日別アーカイブ: 2023年5月9日

光の物理学―市民のための理科ー(初等・中等公教育の主眼にすべきもの)

(2023/05/09).

 昔の教え方、教科書を教えた事を反省しながら思う。 

 光とはどんなものか?
光と言う物理量(物理的実体)を理解する事が全ての自然科学、物理学の基礎である。それは科学の研究者のためでなく、全ての市民の自然科学の基礎として大切なものである。

 皐月の空の下で、周りを見渡せば天然と言う景色である。何一つ『色』のないものは無い。それは光と言う物理量によって認識できる世界である。衣服の絵柄模様も様々な色彩の様相である。

 この事の意味は先ず『何だろうか?』と疑問を抱いてくれるかどうかが教育する意味付の基本であろう。不思議とも思わない子供には、教える切っ掛けとして効果がそれ程その時点では期待できないかも知れない。知りたいと思わない事を強制的に憶えさせようとする教育は、やはり子供にとって苦痛であり、その押し付けになるかも知れない。
 
 光の物理という事で子供達に最初に伝えて欲しいこと。それは、光の本質には何も色など無い、ということである。携帯電話から放射される電波も、その本質は光と同じものである。だから電波には色は無いのだ。電波は光より波長が特別に長い波でしかないのだ。

 では、なぜ自然界は天然色の世界なのか。光に色が無いのに、その光で見る風景が何故色彩豊かな風景なのか。と、この事に疑問を持ってくれたら、半分は既に教育の目的が達成されたと思ってもよいかも知れない。

 色と言う世界。

 色鉛筆、絵の具、七色の虹、赤い薔薇の花弁、雨蛙の緑色。草の緑色、石の様々な色合、宝石の輝き、アンモナイトの化石がオパールだ。みんな豊かな色彩の世界だ。みんな光が届けてくれる自然現象の結果だ。

 色鉛筆や絵の具は科学技術と言う人の創り出した、工業製品の世界の色だ。その色も光によって人が認識する物理現象の結果の世界なのだ。

 その意味を不思議だと思ってくれるかどうかで、教育する理科の授業の価値が決まると考えたい。

 光の学習など一生の問題として良い程その意味は深いと思う。

 色を持たない本性の光が、その光の物理現象として人に色の深い意味の世界を届けてくれること。色彩に感動を覚える世界を受け取れる。その光の物理現象が人の感激する喜びを創る。何も色のない光が人に届ける贈り物なんだろう。

 少し、高等教育になると、物理学の研究になると、波長とか振動数という科学的専門用語が使われる。その波長とか振動数と言う用語がどの様な物理的意味を唱える為の用語なのか。そこには、その用語の意味を、その実像をその光の存在する空間における空間像として表現できなければならない筈だ。専門家はその用語の意味を具体的に、如何に解釈しているかがとても大切な事と思う。

 光の振動数とは、何が振動している意味か? に答えなければならない筈だ。

 光の具体的考察例。

 光は何を語るか (2021/10/18) の歌の CD 盤の分光例だ。

 これは蛍光灯の光を反射させたものだ。決して CD 盤の溝に色、色素がある訳ではない。同じく野に咲く花の花弁の色も結局光の演出の結果である。花弁に特別の色素がある訳ではないのだ。光は本来何も色を持っている訳ではない。無色のエネルギーの光速度伝播現象体でしかない。エネルギーに色彩は無いのだ。上の CD 盤の色模様も、勿論 CD 盤の溝に色がある訳ではない。それなのに何故このような色模様に見えるかということである。それは溝の空間構造によって、入射光のエネルギーの空間分布波長の違いで、反射方向が変った結果でしかないのだ。ただ色鮮やかな色彩に分かれている。それは虹の七色の分光現象と同じ意味である。要するに、色のない光と言うエネルギー分布波長構造の物理的実体が空間を光速度で伝播しているのが光なのだ。光の空間エネルギー分布構造で、ある何かの空間構造体に入射すると、その空間構造体内でのエネルギーの共振(反射と入射現象)によって、その寸法に見合ったエネルギー密度分布波がある共振的な方向に反射して出てくる現象の結果なのである。

 さてそれではなぜ色が異なるかという意味である。それは人の光エネルギー分布波の波長を視覚検出機能によって区別し、それを脳神経部で評価する生理学的機能に因ると解釈する。独断と偏見と言われても、やむを得ないが筆者の自然的感覚による物理現象評価法でしかないから。それぞれ異なる解釈があっても良いが、異なることに批判をすれば、より正しい評価に落ち着く可能性があるだろう。そこに正しい自然科学的認識理論が生まれる筈だ。空間の『エネルギー分布波』の伝播現象が光の空間像である。