カテゴリー別アーカイブ: 社会科学

負の科学技術と未来

負の科学技術 人の歴史を振り返れば、分からない事ばかりであるようだ。人の歴史と言っても、人が猿から枝分かれしたと学説にはある。そんな学説も信じられない。進化することは確かである。では猿が人より劣っているとどのように説明するのか。何処で進化した人と進化しない猿が枝分かれしたのか。その訳は何だと説明するのか。蝶や雨蛙が何故人より劣っていると言えるのか。猿は猿で人は人でそれぞれ異なった進化を遂げて来た筈だ。強いものが優れているとは限らない。海から地上に上がった時の人の姿はどのような形であったと考えるのか。何億、何十億年の地球の生命の歴史など簡単に分かる訳が無い。地球は人の為にあるのではない。すべての生命の生きる地球なのだ。地球も人の生命に関わりなく地球中心核の燃焼の為に地殻をひっくり返して生物に災害をもたらす。地震や地殻変動は地球の生きた活動だ。飛びぬけて地球の自然に逆らってきたのが人である。特に産業革命と言う時節から、科学技術の魅力に人が夢中になって、その恩恵を享受してきた。自然に手を加える術のパンドラの箱を開けてしまった。元素・原子と言う世界を操る途轍もない方法を手に入れた。それが科学技術だ。今最大の困難に人自身が翻弄されている。自分で辿って来た革新と言う世界の未来を夢見て。人が人を権力で殺害する為の兵器、原子爆弾の製造競争から抜け出せない惨めな人間性に翻弄されている。プラスチック塵の処理に悩みながらも、決してその商売の利益競争の戦いからプラスチックスを手放せないジレンマに未来に向けた人間性が問われている。地球温暖化を食い止める手立ての基本は、エネルギー消費量の抑制以外は無いのだ。しかし経済競争の人の欲望には逆らえない性に翻弄される未来が見える。

DDT(ジクロロジフェニルトリクロロエタン) 敗戦後の日本の至る所で展開された「シラミ退治」の風景を思い出す。体中にDDTを噴霧してシラミを退治する。古く1873年頃に開発された殺虫剤らしい。現在日本では使用されていない。

PCB(ポリ塩化ビフェニル) 変圧器やコンデンサ等の電気設備機器に大量に使われた。冷却効果と絶縁性に優れた化学物質である。大気汚染、温暖化に影響があり、使用が中止されていると思う。

アスベスト(石綿) 天然の石綿がその繊維は建築材料として優れている為、建築の壁材として多く利用された。しかし現在は人の呼吸で吸い込み、中皮腫等の人体への危険材料として使用中止となっている。廃材の処理に困難もある。

有機水銀(水俣病) 化学処理工場からの排水に有機水銀が含まれていた。魚貝類に広がり、魚を食べて人が神経麻痺を来たし多くの被害者が出た。水銀は体温計などにも多く使われた液体と言う特別な特性の金属元素である。蛍光灯にも発光効率を高める水銀蒸気として使われている。現在徐々に水銀は使用が制限されてはいる。

プラスチック 2018年6月G7 シャルルボワ・サミットで「海洋プラスチック憲章」が採択され、英・仏・独・伊・加・EUが署名した。しかし、残念なことに日本と米国は署名を拒否したと新聞にあった。今日の国会開会に際して、首相演説で海洋プラスチックのごみ対策に取り組むと述べた。また今年の6月日本でG20がある。しきりに海洋プラスチックごみ対策を議題にすると総理大臣は述べている。しかし、何故シャルル・サミットでの憲章に署名しなかったのかとても不思議な事だ。科学の『電荷』の不思議と同じ。

核爆弾 これは一体どのような意味で捉えれば良いか最大の人類の謎である。決しれ世界平和にも世界の進歩にも何の貢献もしない。人類の地球汚染と人間性否定そして疑心暗鬼の恐怖の科学技術である。それが大手を振って世界に君臨している。人殺しの最悪兵器だ。それを推進する国家指導者を選ぶ世界が未来の希望を消している。

原子力発電 地球は制御不能な科学技術設備の巨大システムが原子力制御であることを知っている。人の意識の制御可能な領域を超えたところにあることを既に何度も警告して来た筈だ。それでも欲望には勝てない人の思惑に流されて政治権力が蠢く。

悪口雑言お許し願います。

巡光舟の詩

丙子(ヒノエネ)元旦の書き初めまで 戊辰(ツチノエタツ)1988(昭和63年)秋に行方定まらぬ放浪の旅。庚午(カノエウマ)1990(平成2年)年末処置入院で閉鎖病棟に幽閉される。抵抗の意思のための断食に徹し意識朦朧、転倒怪我、対処出来ずでの転院になる?“病窓に 満月迎え 除夜の鐘” 人生も終わりかと初めての句。辛未(カノトヒツジ)1991(平成3年)ただ飯を食うだけでは暇だ。正月中東での戦争の砲撃の映像を見る。光の相対性の解析を始める。ほぼ半月で完成する。ハロマンスを打たれ、思考困難になる。4月中頃病院上空を轟音を浴びせながら、飛行隊が過ぎて行った。後で丁度その日が電気学会除籍になった日のようだったこと知った。タダ1年半も薬も飲まず、飯を食うだけの病院生活から出所。壬申(ミズノエサル)1992(平成4年)7月。家も消え行方見えない道続く。

巡光船の詩 書き直した。光の不思議に思いを込めた詩のようだ。丙子元旦で飾ってある。その年の夏は長野で野宿の旅1週間ほど。東京電力、佐久間周波数変換所を見学させて頂いた。御迷惑を掛けた事申し訳ない。

秋の語らい

意味の怪しさ額にして 庭にあった泰山木の葉の切り絵。巡光船の詩と共に。

日本物理学会入会と発表

この前年丁丑(ヒノトウシ)1997(平成9年)秋、日本物理学会に入会させて頂く。入会にお助けいただいた先生には、それっきりで御無沙汰のまま本当に申し訳のないままで来てしまった。人との繋がりをきってしまったまま何の状況も知らず今になった。戊寅(ツチノエトラ)1998(平成10)年 4月 2日 物理的概念とその次元 日本物理学会講演概要集 第53巻1-1,p.13. を初めて発表させて頂く。JHFM単位系として、エネルギー一つを自然現象の根幹に据えるべきとの思いを伝えたかった。

 

哲学と科学

哲学と科学の違いは?と検索に多くの記事が出ている。それだけ違いが分かりずらい主題でもある。だからみんなはっきりと理解したいと思うのだろう。しかし、解説記事を見ても殆ど満足する人はいないのじゃなかろうか。科学とは何かと簡単には答えられないだろう。更に哲学は人の精神活動に関わる上に歴史の社会状況を踏まえた深い考察が根底に無ければならず、科学以上にとても広い分野を網羅するものであろう。最近頓に思う事がある。それは今まで考える事が自然科学についてだと思っていたが、どうも科学に対する科学界の一般の問題意識と全くかけ離れた処を自分は彷徨っているようだと思う様になった。それは科学論なのかあるいは哲学なのかと分からなくなってしまった。解らなくなったところで、その分からない中味を分析して、哲学と科学について考えてみようと思った。何の社会的評価も特別の専門的評価(博士など)も受けていない者が論じることに賛同は得られないかも知れないが。

哲学は科学も包含 哲学は科学の基盤を整える。博士・博士号はPh.D. でDoctor of Philosophy の略であるように、哲学の無い科学は無いのであろう。最近は極めて狭い専門分野で博士号を取得できる体制に成っているようで、何とも言えない状況だ。自然科学に対して自然哲学と哲学に自然を被せた使い方もある。自然哲学と言う表現でどのような意味を持たせるのかは分からない。哲学と科学を対比させながら、その違いを明らかにするのはとても難しい予感がする。それには少なくとも科学とは何かがハッキリと捉まえられていなければならない筈だ。そこの処で困難な壁に突き当たる。その科学とは何かを考えることが既に哲学に成るように思うから。『電荷』が実在し、しかもそれには『正』と『負』の違いがある事を誰が観測し、証明したのか。正と負の『電荷』をどのような空間像と認識するのか。自然科学の根本原則まで問わなければならなくなる。科学論の根本を解剖する論証は哲学であろう。放電管の放電現象を観測しても、陰極線は観測されるが、陽極線(正極線)が観測されたという報告は無いのじゃないか。それなのになぜ『正電荷』が存在すると成っているのか。誰が『正電荷』の存在を確認し、証明したのか。今でも電気回路の『電流』に関しては『負電荷』の電子のみしか解釈に関わっていない。しかも電子は『電荷』と『質量』の両方で構成された複合素粒子概念で解釈されている。このように科学論の根本原理になる程曖昧性が色濃く成る。

科学と哲学の違い 科学論の根本・原理を科学論の論理性を持って解剖する分析法は哲学になると考える。科学と哲学を論じるには、科学の本質を暴きだす作務がなければならなかろう。そこには科学の本質をよく知り、それを洞察する眼力が欲しい。それは東洋哲学の特徴的な『削ぎ落とし』の思考になるのではなかろうか。『不立文字』への覚悟。捉え難い『エネルギー』の何たるかを問う必要があろう。

消えた本?『発見と創造』

手に取って見ようと思って、本箱を探した。どうも見当たらない?

発見と創造 科学のすすめ

長い間いつも手元に於いて、読んでいた本だ。以前量子力学とは何か?で取上げた事がある。何故消えてしまったのか哀しい。W.I.B.ビヴァリッジ 著/松永俊男・鞠子英雄 共訳。著者の深い科学的造詣と訳者の名訳が奏でる名著と思っている。

(2018/05/10)追記。先日ネットを通して、再び手に入れることが出来た。嬉しかった。

電子レンジと水分子

はじめに 1945年(太平洋戦争の敗戦の年。広島・長崎の原爆被災の忘れ得ぬ年である。)、アメリカのレイセオン社が電子レンジを発明したとある。火や熱を加えないで食品を温められる家庭用器具の傑作である。マグネトロンは100年程前の1920年にゼネラル・エレクトリック社のAlbert Hullにより発明される。東北帝国大学の岡部金治郎も1927年に業績を残す。マグネトロンはマイクロ波(レーダーや通信用電磁波)の発生用空洞共振器であり、電子レンジの心臓部に当たる。周波数2450MHzが電子レンジでは使われている。今日は76年前の12月8日、無謀な太平洋戦争に突入した日である。科学技術もその根底にある真理や本質を見極めることが禍根を残さないために大切である。それにしても我が身を鑑みれば、土俵の無い一人相撲はお笑い草かもしれない。少しも科学的実験データも無しの我儘解釈論の展開で、失礼の段御勘弁願います。

マグネトロンの原理 昔真空管がラジオに使われていた。熱陰極と陽極から成る二極真空管である。ダイオードと同じ整流作用も持つ。その二極真空管の熱陰極から放射される電子(電荷と質量を持つ素粒子と定義されているが?)と言う熱エネルギーがある。その真空管内に磁場を掛ける。フェライトの磁石で陰極と陽極の間の空間に磁界を掛ける。磁石はその周りの空間にエネルギーが回転した状態を作り出す機能を持っている。N極、S極の棒磁石を左向きにエネルギーが回転しているのだ。地球は南極がN極であるから丁度偏西風の向きに地球表面をエネルギーが地球自転速度より相当の高速度(どれ程かは全く分からない―太陽系及び地球自転公転の回転渦巻を支配する原因と解釈する―)で流れているのである。そのエネルギーの流れと方位磁石の周りのエネルギー流とが重なり合ってコンパスの方向を地球の北極側を向くようなエネルギー間の近接作用力が働く。磁気とはそのようなエネルギーの回転流としてエネルギーを貯蔵した機能の表出現象である。さて電子と言う素粒子はどのような空間構造を持った粒子と考えるか。よく電子スピンと言う表現で説明される。電子と言えば、一粒づつの粒子と言う空間認識で捉えるだろう。専門的な解釈では波動だとも言う。電子を波だとも言う。しかしその実体が粒なのか波なのかを観測できない。電子顕微鏡では波になる。物に当たれば力が働いたように粒子性の現象を示す。電子一つを観測できないから粒子と波動と二つの観方で解釈しているだけである。熱陰極はフィラメントで陰極材を高温に加熱しているのである。要するに熱エネルギーで金属材料を加熱しているのである。白熱電球はフィラメントコイル内にエネルギーを貯蔵して高温に加熱した空間を作り、その温度に応じたエネルギーの貯蔵限界を超えた分が光となって放射されるのである。熱陰極も加熱によるエネルギーが陰極材料から放出するのである。その熱エネルギー・光エネルギーが陰極、陽極間の空間内に充満するのである。電子スピンとは放射エネルギーの空間像がどのような大きさの塊に分解されているかは分からないが、ある程度の空間的寸法を持って粒子的作用性を働くのであろう。そのエネルギーの粒子的空間の存在形態はやはりエネルギーの回転流として存在するものであろうと解釈する。そのようなエネルギー粒子を電子と解釈しているとすれば、電子スピンと言う空間的構造も同様に理解できよう。磁界の空間エネルギー流と電子と言うエネルギー回転粒子とがエネルギー間の近接作用力で互いに影響し合うと考えることができよう。電気回路のエネルギーや光エネルギーに対する考えから、納得する感覚的整合性から、基本的なマグネトロンの動作原理を考えた解釈である。電子寸法は原子寸法1Åに比し、とても小さいと解釈している。その電子がマグネトロンの空洞共振器内で磁場の影響を受けるとすると、余りにも寸法差が大き過ぎて磁場のエネルギー回転流との関係を電磁波発生の原理と考えるには、その空間的作用力を理解できない。マイクロ波のエネルギー波長は6cm程度であろうが、電子がどのような磁界に因る加速でその寸法のエネルギー波を作り出す事になるかを理解できない。マイクロ波の波長との関係を下のマイクロ波と食品加熱の項に述べる。熱陰極から直接熱エネルギーが放出され、その空間の空洞共振器寸法によって規定される寸法のエネルギー流の塊になるだけと考えたい。おそらく空洞共振器の空間寸法が発生電磁波の波長を決める主要因になっているだろう。

水分子と熱エネルギー エネルギーには電気エネルギーも光エネルギーも圧力エネルギーも運動エネルギーも熱エネルギーもある。これら様々な呼び方のエネルギーは『溶けて流れりゃ皆同じ』と言う様に、同じエネルギーなのである。エネルギーの空間分布差で風も起きる。体温をも保持する。質量にもなる。熱エネルギーの特別に際立つ現象が水に対してであるように思える。水とマイクロ波の電磁エネルギーの間に繰り広げられる熱現象を利用する製品が電子レンジである。しかし、一般的な解説を見ると水分子の振動によって食品が加熱されると成っている。温度を質量の持つ振動による運動エネルギーと解釈しているからと察しられる。理解できない気体分子運動論と同じ解釈である。

マイクロ波と食品加熱 マイクロ波と言う電磁波の空間的エネルギーをどのように捉えるのだろうか。一波長のエネルギー分布を考えて欲しい。電磁波はエネルギーの縦波である。光と同じだ。科学技術は生活空間を電磁エネルギーの空間にしている。50,60ヘルツの商用電力エネルギーから、携帯端末の電波エネルギー、衛星からのTV電波、探査電波等の照射エネルギーなど人の感覚で認識できない電磁波のエネルギーが充満している。照明の光も空間のエネルギーだ。太陽光線の照射エネルギーは地球を大きくして来た。秋の落ち葉を集めればそれも太陽から届けられた光熱のエネルギーが質量化した姿だ。電子レンジのマイクロ波は波長12cm(エネルギーの波長は半分の6cmである)程だ。電波としては相当短い波長で、エネルギー流粒子としてマグネトロンの空間寸法に整合しているか。さて食品の加熱現象の原理は如何なるか?電子レンジで加熱するには対象物に水分が無ければ効果は無いようだ。先日黒砂糖を加熱したら、火傷に気を付けなければならない程にマイクロ波を吸収してドロドロに熱く融けた。水分は無い。マイクロ波と言うエネルギー粒子は空洞共振器空間から出力端子を通して食品に照射される。水分子は熱エネルギーに対して際立った特性を発揮する。海の水は最近高温に人間によって(原子力発電の30%程を電力として利用するため、70%近い熱エネルギーを海の水で冷却しなければならない―政治・行政の関係者に知って欲しい科学技術の意味-)加熱され、豪雨災害の原因となっているように、水は熱吸収能力が極めて高い。このマイクロ波熱エネルギーが水分子を振動させてその周りの食物成分を熱く加熱すると言う解説が検索にある。水分子が腰振り運動のような振動をすると周りの食物繊維・細胞が熱くなる訳はどのように考えれば良いか筆者には理解が困難である。水は湯沸かしのように熱エネルギーで沸騰する。分子が振動などする訳ではなかろう。体積の膨張として圧力と温度のボイル・シャルルの法則で変化する現象である。水が吸収する熱エネルギーがそのまま食品の加熱になるだけである。振動など無関係に熱エネルギー(マイクロ波の電磁エネルギー)が物質の空間に貯蔵され、そのエネルギー吸収時間積分で高温になる。

電気回路理論と電磁気学の関係

標題のような関係を問われているようだ。言われてみれば、なかなか悩ましい問題かもしれない。電気回路理論は物理学の分野と言うより電気工学の科学技術応用理論になると考えた方が良かろう。回路理論は電流や電圧と言う科学技術概念で論じる分野になるから。しかし電気磁気学(現在の教科書の内容は電流、電荷概念によって解釈しているから、それは科学技術の範疇になり、真の自然の真理とは異なる。2018/02/13)はあくまでも自然現象として電気現象の真理を探る学問分野になろうから、電気工学と異なる物理学の範疇の分野になろう。物理学は応用でなく自然の真理を説き明かす学問分野と考える。だから物理学は例えば『電荷』の実在性を説き明かす事を目的とするような学問分野であろう。科学技術概念とその用語は応用分野が広がるにつれ、次々と新しい概念・用語が造りだされる傾向にある。超伝導現象等も古い電気磁気学には無かった、気付かなかった現象である。その新しい応用技術用語・概念が如何なる自然現象なのか、その本質を究めることが物理学である筈だ。そこには電流を自然の真理と解釈するようではとても物理学とは言えない。広く自然哲学としての見極めをする学問が物理学であろう。応用と真理は常に対立する学問分野であるべきだろう。電流概念(電荷と質量の混合素粒子である電子の流れと言う概念。しかし電流はA[C/s]で、その単位には質量は入らないと言う不思議な電流概念論の矛盾)を否定すれば、初めて電気回路内の現象の意味が分かって来る筈だ。電流が流れていない事が分かれば、導体としての銅線の資源量は節約され、設備は軽量化されるのだ。それが自然現象の本質を究める学問・物理学であろう。物理学の電気磁気学は根本から作り直さなければならない処に立っているのだ。電気工学と電気磁気学は全く異なる分野である。科学技術の社会に生きる現代人がその科学技術の本質を理解し、賢く生きる未来を見据えるに欠かせないのがその科学技術に隠された真理を認識しながら、技術との関わりを考えることであろう。技術を理解するには、電気工学で有ればオームの法則やファラディの法則と言う便利な技術法則を使う術を身につける必要がある。ファラディの法則一つをとっても、磁束と言う概念を使うが、科学技術法則として《磁束=コイル印加電圧の時間積分》と言う概念で捉えることが必要である。しかし、その法則さえ物理学として自然世界の真理を求める分野では磁束など存在しない事を理解する必要がある。磁束もただ一つの『エネルギー』の回転流を評価する科学技術概念でしかない事を。

今電子レンジと水について考えている。水分子が衝突し合って加熱されると解説されているのを本当か?なと。マグネトロンと同じく、MRIもなかなか不思議な理論で、すべて磁界と磁束の科学技術概念がその基本理論を構成している。みんな『エネルギー』の様相に観えるから、筆者の迷惑論かと御免なさい。

美空ひばりと臨教審の以下余白

異常な日本の30年を過ごして。

『愛燦々』 テレビの歌謡番組を観るようになったのは昭和が終わり、平成になってからであった様に思う。後から振り返って、あの歌が自分と関係が有りそうだと気付く。特に美空ひばりが歌った歌を何十年もたってから、その歌詞に込められた意味に気付く。始まりは、『愛燦々』昭和61年(1986)秋のようだ。長岡工業高等専門学校で、殺害から逃れる秘策(観世の文言札)で生命を守りながら、『静電界は磁界を伴う』の実験に挑戦していた頃かもしれない。その年の春、久しぶりに電気学会春の全国大会で、561  瞬時ベクトル空間モデルと空間瞬時アドミタンス を発表した。しかし発表者名は自分一人だった。共同研究者名を書くようなゆとりも、長岡技科大との行き来もなく当然他に居なかったと解釈していた。しかも内容が電気磁気学の偏微分式での変梃りんな内容であった事もあり、他に賛同は得れれないだろうと。ただ、その具体的なかたちでまとめたのが文献(1)である。その研究会資料は相当なストレスと緊張の中でまとめたものでありながら、良く出来たと満足できる。電力系統の瞬時監視機能として有用な手法と思った。この資料も一つの評価を得て、ひばりの『愛燦々』の意味となったかと勝手に解釈している。またその昭和61年(1986)4月、電気学会論文誌Bに文献(2)が掲載された。半導体電力変換器の基本動作解析を論じた。その解析手法には自分らしい特徴があったと思う。少し世間が騒がしくなり始めたのがその頃であったのかと、相当年数がたって歌謡番組を観ながら感じ始めた。

『みだれ髪』 この詩は昭和62年(1987)秋の頃を歌ったものと思う。昭和62年春殺害の危険から逃れて、やっと約束の長岡科学技術大学に戻った。しかしそれも独り善がりの世間常識から外れた仕儀であった事を愚かにも何十年も経って初めて気付いた。その『みだれ髪』の意味は今でも分からない。昭和62年春には良かったが、秋にはどうにも成らない結末となってしまった。春3月高専の校長に4月からの転勤について確認した。大学から『割愛』の話が有る。『割愛』の意味も昭和54年(1979)秋と二度目の事だから、結果がどう出るか自分が決める事ではないと予定通りの行動しか取れないと覚悟していた。だから高専の校長の言う事を聞く意思もなかった。3月31日『保険証』を会計課に返して二度と戻らないと翌日の東北大学での電気学会の発表に向けて高専を去った。『保険証』が身分証明書などと言う事も聞いたことがなかったから知らない無知であった。発表内容は『静電界は磁界を伴う』と言う『電荷』否定の発表であるから、そんなトンデモナイ内容が世間で通用する筈はなかった。科学理論の根幹を否定する内容だから。前の年の電力技術解析理論の話とまるで180度方向転換した内容であれば、世間も相当戸惑っただろうとは推測できる。とんでもない仕儀となり御免なさいでした。一体春丁度良かった帯の長さも秋には余ると。春どう行動すれば良かったのか今でも理解できない。4月自宅に高専の校長から手紙で教官会議に出席するようにと言う要請が有った。それは『転勤』していないと言う意味であったかどうかも分からない。筆者には意味の分からないいろいろの仕掛けが無知の自分に仕掛けられたが、常識知らずには対応しようがなかった。相談する者も一人も居ない。ましてや家族が知る訳もないから相談もできない。自分の立場を説明するべき意味を筆者自身が知らない訳だから。能力なしの『助手』と見られているから。今日現在も、パソコンに向かえば、それを見て何と無駄な人生をと非難されるが、そう思われるのも当たり前と自分で思う。家族に説明できる何の実績も示せずに今日が在るから。昭和62年春に長岡技術科学大学の学長選挙が有った。新聞でも取り上げられた社会的教育問題に成ったようだが、自分に関係しているとは全く理解できなかった。薄々感じたのは、8月に成って、電気学会の秋の『電磁界研究会』への論文を書いている時、なかなか捗らずに提出が遅くなり、9月1日以降の受け付けに成ってしまって、何か急ぐような雰囲気を感じた頃からとても気になりだした。斎藤 進六 学長に迷惑を掛けてしまったのだろうと遣る瀬無さと申し訳なさが残る。電力工学と電磁界理論では研究の畑が違う。転勤もしていなくて、研究分野も変われば、世間でも対応できなかった訳であろうと今は分かる。それが全て『みだれ髪』の意味なのかと。義理のじいちゃんが大学近くの病院へ入院していたので、家族に頼まれ毎日洗濯ものを交換に行く。筆者も家族も無知の中世間の常識に対応出来る術は無かった。病院近くで大学事務局の人がいつも周りについて監視していたようだった。みんなみだれ髪の基だったかもしれない。御免なさい。

『川の流れのように』作詞 秋元康 作曲 見岳章 唄 美空ひばり 1989年(昭和64年、平成元年)1月に歌われた。美空ひばり最晩年の歌だ。既に大学には居場所も無く、己の人生の意味を考える手立てもない中で、謳われた彷徨う自分に向けた歌であったかとも思う。『故郷』にどんな意味が有るかも知らず、二葉百合子さんの『岸壁の母』と繋がる故郷には『舞鶴鎮守府』の父の軍歴が有った。“知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた 人生 ああ 川の流れのように ・・” 正にこの歌詞の通り、何も知らずに歩いて来た自分の人生のように聞こえた。今は電気磁気学と電力系統の電気現象を『光』によって統一的に解釈する感覚的な納得を得た。それは過去の電磁界理論とその概念を全く新しい姿で解釈し直さなければならないところに来てしまった事でもある。ただ、電気工学は技術用語で理解できるが、物理学での『電流』や『電荷』が自然界の真理と言うのは頂けない。その辺の混乱を如何に解決するか。

本人は何も知らない 情報化社会と人心操縦の社会問題。世間の動きを筆者は知らない。後から何かあったのかと何となく気付くだけである。本人には知らせず世間が知っているこの不可解な気味悪さが『人権侵害』である。何十年も続く不気味さの中を過ごして来た。近所の小さな消防車が朝の8時前に鐘を鳴らして通り過ぎる日があった。その鐘が鳴る日は悪い日らしい。やっと最近は鳴らなくなった。意味が分からないがどこの誰の指示で鳴らしていたのか、不可解な不気味さであった。昭和63年(1988)以降、初めて経験した事件がある。長岡技術科学大学から、所属身分の無い身を悟り、精神的な過負荷に耐えられず離れた。居場所も無く、長岡市内の釜風呂温泉方面の道の自動販売機で飲み物を飲もうと100円を投入した。途端に自動販売機が電源遮断された。その事件から情報操作が始ったように思う。同じ事がもう一回あった。長野県に新潟県津南町を通って夜辿り着いた。道理脇の自動販売機で、100円硬貨を投入した。途端にそれまで点灯していた街燈も消え町中が停電になった。行き先の無いまま自動車を運転すると、「廻って 廻って 廻れ~・・」と言うラジオの歌で操作される。きっと社会的に処理に困る人間に取る情報社会の手段が存在するのか。現在にも残っている事は飛行機の爆音や飛行機雲の『×印』やヘリコプターの轟音がある。変な『花火』も有る。すべて誰が指示しているかも不明で、執られる不快な人権侵害の所業だ。

中曽根臨教審と人事事件 昭和62年(1987)年末、長岡高専で人事の事件が有ったか?具体的には知らない。昭和63年(1988)正月、春の学会発表の論文を書いている時、突然鼻から異様な鼻汁が出る。早速病院で診察を受け、(鼻空上顎洞炎と歯科で診断され、治療して頂いた)回復。病院で待っている時、周りに高専の先生らしき者が数人いて話しかけて来た。自分に関係する事が事件に成っているらしい事を後から感じ取れるが、それが何かも知り得ず、本人が無視されたまま『何か』が決められていたようだ。本人が知らずにいるその意味を世間は知っていて、いろいろ仕掛け話をして来たのだろう。大学の保険証を使っていた。1月中頃に自宅に高専から『保険証』が送付されて来た。高専では大学に転勤したと言われ、高専から自宅に『保険証』が送付される不可解。昭和60年7月1日履歴が『以下余白』となっている事も2015年(平成27年)1月に初めて知った。高専の事務局に行って尋ねた。後で調べて連絡すると言われたが、後日電話で「少し待って・・(?)」と言われたきりで何もない。何も本人が知らないで、世間が騒ぐ人権侵害。昭和14年(1939)12月1日舞鶴鎮守府への戸籍転籍が存在を無視した諸行無常の30年に亘る人権侵害の意味か。

以下余白の不可解 昭和60年(1985)4月1日 長岡工業高等専門学校 電気工学科講師(校長)。昭和60年(1985)7月1日 同助教授(松永 光 文部大臣)。同日付 以下余白(高橋校長)。昭和60年7月1日から履歴が無しと読める。翌61年(1986)4月の辞令もなく、以降は履歴が消えている。だから4月以降の殺人専門学校の意味が読み取れる。生きていては困る訳だ。様々な工作があり、昭和61年(1986)の電気工学科の雰囲気が異様な空気になった。学科事務室が殆ど使われない幽霊室に思えた。昭和63年(1988)8月1日長岡技術科学大学の身分喪失の意味か、銀行通帳口座が無効になる。昭和39年(1964)4月1日新潟県教育委員会での辞令交付もなかった。

文献

(1) 空間瞬時ベクトル解析と交直変換器への適用 電気学会電力技術研究会資料 PE-86-39  (1986)

(2) 電圧型PWM変換器を用いた瞬時無効電力補償装置の動作解析と設計法 電学論B.106,p.323 (昭61-4)

アッツ桜

アリュウシャン列島のアッツ島も今アッツ桜が咲いているのだろうか。

アッツ桜 1943年(昭和18年)5月19日アッツ島の戦いで日本軍が玉砕した。丁度今頃の季節だった。御冥福を祈る。父も昭和17年5月2日第三特別陸戦隊附同年7月1日第五警備隊、北潜?隊進駐援護作戦に従軍。キスカ島での1年以上に亘る作戦後、昭和18年7月29日キスカ島撤退作戦で帰還した。帰還と言っても父は帰れなかったようだ。シュムシュ(占守島)島に深い因縁があったかもしれない。同年7月29日鳴神島発ー8月1日占守(シュムシュ)島着とあるが、8月5日第51警備隊附天寧派遣の命令により8月17日占守島発(日帝丸)19日天寧着。9月17日天寧発(和光丸)19日室蘭着。20日同発22日舞鶴海兵団入団。この時は既に衰弱し、立つ事も出来ずに実家の父(信策爺さん)に背負われて帰る。父からはキスカ島での戦闘の話や、ネズミを食べて過ごしたなど。また撤退時の雲に隠れての幸運の話等を聞いた。軍歴票は墨で塗られて不明の部分がキスカに関係している。敗戦後の9月2日ミズリー号の後も、その年は暮まで帰られない仕事があったようだ。何時帰ったかも覚えていない。

舞鶴での思い出がある。舞鶴東港は平成5年に訪れた時、兵舎があるようだった。敗戦前にはそこに本館があり、入口の広間には大きな鯉の滝登りの額が掲げられていた。館の正面には飛行機があった。父と偉そうな軍人が居て、その飛行機に乗ることを許されて乗った。席は一つか二つしかなかった。父は帰還後、新兵教育の教班長をしていたようだ。終戦後、舞鶴国民学校から、おそらく貝野小学校に転校の手続きは成されていなかったのではと?すべては昭和24年4月の貝野村役場での中央からの行政官が来られての処理行政に因ってどうなったか?

戸籍転籍の不可解 昭和14年12月1日(1939/12/01)舞鶴鎮守府所管(所管という意味が不可解である。権力による強制的な仕打ちか?その日付で第一国民兵役編入とあるが、戸籍転籍は法律に因らない不法行政?)へ轉籍 父は召集されるのを危惧して、10月1日に日本発送電株式会社へ就職した。それを内務省が計って轉籍にしたと思う。戸籍附票の筆頭者頭の「亡」の字の意味。しかし軍には昭和16年9月2日に、『充員召集ヲ令セラレ』で舞鶴鎮守府から発令されているから、それまでの2年間は日本発送電株式会社の社員として送電線路保守業務にも務めていた筈だ。昭和36年交通事故で亡くなり、東京電力社長 木川田 隆一 氏の弔辞には、昭和14年から一貫して21年間送電線路保守員として働いた云々・・と有り軍歴は無いことになっている。舞鶴鎮守府の前は、大正15年12月13日横須賀海兵団 舞鶴練習部入団。軍艦 『加古』その後『多摩』乗り組み。軍艦多摩乗組員代表で昭和天皇の御大礼に参列。菊の紋入りの大きな勲章が家に在った。軍歴の記載の不可解。第一国民兵役満期 昭和21年9月5日。帰休 26年3月31日。とは?

我が存在 私は偽者か

水泳の検定結果をpcに入力すると、「不合格」と打ち出されて、認定証の作成が出来ない。と作成関係者から説明された。名前が認識されないと言う事は存在が否定されていると同じ意味に思える。昭和14年12月1日以降にどのように舞鶴鎮守府から戸籍が回復したか?(2019/02/12)追記。氏名は漢字をGoogleで翻訳すると必ず[Yoshihira]でなく[Kihei]と翻訳される。

電気(電圧・電流)の極性と陰極線管

三相交流回路の電気現象を考えている内に、だんだん基の意味が分からなくなる。瞬時空間ベクトルにも全て極性、向きを決めて解釈する。『電荷』を否定したら、極性をどう表現し、どう解釈したら良いかが分からなくなった。フルーイ話に戻ってみようかと陰極線に御出まし願うことにした。みんな世間から消えてしまったような懐かしい顔ぶれだ。

陰極線管 ③のTV用のブラウン管などが活躍した時代は科学技術の革新で市場も消費の活発な経済成長という時代の中に希望を持っていた。シャドウマスクを通してカラーの鮮明な映像を実現したその制御性能の科学技術が消えて行く意味をどのように受け止めれば良いか途方に暮れてしまう。電磁コイルのヨークでそんな制御が何故出来るかを、その技術をどこかに公開しておいてほしい。大衆のみんなが関わる科学技術革新の時代が過ぎたのは確かだ。どのように経済成長という過去の競争世界の目標から、未来目標を構築し直すかが世界に問われる時代になった。意識を変えなければ、険悪な奪い合いの世界に突入してしまう。技術革新が最後の医学生理学分野に特化されるかと思われる時代になって来た。生命現象はとても深い自然の神秘に今でも包まれているようで、理解できない遥かな世界に思える。せめて温故知新で、古い実績のある科学技術の中に意味を探してみようかと思う。そこでは、電気回路を考える時必ずプラスとマイナスという意識で考える。プラスとマイナスは『電荷』が自然科学の根本概念で有ったからこその意味ある用語であった。考えれば、実に済まないと思うけれども、『電荷』も「磁束」も否定しては現象解説の極性を示す矢印を使う意味さえ見えなくなって、自分のみならず皆さんにまで混乱させてしまうかと思い、これが『不立文字』というものかと恐ろしくも有り、お恥ずかしい限りです。電子の基になる陰極線の①クルックス管を検索すると、緑色の陰極線ビームが光っている様子を見ることができる。緑色で見えるから確かに陰極線が-極からプラス極に向かって流れているのは良く分かる。クルックス管に印加されている電圧は電源の電圧降下分がどれ程で、実際のクルックス管への印加電圧が幾らかは良く説明が無いから分からない。緑色に見えると言うことは管は放電管で光を放射している負荷である。陰極線が管内でどのようなガス体に光変換作用をしているかは解説が無いから分からない。陰極線という『エネルギー』は管内をマイナス極からプラス極側に向かって流れていることは確かだ。この流れる方向性は磁極のN極、S極の極性の周辺近傍における『エネルギー』回転流の方向性を決める根拠として考えたものである。電気回路の直流で負側の電線周辺から主として負荷に『エネルギー』が流れると決めたのもこの陰極線流の方向性を元にしたのである。陰極線のクルックス管は教育現場でもよく使われているようだ。電気回路解析では電流が陰極線流の逆向きに決められて来たので、実に取り扱い難い向きではあるが、電流の極性方向は技術概念としてはそのままとするより他に無かろう。悩ましいのは物理学でも同じ向きで論じられるかという問題である。物理学があくまでも『電荷』の実在性を主張するのであれば止むを得ないが。

陰極線のエネルギー 陰極線という電子流とはどんな実体なんだろうか。

クルックス管のエネルギー 陰極線という管内のビームは電子の流れと解釈される。もしその流れを電流計で測れば、マイナス側でもプラス側でも同じ値で検出される。だから電子流が電源を通して還流していると解釈できる。しかし本当に電子がそのように還流しているとしたら、マイナス側から管内で放射エネルギーを消費してプラス側に戻る電子はそのエネルギー分だけ減少した電子が戻ることになる理屈だ。電子が背負い籠にエネルギーを積んで運ぶ姿を理論に加えなければならなくなる。クルックス管の放射エネルギーはそこで放射されて、電子がプラス側から電源に戻ることなど無いと解釈する。要するにエネルギーがマイナス側から供給され続けている様子であると解釈する。

熱陰極と熱電子 真空管もブラウン管もフィラメントによる熱陰極のエネルギー源である。その熱陰極から熱電子が放射され、管内伝播中に空間制御されて科学技術の粋が展開される。真空管はその電子というエネルギーが増幅されたり、機械エネルギーに変換されたりする陰極線管技術の姿である。その熱電子の空間伝播現象は目に見えないが、その極端な似た場合を挙げれば、白熱電球の熱フィラメントから放射される光エネルギーと本質的には何も変わらないものである。

電気(電圧・電流)の極性 高真空の陰極線管などのエネルギーの流れる方向を電気現象の基本の方向付けとして認識し、それを基準にして電圧や電流の技術的解釈上の極性を今まで通り使うことにする。結論としては何も目新しいものはない。

エネルギーとは何か―電力系統に観る―

エネルギーとは何かと検索する人がいる。確かに『エネルギー』とは何かと尋ねたくなる。それ程漠然としたものかも知れない。(挿話)例えば、光『エネルギー』を光の振動数で物理学では解釈しているが、光の何が振動すると言うのかに答えなければ、理屈としての物理学とは言えないと思う。だから光エネルギーと言ってもピンと感覚的に捉え難いことになるのだ。振動数で解釈するのは、実験的に光を計測、分別するにはそれしか方法がない事から来る科学的便法でしかないのだ。光は振動等していない。『エネルギー』の縦波でしかないのだ。『エネルギー』そのものが空間に実在して、それが光速度の縦波となって伝播しているのだ。少し途中で光の話を挿入してしまって筋に混乱を入れたかもしれない(挿話)。エネルギー政策と言えば燃料・電力を指すようだ。物理学では運動論のエネルギーや摩擦熱のエネルギー、生物学では植物や細胞の話に出てくるが具体的にはっきりしないようだ。食品ではカロリーと同意語を成すのか。同じ『エネルギー』と言う言葉にも使う人の所属する分野によってそれぞれ異なっているようだ。
電力系統の『エネルギー』 市民が日常的に接する『エネルギー』は電気エネルギーが代表的であろう。冬は石油ストーブの灯油も思い浮かぼう。灯油は自動車のガソリンと同じものであるが、感覚的には「熱」と『動力』の違いで受け取られるかもしれない。今電気現象の空間ベクトルについて考えている途中で、電力系統の全体像を市民感覚で捉えておいた方が、ベクトル解釈の話につながり易いかと考えてその『エネルギー』からまとめてみようと思った。

電力系統の『エネルギー』 電力系統には『エネルギー』の様々な意味が含まれている。みんなたった一つの『エネルギー』の実相世界である。自然科学や科学技術を認識するのに広く全体像を捉えることがとても大事であろうと思う。狭い専門分野からのみ考えると、一方的な見方に偏ってしまう危険がある。特に理論的に偏った具体性の無い場合には、気を付けたい。学校の理科教育を考えた時思う。昨年科学技術社会のエネルギーと運動力学(理科基礎)で同じような話題を書いた。エネルギーとは何かに答える一つの具体例として良かろうと思って取り上げた。発電所は水力発電所では燃料は要らず、水の水圧の『エネルギー』や運動の速度『エネルギー』で水車により発電機を回す。今は殆ど火力発電が主流となっている。燃料に核燃料や重油を使い、その発生する熱『エネルギー』で水を熱して、水蒸気の高圧で高温の状態を作り出し、それをタービン羽根に吹き付けて回転動力に変換し、発電をする。発電機で電気『エネルギー』に動力『エネルギー』をエネルギー変換して、超高電圧の電気『エネルギー』に変圧器で変換し、電圧と言う電線路空間の三本の導体構成で、『エネルギー』の伝送分布を作りだしているのである。電気『エネルギー』は光とほぼ同じで、電線路空間内を光速度で伝送されるのである。この発送変電電力系統は『エネルギー』の様々な姿で現れている、科学技術の粋を集めた機能設備なのである。核燃料から家庭のテレビを見る間の自然現象は『エネルギー』一つを利用する科学技術であり、すべて『エネルギー』の醸し出す自然の姿なのである。

世界を描く 熱と光と質量の間に在る繋がりを何に求めるか。質量と光は明らかに異なる『モノ』である。物理学的には、原子に光を照射すると外殻電子のエネルギー増加を来たし、電子運動『エネルギー』が増加する現象と認識するのだろう。何らかの原因で、その電子がレベルの低い準位に落ちると、その差の運動『エネルギー』を原子外部に放射すると解釈する様に思う。その『エネルギー』が光であると。プランク定数と振動数の差と言う解釈で考えるのだろう。厳密に論理性を追究しようとしても、目に見えない原子世界の事だから何故電子が光を吸収して運動『エネルギー』レベルが高まるのかも良く分からない。電子の主要な物理概念は『電荷』で特徴付けられている。光が電子の質量に作用するのか、電荷に作用するのかもよく理解できない。光の振動数がその解釈には重要な役割を担っているとして、電子の質量に衝突して電子加速を引き起すと言うのだろうか。その辺の詳細な解釈の理由付けが見えないのだ。世界に『電荷』など存在しないと考え、光は振動等していないと考えると、全く物理学理論について行けない頭になってしまうのだ。こんな科学認識では、科学の世界に通用する訳はないかもしれない。『電荷』も捨てて、『エネルギー』一つを頼りに考えると、質量も光も熱も皆基は同じ『エネルギー』でしかないのだと思わざるを得ないのだ。そんな思いで世界を表現したのが世界を描くの図になった。そんな思いを発変電および送配電線路空間で解釈をしてみた。電気回路は光現象と結び付けて解釈しなければ、その本質の理科教育には成らない。