日別アーカイブ: 2022年6月3日

昼光の物理

現代文明社会で『光』の意味を忘れている。

全ての人工的光を1分間でも消し去ってみれば分かる。

2011年の東日本大震災の夜、2004年の中越地震の夜が文明の光を失った姿だ。

2004年10月23日、午後6時前に震度6弱の地震に襲われた。外に飛び出した。近くの公園に集まった。暗闇の中で見上げた真夜中の空には、満天の星が輝いていた。不安の中で、煌めく星が命に広大な宇宙の清々しさを届けてくれたように感じた。慌てるのではないよ!と。

そんな宇宙を感じた事は無かった。人工の照明はすべて消えた。暫くして、空にヘリコプターがライトを点滅しながら回っていった。

精々1万年の昔には、昼と夜の中に人々が宇宙の中の小さな己を意識して、自然の営みの中で、祈りに重ねて、そこに生かされている不思議を思っていただろう。

昭和20年の秋。太平洋戦争が終わった秋。その頃には、この四季の正常な季節の循環が繰り広げられていた。そんな季節の回る時季に、2cm角もある『雹』が落ちる事は無かった。強風と言っても屋根瓦が吹き飛ばされるようなことは無かった。その訳を現代物理学理論で、解説できないようでは、その学問的意義をどう理解すれば良いかと不図思ってしまう。気象庁の仕事だ等と言って済まされそうだ。

空から降る、雨や雹は海から熱エネルギーによって蒸発した水が、水蒸気がその基なんだ。海水温度に気付かない振りをしているように思える。政治・経済活動の妨げになる事の不都合を避けたくて、見ぬ振りをする。

科学技術が栄える現代は、学術の専門家と言う、自然世界の現象を心で受け止めようとしない、実験室の中だけから解釈するお仕事が、皆をバラバラな勝手な解釈で、自然世界を観るように仕向けてしまったように思う。

出来たら、1年に1回は人工的光線の全くない、自然の輝く星空に祈りを捧げてみたい。贅沢な望みだろうが。

『昼光』。不図そんな言葉の意味を考えてみた。そんな『昼光』と言う状況を物理学ではどのように解釈するかと。

夜も電燈が煌々と明るいから、『昼光』など意識しなくなる。

昼は何処を見ても明るい。その明るい訳は何故か?

その光源は何処に在るか。

空が光源だ。そう気付いた。地球の周りの空の空気が光源だと。太陽光線が空気に当たって、その紫外線を含む太陽光線の波長の短い成分が波長変換して昼光と成る。地球の周りの空気が空から地球を光で包んでくれているのだと。

それが『青空』だ。空が光源だと。

その夜の空にはほとんど太陽の光が当たらないから、宇宙の星空に成るのだ。そんな日常感覚の物理的解釈をした。

物の色彩の不思議。昼は、何処を見ても、何を見ても、そこには必ず物の形と色彩が見える。色彩の無いものは無い。色彩とは不思議に思いませんか?

それを考えれば立派な物理学に踏み込んだことだと思う。光とは不思議で、素敵な物理量だと。