熱と光の『エネルギー像』

(2023/02/02).
前の記事が 熱と光の科学論 であった。

 図は焚火の様子を描いたものだ。焚火に当たると心まで温かくなる。その炎の揺らめきには、心を落ち着かせる何か不思議な作用が有る。古いいにしえからの人間の精神の歴史に触れるからかとも思う。
 焚火は木材、枯れ木の燃える物理現象だ。化学反応式は炭素と酸素の化合式となる。

   C + O₂ = CO₂ + (エネルギー)
 
 この化学反応式に最近はとても違和感を抱く。等号の左右の炭素Cと酸素Oの原子記号は何を表現したものか。ここに、科学論の表現法式の典型的な姿が現れている。その原子記号がすべて同じ原子を意味するとしたら、燃焼で人が利用する熱や光はどの様な物理現象によって得られたものと解釈するのか?この式のように、無条件で熱エネルギーが得られるとしたら、それはマジックの世界の話と成る。何故、無から『エネルギー』が得られるような表現式が化学式として、自然現象の解釈が許されるのか。『何故か?』と疑問に思わないで済むのだろうか。そこには理解できない人間の解釈論理が根底になった、自然と科学論の関係が出来上がっているように思える。
 

炎の中に、科学論を描けばどのようになるか。等と考えるのは、自然に対する人間の浅はかさかも知れない。

 それでも少し考えてみたくなる。熱と光は切り離せない密接な自然現象の関係性にある。白熱電球を見れば、そのフィラメントは赤く熱の塊に見える。焚火の炎も白熱電球も、その熱と光の関係の自然現象には基本的に差が無いように思う。こんな解釈論は、決して科学理論としての観方はされないかも知れない。随筆、文学論に近いか。しかしこの方が自然現象の解釈としては、誰でも日常生活での自然との接し方での想いとつながる、専門的な科学論の前に学習しても子供たちに、無味乾燥な記憶術に縛られる学習より、不思議だと思う感動に、興味を抱くのではなかろうか。

 さて、焚火を見てその赤く燃える炎の物理的意味をどの様に解釈すれば良いか。勿論炎が見えるという事は、見えない光が人の目、視神経に届くから、そこに炎がある事を認識できるのだ。炎が目に入る訳ではない。また、『熱エネルギー』も炎から放射されて、『輻射熱』として認識する。輻射熱がどの様な速度であるか、目に見えない赤外線なのかどうかも残念ながら知らない。温度の4乗に比例する放射則に従うと言う知識は教育によって教えられて知っているが、自分で確認した事は無い。輻射熱として放射される『エネルギー』も、その空間像を人は見ることはできない。その輻射熱として空間を伝播する『エネルギー』の姿、空間像を皆さんがどの様に認識しているかは分からない。決してその『エネルギー』には質量は含まれていない筈だ。炎の姿を人に知らせる物理量は、それは目に見えない光以外には無い筈だ。熱さを肌で認識してもその輻射熱の姿を知ることにはならない。見えないから観測対象の姿を人に見せてくれる機能を持つ「光」なのだ。光の姿が観えたら、身の周りの景色など人には見えなくなる筈だ。それは光に邪魔されてしまうからという意味だ。光が見えない物理量だから、人は周りの姿を、その光によって確実に見ることが出来るのだ。『光』は、『エネルギー』はその空間像を、科学的計測法でも、人の目でも知ることが出来ない。だから科学的な観測概念としての『振動数』が何かを意味するかを知ることはとても大切な事なんだろう。

 『熱』と『光』の関係をどの様に理解するかは大切な物理的解釈論の筈だが、その関係を未だ理解できないでいる。そこには決して『電子』などでは納得できる解釈論には辿り着けない。空間の『エネルギー』に対して、『電子』など何の解釈の助けになれないモノ(?)だから。『熱』から『光』への物理的変換現象の解釈論の『謎』を解きたい。

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