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重力には逆らえず

重力と言う不思議な力。

1987年の冬の事、他人の名前(自分の名前の研究室はない)の表札が掛かった研究室から窓の外を見る。其処に映る、降りしきる雪が不思議に寂しさを呼び込む。『静電界は磁界を伴う』の電磁気学から物理学理論の根幹を問う電気学会の年次大会の『予稿』を投稿して。

愚かながら、2年前の昭和60(1985)年4月。突然「電気磁気学」の講義を仰せ付かって、その授業担当と成った。能力不足の者の授業で、学生には不満であっただろうと申し訳なく思っている。長く電力半導体制御工学の研究しかなかったから、教えた事もない突然の「電気磁気学」の授業担当だった。しかも、初めから「アンペア―の法則」は嘘だと確信していた始末だから、そんな思いは心に秘めて授業をしなければならない。-(トランジスターインバーターの回路動作を電気理論で取り上げて教えれば、磁束は電圧時間積分値で決まると分かるのだが。伝統的教育手法が技術理論のそれを許さないだろう。)ーその思いを抱いた2年間の授業での研究の総括として、論文予稿『静電界は磁界を伴う』の提出に成った。しかし、2年間が過ぎれば、また元の木阿弥に戻る約束であったから、全く先の事など考えもしなかった。そこが世間知らずの、幼稚さだった。

雪は真っすぐに等距離を保って降り落ちる。決してその雪片の間には引力は働かない。その当時は、先の事など全く知る由もなく、只成り行き任せにボート生きていた。

その時から17年後に、 29pWD-1  ニュートンの万有引力則の矛盾 日本物理学会 第59回年次大会。2004年。

この予稿の扱いには不思議なこと(?)がある。この2004年は申年であった。万有引力を思って、年賀状に刷った。秋には、10月23日(土)の夕刻6時前、中越地震に襲われた。12月24日頃と思うが、スマトラ島沖での大津波が発生して、大きな災害が起きた。地球内部の息遣いと、そこに生きる者には逆らえない宿命かも知れない。

 

科学とは 蒟蒻ほどの手応えで 掴み切れない 君によく似て

等と思い乍らの版画にして。

 

こんな版画を刷るから、地球が怒ったのじゃあるまいが?

それにしても申年は恐ろしい。

 

17年も前に思った窓の景色。不図不思議だと思ったことを引き摺って、投稿するなど何の因果か不思議な事があるもんだ。

万有引力則の矛盾と言っても、誰も重力や引力に疑問など抱かない。「万有引力」と言う重力理論が人の感覚を支配していると言った方が良いのかも知れない。それは感覚的に誰でも納得できる自然法則だから。リンゴが落ちる現象から偉大な法則が唱えられたと成っている。この大地に生きて、そこで経験する日常の身体に感じる感覚が引力を疑うなど許さない。

2004年当時の矛盾と言った矛盾の意味と今の想いはまた別の意味に成っている。それは科学理論としての意味を考えた時、確かに現象は引力、重力であるが、何故『質量』の間に『引力』が働くのかと疑問を抱けば、その訳を説明できるだろうか。『電荷』間の『引力』や『排力』の論理性と同じく、自分を納得させるだけの、その訳を説明できないのだ。

『質量』と『質量』との間にどの様な論理的な原理で『引力』が働くと解説できるのか。地球の『質量』を計れる訳でもなし、この『万有引力』が働くという法則の真偽を、重力の発生するその値の訳を実験的に証明が出来る訳ではないだろう。ただこの『重力』の意味の解釈論として「万有引力説」がとても感覚的に納得し易いという点で、皆がその説で解釈することが有効であることは間違いない。

だが、宇宙の『重力』等と言う話になると、そこには『質量』と『質量』の間に『引力』が働くという原理的な意味を説明するに、論理性が必要になると思う。『電荷』間の「クーロン力」と同じ意味での科学的な論理性が必要になる。長く自然科学の根源的『電荷』概念の支配論が、今怪しくなっていると言わなければならない事を思えば。何故『質量』間に引力が働くと言えるのかも考えれば分からなくなる。

最近日本の😋蜜入りリンゴがあまり食べられなくなって寂しい。それは美味しいリンゴは輸出に回る所為で、資本主義の本質的に持つ宿命の仕組みに因るからと諦めてはいるが。

長岡工業高等専門学校電気工学科、助教授。「電圧型PWM変換器を用いた瞬時無効電力補償装置の動作解析と設計法」 が 電気学会 106 巻 4 号 p.323-330. 昭和61(1986)年4月号 (61-B39) に掲載。しかし、その先の見通しは全く見えなかった。文部省共済組合の組合員かどうかなど全く意識にも無かった。

 

熱と光と温度

「物理学とは何だろうか」。この標題は誰でも気になる事を言い表している。本棚に片割れの(下)が残っていたのに気付いた。有名な科学者:朝永振一郎の著書だ。

折角だから、一応興味を持って読んだ。しかし、自分のような学識論に無学の者には理解できない内容と直ぐ分かった。

その一部が3頁にはじまる冒頭にある。

第Ⅲ章 1 近代原子論の成立

・・・、物理学者が原子の世界に足を踏み入れたのは、熱を単にエネルギーの一形態だとする考えではこの不十分さは除去できないと分かったからです。もっと具体的に言えば、熱エネルギーは原子の運動による力学的エネルギーだ、という考えに彼らが取りくみはじめた‥

と読んで直ぐ、感覚的に×を印したくなる。確かに内容は現代物理学理論の意味を解いている。しかし小生にはそれが受け付けられない内容なのだ。小生には、この論理『質量』の運動論的熱理論が受け入れ難い基本点である。

そこで、本棚から気掛かりな読んだこともない本 :カントの『純粋理性批判』篠田英雄訳 岩波文庫 を探し出した。しかしこの本も、(上)巻だけで、(下)巻が無い。昭和38(1963)年6月30日 第三刷とあり、古く紙質が茶色にくすんでいる。

57頁

緒言  Ⅰ 純粋認識と経験的認識との区別について

我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない。我々の認知能力が、対象によって喚びさまされて初めてその活動を始めるのでないとしたら、・・

と言う部分を読んで、感覚的に共感した。自分も近い思いの解釈だと。

物理学は自然との心の共感を基に在るべきと思いたい。

もう一冊見つけた。『科学と方法』ポアンカレ著 吉田洋一訳 岩波文庫。

第一遍 學者と科學

第一章 事實の選擇

トルストイから見れば、「科學のための科學」とは不合理な概念であるという。・・・。

溢れる話題を深く、鋭く論じていて読みたいと思うが、さてどうかな・・。

熱と光と温度 の標題を選んだ訳は、熱現象の科学理論がとても複雑で、感覚的に自然現象の解釈としては基本的に方向音痴の理論に思える。『質量』とその運動エネルギーに意識が強く偏った理論に成っている。空間に実在し、しかも『質量』に関わりない『エネルギー』の存在に気付いていない論理は基本的に間違っている。原子や分子の運動エネルギーで解釈する「気体分子運動論」は間違った自然現象解釈論である。その点を意識した標題である。

『熱』とは何か?『温度』とは何か?それらと『エネルギー』との関係をどの様に捉えるか。光の『エネルギー』をどの様な空間認識で捉えるか。

光も熱も、その自然の実体は基本的に同じものであり、それは空間に雲のような物に似た姿で、科学的計測法で捉えられない『エネルギー』の流れなのである。ただ違いは『光』は光速度で流れる『エネルギー』の密度分布波であり、『熱』は質量体、物体の内部空間に留まった『エネルギー』の局所密度分布流である。花の花弁内の分子構造空間内で変換されて放射される前の状態の直線的な流れで無いから、状態としては『熱』に近い『エネルギー』である。花弁の表面から周波数変換されて外部に放射されれば『光』となる。植物の細胞内で『同化作用』という現象を経れば『光』は『質量』となる。その植物の木が枯れて焚火に成れば、また『光』や『熱』と転変万化の自然の仕組みの中に流れる。『質量』の運動エネルギーによる『気体分子運動論』は自然の真相を見ない滑稽な現代物理学理論の認識だ。そこには『温度』の意味も見えない筈だ。

光がどの様な物理的実体かは、目の前の自然の色彩、風景の色あるいは揚羽蝶の羽根の色を見れば、何となく感覚的にその本質が感じ取られるのではないか。図は紫外線が物の表面に入射し、内部空間構造内で共振現象などによって、周波数変換後波長が変換されて、放射される意味を描いてみた。みんな空間の『エネルギー』の密度分布波だから、自由を謳歌する自然の姿と解釈する。

熱力学で『エントロピー』や『エンタルピー』という概念がある。それらの意味はとても不可解である。

例えば、1気圧で、水1[kg]の0[℃]と20[℃] における『エントロピー』、『エンタルピー』の値はそれぞれ幾らでしょうか?

また、『温度計』は何を計るのだろうか。天気の良い日向に『アルコール温度計』を置いた。その指示値は何を計った事に成るのだろうか。『温度』とは何か?

『温度とは何か』が問うもの (2011/05/07) はそんな意味を問う心算であった。

結局、原子構造論が小生には理解できないのだ。『電荷』がどんな理由で『引力』や『排力』の原因となるかの論理性が無いから。

『論理性』をもった、哲学的な考える物理学理論であって欲しい。

怪しさに❓どこまで我慢を!

自分探しの前に、気付けば愚かな自分を知る。

『国家』や『政府』と言う意味についてさえ考えてもいなかった。全く無知であった。憲法の意義も、三権分立の意味も全く知らずに来た。昭和最後の年(1988)に、自分の居所が無いのだとようやく気付き、電気学会での、電磁界理論研究会の発表を最後に、人生の意味と自分探しの放浪の旅を始めた。それから、有斐閣の『六法全書』なども購入し、社会の意味を考え始めた。その分厚い2巻の本も何時の間にか消えて、今はない。多くの物が、何の因果か、この住処で消えて無くなった。先日も気付いた。何の意味か知らないが、有り触れた本「朝永振一郎著、物理学とは何だろう 上」が消えて、「下」だけが残っている?怪しさ取り囲まれている。とても悲しいのは、自分で半田付けした古い『テスター』も消えてしまった。それは数年前だ。相棒が消えた

過去を振り返れば、どの時も人生を生きる足跡が全て曖昧のまま、生きてきた証が茫洋として霞の中に消えてしまう。

舞鶴鎮守府への『戸籍転籍』 昭和14(1939)年12月1日に戸籍が転籍された。風雲が怪しくなったので、父は戦争へ行くの避けるため、「日本発送電株式会社」へ10月1日に入社した。しかしその12月に、内務省関係による『戸籍転籍』の処置が執られたのだと思う。当初は、長野県栄村志久見および新潟県中魚沼郡鹿渡の東電社宅に住む。その後舞鶴海軍住宅に。京都府舞鶴市溝尻 海軍住宅に終戦の1945年8月15日過ぎまで住む。一戸建て平屋が4戸ほどあった。その一つに住む。その前には、塀が巡らされた一戸建ての立派な住宅が並んだ、海軍住宅地。昭和16年9月召集令状、その後父は巡洋艦「香取丸」の『在役艦』となり、戸籍が「香取丸」に移動となった。昭和19(1944)年2月、香取丸は被弾沈没、同年3月31日船籍除籍となる。戦後75年間の不可解(2020/06/23) 。

その恐ろしさを今になって噛み締めている。遅まき乍ら、過去の意味を知りたいと昨年の暮れに、思い切ってお尋ねをした。20年程前の昔にも、理事長様にも確認などお手数をお掛けしたが、何処かの大学の曖昧なお便りだけで、矢張りどこの『共済組合』に加入していたかは解答が無く、意味不明に翻弄されたまま今日まで来た。

『個人情報保護法』が有るらしい。総務省主管か?

『行政機関の保有する電子計算機処理に関わる個人情報の保護に関する法律』(昭和63(1988)年12月16日 法律第96号) 施行、平成1(1989)年10月1日。

個人情報の開示請求。

しかし、未だに正式な、理事長様からの御回答が頂けない。

如何わしい偽情報だけがある。

その訳は何故なのか?

私には、人権が保障されていないのか?

今年の春、2,3月から周りに変化が現れた。それも、怪しさの空情報が空を駆け巡るだけで、自分が関係しているらしき事を、自分が知らずに周りが知っているかの怪しさだ。自分には何十年も同じ空情報だ。今日も何かの意味あり気な『紫花❓』の壁絵に先程(pm:2.30)変わった。

情報公開請求に御回答を頂きたい。

健康保険証は身分証明書か  。

 

化学反応式の物理的不可解

化学反応式の物理的不可解とは何かと思われるだろう。

化学方程式として表現される式の意味が分からないから、疑問を拾い上げて、科学理論としての論理的な意味不明を考えたい。こんな基礎的な事迄分からないでと自分の社会の共通の科学常識に同調できずに、反論し続ける世間常識的無能に情けなく思う。情けないのは、社会常識、人との関係に余りにも疎い自分を今更ながら思い知らされている。

この頃思い知った。小学校から、大学まで、入学式及び卒業式、また成人式など有とあらゆる人生の『式典』のお祝いを受けた記憶が全くない。人としての存在が否定されていたのかと恐ろしくも思う。

何時までも人生の意味も無いままかと惑いながら、どうすれば社会的存在感を得られるか?何も分からない家族にも申し訳なし。

事の始まりは1970年頃にある。トランジスタインバーターの半導体制御技術に驚嘆したのが切っ掛けとなった。電気理論の中の基礎中の基礎の「アンペアーの法則」の怪しさに気付いた。磁束は電流によって発生するのではないと。そこから、具体的な電気回路動作を確認しながら、伝統的な科学理論が決して自然の真理を唱えるものでは無いと深く認識するようになった。電気回路の具体的な現象解析を自分の得意分野と認識するにつれ、科学理論全体との葛藤が始まった。様々の不可解に遭遇し、その後は科学理論の虚飾に満ちた姿に辟易し乍ら、『静電界は磁界を伴う』の原点の認識を生かすべく。儚い奮闘努力を重ねて来た。最近漸く、光の空間像認識 (2022/04/17) 等にも纏めた。その基は偉大なるアルバート・アインシュタインの『特殊相対性理論』の間違いに気づいた事に在る。自分に居場所がない事に気付き、過去の人生の不可解を探しながら、研究を続けてきた。『特殊相対性理論』の間違いを確信したのは、「病窓に 満月迎え 除夜の鐘」の歌に悲しみを込めた、1990年12月、新潟県から処置入院と統合失調症と言うお墨付きを頂いた年の明けたお正月の1,2週間に纏めた光の全てが『特殊性』等どこにも無く、全て『相対性』で観測されるという結論にある。『忘れるべくして、忘れきれない不可解』(2022/05/‥  )と共に。

今は電気技術概念での『電圧』や『電流』の基本的意味さえ、自然科学理論の基礎となるべき物理学理論で、その真相、自然現象との関係が分かっていない事を理解した。『電荷』や『電子』が、自然世界に存在しないものであったという驚くべき真相に辿り着いた。

世界は科学理論の姿をどの様に、未来に向けて認識すべきかが問われる。小生も何か役に立ちたいとは思いつつ、観えぬ先行き❓

それにしても現実を考えてしまう。

大学の専門的学術の教育に果たす意義を考えてしまう。『エネルギー』を、[J]の意味を基礎とした日常生活に根差した自然科学意識を子供たちに教えて欲しい。それが『基礎理科』の筈だ。生徒も、理科の「勉強が好きだ」が少しは増えると‥。IT検索で化学反応式の解説を見るにつけ、燃焼熱、生成熱の意味はこうだから覚えて置きなさい、と自然現象の不思議な意味を『何故?』と考える訳でもなく、味気ない過去の解釈法の伝達解説に終わっている。気分は最高に『嫌気』が射すような解説だ。子供たちへの勉強が好きですか?に対する調査結果が10数%もアリナント!若い貴重な精神構造に、嫌気を植え付けて平然と居られる社会意識構造日本を思うと、将来が危ぶまれる。

本題。

化学式の物理的意味?

良く知られた3つの化学方程式を取り上げる。3つとも酸化現象とも見られよう。

C + O₂ = CO₂ + E(C)                                                   (1)

H₂ + (1/2)O₂ = H₂O + E(H)                                     (2)

C₆H₁₂O₆ + 6O₂ = 6H₂O + 6CO₂ + E(糖)           (3)

ここで、各式の化学反応の式の『=記号』後に記した E(X) は酸化反応によって発生した『エネルギー』の量ジュール [J] を表したものである。他に表現のしようが無かった。元素記号はそれぞれ、1モル等の規定の原子量[kg]とすればよいのだろう。

(1)焚火の反応式。その反応式が (1)式だ。

焚火等の燃料である薪あるいは燈油等の化学反応の燃料の主成分は炭素 C で良かろう。

(2)燃料電池の反応式。この反応式は (2)式だ。

燃料電池式自動車の燃料は高圧ボンベに詰めた水素ガス H₂ のようである。

(3)呼吸燃焼反応。この場合はどの様な式で表せばよいか、余り示されていない。自己流の感覚で解釈して表したのが(3)式だ。主な燃料は血液中の『ブドウ糖』としても良かろうと思って E(糖) と表現した。身体の『エネルギー』供給源は血液中の呼気の酸素との酸化現象と単純な感覚的脳で思う。科学実験では予想も付かない血液と言う溶液中の酸化反応は⦅ヘモグロビン⦆の持つ不思議な酵素機能に因るかとも‥。

自分が生きていられる化学反応式を呼吸作用で考えた。

〈疑問1〉『エネルギー』と元素記号の混合式で、その式の『等号』の意味をどの様に解釈すれば良いか。

子供達もこんな疑問を考えるのが自然科学の教育の意義と思うのではなかろうか。元素記号で表現した意味は具体的にどのようなものと解釈すれば良いのか。

『質量』か?あるいは原子の空間構造か?

焚火の科学 (2018/05/26) で炭素の酸化を考えた。

統合解釈例。考える科学論の姿を求めて一つの解釈例を提示したい。

冒頭の絵図に対して、化学方程式の意味を表現してみた。炭素原子と酸素原子を加え合わせても『等号』で表現するような意味には成らない。単に炭素と酸素が結合して燃焼の光熱『エネルギー』を発生する訳の解釈を表しているとは思えない。化学方程式の表現法は、そこには多くの解釈上の条件があって、それをすべて理解した上で、伝統的な科学論理の手法に習熟した解釈法でしかないのだ。巷の解説も、教科書の解説もその社会的な科学常識を覚えて、社会組織の同一認識軍団に所属しなさい。と強要している様な気がする。

質量とエネルギーの等価性(追記)。

質量 m[kg] が『エネルギー』と等価である。という意味を、皆さんはどの様に解釈するのか。

E = mc² [J] は

m= E/c² [kg] とどちらの式でも解釈できるという意味である。

あのものを燃やすときの火力を、熱の強さを肌身に感じて、炭素Cも酸素原子O₂も何もその質量が変らずに、炭酸ガスと『エネルギー』が発生するというなら、『無』から『エネルギー』が発生するという可笑しな魔術原理の科学論となる。

炭素が酸素と化合するには炭素のガス化が必要だ。炭素がガス化すると何故酸素と化学反応が起きやすくなるのか?そんな単純な疑問が、一つの考える意味と方向付けをしてくれる。それが「考える」という事の大切な意味であり、理科教育で自然の中で起きる現象を楽しく学ぶ姿勢であるべきと思う。工学的な意識で、炭素の燃焼を解釈すれば、炭素のガス化にはその種火が必要だ。燃焼熱の『フィードバック』が化学方程式に組込まれていなければ、燃焼の連続的現象は起きない。そんな意味で「考える」という事を表現してみた。覚えるだけの教室授業では、少しも理科の楽しさには成りません。

ここでは(1)の炭素の燃焼だけで終わる。(3)の呼吸の意味などになると、「考える」ことの楽しみがとても多くあるように思う。医学生理学の基礎知識もないが、液体の血液中での酸化現象が『体温』維持機能の人の基礎と思う。さて❓❓

みんな科学常識から逸脱したような内容で、伝統的な集団統一化の社会組織には誠に不都合かもしれない。そこにこそ『学問の自由』の意義があるのだ。ユネスコの憲章の精神を思って。『電荷』概念の否定を真髄として。

天然の光と色

天然の光。

この地球星に届く光はすべて天然の光だ。晴れ渡る夜空を人里離れた山の上から見上げれば、そこには零れる程の星が輝く。それも星から届く光があるから見えるのだ。しかし、この地球星に満ちる光は、向き合う太陽からの光がその全てと言っても良い。

夜に真赤なバラの花を見ても、殆ど赤い色では見えない。星からの光では赤くは見えない。花もおやすみが必要なんだろう。命にはリズムが必要だから。

花は、何故彩り豊かな色彩と象を見せているのか。単に花の個性と言うだけでは、自然への哲学の欠けた観方だ。

春は花が溢れる。陽の光は植物にとっては命を創る基だ。植物はこの地球上に生まれた。それが地球を太陽光線との共同作戦で、生き育ててきた。恐らく植物が、すべての原子も水も酸素も有機分子もその創造の機能を担ってきた。その御蔭で、虫も動物も命を育むことが出来た。人も太陽光線を若い時に沢山浴びると、副腎皮質ホルモンを創り出す機能に関係した副腎を鍛えるらしい。しかし、基本は植物のあらゆる栄養の製造機能に負って、あらゆる生物は生きられる。せめて、植物には地球上に、コンクリートジャングルの街中にもその命輝く姿を整えるのが生物多様性の在るべき理想だと思う。

その命の輝きを誇る植物の想い、それが花に託された姿と鮮やかな天然と言う色彩かも知れない。

そんな思いで花の一片を見つめたい。何も言う事は無い。美しい純粋な命の象。

木瓜(ボケ)。

 

 

 

 

 

深山苧環(ミヤマオダマキ)。

 

 

 

 

 

花海棠(ハナカイドウ)。

 

 

 

 

碇草(イカリソウ)。

 

 

 

 

岩八つ手。

 

 

 

 

 

日本雨蛙―遊歩道で―

忘れられない事、その一つに「日本雨蛙」がある。

『電荷』と同じく、専門家の学識、解釈を否定するようなことが多くて、『日本雨蛙』の「オタマジャクシ説」の否定まで、誠に申し訳なく遺憾に思いながら!

2006年6月26日。雨上りの昼頃、遊歩道上でやっと撮った。日本雨蛙の産まれ立ての姿。長く、日の出前の散歩で、小さな雨蛙を見てきた。産まれ立てでも、逃げ足は素早く近寄りがたいのだ。まして、メジャーで寸法を計るのはとても困難だ。1.5㎝に満たない寸法で、スマートな形だ。日本雨蛙は産まれ立てでも、既に雄と雌に違いが有るように思う。この写真は雄のようだ。

この写真は、「雨蛙 その謎」2006年7月20日発行文集の裏表紙にも使った。その2006年7月24日頃の、NHK朝7時のニュースで文集を『ニセ科学』の集まりで取り上げられている様子を見たと記憶している。勿論、雨蛙の専門家は「オタマジャクシ説」であり、小生の日本雨蛙は産まれて、人の目に付く時には決して尻尾は見せない等の解釈は『ニセモノ論』となるようだ。奇跡の遭遇 (2021/10/25) にも関連して。

この日の遊歩道で、幾つかの写真を撮った。その前日から梅雨の終りの相当の雨で、土が柔らくなって、深夜に「日本雨蛙」が生まれるに適している筈と、予測して写真を撮る心算で出掛けたのだ。予想が的中して、多くの産まれ立ての姿に出会えた。

上と下の写真は両方雄か。上は傍に葉草がある。遊歩道の敷石の大きさと雨蛙の寸法が比較できる。

 

これも追掛けて、やっと撮った。雌雨蛙かと思う。

この写真は側溝を見たら、十数匹の産まれ立ての雨蛙が居た。

下の写真も同じ傍のものだ。

みんな産まれ立ての雨蛙で、決して水中のオタマジャクシからの生態の『尻尾』等は人の目には付かないのだ。土から這い出した時は既に『尻尾』は無いのが『日本雨蛙』の特徴だ。

だから、ITの検索結果を見ると、オタマジャクシを田圃から採取して、育てて大きな尻尾を示す蛙を雨蛙と称する記事が多い。

専門家と言うお方の『二ホンアマガエル』と小生の認識とは『尻尾』の違いで区別できる。最近、漸くWikipedia の記事から「オタマジャクシ」の解釈が消えている。また以前ほど、オタマジャクシ説が多くはなくなったと感じる。

 

 

雷に感応して

雷に『電荷』は無関係だ。しかし、学術論は『雷』と『電荷』の二つの間の関係を欠くことの出来ない科学的論拠として関連付けられる。少し諄い(シツコイ)と反感を抱かれるだろう。しかし同じ事であっても、繰り返し、視点を変えて伝統的科学論の誤りを指摘したいから御勘弁ください。

何故こんな事に成ったのか?『電荷』概念無しの科学論は教科書には無い。

原子論も『電子』と『陽子』の『電荷』による「クーロン力」でその構造構成原理の解釈がなされる。『電子ちゃん』と『陽子ちゃん』がお互いにどんな力で惹きつけ合うかの科学論の論理性等どこにも無いにも拘らず、只こう解釈したら良かろう位の科学者の権威ある御意見が支配する世界論に染まってきたように思う。

『電荷』概念の科学基礎概念化の論拠。そこに、やはり『雷』の不思議が『電荷』概念を科学理論の根幹に据える決定的な役割を果たして来たように思う。

雷の正体で取り上げた図だ。その記事でも述べた。この雷の『ピカッ』と光る落雷時の光を誰もが見て知っている。自然科学はこのような自然現象に遭遇した時、おそらく誰もがその現象の意味を深く理解する事は出来ないだろう。最初に、何処かでその解説や専門家の記事を読んで、その意味を知る事に成ろう。しかしその時点で、それ程考える科学的批判力や現象を考えるだけの基礎理解力を持ってはいないだろう。やはり知識として身に付けるのは学校教育の場ではなかろうか。学校教育での教科書の記事内容によって皆がその通りに共通解釈を強要される。テストでその通りに答えなければ、成績評価が悪くなる。

もう一つ『雷』に特有な現象が有る。それは光の稲妻の跡、『ゴロ、ゴロ・・』と言う怖ろしく大きな轟音が響くことである。

『稲妻』と『轟音』の二つが、『雷』の特徴であろう。

図の稲妻の光の筋を見て、何がその光の放射『エネルギー』に成ったかを学術理論は論理的にその発生原因の解釈を示しているだろうか。その一筋の光が四方に光速度で円筒の筒状に拡散しているという意味を認識しているだろうか。その光が観測者の目に到達したから稲妻が見えた訳です。観測者の目の角膜内に入射した僅かな分の『エネルギー』を認識して、稲妻の姿を知った訳です。目に入射した光の『エネルギー』分が如何に僅かな量でしかないかは理解できよう。その僅かな『エネルギー』波の分の全空間の積分量が稲妻の全放射『エネルギー』分になる。

次に『ゴロ、ゴロ』と響く、恐れ慄かせる轟音が稲光の後から押し寄せる。稲妻の光よりその轟音に恐れおののく。その『ゴロ、ゴロ』の音の意味は何だと考えますか。

花火が上がると、『ドーン』と一つの音がする。火花の爆発には、その爆発の時間経過は結構長い筈だ。だから周辺からの反射音があっても一つの『ドーン』と言う音に成って聞こえる。花火の爆発と雷の放射現象の時間的長さが全く違う。雷の火花放電は⦅ビシッ!⦆と時間的に極めて短い瞬間に終了してしまう。光は強く見えるが、時間は極めて瞬時だ。光が量子性と言う意味は、光も『物』と同じように縦波のような壁に衝突現象を及ぼす。その稲妻光の周辺への衝撃が極めて短い瞬時波だから、同心円状に周辺への衝撃が繰返しの反射音として響き渡るのだ。だから衝撃反射音として音の連続の『ゴロ』の繫がりとして聞こえると解釈する。科学論としての検証が可能ならば良いのだが、如何であろうか、無理のように思う。

 

 

光子 それは変幻自在のエネルギー

(2022/05/02)。「空はなぜ青い」で紫外線の解釈をした。太陽光線の紫外線が大気に吸収され、波長変換をして波長の長い青色で放射されると解釈した。その意味をもう少し説明して置きたい。その解釈には、光は『光子』と言う振動数が固定した粒子などではなく、単なる空間を伝播する『エネルギー』の流れでしかない。との解釈である。

それは、「ガラス」を紫外線は透過しない現象にも、光の本質が現れていると観る。

陽が強まる。然しガラスを『紫外線』は透過しない。その物理的現象をどう解釈すべきだろうか。

紫外線は何処に行ったのか?

決して消えて無くなる訳はない。消えてしまったら『エネルギー保存則』の原理まで可笑しなことになる。

『エネルギーの保存則』だけはどんな現象においても、その原則で整合性が取れているかと確認することを忘れないようにしたい。

『光子』と言う科学用語の概念は空間を伝播する『エネルギー』の縦波がその姿だと言う認識でなければならない。

空間の『エネルギー』の波は伝播媒体によって幾らでも、その波長あるいは振動数が変化すると解釈せざるを得ない。

硝子を通過する間に、紫外線は青い可視光線側に変化するか。消えたように思うだけなんだろう。光の熱化現象も起きる筈だ。

空はなぜ青い

晴れ渡る青空。

春の紅要(ベニカナメ)。真赤な新芽のような葉が青空に映える。同じ陽の光が葉の表面に入り込み、葉の表面構造で周波数変換して真赤な色で放射される。しかし、光が赤い訳ではない。光はただ『エネルギー』の分布密度波形の違いが有るだけなんだ。人の視神経での認識感覚で色の差があると考えるだけなんだ。同じ光を他の動物がどう認識するかは分からない。

検索すると、空が青い訳が解説されている。殆どの解説に依れば、『青色』は空気で散乱するから、空が青く見えると。

しかし、それは正しい解釈とは言えない。光の伝播媒体によって、その光の空間像は変化する。

『青色』が何故空気で散乱するかの理由が示されていない。しかも散乱したから、何故青く見えるようになるかの理由も説明されていない。このような如何にも科学論的な解説が検索内容には多い。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』の空間像の違いも示さずに、互いに引合う力が働くと、その訳も説明せずに法則化する。そこには科学の科学論たる論理性が見えない。自然界に存在もしない『電荷』だから、辻褄の合う論理性などそこには無いのだが。

空が青く見える訳。それは太陽光線の紫外線が空気中で波長が伸びて青色に変換するからだ。

光の物理的特性を間違って理解しているからだ。

『光子』とは何か?

何か『光の粒』のような、誤解し易い空間像(中には、直交した電界と磁界で認識しているから、恐ろしい科学論になる)の解釈をしているからではないか。『電界とは何か』は『電圧』の物理的意味が分からなければ、その概念が分かる訳は無いと思うが。

光の振動数。何が振動するかも曖昧だ。固定した『振動数』を『光子』が保持しているかのような解釈である。

『光子』とは変幻自在の空間のエネルギー像だ。

 

放射光の発生原因の不可解?

部屋の照明は白熱電球で、最近はLED照明灯具で得られる。

雷の稲妻光は天空の自然現象だ。本当は海水から蒸発した水蒸気の空間への放射熱エネルギーなのだ。『電荷』が何故光になるか、その説明が全くないのだ。科学者の解説が筆者には全くの『嘘』にしか思えないのだ。皆さんが何故『電荷』を信じるか理解できない。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』がどの様な反応によって『光』に変換されるかの解釈が全く示されていないにも拘らず、専門家の学説をいとも簡単に信じる事の不思議な社会現象が理解できない。殆ど考えない科学者集団の専門的複雑な権威に完敗の社会現象だ。

( +Q[C] ) *( -Q[C])    =    光『エネルギー』

上の式の『等号 :=』の数学的定義解釈の不可解。

何故、電荷が結合すると、どの様な物理的原理で『光』になると言うのですか。

『電荷』論者はどの様な解釈論を展開なさるか。『電荷』否定の私には理解できないのだ。

発光例。

白熱電球 (2013/02/28) の画像だ。エジソンの発明によって、蠟燭や燈油ランプから白熱電球の明るい照明技術の恩恵を受けてきた。こんな電燈の光放射現象についてもどれだけ論理的な物理学理論に因る解釈が示されているだろうか。電球フィラメントが2000度か3000度の高温度になると、光が放射される。『エネルギー』は熱であろうと光であろうと、どちらも同じ物理量のジュール[J]と言う実在空間量なのである。光の『エネルギー』をどの様な空間の量と認識するかが問われている筈だ。光も壁に入射すればそのある分が『熱エネルギー』に変換され光から熱に変わる『エネルギー変換現象』の経過を辿るのだ。『電子』論者は電源からどのように『エネルギー』を負荷に伝送するかを示さなければ成らない筈だ。『電子』には全くその機能を発揮するだけの論理性を担うことが出来ないのだ。

 雷の正体 (2012/11/13)で示した絵だ。送電線の鉄塔電線保持碍子に、碍子保護用具としてアークホーンが取り付けられている。雷の衝撃電圧が電線路に侵入した時、碍子の表面から火花を離す機能を発揮する。その火花をアーク放電と言う。当然発光と熱現象を伴う。

雷から光量子像へ (2021/08/27)の絵図である。雷の正体が何かを知ることは大事な自然現象の認識に欠かせない。この絵図は、その雷が空間に光の『エネルギー』の衝撃波を放射させる現象であり、その発生の瞬間の空間像の認識に役立つかとの思いで表現したものである。自然の世界は、その本質が極めて単純、純粋であるからこそ人が複雑に解釈したくなるほど理解が困難なものと思う。結局『電荷』なる虚構概念を仮想して、自然現象の『雷』を理解しようとした訳である。科学理論は人が自然現象を解釈する手段として創り上げたものである。だから物理学理論も、その原理を詳細に吟味すれば、その解釈論理には、とても曖昧で「こう解釈したら良いのではないか」程度の思惑論が多いのだ。『雷』はその観測に必ず放射光の稲妻が観測される。その光とは何かと本当に理解して『電荷』との論理性を捉えたかと言う問題なのである。

元々、雷撃の衝撃波形を、送電線路での保護対策の電気技術として研究される過程で、その電圧波形が基準波形として決められていた。その衝撃波形は『電圧波形』でオッシロスコープなどで観測され、その2乗に依り空間の『エネルギー波形』の伝播現象と当然の事として見做していた。

光の作用性の強さが『周波数』に依存すると言う科学的知見(プランク定数)で理解されていた。光の粒子性と波動性と言う二つの見方の統一が必要との思いから、雷撃波の空間『エネルギー』分布波との結び付き以外光の空間像は捉えきれないとの認識から、光量子空間像を提起した。その最初が、 28aYW9 プランク定数の次元と実在概念 第56年次大会 日本物理学会講演概要集 p.310. (2001)  である。『雷』が空間の熱エネルギーの飽和現象の爆発であるとの見方で、指数関数形に表現したのである。

結局、海の温度と上空の寒気団との関係から、地表の水蒸気が保有する『熱エネルギー』の水分子の膨張・収縮現象との兼ね合いで空間に『エネルギー』が滞留するのである。その『エネルギー』が保有限界を超えた時、突然の『エネルギー』放射爆発となるのだ。それが『雷』の本質である。決して『電荷』等の創作概念は無関係である。

光は、焚火の光も白熱電球の光も、稲妻の光も全て同じ自然の本質の姿、『エネルギー』の姿なのである。空間を光速度で伝播する『エネルギー』の縦波である。光は『エネルギー』である。熱も『エネルギー』である。電気回路を流れるのも『エネルギー』である。質量も『エネルギー』である。自然の本質は『エネルギー』なのである。