カテゴリー別アーカイブ: 社会科学

電荷間の力の矛盾論

(2021/05/09) 。電荷と電荷の間に力が生じると言う科学理論の矛盾。そんな解釈が何世紀にも亘って物理学世界の理論を主導してきた驚き。

電荷とは何か。
世界に電荷など存在しない。何故電荷が自然世界に存在するかの訳を物理学は示していない。

理論の電荷。

そこには2種類の電荷が定義されている。(+)と(-)と言う2種類である。それが空間にも物にも何時も欲しいと思えば、直ちに限りなく理論的に存在する事に成っているようだ。厳密な物理学理論で、その電荷の空間像が如何なるものかは確定していないようだ。空間に実在するという事は、必ず空間に占有する体積を占める筈だ。実在とは体積を占める条件を伴う。そこで空想によって、その像を上の図のように仮想してみた。(+)と(-)の記号で分けた。種類が異なるという事はどの様な空間的違いを備えているべきかと仮想して描いた。何処かコロナウイルス的な想念が含まれるかも知れないと顰蹙を買う恐れもある。お笑い頂いて結構な、厳密性や論理性が微塵もない空想図で御座います。専門家から定義に相応しい電荷概念の空間像をお示しただければ幸甚である。相手の電荷の認識を自然はどのようにするかが示されて初めて、2種類の電荷間の関係が論議の対象となると考える。その点で、触手を伸ばし、空間に雰囲気を醸し出し、何とか相手の素性を感知しようとの思惑で表現してみた。科学的な意味は全くないことをお断りさせて頂く。

力とは何か。
そんな事まで問わなければならない程、物理学理論が専門家業界の業界解釈に創り上げられているのだ。力の論理性さえ曖昧な解釈で虚飾されている。電荷間に力が生じるという前提が理論の根幹をなしている。異種電荷間には引力が働くと言う。引力の原因は、先ず互いに相手の電荷の素性を確認出来ることが条件となろう。目で見るあるいは匂いで確かめる訳では無かろうから、接触すること以外困難であろう。そんな意味も含めての空想上の図である。ただ(+)と(-)の電荷と言うだけの条件では、その間に力が生じると言う必然的な意味は全く含意されていない。そんなところから理論には権威的な強制が支配していることが多いようだ。科学理論でさえ、論理的とは言えない実態に冒されている。引力あるいは反発力は必ず相手の素性を知る事によって、はじめて生じるものである。相手が何物かを認識できずには、自然現象は関係性を発生しない仕組みの筈だ。

クーロンの法則の力概念矛盾。
何故気付かないのか?身の周りの自然世界と関りを持てば、そこには科学理論で解釈できる事象がどれ程あるだろうか。科学理論はそれぞれの専門的分野においての科学論的解釈の評価法による狭い領域に特化した解釈法であるように思える。この地球の現在の姿を、ここまでの長い何十億年もの歴史を経て辿り着いた結果として観たとき、どの様に思うか。太陽が送り届けた光の『エネルギー』がここまでの地球に育てた結果だと思うのはあくまでも個人的な感覚による解釈である。地下深くの石油資源や届かない深くの地下資源も必ず太陽の恩恵で蓄積されたものである。電気制御技術、情報技術が身の周りの生活環境を支配している。そこには独特の科学技術理論が専門領域の特化した姿で日常生活を支配している。電荷とその関係のクーロンの法則が科学理論の世界解釈の根幹を成して、全ての人の科学常識となっている。元素、原子構造もその電荷で解釈されている。自然世界の科学的認識には、その電荷が必ず必要となっている。しかし、自然は光のエネルギー一つがあれば、それが花も虫も水素も水も塩もベンゼン核も全てを創り上げる素原となる。自然は電荷など少しも必要としない。マグネットの結合力とその原理は何だろうか。それもエネルギー一つで賄える。軸性エネルギー流がマグネット結合の原因だ。原子周期の8も原子表面の8面磁極で解釈できる。電子周回運動の結合不可解は解消でき、目が回る論理的結合不可解論は消せるはずだ。原子・分子の結合力と周回軌道電子論の矛盾 (2018/01/09)。人が電荷間の力を解釈するのでなく、自然が結合の関係を決めるのだ。誠に申し訳なきことながら、文学的科学論になってしまった。電荷が相手の電荷をどの様に認識するかを科学理論でなく、自然の心に沿って考えれば分かると思う。

まとめ。
電磁気学の要-Axial energy flow- (2019/03/03) を結合力の意味として挙げる。

 

気象災害と海水面温度

地球温暖化の問題は人の生活環境を維持できない危険な状況に進んでいる。カーボンニュートラルという事で、二酸化炭素排出量の抑え込みがその温暖化抑制の切り札と解釈されているようだ。経済的成長のジレンマが解決困難な世界的政治課題ではあるが‥、その悩ましさを考えると🙇。

温暖化による災害。食料枯渇の問題。空気乾燥の山火事。また水蒸気含有量による暴風災害と水害。地球上の生活環境破壊である。

最近の気象災害を身近に経験しているにもかかわらず、その異常な状況を感じ取れていないのかと不安が募る。二酸化炭素が空気中に増加することにより、空気の貯蔵エネルギー量が増加するという解釈が基本的認識となっているからであろう。それ程二酸化炭素が地球表面の薄い空気層で気温上昇の原因となるという解釈はどのような意味からか理解できない。

海水表面温度と上空の冷気との間には『エネルギーギャップ』が生じる。丁度電池の電圧供給の『エネルギーギャップ』と同じ意味が海水熱エネルギーによって、地上にもたらされる現象が気象災害の原因となっている。強烈な暴風災害は、海からの水蒸気が海水熱エネルギーの放出現象として蒸発し、空気が保有したその水蒸気分に依る質量増加として強烈な風圧を生むと解釈する。木造家屋など一溜まりもなく吹き飛ばされる。過去の生活様式が通用しない災害になっている。みんな海の温度上昇が原因である。

地球温暖化の問題は、むしろその二酸化炭素ガスより、『エネルギー消費量』の増加が問題なのである。『エネルギー』は地球表面から宇宙に放射されない限り、その消費量が地球内に蓄積されるのである。それは殆ど「熱エネルギー」として地球に蓄えられる。現在の生活環境に大きな災害として襲い掛かる現象は風水害であろう。水による災害はその源は海にある。消費エネルギーの地球内での貯蔵場所は空気層ではなく、海の海水なのだ。温暖化の問題は、海水の温度上昇が北極、南極の氷河を溶かし、地球の健全な気象環境、その保全に貢献してきた極地環境を破壊して過去の極地冷気環境資源を消費している事に大きな原因がある。冬の暖房は今でも石油ストーブに頼っている。冷房はエアコンにしか頼れないが、暖房は発電エネルギーに頼らないでいる。発電エネルギーは蒸気タービンによる分は2倍以上の熱エネルギーで地球に負荷を掛けているのだ。灯油ストーブとエアコンとの総合的熱効率をどう評価するかも一つの課題ではあろう。

海水温度の上昇が地球上のエネルギー消費による温度上昇抑制の隠れた、受け皿となっている事に何故気付かないのか。

原子力発電プラントが二酸化炭素の排出抑制に効果があるなどという、余りにも科学技術を知らない科学リテラシーの政治問題意識に危機感を抱かずにはいられない。海に原子力発電はその技術の根幹を委ねている事を知らない科学パラダイムに恐れ入ります。

原子力発電、石油燃料および石炭燃料による汽力発電はすべて同じ蒸気サイクルを利用した発電方式である。その電気エネルギーの発電には、燃料の燃焼熱エネルギーの半分以上を海水の温度上昇によって処理しなければ発電できない方式なのだ。熱エネルギー量の60%近いエネルギーを海水に吸収させて初めて、電気エネルギーに漸く30数%が利用できるのである。海水加熱発電方式なのである。

現在の生活環境が辛うじて保たれているのは極地における氷河の御蔭であろう。その氷の溶解による海水の熱エネルギー吸収で何とか保たれているとしか思えない。科学技術開発競争がエネルギー消費を前提に進められる現状は未来への希望が展望できない。間もなく、異常気象災害に人の住環境は耐えられなくなろう。気温が40度を超えた時、・・。

暴風とエネルギーギャップ (2021/02/16) 。原子力発電の熱の行方 (2011/04/17) 。

科学理論に危機感を!

科学技術の驚異的な進展社会に生きている。それはまた、自然を人の思惑でその環境を作り替える事に成る。どれだけ過去に科学技術の過剰な適応によって過ちを犯してきたか。今は、全世界的な科学技術による経済競争と言う坩堝の中に嵌まり込んで、自然が破壊され、地球の命の輝きが消え失せようとしている。海の温度が高まれば、魚貝類の生存領域が狭まる。結局人の自然による恩恵が失われ、人の生存が出来なくなる。そんなことさえ考えない、論理矛盾の経済競争が繰り広げられる。必ず全ての人に、一本の木を育てる義務を課さなければ、酸素も水も貧弱な環境に生きなければならなくなる。町の中に、住宅の傍に、大きな葉を広げた、桐の木さえ何処にも見掛けなくなってしまった。哲学を忘れた専門家の世界になったからだ。

(2021/04/07) 追記。

以下の記事がすべて削除された。

今足元の生活を思えば、空恐ろしい不安に駆られる。全く身の周りの環境の科学技術の現状を理解できない自分を観るから。

 生命に関わる、生物・生化学、医学生理学などの基本の基の字も理解できていない自分を分からない。高校生の学習する教科の理科の中でも、「生物」となると全く解説の意味が頭に入らない。DNAや細胞の中の機能など恐ろしい程無知である。世界は『クローン人間』の怪しさにも科学技術の可能性が重なる恐怖に、成す術もない自分を知る。分かる、分からないのレベルをはるかに超えた世界、宇宙を遊泳するに等しい現実離れの中に居る恐ろしさ。

 人は体温がどの様な細胞の機能によって保たれているのか?体温中枢の働きに因ってと言われても、体温の仕組みさえ理解できないのだ。ヘモグロビンが呼吸による『酸素』を体に運び、生命維持の機能を果たしていると言われても、何処でどのように『酸素』が使われて生きていられるかも分からないのだ。高度の細胞内の生化学と比べれば、余りにも基本の話の筈と思う内容で、日常生活の基礎の内容と思う。こんな命の話の基礎への不安、無知の我が身である。

 科学技術と科学基礎理論。

 DNAの細胞編製技術の壁に対して、電気回路の中に解かれる『電子論』の嘘が罷り通っている現状をどの様に捉えればよいかと、危機感が募る。

 命の水を心に載せて!

 『水』は酸素と水素の原子結合分子だ。と解説される。教科書で、学校教育によって教えられている。酸素も水素も電子が核の周りを回っている原子だと教科書にある。みんなそう理解している筈だ。そんなことが本当な筈はない。教科書が嘘を書いている。自然界には決して『電子』など存在し得ない事だけは間違いない。水の分子が酸素一つと水素二つの結合から成っているらしい。電子が核の周りを回っているなら、どの様な空間構造で、回転する電子が水分子を構成し得ると理解できるのか。120度の空間角度で水素が酸素に結合するとも言われる。回転する電子がどの様にそんな空間構造構成の力を発揮できると考えられるのか。皆そんな訳を説明できるのか。

 水の妖精七変化 (2017/11/02) 。この記事で水への疑問や思いを記した。水分子の構造を周回電子で解釈することは無理である。全ての分子がそれぞれの空間的な構造体をなす。原子の周りを結合を担う『電子』なる粒子が回転していて、一定の方向性を持った構造体を構成できる論理性等どこにも無い筈だ。周回電子なる仮想概念で、原子結合論を論じるなどできない。科学パラダイムは狭い科学論者の理論の寄せ集めとして教科書に纏められているだけだ。専門家は決して狭い他の専門領域に口を挟まないし、異論を唱えたりはしない。電力制御技術者が決して原子構造論など論じない。『電荷』否定論など決して唱えない。そんなことをするのは余程の愚か者である。気が狂ったと専門業界から排斥される。水の分子構造が分からないなどとは決して言わない。電気回路の専門家は、その専門家同士の積み上げてきた科学論の中での共通に理解し合える内容のパラダイムでその集団の力を高め、結合力で社会的、経済的利益を得る為の共通の目的に邁進する。

 専門家の理論。それは極めて保守的に伝統の維持に働く。だから曖昧な真の基礎概念など誰も研究対象にしない。『電子』は役立たなくても、専門家集団の理論の安泰の為には異論など挟まない。哲学など経済的所得に役立たないだけでなく、社会的の技術家・専門家集団から葬り去られる。

 科学者に欲しい哲学。空間に存在する『エネルギー』を認識してほしい。それは感覚的に自然との心の関係によって得られるもののように思う。薬缶(ヤカン)で湯を沸かす。沸騰する水を見つめる。水面に到達して、大きく膨張した気泡。水面から沸騰して飛び出す水蒸気。直ぐに消えて見失う。水の姿と熱エネルギーを沸騰現象にどのように解釈するか。『エネルギー』が分かりますか。心に描けますか。物理学理論には無いでしょう。水の膨張と水分子に関するアボガドロ定数の意味は?気体分子運動論?

以上が削除された。恐ろしや!!

原子力発電への技術過信

(2021/03/07)。2011年3月11日のあの忌まわしい原子力発電所崩壊事故から10年を迎える。原子力発電と住民の覚悟 (2021/02/04) にも関係して。

2月の新潟日報の新聞報道で知った。

右がその記事の一部だ。地下2階に高圧代替注水系ポンプが設置されている。地上1階に核燃料の核分裂による原子力発電の心臓部である原子炉が据えられているのかと思う。

この注水系ポンプの配管貫通部の止水工事の未施行の問題のようだ。この注水ポンプは原子炉の重大事故時の注水の非常代替え設備だ。気掛かりは福島第一原発事故では、地下の非常電源設備が津波で水没して機能を発揮できずに、原子炉溶解・メルトダウンで水素爆発での致命的な放射性元素の拡散を起こした。近隣住民の生活を奪い、街とその市民コミュニテーを崩壊させたのだ。その重大な過失への反省があるとは思えない今回の問題だ。床を突き抜ける注水配管が激震に対して安全と言えるのだろうか。それは最後の非常用の設備と思えば、絶対浸水しないという安全志向の気休め設備でなければと思う。

地震と津波災害が起きないという前提での安易な、安全志向から少しも抜けていない東京電力首脳の意識、そして政府の原子力依存の電力政策が相も変わらずの危険感覚の欠如が起こす結果の姿だ。

原子力発電設備は人が非常時に的確に対応できるほど単純な科学技術の機能ではない筈だ。地下に非常設備を据えることは津波による水没など意識しない安全神話をそのまま踏襲しているとしか考えられない。高度な制御機能を備える事はどれ程の制御ケーブル、電源配線等が複雑に張り巡らされるか想像もできない筈だ。地震で配電盤の接続端子と配線ケーブルの間に起きる力学的加速度による断裂応力など想像だに難しい筈だ。重いケーブルの束に加速度でどれ程の応力が掛かるか、地震の揺れの加速度方向によっても全く力の強さは異なり、何処で断裂するかは予想などできなかろう。平常時での安全設計ではなく、非常時での安全率がどれ程かは知らないが、今回の未施工問題がある事から推察して、決して原子力発電の放射性物質放出の危険を回避できる安全設計などできる訳が無いのだ。運良く非常事態にならずに済むことを神頼みとしての運転しか保障などされない複雑怪奇な制御システムの筈だ。経営責任者にそんな危機意識が持てるほど単純な設備ではない筈だ。技術を何も知らない経営責任者でしかなかろう。経営責任者が安全運転に責任持てない知識で、原子力発電設備の運転など放射性物質放出の阻止の責任をどこに求められるか。原子力規制委員会の姿勢も気掛かりになって来た。

福島第1原子力発電所の崩壊の原因。以下の制御棒の問題は筆者の間違いであった。原子炉は制御棒投入で無事停止していた。停止と言う意味は、核燃料の核分裂が停止したという意味ではない。核分裂による熱エネルギーは運転に近い発生であろう。制御系統が正常に機能することが必須の条件だ。運よく呈しなければという危険が拭えない。

以下が間違い「津波襲来以前に既に制御機能を失っていたのではと思える。地震から津波到達までに時間があった筈だ。あれだけの激震があれば、発電所停止に向かって安全処置が執られる筈と思う。制御棒が核分裂停止のために何故投入できなかったが大きな疑問だ。もし大きな震度で自動的に停止動作に入る制御が組まれていなかったとは考えたくないが、何故制御棒が入らなかったのか。激震時の原子炉停止制御が組まれていたとしたら、津波到達前に既に制御信号系が機能不全の状態になっていたかとも思われる。制御ケーブルなどの基本の仕組みが既に激震で破断していたのではと危惧される。

それは本質的に、原子力と言う核分裂制御の科学技術が余りにも複雑な要因に覆われた設備である為、人が対応できない『化け物』なのだという事を突き付けられていると考える。人は技術を過信するべからず。と肝に銘じたい。

貯金通帳の不可解

(2021/02/15)。

銀行通帳についての無知を恥じる。何も知らずに来た、まるで社会常識に自信が持てないから、『電荷』否定の科学論など意味が無いのかとさえ。

過去のデータが分からない。残ったデータが何を意味するかも分からない。何処にも既に給与の振込は見えない。二つの通帳のデータが僅かに残っている。

通帳①。

最初に作った通帳と思う。

昭和55年に、初めて給与の振込用に使った筈だ。古いデータが何も残っていない。平成2年の最後の年の分しかない。

 と印をつけた。何故か22,590円が長岡技大に抜き取られたのか。5月、6月、7月に技大が通帳から引き抜いたとしか思えない。何故か不可解でもあり、不愉快だ。誰にどの様な権限で、本人が知らない内に、勝手に人の銀行口座の中身を扱うことが許されるのか?

6月29日に 431,400円が振り込まれている。何故か不可解。

その7月には免職処分にされた。それらの関係との意味が不可解だ。

平成2年の年末、12月26日。ここで通帳①は解約されている。【ご使用済 今後もよろしく‥】と。

丁度年末で、私は措置入院と言う強制的な処置により、閉鎖病棟に閉じ込められたときだ。絶食による抵抗で、意識不明になった為、他の病院へ転院された頃か?。

この 3,810,002 円の意味は全て原因が分かり、了解。兎に角本人の知り得ない処理での公共料金支払いなどの通帳解約だ。人権は無い事に成るのか?

通帳②。

誰がどの様な訳で新規に作ったか全く不可解。

昭和63(1988)年8月1日。(新規)。ヨキンキから誰が振り込んだのか?最初の振込が、「十日町土木事務所」と言う得体の知れない者が使っている。何かそれらの者が作ったように思える。

新潟県道の用地の新潟県用地買収費用の振込通帳は?

そうこうしている内に、平成2年に入る。

長岡税務署 差し押さえ」として、金 8,010 円が抜き取られている。訳が分からない不可解だ。

平成2年12月27日。*02-12-27BT ナガオカギジュツカガクダイガ 技科大  87,368円 の振込?

平成3年1月31日。*03-01-31BT ナガオカギダイ  387,750円の振込?

の二つの振込機関の間の関係は何だ。長岡技術科学大学で、二つの別の銀行振込口座を使い分ける訳は?

「ナガオカギダイ」()の振込は特別の架空闇振込口座と判断せざるを得ない。昭和55(1980)年の最初から闇金を振り込まれていたと解釈すれば、辻褄も会う。

平成3(1991)年3月5日。 *03-03-05BT コクゼイカンプキン 国税 2,390,100円の振込?すべて私本人の与り知らぬ処で、不可解な処理が成されている。私が分かるように質して頂きたい。何方にお尋ねすればよいかお助けください。社会的に幼稚な私は知らされないで済むのか、不可解だ。

1988(昭和63)年9月下旬、①の通帳で、琵琶湖の電磁界理論研究会に研究発表の為に行くため、大学へ無届だったから、通帳から旅費をカードで引き出そうとしたら、無効の通知で下ろせなかった。窓口で下ろし直した。そんな時期に、新しく通帳を作る訳が無い。新規通帳が何故出来たか?誠に不可解。

授業料等の非納付の訳?

自分はそんなに記憶力が無かったのか?まさか、父の給与(東京電力KK)から天引きされた訳ではなかろう。一切、納付した記憶がない!

新潟県立十日町高等学校。東京の予備校の研数学館。新潟大学(最近年額9000円とある方から教えてもらって知った)すべてに『授業料』を納付した覚えがない。新潟大学1年生時、新潟六花寮で1年間過ごしたが、寮費を収めた記憶がない。全て無しで過ごして、その訳を今も分からずに居る。

「電気学会会員資格?」 長く加入してお世話になったと思っていた「電気学会」の会費納入の痕跡がどこにも無い。自分が無知であったことは確かで誠に申し訳ない。1970年3月(新潟県立新津工業高等学校所属かアルバイトか?)の電気学会全国大会で発表するための予稿は提出した。会費未納で、発表しなかったのかも知れない。その後、長岡技術科学大学でも、入会手続きを改めてした覚えもない。一体どう解釈すれば良いか誠に理解困難。電気学会に、一度お尋ねしたことがあった(平成8年10月)。

入会年月日:昭和44年10月1日。送本:電気学会誌、論文誌A,B,D 平成元年4月、会費など代金未入金により送本停止。平成2年7月(免職処分時)、会費請求書が戻る。 平成3年4月、除籍(入院病棟屋上をヘリコプター(?)が轟音を立てて通過したのはこの関係だったのかも知れない)。

との御回答を頂き、本当にご迷惑を掛け、お許し頂きたい。なお、電気学会誌も昭和55年3月までは送本されていなかった筈。しかし、誰が会費を納入して下さったのか全く理解できない。

銀行通帳の不可解と通じているようで、薄気味悪い。

事件  1956年(昭和31年) 9月30日 新潟県中魚沼郡貝野村 廃止。   村域を二分割し、中魚沼郡水沢村と中魚沼郡中里村に編入され貝野村は消滅。

中里地区。有名な景勝地⦅清津峡⦆の柱状節理どんと迎える。如何にも古代の巨木に思いを馳せるに充分である。

暴風とエネルギーギャップ

今年の冬は特別に強い暴風を感じた。12月の大雪の後に車が横転した映像を見た。幹線道路上で横転する。車社会で、車が横転しては生活の基本的生活手段が失われる。

昨夜は、強風に恐怖を感じて良く眠れずに朝を迎えた。

雪囲いの仕掛けが素っ飛んで、夜中に恐ろしさを感じた。

昨年までの居住環境の仕組みが、今年の暴風には役立たない。寧ろその仕組みが危険をはらむ原因とさえなる。

海上に発生源を持つ強烈な低気圧の発生。

大きな原因は、海水温度の高温化と観る。エネルギー消費量の増加。汽力発電所の発電量の増加が『復水器』による海水での水蒸気冷却システムの機能の役割を強くする。発電所は熱効率40%程度という事は、熱量の60%近くが海水の加熱に使われている事に成る。

『エネルギーギャップ』は電気回路の『電圧』の意味でもある。二本の電線間の『エネルギー』の分布の不平衡が線路電圧の本当の物理的意味合いを持つのである。負側の電線導体付近が高い『エネルギー』分布密度空間となっているのだ。それが電線路の『電圧』の自然の姿なのだ。決して『電荷』などは自然界には存在しないのだ。人が理論構築のために創り出した概念が『電荷』なのだ。『電子』も同じく『電荷』概念では自然の真相を評価出来ていない科学論なのだ。

海上の海水表面の『エネルギー』分布は冬の上空の寒気に対して大きな『エネルギー』量を保持した空間となる。上空の冷気空間の『エネルギー』密度と海水面空間の『エネルギー』密度との差が『エネルギーギャップ』なのである。丁度電線路間の高電圧と同じような意味を、海水面と上空寒気との間にその『エネルギーギャップ』を創り出しているのだ。その『エネルギーギャップ』が電気『エネルギー』を多量に使えば、どんどん大きくなり、人の日常生活の環境が破壊される状況を生む事に成る。生活環境が破壊される、と言うより人自身が自分の生活スタイルのすべてを破壊する結果を生んでいるのだ。

強烈な破壊力は空気が含んだ水蒸気の質量が家や屋根、自動車に衝撃力として作用する事に成るのだ。

強烈な暴風がこれからの冬に襲い掛かる覚悟を持てるか。恐ろしい限りだ。津波の発生原因の認識が専門家には分かっていない。それと同じく、気象の暴風の原因をよく理解してほしい。

原子力発電と住民の覚悟

2011年3月11日 東日本大災害が発生した。それは地球の自然活動によっておこる人が制御出来ない、避けることの出来ない災害だ。特に海底を源として起きる津波は想像を絶する災害をもたらす。人は地球の命の上に生き、その恩恵の上にしか生きられない。海の幸が人を豊かにし、喜びの糧を与えてもくれる。海と共に生きる、それが生活でもある。

海は恐ろしい牙をむくこともある。避けることの出来ない津波災害が起きる。それでもそれは地球の自然の姿と、覚悟を持って海と共に生きなければならない。

福島第一原子力発電所の崩壊事故に遭遇した。決して有ってはならない人間が起こした悲惨な災害である。想定外と言う責任逃れの人間の起こした災害であり、許されない事件である。人は自然災害に合う事は有りうる。しかし原子力発電所の事故は、人が住む権利を奪う人権の否定を前提とした事件である。

柏崎刈羽原発は世界最大容量の発電だ。『避難訓練』と言う許されない事件を想定した行為が如何にも当然のごとくに執り行われる不可解な集団訓練。そんな避難をしなければならない危険な科学技術が人の権利を奪う町中にある事が許される筈はないのだ。傍の住人は原発事故で、そこの生活を奪われても良いと覚悟をして避難訓練を受け入れるのか。その覚悟を住人は持って原子力発電所の運転を認めているのか。一人一人にその覚悟を聞きたい。

原子力発電所は人が制御して、安全に運転できる保証などどこにも無いことを知るべきだ。本当にちょっとした過ちがとんでもない原発崩壊事故につながる可能性を含んでいる。次の事故が何処に起きるか全くわからず、一瞬の偶然が原子力発電崩壊の原因となるのだ。その事を認めたうえで、原子力発電所の稼働を許容するのか?

福島第一原発事故の事後処理の目途も立たない現実に目をつむって、またその避けられない危険を住民は受け入れるのか。『カーボンニュートラル』と言う政策で、地球温暖化は決して防げない。原子力発電や火力発電での海水加熱による水蒸気冷却システム、その仕組み『復水器』の科学技術の本質を理解することが皆に課せられた事だ。事故による街崩壊への住民の覚悟が問われる。熱効率40%以下の発電システムだ。

 

2020年まとめ[4]自然と災害と哲学

(1/23)  無為自然

(3/18)  クロッカスと太陽

(3/27) 津波とその速度

(3/29) 津波とそのエネルギー

(5/7) 巡る季節の花

(5/10) 自然と科学理論の懸け橋はいずこに

(5/14) 度胸と可憐さ

(5/15) The electron did not exist in the world.

(5/22) エネルギーの虹

(7/4) 分かるという事

(8/14) 観自在菩薩

(9/9) 信濃川

(11/13) 植物二題

(11/18) お日様と日向ぼっこ

(12/16) 山が呼ぶ 謎が囁く

(12/25) 自然は『エネルギー』の象形

 

理解の限界を超え

記事『理解の限界』が削除されて思う。

新潟県教育委員会の管理外に居て。

1980年3月31日「願いにより職を免ずる」新潟県教育委員会「辞令」がある事に成っている。

限界超えの意味。上の給与表の写しは、新潟県立新津工業高等学校のものだ。私は1980年4月何処に所属していたのか。上の表に因れば、名前(カナザワ ヨシヒラ)だけであっても、主任手当てが4月に支給されている事に成っている。長らく気になっていたので昨年、新潟県知事様宛にその意味を尋ねました。しかしその回答は頂けませんでした。新潟県教育委員会の関りで、その給与は支払われたものと推察する。『免職処分』後に何故予算が執行されるのか?その訳は余りにも当然の事であるが、それを御回答頂けないかと今も念じている。私は1964年4月から勤務したのだが、採用事務に関して新潟県教育委員会との関りは一切今までなかった。何故、許可願などの事務手続きもなしに、『県外内地留学』6月間の文部省との関りがあるべき研修が出来たのか。東京工業大学の研究室でご指導を受けさせて頂いた。その経費は何らかのところから研究室に支払われると思う。先生からその事らしい意味で尋ねられたことを覚えている。しかしよくお聞きしないで話の意味を理解せず過ごした。多分何も経費が支払われなかったのだ。と今は理解できた。その研修の実績も新潟県立新津工業高等学校に尋ねたが何も無いと回答された。幽霊人材以外の解釈のしようがない。

採用事務手続きを受けていない者が何故どの様な仕組みによって、新潟県教育委員会の管理教職員に成るのか理解できない。しかも、昭和54年の夏文部省の『工業科教員指導者講習会』に一週間も参加する意味が理解できない。『公立学校共済組合』にも登録されていない私が!!?

下の記事が削除された訳も怪しく不可解。

記事が削除されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

危険運転に動転

(2021/04/28) 追記。今日の新聞記事。池袋暴走 意図せず加速「パニック」の見出し記事。この自動車事故に潜む自動車の誰も気付かない『構造欠陥』を思う。

人の運転意識・感覚と自動車の暴走。大きな事故に店の駐車場での店内への突入事故がある。運転免許更新でも、障壁前での停止訓練が教習項目に入ったこともあった。駐車場で、完全に意識は停止の運転になる。しかし、停止しないで加速するから店内に突入するのだ。その事故原因は、間違ってブレーキを踏まずにアクセルを踏むからだと決めつけられる。【ブレーキとアクセルの踏み間違え】という事故原因で処理される。誰が駐車場で、しかも店のウインドウ前でブレーキを踏まずにアクセルペダルを踏むか?人が停止しようと意識したとき、今までアクセルペダルを踏んで停止位置に来て、何故ブレーキを踏まずに加速して店に突入するようにアクセルペダルを踏むか?そこには車に大きな『構造上の欠陥』があると考える。どの様な欠陥か。それは人の意識に対する「運転し易さ」が生産現場の設計上の大きな基準となっているからとみる。常に、車の運転は危険を伴っていると運転者が意識するようには、構造上の設計基準にはしていない筈だ。極めて容易に、運転し易く、アクセルとブレーキの『ペダル』の間隔は僅かに足を動かすだけで、操作が可能にできている。少し靴底が広い場合は、足を僅かに動かしてブレーキペダルを踏める日頃の運転の容易さに慣れているから、「人の意識」に反してブレーキを踏むにも拘らず、【アクセルペダル】にも靴底が触れている。その時「人の意識」にどんな事・動顛が起きると思いますか?停止する筈の車が加速したら、慌ててブレーキを強く踏む。その時靴底が【アクセルペダル】をも踏んでいたら暴走になる。

危険事故回避の設計上の基準。

運転時の危険意識保持のために、【アクセルペダル】は踏み難く小さな寸法にし、【ブレーキペダル】の位置を【アクセルペダル】から遠くに離す。日頃の運転で、僅かな動きで【ブレーキ】が掛かる運転の感覚に、意識的な修正を加えること。足を大きく動かす意識を感覚に加える。それが設計上に考えるべき、人の意識と社会安全性との兼ね合いからの事故回避の基準であるべきだ。『原発事故』にもその事は考えて然るべき要点だ。

人は決して停止しようと意識して、意識的に間違って加速のペダルを踏みはしない。

危険な自動車運転。昨日、買い物で店の駐車場に停車しようと『ブレーキ』を踏んだ。しかし突然加速した。危なかったが運よく停止して無事に済んだ。

『ブレーキとアクセルの踏み間違え』と言う事故に成る寸前であった。

少し気が緩んでいたかも知れない、履物に『ゴム長靴』を使用していた。

足は確かに【ブレーキ】も踏んでいた。しかし同時に【アクセルペダル】にも掛かっていたようだ。もし【ブレーキ】を踏んでいなかったら車は止まらず事故となっていた筈だ。心臓が止まる思いをし、昨日は一日気が委縮して正常でなかった。

【ブレーキ】と【アクセル】のペダルについて。

【ブレーキ】のペダルは大きくて安全に効果的と思う。【アクセル】のペダルも小さくて安全性が考慮されて居て良いと思う。しかし今回の経験を振り返って、思うことが一つある。

【アクセル】ペダルは自動車走行と言う危険につながる状態に踏むものだ。もっと小さくても良いかと思う。

【ブレーキ】ペダルは、停止する意識で踏むから、突然意識と逆に加速したら完全にパニックになる。慌てて、止めようと意識して更に強く踏む可能性が有る。その結果【アクセル】ペダルに少しでも足が掛かっていたら、止まらずに事故となる。

【アクセルとブレーキの踏み間違え】と言う多くの事故がある。普通なら車を停止しようとする時、足は今までの位置から左側に移動して、必ず【ブレーキ】ペダルを踏む筈だ。停止しようと考えた時、今まで走行運転していた足を【ブレーキ】ペダル側に移動しないで、そのまま【アクセル】ペダルを強く踏むとは考えられない。

【踏み間違え】と言う事故は【ブレーキ】と【アクセル】のペダルの位置間隔 “D” をもっと大きく離すことで幾らか防げるように思う。恐ろしい経験から【ブレーキ】の踏み方を反省し、気を付けようと思いつつ感じた。