がある。

 〈疑問1〉素子内の正孔はどの様に生まれたのか?電子は何故初めから分布しているのか?

ここで、正孔とは原子から電子が抜けたその原子の負電荷不足の原子イオンの事と理解する。誠に奇妙に思うが、電子の抜け殻の『正電荷』を意識した意味のようだ。

 〈疑問2〉素子内で、正孔と電子が移動する力の原因は何か?本当に正孔が移動する理屈が成り立つのか?

 〈疑問3〉電源の『電流』の意味の「電荷の時間微分値」とはどの様に決まる値か?電荷分布の時間微分は零となる様だから。

 〈疑問4〉結合前の正孔と電子の余分の『エネルギー』とは、何『エネルギー』なのか?運動エネルギーとか?そしてそれは何処でどのように付与されたものか?

 〈疑問5〉電源の『エネルギー』はどの様に光の発光に使われるのか?全く電源は『エネルギー』の供給に関わりないような解釈に見える。電源とは『エネルギー』の供給がその使命の筈だ。

 〈疑問6〉図で、電子が果たす電源内での役割は何か、そして電子はどのような機能を発揮するのか?

上の疑問を纏めれば、『エネルギー』の物理学理論における認識はどの様なものを指すのか、という事になろう。運動エネルギーと位置エネルギー以外の質量に関わらない空間に光速度で伝播する『エネルギー』がある事を認識しているか。その事を問うのである。

(2)白熱電球の例。

最も古い電気製品とも言えるエジソンの発明に掛かる白熱電球について。その意味を検索したら次のような記事があった。それは、電子が自然界に実在し、それを科学理論の根源的拠りどころとしている結果だろう。

その記事は、

 白熱電球の原理は比較的シンプル。一言で言うなら、

「電子がフィラメントの中を高速で動いた際に生まれる摩擦(電気抵抗)による発光です。」

と解説されていた。

それは余りにもシンプル(?)で、何も考えず、疑問を抱かず、恐ろしい程非科学的な解説である。それが学校教育の教科書あるいは学習塾などの現状の解説であると言える。

結局誰もが考えない科学論を弄んでいる結果である。

『電子がフィラメントの中を高速で動いた際』とは?

どの程度の高速なのか?そしてその速度はどのように電子が何によって加速された結果か?

『摩擦(電気抵抗)による』とは?

電気抵抗は導線の中とどの様な違いが生じるのか?フィラメントという原子構造体の空間が異なる訳は何による結果か?電子が摩擦するとはどの様な意味か?

『摩擦による発光』とは?

一般に摩擦は『熱』を発生させる現象だ。

誰もがこの解説に満足して、あるいは異論、異議を述べない、または関りを避けて無視する結果、考えない物理学理論が生き続ける事に成る。

そこには『電子』という決して実験的に観測できない(専門家は観測できると例証を挙げるかも知れないが)仮想物理概念が科学理論の幻想化による太刀打ちできない姿に纏めてきた事実がある。

仮想的『電子』の存在が自然世界の真実との科学パラダイムの科学常識。それによって自然界にある空間の『エネルギー』の存在を認識できなくなった。『エネルギー』を物理学理論に組み込めば、その『エネルギー』の基になる素粒子を理論上主張できなくなる。『素粒子』論が空間の『エネルギー』論との間で二律背反になる。世界は素粒子によって構成されているとの科学理論・物理学理論を作り上げてきた。だから電源が『エネルギー』の供給源である事を理論の中に組み込まずに、『電子』によって誤魔化すことになった。

空間に実在する『エネルギー』を認識すること。そのことが科学理論と自然との間の関係を統合して感覚的にも納得できる科学論への道の第一歩となる。

発電所、蓄電池・乾電池あるいは太陽電池など。それは何を供給する設備、製品か?『電子』を供給する機能体か?『エネルギー』を供給する為のものか?物理学者は日常生活上の技術の具体的意味をあまり考えなかった。『リチュウム電池』も『電子』の供給体ではない筈だ。『エネルギー』の供給製品の筈だ。その『エネルギー』をどの様に意識しているのか?『電子』では、その『エネルギー』を『電子』がどの様に負荷に伝送する機能を発揮できるかの意味を理解できないのではないか。『電子』は電源に戻る機能は持ち得ない。しかも回路全体で、光速度での伝送に『電子』は対応できない。

過去の参考記事。

電池(エネルギー)の不思議 (2019/11/13) 。

電池電圧と『エネルギーギャップ』(2016/05/08) 。

 

 

 

 

 

直流の分布定数回路現象

(2021/03/01)。下書きのまま1月以上が過ぎた。標準の科学理論はそれぞれの専門の部門に所属して、科学研究者として生活の保障を得た上で、投稿論文が専門家の査読で認められて科学誌に掲載さる。その科学的知見が評価されてこそ意味が有る。30数年前に『電荷』の意味を問う『静電界は磁界を伴う』の発表をした。その当時は、己の社会的存在の意味も理解できず、ただ電気理論の諸法則への疑念を強く抱き、自分しか唱える者はいないとの確信一つを抱いていた。職場に存在することが社会的不適合化と離れた。やむなく現在のブログによって、障子を前に自己問答して科学理論の本質を探ってきた。壱日一日が疑念と問答の繰返しであった。そのようにして科学理論の論理的根拠を探り、昨年から今年にかけて漸く電気回路の自然現象の姿を理解できたように思う。数多くの記事は科学論文にする内容ではなかったかも知れない。何も科学的検証可能な『データ』もこれと言って無いかも知れない。ただ総合的に振り返れば、その内容には自然現象の本質があるとの確信のみだ。ただ最近思う。科学の研究者として人並みに生活をする職場、それを勝ち取る公平な土俵は何処に在るのか?

この記事も『電荷』否定の自然感への確信から、電気回路現象を解釈する論説である。それは現在の科学理論として標準の教科書が解説する、所謂「科学パラダイム」の批判論と成る。電気現象はすべて、『エネルギー』の光速度伝播として捉える必要があるとの主張である。

回路。

普通の直流回路とは負荷要素が異なる。コイルあるいはコンデンサに直流電圧を印加した場合に、どの様な回路現象を呈するか。スイッチSにヒューズを添える。コイルの場合は電源短絡に成る。またコンデンサの場合は電圧が高電圧の場合にはコンデンサ内でフラッシュオーバーが起きるかも知れない。それはやはり電源短絡である。電源及び回路保護にヒューズが必要。

この回路で電源と負荷はどのような電気現象を起こすだろうか。オームの法則で解釈する電気現象ではない筈だ。当然電流あるいは電子での解釈では難しいだろう。『電子』が光速度で回路を周回して電源に戻るなどできる筈はない。それでも回路動作は負荷と直流電源の間に起きる電気現象である。どんな理論で解釈しようとも、電源から負荷に向かって『エネルギー』が伝送されることには間違いはない。しかも光速度伝播の現象として現れる。科学理論はとても難しい数学的解説が主流になっている。電気現象に量子力学的解釈を適用しても、『電子』による論理では『エネルギー』を電源から負荷に伝送する単純な意味さえも示し得ない。このような単純な電気現象についてさえ解説を成し得ない現代物理学理論だという意味を誰もが理解しなければならない。

『エネルギー』の光速度伝播と分布定数回路。

光は自由空間を伝播するやはり『エネルギー』である。電気回路現象は光と異なり、導線で囲まれた線路空間に伝送の場が制限された、光に似たような『エネルギー』の伝播現象である。光に似たという意味は光のように目には見えないが同じ『エネルギー』の光速度の流れであるという意味である。この『エネルギー』と言う物理的実体を認識することが必要である。例えば、高等学校の理科教育を考えれば、この空間に実在する『エネルギー』を認識していないから教えることが出来ていない。空間に実在する『エネルギー』を教育して来なかった現実が科学理論の考えない業界論に成っているのだ。だから『エネルギー』の光速度伝播の縦波と言う理解が出来なくて当たり前なのだ。電気回路空間を伝播する『エネルギー』の波となれば、電気回路導体内を流れる『電流』あるいは『電子』などと言う、自然界に実在しない物理仮想概念で理解することなど誰でも困難の筈である。電線で囲まれた電線路空間は、その空間構造を静電容量とインダクタンスの二つの空間解釈概念で捉え、その分布定数回路として認識しなければならなくなる。空間を誘電率と透磁率で捉える解釈法も、言ってみれば科学技術的手法の一つの解釈便法であるかも知れないが、その概念に頼らなければ、数式による認識・解釈法が執れないから止むを得ないという事なのかも知れない。せめてその二つの空間の電気的解釈論拠(誘電率と透磁率)を受け入れて、『エネルギー』の挙動を認識しなければ科学論としての最低の解釈法も採れなくなる。不立文字の一歩手前で踏み止まるしかない。

(1)コイル負荷。その電気現象を(1)図に表現した。

コイル負荷に直流電圧電源をスイッチオンで印加する。スイッチ投入と同時に、電源から『エネルギー』が回路に投入される。その『エネルギー』は光速度以上の速度では伝播しない。必ず負荷まで到達するに時間が掛かる。たとえ光速度であっても時間経過が生じる。スイッチ投入と同時に、電線路の負側導線近傍を『エネルギー』δp[J/m](1[m]当たりの分布エネルギー)の分布波が流れる。しかし、この『エネルギー』の伝播状況を実験的に証明する測定法はないと思う。証明しなければ科学論として認め難かろうとも思う。それは電源電圧 V[V]とすれば、電線路の分布定数の静電容量 C[F/m] によって決まる分布伝送『エネルギー』であり、それは

δp=C V^2^ [J/m]

として、回路定数と電圧の関係式で表現できる。電源電圧とは、その電線路の構造や空間媒体(絶縁物の誘電率など)に対して、『エネルギー』の供給能力を評価した解釈概念であると言える。電圧とは、決して『電荷』の仮想的な創造概念などで評価、解釈できるものではないのだ。さて次に、負荷に貯蔵される『エネルギー』はどのように解釈すれば良いかが問題となる。なお、伝送電力pはその分布『エネルギー』δpに回路伝送速度(光速度) co=1/√(CL) [m/s] を掛けると得られる。

p=δp×co = V^2^/Zo [J/s]

ただし特性インピーダンスZo=√(L/C)である。

負荷特性とα

高周波伝送回路では、定在波と反射波の関係が論議される。ここで負荷に『エネルギー』がどの様に吸収されるかが問題となる。その解釈に負荷の整合の関係が論じられる。その関係をαと言う定数での統一した解釈をしたい。(1)図のように、α=√(Lr/L) とした。負荷の誘導性インダクタンスは線路定数Lに比して、相当大きいから α>1 となる。このαは負荷と回路特性の間の関係を評価する整合係数と呼べば良いかと思う。もし負荷が純抵抗の場合なら、αが1より大きければ、負荷端で反射が起こる。伝送エネルギーをすべて吸収できないから。その反射分だけ電源からの伝送分が減少して電圧が規定値に成り、差し引き電源供給の『エネルギー』が負荷に合った分に落ち着く。ところが、コイル負荷では少し異なる。コイルの『エネルギー』貯蔵の現象がどの様であるかを認識する問題になろう。

コイルの貯蔵エネルギー

この問題は、コイルとファラディーの法則の関係による電気技術の解釈に繋がろう。コイルの貯蔵エネルギーは印加電圧の時間積分の解釈で対応すべき問題である。この回路の場合は、電源が直流電圧の一定値である。この場合はコイルに電流は流れない。コイル端子に直流電圧が印加される。それはコイル前の回路の静電容量C[F/m]のエネルギー分布がそのままコイル内に侵入すると解釈する。コイルにその『エネルギー』が伝送され続けている限りコイル端子には電源電圧が印加され続ける。コイル巻き線間の隙間に均等にenergyが分布入射すると解釈する。電圧時間積分でコイル内の貯蔵エネルギーは放物線状に増加する。磁束概念との関係で捉えれば、磁束の2乗に比例するという事である。磁束と言う用語も、実際は磁束がコイル内に自然現象としてある訳ではないが、今までの科学理論の解釈を踏襲して解釈すればという事ではあるが。その間、励磁電流等流れる必要もない。コイル内空間の『エネルギー』が飽和した時点で突然コイル端子は『短絡』となる。

(2)コンデンサ負荷。その電気現象を(2)図に表現した。

負荷がコイルであろうと、コンデンサであろうと電源からスイッチオンではじめに送出される分布『エネルギー』は同じである。それは基本的に電源電圧とその端子につながる電線路の電気的特性で決まるのだ。それが負荷の特性の違いで、負荷にその『エネルギー』の先頭が到達した後、負荷特性と線路特性との関係で反射現象が決まる為、負荷点の特性に因る事から違いが出る。

このコンデンサ負荷の場合の現象は、コンデンサ容量 Cr[F] に『エネルギー』が貯蔵されれば当然電線路の『エネルギー』分布の流れは止まる。従って、それ迄の一瞬の過渡現象だけの問題になる。

物理学理論は役立つのか

(2021/04/08) 現在の物理学理論は自然の理解に役立たない。
筆者も一応日本物理学会の会員として、毎年年会費だけを収めている。何で発表もしないのにとも思うが、過去に何回か大会で発表させて頂き、皆さまに御面倒をお掛けし、御迷惑もかけた。誠に無礼者であったと反省しきりにある。同時に、物理学の未来、その行く末をも心配しながら、変化も期待しているところだ。だが、殆ど本質的な基礎概念などへの問題意識を抱いている様子は見えず、どんどん寂れ行くだけに思える現状は悲しい。

それは理論が技術理論の解釈用便法論でしかないから。

そもそも、真剣に自然の姿に向き合おうという意識に欠けているように思える。自然を観察する基本的姿勢があるのかと疑問に思う。と言っても何世紀も超えて確立した物理学理論だ。簡単に意識が変わる訳はないだろう。現実に世界の科学技術はその理論によって解釈可能な科学常識で十分満足できる役割を果たしていると自負している筈だ。それで、長い歴史の中で教育に間違いは無かった事が現在の姿に証明されていると言うのかも知れない。異論を唱える者の方が間違っていると。確かに、嘘の基礎概念に基づいた教育が為されていたなどとは誰も信じない。そこには、底知れない豊かな叡智によって構築された科学技術力が在るからだ。代表例として、一つの『電流』を取り上げて考えてみよう。その『電流』と言う科学技術量は電流計で測れる。それは物理学理論では『正の電荷』の時間微分と言う定義の量だ。しかし実際はそのような『正の電荷』は流れていない。自然界で純粋に『正の電荷』など有るとは物理学でも解釈していない。原子から『電子』が抜けた原子イオンしかそれに対応するものはない筈だ。だから金属内の原子イオンが動けるとは物理学論にも無い。そこで逆向きに、原子から解き放たれた『自由電子』が流れると解説されるのが現在の科学論常識となっている。『電流』とは『電子』の逆流だと。しかし、『電子』が電線の中を流れると本当に物理学者は考えているのだろうか。それはどうも何も考えないで、過去からの解釈論を踏襲しているだけにしか思えない。『電荷』とはどの様なものと解釈しているかを自己問答もしない。過去の法則と先達の教えを謙虚に、専門家として、踏襲して守っているだけに思える。それは自然現象について何も疑問を抱かないという事か。疑問を抱かない人が自然を理解するなどできない筈だ。物理学理論を、その深い意味を理解しようと思えば必ず疑問が沸く筈だ。その疑問があって初めて学問が始まると思う。身近な教育する教科書の理論を紐解けば、疑問が必ず起こる筈だ。『大学の物理教育』と言う発行誌を見させていただく。しかし、その内容を読み解いても、物理学の未来への危機感があるとは少しも思えない。

電荷も磁束も自然界には無い。
自然界には『電荷』も『磁束』も何もないのだ。無い物で科学理論が構築されているのだ。不思議な人の世の現象である。その意味を御理解されるならもっと新しい道を模索する姿があってよいかと期待したいのだ。電線金属内を『電子』が流れる等と言う物理学理論の解釈論は論理性を基本に据える科学論とは言えない。電気回路で、『エネルギー』が光速度で負荷に伝送される現象を先ず理解する必要がある。『電子』がどの様に『エネルギー』を伝送する機能を持ち得るかを考えなければならない筈だ。『電子』ではその役目は果たせないのだ。それは自然界に『エネルギー』は有っても『電子』など無いからだ。

光の振動数とは何かにも答えられない。

そんな事が物理学理論の教育で説明できなくて、なんで子供達に「考えることの大切さ」を説けるのか。何が振動しているというのか。疑問を抱かないのだろうか。光は何も振動などしていない。ただ『エネルギー』の縦波が光速度で伝播するだけである。空間に実在する『エネルギー』を認識することから始める処にしか物理学の未来はないだろう。

原子構造と光放射現象

(2021/04/06) 量子力学理論は理解困難だ。

 『電子』と原子構造。本当のところ、自然界に存在もしない『電荷』の話を取り上げたくはない。多くの科学者の反感と無視と蔑みを覚悟しながら取り上げたくはない。しかし教科書が科学理論の基礎岩盤概念として、『電荷』中心に解釈論を展開し、子供たちに教育している。その教育の間違いをどう質すべきかが緊急の課題でもある。儚い無駄とは思いながら、科学パラダイムを取り壊すには当然の事として取り上げざるを得ない。

 現在の科学理論の根源的基礎をなすのが原子構造論だ。その構造は図のように示されよう。全ての原子は中心の核の周りを電子が周回している構造体として解釈されている。電子殻の電子周回軌道がどの様な球面軌道かは分からないが、一般の表記は平面図で示される。原子の結合、分子構造は平面的ではないから、原子の球面像が然るべき姿と考えるが何方もあまり問題にはしないようだ。ただ太陽系のように、星座の星軌道のように平面として理論が成り立っているとされているのかも知れない。この構造で、電子のエネルギーとの関係から、光放射の原理や自由電子の意味を取り上げて、電子による原子構造の非論理性や矛盾を指摘したい。力不足の文学論に成るだろうが。原子論を問題にする事等、決して誰も論じないだろうから。

 さて、誰も科学者はその構造に対して異論を唱えない。本当にそれで納得しているのか?決して心から納得している訳ではなかろう。『電子』の空間像など考える暇は無いと言うのが実情であろう。専門の研究に心血を注いで日々を送っているから。しかし、子供たちに教えるべき教育内容の事柄は、ただ覚えるだけの過去の科学パラダイムに固執していて良いものだろうか。そこに論理的矛盾や虚飾的な権威論が有ってはならない筈だ。そんな意味で電子にまつわる『エネルギー』の姿、物理的概念と解釈手法を取り上げて、問題点を指摘したい。

 電子とはどの様な実体か?電荷と質量から成ると定義する、その空間構造を示せるか。電荷とはどの様なエネルギーで捉え得るのか。世界に存在する物に『エネルギー』に関わりない物は無い。質量は mc^2[J] なる解釈で捉え得る。しかし、その質量の解釈の真意がどの様であるかは極めて曖昧である。自然世界に存在する物は、必ず空間的体積を占有する。物理学的理論が抽象論であっては破綻する。必ずその空間に実在する具体像を示さなければならない。『電荷』と『質量』の合体空間構造とはどの様な論理性で説得できるのか。そんな油と水を混ぜ合わせるような合体構造は自然空間では存在し得ない仮想概念である。『電子』は、その質量の運動エネルギーしか保有する特性は持ち合わせていない物理的解釈論である。その速度の変化として捉える以外『エネルギー』の解釈法はない筈だ。原子周回電子はその軌道が速度によって決まる解釈法である。

物性論と自由電子。

 電子は必ず原子構造の中しかその存在は定義されていない。電子が空間に存在するには、原子から解き放たれる以外は自然界に存在しない原則と理解している。他に勝手に空間に自由に大量の負電荷の粒子があるとは教科書には示されていない。電気回路などではことの外、簡単に正と負の電荷が無限に存在するかの如く、原子とは無関係に解釈されている。「雷」の解釈なども負の電荷が必ずしも「電子」と認識している訳でもなく、正の電荷がどの様な「原子イオン」であるかも全く意に介さずに論じられる。そこでは、ただ『正の電荷』と『負の電荷』だけで論理が成り立つ。とても自由な気分で解釈されているようだ。それぞれの解釈手法が専門家ごとに異なるのは科学理論の特徴的な実状の姿だ。だから、原子から『電子』が解き放たれて、自由電子になって原子結合空間に漂うと理解するには、どの様な物理的原理に因るか、その詳細を理解しなければならない筈だ。余談ではあるが、先日NHKの番組で、原子と周回電子の関係をグラウンドを例に取り上げて解説していた。ピッチャーの位置が原子核で電子の周回軌道は観客席の位置に当たるというような解説であった。それ程離れた位置関係で解釈される電荷同士のクーロン力での原子構造結合論が真理として公共放送で取り上げられるとは不思議の極みだ。教育効果が絶大だからその責任は大きい。『電荷』とは何かと認識できているのか?と疑わざるを得ない。さて、電子がどの様な原理で原子から解き放たれるのか。何故電子が原子核の周りを回らなければならない事に成っているのか?自由電子は如何程の『エネルギー』を保有しているのか。その速度は如何程か?速度は直線的でも原子空間に矛盾はないと説明できるのか?原子構造の間の空間でどのような速度を保ち得るのか、そのような自由電子は如何程の『エネルギー』を保有していて、それをどのような機能によって放出する事に成るのか?その時の『電荷』の機能はどう働くのか?その論理的説明は可能か?自由電子となる前と変わりない『エネルギー』を保有している事に成っているのか?具体的理屈が自由電子の空間での機能として求められる。電気回路の金属内に『電子』が存在し得る訳が無いのだが、教科書は違う。茫洋とした曖昧さで論説される教科書の理論であってはいけない。

原子からの光放射論の意味を問う。

 もう一つの論点は量子力学として現代物理学理論の根幹を成すものだ。原子からの光放射を解釈する理論だ。その原理には電子の周回軌道の運動が基礎に据えられている。白熱電球の発光現象もタングステン原子の周回軌道の電子によると言う解釈だろうか。蛍光灯の発光現象は水銀蒸気の放射紫外線が蛍光物質の分子を励起し、その電子軌道の変換により電子のエネルギー差分を光として放射すると解釈されている。さて、ここで原子からの光放射は、原子の軌道電子の運動エネルギーが光のエネルギーに変換されるという解釈である事にその原理は採られている。

 それでは電子が周回軌道を変える原因となるものは何だと解釈するのか。さらに、電子が速度を変えることによって、何故光のエネルギーとして電子から放射されると解釈できるのか。

 電子が原子の周回軌道を回りながら、下の軌道に落ちるとき光を放射すると教科書で解説される。その原理は電子の速度エネルギーの差分を放出する意味と解釈せざるを得ない。そもそも電子、その構成が「質量と電荷」の混合体と言う事らしいから、空想でもなかなか描けないもどかしさがある。空間の物理的実在粒子・電子が電荷と質量の混合体と言う定義をどの様に捉えたらよいか、その実態を認識できずに困惑にある。専門家はとても優れた頭脳によって、筆者のような電気回路現象しか分からない、原子論の素人にとっては理解し得ない理論を構築成される。ご指導を乞いたいものだ。

 レントゲン検査の技術理論とその原理について確認したいと思った。『熱電子』が登場し、原子構造論が解説される。再び真空管の『熱電子』の意味を電気回路動作から考え直さなければと思った。『熱電子』の物理的概念の不可解さを。『熱電子』とは単なる「熱エネルギー」の流れでしかないだろうと。『電荷』などそこには不要だから。この辺の事はまた宿題としたい。

 レントゲン検査の原理を調べると、原子の周回電子論がその解説の基に成って論じられている。そんな教科書的解説が溢れている現状で、未来の教育が良い筈はない。何も考えない古い知識を踏襲するだけの理科教育は未来につながらない。科学者すべてが考えるべき問題だ。専門分野の研究だけで済ませられる時代ではない筈だ。周回軌道電子の速度がどの様な原因で減速し、その減速によって何故光の放射になると言えるのか。その意味を上の図にしました。

 その発光現象には多くの軌道電子の内、特定の電子が減速する訳は何だろうか。電子が原子空間の中で、摩擦ブレーキでも受けてその熱エネルギーを光として放射するとでも言うのだろうか。電子の運動エネルギーが光エネルギーに変換される原理・訳が全く理解できない。電子の運動を何が止めるのか?そこには、光のエネルギーとはどの様なものかと言う疑問に答えなければならない、初めの前提が関わる。電子の運動エネルギーと光のエネルギーで、『エネルギー』に違いは無いことを知らなければならない。光のエネルギーは光量子の運動エネルギーじゃない。プランク定数との関係で解釈、評価できる空間像は有り得ない。

光の振動数とは?

 振動数γ[Hz]によって認識しようとしても、それでは光のエネルギーを理解できない筈だ。例え電子の存在を認めたとしても、電子一つの放射するエネルギー量はプランク定数によって評価するエネルギー量には成り得ないから。プランク定数で評価するエネルギー量は光の強さが強かろうと弱かろうと、その表現する意味のエネルギー量は同じ量に成るから。そんな『エネルギー』がある訳はない。完全な論理矛盾だ。即ちプランクの表式はエネルギー量を評価できない概念なのである。プランク定数による評価式の『エネルギー』は光の単一の波長成分の作用性を評価する概念でしかなく、『エネルギー』量の評価はできないのだ。光は空間を伝播する『エネルギー』の空間分布の縦波なのだ。この認識をすべての人が理解しなければ、物理学の未来はない。残念ながら、この光の空間エネルギー分布の概念は物理学概念には無い。理科教育でも教えていない。それは空間分布のエネルギーを計測できない科学論の限界の問題でもある。だから現在の科学理論の実験的検証を前提とした限りは無理かもしれない。そこには哲学的な論理性を極める考え方が必要になる。そこには自然と科学理論との間の統合性が求められる。光の『振動数』とは何か?に答えなければならない。

光の空間像。それは『エネルギー』の縦波伝播現象である。

まとめ。空間の『エネルギー』の流れを認識する事に、考える理科教育の未来が掛かっている。

自然に一分

(2021/04/01) 。一分(イチブン)を守るのは困難かも知れない。欲望が自然を破壊する。

自然を仰ぐは哲学の道
自然を支配するは虚飾の道
この星に生きて人の一分を守りたい

自然への一分は環境破壊でビニル一つで守り難い。自然に🙇。しかし、無知であっても『武士の一分』は通したい。

科学理論の『電子』は虚飾。

ー短縮URLが欲しい。ー

 

日本犯罪行政国家

何故『クラシックエディター』でないのか?『ブロックエディター』は止めたい。

(2021/04/08) 追記。後から気付くことばかりだ。昭和46 (1971) 年4月、産業教育中央振興会の研究助成を受ける事に成った。下記にも記したが、1944年10月から無届で、東京工業大学、宮入・片岡研究室での半年間の研修を受けた。1945年度はその研修で学んだ「パワーエレクトロニクス」の基礎の研究・実験で夜遅くまで実験室で過ごした。ダイオードの整流回路の理解の為に。そこで変圧器の直流偏磁現象の起こる訳を理解した。電気回路には、電気理論の学習では理解できない事が実際の技術を実験で感覚的に身に付けなければ成らないことを学んだ。その為か、昭和46(1971)年4月末にとうとう『A型急性肝炎(この原因?邪魔な人材で、3月頃コーヒーにネズミの糞でも入れられたか?)』で黄疸を発症し、3か月間の入院となった。思い出した事・その不可解な事。それは、入院して職場を休んだ。しかし「病欠届」をどこにも出したことはない。提出を求められもしなかった。考えてみれば、その前にも、事故(湯たんぽの加熱爆発で、上半身と顔面の火傷を負った)で4月末に1月以上入院して、休んだ。しかしその時も「病欠届」のような「休暇届」を提出もせず、事務局からの要求も無かった。考えればすべて、新潟県教育委員会には採用もされていなかったから、幽霊人材扱いだったとしか考えられない。これは人権侵害・存在無視行政ではないのか?病気休暇中の給与が銀行振り込みでないからどの様に支給されたか不可解だ。新津から現金が汽車に乗って長岡まで送られる訳はない❓考えれば職歴は初めから無かった事になる様だ。原子構造と光放射現象など意味が無いご時世かも。

(2021/04/05)追記。理解の限界を超え (2021/02/01)。にも述べた。昭和44年10月からの6月間の東京工業大学、電気工学科の研究室での『内地留学』は全くの無届であった。新潟県教育委員会にも、新津工業高等学校にも何も『内地留学許可申請書』などを全く提出していなかった。それ程無知の自分であった。当然新潟県に採用されたなどと言う意識も無かったし、そのような採用の決まりがある事さえも知らなかった。採用事務を受けた経験も機会も無かったから。昨年新津工業高等学校に『内地留学』の件を尋ねた。そんな履歴は何も無いというご返事であった。何故そのような無届での職場放棄が『処分』されないで過ごされたのか。しかもその時の学校長が『勇退』という事で辞められたらしい。その後に県教育委員会から源川管理(課長・主事?)が赴任されてきた。全く不可解なことなれば、そんな行政が罷り通ること自体が信じられない異常なことである。

更に昨年、公立学校共済組合本部に尋ねた。その時、厚労省発行の『年金番号』を聞かれ、答えたらその番号は存在しないと言われた。確認のため、長岡市発行の『ナンバーカード』の写しを添えて、文書での共済組合登録の有無をお尋ねしたが回答頂けなかった。今でも時々、闇の声⦅戻って来い⦆?と聞こえる。そんな人権侵害状態で、何処の闇の幽霊機関に行けるところがあるのだろうか。以上(2021/04/05)追記。

 

今(11時10分)も、この記事の関係か?飛行機が上空で音を立てていった。

(2021/04/01) ずーと気掛かりであった。

『柏崎』と言う声が聞こえていた。

眞坂と思うような事❓

昭和62(1987)年5月の連休が過ぎたころ。長岡技術科学大学、電気系の研究棟(パワー研)の廊下で、奇妙なことを尋ねられた。難波江教授から“柏崎に行ってきたか?”と聞かれた。更に奇妙に思う事は、その当時韓国から研究生が留学で研究室に来ていた。多分同じ日だと思うが、その留学生からも難波江教授と同じことを聞かれた。確かに妻と柏崎の米山の観光地に行って来たので“そうだ”と答えた。

眞坂という意味は筆者を『泥棒』に仕立てたのではなかろうと言う疑念が強くなってきた。その月には、「学長選挙」があり、新聞などでも事件扱いされた。

投稿が消されるようなので、『このブロックには、想定されていない無効なコンテンツが含まれています。』と記されているから、公開しながら追記する。

今まで、気味が悪かったが、確認する術もなく、相談する者もいない闇の中に居た。実は、2013年頃の話であるが、筆者を『ある者(肝臓機能障害に因るアンモニア脳症の病気に因り意識がなくなる時期)』の取り調べのために連れて来い。と言う長岡検察庁、佐藤 副検事の通知が届いた。何故筆者を指定したのか今に成れば極めて不適切な検察庁の行政手法だ。筆者の無知を良いことに、筆者が長岡検察庁の二階に呼ばれ、そこで佐藤副検事が筆者に何か訳の分からないことを話し、こちらは『ある者』の事と思っていたが、今考えれば、無関係の筆者を拘束して話すこと自体が行政犯罪だ。しかも冒しなことに、『ある者』が言うには、後で二階に行って同じく佐藤副検事の話を聞いたが、何の話か全く意味が無かった。と言っていた。筆者を犯人に仕立てた法務省の行政犯罪だ。

この検察庁事件の基は長岡警察署の若井刑事が関わっていた。無理やりに筆者の写真を撮って、犯人に仕立てた。恐ろしいことが成されている。

元を糺せば、新潟県教育委員会に正式に採用されていない、公立学校共済組合に登録されていない筆者が、昭和54(1979)年文部省の『工業高等学校教員指導者講習会』に、登録されて参加する筋が見えない。しかも7日間、東京工業大学での講習を受けるとは?

昭和60(19859)年4月からの「中曽根教育審議会」の対象候補に選ばれるのは、排除・抹殺の意味しか見えない。

(2021/04/01) ずーと気掛かりがあった。

『柏崎』と言う声が聞こえていた。
眞坂それは❓昭和62年春、5月の連休過ぎの或る日に冒しな事を尋ねられた。長岡技術科学大学の電気系の研究棟の廊下であった。

エディターが変って投稿が困難になった。

『ブロックエディター』は止めて欲しい。投稿が混乱して、記事が消えてしまう。『旧エディター』だけで投稿したい。

ダッシュボードから表示をすると、何故「フォロー」マークが出るのか?筆者の投稿と認識しないのか?

御蔭さまで『旧エディター』が使えるようにして頂いた。有り難い。

操作が分からない。どうしたら良いか?

図版の投稿が上手く出来ない。

固定ページは『旧エディター』が可能なのに、何故記事は出来ないのか。

スパムメールがコメントに在り、削除して『現在1件のコメントをスパムとして捕らえています』とそのまま有るかのように表示されている。

『現在保留中のスパムは有りません。』となった。

旧エディターに戻らないかな?

少し古いエディターが使えるようになったので、画像を載せられ安心した。しかし、古い投稿記事のリンクがし難い。古い記事の『年・月』検索が困難で困る。これは回復していたので安心した。しかし、まだダッシュボードでの検索が出来ない。

新規投稿記事の短縮URLが取れない。

貝野小学校が閉校になった

(2021/04/04)追記。今思う、世界は科学技術によってその生活環境が予測しがたい状況に直面している。その地球環境の未来への希望は、すべてその基本が子供たちの教育に掛かっていると思う。日本及び世界の教育の課題が改めて気掛かりである。その期に及んで次の点がある。それは『教育の基本』である。

記念誌に、南原 繁 の書(どなたかの寄贈)が体育館に掲げられていたとある。どんな書か知りたかった。昭和22年3月31日、新しい日本の教育制度の基礎が『教育基本法(原)』として制定された。その教育刷新委員会 委員長が南原繫である。東京帝国大学総長であった。その新しく制定された教育の理念の意味について、南原繁は次のように述べたと言う。

「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようと、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」

改めて、その『教育基本法(原)』の前文を記す。

“ われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かの文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。”

以上がその『教育基本法(原)』の前文である。

しかし残念な事にその『教育基本法(原)』が 2006年12月22日に『教育基本法(改)』に変わった。なお、(原)と(改)は筆者が区別の意味で付けた。残念という意味はその『前文』までも変えたその理念が理解しかねるからである。教育の政治的中立性(2020/07/22) 。

(2021/03/ 28)その閉校記念誌を頂いた。やはり寂しさがある。貝野校の歴史を記念誌から知った。

昭和31 (1956) 年9月30日 中魚沼貝野村は閉村となり、残念ながらそれ以降、故里はその学校区ではなくなってしまった。

貝野小学校新築記念 (2016/08/31) が昭和3年12月3日の事だ。記念誌には校舎増改築落成式挙行とある。

姿校  明治7年 (1874) 2月 創立し第6中学区第4番小学姿校(興源寺)と称す。

明治22年6月 村立姿尋常小学校と称す。

貝野校 明治7年 (同)  3月 創立し貝野校と称す。

明治22年6月 村立貝野尋常小学校と称す。

合併 明治25年7月 合併により、村立貝野尋常小学校となる。

以上が創立当時の歴史と知った。

記事などから、

明治6年6月 柏崎県が新潟県に統合され、新潟県となった。知らなかった。

歴代職員(明治25年以降)

その4人目に、祖父 金澤 信策(ノブツグ) 明治26年4月~同29年3月 が載っている。年齢を数えれば、15歳ほどだ。村で若い頃に教えていたと聞いたことがある。また、金澤 憲治(大正6年)の名も載っている。

明治30年9月。姿と宮中で赤痢が発生し、41人死亡とある。何か現在のコロナウイルスの状況との関係を考えさせられる。

明治32年5月 私立塾設置。塾長に石原信 氏を招聘(姿 金澤 道賢が招聘)とある。

 

自然と言う世界

(2021/03/28) 追記。下記の記事で、光と視界認識の機能について述べた。眼球構造とその機能は生活環境、即ち水中か地上かによって多少は異なるだろう。しかし人だけでなく他の動物、馬や牛あるいは鯨や蛸など目の機能はほとんど同じ筈だ。全ての生体の殆どの眼球の構造は同じで、黄斑円孔が視神経となって、何処かで繋がっている筈と思う。牛や馬の眼球の解剖により、その視覚機能が分かれば、人も同じ機能と構造と解釈して良かろう。こんなところに科学理論の少しでも専門的な研究対象を広げた、より自然に寄り添う哲学的広がりによって、真の自然感に因る科学論が展開できるのではと思う。

(2021/03/22)。こんな素晴らしい不可解。それは光の世界。

上の眼球の図はーカラーでみせるやさしい解剖(南江堂)ーの絵図を写させてもらった。眼球の光ファイバーと色覚 (2010/11/28) のブログのはじめの頃の記事に関わる。その記事は改めて科学理論の常識に大きな衝撃を受けて書いたものだ。筆者のような医学の素人が、眼科学会の専門家の科学論に反論するなど正気の人間のすることではない。改めて、現在の『電子』否定の確信からの、科学理論全体への疑念をどう伝えればと悩みの中に在る。専門家はそれぞれの科学業界理論の中で、論議はするが、筆者のような素人の論は無視されて、反論もされない。眼球構造で、網膜に視界の像が結ばれるとの解説が眼科のお医者さんのお部屋には掲示されていると思う。上の図で、網膜は硝子体膜と脈絡膜の間の厚い部分であると示されている。水晶体のレンズなどで、光が屈折して網膜に像を結ぶと本当に解釈しているのかと思えば、原子力発電所の危険な科学技術程ではないとしても、みんなに考えて欲しい科学理論の現実として提起せずにはいられない。網膜全面に亘ってどのような光検知の細胞が、しかも色覚の基となる光の空間エネルギー分布波迄検知できる細胞機能が備わっているなど理解できない。光の物理的空間像が物理学理論で認識されていないことが全ての科学理論の曖昧さに関係している原点である。プランクの定数の次元が [Js] である意味をどの様な物理的概念として理解しているかが問題と思う。今日もある新聞ニュースレターの記事に、『老害』と言う言葉が使われて‥とあり、筆者の様なものも『老害』には成りたくないが、しかし・・。自然の中に現れる千変万化の不思議は、科学論で示そうとすれば、その純粋な自然の心に沿う思いが基に無ければ、観えないように思う。光が網膜に視界の像を結ぶという科学常識は間違っている。硝子体管は光ファイバーである。

心 ホウズキに遊ぶ (2021/03/14)。で、「木瓜(ボケ)の真赤な花が咲く こんな素晴らしい不可解 風景の意味でも極めんと」と訳の分からないことを綴った。

念頭に光の不思議を思い描いての事である。

真赤な花弁は木瓜だけではない。

なぜ花弁が赤いか?と己に問うてもその訳を説明できない。決して花弁が赤いという色の光がある訳ではない。光に色はない。光の本性を考えれば、それは空間に分布した『エネルギー』の縦波でしかない。だから色など光には無いのだ。光の空間構造が赤い色を本質的に備えている訳ではない。その意味を分かって頂けると思うが、如何でしょう。光を振動数で捉える習慣の理論物理学の専門家には異論があるかも知れない。しかし光の『振動数』と言う概念は誠に意味の分からない概念に思える。何かが振動している状態と解釈するとすれば、それは何が横向きに振動するものかの何かを示さなければならない。電界とか磁界とかが横に振動する訳がない。マックスウエル電磁場方程式の信奉パラダイムにおられる専門家には承服しがたいことと推測する。しかし、光に色彩の差を示す性質はない。それは自然が人との間の心のつながりを演出した結果と思えばよい事であろう。それ以外特別な物理的本質などない。同じ光が花弁に当たれば、その花弁の表面の空間構造(あるいはその内部に侵入して)、に対して屈折して波長(エネルギー分布の空間構造)に変化を生む。そのエネルギー分布の縦波の構造にその花弁の特徴が現れるからと解釈する。光は何も振動などしていない。光は単にエネルギーの空間分布波形の縦波でしかない。その単純性が光の基本特性だ。だから光は無限の変化で人に計り知れない複雑な世界の印象を与え得るのだ。

物が見え、風景が見える。

それはすべて光と目の関りに因っている。先ず、光が空間に展開される訳だから、その本質は光の空間像を認識することから始めなければならない筈だ。光の振動数とはどの様な意味かを理解しなければ『振動数』と言う物理概念が余りにも曖昧なまま使われてしまう。それは科学理論の基本である論理性を無視した科学論に成ってしまう。自然の基本は極めて単純なのである。風景や物を見て認識できる訳は光が決して曲がらない。その意味は極めて日常生活の中の単純な事にある。真っすぐ光は進むから風景が見える。光が曲がったら風景や物の像など見えない。そんな単純な意味を感覚的に意識する事しか、自然の世界と分かり合える道は無いと。

眼球の機能で全く分からない事の一つ。視神経と黄斑の繫がりがある筈だ。その解剖的構造が知りたい。