湯川秀樹 渾沌そして素粒子

やり場のない本棚の整理。

片隅に湯川秀樹自選集1(学問と人生)、3(現代人の知恵)があった。それは全5巻の内の2巻しかない。それぞれ450頁程あるだろうから、相当の思索内容と分量である。偉大なるかなだ。

3巻の副題は 現代人の知恵 である。p 363. に『荘子』がある。p 375. に『老子』がある。

東西の思想 として、

『荘子』

その中の文章を拾わせてもらう。「南海の帝を儵(シュウ)と為し、北海の帝を忽(コツ)と為し、中央の帝を渾沌(コントン)と為す、シュウ(何故か2度と文字が変換されない?)と忽と、時に相共に渾沌(コントン)の地に遇えり。・・『人皆七ケウ有り、以て視廰食息す。‥之を鑿たん』と。日に一ケウを鑿つ。七日にして渾沌死す。」これは荘子の「応帝王篇第七」の最後の一節とある。

何故このような荘子の文節が湯川博士に取り挙げられたか?博士は幼少から漢籍に慣れ親しんだ家庭環境から、東洋哲学と『素粒子物理学』の関りを良く捉えておられる意味で、現代物理学の論理的矛盾を考えるにとても良いと思って取り挙げた。

上の文章で、渾沌と言う人物が七日で死す。その七日の七は、人には七つの穴が有るとある。渾沌が死す、その七つの穴を穿つ日数七の意味である。目、耳、口そして鼻、しかし残りの三つの穴の一つが『何か?』筆者には理解出来ない。『臍(ヘソ)』か?

p.365 の博士の文章:「私は長年の間、素粒子の研究をしている訳だが、今では三十数種にも及ぶ素粒子が発見され、それらがそれぞれ謎めいた性格をもっている。こうなると素粒子よりも、もう一つ進んだ先の物を考えなければならなくなっている。一番基礎になる素材に到達したいのだが、その素材が三十種類もあっては困る。一番の根本になるものは、おそらくある決まった形をもっているものでなく、またわれわれが今知っている素粒子のどれというのでもない。さまざまの素粒子に分化する可能性をもった、しかしまだ未分化の何物かであろう。今までに知っている言葉でいうならば渾沌というようなものであろう。などと考えているうちに、この寓話を思い出したわけである。」に驚いたのである。

驚いた事。

(1)今の素粒子について筆者が知る限り、十七種と理解している。何故博士の頃に三十種の素粒子だったのか?いつの時代に十七種に変わったのか?

(2)「渾沌」を『エネルギー』と読み替えれば矛盾が取り払われた物理学となる。空間の『エネルギー』を見ることも出来ないし、測定もできない。だから、渾沌の語句が『エネルギー』の意味に適合する。

以上電気回路現象からの物理学の『素粒子』認識である。

Bertrand Russell(バートランド・ラッセル卿)の有名な言葉「質量は単にエネルギーの一形態である。そして物質はほかの形のエネルギーになっていけないという理由はない. 物理学において基本的なものは物質ではなく、エネルギーである。」がある。質量の概念 マックス・ヤンマー著 大槻義彦・葉田野義和・斎藤誠 訳 講談社 より。

空間に実在する『エネルギー』を認識できない物理学理論は、自然科学の基礎理論としての意義が無い。特に『電荷』を基礎概念とした理論物理学とは一体何か?『電荷』の基礎概念としての矛盾に気付かない、『電荷』の何たるかを問わない素粒子物理学とは何か。一体『エネルギー』はどの様な素粒子によって存在するというのか?『光』はどの様な素粒子から出来ているのか?答えられるだろうか。

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