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直流の分布定数回路現象

(2021/03/01)。下書きのまま1月以上が過ぎた。標準の科学理論はそれぞれの専門の部門に所属して、科学研究者として生活の保障を得た上で、投稿論文が専門家の査読で認められて科学誌に掲載さる。その科学的知見が評価されてこそ意味が有る。30数年前に『電荷』の意味を問う『静電界は磁界を伴う』の発表をした。その当時は、己の社会的存在の意味も理解できず、ただ電気理論の諸法則への疑念を強く抱き、自分しか唱える者はいないとの確信一つを抱いていた。職場に存在することが社会的不適合化と離れた。やむなく現在のブログによって、障子を前に自己問答して科学理論の本質を探ってきた。壱日一日が疑念と問答の繰返しであった。そのようにして科学理論の論理的根拠を探り、昨年から今年にかけて漸く電気回路の自然現象の姿を理解できたように思う。数多くの記事は科学論文にする内容ではなかったかも知れない。何も科学的検証可能な『データ』もこれと言って無いかも知れない。ただ総合的に振り返れば、その内容には自然現象の本質があるとの確信のみだ。ただ最近思う。科学の研究者として人並みに生活をする職場、それを勝ち取る公平な土俵は何処に在るのか?

この記事も『電荷』否定の自然感への確信から、電気回路現象を解釈する論説である。それは現在の科学理論として標準の教科書が解説する、所謂「科学パラダイム」の批判論と成る。電気現象はすべて、『エネルギー』の光速度伝播として捉える必要があるとの主張である。

回路。

普通の直流回路とは負荷要素が異なる。コイルあるいはコンデンサに直流電圧を印加した場合に、どの様な回路現象を呈するか。スイッチSにヒューズを添える。コイルの場合は電源短絡に成る。またコンデンサの場合は電圧が高電圧の場合にはコンデンサ内でフラッシュオーバーが起きるかも知れない。それはやはり電源短絡である。電源及び回路保護にヒューズが必要。

この回路で電源と負荷はどのような電気現象を起こすだろうか。オームの法則で解釈する電気現象ではない筈だ。当然電流あるいは電子での解釈では難しいだろう。『電子』が光速度で回路を周回して電源に戻るなどできる筈はない。それでも回路動作は負荷と直流電源の間に起きる電気現象である。どんな理論で解釈しようとも、電源から負荷に向かって『エネルギー』が伝送されることには間違いはない。しかも光速度伝播の現象として現れる。科学理論はとても難しい数学的解説が主流になっている。電気現象に量子力学的解釈を適用しても、『電子』による論理では『エネルギー』を電源から負荷に伝送する単純な意味さえも示し得ない。このような単純な電気現象についてさえ解説を成し得ない現代物理学理論だという意味を誰もが理解しなければならない。

『エネルギー』の光速度伝播と分布定数回路。

光は自由空間を伝播するやはり『エネルギー』である。電気回路現象は光と異なり、導線で囲まれた線路空間に伝送の場が制限された、光に似たような『エネルギー』の伝播現象である。光に似たという意味は光のように目には見えないが同じ『エネルギー』の光速度の流れであるという意味である。この『エネルギー』と言う物理的実体を認識することが必要である。例えば、高等学校の理科教育を考えれば、この空間に実在する『エネルギー』を認識していないから教えることが出来ていない。空間に実在する『エネルギー』を教育して来なかった現実が科学理論の考えない業界論に成っているのだ。だから『エネルギー』の光速度伝播の縦波と言う理解が出来なくて当たり前なのだ。電気回路空間を伝播する『エネルギー』の波となれば、電気回路導体内を流れる『電流』あるいは『電子』などと言う、自然界に実在しない物理仮想概念で理解することなど誰でも困難の筈である。電線で囲まれた電線路空間は、その空間構造を静電容量とインダクタンスの二つの空間解釈概念で捉え、その分布定数回路として認識しなければならなくなる。空間を誘電率と透磁率で捉える解釈法も、言ってみれば科学技術的手法の一つの解釈便法であるかも知れないが、その概念に頼らなければ、数式による認識・解釈法が執れないから止むを得ないという事なのかも知れない。せめてその二つの空間の電気的解釈論拠(誘電率と透磁率)を受け入れて、『エネルギー』の挙動を認識しなければ科学論としての最低の解釈法も採れなくなる。不立文字の一歩手前で踏み止まるしかない。

(1)コイル負荷。その電気現象を(1)図に表現した。

コイル負荷に直流電圧電源をスイッチオンで印加する。スイッチ投入と同時に、電源から『エネルギー』が回路に投入される。その『エネルギー』は光速度以上の速度では伝播しない。必ず負荷まで到達するに時間が掛かる。たとえ光速度であっても時間経過が生じる。スイッチ投入と同時に、電線路の負側導線近傍を『エネルギー』δp[J/m](1[m]当たりの分布エネルギー)の分布波が流れる。しかし、この『エネルギー』の伝播状況を実験的に証明する測定法はないと思う。証明しなければ科学論として認め難かろうとも思う。それは電源電圧 V[V]とすれば、電線路の分布定数の静電容量 C[F/m] によって決まる分布伝送『エネルギー』であり、それは

δp=C V^2^ [J/m]

として、回路定数と電圧の関係式で表現できる。電源電圧とは、その電線路の構造や空間媒体(絶縁物の誘電率など)に対して、『エネルギー』の供給能力を評価した解釈概念であると言える。電圧とは、決して『電荷』の仮想的な創造概念などで評価、解釈できるものではないのだ。さて次に、負荷に貯蔵される『エネルギー』はどのように解釈すれば良いかが問題となる。なお、伝送電力pはその分布『エネルギー』δpに回路伝送速度(光速度) co=1/√(CL) [m/s] を掛けると得られる。

p=δp×co = V^2^/Zo [J/s]

ただし特性インピーダンスZo=√(L/C)である。

負荷特性とα

高周波伝送回路では、定在波と反射波の関係が論議される。ここで負荷に『エネルギー』がどの様に吸収されるかが問題となる。その解釈に負荷の整合の関係が論じられる。その関係をαと言う定数での統一した解釈をしたい。(1)図のように、α=√(Lr/L) とした。負荷の誘導性インダクタンスは線路定数Lに比して、相当大きいから α>1 となる。このαは負荷と回路特性の間の関係を評価する整合係数と呼べば良いかと思う。もし負荷が純抵抗の場合なら、αが1より大きければ、負荷端で反射が起こる。伝送エネルギーをすべて吸収できないから。その反射分だけ電源からの伝送分が減少して電圧が規定値に成り、差し引き電源供給の『エネルギー』が負荷に合った分に落ち着く。ところが、コイル負荷では少し異なる。コイルの『エネルギー』貯蔵の現象がどの様であるかを認識する問題になろう。

コイルの貯蔵エネルギー

この問題は、コイルとファラディーの法則の関係による電気技術の解釈に繋がろう。コイルの貯蔵エネルギーは印加電圧の時間積分の解釈で対応すべき問題である。この回路の場合は、電源が直流電圧の一定値である。この場合はコイルに電流は流れない。コイル端子に直流電圧が印加される。それはコイル前の回路の静電容量C[F/m]のエネルギー分布がそのままコイル内に侵入すると解釈する。コイルにその『エネルギー』が伝送され続けている限りコイル端子には電源電圧が印加され続ける。コイル巻き線間の隙間に均等にenergyが分布入射すると解釈する。電圧時間積分でコイル内の貯蔵エネルギーは放物線状に増加する。磁束概念との関係で捉えれば、磁束の2乗に比例するという事である。磁束と言う用語も、実際は磁束がコイル内に自然現象としてある訳ではないが、今までの科学理論の解釈を踏襲して解釈すればという事ではあるが。その間、励磁電流等流れる必要もない。コイル内空間の『エネルギー』が飽和した時点で突然コイル端子は『短絡』となる。

(2)コンデンサ負荷。その電気現象を(2)図に表現した。

負荷がコイルであろうと、コンデンサであろうと電源からスイッチオンではじめに送出される分布『エネルギー』は同じである。それは基本的に電源電圧とその端子につながる電線路の電気的特性で決まるのだ。それが負荷の特性の違いで、負荷にその『エネルギー』の先頭が到達した後、負荷特性と線路特性との関係で反射現象が決まる為、負荷点の特性に因る事から違いが出る。

このコンデンサ負荷の場合の現象は、コンデンサ容量 Cr[F] に『エネルギー』が貯蔵されれば当然電線路の『エネルギー』分布の流れは止まる。従って、それ迄の一瞬の過渡現象だけの問題になる。

物理学理論は役立つのか

(2021/04/08) 現在の物理学理論は自然の理解に役立たない。
筆者も一応日本物理学会の会員として、毎年年会費だけを収めている。何で発表もしないのにとも思うが、過去に何回か大会で発表させて頂き、皆さまに御面倒をお掛けし、御迷惑もかけた。誠に無礼者であったと反省しきりにある。同時に、物理学の未来、その行く末をも心配しながら、変化も期待しているところだ。だが、殆ど本質的な基礎概念などへの問題意識を抱いている様子は見えず、どんどん寂れ行くだけに思える現状は悲しい。

それは理論が技術理論の解釈用便法論でしかないから。

そもそも、真剣に自然の姿に向き合おうという意識に欠けているように思える。自然を観察する基本的姿勢があるのかと疑問に思う。と言っても何世紀も超えて確立した物理学理論だ。簡単に意識が変わる訳はないだろう。現実に世界の科学技術はその理論によって解釈可能な科学常識で十分満足できる役割を果たしていると自負している筈だ。それで、長い歴史の中で教育に間違いは無かった事が現在の姿に証明されていると言うのかも知れない。異論を唱える者の方が間違っていると。確かに、嘘の基礎概念に基づいた教育が為されていたなどとは誰も信じない。そこには、底知れない豊かな叡智によって構築された科学技術力が在るからだ。代表例として、一つの『電流』を取り上げて考えてみよう。その『電流』と言う科学技術量は電流計で測れる。それは物理学理論では『正の電荷』の時間微分と言う定義の量だ。しかし実際はそのような『正の電荷』は流れていない。自然界で純粋に『正の電荷』など有るとは物理学でも解釈していない。原子から『電子』が抜けた原子イオンしかそれに対応するものはない筈だ。だから金属内の原子イオンが動けるとは物理学論にも無い。そこで逆向きに、原子から解き放たれた『自由電子』が流れると解説されるのが現在の科学論常識となっている。『電流』とは『電子』の逆流だと。しかし、『電子』が電線の中を流れると本当に物理学者は考えているのだろうか。それはどうも何も考えないで、過去からの解釈論を踏襲しているだけにしか思えない。『電荷』とはどの様なものと解釈しているかを自己問答もしない。過去の法則と先達の教えを謙虚に、専門家として、踏襲して守っているだけに思える。それは自然現象について何も疑問を抱かないという事か。疑問を抱かない人が自然を理解するなどできない筈だ。物理学理論を、その深い意味を理解しようと思えば必ず疑問が沸く筈だ。その疑問があって初めて学問が始まると思う。身近な教育する教科書の理論を紐解けば、疑問が必ず起こる筈だ。『大学の物理教育』と言う発行誌を見させていただく。しかし、その内容を読み解いても、物理学の未来への危機感があるとは少しも思えない。

電荷も磁束も自然界には無い。
自然界には『電荷』も『磁束』も何もないのだ。無い物で科学理論が構築されているのだ。不思議な人の世の現象である。その意味を御理解されるならもっと新しい道を模索する姿があってよいかと期待したいのだ。電線金属内を『電子』が流れる等と言う物理学理論の解釈論は論理性を基本に据える科学論とは言えない。電気回路で、『エネルギー』が光速度で負荷に伝送される現象を先ず理解する必要がある。『電子』がどの様に『エネルギー』を伝送する機能を持ち得るかを考えなければならない筈だ。『電子』ではその役目は果たせないのだ。それは自然界に『エネルギー』は有っても『電子』など無いからだ。

光の振動数とは何かにも答えられない。

そんな事が物理学理論の教育で説明できなくて、なんで子供達に「考えることの大切さ」を説けるのか。何が振動しているというのか。疑問を抱かないのだろうか。光は何も振動などしていない。ただ『エネルギー』の縦波が光速度で伝播するだけである。空間に実在する『エネルギー』を認識することから始める処にしか物理学の未来はないだろう。

自然と言う世界

(2021/03/28) 追記。下記の記事で、光と視界認識の機能について述べた。眼球構造とその機能は生活環境、即ち水中か地上かによって多少は異なるだろう。しかし人だけでなく他の動物、馬や牛あるいは鯨や蛸など目の機能はほとんど同じ筈だ。全ての生体の殆どの眼球の構造は同じで、黄斑円孔が視神経となって、何処かで繋がっている筈と思う。牛や馬の眼球の解剖により、その視覚機能が分かれば、人も同じ機能と構造と解釈して良かろう。こんなところに科学理論の少しでも専門的な研究対象を広げた、より自然に寄り添う哲学的広がりによって、真の自然感に因る科学論が展開できるのではと思う。

(2021/03/22)。こんな素晴らしい不可解。それは光の世界。

上の眼球の図はーカラーでみせるやさしい解剖(南江堂)ーの絵図を写させてもらった。眼球の光ファイバーと色覚 (2010/11/28) のブログのはじめの頃の記事に関わる。その記事は改めて科学理論の常識に大きな衝撃を受けて書いたものだ。筆者のような医学の素人が、眼科学会の専門家の科学論に反論するなど正気の人間のすることではない。改めて、現在の『電子』否定の確信からの、科学理論全体への疑念をどう伝えればと悩みの中に在る。専門家はそれぞれの科学業界理論の中で、論議はするが、筆者のような素人の論は無視されて、反論もされない。眼球構造で、網膜に視界の像が結ばれるとの解説が眼科のお医者さんのお部屋には掲示されていると思う。上の図で、網膜は硝子体膜と脈絡膜の間の厚い部分であると示されている。水晶体のレンズなどで、光が屈折して網膜に像を結ぶと本当に解釈しているのかと思えば、原子力発電所の危険な科学技術程ではないとしても、みんなに考えて欲しい科学理論の現実として提起せずにはいられない。網膜全面に亘ってどのような光検知の細胞が、しかも色覚の基となる光の空間エネルギー分布波迄検知できる細胞機能が備わっているなど理解できない。光の物理的空間像が物理学理論で認識されていないことが全ての科学理論の曖昧さに関係している原点である。プランクの定数の次元が [Js] である意味をどの様な物理的概念として理解しているかが問題と思う。今日もある新聞ニュースレターの記事に、『老害』と言う言葉が使われて‥とあり、筆者の様なものも『老害』には成りたくないが、しかし・・。自然の中に現れる千変万化の不思議は、科学論で示そうとすれば、その純粋な自然の心に沿う思いが基に無ければ、観えないように思う。光が網膜に視界の像を結ぶという科学常識は間違っている。硝子体管は光ファイバーである。

心 ホウズキに遊ぶ (2021/03/14)。で、「木瓜(ボケ)の真赤な花が咲く こんな素晴らしい不可解 風景の意味でも極めんと」と訳の分からないことを綴った。

念頭に光の不思議を思い描いての事である。

真赤な花弁は木瓜だけではない。

なぜ花弁が赤いか?と己に問うてもその訳を説明できない。決して花弁が赤いという色の光がある訳ではない。光に色はない。光の本性を考えれば、それは空間に分布した『エネルギー』の縦波でしかない。だから色など光には無いのだ。光の空間構造が赤い色を本質的に備えている訳ではない。その意味を分かって頂けると思うが、如何でしょう。光を振動数で捉える習慣の理論物理学の専門家には異論があるかも知れない。しかし光の『振動数』と言う概念は誠に意味の分からない概念に思える。何かが振動している状態と解釈するとすれば、それは何が横向きに振動するものかの何かを示さなければならない。電界とか磁界とかが横に振動する訳がない。マックスウエル電磁場方程式の信奉パラダイムにおられる専門家には承服しがたいことと推測する。しかし、光に色彩の差を示す性質はない。それは自然が人との間の心のつながりを演出した結果と思えばよい事であろう。それ以外特別な物理的本質などない。同じ光が花弁に当たれば、その花弁の表面の空間構造(あるいはその内部に侵入して)、に対して屈折して波長(エネルギー分布の空間構造)に変化を生む。そのエネルギー分布の縦波の構造にその花弁の特徴が現れるからと解釈する。光は何も振動などしていない。光は単にエネルギーの空間分布波形の縦波でしかない。その単純性が光の基本特性だ。だから光は無限の変化で人に計り知れない複雑な世界の印象を与え得るのだ。

物が見え、風景が見える。

それはすべて光と目の関りに因っている。先ず、光が空間に展開される訳だから、その本質は光の空間像を認識することから始めなければならない筈だ。光の振動数とはどの様な意味かを理解しなければ『振動数』と言う物理概念が余りにも曖昧なまま使われてしまう。それは科学理論の基本である論理性を無視した科学論に成ってしまう。自然の基本は極めて単純なのである。風景や物を見て認識できる訳は光が決して曲がらない。その意味は極めて日常生活の中の単純な事にある。真っすぐ光は進むから風景が見える。光が曲がったら風景や物の像など見えない。そんな単純な意味を感覚的に意識する事しか、自然の世界と分かり合える道は無いと。

眼球の機能で全く分からない事の一つ。視神経と黄斑の繫がりがある筈だ。その解剖的構造が知りたい。

科学理論に危機感を!

科学技術の驚異的な進展社会に生きている。それはまた、自然を人の思惑でその環境を作り替える事に成る。どれだけ過去に科学技術の過剰な適応によって過ちを犯してきたか。今は、全世界的な科学技術による経済競争と言う坩堝の中に嵌まり込んで、自然が破壊され、地球の命の輝きが消え失せようとしている。海の温度が高まれば、魚貝類の生存領域が狭まる。結局人の自然による恩恵が失われ、人の生存が出来なくなる。そんなことさえ考えない、論理矛盾の経済競争が繰り広げられる。必ず全ての人に、一本の木を育てる義務を課さなければ、酸素も水も貧弱な環境に生きなければならなくなる。町の中に、住宅の傍に、大きな葉を広げた、桐の木さえ何処にも見掛けなくなってしまった。哲学を忘れた専門家の世界になったからだ。

(2021/04/07) 追記。

以下の記事がすべて削除された。

今足元の生活を思えば、空恐ろしい不安に駆られる。全く身の周りの環境の科学技術の現状を理解できない自分を観るから。

 生命に関わる、生物・生化学、医学生理学などの基本の基の字も理解できていない自分を分からない。高校生の学習する教科の理科の中でも、「生物」となると全く解説の意味が頭に入らない。DNAや細胞の中の機能など恐ろしい程無知である。世界は『クローン人間』の怪しさにも科学技術の可能性が重なる恐怖に、成す術もない自分を知る。分かる、分からないのレベルをはるかに超えた世界、宇宙を遊泳するに等しい現実離れの中に居る恐ろしさ。

 人は体温がどの様な細胞の機能によって保たれているのか?体温中枢の働きに因ってと言われても、体温の仕組みさえ理解できないのだ。ヘモグロビンが呼吸による『酸素』を体に運び、生命維持の機能を果たしていると言われても、何処でどのように『酸素』が使われて生きていられるかも分からないのだ。高度の細胞内の生化学と比べれば、余りにも基本の話の筈と思う内容で、日常生活の基礎の内容と思う。こんな命の話の基礎への不安、無知の我が身である。

 科学技術と科学基礎理論。

 DNAの細胞編製技術の壁に対して、電気回路の中に解かれる『電子論』の嘘が罷り通っている現状をどの様に捉えればよいかと、危機感が募る。

 命の水を心に載せて!

 『水』は酸素と水素の原子結合分子だ。と解説される。教科書で、学校教育によって教えられている。酸素も水素も電子が核の周りを回っている原子だと教科書にある。みんなそう理解している筈だ。そんなことが本当な筈はない。教科書が嘘を書いている。自然界には決して『電子』など存在し得ない事だけは間違いない。水の分子が酸素一つと水素二つの結合から成っているらしい。電子が核の周りを回っているなら、どの様な空間構造で、回転する電子が水分子を構成し得ると理解できるのか。120度の空間角度で水素が酸素に結合するとも言われる。回転する電子がどの様にそんな空間構造構成の力を発揮できると考えられるのか。皆そんな訳を説明できるのか。

 水の妖精七変化 (2017/11/02) 。この記事で水への疑問や思いを記した。水分子の構造を周回電子で解釈することは無理である。全ての分子がそれぞれの空間的な構造体をなす。原子の周りを結合を担う『電子』なる粒子が回転していて、一定の方向性を持った構造体を構成できる論理性等どこにも無い筈だ。周回電子なる仮想概念で、原子結合論を論じるなどできない。科学パラダイムは狭い科学論者の理論の寄せ集めとして教科書に纏められているだけだ。専門家は決して狭い他の専門領域に口を挟まないし、異論を唱えたりはしない。電力制御技術者が決して原子構造論など論じない。『電荷』否定論など決して唱えない。そんなことをするのは余程の愚か者である。気が狂ったと専門業界から排斥される。水の分子構造が分からないなどとは決して言わない。電気回路の専門家は、その専門家同士の積み上げてきた科学論の中での共通に理解し合える内容のパラダイムでその集団の力を高め、結合力で社会的、経済的利益を得る為の共通の目的に邁進する。

 専門家の理論。それは極めて保守的に伝統の維持に働く。だから曖昧な真の基礎概念など誰も研究対象にしない。『電子』は役立たなくても、専門家集団の理論の安泰の為には異論など挟まない。哲学など経済的所得に役立たないだけでなく、社会的の技術家・専門家集団から葬り去られる。

 科学者に欲しい哲学。空間に存在する『エネルギー』を認識してほしい。それは感覚的に自然との心の関係によって得られるもののように思う。薬缶(ヤカン)で湯を沸かす。沸騰する水を見つめる。水面に到達して、大きく膨張した気泡。水面から沸騰して飛び出す水蒸気。直ぐに消えて見失う。水の姿と熱エネルギーを沸騰現象にどのように解釈するか。『エネルギー』が分かりますか。心に描けますか。物理学理論には無いでしょう。水の膨張と水分子に関するアボガドロ定数の意味は?気体分子運動論?

以上が削除された。恐ろしや!!

ヘモグロビンは何処へ行く

(2021/02/21)。

酸素は燃焼に必要不可欠の元素と教えられた。『エネルギー』発生の基に在る。呼吸が困難になると死が待っているかも知れない。身体も燃焼で『エネルギー』を発生しないと機能を失うと理解している。それも死につながる。

ヘモグロビンが酸素の運搬に重要な役目を持っていると教えて頂いた。ヘモグロビンは酸素を持って何処へ運ぶか、その事迄は知らない。アデノシン三リン酸がどうのこうのと御解説がある。ヘモグロビンは炭酸ガスも肺に運ぶのではないのか?不要になった尿素も酸素による分解で発生するのではないか。

細胞の寿命も決まっていて、新陳代謝によって分解と生成の繰返しに酸素が重要な機能を果たしていると素人感覚で感じる。

ヘモグロビンは何処で仕事をしているのか、その御蔭で生きていられるのだから、そんな日常生活の基本位は基礎知識として知りたい。どうか科学者の皆さんにお願いです。教えてください、ヘモグロビンは何処でどのような役目を果たしているのか。生命活動に必要な『エネルギー』はどの様な酸素の燃焼機能で作られているのか。

 

『エネルギー』一筋の道

(2021/02/24)。

1986(昭和61)年10月1日。『電荷』否定の起点。

1987年8月5日。電流棄却の旅立ち。

1988年8月。人生の断崖に途方に暮れて最後の研究論文投稿に賭ける。社会的組織との不調和。

そんなことを振り返りたくなる今の心境。昭和の時代から、世間の渡り方を知らずに、愚直に一つの『エネルギー』に惚れ、よくぞここ迄生きて来たかと自分を褒めたい。

自然の多様性は純粋に因って生まれた。自然こそ神の仕業か。電気理論が難しい訳。それは人間の難しさが創ったものだから。自然の純粋さに心が感応し難いからかも知れない。純粋さなど何の得にもならないから。光が空間のエネルギー分布の縦波である事を認識できるかに電気理論の意味の理解が掛かっているのかも知れない。

『エネルギー』の実像を求めて!利益につながらない学問は、経済的・精神的・社会的孤立で、自由に羽ばたけないと言う処に『学問の自由』の難しさがあるのかも知れない。

『エネルギー』一つに思いを込めた電気磁気現象の認識を述べたい。空間に展開する電磁気現象を論じようとすれば、そこには電界と磁界の概念が必要になる。その基礎概念である電界や磁界の物理的意味を深く掘り下げて考えた結果、それも人間が創り出した解釈理論の為の概念でしかなかったことに行き着いた。

『エネルギー』にもその在り様はさまざまである。それは物に入り込めば、温度の上昇として認識される。電気回路要素なら、電熱器の抵抗体に現れる姿だ。物の煮炊きの熱現象に成る。全て『エネルギー』の形だ。それを電気理論の電界と磁界との関りで見れば、上の図のように解釈できよう。空間を自由に流れるとき、その『エネルギー』を光と言う。少し伝送空間を制限された状態が、電気回路の電気エネルギーに成る。

少し理論的に解釈しようとすれば、電界と磁界でのその『エネルギー』の捉え方に成る。空間を伝播する『エネルギー』だから、空間の意味を解釈に取り入れなければならない。少なくても二つの解釈基準が必要だ。それが誘電率と透磁率に成る。その空間認識基準として直交したベクトル誘電率εo[F/m]とベクトル透磁率μo[H/m]を決めたい。それは電気回路であれば、回路定数の容量C[F/m]および誘導L[H/m]に通じるものである。

単位空間1[㎥]当たりの『エネルギー』の密度を w[J/㎥]とすれば、電界強度ベクトルE[V/m]は誘電率によって解釈することが出来る。磁界強度ベクトルH[A/m]も同じく、透磁率によって定義できる。

電界も磁界も基本的には同じ『エネルギー』の観方を変えた解釈概念と見做せる。だから、電界あるいは磁界が空間に独立に単独で存在することは有り得ないのだ。どちらも同じ『エネルギー』の観方を変えた解釈概念でしかないのだ。光の空間を伝播する『エネルギー』の姿を電界と磁界に分けて解釈するが、それも科学技術と言う見方での手法の故でしかないのだ。有名な「マックスウエルの電磁場方程式」も、具体的なパラボラアンテナの表面近くにその電界と磁界を描いてみれば、電界と磁界での解釈が矛盾であることが分かる筈だ。描けない筈だから。『エネルギー』の縦波としてしか表現できない筈だ。

冒頭の1986年10月1日『電荷』否定の起点ー『静電界は磁界を伴う』ー。そこに思いを馳せながら、その基礎論とする。

2020年まとめ[4]自然と災害と哲学

(1/23)  無為自然

(3/18)  クロッカスと太陽

(3/27) 津波とその速度

(3/29) 津波とそのエネルギー

(5/7) 巡る季節の花

(5/10) 自然と科学理論の懸け橋はいずこに

(5/14) 度胸と可憐さ

(5/15) The electron did not exist in the world.

(5/22) エネルギーの虹

(7/4) 分かるという事

(8/14) 観自在菩薩

(9/9) 信濃川

(11/13) 植物二題

(11/18) お日様と日向ぼっこ

(12/16) 山が呼ぶ 謎が囁く

(12/25) 自然は『エネルギー』の象形

 

懐中電灯の特性

(2021/01/18)。懐中電灯

右は少しクラシックの高級懐中電灯だ。電源は単一乾電池4個直列に成っている。白熱豆電球が負荷だ。

 

 

電池の放電特性。

右は単一型乾電池のある会社の放電特性の試験結果だ。乾電池と花一匁 (2021/01/13)のデータの意味が不思議で再び取り上げた。放電条件で、電池容量が大きく異なる結果を示す理由が分からない。

実際の懐中電灯がどの様なものかを調べてみたいと思った。懐中電灯の電気回路現象はオームの法則で誰もがよく知っている。しかし、それは回路に電流が流れるという科学技術概念に因った理解だ。電線に『電流』や『電子』が流れていないとの認識に立てば、そう簡単に分かったとは言えない。懐中電灯回路の日常に有り触れた製品でも、科学技術的解釈理論とその中の自然現象の本質とは違う。本当の物理現象は『電流』や『電圧』と言う科学技術概念ではその真相は分からない。自然現象の本質を理解するには『エネルギー』の流れで捉えなければいけない。それは既に教科書の解説理論と異なる内容になる。教科書は『エネルギー』の流れと言う認識では解説されていない。最近分かったと思ってまとめた記事がある。エネルギー流が電圧・電流 (2020/10/01)。その末尾に、【実験的課題】α<1の時。として疑問を残しておいた。今回その点で新たな認識に至った。 

実際の負荷条件は殆どα<1の場合である事に気付いた。その為、右の図を修正しなければならなくなった。ビニル絶縁電線が屋外配電線路並びに屋内配線のFコード等として使われている。その特性インピーダンスZoの値が500Ωに近いように思う。ビニル絶縁体の比誘電率が2~2.8程度となればそんな値に近いかと思う。乾電池の回路での配線は普通往復の単線回路だ。冒頭に示した製品の内部を見た。そこに観える回路には何か電気技術感覚の優れた直感からの誇りが隠されているように思えた。電気回路の回路定数はその電線路の空間構造によって決まる。分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) に算定式をまとめた。

ここには電線は使われていない。金属導体板で回路が構成されている。直流回路の導線がどの様な意味を持っているかが示されているように思えた。この回路構造で、導体が平板で伝送空間が広く、電線より回路容量 C[F/m] が大きくなり、その為『エネルギー』の伝送容量の増加が見込まれる。以前平板コンデンサ配線回路等と言う記事を書いたこと思い出した。今はもう懐中電灯は新技術やらで、LEDが使われこのような電気現象の原理を考える古き良きものが消えてしまった。ブラウン管テレビが消えたように。

回路構成。

ランプ定格。4.8V,0.5Aと豆電球に記されている。電源電圧を計ると無負荷時 6.4[V] ある。ランプ抵抗は 0.9[Ω]のテスターでの測定結果を示す。ランプ負荷時はフィラメントが高熱になって抵抗が 9.6[Ω]程度に成る。それは500Ωに比べればとても小さい抵抗値だ。負荷は定格容量 P=2.4[W]以上 となろう。

回路現象解釈。

(教科書)。教科書では、当然のごとく、『オームの法則』で解く。電源電圧V=4.8[V] 、抵抗R=9.6[Ω]なら、電流I= o.5[A] と『電流』が求まる。それだけで、負荷電力も直ちに計算できる。科学技術論としてはそれで充分で、それ以上の事は考える必要もない。直流回路では、電気回路の回路定数は考慮しない。実際には特性インピーダンス Zo[Ω]が負荷抵抗R[Ω]との関係で重要な意味を持っている。

(自然現象)。『電流』と言う貴重な科学技術概念の御蔭で、すべてが数式での論理性を持って解析でき、すべて教科書によって理解できる。この科学技術以上の事は世界の電気理論には取り上げられていない。ほぼ『電子』が『電流』と逆向きに電線の中を流れるとの解釈で専門的論理が完結している。そこには負荷にどのように『エネルギー』が電源から伝送され、消費されるかの意味が不明のままである。この単純な懐中電灯の電気回路で、『エネルギー』がどのように振舞うかをまとめた。

(1)α=1の場合。

δp1(α=1の時の伝送エネルギー)を回路整合時の基準値と定義する。負荷抵抗がR=Zoの場合は、電線路伝送の『エネルギー』の分布量δp[J/m]がそのまま負荷に供給され、負荷反射なども起きない。この状態を回路動作の基準と定義し、その値をδp=δp1とする。

(2) α<1の場合。

この場合が通常の回路状態と考えられる。負荷抵抗値Rが回路特性インピーダンスZoより小さい場合である。この1より小さいαの場合が通常の負荷状態であると気付くのに時間が掛かった。オームの法則での解釈と異なる、『エネルギー』流によってどのように認識するかの決断にも時間が掛かった。すべて実験で確認できる内容ではない。従って『エネルギー』と言う物理量がどの様な特性を持っているかを己の感覚に照らし合わせて、決断をしなければならない。これは科学論とは言えないかも知れない。

決断点。『電圧』は電線間のエネルギーギャップ δg[J/m]の技術概念である。そして自然界には決して『電荷』は実在しないという強い確信がその決断の原点となった。その事を纏めれば、電池のプラス側の電線近傍にエネルギー分布のδo[J/m]の滞留分を付け加えるしかないと判断した。その『エネルギー』は負荷への流れには関わらない。反射でもない。その分が負荷増分の『エネルギー』となり、マイナス側を伝送する増加『エネルギー』流となる。

    伝送エネルギー δp = δp1+δo [J/m]

    線路電圧    v=  (δg/C)^1/2^ ={(δp-δo)/C}^1/2^ [V]

 電流      I= ( δp/L)^1/2^ [A]

 電力      P= VI = δp/(LC)^1/2^ = (1/α)δp1/(LC)^1/2^ [W]

となる。以上が決断内容である。

(3)α>1の場合。

消費『エネルギー』が微弱の場合は、電源電圧保持『エネルギー』より少ない伝送『エネルギー』で十分である。負荷が要求する電力P[W]に対する伝送『エネルギー』分δp[J/m] では電圧保持には不足である。そこに流れない滞留『エネルギー』分布δo[J/m]が生じる事に成る。

  伝送『エネルギー』 δp=αP(LC)^1/2^ [J/m]

  電圧         v={(δp+δo)/C}^1/2^ [V]

電池放電特性。冒頭に掲げた放電条件で電池の『エネルギー』量が異なる訳が分かったとは言えないが、負荷が重くなるとプラス側導体周辺の滞留『エネルギー』が増加する。そのプラス側の分は負荷によって増加するから、その分の外部への放射損失が増えると考えたい。

直流回路の電気現象について。教育とオームの法則 (2020/09/06) で指摘した。その疑問の一部について、漸く満足の出来る『エネルギー』による解釈に到達できた。この自然現象を理解するのも、一般の方には難しいかも知れない。しかし、『電子』と言う科学常識論が誤りである事だけは間違いない。これからの理科教育と言う面で、とても大きな課題がある事を明らかにできた。それはみんなが『学問の自由』と教育いう意味を考える課題でもあると思う。

 

危険運転に動転

危険な自動車運転。昨日、買い物で店の駐車場に停車しようと『ブレーキ』を踏んだ。しかし突然加速した。危なかったが運よく停止して無事に済んだ。

『ブレーキとアクセルの踏み間違え』と言う事故に成る寸前であった。

少し気が緩んでいたかも知れない、履物に『ゴム長靴』を使用していた。

足は確かに【ブレーキ】も踏んでいた。しかし同時に【アクセルペダル】にも掛かっていたようだ。もし【ブレーキ】を踏んでいなかったら車は止まらず事故となっていた筈だ。心臓が止まる思いをし、昨日は一日気が委縮して正常でなかった。

【ブレーキ】と【アクセル】のペダルについて。

【ブレーキ】のペダルは大きくて安全に効果的と思う。【アクセル】のペダルも小さくて安全性が考慮されて居て良いと思う。しかし今回の経験を振り返って、思うことが一つある。

【アクセル】ペダルは自動車走行と言う危険につながる状態に踏むものだ。もっと小さくても良いかと思う。

【ブレーキ】ペダルは、停止する意識で踏むから、突然意識と逆に加速したら完全にパニックになる。慌てて、止めようと意識して更に強く踏む可能性が有る。その結果【アクセル】ペダルに少しでも足が掛かっていたら、止まらずに事故となる。

【アクセルとブレーキの踏み間違え】と言う多くの事故がある。普通なら車を停止しようとする時、足は今までの位置から左側に移動して、必ず【ブレーキ】ペダルを踏む筈だ。停止しようと考えた時、今まで走行運転していた足を【ブレーキ】ペダル側に移動しないで、そのまま【アクセル】ペダルを強く踏むとは考えられない。

【踏み間違え】と言う事故は【ブレーキ】と【アクセル】のペダルの位置間隔 “D” をもっと大きく離すことで幾らか防げるように思う。恐ろしい経験から【ブレーキ】の踏み方を反省し、気を付けようと思いつつ感じた。

ペルチエ効果と熱エネルギー

(2020/11/19) ペルチエ効果。

ペルチエ効果を使う熱電素子の構造は図の(1)のような説明で示される。N型半導体とP型半導体を銅などの板で組み合わせて構成される。そこに電圧を加えると、吸熱面と放熱面が生まれる。吸熱面の空気から熱エネルギーが金属板に吸収される。その作用を使って除湿器が造られる。空気からと言うのはその水蒸気が保有する熱エネルギーを吸収することだ。水蒸気は熱エネルギーで水が体積膨張した状態である。吸熱面で熱エネルギーが奪われれば、水蒸気は体積収縮して水になる。それが除湿機の機能原理だ。それはペルチエ効果の説明のように実際の技術として機能している。しかし、何故n型半導体‐銅‐p型半導体の方向に電圧を掛けると銅で吸熱現象が起きるかの原理が理解できない。そこで、(2)図のように、n型半導体を銅版で挟んで電圧を掛けても、吸熱と放熱が起きるのか?予測では、実験すれば吸熱、放熱は起きる筈だ。起きなければ、原理の意味が成り立たない。これはn型でもp型でも同じ筈だ。p型では吸熱、放熱の反応極性が逆にはなるが。

除湿機能と降雨現象。空気中の水蒸気から熱エネルギーを奪えば、水蒸気は水に成って、体積収縮を起こす。気象で地上の低気圧も、上層気流の冷気で地上からの水蒸気が体積収縮を起こすから、空気の水蒸気が上空に吸い上げられ、その結果低気圧となる。水蒸気の熱が上層気流に奪われ、水蒸気が体積収縮を起こす結果、雨となって降り注ぐ。除湿器の機能も自然現象としてみれば、降雨現象と同じものである。その吸熱現象がペルチエ効果ではどのような原理で起きるかの問題と考える。電気回路現象は電子が主役を演じる解釈理論となっている。電子がどのような役割を担っているかを詳らかにするのが科学論の目的だ。降雨現象には電子は不向きだ。その違いの訳が説明できるか?という設問となる。この上層空気がより冷気が強ければ、遂には氷となり雪になる。地上と上空の温度差が急激に大きくなれば、熱エネルギーが空間のチリなどに蓄積され、その熱放射、熱爆発の「雷」となる-雷は熱爆発 (2014/05/23) -。

思考回路。

ペルチエ効果の意味を考えてみよう。図(3)はダイオードに電圧を逆方向に掛けた。これでは回路は on 出来ないから、off である。図(4)はn型とp型の間に銅板を挟んだ。この構造はペルチエ素子の構造と同じだ。原理から考えれば、やはり吸熱と放熱現象が起きる筈だ。銅板を挟むとダイオードのoff機能は消えてonするという意味になる。この構造でもペルチエ効果が表れる訳を説明できなければならない。さてどう解釈するか?

電子と熱電効果の原理。

電源は決して電子を回路内を循環させる訳ではない。現在も、電子が主役の量子力学が半導体動作原理の解釈理論となっている。もし、電子が電気回路の機能を担うとすれば、電子が電流の逆向きに流れると解釈する限り、無理して『電荷』がその役割を担うと考えざるを得ない筈だ。電子の『質量』では無かろう。しかし、『電荷』が電気回路内を循環する具体的役割を、誰をも納得させるだけの論理性で示し得ないだろう。電子が『エネルギー』の伝送に役割を果たし得るか?電子が『エネルギー』を電源の負側からどのような状態で電気回路に運び出すのか?The electron did not exist in the world. (2020/05/15) 。にも述べた。電子の電荷と質量の空間像が定義できなければ、電子の熱エネルギーに対する機能も述べられない筈だ。電源は、電圧をその規定する値にするため、その繋がる回路の回路定数に対する『エネルギー』の放出源なのである。放出電子の数を調整する機能など電源には無い。電源は電子など制御対象にできないし、無用である。

電源と熱エネルギー。

電源は負側の電極電線路近傍空間を通して『エネルギー』を放出する。この電気エネルギーと熱エネルギーに違いがある訳ではないのだ。熱エネルギーは輻射熱として放出される。所謂赤外線と言う分類の光と見做せよう。可視光線に比べて、何か速度が鈍いような長波長成分と言う物のように感覚的に感じる。しかし電力波と比べれば波長は光に近い筈だが、衣服等に吸収された熱量値しての状況は何か粘性の強いエネルギーに思える。その熱が高密度に貯蔵されれば、遂にはより作用性の強い放射光となる。熱電現象は電気エネルギーと熱エネルギーの間の相互作用の変換現象と解釈する。とは言っても電気エネルギーと熱エネルギーは基本的に空間に実在する同じ『エネルギー』であることに変わりはなく、電池から電線路を通して負荷抵抗の空間構造に閉じ込められれば熱と言う人の解釈になる。

半導体の不思議。

トランジスタのスイッチング機能は技術の結晶に思える。しかしそのコレクタ側はダイオードの逆極性導通としか見えない。そこは吸熱特性を呈する。ダイオード電圧 (2020/08/26)。