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禪に導かれて

 1985年7月1日付辞令

(松永 光 文部大臣):長岡工業高等専門学校助教授は直ちにその日に履歴書で『以下余白』と消えた。高橋校長名で!本人が知らずに何十年も過ぎて気付く人事問題は、法治行政(憲法上)としてどの様な論拠が在るのか、その訳が不可解❓1979年7月の文部省主催の『工業教員指導者講習会』への、公立学校共済組合非加入者のアルバイト教員の参加の有意性の意味と合わせて考えれば、ますます不可解だ❓1980年3月31日と1980年4月1日の職歴はどう理解すれば良いか?

 禪と科学 (2011/06/20) の冒頭に載せた達磨図だ。『空』は世界のすべてがそこから始まる。そんな思いを表現した。

家の宗派が『曹洞宗』の関係もあってか、禪を身近に感じていた。然し、その説く思想は理解しかねる不可思議な魅力を秘めていた。その事は禅と日本文化 を読みながら考えた (2013/09/08)-Zen Buddhism and its Influence on Japanese Culture. (1938) の訳本-にも述べた。

今日再びその本を開いて、偉大な 鈴木 大拙禅師の思想に触れたくなった。第一章 禅の予備知識 だけでも理解困難である。2013年頃より、今は少し、電気回路現象で自然の深い姿に触れられたかと思う心境にある。その道標は、長く禪の御蔭に負っているように感じる。基本的に、禪は生きる上での、異変、緊急事態にその真価が現れるように思う。異変に気付いた最初が、昭和61年春4月、ずっと後から気付けば、そこに歌があった。『愛燦燦』、『暴れ太鼓』、「みだれ髪」そして「川の流れの様に」と。まさか舞鶴鎮守府が待っていたとは知らなかった。

ここには七つの文章にまとめられている。

『精神』と言う言葉がある。その意味はこの禅的思想の中でどのような具体的な事を指すのか。

と自問してから考えた。『精神』の対極語は何か。何時も使う言葉でありながら、その意味を即座に述べられない事に戸惑った。対極語は「物」として見えるものになるかと思う。そこで初めて『精神』が目には見えない事に気付いた。言い換えれば「心」とも言うかもしれない。「心」も見えないから。『精神』とは何かは、これぞ禅の問答かも知れない。人は見えるものに意識が向く。科学理論も、物理学理論もその科学的検証が求められる。それは見えるもので無いと検証できない事であるとも気付かされる。だから科学と禪は両極に対する事に成りそうだ。

科学は⦅見えるもの⦆が対象で、禅は⦅見えないもの⦆が対象となる。と言い切っても良さそうだ。

⦅見えないもの⦆の代表が『精神』だ。その『精神』が司る対象、その結果に起こる事象、それも目に見えない『エネルギー』だ。意識、心も『エネルギー』の及ぼし合う現象世界と言えるようだ。

ニューロン。情報伝達信号も『エネルギー』が担う。決して物では困難だ。『精神』と言う言葉の意味を今までほとんど考えてこなかった。会話も、人同士の間の、その精神活動なのだ。そこには何も⦅見えるもの⦆など無い。それは人や生物が生きるに、基礎代謝と言う『エネルギー』を消費して体温を賄う生体の物理現象と同じく、基本的には見えない『エネルギー』に因って司られている自然現象の真理なのだ。過去に素人ながら、この生理的意味を考えた事があった。ここで少し振り返ってみよう。

脳の機能と個性 (2014/11/02)に

載せたのが右図だ。当時は無意識であったが、今思えば、『エネルギー』と言う目に見えない自然界を支配している空間に実在する物理量を意識して描いたものと分かった。

その他、脳の生体制御の謎 (2014/03/21) や悟りとは?₋色即是空の世界観‐ (2014/o3/25) (とても僭越な物言いでお恥かしい内容だ)。最初が、『基礎科学』とは何だろう (2010/11/02) であった。これらはみんな、素人の感覚的解釈論と言われても良いものだ。何も科学論と言うべき、所謂科学的データによる裏付けが何も無いから。電気回路と同様、生体情報伝達機能を担うものは電流でもなければ、『電子』でもない。それは『エネルギー』の波形とその光速度伝達現象である。『物質』では高速度反応に応えられず、生体の総合的制御機能を統合できないと考える。生体の『エネルギー』に負う意味を考えるべきだ。物理学は「物」の理学だから、「物」でない『エネルギー』の科学論には成れないのかも知れない。精神・心が物で測れない訳だから。

考えてみれば、電気回路現象の『エネルギー』伝播の解釈も基本的には、殆ど実験データによる裏付けが有った訳でもない。ただ、直覚的な思いを元に世間の常識を無視して、勝手な解釈を展開していると見做されるかも知れない。しかし、どう考えても自然界に『電荷』など有り様がない。そこだけは科学の常識が間違っている。常識で「在る」と言う『電子』などを「無い」と言う論拠を示すことが如何に困難かを知った。『静電界は磁界を伴う』の実験的データを発表してから。科学理論と不立文字の関り論だったかもしれない。

日本国憲法 第53条 日本語の意味

今朝の新聞(新潟日報)記事。

国会召集放置は「違憲」 元最高裁判事、異例の意見書。

と言う記事を見た。

問題の憲法の条文は次のようだ。

第四章 国会

(第四章 国会 に関して、第四十一条 国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。から、第六十四条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判・・。の24か条からなる。)

第53条 内閣は国会の臨時会の招集を決定することが出来る。いづれの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

その内の、その条文の太字の部分に関する解釈の問題である。

今日の新聞記事に驚いた。

憲法は、その日本語としての文章はとても易しい表現で、誰もが理解し易いものだ。

今回の事件は、三権分立のとても具体的な、間違いようの無い筈の解釈が、実際の政治の問題として、内閣の読解力に疑問を抱かざるを得ない事案となっている。

問題は、臨時会を要求したのに、結果的に内閣は臨時会を招集しない事に成った。その事に対して、加藤勝信官房長官は今月一日の記者会見で、「内閣に委ねられている」と述べた。

と言うのだ。更に過去の、安倍内閣時代(17年6月)の同じ臨時会の要求に対する、訴訟に対する東京、岡山、那覇の3地裁の問題も指摘された事の内容の記事。

易しい日本語の読解力の問題でしかない筈だ。

「・・の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」と言う文章の何処に、「内閣に委ねられている」という意味が有るのか。

ここ迄「日本国憲法」の読解力が曖昧では、政府、内閣の政治的機能を信用できない。己の日本語の読み方、読解力も小学校の入学(舞鶴❓ーどこに入学したかの日本に記録が無い)からやり直さなければならないかと不安と不可解に悩む

 

空間構造とエネルギー

やはり空間の『エネルギー』だ。

それにしても物理学理論や地球物理学は何処か矛盾の闇の世界に観える。残念ながら、その根本的な原因が、専門家の表明する文章・お話での専門学術用語の検証不可能性とその真偽が日常生活に経済的損害を与えない空想物語である事にある。雷論は、雲の上昇氷の摩擦で、何原子が基になってプラスとマイナスの『電荷』に電離するか?氷分子のイオン化なのか極めて曖昧でも、自由に大量の『電荷』と言う便利学術用語が駆使可能で、何方も経済的損害を受けないから異論を挟まず御自由にお唱え可能だ。『電荷』と言う魔術的学術用語は誰も批判できない、原子の内部構造を決して誰も確認できない安全圏の御説だから。山の頂上でも、柱状節理がメリケン粉の振動説でも批判もされないから御自由にお唱え可能だ。磁束が自然界にある訳でもないのに、磁気の本質が何かの深い物理学理論での解釈が曖昧だから、地球が逆転したような「何とかニヤン」が地球的お話になる。電荷間の力の矛盾論 (2021/05/11) にも、どう考えても物理学理論が自然世界を真剣に見つめようとする心からの解釈論には見えない事を述べた。ただ過去の解釈論を無意識的に継承しているに過ぎない。それぞれの物理学理論などは、大学などの高等学術機関の研究室で、その専門的高等特殊理論の伝統を引き継ぎ、将来に亘ってその分野での専門家としての権威を継承する道が整えられる。生活が保障される。その学術理論に異を唱えれば、即刻その専門家としての社会的役割は終了する。科学理論とは極めて非論理的で、保守的な学術の専門性をその背景に秘めているのだ。科学理論の自然世界に広く適応可能な統合的完全性を求めるなら、少なくとも二つ以上の異なる分野の研究の経験が望ましい。一つは科学技術の分野の具体的経験と感覚。空間的『エネルギー』の実在性を認識する経験。

現代物理学理論には、運動エネルギーや位置エネルギーは良く教科書でも取り上げられて、誰でも理解している。しかし空間に実在する『エネルギー』と言う物理量の認識が無いようだ。それは空間の構造を余り意識していないからと思う。

その根底には、抽象的解釈論(理数学的)と具象的解釈論(空間像認識)の違いが在る。

真空透磁率  μo[H/m] と真空誘電率 εo[F/m] 。現代物理学、自然科学あるいは自然哲学、それらのとても専門的な高度のお話に「時空論」があるように思う。それらは遠い宇宙から、過去未来の時間を超えた壮大なお話になる。それに対して、μo[H/m]、 εo[F/m]等の手元の電気回路論などの身近な空間の意味など、余り意識されていないようだ。しかし、光の『エネルギー』の伝播する空間を、科学的な意味で解釈しようとすれば、何かその空間の解釈概念が必要になる。最低でも、その透磁率と誘電率位は空間構造の解釈の基礎に据えたい。

電力工学では、空間が保有し得る『エネルギー』には限界が在ると認識している。と思っているのは自分だけなのか?その空間の意味は電界で定義し、1cm当たり30kVを一つの目安にする。それ以上の電気的ストレスを空間に掛けると、火花放電やコロナ放電を起こし、空間が絶縁機能を失う。この空間は空気の事で、空気その物の中の物理的状態の問題なのだ。『電荷』説では、その空気の『電荷』を論じている訳ではない。『電荷』そのものが火花を散らす論説ではない筈だ。『電荷』は専門的雷の御説の解釈依存概念としてお借りする間接的学術用語でしかない。火花に成るのは空間の空気なのだ。専門家は火花の話で、『電荷』などその後にどうなろうとその意味など意識に無いのだ。『電荷』が光になる訳を説明など決してしない。存在しない『電荷』が『光』に化ける、化学変化の物理学的論拠も無いから説明など出来る訳がないのだ。それでも科学学術雑誌に載れば、とても専門的風格の誰もが異論を唱えようが無い雷論となる。火花放電現象は空気の絶縁破壊現象だ。完全な真空空間なら火花放電は起き難い。具体的なプラスの『電荷』がどの様なものか、『陽子』か『水蒸気イオン』あるいは『酸素イオン』か等は全く分らなくても、何でも良いのだ。『電荷』が『雷光』に変換される原理の為の量子力学も無いようだから。

その事の意味を、『電荷』や『電子』で考えるべきか、あるいは『エネルギー』で解釈すべきかを問うのである。その為の空間構造の例を提起して考えよう。

空間構造例。

何も難しいものではないが、余り意識しない空間構造の電気現象解釈かも知れない。直流電圧を2枚の円盤間の空間と2本の円環リング間の空間に掛けるだけでしかない。

(1)円盤。これは誰でもコンデンサと理解できよう。

(2)リング。何の役にも立たないだろうが、一応電圧を掛ければ電気回路である。この回路(?)を取り上げた意味はインダクタンスL[H]の巻き線コイルの空間『エネルギー』と1ターン電圧の関係を意識して欲しくて取り上げた。ちょっと電気技術者らしからぬ変なオジサンの思考で。

どちらも、スイッチを入れて電圧を徐々に上げて行けば、何時かは火花放電になり事故状態となる。電源にはヒューズが必要だが忘れてしまった。🙇。

ここで考えることは。空間の空気絶縁破壊と言う現象の物理的意味である。『電荷』と『エネルギー』の自然科学論の認識の問題である。それは考える人の夫々が今まで経験してきた科学的解釈の手法、習慣によってある程度感覚的なものに依るかも知れない。

問題は空間に『エネルギー』が在ると意識するかどうかである。

(1)のコンデンサの円盤内の空間をどの様な電気的空間と意識するか。

電荷の論理性(2020/10/26) で取り上げた問題がある。それが右である。この問題を 電荷Q[C]とは何だ❕ (2021/05/19) で論じた。また、大学入試問題例(エネルギー問題) (2021/05/25)。ヤッパリ「電荷」だ❓ (2021/07/03) 等で、『電荷』否定の解釈理由を論じた。内容は如何にも高尚な学術論文には程遠く、幼稚な、言ってみれば下界の囲炉端話に近い素人論に観えよう。しかし、このような科学論理の矛盾を科学者、物理学者は無視して過ごしてきた事に気付かなければならない筈だ。

(1)の円盤電極に『電荷』が、プラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が原子から分かれて、あるいは電源の電池などから分離して、集電すると本当に考えるのですか。それで物理学理論として矛盾を感じないのですか?

それが、電中研の『雷』論にも成って子供達への解説となっている。雷と科学論

この(1)の場合の具体的計算をしてみよう。

円盤の面積A=100 [cm²]、D=1[cm] とする。その静電容量 C=8.9[pF]程度となる。V=30[kV] で放電に至るとすれば。

その時の貯蔵容量は E=CV² = 7.9 [mJ] 程度となる。

次に(2)のリングの場合。

コイルに電圧を掛ければ、コイルの巻き線の間に『エネルギー』が分布する。その巻き線間にも空間的には幾ら僅かであっても静電容量と言う空間的電気的要素機能が存在する。そのコイル1ターン当たりの電圧を1ターン電圧 vu[V] と解釈する。巻き線全体では巻き数 n 倍すればコイル端子電圧となる。そのようなコイルリングの意味を図(2)で考える。いくら小さくてもリングの間には『エネルギー』が存在する空間が有る。その空間の空気にもコンデンサと同じ『エネルギー』の貯蔵限界が在る。限界を超えれば、火花放電の絶縁破壊現象に至る。その破壊電圧を V [V]。コイル静電容量 C [F/cm]が分かれば、

エネルギー 分布密度

δ= C V² [J/cm]

(1)の円盤電極の場合と同じリング半径 r=35[cm] として、線路静電容量 Cr[F/cm]を算定してみよう。平行電線路の場合の算定法を適用してみる。電線径d=1.6[mm] で、D=1[cm]とする。

構造係数 k=(2.3029/π)log(2D/d)=0.710 を利用してみる。

しかし、C=9.6[pF/cm] と大き過ぎる算定結果となる。

ここでは、以上の結果で、残念ながら検証は取りやめる。

以前に、 L とC と空間エネルギー (2017/08/02) で、同じような事を述べていた。今回の検証回路の結論も、数値的な結果が出ず、未熟さを反省します。

結論。科学論で、特にあらゆる科学論の基礎と考えられてきた、現代物理学理論の基礎概念および専門学術用語が極めて不明確で、曖昧なものである事を指摘した。水の水面に広がる波さえ、その原因に『エネルギー』を捉えていないようでは、何時か理論がその基礎から瓦解することを危惧する。理科教育にその責任があるのではなかろうか。

 

 

1945年9月2日の不可解

1945年9月2日は忘れてはいけない、日本の第2次世界大戦・太平洋戦争の意味を考える特別の日だ。

とても不可解に思う事がある。

その時期は立春から数えて210日前後に当たる。その日は昔から台風が押し寄せる災害の特別の日として注目されていた。(最近の豪雨災害など自然災害の時期は全く時期的には違ってしまったのが事実ですが。)

今でも特別な意味で、テレビの映像で目に焼き付いている光景がある。未だ昭和30年前後と思うが、家にはテレビがあったように思う(?)。多分その頃見たものと思うが、時期はもっと相当後(1970年頃)であったかも知れない。横須賀沖に、アメリカ海軍の『ミズーリ号』が停泊し、その艦上での無条件降伏の調印式の様子の写真が教科書にも載っていた。その日、1945年9月2日のテレビ映像が印象的に脳裏に焼き付いている。

ミズーリ号艦船の側壁で、波打つ海上に浮かぶ比較的大きな『ゴムボート』があった。その海上の『ゴムボート』から縄梯子を昇る日本代表団の姿があった。日本代表団は重光外相以下数名であったと学習して、記憶している。この事を或る日外務省にお尋ねした。驚いたことに、アメリカの『ラウスダンカン号』が日本から『ミズーリ号』までの送迎をしたとの回答であった。そんな話は嘘としか信じられない。

今検索すると、全く『ゴムボート』の話はどこにも無く搔き消されている。『無条件降伏』の調印式に連合国の代表たるアメリカが、敗戦国統治をこれからしようとする日本の代表団の送迎のお手伝いをするなど、外交の手続きであり得る訳が無い。まだ何も始まっていない戦後処理の最初の調印式前に。

過去の歴史の真実を捻じ曲げたり、隠したりしては、その未来は大変危うい事を知らなければならない。それでなくても、戦争を知らない世代が殆どに成った今だから。政治を司る政府、政治家もほとんどが戦争を知らない。それでなくても、過去の汚点は隠したいのが人の思いだろうから。

歴史の真実は、横須賀沖に停泊した艦船『ミズーリ号』に、台風の時期の波に揺れる『ゴムボート』で船壁に辿り着き、縄梯子を昇って代表団が『無条件降伏調印式』に臨んだのだ。そのテレビ映像が何処かに隠されている筈だ。

8月28日、厚木基地にマッカーサー元帥が初めて日本に降り立った。その5日後の事だ。

ヴァイツゼッカ―元ドイツ大統領に思う (2015/02/15)。とても感銘を受けた方の話でもあった。

雷と科学論

雷様と呼ぶ。様付の自然現象・天空の光と音の饗宴。

誰もが知っている。ベンジャミン・フランクリンの名前も雷とのつながりで知っている。

恐ろしくて、恐怖も不思議な、知りたい科学論。しかし世界は存在もしない『電荷』で覆い尽くされているこの怪奇な科学理論の世界?そんな如何わしい科学理論の世界が許せない思いで再び取り上げる。

雷と電荷の物理 (2021/06/22) でも取り上げた。いつまでも未練を残して、専門家の科学論に抵抗する。電荷と科学リテラシー (2021/02/10)。

先日も「雷の正体」とgoogle で検索した。そこには子供たち向けの多くの解説記事が昇る。殆どが、上空の雲の中で、水蒸気から出来た氷が上昇時に、摩擦で電気が発生するとある。古くから研究所などの専門家がそのように話し、そのような解説をテレビで取り上げて放送している。筆者も雷の正体として記事を投稿している。7ページ目に検索に現れた。

日本の電力中央研究所の解説記事もそうだ。

何処でも、誰でも、特に科学者と言う研究者が『電荷』が自然界の基本物理量として唱え、主張して社会的専門家として敬われ、尊敬されている現実の世界の科学常識だ。

そんな中で、おそらくただ一人筆者は『電荷』など自然世界には存在しないと30年以上前から唱えてきた。

『雷』は自然科学理論の真相を解剖するに最適な論題である。

希望がある。

市民討論会で、論壇で有名な科学者と討論して、市民が視聴して判断する機会が在ればと。何処で、誰が、どの様な訳で、『電荷』が物理学理論の根幹を支える基礎概念となったのか。その真相を明らかにすることが科学教育、市民科学リテラシーの為に今こそ考える課題だ。子供たちに「嘘」の教育が為されてはいけないから。科学者の社会的責任の為にも。考えない科学理論は良くないよ!専門家と言う狭量科学理論からの開放の為に。

科学の市民による民主主義の論壇となれば。民主主義の科学論の土俵が欲しい。

エネルギーの LC 共振

『エネルギー』は自然世界の空間に実在する基本的物理量である。場所は真空空間、水中、気中、ガラスその他あらゆる伝播媒体の空間構造内。必ずしも質量を必要としない独立の物理量が『エネルギー』である。『エネルギー』の本質による局所化が『熱』とも見做し、『原子』ともなり、『質量』ともなる。その空間構造の科学論的概念が空間定数 L[H]、 C[F]となろう。

L と C の間で『エネルギー』の振動現象が起きる。それはどうも自然空間での『エネルギー』の振る舞いの基本的特徴のように思える。光と同じく、電気回路の『エネルギー』伝送特性もその空間の持つ L と C の機能によって決まるようだ。

自由空間を伝播する縦波の『エネルギー』が光である。空間の科学技術的解釈概念が誘電率[F/m]と透磁率[H/m]である事は、そこに自然空間に於けるエネルギー[J]と空間特性[H/m , F/m]との間に深い関係としての真髄が秘められている。(MKSA単位系の基準定義定数に真空透磁率 μo=4π×10⁻⁷[H/m]が導入されたとの記憶がある。) 参考記事:光の正体 (2018/01/25)。

エネルギーの LC 共振はその特徴的現象と言えよう。コイルの電圧とエネルギー (2021/09/07)で、コイル内のエネルギーの挙動について一定の解釈にまとめた。その事で分かり難いコイル内のエネルギー貯蔵現象の意味が少し分かった。端子電圧としてのコイル内のエネルギー貯蔵分と端子電圧に関わりないエネルギー貯蔵分 eaxの軸流分の二つの意味で捉えられた。

一方、コンデンサのエネルギー貯蔵は端子電圧としてその意味が分かり易い。また、『エネルギー』にはその特徴として、極性・方向性がはっきりしている。コンデンサ内での『エネルギーギャップ』としてのその分布の偏りに現れる。コンデンサ内のただ空間に蓄えられるだけではなく、その極版の片側に偏って貯蔵される。その『エネルギー』の分布の偏りが電圧極性の負側になる点である。それは電池のエネルギー源が電圧の負側(陰極)で在る事と通じる。

エネルギー共振。『エネルギー』には極性が有る。

端子電圧とエネルギーの関係を見ると、電圧の2乗でエネルギー評価がされる。従ってエネルギーは常に正の量として捉える。しかし、その『エネルギー』には極性がある。『エネルギー』のその存在形態は不均衡に偏って分布する。均等に分布することはない。そのような意味をどの様に捉えるべきかを考えた。電圧波形は正弦波で表現する。その電圧の正負に対して、エネルギーの極性を考えた。一般には必ず『エネルギー』の波形は全て「正」で表現するのが普通である。しかし、電圧波形に対して、そのエネルギーの分布極性を考慮して、正負に極性が変る意味を踏まえて波形を描いた。それが次の図である。

1サイクルを4つの区間で分けた。

区間①:電圧が「正」に立ち上がる区間。コイルの『エネルギー』el が最大値で、コンデンサの『エネルギー』 ec=0[J]である。端子電圧に従って、コイルの巻き線間分布の『エネルギー』が増加しながら、コイルからコンデンサに『エネルギー』が流れだす。この el 最大値の『エネルギー』はコイル巻き線間には無く、コイルの内側に沿った軸性のエネルギー流として内部の還流様態として蓄えられている。端子電圧ゼロに対応した『エネルギー』の貯蔵形態である。端子電圧が立ち上がるに従って、コイル巻き線間に『エネルギー』が分布する事に成る。その『エネルギー』の分布はコイル巻線間でも、コンデンサ電極間でも、負極側に分布した様態である。その意味を波形の『負』の極性で表現した。

区間①から②に切り替わる瞬間。電圧が正の最大値で、コイルの『エネルギー』が全てコンデンサに移り切った瞬間である。『エネルギー』が今までの流れの方向から反転して、逆にコンデンサから再びコイルに流れ始める境界点である。

区間②:端子電圧が正の最大値から減少して『ゼロ』になるまでの区間。

今度はコンデンサの最大貯蔵の『エネルギー』がコイルに転流し初めて、すべてが転流し終わるまでの区間。

区間②と③の切り替わり瞬時。この瞬間は、コイルの貯蔵『エネルギー』が最大であり乍ら、コイルの端子電圧は「ゼロ」である。その瞬間に、コイルの『エネルギー』分布は巻き線間から、全て巻線内空間の軸性回転流の『エネルギー』となる。その『エネルギー』がコイルからコンデンサの『正』の側に流れ出し始め、コンデンサの正極の電極側に転入する区間となる。その為コイルの巻き線間のエネルギー分布も正極側に分布して『エネルギー』が流出する事に成る。端子電圧が負になる時、コイルの巻き線間の『エネルギー』の分布も区間②とは逆になる。その意味で、極性が急反転することを記号「j」で示した。

区間③:電圧が負で、『エネルギー』が正極側に分布し、コイルからコンデンサに『エネルギー』が転流する区間。丁度区間①と逆の極性で同じくコンデンサに『エネルギー』が転流する区間である。

区間④:丁度区間②と同じくコンデンサからコイルに『エネルギー』が転流する区間である。電圧及び『エネルギー』の極性が②とは逆に反転した状態となる。区間④の終端で、丁度1サイクルの終わりとなり、最初の区間①の状態に戻る。

以上で一区切りとなる。4つの区間で1サイクルとなる。そこから共振現象の『エネルギー』の一周期 T を判断する。それはコイルの L[H] とコンデンサの C[F] の積が時間[s=(HF)^1/2^] である事を考慮して、次の意味で解釈する。脚注(*)。

T = 4 √(LC) [s]

と捉える。

今まで、ω=2πf=2π/T=1/√(LC) [rad/s] から、T=2π√(LC) [s]と解釈してきた。確かに角度π[rad.]は次元解析では無意味な量と見做していたが、やはり周期 Tの次元が角度と時間の積[rad. s]となり、周期の時間[s]とは違う。

一つの解釈。実際の共振回路設計で、周期 T=√(LC) では結果が適合しない。2π=6.28 なら実際に近い設計値となる。という意味であったのではないか?

2π と 4 の差が実際の設計基準としてどちらがより妥当か。それは実験的に検証できよう。この解釈を実験で確認もせずに示すことの非科学論で恥かしい限りだ。実験室でもあれば、確認してから唱えたいの願い!!どうかご容赦願います。

注(*):  2p-D-11   物理的概念とその次元 日本物理学会、第53回年会、p.13. (1998-4-2).

先ず日本物理学会(長岡技術科学大学、電気系の先生の御厚意で入会させて頂いた)での最初の発表で、物理概念の基礎理論の矛盾解剖論を展開するための自然単位系 [JHFM]の発表。そこで基本概念に『エネルギー』[J]を据えて、時間の次元を [(HF)^1/2^] のインダクタンス L[H] と静電容量 C[F] の関係で捉える意味を提唱した。時間は勿論 [s]であるが、自然空間を伝播する『エネルギー』に着目すれば、真空伝播空間の誘電率 εo[F/m] および 透磁率 μo[H/m]を空間伝播現象の基準に据える必要がある。当然の事として時間の次元は [(HF)^1/2^]となる。この時間の定義はこの発表の重要な基幹を成すものである。1991年1月の研究内容「光の相対速度と空間 (2020/06/08)  関連」との関係で、時間の次元の解釈は重要な意味を持つ。

電磁気学の論理性❓

物理学の基礎分野に電気磁気学がある。

最近科学論に疑念が膨らんで遣り切れない。

みんな自分の心に生じるものだから、自己責任という事かも知れない。

一つの代表例として「電気磁気学」を取り上げる。

それは『電気』と『磁気』がその基礎概念となっている。

大学の授業で取り上げる内容の代表例が「マックスウエル電磁場方程式」であろう。『電界』と『磁界』がその専門的学理の理解の基礎概念となっている。

『電界』は『電荷』が定義されて初めてその空間概念が確定して、理解できる。『電荷』同士の間に様々な空間的関りが生じる現象の解釈論である。『電荷』には二種類がある。『正』の電荷と『負』の電荷である。しかしその『正』と『負』の空間的違いが如何なるものかについて解説した理論・論理を知らない。昔から先生が仰ったことや書物に書いてある事から、間違いのない真実と信じて疑わずに来たのが『電荷』の実状である。

その科学理論の根本を疑い、『電荷』の実像を理解しようと孤軍奮闘してきた。多くの電気磁気学の法則を考え併せて、その最も基本である『電荷』の概念とその真相を探る発表が『静電界は磁界を伴う』であった。

今改めて、問わなければならない。

大学で電気磁気学を講義されておられる先生方に。『電荷』の空間像をどの様に認識なさって居られるかと。ただ意味も無く『正の電荷』と『負の電荷』が引合うのだと述べるだけで、そこに学術論としての論理性が在るのですかと。

一定の変動しない高電圧を掛けた電極版の間は静電界と言う場の筈です。電気磁気学では『正の電荷』と『負の電荷』が両電極版に集合して、その向き合う空間が静電界と言う場になる。電気磁気学では、その空間場には決して『磁界』は存在しない筈です。

さてそこで、もしその空間が『磁界』で、コンパスが決まった規則による方向性を指すとしたら、その現象を電気磁気学でどのようにご説明為されますか。

その解釈には、『正の電荷』と『負の電荷』の間に何故引合う力が生まれると解釈するかの論理的説明が必要でしょう。『正』と『負』の間にどの様な力の概念が生まれると考えるかの論理性の問題でしかない。『電荷』には、運動力学の基本である『力』を生む対象の慣性は定義されていない筈です。物理学理論の『力』の定義に関わる基本問題の筈です。ニュートンの力学理論を御理解なさって居られれば、力と慣性は表裏一体の基本概念である筈です。『電荷』には慣性は定義されない筈です。なのに何故『力』が発生すると解釈できるのですか。

『磁気』に関しても同じ論理性の問題がある。N極とS極と言う定義概念の、その本質は何ですか。磁束が空間に伸びている像で捉えるようだ。『磁束』は力の原因となるのですか?『磁束』には力学理論の論理的対象としての『慣性』はやはり無い筈です。何故『慣性』の定義されないクーロンの法則が『力』の法則として成り立つと解釈されるのですか。『力』は慣性で抵抗があるからこそ生じる概念ではないのですか。慣性が無ければ、瞬時に無限速度で力の対象が消えてしまう筈です。それが科学の論理性ではありませんか。

電気磁気学と言う余りにも、現代物理学理論の根本理論であり乍ら、極めて曖昧な矛盾論が科学常識として大学で講義されている現状を如何に認識されているのでしょうか。

30数年前の『静電界は磁界を伴う』の実験的検証の意味を問うのです。

コイルの電圧とエネルギー

電気回路現象はそのエネルギー伝送空間のインダクタンスL[H/m]とキャパシタンスC[F/m]の機能が司る。

その特異な回路に共振回路がある。その回路現象を解釈するにコイルの端子電圧の意味が中々分かり難い。

今までの解釈で、変圧器のエネルギー伝送現象 (2020/11/14)。および電磁誘導現象の真相 (2020/10/25)等の認識に辿り着いた。『電流』や『電圧』による解釈はあくまでも電気技術的な解釈手法である。自然現象の本質は『エネルギー』が握っている。『電圧』と『電流』の意味も『エネルギー』の空間現象として理解しなければならないことが分かった。そこで回路共振現象を理解しようとすると、どうしてもコイルの端子電圧の意味を捉えなければ困難との認識に至った。それが『エネルギー』による解釈になる。コイルとコンデンサ間の『エネルギー』の遣り取りになる。

上の記事で、『エネルギー』による解釈の基本はある程度示した。それでも共振現象でのコイルとコンデンサ間の『エネルギー』の遣り取りやその周期 Tと(LC)^1/2^[s] 間の関係式の問題は解決に至っていない。

それは『エネルギー』がコイル内でどのような空間分布状態かに関わる解釈の問題でもある。そこにコイルからコンデンサへの『エネルギー』転送とコイル端子電圧の関係が明らかにならなければならない筈だ。コイルは電圧に対して他力本願的機能に思える。自己で端子電圧を決める機能を持っていないようだ。コイル電圧は端子に掛かる外部のエネルギー供給源によって決まる量である。コイル端子への線路静電容量と分布エネルギー量から決まる。

端子電圧とエネルギー。

コイルに図のような電圧を掛けた。コイル端子電圧は外部回路との電気エネルギーのコイルへの入射あるいは放出を伴う。『電圧』とは回路端子の電線間の『エネルギー』分布量と静電容量によって決まる概念量だ。コイルに正の電圧が印加されれば、それは負側電線空間を通して、コイルに『エネルギー』が流入する現象である。その端子電圧に対抗する現象がコイル内に起こらなければならない。電圧に対してコイルは受け身である。印加電圧が零の区間で、コイル端子電圧はどの様な現象になるか。電気物理(コイルの電圧) (2019/03/17) はコイルの『エネルギー』による解釈を始めた頃のものだ。しかし、誘導エネルギーに観る技術と物理 (2019/04/03)はやはり技術論であり、空間に実在する『エネルギー』の認識より技術概念での誘導エネルギー論である。コイル内空間に実在する『エネルギー』は、技術的な『電流』によるコイル内の『エネルギー』(1/2)Li² のような、コイル空間のどこに在るかが理解できないものとは、その意味が異なる。質量に付帯する運動エネルギーとは全く次元が異なり、光と同じ空間の光速度流の『エネルギー』なのだ。

コイルの芯に磁性体があるとする。コイル端子に電圧が印加されている限りは、コイル周辺空間に『エネルギー』が流れ続けなければならない。『エネルギー』の入射が受け付けられなく、内部空間が『エネルギー』の飽和状態になれば、コイル端子の電圧は零の短絡状態となる。その基本的意味を理解した上で、端子電圧とコイル周辺の『エネルギー』分布の関係の解釈を示そう。

電源電圧一定値の①の区間では、コイル間の分布静電容量に対する『エネルギーギャップ』の分布量が一定に保たれている。1ターン当たりの電圧がvuで、その巻数倍が端子電圧となる。その間は電源側から『エネルギー』が流入し続ける。その貯蔵容量が中心空間に要求される条件となる。

②の区間。突然電圧値がゼロとなる。その時コイル巻き線周辺の『エネルギー』の分布は①と異なり、エネルギーギャップも零となる。しかし既に貯蔵した『エネルギー』はコイル内部に蓄えられている訳だ。その『エネルギー』の分布様態はコイル巻線部の内側の空間内を還流する図のようなものとなる。この状態は、鉄心部に記したように、その磁極 S と Nが決まった向きの軸性のエネルギー流となる。

以上によって、観えないコイル内の『エネルギー』の分布とコイル端子電圧の関係を解釈する。

あくまでもコイル端子電圧は、『エネルギー』貯蔵機能要素を発揮しながら、その外部への現れ方は他力本願である。外部回路の『エネルギー』分布によってそれに対応する不思議な機能を備えていると解釈した。

この結論をもって、漸くL C の共振現象の解釈に進める。

朝のひと時

お寝坊さんの黄揚羽。

済みません安物写真機での寝姿写真。

昨日夕方5時過ぎに、お休み処と決めて頂き今日の朝まで御逗留でした。陽が射した8時には旅に御出立。珍しく、久しぶりの黄揚羽にありがとう。

 

 

 

佛相崋。🌺❣

夏が過ぎた秋に残り香を、花の化粧の朝模様。

自然と言う万能の神の造形美だ。光を操るその匠・ご師匠様の技だ。何処にも論理的な矛盾はない。自然は完全だ。振動数では解釈したくない。

 

 

露草も朝に彩を。水色の天然の美を奏でる。

写真機が良ければと、天然の美を収めきれずに、済まぬ思いだ。

 

 

 

 

 

 

 

科学が科学であるとは

今日カレンダー(新潟日報社)の新しいページを見た。9月は佐渡の尖閣湾の美しい風景が迫るものだ。

何方も、この尖った岩を見て何かを感じるだろうか。もし『何故』このような岩なのか?と疑問を抱かれれば、それが科学の心と思う。地球がどの様にして、ここまで大きくなったか、その訳など分かりようが無い。初めから地球が有った訳ではない筈だ。多寡が海に飛び出した尖った岩の意味など生活の足しにはならないけれども。これも科学だろう。

以前からその岩は古代の巨樹の化石と解釈している。海底の地下迄調査できればなあ!

科学は単純な疑問がその基本と思う。電気回路現象を考えても、疑問が尽きることはない。いつ迄も理解不可能な我が能力の無さを噛み締めながら。コイル・インダクタンスは自発的電圧発生の機能が無いと気付いた。他力本願回路要素か。

佐渡金山が何故金の鉱脈の山となったのか。決して『金』も初めから『金』である訳はないのだ。その回答は地質学の答える科学論の分野だろう。

古からの疑問を一つ。原子核分裂の燃料はウラン原子・ウラン鉱脈から採取される。とても高度な核物理学理論の学問分野だ。なぜ、ウラン238がウランの99%も占めるのに、単に0.7%しか無いウラン235だけが利用できるのか?おそらく核物理学理論では明確にその訳が分かっているのだろうと思う。まさか分からない事など無いと思うが、誰もが理解しておくべき日常生活の生存に関わる問題の理論的根拠でもあろうから。専門家は率先して情報発信すべき問題と思う。科学が科学であるために。

先月の8月12日と思う。NHKの朝のニュースを見て感じた。はやぶさで採集して持ち帰った岩石の分析に関する話であった。岩石の科学的分析で、その過去の歴史が分かるのかととても興味がある。地球の岩石もいとも簡単にその古代の成分分析が可能なのだろうと期待している。柱状節理の岩石分析も可能の筈だから。しかし、良く理解できなかったのだが、何か岩石内に存在する『水』の成分が科学的調査で明らかにする意味が有ると言うような話と理解した。『ソリャ―一体どういう意味か?』水は酸素と水素の化合物で、水素や酸素がそれほど分析する価値があるのかと、その科学論の意味が分からずに驚いた。それも科学が科学であるための話題なのかと。早く岩石の古代の歴史の分析方法を知りたいものだ。『金』の古代の歴史も解るのかと?『金』は初めから『金』ではなかった筈だから。地球物理学や地質学の分野だろう。