自然の一分と物理学

昨日は、天高く澄む青空の下、僅かながら飛び交うアキアカネに出会えた。

10月の異常気象の性で、アキアカネも生まれ故郷の里山の田に戻れずにいた。11月に番で庭に来てくれた。ホッとして、一安心した。

自分の生き様に誇りが持てない。

はじめは、科学理論の研究に生活も犠牲にして、『俺がやらずに誰がやる』等と心に秘めて、旅立った。

『俺の出番はきっと来る』などの歌にも励まされて、道のない道を彷徨いながら過ぎてきた。

物理学理論が余りにもお粗末な論理性で、長く人の心に過ちの、虚飾の概念『電荷』や『磁束』で世界に混乱を残してきたと残念ながら伝えなければならない事態を来してしまった。

このままの物理学理論が、教育の中身で続けられて良いと言うのか。

辿り着いてみれば、時効でございます。過去は消せない、先に進むより道は無い。とやっと分かった。それが人の世の仕組みのようだ。人の一分の道なんだろう。

SDGs の未来予想図も科学論がその道筋を描く役割を担う筈だ。哲学のない専門家論理では心配が大いに残る。

自然道に法則はなし。科学技術理論は法則による飾りの道。どうも物理学理論は、その利益第一主義の技術法則構築道に思える。

とこんなことを言ったら、人でなしの生き様を晒しているようで誠に忸怩たる思いだ。人のために自分を生かす方法を知らない。時折「戻って来い」等と言う闇の声に襲われて、精神的被害を受けもする。愚かにも棚ぼたの期待が、人の世の間違いであったと知った。消された道は戻らないと。戦後75年の不可解を悔やみながら思う。

 

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