長岡高等専門学校から殺害の危機から逃れて、長岡技術科学大学に戻った。
第1点。昭和62(1987)年4月2日頃、仙台市の東北大学で『静電界は磁界を伴う』を電気学会で発表した。その内容が現在の物理学の論理矛盾への研究の原点となった内容だ。すべてその内容につながっている基本研究だ。既に、大学ではもう電力工学での研究は出来ないだろうと覚悟もしていた。しかも人事で、初めから教授、助教授などの身分が転勤に関わるとは意識していなかった。それは新潟県(?)からの大学への転勤(らしき偽装形態?)をも経験していたから。その時に、昭和62年2月、前もっての難波江教授から津端教授に会って欲しいとの要請をお断りした。多分人事関係の話と思った。4月から何が始まるか全く意識もしていなかった。人事の意味を正規で経験した事が無かったから、考える余裕も無かった。
第2点。人事の発端とその問題。新潟県教育委員会での採用の身分でなかったから、昭和55年4月の移動も転勤の人事ではなかった。前職無しの不可解な、技術科学大学への転勤でない採用人事であった。如何にも転勤らしさを新潟年教育委員会は表面上繕った。新聞で昭和55年3月退職者になっていた。最初から怪しい技術科学大学への転勤らしき様相の採用形態であった。『公立学校共済組合』の加入事務手続きも、一切県での採用事務関係の手続きは無かった。十数年後に突然と言う感じで、昭和54年8月「新潟県知事部局(君 健男知事、金子 清副知事-長岡技術科学大学参与)」から自宅宛てに『極秘県外出張の要請書面』が届いた。昭和53年母が亡くなったと同時に新潟県庁、教育委員会関係から不可解な人事関係の要請が届き始めた。『公立学校共済組合の組合員』ではなかった。昭和39年4月から新潟県教育委員会との採用事務手続きを一切受けていない。何処とも契約をしていなかったことを最近始めて知った。みんな偽の『らしき採用形態』で処理されていた。そのような過去の関係からして、文部省人事が可能とは考えられない当時の状況であると解釈できる。
第3点。上記の経過後、昭和62年5月。連休を妻と柏崎の米山会館に行ってきた。その直後、長岡技術科学大学のパワー研、研究棟の廊下で、難波江教授が妙な事を尋ねた。「柏崎に行って来たか?」と、行って来たから「そうだ」と答えた。それが不思議な事に、そのすぐ後に、当時韓国から留学生『ホウ』君がいた。その『ホウ』君がすぐそのあとすぐに難波江教授と同じことを尋ねた。だから行って来たとは答えたが、誠に後で考えれば不可解極まりない事であった。結局その意味が分からず最近まで過ぎてしまった。
この石が柏崎米山会館で購入したものだ。「石の囁き 聞こえますか」に載せた石だ。多分紹介の記事のも書いたと思うが、ある時期この石が戸棚から消えていた。しばらく後に不思議にも戻っていた。気味が悪いが捜査機関の仕業かと考えられる?しかしその記事気がいつの間にか削除されてしまった。全く不可解続きなり!!この石がどうも私が『万引きした』と言う人権侵害事件にでっち上げた物ではないかと気付いた。恐ろしき犯罪国家❓行政❓。不都合な記事は削除される。留学生迄事件の中に取り込んだ、不可解な恐ろしき次第なり。大学事件の顛末がこの辺にあるようだ。
結局筆者の引きこもり事件として片付け続けているようだ。大学でも人事の「退職事務手続きさえさせても貰えず」に今日を迎えた。新潟県教育委員会はじめ、長岡技術科学大学でも人事事務の正規な関係を受けた経験もなく今日に至る。
『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質- この意味を生かしたい。