電荷の定義?

『電荷』が自然科学論の根幹で矛盾の権化となっている。これが科学論の論理性とは驚き桃の木だ。科学論には論理性等無縁と思える。

『電子』や『陽子』などが原子論構成素子として解釈の基礎となっている。原子は科学論を論じるに、意識するか無意識かに関わらず、自然世界の根源的概念となっている。その原子の中でも『電子』は普通の電気回路での『電流』と言えば、その『電子』の逆流等と、多くの検索記事で論説されている。学校でも『電荷』はとても大事な必須概念として教えられる。そこから科学理論の、教育によって考えずに、記憶する集団科学論の抜け出せない『地獄門』に入ることになるのだ。

それは教育の放棄にも等しい事だ。考える事から逃げているように思える。

しかし、『電子』はどの様なものかと問えば、10桁の数列の驚くべき精度?の数値で示される。ただ桁数で権威付けした、定義と言うだけの、説得性の何もない意味不明の提示がされている。

ところが、『電荷』とは何かと問うても、その『電荷』についての定義はない。

電気回路でコンデンサに蓄えられるものは『正』と『負』の『電荷』で解釈される。その『電荷』とはどの様なものかは一切不明のままである。『電子』でもなく、『陽子』でもなくまた、『原子イオン』あるいは『正孔』でもない。兎に角『電荷』で解説される。電気回路の解説で、『電荷』が論理の中に使われるとき、その『電荷』が『電子』でもなく、『陽子』でもなく、ただ『正』と『負』の『電荷』なのだ。『電子』でもなく『陽子』でもない、別の独立した『電荷』という物理量が論者の思い通りに、自由に、お呼び寄せられる極めてご都合の良い自然世界の「物理量」と成っている。科学者はとても有能だから、只思えば、『電荷』が『正』と『負』で天から降臨するようだ。それは、〈雷〉の科学論文にも、ただ『電荷』だけで論理が成り立つとの思し召しの論になっている。コンデンサの両電極に〈クーロンの法則〉を無視して自由に同一極性の『正』あるいは『負』の『電荷』が反発力を考慮もせずに御集合なさるとなっている。誠に自由な、科学的権威が取り仕切る概念の世界が、自然世界と別に存在するようだ。

だから『電荷』と言う物の空間像も、その物理的概念の『定義』も提示できないのだ。

『電荷』の概念?

電荷の論理性❓

自然世界の風景や日常生活あるいは科学理論の基礎の解釈において、本当に『電荷』がこの世界に在ると感覚的に実感しているのだろうか。『電荷』と『電子』や原子核の『陽子』は勿論同じものではないと考えるだろう。『電子』や『陽子』は『電荷』がその質量と言う物理的実体に、別な物理概念としてその質量に付加している訳だ。その意味での『電荷』はどの様な空間の実在体として、『電子』や『陽子』に特別な『正』とか『負』という機能を発揮する意味が有るのだろうか。『正』と『負』という自然世界に存在する物理的意味が、どの様な物であるかが明らかに説かれなければ、その『電荷』という物理的概念は意味が無いのだ。曖昧なままで、実在すると言うだけの権威に掛けた主張に従ってはいけないのだ。そこには科学的と言う論理性が無いから。

さて、上の(2)式で、『正』と『負』の『電荷』が結合すると何になるか?数学の論理に従えば、『0』になる筈だが、決してそうはならない。雷の研究者、専門家の論説では、『正』と『負』の『電荷』が折角離れたのに、何故か再結合して、稲妻の光放射に変化する。その光になる現象の厳密な物理的論理の解説はどこにも無い。『正』と『負』の結合が何故光の『エネルギー』の放射になるか、その物理的原理の解説は無い。白熱電球の放射する光の『エネルギー』がどの様な物理的現象によって発生するかさえ解説できない。『エネルギー』の流れの論理的解釈もできない。決して『電子』では解説できないのだ。それも全て『電荷』という自然界に存在しない物理量が、恰も自然世界の真理の如く考えたところに誤りの原因が有ったのだ。電気回路現象に『電子』は決して、その概念の意義は存在しないのだ。雷の光の発生原因をどの様な物理現象かを解説できなければならない筈だ。

上の(2)式の❓が如何なる意味かを『電荷』で論説できるだろうか。

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