(2022/07/09)。『色』の物理学か哲学か?自然世界の色彩と教育に求める関りは、教育者の仕事とは思うが。
日常生活で、特別意識せずに見過ごしている。
愚かな者にしか気付かないことかも知れない。
社会生活の中で、人との関りに意識が向けば、生きるに生活費を気遣う中では、愚かに流される生き方はできない。
『色』等どうでも良く、そんな事には関りは御座らんとなる。
「えのぐ 筆先にのせたえのぐを 紙に刷く 色鮮やかに空に舞う その本源に秘めしもの 純な心を 如何に解くべき」
本来、絵の具に色がある訳ではない。
絵具の〈色〉の物理的解釈をしたいと心が叫ぶ。
絵具に色がある訳ではない。等と言ったら、笑われるかも知れない。しかし、その意味は光の物理的正体ぐらいは日常生活で意識していたいとの思いからである。
『色』とは何か?との問答になる。
本来、自然世界に『色』がある訳ではないのだ。
この彩り豊かな風景を目の前にして、そんな意味が通るか?と反論しても欲しい。反論や疑問の無い処に、認識、理解は進まない。
同じ風景を見ても、猫が観る色の世界と揚羽蝶が観る色の世界と同じと言えるか?確かめようがない問答になるが、恐らく違うだろう。そこに『色』の自然観が無ければならないと思う。
即ち「色即是空」に成るのだ。『姿象(スガタカタチ)』『存在』は『色(シキ)』である。その正体を突き詰めて考えた時、分からなくなると、『色(シキ)』が即ち是(コレカ)が『空(クウ)』という事に成る。『空(クウ)』とは見える現実の『姿象』の本質を見極めると、その姿象は人が観る表層の観察物であると認識するに至る。その意味はアインシュタインの『質量』と『エネルギー』の等価性に言う意味に通じる事である。ここにこそ、東洋哲学の『色即是空』がある。しかし残念ながら、空間の『エネルギー』が原子の質量になる意味で捉えられていない。光という空間を流れる『エネルギー』が即ち質量に成るのだ。それが素粒子即『エネルギー』という意味である。
『空』は空間に実在する『エネルギー』となる。その『エネルギー』は観ることも測ることも出来ない。
物理量であり乍ら、認識し難いから、現代物理学理論の基礎概念と成っていないのだ。
色彩の『色(イロ)』とは人には七色であり、見える姿である。人の色彩の色彩感覚は『比視感度曲線』と言う感度によって同じ強さの光でも、感度が異なる。赤外線も紫外線も見えない。
その色彩を生む光には、『色(イロ)』はない。光は無色透明の『エネルギー』の空間の光速度流の縦波である。
それを 純な心を如何に解くべき とした。
空間の『エネルギー』の姿の現れ方が色彩と理解して欲しい。
感覚的な捉え方でしかないが、揚羽蝶が互いに出会う機会はその『色彩』に特別の感度を持った生物的仕組みがあるだろうと思った。羽根の構造が光を波長変換する仕組みと共に。