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電子と世論調査

(2023/02/20). 科学の世界での、御笑い種の一席と成りそうな。暇【蓖麻(ヒマ)】の島から流れ寄る種子の如く、新潟県中魚沼郡貝野村から戸籍転籍された舞鶴鎮守府から更に巡洋艦「香取丸」に戸籍移動され、遥か昔に京都府舞鶴市溝尻海軍住宅に住んで居た。その玄関脇には、蓖麻子油の基になる『蓖麻の木』が植えられていた。多分、飛行機などの燃料としての貴重な植物であったようだ。暇を持て余して、何十年?気が付けば大それた事にも、『電子』を厄介者と思うこの頃、誠に我が身ながらの・・が如く。

 科学理論と多数決。『Computer』を訳せば『電子計算機』の日本語になる。コンピュータの語源が気に成ったので、調べてみた。ラテン語の『計算する』と言う意味の言葉を語源にしているようだと分かり安心した。『計算機』で良かったのだと。

 と言う事で安心したのは、『電子』の単語が訳語に入っているのは日本だけで、世界的には『電子』が無関係であるか❓と思って安心した。少し日本の特殊性が・・『電子』に・・。わざわざ『電子』を訳語に入れる必要がないと思った。

 物理学理論を日本で取り上げるには、『電子』が金科玉条(意味:「金」と「玉」は大切なもの。「科」と「条」は規則、大切なものとして固く守るべき決りと辞書に有り。)の如き重りを持っているが如し。その『電子』を無下(冷たくあしらう様子?)に否定したら、自分が無下に否定される。

 儚い希望。それは、電子論の専門家と〈電気回路における『電子』の機能は如何に在るか?〉で公開討論が・・。電気現象は1秒間に地球七回り半もする。それは『電子』がどの様な機能を持っていると達成される現象か?そんな日常生活的な素人考えの討論になる筈だ。

 その後で、聴衆の御意見を投票してもらう。先日も、何処かの科学的専門家会議で『多数決』と言う手法が採られたから。それも一般の市民からご意見を頂戴したらと思った。以前『教育基本法』の世論作りか?に改悪?改定?改正?で世論調査が何度もなされた事がある。電気回路の特徴は、必ず二本の電線で囲まれた伝送空間が必要なのだ。『電子』が流れるには、プラス側を戻って初めて『電流』の概念を満足する。行きだけでは『電流』には成らない。『電子』は『何エネルギー(運動エネルギーか位置エネルギーかまたは熱エネルギー)』を担って受信端に到達し、『電気エネルギー』として放出するその機能の物理的原理と役目を明確に解説して欲しい。更に、その後にプラス側を戻るのか?地球七周り半とは電気信号エネルギーが光として空間を伝送する速度なのだ。その『電気信号エネルギー』の伝送を『電子』が担えるかを問うだけの事なんだ。

 最近、パリオリンピックでも採用されると聞いた。「ブレイキン」と言う競技がある。科学の世界も市民が参加できる場が有っても良いかと。

何かお笑い話のバトルに思えると・・お叱りを受けそうだ🙇。

 

pn接合の機能(電圧とエネルギー)

(2023/02/18).

 半導体とは誠に不思議な機能特性を持っている。しかしその機能の意味を、解釈する電気理論、物理学理論は何だろうか?半導体と言う電気特性材料が第二次世界大戦後に発見、開発された。その特徴はp型半導体、n型半導体および真性半導体と三つの分類で分けられる特性を示す。その半導体の特性を解釈する理論が『バンド理論』であろう。しかし、その半導体特性をその理論で理解しようとしてもなかなか理解し切れずに来た。今は、自然世界に『電荷』の存在すると言う標準的な物理学理論の基本的解釈論拠を完全に信じられなくなってしまった。『電荷』が実在しないと言う自然観に立てば、『電子』やクーロンの法則の意味が無意味になった。そのような観点に立つ根拠として、物理学理論の基礎物理量に、『エネルギー』の実在性が全く認識されていない、その余りにも『考えない』不可解さに、科学理論の本質的矛盾の支配した姿の基が潜んでいると理解したからである。

 その一つの具体例を半導体と言う、特性材料に掛けて、『電荷』、『電子』の論理的矛盾を取り挙げたい。その pn接合 に、電気技術概念の『電圧』と『エネルギー』の意味を理解して初めて、自然科学理論の本質に『電荷』を据えるべきでないと分かる筈だ。

 太陽電池の原理-ダイオード逆流の不可解- 
 
 その前の、太陽光発電の原理 (2021/01/06) の記事で取り上げた回路を、初めてある解説記事で知った。そのような具体的回路例の解説は何処にも無かった。太陽光発電の半導体機能要素のpn 接合で、技術概念『電流』の流れる方向が、ダイオードのonの導通方向と逆であることを知った。その訳が『バンド理論』でどう解釈するのか、『電子』と『正孔』では筆者には、その動作を理解できない。その意味を、ダイオードとしてみた時、どう解釈すれば良いかを考えた。

 上の図の意味を考えるには、先ず『電圧』と言う技術概念量の物理的意味、物理量をどの様に捉えるかが基本認識として必要だ。
 
 ダイオードの n型が電圧降下の陰極側である。『電圧』の陰極側はその領域に『エネルギー』が高密度で分布した状態である。対して、p型は『エネルギー』のない極性側である。pn領域間には『エネルギー』の分布ギャップがある状態を『電圧』と言う技術概念で評価しているのだ。『電圧』がある空間は、その二点間の空間に『エネルギー』の分布密度差が有ると言う物理状態なのだ。

 ② エネルギー変換機能 はダイオードの極性としては『オフ』の極性である。だからそのダイオードは『オフ』の筈である。しかし、太陽光発電では光の『エネルギー』を n型側で余分に吸収して、『エネルギー』量の、pn 接合状態より、多い物理的特性状態になる。その光の『エネルギー』吸収分だけ余分な状態となり、外部に放出する電源としての機能を発揮すると解釈する。その為、負荷抵抗には電源電圧に加算した、太陽光の『エネルギー』分が加わると解釈したい。
 (2023/02/20) 追記。この回路が動作するには、ある条件が必要だろう。電池などの電源は、その『エネルギー』供給能力が十分大きい。電池の保有『エネルギー』を放出し切るまで電気回路の『電圧値』を規定値に保つだけの能力を持っている。pn接合素子も十分なその素子の電圧値に対しての供給『エネルギー』の能力が必要であろう。その電池電圧に対する比率で、ある程度の整合した『エネルギー』供給能力が必要であろう。実験・研究室があれば‥。pn素子の並列数と照射光の紫外線強度スペクトラム・・。

 この解釈は、自然世界に対する感覚的観照に基づく。『電荷』と言う物理概念を否定し、その論理的矛盾から、全て『エネルギー』一つでの解釈を基礎に置かざるを得なくなる。これらすべては、電気回路電線導体内に『電子』が流れる筈が無いと言う物理的原理に基いた原則に立っての認識による。

電荷と哲学対話

 (2023/02/13).

 長く科学理論の根幹を支えて来た歴史的物理概念『電荷』が、現代物理学理論の基礎に置いての論理矛盾の元凶であるとの認識にある。これ程の科学論の世界でちぐはぐな思いに至ってしまった事をどう繕えばよいか?

 前に、電流と哲学対話 (2017/06/18) がある。
 
 更に、電荷と電圧の哲学 (2019/10/23) がある。

 上の記事にもある、大学と基礎研究 なる記事でも述べた。決して企業研究活動として『電荷』とは何か?等と言う研究はしないだろう。それこそ、生活保障された大学の研究者が取りくむべき問題だ。今はそのような研究が許され難いかも知れない。期間限定の不安定な身分では、先の到達目標が明確でない真の基礎研究は競争的研究の審査を通過する関門で排除される。『学問の自由』という意味が、抽象的な謳い文句化してしまったのかも知れない。

 科学技術とその解釈理論は隆盛を極めている。それは夫々が、狭い専門分野の最先端研究で競争を競って進められているからだ。しかし、プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』がクーロンの法則で唱えられるように、『何故、引合うのかその訳は何か?』と言う疑問を抱かないのか、抱いても考えずに無視するのか。そこに自然科学の、何処か論理的な不整合が放置される今の時代性に原因があるのかも知れない。科学技術理論はどんどん広がって行く。しかし『電圧』とはどの様な自然現象を評価した概念かと、その意味を尋ねても、明快な解説を子供達に示せない、科學技術論と基礎自然科学理論の間の断裂、その不思議さ❓

 決して自然世界に存在しない『電荷』や『電子(負電荷)』の概念で解説しようとしても、『電圧』の物理的意味の理解、あるいは解説は無理なのだ。

 電子の論理矛盾の具体的問題。
理論物理学あるいは電気磁気学の専門家である皆さんにお尋ねしたい。特に大学などで教育に携わっておられる先生方に。

 ① 電圧、電界の物理的概念。 1.5 V の乾電池に電線を繋いだ。途中にコンデンサの平板電極も繋いだ。乾電池のプラス極に繋がる電線などの金属導体はすべて同一電位にある。同様にマイナス極側の金属導体も電池の負極電位にある。金属導体内には『電界』は無い。従って、プラスとマイナスの電線の間の『電圧』はどの導体間でも1.5Vである。
 〈問〉さて、そこで図のⓐ点(プラス側電線近傍空間点)とⓑ点(コンデンサ内の空間点)の『電界』は如何程か(勿論数値は分からない)。この場合の『電界』を決める要因は、どの様な物理的概念、物理量によって決まるか?

 ② 電子の論理矛盾。 1.5Vの乾電池を4個直列に繋いだ。その電源の電圧は6.0V となる。負荷抵抗に1kΩを繋いだ。負荷電流は I=6 mA と成ろう。
 さて、この回路電圧は 6.0V で、電線路間の空間の『電界』はどの様な分布となるであろうか。マイナス側から『電子』が流れ出しても、線路電圧 6.0V の発生原因とはならない。勿論、電池のプラス側からプラスの『電荷』に対応する『何か?』が流れ出すとの解釈論理も見当たらない。
 〈問〉 端子電圧を決める物理的原因は何か? それを決めるものは、電線路内の空間の物理的現象である。それが空間の『電界』と言う技術解釈概念である。と言う処で、技術解釈概念『電界』とはどの様な物理的現象を捉えた意味なのかを極めなければ、自然世界の真相を理解する事にはならないのだ。そこが、物理学理論としての学術の目指すべき道・目標であろう。

 〈問〉電源電池内の『電子』はどの様に流れるか。 電池電圧 1.5V の発生原因がどの様な物理的現象として決まるかが分かって居ますか?
 そんな極めて基礎的な日常生活の中の科学的論理性さえ曖昧な科学論の中で過ごしているのだ。標題に、『電荷』と哲学・・とした、「哲学」とは決して難しい事を対象にしている訳ではない。高校生でも十分に考えられる基礎的で、日常的な〈疑問〉を解き明かそうと思う事でしかないのだ。科学理論で、『電荷』が最初から絶対的な自然界の真理として『ある』と高圧的に、権威的に押し付けられているのが現状なのだ。自然は極めて純粋で、単純なのだ。人間が複雑な解釈概念を創り出して、創造して構築したのが現状の現代物理学理論なのだ。自然世界に『電荷』など実在しないのだ。原子構造理論も、その『電荷』概念によって構築された理論である。質量も『エネルギー』と言う物理学的測定法で測定不可能な空間の物理量によって局所化された結果の姿でしかないのだ。 E=mc² [J] と言う物理的意味も、空間の『エネルギー』E[J] が質量 m[kg] に局所化したからでしかないと解釈する。薪を燃焼すれば、『熱』と『光』の『エネルギー』に質量(炭素と酸素の一部)が変換される自然現象である。『炭酸ガス』になるだけではないのだ。

 電気回路現象は光のような空間の分布量を測定できない『エネルギー』の空間現象なのだ。物理量『エネルギー』を意識しない限りは、『電子』論の曖昧な解釈論に留まらざるを得ないのだ。『電子』論では、『電圧』の意味も解らないのだ。

太陽電池の原理―ダイオード逆流の不可解―

(2023/02/12). 『技術』と『理論』の統合失調症❓ー筆者だけが理解できないのか。

太陽光発電。

 ダイオードの pn 接合の素子の面に太陽光線を当てると、電気エネルギーを発生し、そのエネルギーを利用できる。その原理を利用した発電技術が『太陽光発電技術』である。

 しかし、その発電原理が理解できないのだ。ある国立の研究機関の解説『太陽電池の原理』を読ませて頂いた。そこには、『電子』が光からエネルギーを受け取る。エネルギーを吸収した電子を外に押し出す。外の電気回路で仕事をする(エネルギーを放出)。と当たり障りのない解説で、具体的な回路現象の解説はされていない。

 〈疑問〉 太陽光発電素子はpn半導体の接合面での電気現象(光電効果?)を利用した科学技術製品だ。しかし、その基本素子はダイオードと同じだ。〈疑問〉とはそのダイオードの電流の流れる方向が逆流なのだ。何故ダイオードの逆流現象によって発電が出来るのか? について全く解説されていないのが極めて不可解なのだ。

 回路構成。

下図の回路図の負荷側に逆流素子のダイオードを追加、訂正した。

 太陽光線を受ける半導体素子と回路の構成が①だ。そのB端子が電源のプラス端子、Aがマイナス端子の太陽光発電池の電源である。それが②の等価回路である。その電圧 Vg が直列に3個で電源電圧となる。前に、太陽光発電の原理 (2022/01/06) で参照させて頂いた図である。

 その電圧 Vg の回路構成を書き表せば、次の③図となる。

 この図を見れば、6個の発電素子のダイオードが直列で、電圧 Vg の発電電源と成っている。その電源から『電流』 I が流れだす訳だから、ダイオード内を逆流することとなる。ダイオードのオンできないオフの向きに『電流』が流れる回路構成だ。
 ④図はそのダイオードの素子の導通方向を示したものである。基礎理論の解釈と逆である。半導体の動作原理として、バンド理論が在る。初めに参考にさせて頂いた研究機関の解説と比べると、この半導体のpn結合面での『電子』の流れる方向性についての論理的解釈が示されていない点が極めて、不可解なのだ。

 根本的疑問。
 『電子』がどの様に光の『エネルギー』を受け取るのか。『電子』の運動エネルギーとして受け取るのか?位置エネルギーではないだろうと思う。『電子』の保有する『エネルギー』の論理的な解釈が無ければ、負荷に『エネルギー』を供給すると言う物理現象の原理とはならない。電池における電子の役割を問う (2018/05/24) の記事となった。
 

回路要素『抵抗』と超電導現象

(2023/02/09).

 超電導現象と呼ばれる電気回路の特別な状態が確認されている。それは、回路環境条件が極低温度状態で起こる現象である。

 何を以って、超電導と定義したのか? それでは普通の電気回路の電導とは『何』が『何処』を導通すると考えての事か?

 何故、電気回路の導線内を『電荷』や『電子』が導通できる訳が無いと認識できないのか。

 そんな意味も理解できないで、超電導現象などと特別の自然現象であるかのような、理屈の通らない科学理論が唱えられるのだろうか?論理性のない科学理論が横行する科学技術論の学術世界は、教育と言う子供達に対して行う大人、科学者の社会的責任をどの様に執る心算か。

 超電導現象は電線路で『エネルギー』損失が無い、その訳を超電導研究者などの専門家は金属導体内を『電子』が伝導する物理学理論に論拠を置いている筈だ。しかし、その専門家は『電子』がどの様に電気回路負荷に『エネルギー』を伝送するかの物理現象を解説できない筈だ。電線路のジュール損失即ち『抵抗損』と言う『エネルギー』損失が無いと言う電磁気現象の画期的な利点を、科学技術に役立てる事の可能性をその研究の眼目としている筈だ。その『抵抗損』がどの様な物理現象かを明確に理解して初めて唱えられる科学論になる筈だ。だから、懐中電灯の『負荷』は純抵抗負荷である。調理用の電熱器もその負荷特性は純抵抗負荷である。その抵抗は抵抗損を利用する製品だ。その『抵抗』と言う電気回路要素は電気回路で供給する『電気エネルギー』を『熱エネルギー』に変換する回路要素の機能である。そこで、『電気抵抗』はどの様な物理現象によって電線路で供給される『電気エネルギー』を『熱エネルギー』に変換する物理的原理に因るかを解説できなければならない筈だ。抵抗値と電流の二乗の積で抵抗損失電力のワット [W= J/s ] 
が消費されるなどと言う、数式で表現しても、それは『抵抗損』の自然現象としての物理的理論解析には成っていないのだ。そもそも、『電流』と言う電気技術概念さえ、その物理的意味を超電導研究者が理解しているとは考えられないのだ。『電子』が電線導体内を通る等と言う、自然現象として有り得ない解釈をする頓珍漢な専門家解釈が、科学理論の未来への混迷を増幅させているのだ。何故『電子』が電線内を通過すると、負荷抵抗に『電気エネルギー』を電源から届けて、負荷抵抗内でどのような物理現象を原因として『熱エネルギー』に変換できると言うのかを明確に解説できなければ、それは科学理論とは言えないのだ。

電池における電子の役割を問う (2018/05/24) がある。誠に申し訳ないが、科学論、現代物理学理論が何処かお笑い話に思えてしまうのだ。『電子』に魔術的機能を担わせて、科学者が考える基本を忘れてしまったようだ。

 要するに何を訴えたいかと言えば、電気回路現象で、負荷で消費する物理量は『エネルギー』である。直流であろうと交流であろうと、その電源は電気配線を通して、『エネルギー』と言う物理量を供給するのである。物理学理論で、その物理量『エネルギー』を意識しない、その『エネルギー』を『電子』でどの様に伝送するかと言う基本的な『考える』理学の基本、疑問を大切にする意識を忘れてきたのだ。そんな科学論が今まで科学常識として通用してきたのだ。これだけ科学技術の研究成果による恩恵を受けながら、みんなが何故『考える』と言う基本を無視してきたのか。高度な訳の分からない数学式に因った科学論に支配された状況から脱出して、市民が日常用語で解釈できる科学論の未来社会を構築すべきと思う。『エネルギー』と言う物理量が皆の目の前にある事を意識して欲しい。

電気エネルギーの伝送空間特性

(2023/02/09).

 新しい電気回路理論の確立に向けて。

 それには新しい物理学理論の革新が欠かせない。

 電気回路理論には決して『電子』や『電荷』は無用の過去の遺物概念である事を認識する事から始めなければならない。

「超電導現象」の物理的特性の本質を理解するには、電気回路要素の『抵抗体』の物理的空間特性を理解することが欠かせない。

 オームの法則により、抵抗に電流が流れれば、電熱器としての機能を発揮する技術製品に活用できる。それが科学技術理論である。しかしそれは、自然現象の原理を理解した『物理学理論』とは言えないものだ。確かに、科学技術による経済競争を制するという意味では、「これこれの現象が有る」だけを知っていれば事足りるかも知れないが。あくまでも科学技術理論なのだ。自然の世界を理解するという事は、これこれの現象を発見しただけでは事足りないのだ。その現象の奥に隠された、真理を理解しない限りは科学基礎理論の確立とはならないのだ。現在の科学理論の殆どは、それぞれの狭い専門分野の研究からの集大成として捉えられた総体を漠然と自然科学論と認識している状態だ。その結果、教育として子供達に伝えるべき、教えるべき『教育内容』には、自然科学論として極めて矛盾の混乱した内容になっているのだ。

 新電気回路理論の確立に向けて思う。残念ながら、研究室が無い者の30数年に掛けた漸くの結論が見つかったかと、「超電導現象」を考えながら思う。

超電導 その滑稽論理❓

(023/02/07).

 また御免なさい。世界の科学論に批判をする御迷惑を。しかし、こんな曖昧な、論理的に考えない科学理論の横行に我慢できないのだ。

 20aYE-14 超電導現象の誤解 日本物理学会講演概要集 第63巻ー2号-4分冊. p.691. (2008.9.20). 
  そこには、[電流と言う物理量は無い⁽¹⁾]  から始まる。

 誰も、恐らく『電流』と言う物理量が無いとは言わなかろう。しかし、その『電流』と言う意味をよく考えれば、そんな物理量がこの世界にある訳は無いのだ。科学技術量としての『電流』は有ると言える。そんな概念量『電流』を計測する測定器を開発した、その科学技術力は驚嘆に値する。

 然し乍ら、『電流』と言う『電荷』の時間微分で解釈するその論理性を、とことん追究すれば、極めて曖昧な概念である事に気付く筈だ。『電荷』とは何か?、その『電荷』が導体内の何処をどの様に流れている状態で、その時間微分とはどの様な意味かと具体的で、詳細な意味を確認すれば、そこには明確な理屈が成り立たない曖昧さ以外の何物でもない事を確認できる筈だ。要するに、誰も『電荷』の空間を占めるその像を描けないのだ。どんな物理的空間像かを考えないのだ。

 『電荷』に対する物理学理論の定義は。 『電荷』にはプラスとマイナスの二種類が在ることになっている。クーロンの法則で、+と-の『電荷』は引合うと言う。+と-と言う違いはどのような空間的違いを持つのか?その違いによって引合う力の発生理由が示されるなら、そこにその論理的な理屈が示される筈だ。しかしその点が根本的に欠落しているから、+と-の『電荷』が引合うと言う論理性等全く示し得ないのだ。そのような『電荷』の内で、『電子』が特別な意味を持っているが如く、あらゆる科学理論の根源的物理学的素粒子のように論拠として扱われる。具体的な論拠となる理屈も示し得ないままで。その『電荷』あるいは『電子』が金属導体中を自由に流れると、理屈もなしに唱えられる。『電子』と磁気の関係が理屈もなしに、論じられる。

 『電荷』が導体金属内を流れると、何故どの様な理屈で、電線導体から離れた空間にその電線導体内の『電荷』が『磁束』と言う意味不明な線束を発生すると言えるのか。その訳は何か?

 『電荷』の空間像も明確に示し得ないで、遠隔の離れた空間に何故、『磁束』と言う磁気的物理量概念(?)を発生できると言えるのか。何処にも、理屈など無いのだ。だから空間に『電荷』と同じく『磁束』等がある訳など無いのだ。

 物理学理論に、一体どこに論理性があると言うのか。『電荷』とはどの様な空間像かを示し得ない限り、そこには専門家としての社会的責任を果たしてはいないと言わざるを得ない。

 『マイスナー効果』。 『磁気』とは『磁束』が空間に張り出している空間像で捉える事など出来る物理量・物理概念ではないのだ。何処に『磁束』等が在るか?『磁気』とは『エネルギー』の軸性回転流でしかないのだ。

 

熱と光の『エネルギー像』

(2023/02/02).
前の記事が 熱と光の科学論 であった。

 図は焚火の様子を描いたものだ。焚火に当たると心まで温かくなる。その炎の揺らめきには、心を落ち着かせる何か不思議な作用が有る。古いいにしえからの人間の精神の歴史に触れるからかとも思う。
 焚火は木材、枯れ木の燃える物理現象だ。化学反応式は炭素と酸素の化合式となる。

   C + O₂ = CO₂ + (エネルギー)
 
 この化学反応式に最近はとても違和感を抱く。等号の左右の炭素Cと酸素Oの原子記号は何を表現したものか。ここに、科学論の表現法式の典型的な姿が現れている。その原子記号がすべて同じ原子を意味するとしたら、燃焼で人が利用する熱や光はどの様な物理現象によって得られたものと解釈するのか?この式のように、無条件で熱エネルギーが得られるとしたら、それはマジックの世界の話と成る。何故、無から『エネルギー』が得られるような表現式が化学式として、自然現象の解釈が許されるのか。『何故か?』と疑問に思わないで済むのだろうか。そこには理解できない人間の解釈論理が根底になった、自然と科学論の関係が出来上がっているように思える。
 

炎の中に、科学論を描けばどのようになるか。等と考えるのは、自然に対する人間の浅はかさかも知れない。

 それでも少し考えてみたくなる。熱と光は切り離せない密接な自然現象の関係性にある。白熱電球を見れば、そのフィラメントは赤く熱の塊に見える。焚火の炎も白熱電球も、その熱と光の関係の自然現象には基本的に差が無いように思う。こんな解釈論は、決して科学理論としての観方はされないかも知れない。随筆、文学論に近いか。しかしこの方が自然現象の解釈としては、誰でも日常生活での自然との接し方での想いとつながる、専門的な科学論の前に学習しても子供たちに、無味乾燥な記憶術に縛られる学習より、不思議だと思う感動に、興味を抱くのではなかろうか。

 さて、焚火を見てその赤く燃える炎の物理的意味をどの様に解釈すれば良いか。勿論炎が見えるという事は、見えない光が人の目、視神経に届くから、そこに炎がある事を認識できるのだ。炎が目に入る訳ではない。また、『熱エネルギー』も炎から放射されて、『輻射熱』として認識する。輻射熱がどの様な速度であるか、目に見えない赤外線なのかどうかも残念ながら知らない。温度の4乗に比例する放射則に従うと言う知識は教育によって教えられて知っているが、自分で確認した事は無い。輻射熱として放射される『エネルギー』も、その空間像を人は見ることはできない。その輻射熱として空間を伝播する『エネルギー』の姿、空間像を皆さんがどの様に認識しているかは分からない。決してその『エネルギー』には質量は含まれていない筈だ。炎の姿を人に知らせる物理量は、それは目に見えない光以外には無い筈だ。熱さを肌で認識してもその輻射熱の姿を知ることにはならない。見えないから観測対象の姿を人に見せてくれる機能を持つ「光」なのだ。光の姿が観えたら、身の周りの景色など人には見えなくなる筈だ。それは光に邪魔されてしまうからという意味だ。光が見えない物理量だから、人は周りの姿を、その光によって確実に見ることが出来るのだ。『光』は、『エネルギー』はその空間像を、科学的計測法でも、人の目でも知ることが出来ない。だから科学的な観測概念としての『振動数』が何かを意味するかを知ることはとても大切な事なんだろう。

 『熱』と『光』の関係をどの様に理解するかは大切な物理的解釈論の筈だが、その関係を未だ理解できないでいる。そこには決して『電子』などでは納得できる解釈論には辿り着けない。空間の『エネルギー』に対して、『電子』など何の解釈の助けになれないモノ(?)だから。『熱』から『光』への物理的変換現象の解釈論の『謎』を解きたい。