カテゴリー別アーカイブ: 社会科学

❓不可解❓

(2023/05/29).

不可解の文字を書いてみた。特徴のある、魅力的な字形だ。不可解と言う言葉の意味も、自分と重ねて考え込んでしまう。何故こんな大事な事にも気付かないで、人生を棒に振るようなことになってしまったのかと。
 
 気付けば、長い人生の間選挙の投票の権利が無かった。 新潟県中魚沼郡貝野村で生れた。成人になったのは予備校で悪い頭を鍛えさせて頂いた時、1959年(東京都練馬区江古田に下宿時)だ。翌1960(昭和35)年に新潟大学に入学(?)させて頂いた時から年1987(昭和62)年まで新潟県新潟市と長岡市に住まわせてもらった。その間、選挙の投票入場券を頂いていなかった。

 もう間もなく人生も終りの近い時だ。「私は偽者か」の記事を前に書いた。Find more information here (2019/10/18) 。

 考えれば考える程、人生の意味を書けないのか?職歴も書けない身分だったと確信できる。住民登録されていないから、憲法の人権の意味を保障される『選挙投票権が無かった』と言う事実は❓

 歌でも笑われる『あの鐘を鳴らすのは誰だ』と町内会の小型消防車が朝、鐘を鳴らし乍ら前を通る。

 最近で、今月の27日土曜日の朝、10時30分頃にまた轟音を浴びせる様なヘリコプター。何処かで暗黙の合図の意味だ。今日はまた、朝の花火の打ち上げ音が始まった。

 それにしても現代物理学理論の矛盾が置き去りにされ続ける現状は、そして自然界に存在もしない『電子』の矛盾が子供達に教育され続ける現状を放置して良いものか❓

 偽者扱いのままに過行く、その続きの、人権侵害状態だ。研究室もなく、文部省の共済組合にも加入資格が無かった筈だ。住民登録が無いままだから。

 健康保険証は身分証明書か (2017/02/15)。

 戦後75年間の不可解? (2020/06/23)。

 憲法と身分(新潟大学生の身分と選挙権) (2023/04/19)。

 憲法第十条:日本国民たる要件と労働基準法 (2023/04/24)。

 憲法と自分の社会的役割❓ (2023/05/03)。
 
 教育の政治的中立性と中曽根臨教審 (2023/05/19)。

学問の自由と教育と公共の福祉

(2023/05/16),

学問の自由という意味はとても深い内容を含んでいる。教育との関係では、更に複雑になる様だ。

どうか皆様にもお考え頂きたい。自然科学理論を市民の理解できる易しいものに取り戻したくて。

公的機関で、教育をする場合、その指導内容は厳しく制限されているようだ。日本では「学習指導要領」と言う基準で、教育する内容が決められている。その指導内容を決めるのは、やはり専門家の解釈理論が基になって決まるのだろう。そこには自然科学論として正しいかどうかでなく、社会的科学常識として多くが認める内容に集約されたものになるように思える。専門家と言う社会的専門集団の解釈が支配する。

科学理論と専門家の統合的理論体系の構築への貢献性。学識経験者・有識者が社会的仕組みや科学論理を決めることになる。そこには自然科学の真理が保障されている訳ではない。専門家集団の論理が支配するのだ。今、科学理論で、物理学者が解釈するとき、決して『電荷』を否定するような自然世界の真理を唱える事は起きないだろう。

自然世界の真理は。社会の混乱を引き起こす可能性がある。『静電界には、磁界は存在しない』が現在の自然科学の世界的常識である。公共の福祉とはどの様な意味だろうか。公共とはどの様な意味だろうか。

そもそも、教育とは誰のために在るものだろうか。それは飽くまでも、教育を受ける子供達の為のものの筈だ。さて、教師が子供達を前にして、教える時、教科書の内容が間違っていると確信できた時にどのように教えれば良いか。教科書通りに間違いでも教えなければならないのか。それはどの様な過程を経て決まるべきか。少なくとも、電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈は間違っているのだ。その間違いはどの様に、誰が社会の一般市民に伝えるのか。教育では、子供達にどのようにこの間違いを修正して、正しい意味を教えることになるのだろうか。

公共の福祉と学問の自由の問題だ。

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 (第十条 ~ 第四十条)。

第二十三条 学問の自由は、これを保障する。

が簡潔に掲げられている。
しかし、この学問の自由と言う事は、いろいろの面でなかなか難しい問題を含んでいる。科学理論は長い過程を経て、科学者の研究の積み重ねによって、その総合的解釈の合意の基に共通した、間違いないとの認識の下で唱えられてきた。それが現在の物理学理論であり、科学理論全体の総合的解釈論と成っている。

誰も自然世界に、『電荷』が存在しない等とは唱えてこなかった。原子構造もプラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』がその理論的構成原理となって、一般常識に成っている。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が引合うと言う暗黙の解釈と成っている。そこには理屈が無い。結合の現象を『電荷』によると解釈しているだけである。何故【+】と【-】の間に引力が働くかの理屈は示せない。『電荷』の空間像が示せないからだ。

この問題は、科学理論の意義として、極めて重大な社会問題の筈だ。『電荷』否定を教育の世界に取り込むには、トンデモナイ社会革命の様な問題となる。そこには、公共の福祉などと言う憲法の意味との関係で、社会的混乱をどう収めるかの時代の課題となる筈だ。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』のコンデンサの電荷解釈否定が、現今の教育上の課題となっていると考える。物理学の専門家は如何にその事に解決法をお示し頂けるか。無学の筆者が考える疑問です。小学校に何処に入学したかが、自分が知り得ない不可解なるままであるが・・。

新世界への扉 コンデンサの磁界https://wp.me/p19wiU-4w

憲法第十条:日本国民たる要件と労働基準法

1986(昭和61)年4月下旬の健康診断。

長岡工業高等専門学校 電気工学科に所属?時の健康診断を受けた。

今日、また愚かなる己に気付いた。今まで、定期健康診断と言う事に関わった記憶が無かった事に。

労働基準法 (昭和22年 法律第49号)から昭和47年に派生した 労働安全衛生法(昭和四十七年 法律第五十七号) がある事を。

 筆者は今思い返せば、冒頭の健康診断を受けたこと以外記憶にない。

 新潟県立新津工業高等学校に勤務(?)していた16年間に、健康診断と言う医師による診断を一度も受けた事が無い。勿論長岡技術科学大学においても同じく、高専との勤務を挟んで、一度も健康診断の対象者としての扱いを受けた事が、経験が無い。

 厚生労働省の労働基準法にも関わる話であることになる。更に、昭和20年4月、舞鶴鎮守府所管に戸籍転籍されたまま、舞鶴国民学校の入学者名簿に無いことから、何処で義務教育を受けたかも定かでない身分からか(?)。日本国憲法第十条 国民の要件に関わる事件か。

 「国民の要件」という意味は法律で定めるとある。誠に不思議な事であるが、法例(明治31年6月21日 法律第10号)の改正が、何か関わるようだ。1.昭和39年【池田勇人 法223号】。2.昭和61年【中曽根康弘 法82号】 および、3.平成1年【竹下登 法27号】の3回の改正の訳はどの様な意味か。

 冒頭の健康診断について。

 とても不思議な事があった。4月は、電気学会の論文誌に筆者の「論文 61ーB39」が掲載された。職員の所属との関係で、今まで無かった職員の定期健康診断の対象に成ったか?その健康診断の結果、庶務課長から精密検査(胃の内視鏡検査)を受けるようにと、日時が指定されて、要請の文書がレターボックスに入っていた。5月のその時は論文執筆で忙しく、指定日時を先に延ばして、内視鏡検査を受けた。しかし、その後更に再び庶務課長から再検査の要請が来た。しかし、最初から胃の異常も感じていなかったので、危険を感じて、2度目の要請は完全に無視した。

 その後は、9月1日の持参の飲み物の味の異常の感じから、吐き出しの事件があった。その日から半年間、極秘に毎日の飲み物には、工具箱を用意し、鍵掛の対策を採って、黙って過ごした。ただ如何に逃げ切るかを考えた。

年度末に向けて、事件となったようだ。『暴れ太鼓』の歌にも成ったか?

長岡技術科学大学も新潟県教育委員会も労働基準法との関係を説明してもらわなければ、とても『特許』等関わることはできない。『電流』は流れず、『電子』の物理学的矛盾論。所属歴が何も無かった事になる。文部省の中曽根臨教審の意味は?

憲法と身分(新潟大学生の身分と選挙権)

1960年4月より1年間、新潟県新潟市西大畑町 新潟大学の六花寮に住居。

 新潟大学工学部電気工学科。幸い大学入学試験に合格した。年齢は半年以上前に二十を過ぎて、既に成人である

4月に何故か自動的に決められた住居、大学の寮『六花寮』に入寮した。

しかし、大学の入学式への参列も無かった。通知も無かったからだ。父も確かにその日には新潟大学近辺に来ていたが、何処に居たかは分からない。恐らく大学の事務局関係で話をしていたかと思う。

私は、入学式典への参加もなく、大学入学関連行事の「小泉信三氏の講演会」を聴講した。

  第一の不可解。新潟大学入学式典への参加要請が無かった。大学入学手続きが何も無かった。大学入学金の請求も無かった。六花寮の入寮、寮費の支払いも1年間一切無かった。大学関係への学費など一切の払い込みは、大学卒業まで何も無かった。同じく1939年3月の大学卒業式典への連絡もなく、参加しないで過ぎた。

 第二の不可解。日銀新潟支店でのアルバイト料の受取。夏の大学理学部の先生の山の下地区でのお手伝いをした。そのアルバイト料金の受取。西大畑町の日銀西大畑支店からの支払い連絡により、日銀で直接受け取る。

 第三の不可解。新潟市での住民登録が無かった?1960(昭和35)年11月24日、第29回衆議院総選挙(第一次池田内閣、安保解散、10月20日に因る)。初めての選挙と言う仕組み、行事を知り、小学校での講演会に参加して聴講した。 しかし、選挙投票権が無かった(投票券が来なかった)。全く憲法や市民権あるいは選挙権などの社会的意味を無知で知らなかったから、特別何も意識して居なく、急に数日前に、その不可解に思いついた。

 1939年12月1日。舞鶴鎮守府の所管へ戸籍転籍。新潟県中魚沼郡貝野村役場。南雲村長。法的な違法行政に根本原因か。小野田少尉の事件に似た?

 学歴の不可解。

 1945(昭和40)年4月、舞鶴国民学校に通った。8月終戦となる。しかし、その舞鶴市立新舞鶴小学校 (舞鶴市溝尻1200‐4)の入学者名簿には筆者の名前が無かった事を、2021年6月に知った。終戦まで溝尻海軍住宅に住んで居た。戸籍が舞鶴鎮守府、香取丸に移動では市民権が無かったのか。入学者名簿には軍籍の為入らなかったか?

 1954年春の貝野村村会議員選挙の関係で、とうとう1955年9月30日の貝野村分裂による廃村となる。翌年3月新潟県立十日町高等学校卒業時点で、筆者の住所は水沢村に在ったか。半年間での行政事務移管は❓

 職歴の不可解。

 1955年度は1年間故郷の家で、浪人生活。翌年1956年の冬、練炭炬燵で亜硫酸ガスによる頭痛に襲われ、大学受験を諦め病院入院となる。

歩んだ道は・・

翻弄されて、今か?何処で社会的貢献をした❓

新電気回路論

健康保険証は身分証明書か (2017/02/15)  の学校(新潟県立新津工業高等学校 電気科教諭職 16年間)の勤務は『国家公務員共済組合員』の職か?

https://hokakebune.blog/研究の歩み/     ?

下記の意味❓

今日(2022/10/20)もスパムとしてコメント。

https://hokakebune.blog/2019/10/28/Find-more-information-here/

 

リアクトル負荷の電気回路現象

送配電線路は電気エネルギーを必要とする需要家に、その『エネルギー』を供給する電気設備だ。需要家は高炉、製造工場、高速鉄道(リニア新幹線が未来の悔恨とならないか気掛かりだ。技術開発に懸命なご努力をなさる方々には済まないのですが。需要電力が原子力発電一機分に近いため、温暖化と生活環境破壊の原因となる虞がある。トンネル風圧がリニアの利点を消し去るから。新技術開発の社会的合意の問題が取り残されていないだろうか。)あるいは高層ビルの照明・電熱など多岐にわたる負荷が対象になる。

負荷の形態はその『エネルギー』の受給によって、電線路の回路現象にその影響が現れる。半導体回路などが増え、そのスイッチング特性によっても様々な悪影響が現れる。

電動機などもその『エネルギー』の消費にリアクトルの特性、『エネルギー』の貯蔵・放出が関わり、電気回路特性に僅かな影響を及ぼしている。それは実際にはベクトル解析手法の中での電気理論として分かってはいる。

電気回路現象の特性を理解するには、『電圧』『電流』による解釈ではその物理現象としての真相を理解することはできない。それらの概念は電線路をほぼ光速度で伝送する『エネルギー』を電気技術評価量として評価した概念であるから。電気現象の物理現象としての理解はその『エネルギー』がどの様に電気回路内で振舞うかを捉えなければ不可能である。負荷にリアクトルの誘導性が含まれる場合が、その電気回路内の物理現象を理解するにとても良い例題となる。それはリアクトルの『エネルギー』貯蔵が電源電圧の位相との関係で、回路内への『エネルギー』供給源としての働きが丁度電源と似た機能を発揮するからである。その意味を理解すれば、『電子』が回路を流れる等と言う間違った物理学理論は消し去られる筈だ。『電子』が負荷にどのように『エネルギー』を供給するかの論理的解釈が示されれば、考え様も有るかも知れないが、それは無理である。要するに物理学理論の欠陥は『エネルギー』の空間像で認識できていない点である。

誘導性負荷時の電圧。初めに電源と電線路電圧の物理的現象を述べておこう。

負荷が誘導性の場合は、その負荷には幾分かの電線路側に戻す『エネルギー』の原因となる e(ωt) [J]を保有している。電源はその端子電圧 vs(ωt)[V]のみしか制御できない。電線路内全体の電圧など全く監視・制御できない。ただその『エネルギー』供給端の電圧を制御するだけで、自動的にその端子の回路定数 C[F/m] が電線路に必要な『エネルギー』の分布量を電源側に放出させるのである。電線路全体で、電源の制御電圧値に対して欠損あるいは余剰が生じれば、自動的にその差分を補うべく、電源から『エネルギー』が供給されて、電線路全体が規定の電圧に保持されるように修正されるのである。更に負荷が誘導性の場合は、負荷も電源と同じような『エネルギー』の電線路内への放出機能を持つ。

『エネルギー』の光速度伝播現象。電線路はその構造によって回路定数が決まる。しかし、『エネルギー』伝播空間媒体が空気であれば、その伝送速度は光速度 co=(μoεo)^-1/2^[m/s]になる。絶縁媒体なら速度は落ちる。『エネルギー』は電線路導体内など流れないから。この『エネルギー』の伝送速度が電源電圧制御指令に従いながら、電線路内の電圧分布を基本的に支配する。

線路内電圧vx(ωt)が電源からの距離xとすれば、同一時刻tであっても、その位置の『エネルギー』分布は電圧波形の遅れとして、厳密には電源より⊿t = x/co [s] だけ位相が遅れる。しかし、光速度はその遅れを考慮する必要が無い程の瞬時伝播の速さである。それでも『エネルギー』の伝播が現象の基本になっている。さらに、そこにリアクトル負荷の『エネルギー』の回生現象が加われば、複雑な位相の状況を呈する。以上の現象を基本的に認識しながら、電気回路現象を電気理論の電圧、電流で解釈する場合も、常に『エネルギー』の意味を意識する事が大事だ。

vx(ωt) = √(δx/C) [V]

のように表される、電線路の『エネルギー』分布密度が電圧値の電気技術概念なのだ。

純リアクトル負荷の回路現象。

厳密には、電圧値は負荷まで同じ電圧値ではない。電源より必ず位相が遅れる。その訳は光速度による『エネルギー』分布の伝播遅れが必然的に起こるから。

(2021/12/19)。ここまで来て、何故電力が『エネルギー』の流れ δi[J/m]でなく電圧分δv[J/m]との積に因るかに疑念が沸いた。それが  電力 その禅問答 (2021/12/14)になった。

その疑念の前に、考察の回路があった。

右図はリアクトルのエネルギー e(ωt)[J]が端子電圧の時間積分で決まることを示す。本来、電線路空間を通して、伝送される『エネルギー』は電圧の規模・大きさの2乗の意味で、その物理量が認識される筈だ。それを自然の本源と技術概念で指摘した。その事を理解すると右図に示す電力 p(ωt)=de(ωt)/dt で解釈すれば、電圧値 vr(ωt)の2乗δv(ωt)/C [V]によるとの解釈が可能かもしれない。そこに電線路電圧規模が『エネルギー』伝送機能の意味に因るとの合理的な解決の糸口が有るかも知れない。

自然の真相と科学技術の間にかける橋の美しくあって欲しい。電線路伝送の『エネルギー』の捉え方の未だ結論に到達して居ないが、ここでひとまず休憩とする。

自然の本源と技術概念

こんなに科学理論に疑念を持って一体どこに行くつもりなんだ。

自分にそう問いたい。

今朝、突然の『はてな?』がやって来た。次の図に表現した。いま、リアクトルの電気現象を纏めながらに『はてな?』が。

纏めてみて、とても気に入った。

自然は余りにも純粋過ぎる。人間が自然を理解するにはその純粋さに心が対応できないんだ。だから複雑な概念を創造して、それが自然世界の物理概念だと勘違いするのだ。

『電圧』と『電流』が自然科学理論、物理学理論の自然現象を取り入れた電気回路の現象を理解する基礎概念だ。自然を応用して、利用するには誠に優れた解釈概念である。しかし、それはあくまでも人間が科学技術利用世界の構築に便利な共通理解の基盤概念でしかない。自然現象の本質を理解しようと、長い歴史的格闘によって獲得してきた文化理論でもある事には間違いない。『電圧』、『電流』は『オームの法則』として電気技術理論の根幹概念であり、それなくして現代科学技術文明も成り立たないのだ。ただそこから、余りにも科学理論が抽象的な頭脳ゲーム論の構築に溺れた結果が現代的物理学理論の矛盾を生み出した原因と見做せよう。自然界に存在しない『電荷』や『電子』が自然科学を理解するに欠かせない実在概念・物理量であるが如くに教育され、その結果不可解な世界を作り上げたのだ。

自然世界は、この広い『空間』とそこに繰り広げられる、『エネルギー』の綾なす舞台なんだ。上の図は、その『空間』と『エネルギー』の間に最低の科学的解釈を取り入れようとした結果、『エネルギー』が収まる空間の容量 C[F/m] と、『エネルギー』の流れる誘導L[H/m]の空間概念だけは取り入れた。『エネルギー』の伝播方向に対して、単位長さ当たりの解釈法で統一した。LCの共振現象で『エネルギー』は空間を伝播する。それが『エネルギー』の象徴たる『光』の縦波伝送現象の姿だ。

複雑を嫌う『禪』的な自然に溶け込む思いが先の図になったのかも知れない。

数学の『√ 記号』が魔法の衣に思えた。『エネルギー』は実在の物理量だ。しかし、それを平方(√)に開いたら、どう考えても自然世界に存在する物理量と思うには余りにも違和感で、その概念を心が受け付けない。『電圧』、『電流』が科学技術概念と捉えて利用する限りにおいては何の違和感もない。有り難い優れた概念である。しかし『電荷』で『電圧』を解釈する物理学理論はハッキリ言って自然界に存在しない、誤った間違い論である。教育で教えるべき概念ではない。

この事を科学者それぞれが考えて、意見を表明しない限り、未来の子供達への道標を示せない筈だ。『教育』の荒廃が続き、『学問の自由』が業界圧力によって踏み躙られてしまう。それは、みんなの生活の自由の根源ともなる事柄である。

分かった!より はてな?

人も生まれた時は何も知らない。

生きるために、空気に触れて産声と呼吸。口から母乳で消化器官が機能し始める。

命のプログラムが自動的にスイッチオンする。何も考えずとも、生きてそして死を迎えるまで、不思議な生命制御の仕組みが始まる。どの様な仕組み、遺伝情報、生活環境など複雑な人生行路で、個性が際立つ一人の人になるのだろうか。行く先の見えない歩みが始まる。

 

振り返れば、“はてな”と思う事ばかりが増える。

何も知らずに過ごしてきた。

“はてな”に会って、科学理論のすべてに疑問が膨らんで、とうとう『電荷』の否定への確信となった。決して科学論の世界では受け入れられない暴論として、排斥されるだろう。原子構造論まで否定する事に成るから。それでも自然世界に『電荷』は存在しない、人間が仮想した間違った物理概念だった。科学理論とは何か、その社会的意義を人に問う命題となった。

辞典で調べた。

分かる・解る・判る。それは、①区別が明らかになる。②理非が明らかになる。事実がはっきりする。知れる。「とかく理非がわからぬ(狂言・羯鼓炮碌(カッコホウロク))」

はてな。怪しむ時、考える時などに発する声。“はて”の意を強めた言い方。「はて、こちらへは帰りませぬが(狂言・貰婿)」

等とあった。

科学理論は、自然世界の真相を明らかにする事より、人の生活に便利で、有意義な結果をもたらす解釈論を、理論としての価値が有意義と見做す基準から計られる。そんな思いに自分を“はてな”が連れてきた。

『電荷』への科学的信任の如何は、今やすべての皆さんに関わる教育的問答のように思う。

『我』とは何か❓

突然のTwitterの変乱に驚いて。

私は私でないのか?

驚いて、振り返った。

『エネルギー』が自然界を支配している物理量だ。質量や分子は顕微鏡などによってその実像を観測できるようだ。しかし『エネルギー』は目の前の自然界の空間に実在しても、その像が見えない為に物理学の概念量として認識されない。光が在る事は分かっても、その光の『エネルギー』の実像を認識できないが故の驚くべき、認識矛盾の現代物理学理論だ。止む無く自然界に存在もしない『電荷』や『電子』が仮想的な理論的論拠概念として代用される事になった原因だ。

生命現象を司る生体の情報統合はその『エネルギー』による以外困難である。分子の流れる伝達速度は遅く、神経情報の伝達には間に合わない筈だ。心・精神と言う人が生きる根幹を支配する、その『エネルギー』への思いを記事にしてきたように思う。生理現象や医学には全くの無知ではあるが、自身の『我』という存在を心の働きの視点から内省しながら、思いを綴ってきた。電気回路の電磁伝播現象も身体の分子生物・医学的分野以外の生理現象も、情報伝達現象としては『エネルギー』から統一的なものと見做せるだろう。

はじめは2010年の

1.基礎科学とは何だろう から始まり、

2014年に自身の生物学への無知を改めて意識し、少し基礎を考えた。その年は特別に多くの関連記事を投稿していた。

2.脳と生体制御の謎 (2014/03/21)

3.生命の本質 (C.H.ウォディントン著)を読んで (2014/04/06)

4.細胞分裂の意味を問う (1014/04/18)

5.染色体と遺伝の仕組み (2014/05/08)

6.生命の始まりと脳 (2014/05/11)

7.脳の機能と個性 (2014/09/05)

8.アミノ酸(amino acid)を追って (2014/11/06)

9.ニューロン(Neuron)を尋ねて (2014/11/13)

10.細胞とその機能 (2014/11/18)

11.人の色覚と三原色 (2014/12/11)

12.意識とは何か (2015)。

13.生体電流と生体制御 (2017)。

14.生命活動とエネルギー (2018)

15.ヘモグロビンは何処へ行く (2021)

どういう訳か、考える基点とその方向が科学的常識と違うようだ。生きるための、憲法で保障された、文化的でと言う条件も最初(1939年12月1日:舞鶴鎮守府への戸籍転籍【内務省?】をされ、戻った記録の痕跡が無い)から無かったのかと煩悶しながら、科学基礎概念の『電荷否定』と『エネルギー一筋』の道を追い求めて、今は確信に至った。その反科学常識の自分の生理的思考の軌跡をまとめておきたかった。

禪に導かれて

 1985年7月1日付辞令

(松永 光 文部大臣):長岡工業高等専門学校助教授は直ちにその日に履歴書で『以下余白』と消えた。高橋校長名で!本人が知らずに何十年も過ぎて気付く人事問題は、法治行政(憲法上)としてどの様な論拠が在るのか、その訳が不可解❓1979年7月の文部省主催の『工業教員指導者講習会』への、公立学校共済組合非加入者のアルバイト教員の参加の有意性の意味と合わせて考えれば、ますます不可解だ❓1980年3月31日と1980年4月1日の職歴はどう理解すれば良いか?

 禪と科学 (2011/06/20) の冒頭に載せた達磨図だ。『空』は世界のすべてがそこから始まる。そんな思いを表現した。

家の宗派が『曹洞宗』の関係もあってか、禪を身近に感じていた。然し、その説く思想は理解しかねる不可思議な魅力を秘めていた。その事は禅と日本文化 を読みながら考えた (2013/09/08)-Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture. (1938) の訳本-にも述べた。

今日再びその本を開いて、偉大な 鈴木 大拙禅師の思想に触れたくなった。第一章 禅の予備知識 だけでも理解困難である。2013年頃より、今は少し、電気回路現象で自然の深い姿に触れられたかと思う心境にある。その道標は、長く禪の御蔭に負っているように感じる。基本的に、禪は生きる上での、異変、緊急事態にその真価が現れるように思う。異変に気付いた最初が、昭和61年春4月、ずっと後から気付けば、そこに歌があった。『愛燦燦』、『暴れ太鼓』、「みだれ髪」そして「川の流れの様に」と。まさか舞鶴鎮守府が待っていたとは知らなかった。

ここには七つの文章にまとめられている。

『精神』と言う言葉がある。その意味はこの禅的思想の中でどのような具体的な事を指すのか。

と自問してから考えた。『精神』の対極語は何か。何時も使う言葉でありながら、その意味を即座に述べられない事に戸惑った。対極語は「物」として見えるものになるかと思う。そこで初めて『精神』が目には見えない事に気付いた。言い換えれば「心」とも言うかもしれない。「心」も見えないから。『精神』とは何かは、これぞ禅の問答かも知れない。人は見えるものに意識が向く。科学理論も、物理学理論もその科学的検証が求められる。それは見えるもので無いと検証できない事であるとも気付かされる。だから科学と禪は両極に対する事に成りそうだ。

科学は⦅見えるもの⦆が対象で、禅は⦅見えないもの⦆が対象となる。と言い切っても良さそうだ。

⦅見えないもの⦆の代表が『精神』だ。その『精神』が司る対象、その結果に起こる事象、それも目に見えない『エネルギー』だ。意識、心も『エネルギー』の及ぼし合う現象世界と言えるようだ。

ニューロン。情報伝達信号も『エネルギー』が担う。決して物では困難だ。『精神』と言う言葉の意味を今までほとんど考えてこなかった。会話も、人同士の間の、その精神活動なのだ。そこには何も⦅見えるもの⦆など無い。それは人や生物が生きるに、基礎代謝と言う『エネルギー』を消費して体温を賄う生体の物理現象と同じく、基本的には見えない『エネルギー』に因って司られている自然現象の真理なのだ。過去に素人ながら、この生理的意味を考えた事があった。ここで少し振り返ってみよう。

脳の機能と個性 (2014/11/02)に

載せたのが右図だ。当時は無意識であったが、今思えば、『エネルギー』と言う目に見えない自然界を支配している空間に実在する物理量を意識して描いたものと分かった。

その他、脳の生体制御の謎 (2014/03/21) や悟りとは?₋色即是空の世界観‐ (2014/o3/25) (とても僭越な物言いでお恥かしい内容だ)。最初が、『基礎科学』とは何だろう (2010/11/02) であった。これらはみんな、素人の感覚的解釈論と言われても良いものだ。何も科学論と言うべき、所謂科学的データによる裏付けが何も無いから。電気回路と同様、生体情報伝達機能を担うものは電流でもなければ、『電子』でもない。それは『エネルギー』の波形とその光速度伝達現象である。『物質』では高速度反応に応えられず、生体の総合的制御機能を統合できないと考える。生体の『エネルギー』に負う意味を考えるべきだ。物理学は「物」の理学だから、「物」でない『エネルギー』の科学論には成れないのかも知れない。精神・心が物で測れない訳だから。

考えてみれば、電気回路現象の『エネルギー』伝播の解釈も基本的には、殆ど実験データによる裏付けが有った訳でもない。ただ、直覚的な思いを元に世間の常識を無視して、勝手な解釈を展開していると見做されるかも知れない。しかし、どう考えても自然界に『電荷』など有り様がない。そこだけは科学の常識が間違っている。常識で「在る」と言う『電子』などを「無い」と言う論拠を示すことが如何に困難かを知った。『静電界は磁界を伴う』の実験的データを発表してから。科学理論と不立文字の関り論だったかもしれない。