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Yoshihira KANAZAWA について

金澤 喜平。昭和20年4月、京都府舞鶴市の溝尻海軍住宅(戸籍は舞鶴鎮守府所管 巡洋艦:香取丸?)に住んで居た。舞鶴国民学校に4月、7歳で入学したが、入学者名簿には残っていないと回答を得た。新潟教育委員会での採用事務手続きが一切なし?

❓不可解❓

(2023/05/29).

不可解の文字を書いてみた。特徴のある、魅力的な字形だ。不可解と言う言葉の意味も、自分と重ねて考え込んでしまう。何故こんな大事な事にも気付かないで、人生を棒に振るようなことになってしまったのかと。
 
 気付けば、長い人生の間選挙の投票の権利が無かった。 新潟県中魚沼郡貝野村で生れた。成人になったのは予備校で悪い頭を鍛えさせて頂いた時、1959年(東京都練馬区江古田に下宿時)だ。翌1960(昭和35)年に新潟大学に入学(?)させて頂いた時から年1987(昭和62)年まで新潟県新潟市と長岡市に住まわせてもらった。その間、選挙の投票入場券を頂いていなかった。

 もう間もなく人生も終りの近い時だ。「私は偽者か」の記事を前に書いた。Find more information here (2019/10/18) 。

 考えれば考える程、人生の意味を書けないのか?職歴も書けない身分だったと確信できる。住民登録されていないから、憲法の人権の意味を保障される『選挙投票権が無かった』と言う事実は❓

 歌でも笑われる『あの鐘を鳴らすのは誰だ』と町内会の小型消防車が朝、鐘を鳴らし乍ら前を通る。

 最近で、今月の27日土曜日の朝、10時30分頃にまた轟音を浴びせる様なヘリコプター。何処かで暗黙の合図の意味だ。今日はまた、朝の花火の打ち上げ音が始まった。

 それにしても現代物理学理論の矛盾が置き去りにされ続ける現状は、そして自然界に存在もしない『電子』の矛盾が子供達に教育され続ける現状を放置して良いものか❓

 偽者扱いのままに過行く、その続きの、人権侵害状態だ。研究室もなく、文部省の共済組合にも加入資格が無かった筈だ。住民登録が無いままだから。

 健康保険証は身分証明書か (2017/02/15)。

 戦後75年間の不可解? (2020/06/23)。

 憲法と身分(新潟大学生の身分と選挙権) (2023/04/19)。

 憲法第十条:日本国民たる要件と労働基準法 (2023/04/24)。

 憲法と自分の社会的役割❓ (2023/05/03)。
 
 教育の政治的中立性と中曽根臨教審 (2023/05/19)。

血液とエネルギー流

(2023/05/20).

 疑問と格闘。自分が不図気になる事柄、それが疑問だ。理解しようと検索して調べる。しかし、素人の自分には、その解説が理解できない。理解出来ないということは、自分の能力が無いからだと覚悟すれば、その検索内容の解説を学習すれば済むことだ。

 しかし、どうも素直に解説を信じられない事が多い。だから、疑問と格闘となる。取り留めもなく迷い道に分け入ることになる。

 そんな時、https://hokakebune.blog/2022/06/02/赤血球が謎運ぶ/ と素人の疑問の記事投稿となる。そこには、医学生理学分野の門外漢ではあるが、電気回路現象からの共通な自然科学の基礎的な感覚的認識からの解釈に基づいた、大切な意見も含まれる筈だ。自然現象の全体像が、あらゆる科学論には共通な根底に在るだろうと言う認識からのものだ。

 例えば、Wikipedia の赤血球の解説には、1日に2000億個生まれ、120日間に20~30万回体を循環して、酸素を運ぶとある。それは約10分間に1回血液が循環するような計算になるということか?別の記事には、血液循環速度は?と検索すると、25秒から50秒で1回循環すると言う解説もあるようだ。それは血液が心臓から出て、心臓に戻るまでの時間のことかも知れないが本当か?と思う。余り、経済的な競争を伴わない研究分野は研究対象から取り残されているようだ。赤血球がどの様な生理学的機能を持っているかは、病気の治療等にも余り関わりないから研究対象に成らないのか?と。それはまた別の問題であろう・・。

 血液とエネルギー流」の標題にした。電気回路現象は電線路空間を流れるエネルギーの伝送現象がその本質的物理現象である。しかし生理学の身体活動では、血液が生命保持の最も基本的な、しかも平易な意味での重要な機能を担っていると考える。細胞への栄養素供給、酸素供給、白血球など免疫系の機能など、多くの生命保持機能がその担う基本であろう。しかし、物理学で認識されていない懸念が、『エネルギー』と言う空間の物理量にある。そのエネルギーと言う物理量が空間に満ちている、その物理的認識が欠けているのが、現代科学論の矛盾論の基本にある。身体の全体に満ち溢れているのが、やはりエネルギーなのだ。こんな論は科学理論の対象に成らない傾向がある。それは科学的実験による証明が示せない点である。光は本質的に無色だ。等と言う論も科学論としては余り意味を成さないだろうから。光が無色の空間エネルギー分布波の縦波だと言う論も、科学的手法には成って居ないから科学論として取り上げられないかも知れないから。

 しかし、『体温』がどの様な物理的現象の結果に因るか?と尋ねても殆ど、的確な回答が得られないように思う。学説はある様だが、それは余り理屈、論理性のないものに思え、信じるに価値が無いと思う。

 すべての生物は、その命の保全が基本的機能と成って居よう。外界の危険から保護するには、その外界情報を先ず確実に認識する事であろう。それはどの様な仕組みか?電気回路の信号は電線路の空間を流れるエネルギーである。決して『電子』などは矛盾の物理学概念である。身体の神経伝達経路は決して電線路のような二本の導体で挟まれた空間は無いから、何処を何が神経情報として伝送されるか?である。

 決して、伝送信号として分子体などを考えるとしたら、それは信号伝達速度が遅く、瞬時の危険信号の伝送には不可能である。残るものは、眼球の硝子体管の光伝送現象と同じく、神経細胞のファイバー状の索が光ファイバー伝送空間と同じ機能を担った空間構造体と成っている筈だ。その神経信号は当然電気信号と同じ、エネルギー空間密度分布波である筈だ。その信号源が、体温の全身に分布した『エネルギー』の筈だ。そこに、赤血球の重要な機能が有ると考える。体温と言うエネルギー分布に対して。

 こんな医学生理学に関する知識のない素人の生理学的解釈が、市民的科学論ではないかと思う。専門家は狭い分野に特化した対象がその研究主題となる。それは、広く子供達への教育に迄、科学的基礎理論の統合した意味の研究はされない傾向となる。

 教育において、『参照基準』などの伝統的解釈理論に縛られた弊害を専門家が創り出す危険もある。

教育の政治的中立性と中曽根臨教審

(2023/05/19).

過去を振り返れば、己の愚かさだけが浮かび来る。
社会の仕組みを何も知らなかった。長岡技術科学大学で、給与明細書を一度も頂かなかった。教官会議にも、要請もなく一度も出席した事が無かった。ただ一度勝手に、昭和63年夏、電気系の教授会に顔を出して顰蹙を買った?人事の不可解に??

さて、昭和60年3月、事件の発端が始まった。それが後で「中曽根臨時教育審議会」だったと知った。我が科学革命の道のり (2010/09/22) に古い記事がある。
長岡工業高等専門学校で2年間過ごした。今思いだした。教官会議が有ったことを。しかも、覚えているのは、昭和62年1月末の事。校長が、『心配は要らない、代議士に聞いた。』と発言したのを覚えている。今思えば、長岡に・・確か官房長官が‥❓それと3月の教官会議で、失礼ながら校長に「自分はどうなった?」と尋ねた。考えてみれば、2年間で、普通学期末には教官会議はあったのだろうが、一度も出席要請連絡は無かった。
中曽根臨教審とは何が目的だったのかと考えた。何か自分の排除目的に思える。

1980(昭和55)年に、長岡技術科学大学に転勤したと、愚かにも考えていた。1987(昭和62)年4月に選挙があった。しかしそれまで、選挙の投票権が無かった。一度も投票券など届かなかった。中曽根臨教審の事件で、自宅に長岡工業高等専門学校 校長からの教官会議への出席要請が郵便で送達された。その頃にどこかから、選挙の支援人名簿に名前を書くように頼まれたことがあったようだ。それも落とし穴だったと世間は恐ろしい。今でも、己の無知が笑われ続けているようで。結局、1988(昭和63)年末に、己の居場所もなく、死の危険を感じて、雲隠れした。長岡技術科学大学での研究は、研究室が無くて何が研究か❓と『静電界は磁界を伴う』の意味だけは将来の子供達への教育に生かさなければと、生き続けられればと覚悟した。己の愚かながら、社会的の貢献が過去からの有耶無耶の続きで出来なと覚悟している。共済組合(公立学校共済組合、文部省共済組合加入経歴)の存在の有無を家族にも示さなければ生きる道は無い。情報公開法に基づく請求が2021年から、未だに人として認められていない状況が続いている。過去の業績はどう認められるのか❓教育の政治的中立性とは何か?舞鶴鎮守府所管の戸籍転籍問題は❓

ただ、自然の神秘と科学理論の関係性を追究してきた。誤った科学理論が子供達の教育で教えられる事は、決して将来に良い訳はないから。その為に異常な生活の中で、漸く自然世界の真理に辿り着いたように思える。その一つの契機は、2015年の変圧器の奇想天外診断 (2015/06/03) であった。

家の台所での、この実験結果が電気回路での空間エネルギー伝播現象の確信になった。電線の被覆絶縁材料が、その誘電率が『電圧』の意味に響くということ。それは電線路の空間エネルギー伝送を決定的に証明する事実であると。

生活の経済的基盤が無いままか?

初期投稿記事₋光と電磁気₋

(2023/05/18).

物理学理論。それも多くの専門分野に分かれた理論から成り立っている。その中でも、電気磁気学は、その物理学理論の中でも際立って基礎概念としての重要な分野と成っている。

原子構造論、原子結合論、更に半導体導通現象のバンド理論、そこにおける『電荷』概念で『電子』などが重要な基礎概念と成っている。

その『電子』の電磁気学的現象は特に基礎理論と成っている。

『電圧』、『電流』また『電界』、『磁界』はその基本的概念用語と成っている。その用語の定義する物理的意味が明確に示されなければならない。しかし、『電圧』とは何か?と尋ねた時、どの様に解釈するだろうか。『電圧』には『電荷』がその論理的論拠概念と成っている。それが教科書の科学論の常識である。しかし自然世界には『電荷』など実在しないのだ。

その『電荷』概念否定の実験結果が『静電界は磁界を伴う』の最初の学会発表であった。その時点での不可解に塗れて・・❓途方に暮れて長い年月が過ぎた。

この辺で、この WordPress のお世話になりながら投稿してきた記事について、考えてみたい。

2010年からの記事で、磁界・磁気概念の本質 (2010/11/16) がある。それは、『静電界は磁界を伴う』のコンデンサ内の静電界内に実在する『磁界』の意味、その物理的意味を探る長い年月が必要だったのだ。『磁気』とは何か?決して磁束などの線束描像では解釈の論理性が示せない事であった。磁界とは、Axial energy flow のエネルギー流の空間であるのだ。コンデンサ内の『静電界』は同時に、エネルギーの流れている磁気空間なのだ。
その関係が、新世界への扉ーコンデンサの磁界ー (2011/02/20) に対する、磁界・磁気概念の本質 (2010/11/16)

電気磁気現象と切り離せないものに光の現象がある。
その関連記事に、波動論における振動数とは何か (2010/12/06) がある。更に、光の色彩に関する記事、眼球の光ファイバーと色覚 (2010/11/28) がる。

学問の自由と教育と公共の福祉

(2023/05/16),

学問の自由という意味はとても深い内容を含んでいる。教育との関係では、更に複雑になる様だ。

どうか皆様にもお考え頂きたい。自然科学理論を市民の理解できる易しいものに取り戻したくて。

公的機関で、教育をする場合、その指導内容は厳しく制限されているようだ。日本では「学習指導要領」と言う基準で、教育する内容が決められている。その指導内容を決めるのは、やはり専門家の解釈理論が基になって決まるのだろう。そこには自然科学論として正しいかどうかでなく、社会的科学常識として多くが認める内容に集約されたものになるように思える。専門家と言う社会的専門集団の解釈が支配する。

科学理論と専門家の統合的理論体系の構築への貢献性。学識経験者・有識者が社会的仕組みや科学論理を決めることになる。そこには自然科学の真理が保障されている訳ではない。専門家集団の論理が支配するのだ。今、科学理論で、物理学者が解釈するとき、決して『電荷』を否定するような自然世界の真理を唱える事は起きないだろう。

自然世界の真理は。社会の混乱を引き起こす可能性がある。『静電界には、磁界は存在しない』が現在の自然科学の世界的常識である。公共の福祉とはどの様な意味だろうか。公共とはどの様な意味だろうか。

そもそも、教育とは誰のために在るものだろうか。それは飽くまでも、教育を受ける子供達の為のものの筈だ。さて、教師が子供達を前にして、教える時、教科書の内容が間違っていると確信できた時にどのように教えれば良いか。教科書通りに間違いでも教えなければならないのか。それはどの様な過程を経て決まるべきか。少なくとも、電気回路で『電子』が導線内を流れる等と言う解釈は間違っているのだ。その間違いはどの様に、誰が社会の一般市民に伝えるのか。教育では、子供達にどのようにこの間違いを修正して、正しい意味を教えることになるのだろうか。

公共の福祉と学問の自由の問題だ。

日本国憲法 第三章 国民の権利及び義務 (第十条 ~ 第四十条)。

第二十三条 学問の自由は、これを保障する。

が簡潔に掲げられている。
しかし、この学問の自由と言う事は、いろいろの面でなかなか難しい問題を含んでいる。科学理論は長い過程を経て、科学者の研究の積み重ねによって、その総合的解釈の合意の基に共通した、間違いないとの認識の下で唱えられてきた。それが現在の物理学理論であり、科学理論全体の総合的解釈論と成っている。

誰も自然世界に、『電荷』が存在しない等とは唱えてこなかった。原子構造もプラス電荷の『陽子』とマイナス電荷の『電子』がその理論的構成原理となって、一般常識に成っている。プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が引合うと言う暗黙の解釈と成っている。そこには理屈が無い。結合の現象を『電荷』によると解釈しているだけである。何故【+】と【-】の間に引力が働くかの理屈は示せない。『電荷』の空間像が示せないからだ。

この問題は、科学理論の意義として、極めて重大な社会問題の筈だ。『電荷』否定を教育の世界に取り込むには、トンデモナイ社会革命の様な問題となる。そこには、公共の福祉などと言う憲法の意味との関係で、社会的混乱をどう収めるかの時代の課題となる筈だ。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』のコンデンサの電荷解釈否定が、現今の教育上の課題となっていると考える。物理学の専門家は如何にその事に解決法をお示し頂けるか。無学の筆者が考える疑問です。小学校に何処に入学したかが、自分が知り得ない不可解なるままであるが・・。

新世界への扉 コンデンサの磁界https://wp.me/p19wiU-4w

物理学理論と教育の統合失調症

(2023/05/16).

 科学理論は実験によって、その真偽が決まる。

 平成2年12月、新潟県の精神病院へ強制的に投獄された。統合失調症と見做されたようだ。その事が家族には全ての筆者に対する解釈の根底を成している。その事が決して研究職など有り得ない、妄想の基と言われ続けている。しかし、驚くことは寧ろ科学理論の方が統合失調症に思える。昭和最後の年、1988(昭和63)年、自分の存在の意味が解らなくなり、その意味を捜して旅立った。研究職としての自分が観えない事に気付いて。今は、情報公開制度の請求対象者としても認められていないとしか考えられない。そこには、研究職の過去が無いことからの不明の道しか見えない‥?

空間のエネルギー。

 1987年4月2日、電気学会の年会で発表した実験結果がある。『静電界は磁界を伴う』と言うとても簡単な実験内容であった。それは平板電極によるコンデンサに電圧を掛ける。少し電圧値を高くすると、その平板電極間にある変化が生じる事が観測される。少し電圧が高電圧、3万ボルト程になるので、取り扱いには注意が必要だ。感電事故による人身事故の危険があるから。

 平板に一定の直流電圧を掛ける。電気理論によれば、プラス、マイナスの電荷が電極板に現れる。その為、電極板の間には『静電界』と言う電界が生じることに成っている。そこには決して磁界など存在しない。『磁界』は電流が流れてはじめて、その導線の周りに生じる。それが『アンペア―の法則⦆である。『電荷』の流れと言う『電流』があって初めて、『磁界』は発生すると言う科学の原則から理論は成り立っている。それが教科書の原理である。

 しかし、『静電界は磁界を伴う』の実験結果は全ての科学理論の論拠となる根幹を否定する実験結果である。

 専門的科学者は、真理から目を逸らし、不都合を置き去りにする。

 上の平板に高電圧を掛ければ、電極板間の空間に何が在るか分かる筈だ。

 空間の電磁界の様子を検査する器具にはどの様な物があるか? 『電界』を検出する器具があるか❓『磁界』を検出する器具があるか❓
 磁界、磁気のみはコンパス、マグネットで検出可能であるが、電界は検出できない。

光の振動数 その意味不明 (2022/12/23) のコメントに光との関係で静電界の意味が付言してある。

 

光の物理学―市民のための理科ー(初等・中等公教育の主眼にすべきもの)

(2023/05/09).

 昔の教え方、教科書を教えた事を反省しながら思う。 

 光とはどんなものか?
光と言う物理量(物理的実体)を理解する事が全ての自然科学、物理学の基礎である。それは科学の研究者のためでなく、全ての市民の自然科学の基礎として大切なものである。

 皐月の空の下で、周りを見渡せば天然と言う景色である。何一つ『色』のないものは無い。それは光と言う物理量によって認識できる世界である。衣服の絵柄模様も様々な色彩の様相である。

 この事の意味は先ず『何だろうか?』と疑問を抱いてくれるかどうかが教育する意味付の基本であろう。不思議とも思わない子供には、教える切っ掛けとして効果がそれ程その時点では期待できないかも知れない。知りたいと思わない事を強制的に憶えさせようとする教育は、やはり子供にとって苦痛であり、その押し付けになるかも知れない。
 
 光の物理という事で子供達に最初に伝えて欲しいこと。それは、光の本質には何も色など無い、ということである。携帯電話から放射される電波も、その本質は光と同じものである。だから電波には色は無いのだ。電波は光より波長が特別に長い波でしかないのだ。

 では、なぜ自然界は天然色の世界なのか。光に色が無いのに、その光で見る風景が何故色彩豊かな風景なのか。と、この事に疑問を持ってくれたら、半分は既に教育の目的が達成されたと思ってもよいかも知れない。

 色と言う世界。

 色鉛筆、絵の具、七色の虹、赤い薔薇の花弁、雨蛙の緑色。草の緑色、石の様々な色合、宝石の輝き、アンモナイトの化石がオパールだ。みんな豊かな色彩の世界だ。みんな光が届けてくれる自然現象の結果だ。

 色鉛筆や絵の具は科学技術と言う人の創り出した、工業製品の世界の色だ。その色も光によって人が認識する物理現象の結果の世界なのだ。

 その意味を不思議だと思ってくれるかどうかで、教育する理科の授業の価値が決まると考えたい。

 光の学習など一生の問題として良い程その意味は深いと思う。

 色を持たない本性の光が、その光の物理現象として人に色の深い意味の世界を届けてくれること。色彩に感動を覚える世界を受け取れる。その光の物理現象が人の感激する喜びを創る。何も色のない光が人に届ける贈り物なんだろう。

 少し、高等教育になると、物理学の研究になると、波長とか振動数という科学的専門用語が使われる。その波長とか振動数と言う用語がどの様な物理的意味を唱える為の用語なのか。そこには、その用語の意味を、その実像をその光の存在する空間における空間像として表現できなければならない筈だ。専門家はその用語の意味を具体的に、如何に解釈しているかがとても大切な事と思う。

 光の振動数とは、何が振動している意味か? に答えなければならない筈だ。

 光の具体的考察例。

 光は何を語るか (2021/10/18) の歌の CD 盤の分光例だ。

 これは蛍光灯の光を反射させたものだ。決して CD 盤の溝に色、色素がある訳ではない。同じく野に咲く花の花弁の色も結局光の演出の結果である。花弁に特別の色素がある訳ではないのだ。光は本来何も色を持っている訳ではない。無色のエネルギーの光速度伝播現象体でしかない。エネルギーに色彩は無いのだ。上の CD 盤の色模様も、勿論 CD 盤の溝に色がある訳ではない。それなのに何故このような色模様に見えるかということである。それは溝の空間構造によって、入射光のエネルギーの空間分布波長の違いで、反射方向が変った結果でしかないのだ。ただ色鮮やかな色彩に分かれている。それは虹の七色の分光現象と同じ意味である。要するに、色のない光と言うエネルギー分布波長構造の物理的実体が空間を光速度で伝播しているのが光なのだ。光の空間エネルギー分布構造で、ある何かの空間構造体に入射すると、その空間構造体内でのエネルギーの共振(反射と入射現象)によって、その寸法に見合ったエネルギー密度分布波がある共振的な方向に反射して出てくる現象の結果なのである。

 さてそれではなぜ色が異なるかという意味である。それは人の光エネルギー分布波の波長を視覚検出機能によって区別し、それを脳神経部で評価する生理学的機能に因ると解釈する。独断と偏見と言われても、やむを得ないが筆者の自然的感覚による物理現象評価法でしかないから。それぞれ異なる解釈があっても良いが、異なることに批判をすれば、より正しい評価に落ち着く可能性があるだろう。そこに正しい自然科学的認識理論が生まれる筈だ。空間の『エネルギー分布波』の伝播現象が光の空間像である。

電力用配電ケーブルの革新

(2023/05/03) .

 自然現象はエネルギー流の原則に基づく。

 物理学理論がエネルギー流の認識なしでは、その未来とその教育は暗い。

 決して自然世界に『電荷』など実在しない。

 電気回路の物理現象を理解できれば、決して『電荷』等の概念では解釈できないことを理解できる筈だ。

 『電荷』否定の電力用ケーブルを示す。憲法上の人権が保障されていれば、もっと早く提唱できたかも知れない。

 『静電界は磁界を伴う』 (1987/4/2)の発表が生かされていれば。自分が、電気学会の会費を納入して正規の会員に成って居たなら。残念ながら愚かな為、電気学会費を一度も払っていなかった。誰が払ってくれたかも不明?1991(平成3)年4月、会費未払いという事で、電気学会は除籍となったようだ。

 そんな中でも、【俺がやらなきゃ誰がやる】と恥を忍んで、ここまで来た。

電力用ケーブル
研究者としての人権が保障され初めて『特許』にもつながるだろうが??

 決して電気回路では、『電子』や『電荷』が金属導体の中など流れてはいないのだ。

 電気現象の原則は回路空間のエネルギー流に基づくのだ。だから電気配線の導体には断面積など電流の為の意味は余りないのだ。導体の薄膜や網組板で十分なのだ。必要なのは導体で囲まれた『エネルギー』の伝送空間なのだ。その意味を電力用ケーブルとして図に示して、提唱する。

研究者としての人権が保障されて初めて『特許』にも❓

 導体間の絶縁はその極性の負側の電気導体近傍に強いストレスが掛かる。三相でも線間電圧より相電圧の方が小さい。

憲法と自分の社会的役割❓

今日 は憲法記念日 5月3日だ。

上の資料は先日、公的機関から頂いた記録の一部だ。厚生労働省の関係機関だ。昔の厚生省は、戦後の外地からの引き上げに関わる海軍の戦後処理にも関係していた。始まりの日付(1964年4月0日)は世界に存在しない日である。しかしこの日は初めは4月末日と成っていた。しかし何時の間にか4月0日となった。

最初記録は職員の掛かりの方が、私が『公立学校共済組合』と書くのを遮って、書いてくださった。その書類が次だ。

ここには、確かに4月30日となって、確定されている。

昭和20年4月、京都府舞鶴市溝尻海軍住宅に住んで居た。舞鶴国民学校に通ったことを覚えている。しかし、2021年に入学者名簿には無いことを新舞鶴小学校(溝尻1200-4)に聞いて確認した。戸籍が舞鶴鎮守府所管(昭和14年12月1日)の為だったのか?

とても不思議な過去を思い出した。昭和35年の日銀新潟支店(新潟市西大畑町)との関係だ。新潟大学の理学部の先生のアイソトープによる山ノ下地区に地質調査のお手伝いのアルバイト代金を、日銀新潟支店からの連絡により、そこで頂戴した。どの様な予算かと不思議だ。憲法と身分 にも記した。
さらに、憲法十条:・・にも、憲法との関係で能力不足で理解できない疑問を印した。

日本国憲法の下で、今までの自分の社会的存在理由、役割をどの様に認識すれば良いか分からない。行政機関の書類が世界に無い日付から始まっている、その恥かしい人権をどの様に認識したらよいか、社会に無用な自分に見える。

新潟県教育委員会に採用事務で関わったことが無い。昭和39年4月から、昭和53年4月母が亡くなった途端に、突然仕事を言われた。その辺は、健康保険証は身分証明書か に記した。

新潟県教育委員会との関係が不明だ。
昭和55年3月31日 願いにより本職を免ずる」とある。しかし誰が発令したのか不明だ❓確かに、昭和55年3月の教員移動の新聞記事には、私が「退職」と報道されていた。しかし退職金など手続きは無い。

一応ここまでで公開。