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ダイオード電圧

半導体の世界(2020/08/26)。第二次世界大戦後に半導体に関する世界が始まったのかも知れない。今の情報化社会を支えている基本技術は半導体製品に負っている。p 型半導体とn型半導体の接触面に不思議な世界が繰り広げられているようだ。

p n junction と『エネルギー』

p 型半導体とn 型半導体を接触させると、その接触面に不思議な世界が現れる。その基本となる製品の代表がダイオードであろう。トランジスタに成れば、npn等と接合面が二つになり、さらに不思議な世界を創り出す。電気回路に組み込めば、回路を切ったり、繋いだりするスイッチの機能を発揮する。

エネルギーギャップ。物質はそれぞれ特有の保有エネルギーを持っている。その保有エネルギーの外界作用性を物質の特性として発揮すると解釈する。例えば「イオン化傾向」と言う物質の外部作用性の強さの違いもその評価法の一つであろう。半導体の接合面に現れる特徴がそのエネルギーの持つ作用性と考えられよう。p 型半導体がn 型半導体より内部保有エネルギーが多く、接合面に『エネルギーギャップ』を生じる。その接合面の『エネルギーギャップ』がスイッチオフを起こす。スイッチが『オフ』とは電気回路の『エネルギー』を伝送する空間が構成されない、即ち伝送空間が途切れた状態である。導線の中を流れるものが何も無いのに、僅かにその導線が切れただけで『エネルギー』の伝送空間が失われるのも不思議である。その導線切断と同じ機能を、半導体の接合面の『エネルギーギャップ』の存在が果たし、回路遮断の原因となる。その回路遮断を除去するには、n 型半導体に外部から『エネルギー』を供給してその『エネルギーギャップ』を解消すれば伝送回路空間が構成され『オン』と言う状態になる。即ち回路導線の中に『エネルギーギャップ』の部分が無ければ、伝送空間が構成される。図では、『エネルギーギャップ』の電圧 V_off_で表した。接合面のコンデンサ容量 Co [F] とすれば、そこのエネルギー量が Co× V_off_^2^[J] であるという意味で解釈して良かろう。

ダイオードドロップ V 。ダイオードがオンの時、電圧降下が生じる。0.6~0.7 [V] 程度の電圧のようだ。その電圧分に相当するだけ、 n 型半導体側の『エネルギー』が多い状態になっているという事である。(『電圧』と言う技術量は電位の低い側が『エネルギー』の多い分布状態を評価する概念である)。その時、ダイオードはオンとなり、回路の『エネルギー』伝送可能な空間が構成されるという意味と解釈する。ただこのダイオードがオンの時の電圧降下 V は接合面のオフの『エネルギーギャップ』とは異なる意味と解釈したい。ダイオードオンのための消費エネルギーに関わる電圧と理解する。

過去の記事を辿っての道のりであった。

ダイオードの機能 (2016/09/17) 。謎(pn接合は何故エネルギーギャップ空間か) (2017/05/18) 。

『電圧と電流』すべて逆だった

電気現象の解釈は長い歴史を経て、今電気理論として科学技術の根幹をなしている。しかし、そこには大きな誤算があった。『電圧』と『電流』に物理現象としての論理性がなかった。しかし、これからも「オームの法則」として科学技術に欠かせない理論として社会的な文化であり続ける。

科学理論と自然世界。

特に物理学理論として『エネルギー』の実在性を見誤ってきたところに、科学者の現代的責任が問われなければならない。『電荷』は自然界に存在しないのだ。従って、『電子』は誤った科学概念であった。電気現象に『電子』は不要の存在であった。そこに現代物理学の誤りの根源がある。

電気現象はすべて『エネルギー』の流れである。『電圧』は電気回路のエネルギー分布の逆向きの方向に定義した技術概念である。『電流』も電線の近傍空間に流れる『エネルギー』を、逆向きに流れると定義してしまった科学技術概念である。しかも、その『電流』の逆向きに『電子』と言う実在しない概念を創り出して、論理を構築してしまった。そこに科学理論の根本的矛盾を持ち込んできたことになる。光も『エネルギー』の流れである。今太陽電池の現象を考えながら、先に『電圧と電流』の自然現象・理科教育としての矛盾を述べた。

電気工学から物理学を問う (2017/04/09) の回答であったかも知れない。

敦賀駅前から満天の星空の下

75年前の8月15日敗戦の日から始まった戦後。

新聞には当時の多くの体験談が載っている。しかし、筆者にはあまり記憶が残っていない。ただ一つ鮮烈に脳裏に焼き付いたような風景がある。8月15日を境に、突然世界が変ったような事態となったのだろう。もう舞鶴鎮守府の海軍住宅には居られない。4,5日後の今頃はそこを引き払って、新潟県の故郷を目指して汽車に乗っていた筈だ。脳裏に浮かぶ一つの風景がある。それは鉄道線路、北陸線の敦賀駅で降り立って見た風景である。それは敦賀市街のどこまでも見渡せる何もない廃墟の平原が満天の星空の下に、照らし出された無機質に輝く光景である。そこには人の営みも、鳥や動物の命の影もなく、天空に照らされた廃墟しかない。それが何がしかの錯覚であったなら良かったとも思う。

丁度汽車がその先に行かないため、次に来る当てのない汽車を待って降り立った敦賀の街の風景であった。鉄道線路だけは破壊されずに運良く残っていたから、何とか故郷に辿り着けたのだ。しかし、途中の事は何処を通って帰ったかも何も聞いていなかったので覚えていない。母と二人の妹との4人の逃避帰還の旅であった。恐らく汽車賃も、切符もない混乱の中での汽車での旅であっただろうと思うが、本当の事は聞いていない。列車も混乱のごった返す満員の中、窓からの乗り降りは当たり前であったことだけは覚えている。いつ田舎の家に辿り着いたか、その時の様子も何も覚えていない。小学1年生であり乍ら何も覚えていないとは、幼稚であったと恥ずかしい。

故郷の川は美しかった。母の信濃川での洗濯に付いて行き、川の中に手を入れているうちに、小魚を手の中に捕らえていた。今もその魚が⦅砂ッポリ⦆と呼ぶものだったと覚えている。自然に手の中に入る魚がいる川が如何に命輝く故郷の自然かと懐かしい。フサお婆さんも元気であった。父が年末に帰ってきたかも覚えていないが、相当遅くまで戦後の仕事があったようだ。

舞鶴国民学校の一年生に4月入学した。学校の近くに矢野歯医者さんがあり、治療をして頂いた記憶がある。しかし、敗戦の混乱の中貝野小学校への転校の手続きもなく9年間の義務教育が過ぎてしまった。その後の75年間は不可解の闇の中に過ぎた。

 

熱の正体と不明

投稿したら不快な気分を味わった。「フォローマーク」が表示され自分の投稿でないかの意味になる?

 

はじめに(2020/07/28) 。熱の正体は?と検索してみた。熱は原子、分子の運動エネルギーと解説されている。気体分子運動論が現代物理学理論の一つの基礎論となっているから当然だろう。それが現代科学の『パラダイム』でもある。しかし、その理論が分からないと30年も頭を掻きながら不可解と過ごした。結局、熱も『エネルギー』の一つの姿でしかないと確信に至った。記事『熱電変換現象に思う』を書き始めたが、ここにまとめる事にした。強力な理論体系となってきた「量子力学」がある。それは半導体理論の基礎をなす。トランジスタのnpn型のコレクタ側の吸熱現象を量子力学論ではどのような解釈をするのかを筆者は知らない。独自解釈でそれも『熱電変換現象』の一つであると考える。そのトランジスタのコレクタ側も熱を『エネルギー』に変換する一つの発電器である。その現象は太陽光発電が光を『エネルギー』に変換する発電現象である事と変わりない同じ原理である。科学理論となれば、現代物理学理論の基礎概念に基づいた『パラダイム』の基での解釈でなければ、科学論としての評価が得られ難い。『エネルギー保存則』一つを考えても、その『エネルギー』とはどのように定義したものかを明確に共通理解しているだろうか。『パラダイム』違反の論理であろうが、自然はとても純粋で単純な基本原理の基にあると考える。だから、トランジスーのタコレクタ吸熱現象も『エネルギー保存則』から考えれば、その『エネルギー』は何処かに利用されている筈だ。だから自然世界の『熱』も『光』も『エネルギー』のそれぞれの自然の姿でしかないと考えざるを得ないのだ。

それは空間の『エネルギー』である。
何故科学理論は複雑で分かり難いのか?深く考えると分からない事ばかりだ。その原因は自然界に存在しない『電荷』や『電子』などで理論を構築したところにすべての原因がある。この事が導く究極の科学理論批判が原子構造論になる。決して電子が核の周りを周回する電子殻構造論が論理的に成り立つ訳はないという批判に向かう。具体的な例を今後の課題として取り上げたい。

『エネルギー』は自然界のすべての根源である。
電気も光も熱もみんな『エネルギー』の姿なのだ。太陽系も一つの空間に浮かんだ『独楽』みたいなものだ。重さも解らないし、その『エネルギー』も解らない。『エネルギー』でも正体不明な事も多い。熱が『エネルギー』だと言っても、金属棒の一端を加熱したとき、他端にその熱が伝導する。その熱の『エネルギー』の伝播速度は相当遅い。電気『エネルギー』は金属内を伝播しないが、熱はその中を伝播する。その速度は幾らか?その伝導の仕組みを分子運動とは捉えたくない。その解釈は『パラダイム』違反という事になる様だが。金属棒の組成の中を熱はどのように移動するのだろうか。熱電変換特性のゼーベック効果やペルチエ効果などのキャリア解釈を否定すればそれも『パラダイム』違反の論となろう。

この記事をトランジスタの吸熱現象と熱電変換現象を統一して論じたいと思い立ったが、やはり個々の問題として論じることにしたい。『熱』について纏められなかったが、上に述べた目標、原子構造論と電子論の矛盾を明らかにすることを目指して。

 

観自在菩薩

魔訶般若波羅蜜多心経の最初の五文字である。それは経文全体の本源となるべき最も大切な意味が込められていると観る。ここに述べる事は、全く門外漢の解釈であり、一般の解釈とは相容れないものであることを先にお断りしておきたい。

この心経と言う経文全体が漢字の羅列に思えるほど、内容を理解することなど筆者には土台無理な事である。だがしかし、一つだけ『色即是空。空即是色。』の意味については筆者にも強く共感できる思いがある。それは物理学理論の欠陥を指摘していると思われる深い自然界の実相を洞察した真理の標言と考える点である。それが空間の『エネルギー』である。

『質量』は『色』の一つである。それはよく見える世界の姿である。その『質量』が光となって空間に放射されると、その光の『エネルギー』を見ることも測ることも出来ない『空』となる。物理学理論の対象とできない実験的検証不可能の自然世界の実相が『空』の『エネルギー』と理解した。

大昔、理論など何もなく、ただ自然の事象を己の心に照らし合わせて、納得できる結果として辿り着いた悟りの言葉と解釈したい。心経の言葉としてまとめられる迄には長い伝承を通して受け継がれ、その結実の花となった東洋思想と理解したい。

経文の漢字で気掛かりが二つある。

一つ目は『波羅蜜』の『蜜』の字である。これは『密』の字の間違いではないか。真言宗でもある密教の『密』の字の筈だ。なんで心経の中に甘い蜂蜜の『蜜』の字が入るのか、それは場違いだ。

二つ目は最後の『ギャー諦ギャー諦』の『ギャー』の漢字(変換されない)は無意味である。『諦』の字義はとても深い意味を持っていて、不明な事柄や事象を分かる様に明らかにするという意味である。諦観などと使う。経文の最後のまとめとして、『掲諦』の文字によって、明らかになった道標を掲げて、みんなで前に進みましょう。という意味と解釈する。それが経文の最後の言葉に相応しかろうと。

さてそこで、『観自在菩薩』の意味はどの様なものと考えるかである。その意味として、これは『菩薩様がこう述べた』などの意味では全く納得できない。『禪』の根本原理は民主主義と解釈する。権威によって自由を妨げる事はしない筈。権威を作らない。全体主義を嫌う。その禅的な捉え方からすれば、菩薩様とはならない筈だ。これから述べる筆者の解釈はとても今までの標準的な論説とは全く異なり、常識外れであろう。『自在』と言う用語は自在鉤等、囲炉裏の鍋を自由に上げ下げできる吊り具を言うことから「自由に」と言う意味を込めて使われる。それが一般的かと思う。しかし、それでは大切な生きる指針を伝える『心経』の冒頭言としての『自在』の意味としては無意味に思える。『菩薩』は『菩提薩埵』の『菩提』と『薩埵(サッタ)』を合わせた言葉とも採られているようでそちらを採りたい。『菩提樹』などと使われる『菩提』は迷いから目覚めること。悟りの智慧等と解説される。『薩埵』は衆生と言う悟りに至らない人の意味かと考える。このように考えた時、「観自在菩薩」の意味は最後の⦅掲諦⦆と合わせて、『物事の本質を己の中に観つけるように進んでゆきましょう。』位の意味と勝手な解釈をしたい。

『波羅多』の意味を自然は災害の波も、また柔らかい絹織物の穏やかさ「羅」も多い。とまた勝手な解釈をしたい。だから「三密」ではないが『密』の漢字を当てたい。

自然科学にもたらす数学の功罪

自然界に『負』の物は実在しない(2020/08/03)。

『負数』について考えた。数についての学問が数学であろう。数には正数に対して負数と言う概念が加わり、数の計算が拡張された。しかし、実際の生活に『負数』が存在するのだろうか。例えば、経済で利益を正数としたとき損失を負数として対応させれば、加減算したとき誠に分かり易いと言えよう。しかし損失も『正』の損失額という意味であり、決して負数という事ではない筈だ。純粋な意味で損失が負数であると決まったものではない筈だ。計算の便宜上で負数としただけでしかなかろう。そのような意味で考えた時、日常生活上で自然現象を観察した場合に『負数』で対応しなければならない事物が存在するだろうか。

数学は論理性の象徴的学問分野であるかのような絶対的な捉え方で解釈されている傾向があるように思われる。それが常識的であるように見える。

数学に規則では、

(-1)×(-1)=+1    (1)

(+1)+(-1)=0       (2)

等と決められている。

このような規則、条件がどのような意味であるかを考えてみたい。具体的に自然世界の現象として、この規則を取り入れるとき、それがどの様の意味を持つかという事を明らかにする必要が有ろう。(1)式、(2)式には自然世界に実在しない概念の導入によって成立するという条件の仮定が根底に在る。

ここで考えてみる。どんな自然現象で(負数)×(負数)と言うような計算をしなければならないものが存在するだろうか。あるいは(+1)+(-1)=0と言うような事象があるだろうか。(負数)に対応する自然界の物理量が実在するだろうか。

そこに唯一思いつく物理量があろう。それが(・・)であろう。皆さんは何を考えるでしょうか。

数学の特徴で抽象性を挙げる事が出来よう。それに対して自然はすべて具象の世界である。その自然からある面を抉り出して抽象性を表現してみても、それはあくまでも自然ではなく人の恣意的な自然にない解釈が組み込まれた可能性のものだ。そういう意味で、数学的な解釈が如何にも絶対的であるかのごとき捉え方は正しくなかろう。

数学の解析の具体例。幾つか拾い出して考えてみたい。確かに数学的解析手法が無ければ、現代生活は成り立たないと言ってもよい程、その恩恵は計り知れない。それが数学の功績である事に間違いはない。その上で考えてみたい。特にその威力を感じるのは、様々な現象のシミュレーションにあると思う。時々刻々と変化する状況を的確に予測する計算手法である。そんな人の能力を超えた計算処理が計算機(動かないものは器で動くものが機と理解していたが違うようだ。)で可能になったのも数学の規則があるからだ。

1.気象予報。

気象の予測の精度が格段に向上している。そこには気象観測衛星の技術があっての事ではあろう。ただ一つそこに気掛かりがある。それは雷発生注意報が発せられているが、余り雷の発生は起きていないのではないかと思う。最近残念ながら「雷」の稲妻も見ない。気象条件で、雷の発生が予測されるのだろうが、予測が外れて起きていないのではないか。そこには人の科学理論の誤った認識が入るからではないか。雷は決して『電荷』などの自然現象ではなく、『熱エネルギー』を原因とした現象なのである。雨によって空気中の塵芥が洗い去られて、気中に水蒸気の熱が貯えられるチリが無いから、雷現象が起きないのだ。雷は気中の熱爆発現象だから。『熱』の正体 (2014/05/15)-この記事も年間リポートで大花火を頂いた- および雷は熱爆発 (2014/05/23) がある。

2.津波伝播現象。

海洋を伝播する津波波形をどのようにシュミレーションで解析するか。地上の津波波形は運動エネルギーの波であるから、普通の物理学理論の運動方程式による解析で可能だ。しかし海洋伝播する津波波形は海水が流れない現象だから、運動エネルギーではないのだ。海底沈没現象がその巨大津波の発生原因である。高速度計算能力が可能の時代になった。海底陥没でどのような現象が起きるだろうか。突然の真空空間を作る実験は不可能である。しかし計算機なら可能かどうかと期待を膨らませたい。古い記事、地震とは何か(2011/10/20) および地震・津波発生の原因 (2014/06/15) -この記事は年間リポートで大花火を頂いた- がある。

3.電気回路現象。

電気回路現象は微分方程式を解く過渡現象として詳しくシミュレーションによって解析できる。それは電気回路の『電流』と『電圧』を基礎概念として解くことができるという条件の成り立つ場合に限る手法である。それは電気回路内における送電端と受電端間での光速度による遅れを考慮しなくてよい場合に限るという条件がある場合だ。『オームの法則』と光速度伝播現象の関係を考える必要が有るのだ。回路電流は電源と負荷の値が等しい条件で『オームの法則』が成り立つのである。分布定数回路の電線路長と電気信号波長の関係で、電線路長が波長の何倍となれば電磁エネルギーの光速度伝播現象を考慮しなければ解析は困難である。定在波分布現象を考えれて初めて電流という物理概念が電線導体内を流れるとは考えられないと気付くのかも知れない。そこには電線路空間内の『エネルギー』光速度伝播現象しかあり得ない筈であるから。分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) がある。

まとめ。

数学と言う学問はとても広い内容を包含している。数の加減乗除算はその基礎になる。それでも(負数)×(負数)=(正数)が至極当たり前の学習の基礎として身に付けなければならないと学習指導要領で決められる。この計算の意味はとても深い哲学的な思考を伴わなければ理解できない高度な内容と思う。それをいとも簡単に「是はこうだ!」と覚えさせる教育の態度では、そこに創造性など生れない。其処に数学の抽象性の教育上の大きな問題があると考える。知識として積み重ねても、その深い意味を理解するには、そこに疑問を抱いて後に初めて分かるというところに到達するものであろう。教育の意味はそこにこそあると思う。

『電荷』は科学理論構築の根本的基礎概念である。数には(正数)と(負数)がある。それが数学の基礎である。自然界の現象を心に納得できる対象として感じた時、そこには(正数)や(負数)の対象となる実在物理量が無いのだ。負の電荷の『電子』が自然世界に存在するなど感じ取れないのだ。そこには数学の(負数)の基礎概念が大きく影響を無言の圧力として人の意識に及ぼした結果ではないかと考える。数学の罪として。規則の式(2)を考えてみる。(+Q)+(-Q)=0 と『電荷』に適用したとき、数学はその内容に責任をもって答えられるだろうか。物理学では如何であろうか。正の『電荷』と負の『電荷』が結合したら『零』になるのか。光とは何かにつながる哲学的意味を含んでいるようだ。

こんな記事を過去に書いていた。数学と自然科学 (2016/11/19) 。

Electrons for the battery.(不可解?)

(2020/08/05)不可解なり。ダッシュボードで記事を更新した。記事を確認すると側面に『フォローマーク』が表示される。筆者が投稿したと見做されていない。幽霊記事か?この記事は何故、「カテゴリー」と「タグ」が無いのか?

下の図は電池における電子の役割を問う (2018/05/24) の図を書き換えた。

 

教育の政治的中立性

教育基本法について(2020/07/17)。教育の政治的中立性とはどの様な意味を持った事柄か。古くは中曽根臨時教育審議会(1960年代)があった。その存在も知らずにその渦中に居たことを後で知った。その関連における筆者の政治的意味合いを知るに長年の闇の世界を通り越すに要した。今漸く長い間、己の愚かさを知らないで過ごしてきたことに気付けたかと、と思える。1964年新潟県教育委員会に採用されたなら、現在も『公立学校共済組合員』の資格がある筈だ。はっきりと分かることは、給与が銀行振り込みでなかった。だから直接印鑑を押して給与を受け取っていた。1969年10月から翌1970年3月の6ッか月間は給与を受給していなかった。これは教育公務員としての人権が認められていなかったことと理解できる。人間としての存在が何処にも登録されていなかったという事が筆者の無知として葬り去られたと理解せざるを得ないと知った。今日、文部科学省のページの中に、教員の地位に関する勧告。1966年10月5日 教員の地位に関する特別政府間会議採択 (ユネスコ、パリ会議)がある事を知り読んだ。その地位をどう回復すべきか?余りにも長すぎた。始めて政治的な関りを知った「中曽根臨時教育審議会」と自分との関係を文部科学省の教育の政治的中立性との関係で、それはどの様な政治・行政的な意味のものと解釈すれば良いのか?と。これから教育基本法について考えてみたい。

Twitter (2020/07/17) に投稿。スッキリしない。教育基本法。教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)を全部を改定する。の附則の部に・・「教育基本法(平成十八年法律第号)」に改める。などと第?号と?部が抜けている。何故抜けているかの訳アリと思えてスッキリしない。

と投稿してから考えた。どうしても素人が考えると不思議な理解できない事柄に恐れを抱きながら、過去と未来の日本の教育行政が大丈夫かととても心配せずにいられない。公開しながら書き進めたい。

何故、2006年12月22日法律第120号として、教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正するとなったのか?国会は既に12月19日に閉じられた後である。当時、ニュースで世論調査結果として70%が改正に賛成とあった。調査を受けて、賛否を答えた人は『教育基本法』を読んで理解して答えたのか?改正の教育基本法の条文を知って答えた筈はない。世論調査を実施した側の人は、調査対象の人が『教育基本法』を知って回答していると考えたとは思えない。太平洋戦争に至る過程の世間に迎合する世論づくりに加担したときと同じような意味が有るように感じられて、とても心配に思う。その世論調査をする側で、『教育基本法』を読んでその意味を理解していたのか残念ながらそうでは無かろうと疑わざるを得ない。調査側にも大いにその結果報道による、政治的結果責任があると言わなければならない。ジャーナリズム精神と政治の関係性。

教育基本法(昭和二十二(1947)年法律第二十五号)-教育基本法(原)呼ぶーと(平成18(2006)年12月22日法律第120号)-教育基本法(新)と呼ぶーの意味の違いはどこに在るかを考えてみる。

教育基本法(昭和二二年三月三一日 法律第二五号) 施行、昭二二・三・三一

朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。

 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

と前文にある。日本国憲法(昭和21年11月3日発布)が昭和22年5月3日に施行される、その前に公布・施行された。関連法で、学校教育法(昭和二二年三月三一日法律第二六号)施行、昭二二・四・一と教育基本法(原)と同時に法律番号を持って公布されている。その後もすべての教育関連法は教育基本法(原)の基に法律の独立番号で成立した。すべて教育基本法(原)と切り離せない意味を持って、法治国家の三権分立による国権の最高機関で成立した法律である。このことを踏まえて素人なりの気掛かりを述べたい。

教育基本法(新)は誰が何時公布したのか。法律番号は国会会期中の番号ではないのか?

教育基本法(新)。目次として、

前文 第一章 教育の目的および理念(第一条―第四条) 第二章 教育の実施に関する基本(第五条―第十五条) 第三章 教育行政(第十六条・第十七条) 第四章 法令の制定(第十八条) 附則

我々日本国民はたゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義(?)を希求し、公共の精神(?)を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し(?)、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り開く(?)教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定(?)する。

とある。

『原』と『新』の教育基本法の前文を比較した。先ず『原』の前文は、誠に格調高く、どこにも蟠りを覚えるような文面はない。当時の教育による結果としての子供達による新しい日本に希望を託して、世界に貢献しようという意気込みが込められている。しかし、『新』の前文には、何故改めて書き換えなければならなかったのかと、誠に理解に苦しむ文面がある。『真理と平和』が『真理と正義』(法律(原)の第1条(教育の目的)にある内容を書き換える意味で変えた?)に変わる。『公共の精神を尊び』が加えられた意味が、何か曖昧な政治的社会集団の威圧による精神的抑圧を加えようという暗黙の意図に思えて気が滅入る。『公共の精神』という意味が個人の尊厳を重んじるという意味と逆の何か違和感を覚える戦前意識回帰の時代錯誤の言葉に思える。『伝統を継承し』は古い過去の権威や拠り所を残し、そのままの体制を維持しようという意図の感じに採れる。科学論の『パラダイム』と同じ変革を抑えようという意識と同じ、政治的批判精神の育ちを抑えたい意識の表れに思える。物理的『電荷』概念の伝統を守るための、先般の教育上の指針とした『参照基準』のお話にどこか似ているようでもある。殊更に『我が国の未来を切り開く』と言わなくても地道な努力が報われる教育環境なら、世界に貢献してこその信頼を勝ち得ると思う。その為の教育の振興では少し、グローバルと言う世界に対して時代錯誤の意味に思える。特に素人ながら、気掛かりな文言は『この法律を制定する。』の一文である。『制定』と『改定』は法律用語として異なる意味ではないのかと。前文迄書き換えるのは確かに『改定』ではうまくなかろう。それでは『制定』は良いか?となるが、既に立派な『教育基本法』が厳然として存在する。そこに改めて同じ法律名の『教育基本法』を作ろうという法律制定の道理の可否の問題が有るのではないかと素人ながら危惧するのである。それは法律の専門家が御解釈される事であれば、素人には難しすぎる。

教育基本法の施行について(通知)が特別に必要だった理由でもあるのかと、考えさせられる。何故必要だったのか?

(2020/07/24) 追記。『法律』の意義とその制定および改定に関する法理念。その疑問を問う。衆議院のホームページを見た。

法律第百二十号(平一八・一二・二二) ◎教育基本法

教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する(12月15日参議院で可決)。と確かに、国会12月19日閉会後の日付(12月22日)で国会で改正された意味に読めるが、その法律制定の立法機関の役割の意味が理解できない。またそこには附則として、社会教育法(昭和二十四年法律第二百七号)第一条はじめ、七つの法律について、基本法(原)を基本法(新)に改めるとなっている。それらの法律も独立した立法番号で意義を持っている筈だ。法律の条文を改正するには、それぞれ独立して立法機関での審議・決議によってしか法律の条文は変更できないと考える。立法機関及び行政機関の関係で、法律の意義・理念を無視した違法の結果の教育行政になっているのではないか?

法律には署名が必要であると、日本国憲法第74条に規定されている。最初に主任の国務大臣が署名。内閣総理大臣がその後に連署することを必要とする。とある。

署名欄には、内閣総理大臣、総務大臣(?)最後に文部科学大臣の順で表示されている。何故総理大臣が連署でないのか。少し日本国憲法の規定と違うようだが解せない。なお国権の最高機関の立法府、国会を考えれば、署名は国会議長ではと思う。

(続く)

 

電池とエネルギー

電池は『エネルギー』を貯え、便利にその『エネルギー』を使うための科学技術の貴重な成果の製品だ。決して存在しない『電子』などを貯えるものではない。『エネルギー』とはどの様な特性を持った物理的実体か?と考える。見えなくて測れないものだから、その『エネルギー』の動特性を探ることも出来ない。どうすれば、『エネルギー』の空間特性を理解できるかが電池の物理的現象を知る要点であろう。

電池とエネルギーの関係。

電池の内部で『エネルギー』がどの様に貯蔵され、それがどのような条件で電池内部から解放されて電気回路空間に放出されるか。その現象を『電子』なしに『エネルギー』の物理的特性として解釈する必要が有る。電池から送出された『エネルギー』は決して電源に戻る必要はない。負荷に供給されて、それで電池の役割は完了する。『電子』のような概念では、再び電源に戻る無意味な解釈が繰り広げられる。無意味とは何故に負荷を『電子』が通過する必要が有るのか。負荷に『エネルギー』を『電子』がどの様な物理現象として届けることになるのか。何故に『電子』が保有した『エネルギー』を負荷に届けて、その『エネルギー』分だけ欠乏した状態の、異なる『電子』が電源に戻る必要が有るのか。『エネルギー保存則』の意味を忘れないで欲しい。『電子』が負荷を通過しただけで、負荷で『エネルギー』を発生できる訳はない筈だ。無から『エネルギー』は生まれないのだ。電池における電子の役割を問う (2018/05/24) で矛盾の解説に使ったのが下図である。

Fig.1. の図の意味。普通の電池記号と異なる図で表現した。単純に電池の意味を表現すれば、陰極の電極金属で『エネルギー』源のエネルギー貯蔵物質を包み込み、そこから『エネルギー』の無い陰極側に放出され、負側電線路を通して負荷に供給される絵図で捉える。電池の陽極電極および充填物質は所謂電位としては同一にある。充填剤に貯蔵された『エネルギー』はその内部では『エネルギー』として存在している訳ではない。しかし陰極金属体との間には『エネルギーギャップ』が存在する。陰極のエネルギーレベルが充填剤より低い。その接触ギャップで、自動的に充填剤の内部から空間構造変換として『エネルギー』が陰極側に放出される。それは同時に電線路が繋がれているば、その回路空間に対してもそのギャップを埋めるために『エネルギー』が放出される。だから電池内部に見える形で『エネルギー』が貯まっている訳ではない。充填剤の分子的な構造変化として含まれているだけで、結局は質量開放として『エネルギー』の放射になるだけである。

電池の物理現象と科学論。電池の『エネルギー』を観測することも計測することも出来ない。ましてや『電子』の数量を計ることなどもっと困難である。仮想概念で、実在しない物は計れないから。それでは、電池内の『エネルギー』は在るかと言われればそれも無いと言わざるを得ない。『エネルギー』は忍者じゃないが、分子構造の中の質量となって貯えられているとなれば、それは空間分布の『エネルギー』として存在する物にはならないから無いとなる。質量と『エネルギー』に変換し合う物理量は科学論で測り様が無い物だ。自然世界は余りにも純粋過ぎて、物質論の理論の計測手法に馴染まない物かも知れない。分子構造から解放される『エネルギー』が科学論で解明されることを祈る。

関連記事。独楽の心 (2019/01/05) 。熱の物理 (2019/02/07) 。

Is Coulomb force between charges logical?

What is the principle of the force that the same charge collects? How much charge can be collected? Is it possible with Coulomb force ? What other principle of collective force is there? (訳)同じ電荷が集合する力の原理は何か?どれ程の電荷集合量迄可能か?クーロン力で可能か?他にどんな集合力の原理があるか?

Coulomb force is the basic of charge theory. The mystery in the theory of charge is “whether there is no contradiction in why they are discussed on the assumption that the same charge are collected.” (訳)電荷論の基本にはクーロン力が在る。その電荷の理論での不思議は『何故同一電荷が集合することを前提に論議されるのかに矛盾はないのか』という事である。

There is no “concept of force” for no object that cannot assume acceleration. “Charge” cannot define acceleration. Therefore, there is no logic in charge theory to discuss “force” in dynamics. (訳)加速度を伴わない物に『力の概念』は有り得ない。『電荷』には加速度を定義できない。だから、電荷論には力学上の『力』を論じる論理性がない。

Coulomb’s law does not include the underlying mass of the concept force. So it cannot be a formula that expresses the “force” in dynamics.  (訳)クーロンの法則は力の概念の基となる質量を含まない。だから“力”を表明する式とは成り得ない。