カテゴリー別アーカイブ: 自然科学

定在波の発生原理

定在波とは(2020/09/22)。ここで解説する意味には『電圧』と『電流』で定在波を論じる。しかしその『電圧』と『電流』の意味には深い意味が有るので、一般的な電気回路の『電圧』『電流』とは少し異なる意味かも知れない。それは測定法に関わるので、その点も含めてご理解いただきたい。この定在波測定回路については後の記事に示したい。

電気現象はその基本が『エネルギー』一つの振る舞いである。しかし商用周波と高周波あるいは直流とそれぞれ回路解析法は異なる手法が適用される。高周波回路は電線路長に対して電気信号の波長が短いために、その電気現象は特異なものに観えることになる。それが定在波と言う波についてであろう。定在波は電線路終端短絡の場合に顕著に、そこからの反射波と伝送波の間に起こる現象として強く現れる。負荷終端の場合は、様々な影響が定在波分布に現れる。専門的な解説が多く示されている。しかし、とても内容が複雑で筆者には難しい。それも波動と言う波形が何を表現したものかが分からない。ここでは伝送波も反射波も全て『エネルギー』の分布密度波として捉える解釈について論じたい。

インピーダンス整合。

負荷インピーダンスが電線路の特性インピーダンスと整合して居れば反射波はない。すべて負荷に伝送エネルギーが吸収されて反射するエネルギーは生じない。それがインピーダンスマッチングと言う状態なのだろう。

電線路電圧の概念。

電気現象は『電荷』を否定して初めてその真相が見えてくる。高周波であろうと直流であろうと、電源は電線路の空間を通して、『エネルギー』を負荷に供給する回路技術である。二本の電線a と b の間に高周波電圧を掛けるとする。その電圧を掛けるという物理的意味をどのように解釈するかと言う難しい話になる。まさか電線に正の電荷と負の電荷を交互に電源から送出するなどとは考え難いだろう。①には、『エネルギー』の波の伝播で示した。電線路に電圧測定装置、オッシロスコープ等を繋げば②の様な電圧波形が得られるから、電圧と言う物理量が自然世界に存在すると誰もが考え易い。しかしその電圧と言う物理量は、人が科学技術に依って獲得した測定技術の賜物であって、簡単に電線路に電圧が在ると理解するには、それはとても深い物理的意味を知らなければ分かり難い概念なのである。

定在波とエネルギー流。

終端短絡の定在波とは。電線路の位置によって、電圧や電流と言う概念の分布を測定すると、測定値が正弦波状の分布になる。その分布波形を定在波と言う。終端短絡の時、『エネルギー』は電源から伝送され、終端ですべての『エネルギー』が反射する。その往復の『エネルギー』の波動が重なり合い、その密度分布の大きさが電線路の位置によって決まった脈動をする。図の電圧の定在波をVで示し、電流の分布をIで示した。電圧定在波Vは常に零の位置がある。『エネルギー』は電線路を光速度で流れるから、電線路の位置によって流れが違う訳はない。それなのになぜ測定値が異なる正弦波分布になるかと言う疑問が沸く。そこに『定在波』と言う意味が隠されているのだ。

今、図のように電線路の長さが電源電圧波長の2倍の長さとし、その終端を短絡する。電線路を短絡するなどという事は普通は短絡事故と考える。しかし、高周波電圧波形の場合は、『エネルギー』密度がそれほど高くなる前に極性が反転して、高密度にならないため、短絡しても事故とならずに済む。極性の切り替えが早く高密度エネルギーにならずに済むためである。短絡終端に到達したエネルギー波はすべて反射して電源側に戻る。その反射伝送は到来『エネルギー』波の反対側の電線近傍を、即ち反対側電線を戻る。

電線路電圧の意味の追加説明。この事は別の記事にして示したい。短絡終端は当然電圧は零である。電圧零という意味は二本の電線路の両方が同じエネルギー分布であれば、それ電線路間の電圧は零である。電圧とはエネルギー分布ギャップを評価するものである。それは乾電池電圧の『エネルギー』の意味と同じものである。二本の電線間にエネルギーの分布差が無ければ、如何にエネルギーが大きかろうと電圧は零である。エネルギーギャップ零は電圧零である。

この記事は

金澤:分布定数線路実習に対する一考察。新潟県工業教育紀要 第3号、(昭和42年)。に載せた定在波分布波形の意味が良く分からずに、改めた考えてみた。実験での測定データなどは他にあまり見当たらない。その意味でとても貴重な資料と考える。正直に当時を振り返れば、よくこんな実験をして、報告記事にしたと驚いている。その訳は今でもそのデータの意味が良く理解できないのだ。その意味を少し掘り下げて理解してみたい。その第一報として定在波と『エネルギー』の関係だけを論じた。一般の解説には『エネルギー』の観点はほとんど示されていないように思う。

 

原子構造と8面磁極

原子構造(2020/09/13)。

原子構造論など全くの素人が申し上げるのは大変恐縮である。しかし、『電子』の存在を否定したら、標準的原子構造論を信じられなくなる。専門家の論理を否定せざるを得なくなる。誠に不遜の極みとお恥かしい次第です。

八面体と軸性エネルギー流。八面体の表面は軸性エネルギー流(Axial Energy flow)の磁極との解釈を提案した。図の赤い丸は N 極、青い丸は S 極を示す。水素原子は最小のマグネット単位原子と解釈する。もし『電子』を考えるなら、それはもっと小さな軸性エネルギー体のマグネットと考えればよいかも知れない。しかし電気回路ではそんな『電子』も必要ない。分布定数回路を考えれば、そこには電線路空間内のエネルギー分布流しか考えられない。従来の分布定数回路と言うインピーダンス認識も考え直す必要に迫られる。

原子の基本的特徴。周期律表に示されるように、やはり8の周期性で特徴付けられるのは確かであろう。中心には核があり、その周りを『電子』が取り囲んでいるような構造体として原子を捉えているのが常識的科学論である。原子は他の原子と結合する性質を基本的に備えている。原子の空間像をどのように捉えるかは、その結合の機能を何に求めるかに係っていよう。常識論である原子構造は外郭電子同士の結合にしか説明が付かない。だから「共有結合」なる電子間の結合力を頼りにする以外ない。あるいは電子が理由は不明だが、相手の原子に移り、その結果イオン結合なる結合理論を唱える。そんな電荷間の「クーロン力」に論理性が成り立つと考えること自体が、失礼ながら何も考えていないとしか思えない。

新電磁気学の事始め (2020/09/15) 。『電子』周回構造の原子論批判の為の記事とした。

新電磁気学の事始め

電気磁気学への希望 (2020/09/14)。それは大きな代償を払わなければ難しい。困難の原因は現在のあらゆる科学理論の拠り所たる『電荷』概念の否定しかないから。

教育。 教育基本法(原)(昭和22年3月31日)の前文。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。                   われらは個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を徹底しなければならない。

この教育の基本方針によって、真理を希求する人間の育成を期するためにも、過去の科学理論の矛盾を勇気をもって排除する以外に、未来への希望は無いものと覚悟すべきである。

第一の要諦。

決して電荷は自然界に存在しない。従って、「電荷間に生じる力」なる表現は論理的な矛盾を含み、使ってはいけない。「クーロンの法則」は間違った法則であった。それを教科書から排除してこそ未来の教育が始まる。記事の右上の検索で、クーロン力で検索すると過去の幾つかの記事が現れる。不可解な電荷 (2019/5/26) もその一つ。それは『電子』なる概念も否定されることになる。この主張は所謂「不協和音」(9月7日の新潟日報座標軸の記事を見て知った欅坂46の歌詞を見て、弱気になった。)になる。原子構造論の否定にもなるから。恐ろしい結果になる事、即ち教科書の電子論を否定する事が、また高分子結合の水素結合とは何か?の極めにもつながる事だから。すべてが軸性エネルギー流(Axial energy flow)の磁気結合につながる予測を生むから。『エネルギー』一つの基礎概念にまとまるから。

子供達への教育は、子供たちが余裕をもって日常生活が送れるように、少ない内容の広く応用につながる大事な基礎に重点を置くことに勤めなければならない。

『エネルギー』の意味を考えて欲しい。

 

 

科学論の土俵は

科学論の対象範囲は無限の広がりになっている(2020/08/31)。科学論を戦わし、勝者と敗者がわかる土俵は無いのか。生活の夢はどのような土俵で勝ち取ればよいのか。

科学論は基本的に科学者の組織に所属して、その所属機関の一員、科学研究者として生活資金の保障の下で研究が可能である。その上で研究内容の発表を通して、その科学者としての評価が社会的に成される。その研究論文はそれぞれの研究分野ごとに異なる学術機関誌上に、その研究部門の専門の査読者によって吟味され、価値あると評価されて発表されるものと理解している。それが科学論の土俵であろう。科学者が競う科学論には、その特殊性によって土俵が限られたことになる様である。特殊という意味は、そこで論じられる内容が普通の市民にとっては余りにも限られた概念や意味の用語で語られるため、全く関わり得ないものである。特に現代科学論は狭い専門領域によって分野別に仕切られてしまった。それぞれの科学研究者は厳しい競争社会の中で、その専門的研究に専念して、それぞれの土俵上で格闘されている。

スポーツにはその技量を競う土俵がある。科学研究と異なる一般社会に開かれた市民生活の場では、日常的に様々な土俵がある。みんな生活と夢とを結びつける土俵であろう。

教育あるいは理科教育の土俵。理科と言う教科は自然世界を科学的に捉えて、その基礎教育によって培われた科学的知識や感性を、後に社会生活の上で科学者に成るばかりでなく、あらゆる場面で的確な自然現象の解釈に生かす能力として重要である。さて、そこで気掛かりな事がある。それは科学研究の現代的姿が全く教育とかけ離れてしまったことである。学校教育で取り上げられる理科教育内容と最先端の科学研究内容との間の隔たりが極めて大きく、矛盾を孕んだままに放置されている事である。昔の「ロウソクの科学」のようなファラディーの話の時代との隔世の感がある。その原因は何に在るのだろうか。生命の科学、医学生理学のような研究分野はとても複雑で高度の専門的であり乍ら、その基礎となる理科教育については何も殆ど疑問もなく、現状の基礎概念がそのまま科学常識として是認されている。高度な専門分野の研究者は、その最先端の研究に心血を注ぐが故に、学校教育の基礎、物理学の基礎などを考える余裕などない。では、物理学科の教育の専門家がその基礎の概念を研究対象として疑問を拾い上げるかと思っても、殆どそのような事はしない。原子構造が原子核とその周りを周回する電子で構成されているとの古典的認識(誰も古典的とは考えない)で、少しも違和感を持たないように思う。『電荷』概念とクーロンの法則の間の論理的矛盾など少しも問題にしない。それは何故なんだろうか。同じ『電荷』同士は反発して、近付かない筈だ。しかしコンデンサの充電現象は『正電荷』同士、『負電荷』同士が集合、密接する事に矛盾も感じない。その思考の有り方を一体どのように、科学論の論理性と言う観点から捉えれば良いのかと考え込まざるを得ない。

日本政府(文部科学省)の教科書検定制度。社会的仕組みの問題としても考えなければならないような気がする。『電荷』に関して以下に述べる。

『電荷』否定論。ブログで一般市民も理解できるかと、電気回路現象や基礎的物理論の矛盾を取り上げて論じてきた。既に10年は過ぎた。しかし、ブログ記事に対して、専門家が批判を寄せる事はない。少なくとも『電荷』や『電子』で物理現象を大学講義でなさって居られる方が多いにも拘らず、反論も期待したが全く無い。ブログでの記事はそれを期待したが、やはり科学論を戦わす土俵としては期待外れの無駄であったかと、誠に残念である。情報の溢れるインターネットの場に、そこに土俵が在るかとの期待でもあったが。教科書の内容と言う、誠に基礎的な事であれば、一般の市民が質問できる場として有効な土俵と考えた。やはり『電荷』に関する公開の場での討論会が在れば、開かれた科学論となるとの期待を持っている。そんな機会に壇上で参加したい。新しい『パラダイム』に向けて。

教育とオームの法則

オームの法則(2020/09/05)。

電気の学習で最初に学習するのは『オームの法則』ではなかろうか。電気回路の電圧と電流と言う電気の基礎を学習するものである。懐中電灯は誰でも家庭に備え付けられていて、手に取って見る事が出来るだろう。その電気回路は最も基本の電池とランプの回路だ。その回路の意味を教える理科での指導法を述べたい。

自然の本質・真理を教えることを主眼に。本筋を易しく教える。その後に技術法則の意味や使い方を教える。それが大事だ。

最初から電圧や電流などの言葉を教えるべきでない。そんな難しい概念が理解できる訳はないから。その意味を教えようとするなら、そこには必ず曖昧な解釈が入る。『電子』などこの自然の世界には存在しないのだから。

学校教育。学校で教えるとすれば、電池と豆電球を電線でつなぐ。するとランプが点灯して光る。その訳を教えるとき、電池のプラス端子から電流が流れ出て、豆電球に流れて、電球が明るく光ると教るだろう。その教え方が間違っているとは言えない。それは正しいのだ。その先に疑問が沸き、何故かと考えるかも知れない。そこでパソコンや携帯端末でインターネットから学習しようとすると、本当は『電子』が電流の逆に流れていると解説されている事に戸惑うことになるだろう。学校教育は教科書によって教える。その教科書の内容や教え方は文部科学省と言う政府機関で細かく決められて、その『学習指導要領』の指導指針で厳格に決められて、勝手な指導は出来ないことになっている。教師の教育指導法に自由が許されない仕組みだ。

オームの法則の学習指導法の理想。

学校教育の内容とは違うが、電気回路現象は教科書のような解説では本当のことは理解できないのだ。兎角数式で解くと程度の高い理解に結びつくと考えるのではなかろうか。本当はそうでは無いのだ。数式は確かに高度な科学技術を理解するにはとても有効で、便利ではある。しかし、その数式で解いたからと言って、懐中電灯の電気現象が理解できる訳ではないのだ。何処までも何か納得できないで疑問が残るかも知れない。しかし今まで誰もがその疑問に真剣に向き合ってこなかったのではなかろうか。何処かで、電流が流れる事で分かったことにして置こう。それが科学技術社会での常識の世界で社会に役立てる道であるから。と決まる。『オームの法則の真相』は電気現象の自然現象を理解しなければ分からないのだ。言葉で述べて説明できなければ、本当の電気現象の真相を知ることはできないのだ。それは誰もが簡単に理解できることだと思う。その真相を説明したい。

上の図はその電気回路の真相の説明用の図である。電線の中を電流や『電子』が流れる訳ではないのだ。しかしオームの法則によれば、流れる電流は

I=E ÷ R [A]

と簡単に数式によって算出できる。その値は電流計で測る値と等しい結果になる。それだけで、オームの法則が如何に優れた科学技術法則かが分かるだろう。それなのに、その計算に依て理解することは、この電気回路の本当の自然現象を理解したことには成らないのだ。電線の中など何も流れてはいないのだ。流れるのは、電線で囲まれた空間内の『エネルギー』しかないのだ。それも光の速度で瞬間に流れるのだ。電気信号が伝わる速度は光速度だと昔から分かっていた。『電子』が電線の中を光速度で流れられる訳などないのだ。それなのに、何故か『電子』が電線の中を流れると解釈するだけで、信号が光速度で伝播する事との関係を突き詰めて考えようとして来なかったのではないか。電気回路の電線で囲まれた空間を光やスマホの電波と同じく、光速度で流れる『エネルギー』なのだ。図のように、それも電線の負側の近くの空間に多く流れる現象なのだ。電線の正の側は『エネルギー』の伝送空間を規定するだけに近い役割と見做せるだろう。あくまでも自然現象には『電子』や『電荷』は全く存在しないのが、その真相である。だからと言って、その空間の『エネルギー』の流れを測定するなど不可能な事である。見る事も測ることも出来ない物理量『エネルギー』が自然世界を支配している現実世界なのだ。この事は数式など計算しなくても、誰でも基本として認識すべき真相なのだ。その上でこそ『オームの法則』が如何に優れた科学技術法則であるかが理解できる筈なのだ。空間を流れる『エネルギー』を電流計と電圧計で計測する技術を完成させた事の意味をよく理解しなければならないのだ。それは素晴らしい人類の科学技術として完成するまでの努力の結晶なのだ。空間に流れる目に観えない、測れない『エネルギー』を電圧と電流と言う二つの計測器によって測れるようにしたのだ。これほど簡便な量的理解ができる法はないのだ。電流計や電圧計が如何に優れた科学技術の成果であり、文化であるか。それを理解することが、理科教育の本筋でなければならない。

電気回路はすべて『エネルギー』が空間を流れる現象である事を理解することである。それが全ての科学理論の理解の基礎となるのだ。これは科学や理科の教育で、すべての方に理解してほしい基本と思う。広い科学の分野で、その分野ごとに独特の概念が使われるが、それはそれで専門分野ごとに違っても良いだろう。しかし学校教育の基礎で、余りにも複雑な科学技術概念をそのまま教える事は、子供たちの自主性と創造性を損なう意味で考え直して欲しい。しかも結局理解できないモヤモヤの気分を後に残す。そして多くの細かいことを記憶させる膨大な内容によって子供たちの折角の豊かな感性と日常生活のゆとりを損なうことになる。

〈問題〉。上の回路で、負荷が要求する『エネルギー』を電源はどのように判断するか?もちろん電池に認知機能などない筈だ。電池が送り出す『エネルギー』はどのように決まるか?

「答」。電源は『負荷』のことなど一切関わりない。何も知らなくても自然の摂理でそのままの『エネルギー』の量が決まる。その意味を考えてください。計算式では答えに辿り着けない。

政治と教育

教育基本法(昭和22年3月31日)われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。・・。

と新しい教育を目指して戦後の日本が始まった。しかし、『根本において教育の力にまつべきものである。』が何処か変質したものに変わったようだ。教育の政治的中立性 (2020/07/22) 。

政治と行政は密接な関係である。日本の教育行政は文部科学省が担っている。そこで、教育の中身が決められて、その規定事項に従ってしか教育が許されないことになっている。予算の裏付けによって子供たちの理想の教育が初めて可能である。『学習指導要領』と言う国家行政の検閲によって教育内容が縛られている。

理科教育について「学習指導要領」の内容を学習させて頂いた。

右は高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説の77ページである。

原子に関する部分の文章を読むと、

電子、原子及び原子核に関する現象についての観察、実験などを通して、次の事項を身に付けることができるよう指導する。

ア 原子について、次のことを理解するとともに、それらの観察、実験などに関する技能を身に付けること。

イ 原子について、観察、実験などを通して探求し、電子と光原子と原子核における規則性や関係性を見いだして表現すること。」と書かれている。

‥の観察、実験などを通して・・とはどの様な事を指しているのか?これが教科書を検定する検定基準になると解釈する。とても腑に落ちないのだが、教科書検定以前に、この学習指導要領の内容と意味を『検定』する必要はないのか。誰がどのように『合格』と判定して告示に至ったのだろうか?

また、思考力、判断力、表現力等を育成するに当たっては、原子について、観察、実験などを通して探求し、電子と光、原子と原子核における・・。等と原子について「観察と実験」とはどの様な事を想定した指導要領か?これで子供たちの理科教育を考えた教育機関の目的がどこに在るのか理解できない。

教育と学術審議会と政治。

何か政治の目玉が見当たらないと、教育を政治の題目にするようだ。政治が教育を取り仕切る日本の教育制度は正しいのだろうか。教育委員会の制度が形式的に整えられている。しかしそのトップは行政機関の教育長が取り仕切っている。独立した教育委員長ではない。

教育審議会が教育の基本方針を答申し、それによって方向付けられる。教育審議会委員は行政が選任し、その方向性は既にそこで決まるようだ。その結果が上に挙げた「学習指導要領」として決まって行く。日本の科学者は上の例のような「原子に関する、観察と実験・・」の教育指導論で良いと考えているのだろうか?今回「学習指導要領」の一部を拝見して驚いたので取り上げた。『電子』が電気現象には無用のお荷物であるとの認識から。

太陽電池の機能

電子論の矛盾(2020/08/21)。

電子回路は電子がその動作原理の根幹をなす。それが科学技術を支える現代物理学理論の『パラダイム』である。検索すれば何処にも同じような、電子のお話で解説されている。56年前に筆者も電子工学を工業高等学校の生徒に教えた。当時は真空管の熱電子の解釈理論であった。教科書の解説の通りに講義で教えた。しかし今もし、授業をするとしたら決して電子での解釈はしない。自然界に『負電荷』など存在しないと考えるから。それは『パラダイム』転換ともなろう。太陽電池は電子不要の光エネルギー変換装置の結論になる。

太陽電池。

筆者は半導体の特性について専門的知識がある訳ではない。教科書の解説に従えば、右の様な回路図で表現される。この回路図を使って筆者が疑問に思う点を取り上げたい。n型とp型半導体を接合して、n型側に光を当てるとそこから電子が発生し、負荷に流れ出ると解説されている。しかし、考えるとその意味が全く理解できないのだ。専門家の解説が筆者のような素人には理解できないのだ。初学者は学校で先生がお話すれば、そのまま記憶して覚えようとするから、疑問も抱くことはできない。しかし少し学習を積み重ねてくると、いろいろ理論の可笑しな点が見えてくる。光がn型半導体に入射すると、どの様な訳で『束縛電子』が『自由電子』となるというのかその論理が分からないのだ。

光電効果。

光と電気現象の関係が光電効果として解釈されている。電子は原子構造の外郭の電子殻に分布していると解釈されている。電子が原子核の周りをどのような速度でどのような立体空間軌道を回っているかも殆ど解説されていない。L 、K殻 等と軌道の解釈は示されているが、どの向きにどのような速度で回転しているかなど重要な具体的な意味になると全く示されない。その電子に光が当たると、自由電子になって、原子核の拘束から解放されるとなる。電子が光との相互作用で核の束縛から解放されて、自由になるとはどの様な原理から起こるというのか理屈が観えない。その辺の具体的な『エネルギー』の関係が詳細に示された科学論であって欲しいと思う。電子では論理的な解釈が示せないだろう。何故なら自然界に『負電荷』などがある筈はないと考えるから。ウラン235が核の外側で電子が92個も本当に回っていると考えているのだろうか。どんな空間構造で分布できると考えるだろうか。

光電効果における電子が受ける光の作用。この事の意味が理解できない。

自由電子の速度の大きさとその方向はどのように決まるのか。光を光電素子に当てると電気の『エネルギー』が得られることは確かである。その科学技術は素晴らしい研究成果として現代社会に多大な恩恵を及ぼしている。その半導体の物理現象の解釈理論が量子力学である。しかし、そこには『エネルギー』の具体的な描像が観えない。勝手ながら図3を基に、そこに於ける光電効果と言う物理現象がどのような事であり、そこにおける自由の電子と言う状況がどの様な状態を指すのか、そして自由が故の電子はn型半導体内で機能は具体的にどのような事なのかを理解したい。自由の電子がどのように『エネルギー』を負荷に供給するのかが理解できない。それらはすべて、素人の単純な疑問でしかないかも知れない。このような事は、初めて学習する学生も疑問に感じ、その疑問が解けた時に初めて納得できるのではないかと思う。

1.光は電子のどの様な特性に作用するのか?作用対象は『電荷』なのか『質量』なのか?光と電子の間の物理的作用原理は何だろうか?

2.電子は原子核の束縛から解放されて、自由になるという。その時の電子の物理的状態は何がどれだけ変わったのか?その電子が保有した『エネルギー』とは「運動エネルギー」か?もし運動エネルギーなら、その時の速度ベクトルは負荷まで保持されるというのか?その電子はどの様な仕組みで、導線の中に導かれるのか?

3.もし負荷に『エネルギー』を届けたとしてら、帰りの電子は何がどのように変わるのか?

4.電子に作用した光はその後、消滅するのだろうか?光の『エネルギー』の空間像が明確でなければならないと思う。

結論。上に拾い上げた、単純な疑問が解ければ良いと思う。それは電子の物理的空間像を示す事に集約されているのだろう。空間像を示せないなら、それは『電荷』が自然界に存在しないからであろう。前の記事、ダイオード電圧 (2020/08/26) でダイオードのON ,OFF 機能について解釈を示した。半導体のp型、n型とその接合面の機能は太陽光電池もダイオードも基本的物理現象は同じであろう。その点を踏まえて以下の解釈になる。

太陽電池の機能を示したい。

ダイオードがオンする原理はpn接合面の『エネルギーギャップ』を解消する、外部からの『エネルギー』供給である。電池から供給するか、太陽の光の『エネルギー』を供給するかの違いだけであろう。n型半導体側に光を照射すれば、pn接合面の『エネルギーギャップ』を解消でき、素子はオンとなる。右の図には、電池電圧Voの負荷を示した。電源はpn接合素子を直列に、合成電圧がVsとなる設定とした場合で示した。一般には電源電圧Voの電池に負荷抵抗なしにダイオードを順方向に接続すれば、電源電圧短絡の事故となる。しかし、ダイオードの電圧ドロップの直列段数倍がVoと等しければ、短絡事故とはならない。その時の電圧Voはダイオードオンの役割の為の電圧と見做せる。光の照射量に従って、n型半導体内部の『エネルギー』の量が決まり、太陽電池としての『エネルギー』供給源として、負荷の蓄電池電圧Vo側に『エネルギー』を供給するかどうかが決まる。

 

 

ダイオード電圧

半導体の世界(2020/08/26)。第二次世界大戦後に半導体に関する世界が始まったのかも知れない。今の情報化社会を支えている基本技術は半導体製品に負っている。p 型半導体とn型半導体の接触面に不思議な世界が繰り広げられているようだ。

p n junction と『エネルギー』

p 型半導体とn 型半導体を接触させると、その接触面に不思議な世界が現れる。その基本となる製品の代表がダイオードであろう。トランジスタに成れば、npn等と接合面が二つになり、さらに不思議な世界を創り出す。電気回路に組み込めば、回路を切ったり、繋いだりするスイッチの機能を発揮する。

エネルギーギャップ。物質はそれぞれ特有の保有エネルギーを持っている。その保有エネルギーの外界作用性を物質の特性として発揮すると解釈する。例えば「イオン化傾向」と言う物質の外部作用性の強さの違いもその評価法の一つであろう。半導体の接合面に現れる特徴がそのエネルギーの持つ作用性と考えられよう。p 型半導体がn 型半導体より内部保有エネルギーが多く、接合面に『エネルギーギャップ』を生じる。その接合面の『エネルギーギャップ』がスイッチオフを起こす。スイッチが『オフ』とは電気回路の『エネルギー』を伝送する空間が構成されない、即ち伝送空間が途切れた状態である。導線の中を流れるものが何も無いのに、僅かにその導線が切れただけで『エネルギー』の伝送空間が失われるのも不思議である。その導線切断と同じ機能を、半導体の接合面の『エネルギーギャップ』の存在が果たし、回路遮断の原因となる。その回路遮断を除去するには、n 型半導体に外部から『エネルギー』を供給してその『エネルギーギャップ』を解消すれば伝送回路空間が構成され『オン』と言う状態になる。即ち回路導線の中に『エネルギーギャップ』の部分が無ければ、伝送空間が構成される。図では、『エネルギーギャップ』の電圧 V_off_で表した。接合面のコンデンサ容量 Co [F] とすれば、そこのエネルギー量が Co× V_off_^2^[J] であるという意味で解釈して良かろう。

ダイオードドロップ V 。ダイオードがオンの時、電圧降下が生じる。0.6~0.7 [V] 程度の電圧のようだ。その電圧分に相当するだけ、 n 型半導体側の『エネルギー』が多い状態になっているという事である。(『電圧』と言う技術量は電位の低い側が『エネルギー』の多い分布状態を評価する概念である)。その時、ダイオードはオンとなり、回路の『エネルギー』伝送可能な空間が構成されるという意味と解釈する。ただこのダイオードがオンの時の電圧降下 V は接合面のオフの『エネルギーギャップ』とは異なる意味と解釈したい。ダイオードオンのための消費エネルギーに関わる電圧と理解する。

過去の記事を辿っての道のりであった。

ダイオードの機能 (2016/09/17) 。謎(pn接合は何故エネルギーギャップ空間か) (2017/05/18) 。

『電圧と電流』すべて逆だった

電気現象の解釈は長い歴史を経て、今電気理論として科学技術の根幹をなしている。しかし、そこには大きな誤算があった。『電圧』と『電流』に物理現象としての論理性がなかった。しかし、これからも「オームの法則」として科学技術に欠かせない理論として社会的な文化であり続ける。

科学理論と自然世界。

特に物理学理論として『エネルギー』の実在性を見誤ってきたところに、科学者の現代的責任が問われなければならない。『電荷』は自然界に存在しないのだ。従って、『電子』は誤った科学概念であった。電気現象に『電子』は不要の存在であった。そこに現代物理学の誤りの根源がある。

電気現象はすべて『エネルギー』の流れである。『電圧』は電気回路のエネルギー分布の逆向きの方向に定義した技術概念である。『電流』も電線の近傍空間に流れる『エネルギー』を、逆向きに流れると定義してしまった科学技術概念である。しかも、その『電流』の逆向きに『電子』と言う実在しない概念を創り出して、論理を構築してしまった。そこに科学理論の根本的矛盾を持ち込んできたことになる。光も『エネルギー』の流れである。今太陽電池の現象を考えながら、先に『電圧と電流』の自然現象・理科教育としての矛盾を述べた。

電気工学から物理学を問う (2017/04/09) の回答であったかも知れない。

敦賀駅前から満天の星空の下

75年前の8月15日敗戦の日から始まった戦後。

新聞には当時の多くの体験談が載っている。しかし、筆者にはあまり記憶が残っていない。ただ一つ鮮烈に脳裏に焼き付いたような風景がある。8月15日を境に、突然世界が変ったような事態となったのだろう。もう舞鶴鎮守府の海軍住宅には居られない。4,5日後の今頃はそこを引き払って、新潟県の故郷を目指して汽車に乗っていた筈だ。脳裏に浮かぶ一つの風景がある。それは鉄道線路、北陸線の敦賀駅で降り立って見た風景である。それは敦賀市街のどこまでも見渡せる何もない廃墟の平原が満天の星空の下に、照らし出された無機質に輝く光景である。そこには人の営みも、鳥や動物の命の影もなく、天空に照らされた廃墟しかない。それが何がしかの錯覚であったなら良かったとも思う。

丁度汽車がその先に行かないため、次に来る当てのない汽車を待って降り立った敦賀の街の風景であった。鉄道線路だけは破壊されずに運良く残っていたから、何とか故郷に辿り着けたのだ。しかし、途中の事は何処を通って帰ったかも何も聞いていなかったので覚えていない。母と二人の妹との4人の逃避帰還の旅であった。恐らく汽車賃も、切符もない混乱の中での汽車での旅であっただろうと思うが、本当の事は聞いていない。列車も混乱のごった返す満員の中、窓からの乗り降りは当たり前であったことだけは覚えている。いつ田舎の家に辿り着いたか、その時の様子も何も覚えていない。小学1年生であり乍ら何も覚えていないとは、幼稚であったと恥ずかしい。

故郷の川は美しかった。母の信濃川での洗濯に付いて行き、川の中に手を入れているうちに、小魚を手の中に捕らえていた。今もその魚が⦅砂ッポリ⦆と呼ぶものだったと覚えている。自然に手の中に入る魚がいる川が如何に命輝く故郷の自然かと懐かしい。フサお婆さんも元気であった。父が年末に帰ってきたかも覚えていないが、相当遅くまで戦後の仕事があったようだ。

舞鶴国民学校の一年生に4月入学した。学校の近くに矢野歯医者さんがあり、治療をして頂いた記憶がある。しかし、敗戦の混乱の中貝野小学校への転校の手続きもなく9年間の義務教育が過ぎてしまった。その後の75年間は不可解の闇の中に過ぎた。