月別アーカイブ: 2022年5月

血液は何故赤い

血液には赤血球と白血球、更に血小板などが含まれているという。

赤血球は扁平状の中心が窪んだ球のよう解説されている。しかもそれが赤く示されている。

解説記事を見ると、赤血球には多くのヘモグロビンの分子構造体が含まれているとある。

血液が赤い訳は、そのヘモグロビンの中心部に鉄原子Feが一つあるという。その鉄原子の存在が血液の赤い理由の訳としてどの解説記事にもある。全体の分子構造体の構成原子数に占める『鉄』の数量からして本当か?と疑わざるを得ない。

そんな、如何にも当たり前のように解説されていることが理解できないのだ。ヘモグロビンが酸素を保持し、鉄と結びついて丁度鉄錆が赤くなると同じ現象が起きるからというような、如何にも素人を誤魔化すような解説記事に思えてとても不快だ。

追記。パルスオキシメーターで血中の酸素濃度を計測するとある。酸素濃度で血液の色が変わるから、測定が出来るらしい。その酸素がヘムと言う鉄と結びつくと恐らくヘモグロビンの構造が変化し、その為光の共振波長が赤色に変化するという意味なら理解できる。鉄と酸素が結合するだけで、赤血球全体の色が変わるほど『鉄』原子数が占めていると理解できない。もし赤血球表面をヘモグロビンが覆っている程多いなら、赤血球表面全体の構造変化で、血液の赤色で生命の危険性の信号という意味でなら分かる。

『鉄』と言う原子の物理的意味を考えている。マグネットが何故磁性を失わずに、磁気機能を保持し続けられるのか不思議だ。今、同期発電機の回転磁極と固定子電機子巻線間の空間ギャップを『エネルギー』がどの様に伝送されるかを考えている。その電気技術理論は『ファラディーの電磁誘導則』で誰もが、その発電機の原理・物理的原理が分かったと納得している。しかし筆者にはそんな物理的解釈が罷り通る現代物理学理論が不可解な解釈と言わざるを得ないのだ。

全て『鉄』の不思議に掛かっている。ヘモグロビンの鉄原子がそれほど『赤』の色を創り出すほど空間的にも影響力を及ぼすなど信じられないのだ。鉄系の磁性材料の物理的物性特性が不思議でたまらない魅力に思えるのだ。何の経済効果も生まないが、人を適当に茶化すような物理学理論が許されないのだ。何が原子構造の周回電子で物性特性の解説が出来るというのか?『電子』など自然界に在りもしないのに。

『鉄』の不思議は玉手箱だ。

太古から人は朝を待ち焦がれていたのだろう。

中国大陸に開いた漢字文化には、その人の叡智が凝縮している。

『朝』の古い字は上のような意味らしい。旁は船の文字と見る。

その文字形に表現した意味を絵図にして観た。

暗闇の中で、光の世界となる『朝』がどんなに待ち遠しかったかを思う。そんな心の象形を景色に描けばこんな絵図かと。

『電気エネルギー』の現代社会性に重ねて思った。

発電技術とエネルギー伝送空間

今日の生活を支えているものは『電気エネルギー』である。それがライフラインとして欠かせない基盤をなしている。

火力発電所あるいは汽力発電所。『熱エネルギー』と『水』がその技術の根幹を成している。『水』とは誠に不思議な物質である。その自然世界の物質・水が織り成す世界を物理学理論でも意識して欲しい思いの意味も込めて取り上げたい。

科学技術が生活の豊かさを支えている。その中には、水道水と火力エネルギーが基本と成っている。今は火力と言っても都市ガスもあるが、電気釜や電気こん炉(induction range)の他、熱変換器のクーラー、冷蔵庫、電気温水器がある。更には電話機、PC等の情報機器、テレビそして作業機器の電気洗濯機がある。

日々の生活で当然のごとく無意識で生活しているが、『電灯』が如何なるものかを考えればそれも不思議に思える。蝋燭やランプが近代生活以前の日常の生活であった。朝日をどんな思いで人は待ったかと。火を起こすにも、70年前には、マッチが欠かせなかった。杉の枯葉や硫黄の付け板を使っていた。毎日、竈(カマド)で米を炊き、盥(タライ)と洗濯波板での、固形石鹼を使って洗濯に長い作業時間を使っていた。学生時代には、洗濯で指の皮が傷付く程だった。そんな昔の暮らしぶりを知る人も少なくなった。全ては電線路を通して供給される「電気エネルギー」が無意識の中で生活を支える基盤となった。

その現代生活を支える科学技術の身近な設備が発電所であろう。

汽力発電所。それは熱源(石炭、石油そして原子力)の『エネルギー』を、『水』を介して電気の『エネルギー』に変換する科学技術設備である。蒸気機関が産業革命の象徴であり、蒸気機関車がその雄姿を印象付けていた時代は消えた。

その『エネルギー』は何処でどのように変換され、どの空間を生活者まで届けられるかを意識してみてはどうか。それが考えて欲しい物理学の『エネルギー』の概念である。『エネルギー』はすべて空間の媒体を通して『空間』を流れるという意味を。しかし、その空間を流れていながら、その『エネルギー』の量ジュール[J]を科学的な計測法で測れないという自然世界と科学技術理論との間に横たわる『不思議』という意味が有るのだ。その中で、水蒸気はその流れとして『エネルギー』が観える。機械的動力の伝達となるタービンから発電器への軸回転動力 T= ωτ [J/s]  も軸内の断面積空間を流れる『エネルギー』として捉えられる。しかし、空間を『エネルギー』の伝送と言う物理的意味が理解されないのが電気回路の現象である。

発電機は『同期発電機』で磁界 N S 極を回転させて、固定子側の巻き線に『電気エネルギー』を発生させる機能設備だ。回転子と固定子側の間は空間ギャップで隔てられている。その空間を『エネルギー』が伝送されない限り発電機から『電気エネルギー』を電線路側に伝送する事は出来ないのだ。

この『エネルギー』の空間伝送の現象が電気設備においては、その意味が認識できていないのだ。そこに物理学理論と科学技術理論との間に横たわる論理的な概念の断裂が在るのだ。

電気理論では『電圧』と『電流』という科学技術概念を定義して、電気科学技術用の特有の理論を完成したのだ。しかし、自然世界の中に『電圧』や『電流』という物理量は存在しないのだ。自然世界は『エネルギー』という『光』の姿で見える空間を流れる物理量・ジュール[J] しか存在しないのだ。

極めて巧妙な技術論として、『ファラディーの電磁誘導則』が創造された。それに依って空間を直接『エネルギー』が流れるという物理現象で、自然の中の電気現象を解釈しなくても、巧みに完成した『電圧』の誘導現象で解釈出来る方法に完成したのだ。

それは発電機だけでなく、基に成った変圧器の離れた巻き線間での『エネルギー』の伝送の解釈を可能にしたのだ。

この電気磁気学理論の『電圧』と『磁束』そして『電流』という巧みな解釈概念を構築した事によって、誰もが納得して理解し易い電気理論が完成したのだ。

その電気理論の完成度が抜群であったが故に、その『電圧』や『電流』の物理的真相を、それらの自然世界での実相を考える必要もなく今日まで問題が無かったのだ。しかし、結局『電荷』や『電子』を導入しなければ、厳密な論理性が保障されていないと思わざるを得なくなったのであろう。だからその弊害が、今でも検索情報の中では『電子』の逆流と言う解釈によって『電流』の意味を説明しなければならない状況を生み出しているのだ。やはり論理的矛盾を取り除けないままで、『電子』によって誤魔化しているのが現状である。送電線路の『電気エネルギー』伝送も三相電線路で囲まれた電線路の空間内を流れているのであるが、『電子』では空間の『エネルギー』伝送の解釈は不可能というジレンマにある筈だ。

冒頭に掲げた『汽力発電系統図』に番号①、②・・と付けた各部分の『エネルギー』の空間伝送の物理的意味を具体的に各論としてを考えてみよう。

光を色に変える

この地球上は華やかな彩で変って行く。

花の色は 移りにけりな いたずらに ・・  。 小野小町

と高等学校の古典の教科書を飾るらしい。

春 華やかに咲き誇っていたのに、時が過ぎて 不図気づけば 我が身の上にも もう秋の侘しさが。

花だけでなく、植物は不思議の世界を見せてくれる。

出猩猩と紅要

春の色。

出猩猩。

 

 

 

 

紅要。

 

 

 

 

 

春過ぎて。未だ春の内かと思えども既に初夏の匂いか。

出猩猩は緑に輝く。

 

 

 

紅要も新芽の色から緑色に変わる。

 

 

 

 

何気なく自然は過ぎて行く。その景色の色の移り変わりも不思議と思う。秋の紅葉は良く知っているが、出猩猩や紅要の色の移り変わりも?

空を見ても、太陽が変る訳ではない。同じ光の中で、同じ植物の葉の色が何故変わるのか。葉に当たる光は、季節に変わりなく同じだ。葉の成長が表面の細胞の形状を変えて、その内部空間構造によって反射光の色が変化するのだ。

自然は、光自身の空間構造の意味を教えてくれている。理科教育はそんなところから始めて欲しい。

 

重力には逆らえず

重力と言う不思議な力。

1987年の冬の事、他人の名前(自分の名前の研究室はない)の表札が掛かった研究室から窓の外を見る。其処に映る、降りしきる雪が不思議に寂しさを呼び込む。『静電界は磁界を伴う』の電磁気学から物理学理論の根幹を問う電気学会の年次大会の『予稿』を投稿して。

愚かながら、その2年前の昭和60(1985)年4月。突然「電気磁気学」の講義を仰せ付かって、その授業担当と成った。能力不足の者の授業で、学生には不満であっただろうと申し訳なく思っている。長く電力半導体制御工学の研究しかなかったから、教えた事もない突然の「電気磁気学」の授業担当だった。しかも、初めから「アンペア―の法則」は嘘だと確信していた始末だから、そんな思いは心に秘めて授業をしなければならない。-(トランジスターインバーターの回路動作を電気理論で取り上げて教えれば、磁束は電圧時間積分値で決まると分かるのだが。伝統的教育手法が技術理論のそれを許さないだろう。)ーその思いを抱いた2年間の授業での研究の総括として、論文予稿『静電界は磁界を伴う』の提出に成った。しかし、2年間が過ぎれば、また元の木阿弥に戻る約束であったから、全く先の事など考えもしなかった。そこが世間知らずの、幼稚さだった。

雪は真っすぐに等距離を保って降り落ちる。決してその雪片の間には引力は働かない。その当時は、先の事など全く知る由もなく、只成り行き任せにボート生きていた。

その時から17年後に、 29pWD-1  ニュートンの万有引力則の矛盾 日本物理学会 第59回年次大会。2004年。

この予稿の扱いには不思議なこと(?)がある。この2004年は申年であった。万有引力を思って、年賀状に刷った。秋には、10月23日(土)の夕刻6時前、中越地震に襲われた。12月24日頃と思うが、スマトラ島沖での大津波が発生して、大きな災害が起きた。地球内部の息遣いと、そこに生きる者には逆らえない宿命かも知れない。

 

科学とは 蒟蒻ほどの手応えで 掴み切れない 君によく似て

等と思い乍らの版画にして。

 

こんな版画を刷るから、地球が怒ったのじゃあるまいが?

それにしても申年は恐ろしい。

 

17年も前に思った窓の景色。不図不思議だと思ったことを引き摺って、投稿するなど何の因果か不思議な事があるもんだ。

万有引力則の矛盾と言っても、誰も重力や引力に疑問など抱かない。「万有引力」と言う重力理論が人の感覚を支配していると言った方が良いのかも知れない。それは感覚的に誰でも納得できる自然法則だから。リンゴが落ちる現象から偉大な法則が唱えられたと成っている。この大地に生きて、そこで経験する日常の身体に感じる感覚が引力を疑うなど許さない。

2004年当時の矛盾と言った矛盾の意味と今の想いはまた別の意味に成っている。それは科学理論としての意味を考えた時、確かに現象は引力、重力であるが、何故『質量』の間に『引力』が働くのかと疑問を抱けば、その訳を説明できるだろうか。『電荷』間の『引力』や『排力』の論理性と同じく、自分を納得させるだけの、その訳を説明できないのだ。

『質量』と『質量』との間にどの様な論理的な原理で『引力』が働くと解説できるのか。地球の『質量』を計れる訳でもなし、この『万有引力』が働くという法則の真偽を、重力の発生するその値の訳を実験的に証明が出来る訳ではないだろう。ただこの『重力』の意味の解釈論として「万有引力説」がとても感覚的に納得し易いという点で、皆がその説で解釈することが有効であることは間違いない。

だが、宇宙の『重力』等と言う話になると、そこには『質量』と『質量』の間に『引力』が働くという原理的な意味を説明するに、論理性が必要になると思う。『電荷』間の「クーロン力」と同じ意味での科学的な論理性が必要になる。長く自然科学の根源的『電荷』概念の支配論が、今怪しくなっていると言わなければならない事を思えば。何故『質量』間に引力が働くと言えるのかも考えれば分からなくなる。

最近日本の😋蜜入りリンゴがあまり食べられなくなって寂しい。それは美味しいリンゴは輸出に回る所為で、資本主義の本質的に持つ宿命の仕組みに因るからと諦めてはいるが。

長岡工業高等専門学校電気工学科、助教授。「電圧型PWM変換器を用いた瞬時無効電力補償装置の動作解析と設計法」 が 電気学会 106 巻 4 号 p.323-330. 昭和61(1986)年4月号 (61-B39) に掲載。しかし、その先の見通しは全く見えなかった。文部省共済組合の組合員かどうかなど全く意識にも無かった。

 

熱と光と温度

「物理学とは何だろうか」。この標題は誰でも気になる事を言い表している。本棚に片割れの(下)が残っていたのに気付いた。有名な科学者:朝永振一郎の著書だ。

折角だから、一応興味を持って読んだ。しかし、自分のような学識論に無学の者には理解できない内容と直ぐ分かった。

その一部が3頁にはじまる冒頭にある。

第Ⅲ章 1 近代原子論の成立

・・・、物理学者が原子の世界に足を踏み入れたのは、熱を単にエネルギーの一形態だとする考えではこの不十分さは除去できないと分かったからです。もっと具体的に言えば、熱エネルギーは原子の運動による力学的エネルギーだ、という考えに彼らが取りくみはじめた‥

と読んで直ぐ、感覚的に×を印したくなる。確かに内容は現代物理学理論の意味を解いている。しかし小生にはそれが受け付けられない内容なのだ。小生には、この論理『質量』の運動論的熱理論が受け入れ難い基本点である。

そこで、本棚から気掛かりな読んだこともない本 :カントの『純粋理性批判』篠田英雄訳 岩波文庫 を探し出した。しかしこの本も、(上)巻だけで、(下)巻が無い。昭和38(1963)年6月30日 第三刷とあり、古く紙質が茶色にくすんでいる。

57頁

緒言  Ⅰ 純粋認識と経験的認識との区別について

我々の認識がすべて経験をもって始まるということについては、いささかの疑いも存しない。我々の認知能力が、対象によって喚びさまされて初めてその活動を始めるのでないとしたら、・・

と言う部分を読んで、感覚的に共感した。自分も近い思いの解釈だと。

物理学は自然との心の共感を基に在るべきと思いたい。

もう一冊見つけた。『科学と方法』ポアンカレ著 吉田洋一訳 岩波文庫。

第一遍 學者と科學

第一章 事實の選擇

トルストイから見れば、「科學のための科學」とは不合理な概念であるという。・・・。

溢れる話題を深く、鋭く論じていて読みたいと思うが、さてどうかな・・。

熱と光と温度 の標題を選んだ訳は、熱現象の科学理論がとても複雑で、感覚的に自然現象の解釈としては基本的に方向音痴の理論に思える。『質量』とその運動エネルギーに意識が強く偏った理論に成っている。空間に実在し、しかも『質量』に関わりない『エネルギー』の存在に気付いていない論理は基本的に間違っている。原子や分子の運動エネルギーで解釈する「気体分子運動論」は間違った自然現象解釈論である。その点を意識した標題である。

『熱』とは何か?『温度』とは何か?それらと『エネルギー』との関係をどの様に捉えるか。光の『エネルギー』をどの様な空間認識で捉えるか。

光も熱も、その自然の実体は基本的に同じものであり、それは空間に雲のような物に似た姿で、科学的計測法で捉えられない『エネルギー』の流れなのである。ただ違いは『光』は光速度で流れる『エネルギー』の密度分布波であり、『熱』は質量体、物体の内部空間に留まった『エネルギー』の局所密度分布流である。花の花弁内の分子構造空間内で変換されて放射される前の状態の直線的な流れで無いから、状態としては『熱』に近い『エネルギー』である。花弁の表面から周波数変換されて外部に放射されれば『光』となる。植物の細胞内で『同化作用』という現象を経れば『光』は『質量』となる。その植物の木が枯れて焚火に成れば、また『光』や『熱』と転変万化の自然の仕組みの中に流れる。『質量』の運動エネルギーによる『気体分子運動論』は自然の真相を見ない滑稽な現代物理学理論の認識だ。そこには『温度』の意味も見えない筈だ。

光がどの様な物理的実体かは、目の前の自然の色彩、風景の色あるいは揚羽蝶の羽根の色を見れば、何となく感覚的にその本質が感じ取られるのではないか。図は紫外線が物の表面に入射し、内部空間構造内で共振現象などによって、周波数変換後波長が変換されて、放射される意味を描いてみた。みんな空間の『エネルギー』の密度分布波だから、自由を謳歌する自然の姿と解釈する。

熱力学で『エントロピー』や『エンタルピー』という概念がある。それらの意味はとても不可解である。

例えば、1気圧で、水1[kg]の0[℃]と20[℃] における『エントロピー』、『エンタルピー』の値はそれぞれ幾らでしょうか?

また、『温度計』は何を計るのだろうか。天気の良い日向に『アルコール温度計』を置いた。その指示値は何を計った事に成るのだろうか。『温度』とは何か?

『温度とは何か』が問うもの (2011/05/07) はそんな意味を問う心算であった。

結局、原子構造論が小生には理解できないのだ。『電荷』がどんな理由で『引力』や『排力』の原因となるかの論理性が無いから。

『論理性』をもった、哲学的な考える物理学理論であって欲しい。

怪しさに❓どこまで我慢を!

(5月25日)。先程、午後2時40分ごろ、意味の分からないヘリコプターからか『空情報』が轟音を立てて上空を行き過ぎた。

自分探しの前に、気付けば愚かな自分を知る。

『国家』や『政府』と言う意味についてさえ考えてもいなかった。全く無知であった。憲法の意義も、三権分立の意味も全く知らずに来た。昭和最後の年(1988)に、自分の居所が無いのだとようやく気付き、電気学会での、電磁界理論研究会の発表を最後に、人生の意味と自分探しの放浪の旅を始めた。それから、有斐閣の『六法全書』なども購入し、社会の意味を考え始めた。その分厚い2巻の本も何時の間にか消えて、今はない。多くの物が、何の因果か、この住処で消えて無くなった。先日も気付いた。何の意味か知らないが、有り触れた本「朝永振一郎著、物理学とは何だろう 上」が消えて、「下」だけが残っている?怪しさ取り囲まれている。とても悲しいのは、自分で半田付けした古い『テスター』も消えてしまった。それは数年前だ。相棒が消えた

過去を振り返れば、どの時も人生を生きる足跡が全て曖昧のまま、生きてきた証が茫洋として霞の中に消えてしまう。

舞鶴鎮守府への『戸籍転籍』 昭和14(1939)年12月1日に戸籍が転籍された。風雲が怪しくなったので、父は戦争へ行くの避けるため、「日本発送電株式会社」へ10月1日に入社した。しかしその12月に、内務省関係による『戸籍転籍』の処置が執られたのだと思う。当初は、長野県栄村志久見および新潟県中魚沼郡鹿渡の東電社宅に住む。その後舞鶴海軍住宅に。京都府舞鶴市溝尻 海軍住宅に終戦の1945年8月15日過ぎまで住む。一戸建て平屋が4戸ほどあった。その一つに住む。その前には、塀が巡らされた一戸建ての立派な住宅が並んだ、海軍住宅地。昭和16年9月召集令状、その後父は巡洋艦「香取丸」の『在役艦』となり、戸籍が「香取丸」に移動となった。昭和19(1944)年2月、香取丸は被弾沈没、同年3月31日船籍除籍となる。戦後75年間の不可解(2020/06/23) 。

その恐ろしさを今になって噛み締めている。遅まき乍ら、過去の意味を知りたいと昨年の暮れに、思い切ってお尋ねをした。20年程前の昔にも、理事長様にも確認などお手数をお掛けしたが、何処かの大学の曖昧なお便りだけで、矢張りどこの『共済組合』に加入していたかは解答が無く、意味不明に翻弄されたまま今日まで来た。

『個人情報保護法』が有るらしい。総務省主管か?

『行政機関の保有する電子計算機処理に関わる個人情報の保護に関する法律』(昭和63(1988)年12月16日 法律第96号) 施行、平成1(1989)年10月1日。

個人情報の開示請求。

しかし、未だに正式な、理事長様からの御回答が頂けない。

如何わしい偽情報だけがある。

その訳は何故なのか?

私には、人権が保障されていないのか?

今年の春、2,3月から周りに変化が現れた。それも、怪しさの空情報が空を駆け巡るだけで、自分が関係しているらしき事を、自分が知らずに周りが知っているかの怪しさだ。自分には何十年も同じ空情報だ。今日も何かの意味あり気な『紫花❓』の壁絵に先程(pm:2.30)変わった。

情報公開請求に御回答を頂きたい。無いなら無いと、私の精神的混迷をお助け下さいますよう切にお願いいたします。

健康保険証は身分証明書か  。

 

化学反応式の物理的不可解

化学反応式の物理的不可解とは何かと思われるだろう。

化学方程式として表現される式の意味が分からないから、疑問を拾い上げて、科学理論としての論理的な意味不明を考えたい。こんな基礎的な事迄分からないでと自分の社会の共通の科学常識に同調できずに、反論し続ける世間常識的無能に情けなく思う。情けないのは、社会常識、人との関係に余りにも疎い自分を今更ながら思い知らされている。

この頃思い知った。小学校から、大学まで、入学式及び卒業式、また成人式など有とあらゆる人生の『式典』のお祝いを受けた記憶が全くない。人としての存在が否定されていたのかと恐ろしくも思う。

何時までも人生の意味も無いままかと惑いながら、どうすれば社会的存在感を得られるか?何も分からない家族にも申し訳なし。

事の始まりは1970年頃にある。トランジスタインバーターの半導体制御技術に驚嘆したのが切っ掛けとなった。電気理論の中の基礎中の基礎の「アンペアーの法則」の怪しさに気付いた。磁束は電流によって発生するのではないと。そこから、具体的な電気回路動作を確認しながら、伝統的な科学理論が決して自然の真理を唱えるものでは無いと深く認識するようになった。電気回路の具体的な現象解析を自分の得意分野と認識するにつれ、科学理論全体との葛藤が始まった。様々の不可解に遭遇し、その後は科学理論の虚飾に満ちた姿に辟易し乍ら、『静電界は磁界を伴う』の原点の認識を生かすべく。儚い奮闘努力を重ねて来た。最近漸く、光の空間像認識 (2022/04/17) 等にも纏めた。その基は偉大なるアルバート・アインシュタインの『特殊相対性理論』の間違いに気づいた事に在る。自分に居場所がない事に気付き、過去の人生の不可解を探しながら、研究を続けてきた。『特殊相対性理論』の間違いを確信したのは、「病窓に 満月迎え 除夜の鐘」の歌に悲しみを込めた、1990年12月、新潟県から処置入院と統合失調症と言うお墨付きを頂いた年の明けたお正月の1,2週間に纏めた光の全てが『特殊性』等どこにも無く、全て『相対性』で観測されるという結論にある。『忘れるべくして、忘れきれない不可解』(2022/05/‥  )と共に。

今は電気技術概念での『電圧』や『電流』の基本的意味さえ、自然科学理論の基礎となるべき物理学理論で、その真相、自然現象との関係が分かっていない事を理解した。『電荷』や『電子』が、自然世界に存在しないものであったという驚くべき真相に辿り着いた。

世界は科学理論の姿をどの様に、未来に向けて認識すべきかが問われる。小生も何か役に立ちたいとは思いつつ、観えぬ先行き❓

それにしても現実を考えてしまう。

大学の専門的学術の教育に果たす意義を考えてしまう。『エネルギー』を、[J]の意味を基礎とした日常生活に根差した自然科学意識を子供たちに教えて欲しい。それが『基礎理科』の筈だ。生徒も、理科の「勉強が好きだ」が少しは増えると‥。IT検索で化学反応式の解説を見るにつけ、燃焼熱、生成熱の意味はこうだから覚えて置きなさい、と自然現象の不思議な意味を『何故?』と考える訳でもなく、味気ない過去の解釈法の伝達解説に終わっている。気分は最高に『嫌気』が射すような解説だ。子供たちへの勉強が好きですか?に対する調査結果が10数%もアリナント!若い貴重な精神構造に、嫌気を植え付けて平然と居られる社会意識構造日本を思うと、将来が危ぶまれる。

本題。

化学式の物理的意味?

良く知られた3つの化学方程式を取り上げる。3つとも酸化現象とも見られよう。

C + O₂ = CO₂ + E(C)                                                   (1)

H₂ + (1/2)O₂ = H₂O + E(H)                                     (2)

C₆H₁₂O₆ + 6O₂ = 6H₂O + 6CO₂ + E(糖)           (3)

ここで、各式の化学反応の式の『=記号』後に記した E(X) は酸化反応によって発生した『エネルギー』の量ジュール [J] を表したものである。他に表現のしようが無かった。元素記号はそれぞれ、1モル等の規定の原子量[kg]とすればよいのだろう。

(1)焚火の反応式。その反応式が (1)式だ。

焚火等の燃料である薪あるいは燈油等の化学反応の燃料の主成分は炭素 C で良かろう。

(2)燃料電池の反応式。この反応式は (2)式だ。

燃料電池式自動車の燃料は高圧ボンベに詰めた水素ガス H₂ のようである。

(3)呼吸燃焼反応。この場合はどの様な式で表せばよいか、余り示されていない。自己流の感覚で解釈して表したのが(3)式だ。主な燃料は血液中の『ブドウ糖』としても良かろうと思って E(糖) と表現した。身体の『エネルギー』供給源は血液中の呼気の酸素との酸化現象と単純な感覚的脳で思う。科学実験では予想も付かない血液と言う溶液中の酸化反応は⦅ヘモグロビン⦆の持つ不思議な酵素機能に因るかとも‥。

自分が生きていられる化学反応式を呼吸作用で考えた。

〈疑問1〉『エネルギー』と元素記号の混合式で、その式の『等号』の意味をどの様に解釈すれば良いか。

子供達もこんな疑問を考えるのが自然科学の教育の意義と思うのではなかろうか。元素記号で表現した意味は具体的にどのようなものと解釈すれば良いのか。

『質量』か?あるいは原子の空間構造か?

焚火の科学 (2018/05/26) で炭素の酸化を考えた。

統合解釈例。考える科学論の姿を求めて一つの解釈例を提示したい。

冒頭の絵図に対して、化学方程式の意味を表現してみた。炭素原子と酸素原子を加え合わせても『等号』で表現するような意味には成らない。単に炭素と酸素が結合して燃焼の光熱『エネルギー』を発生する訳の解釈を表しているとは思えない。化学方程式の表現法は、そこには多くの解釈上の条件があって、それをすべて理解した上で、伝統的な科学論理の手法に習熟した解釈法でしかないのだ。巷の解説も、教科書の解説もその社会的な科学常識を覚えて、社会組織の同一認識軍団に所属しなさい。と強要している様な気がする。

質量とエネルギーの等価性(追記)。

質量 m[kg] が『エネルギー』と等価である。という意味を、皆さんはどの様に解釈するのか。

E = mc² [J] は

m= E/c² [kg] とどちらの式でも解釈できるという意味である。

あのものを燃やすときの火力を、熱の強さを肌身に感じて、炭素Cも酸素原子O₂も何もその質量が変らずに、炭酸ガスと『エネルギー』が発生するというなら、『無』から『エネルギー』が発生するという可笑しな魔術原理の科学論となる。

炭素が酸素と化合するには炭素のガス化が必要だ。炭素がガス化すると何故酸素と化学反応が起きやすくなるのか?そんな単純な疑問が、一つの考える意味と方向付けをしてくれる。それが「考える」という事の大切な意味であり、理科教育で自然の中で起きる現象を楽しく学ぶ姿勢であるべきと思う。工学的な意識で、炭素の燃焼を解釈すれば、炭素のガス化にはその種火が必要だ。燃焼熱の『フィードバック』が化学方程式に組込まれていなければ、燃焼の連続的現象は起きない。そんな意味で「考える」という事を表現してみた。覚えるだけの教室授業では、少しも理科の楽しさには成りません。

ここでは(1)の炭素の燃焼だけで終わる。(3)の呼吸の意味などになると、「考える」ことの楽しみがとても多くあるように思う。医学生理学の基礎知識もないが、液体の血液中での酸化現象が『体温』維持機能の人の基礎と思う。さて❓❓

みんな科学常識から逸脱したような内容で、伝統的な集団統一化の社会組織には誠に不都合かもしれない。そこにこそ『学問の自由』の意義があるのだ。ユネスコの憲章の精神を思って。『電荷』概念の否定を真髄として。

天然の光と色

天然の光。

この地球星に届く光はすべて天然の光だ。晴れ渡る夜空を人里離れた山の上から見上げれば、そこには零れる程の星が輝く。それも星から届く光があるから見えるのだ。しかし、この地球星に満ちる光は、向き合う太陽からの光がその全てと言っても良い。

夜に真赤なバラの花を見ても、殆ど赤い色では見えない。星からの光では赤くは見えない。花もおやすみが必要なんだろう。命にはリズムが必要だから。

花は、何故彩り豊かな色彩と象を見せているのか。単に花の個性と言うだけでは、自然への哲学の欠けた観方だ。

春は花が溢れる。陽の光は植物にとっては命を創る基だ。植物はこの地球上に生まれた。それが地球を太陽光線との共同作戦で、生き育ててきた。恐らく植物が、すべての原子も水も酸素も有機分子もその創造の機能を担ってきた。その御蔭で、虫も動物も命を育むことが出来た。人も太陽光線を若い時に沢山浴びると、副腎皮質ホルモンを創り出す機能に関係した副腎を鍛えるらしい。しかし、基本は植物のあらゆる栄養の製造機能に負って、あらゆる生物は生きられる。せめて、植物には地球上に、コンクリートジャングルの街中にもその命輝く姿を整えるのが生物多様性の在るべき理想だと思う。

その命の輝きを誇る植物の想い、それが花に託された姿と鮮やかな天然と言う色彩かも知れない。

そんな思いで花の一片を見つめたい。何も言う事は無い。美しい純粋な命の象。

木瓜(ボケ)。

 

 

 

 

 

深山苧環(ミヤマオダマキ)。

 

 

 

 

 

花海棠(ハナカイドウ)。

 

 

 

 

碇草(イカリソウ)。

 

 

 

 

岩八つ手。

 

 

 

 

 

日本雨蛙―遊歩道で―

忘れられない事、その一つに「日本雨蛙」がある。

『電荷』と同じく、専門家の学識、解釈を否定するようなことが多くて、『日本雨蛙』の「オタマジャクシ説」の否定まで、誠に申し訳なく遺憾に思いながら!

2006年6月26日。雨上りの昼頃、遊歩道上でやっと撮った。日本雨蛙の産まれ立ての姿。長く、日の出前の散歩で、小さな雨蛙を見てきた。産まれ立てでも、逃げ足は素早く近寄りがたいのだ。まして、メジャーで寸法を計るのはとても困難だ。1.5㎝に満たない寸法で、スマートな形だ。日本雨蛙は産まれ立てでも、既に雄と雌に違いが有るように思う。この写真は雄のようだ。

この写真は、「雨蛙 その謎」2006年7月20日発行文集の裏表紙にも使った。その2006年7月24日頃の、NHK朝7時のニュースで文集を『ニセ科学』の集まりで取り上げられている様子を見たと記憶している。勿論、雨蛙の専門家は「オタマジャクシ説」であり、小生の日本雨蛙は産まれて、人の目に付く時には決して尻尾は見せない等の解釈は『ニセモノ論』となるようだ。奇跡の遭遇 (2021/10/25) にも関連して。

この日の遊歩道で、幾つかの写真を撮った。その前日から梅雨の終りの相当の雨で、土が柔らくなって、深夜に「日本雨蛙」が生まれるに適している筈と、予測して写真を撮る心算で出掛けたのだ。予想が的中して、多くの産まれ立ての姿に出会えた。

上と下の写真は両方雄か。上は傍に葉草がある。遊歩道の敷石の大きさと雨蛙の寸法が比較できる。

 

これも追掛けて、やっと撮った。雌雨蛙かと思う。

この写真は側溝を見たら、十数匹の産まれ立ての雨蛙が居た。

下の写真も同じ傍のものだ。

みんな産まれ立ての雨蛙で、決して水中のオタマジャクシからの生態の『尻尾』等は人の目には付かないのだ。土から這い出した時は既に『尻尾』は無いのが『日本雨蛙』の特徴だ。

だから、ITの検索結果を見ると、オタマジャクシを田圃から採取して、育てて大きな尻尾を示す蛙を雨蛙と称する記事が多い。

専門家と言うお方の『二ホンアマガエル』と小生の認識とは『尻尾』の違いで区別できる。最近、漸くWikipedia の記事から「オタマジャクシ」の解釈が消えている。また以前ほど、オタマジャクシ説が多くはなくなったと感じる。