憲法と身分(新潟大学生の身分と選挙権)

1960年4月より1年間、新潟県新潟市西大畑町 新潟大学の六花寮に住居。

 新潟大学工学部電気工学科。幸い大学入学試験に合格した。年齢は半年以上前に二十を過ぎて、既に成人である

4月に何故か自動的に決められた住居、大学の寮『六花寮』に入寮した。

しかし、大学の入学式への参列も無かった。通知も無かったからだ。父も確かにその日には新潟大学近辺に来ていたが、何処に居たかは分からない。恐らく大学の事務局関係で話をしていたかと思う。

私は、入学式典への参加もなく、大学入学関連行事の「小泉信三氏の講演会」を聴講した。

  第一の不可解。新潟大学入学式典への参加要請が無かった。大学入学手続きが何も無かった。大学入学金の請求も無かった。六花寮の入寮、寮費の支払いも1年間一切無かった。大学関係への学費など一切の払い込みは、大学卒業まで何も無かった。同じく1939年3月の大学卒業式典への連絡もなく、参加しないで過ぎた。

 第二の不可解。日銀新潟支店でのアルバイト料の受取。夏の大学理学部の先生の山の下地区でのお手伝いをした。そのアルバイト料金の受取。西大畑町の日銀西大畑支店からの支払い連絡により、日銀で直接受け取る。

 第三の不可解。新潟市での住民登録が無かった?1960(昭和35)年11月24日、第29回衆議院総選挙(第一次池田内閣、安保解散、10月20日に因る)。初めての選挙と言う仕組み、行事を知り、小学校での講演会に参加して聴講した。 しかし、選挙投票権が無かった(投票券が来なかった)。全く憲法や市民権あるいは選挙権などの社会的意味を無知で知らなかったから、特別何も意識して居なく、急に数日前に、その不可解に思いついた。

 1939年12月1日。舞鶴鎮守府の所管へ戸籍転籍。新潟県中魚沼郡貝野村役場。南雲村長。法的な違法行政に根本原因か。小野田少尉の事件に似た?

 学歴の不可解。

 1945(昭和40)年4月、舞鶴国民学校に通った。8月終戦となる。しかし、その舞鶴市立新舞鶴小学校 (舞鶴市溝尻1200‐4)の入学者名簿には筆者の名前が無かった事を、2021年6月に知った。終戦まで溝尻海軍住宅に住んで居た。戸籍が舞鶴鎮守府、香取丸に移動では市民権が無かったのか。入学者名簿には軍籍の為入らなかったか?

 1954年春の貝野村村会議員選挙の関係で、とうとう1955年9月30日の貝野村分裂による廃村となる。翌年3月新潟県立十日町高等学校卒業時点で、筆者の住所は水沢村に在ったか。半年間での行政事務移管は❓

 職歴の不可解。

 1955年度は1年間故郷の家で、浪人生活。翌年1956年の冬、練炭炬燵で亜硫酸ガスによる頭痛に襲われ、大学受験を諦め病院入院となる。

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