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電気理論と回路空間

教育における指導内容。学校で使う教科書は教育の行政機関が細部に亘って検定で合格する内容を決め、その指針に従ったものでないと教科書として学校では使えないように思う。その教科書の電気理論について問題を指摘したい。電気回路現象について、教育の場で真理を伝えたいと願って30年過ぎた。

ここで展開する考察は、科学理論ではなく文学論だと過去に言われた。確かにその通りだ。科学的検証法に則っていないから。しかし、科学的に測定できない物が自然世界を基本的には象創っているのだ。科学理論とは何かで、次に述べる意味を分かって頂かなければならない。

 簡単な電気回路で教科書の解説とその回路の真の電気現象を比較してみよう。(2022/08/29)追記、訂正。上のランプの抵抗24Ωは有り得ないと気付く。

24ボルトの電源に豆電球を繋ぐ。電線は2本を適当に這わせた。この回路で、電圧は電線間に掛かる筈だ。電圧とは何かが現在の教科書では明確に示されない。確かに電線のプラス側とマイナス側の何処に電圧計を繋ごうと、その電圧値は24ボルトを示す。

電気理論では電線2本で、負荷のランプに電圧24ボルトが掛かる。だから電線がどの様に配線されようと、その線間電圧に何も影響を及ぼすとは考えない。プラス側の電線には電源端子からランプの端子迄同じ電位24ボルトだという意味である。マイナス側の電線の電位は基準の0ボルトと考える。

(2023/06/04) 以下の記事は間違いでした。p₁点とp₂点の間の電圧は24ボルトです。誠に申し訳ありませんが訂正いたします。p₁点とp₂点の近傍のエネルギー空間分布を意識しすぎて、導体の同電位と言い乍ら、説明が不足しておりました。ただ、電線間には『エネルギー』が流れて、その分布量で『電圧』と言う概念の値が変化します。負荷が一定で、電源電圧が一定であれば導体の電位は変化しないから、以下の論は間違いです。

上の図で、「p1点 とp2点の2点間の電圧は幾らか?」その答えには深い意味が隠されている。答えは24ボルトではないのだ。しかし電圧計をつないで測れば必ず24ボルトとなる。『その意味は何か?』が自然現象の真理を理解する起点となる。そこが、えも言われぬ自然と科学理論との絶妙な差である。空間の『エネルギー』は科学的手法では決して測定できないのである。その事は科学理論の検証の限界を示すことでもある。そこは哲学になろう。人の感性に頼らざるを得ないところだ。 科学技術理論は自然を利用する視点で組み立てられた解釈法である。その視点で見れば、その理論は如何にも論理的で完璧に見える。しかし、素人、科学技術理論に疎い人から見るときっと何か理解し難い『本当か?』と言う思いが燻っていると思う。検索情報の中に、初めて学んだような子供たちが、『電流とは?』とか『電圧とは?』とか素朴な疑問が質問に見受けられる。結局その回答者が答える内容は、決まりきった意味不明の教科書や高等理論でお茶を濁した内容で逃げているのが現状である。教科書を書く人が過去の伝統的解釈論の伝承に心しているだけが故の、真剣に疑問と格闘しない専門家であるからと思う。そこのところを、自然を利用する視点と異なる、自然に己の心を開いて感応させようとの思いで、科学理論を見直してみたいのだ。自然は科学理論の定義概念程複雑の本質を持っている筈などない。『電荷』など自然は必要としない。原子構造論のような複雑さを自然は嫌う。

そうは言っても、電気回路理論通りに電圧計を繋いでみれば、どんな場合も思い通りの実験的に証明できる。それが科学的理論の真理の捉え方の原則である。その解釈法は誠に理に適っている。誰に対しても目に見える形で「答」として示せるから。科学技術を活用する観点からは全く間違いはない。何処にも非の撃ちようが無い。そんな科学技術理論が伝統的に生活に果たした意義は計り知れない有意義なものである。

 それは物理学理論と言う伝統的で、専門的な共通の科学論の基本に則った解釈法に適合している。しかし、その伝統的解釈法では空間に『エネルギー』があると言う意識、認識に基本的に立って居ないのだ。『エネルギー』は運動エネルギーや位置エネルギーが基本になっている。それは『質量』がエネルギーを認識するための具体的根拠と解釈しているからだ。質量の無い物理量が空間に在るとは認識していない。

『エネルギー』とは何か?

 ここで使う『エネルギー』と言う用語は、ややもすると地下資源のエネルギー政策の燃料と解釈され易いかも知れない。しかしそれとは違うのだ。『光のエネルギー』が空間を光速度で伝播していると考えるか、そう思わないか。そこに明確な認識を示して貰わなければ、先の話が嚙み合わない。エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)等の旧い記事もある。

 もし光が空間を伝播する『エネルギー』だと解釈しないなら、最近空間の電線路無しの『エネルギー』伝送、『電力』伝送と言う話題もちらほら見受けられるが、そんな話題は物理学理論とは嚙み合わない話となると思うが如何でしょうか?決して空間に質量によって『エネルギー』を飛ばす技術で考えている訳ではなかろう。受ける方は光速度の弾丸を受け取らなければならない仕儀となる?電磁エネルギーは空間に分布した『エネルギー』の縦波なのだ。スマホの電波も同じ空間の『エネルギー』の縦波なのだ。電磁波は電界と磁界の質量を伴わない、誠に都合の良い曖昧さを隠した如何にも高度な専門的知識の数学的表記理論の総合概念だと言っているように思える。空間を光速度で伝送する『エネルギー』の波だ等とは解釈しない。光が『エネルギー』の波だとは考えず、振動(何が振動しているかには答えない物理学理論)の波だと言う。例えば、NHKの放送電波の電力が300[kW] と言う。空間に放射する『エネルギー』の1秒当たりの量である。その空間に放射するものが何であるかは『エネルギー保存則』との兼ね合いの理屈としても理解できよう。電界や磁界の強度を空間ベクトルで解釈する電磁波の電磁気学理論以前の問題であろう。

そこで改めて考えて欲しい。電線路空間はどのような物理的役割を担っているか?『空間』という物理的対象は電気『エネルギー』の伝送に対した、特別に考えるべき機能を何も持たないと解釈するのか?と言う疑問である。確かに現在の理論で、電線で挟まれた空間が『エネルギー』伝送に特別の役割を持つと考える必要もないのがオームの法則等の電気理論だ。電圧と電流という科学技術量だけで、他に何も付け加える必要などないのだ。だから電線が張られていれば、その電線の間の空間など何の役割も持たないと言う解釈が普通の電気理論の解釈となるのだ。だから何も考えることなく、オームの法則が便利に使えるのだ。電気回路現象、それは実験で確認できる。科学的理論に適って実験的に証明されるという大前提が確立しているのだ。学校で習う教科書で、電線路の『空間』と、その空間を流れる『エネルギー』等と言う話はどこにも無い。だから初めから電気回路現象に『空間』が大切な役割を担っている等と聞くことも無い。誰も教えない。教える先生が居ない。何故そのような教育の場に成っているのだろうか?

 その原因は❓ 研究者や専門家は、その研究内容が社会に役立つことが認められて、その研究業績に人生の誇りを掛けているのだ。役立つ研究とは経済的な競争に有効な業績として残るものに意識が向く。日長ぼーっと目の前の景色を眺めて、景色と光の物理的関係は何だろうか?等と疑問に思っても何の経済的利益にも、研究業績にもつながらない。研究室で、科学研究費を獲得するような研究課題を探し続けなければならない『任期制度』の若い研究者の研究環境は厳しい状況らしい。先輩や指導者の研究業績に従って、その方向性で決まった内容しか生きる研究の道は無いのだ。『電荷』など自然界に存在しない等と言えば、それだけで研究の道は厳しい。『静電界は磁界を伴う』という物理的意味をどれだけの方が分かるか。

しかし、自然現象を解釈する方法は科学理論が唯一ではない筈だ。次の電気回路の線路空間を例に、その事を考えてみよう。

空間のエネルギー伝送 『エネルギー』が空間に満ち溢れている。光はその代表だ。電気エネルギーも光と同じエネルギーの空間の流れだ。

(2022/08/29)追記。上の図で、エネルギー分布密度δ₁、δ₂[J/m]は負荷ランプへのエネルギー流密度を示す。その量は負荷特性と電源電圧値によって決まる。電源電圧が電線路の回路特性によってその電線路空間のエネルギー分布密度を決める。

その量δv[J/m] は、δv=CV²[J/m] と回路特性値C「F/m]によって決まる。このエネルギー分布と負荷電流によるエネルギー流とは異なる。

上の図のδ₁、δ₂は回路特性C[F/m] 、L[H/m]によって、流れるエネルギー分布も異なる事を示す。回路のエネルギー流の速度が異なるから。しかし電力はどの部分も同じだ。以上追記。

金属体の電線内部を『エネルギー』が伝播する訳ではない。伝統的電気回路現象理論、物理学理論(電子論)によって自然現象が起こる訳ではないのだ。自然現象のある面を切り取って解釈する方法が今までの物理学理論なのだ。あくまでも自然が在っての、それに対する人の解釈法即ち、『電子』を電気回路現象の基礎に据えた物理学理論なのだ。

物理学理論に逆らった電気回路論。

 図は電線の配線の空間構造に考える為の工夫をした。電線路線間間隔に差を付けた。決して電気回路としてこんな無意味と言える配線は実際にはしない。何の経済的利益も生まない無駄な事だから、電気技術研究者はこのような配線構造は考えないだろう。しかし、中には分布定数回路など、高周波伝送路の設計などをしている方が『おや?』と技術者感覚から、何かに気付くかも知れない。電線路は反射波などの無い一定の特性インピーダンスで統一しているのが、同軸ケーブルなどである。線間間隔が狭くなればその空間の静電容量 C[F/m] は大きくなる。当然その線路空間の電気的特性は変化する。送電線路でも電気特性は線路定数のC[F/km]、L[H/km]等で解釈する。それは電線路空間構造によって決まるからだ。決して電線の中を『電子』が流れる事は無いのだ。『エネルギー』伝送の役に立たない『電子』の役割は何処にも無いのだ。

上の図の回路空間が直流電源回路であっても、その空間のエネルギー分布密度[J/m]は様々な反射現象を伴いながら、結局一定の負荷電力供給に対応する値になって、『エネルギー』供給の自然現象機能を発揮する事に成る。詳細の『エネルギー』分布は皆さんにも考えて欲しい。

その意味の起点を教えてくれたのが『変圧器の奇想天外診断』(2015/06/03)の実験的結果である。電気現象の本質は『静電界は磁界を伴う』の実験結果を理解することから分かる筈だ。

電荷棄却の原子模型

昨日(7月21日)2回目の『コロナワクチン』を接種して頂いた。

少し頭が気怠い感じがするが、今のところ特に苦痛と言う程の症状はない。有り難い。

『発見と創造 科学のすすめ』 (W.I.B.ビヴァリッジ 著)培風館。を繙いて見た。56ページに付箋が残っていた。

その章 3  時の試練 の扉に

時が真理を明らかにする。セネカ

とある。

日付が2009/10/06.となっている。(孤立した者には 発見の格が大きければ大きい程 その将来には 極端に大きな 困難が立ちはだかる)?

その年の秋、日本物理学会(甲南大学)での発表が、「電荷棄却の電子スピン像と原子模型」の標題であった。

その発表後に、思いを書き記したものだろう。炭素原子の結合を原子表面のマグネット4面結合で解釈するものだ。決して『電荷』概念が論理的に成り立つ訳がないと確信していた。しかしそんな電子を否定する科学論が受け入れられる訳は無いかも知れないとの思いが強かったのだろう。科学論から電子を排除するなど正気の沙汰でない事は分かっていたのだろう。自分を勇気付けたかったのだと思う。

その本の p.58 に「35年間も無視されたグレゴール・メンデルの遺伝学研究はその古典的な例である。」と書かれている。当時は、まだ電圧の物理的意味が『エネルギーギャップ』の認識にまで辿り着くとは思っていなかった。

昭和62年5月の怪しさ(人権侵害事件)

長岡高等専門学校から殺害の危機から逃れて、長岡技術科学大学に戻った。

第1点。昭和62(1987)年4月2日頃、仙台市の東北大学で『静電界は磁界を伴う』を電気学会で発表した。その内容が現在の物理学の論理矛盾への研究の原点となった内容だ。すべてその内容につながっている基本研究だ。既に、大学ではもう電力工学での研究は出来ないだろうと覚悟もしていた。しかも人事で、初めから教授、助教授などの身分が転勤に関わるとは意識していなかった。それは新潟県(?)からの大学への転勤(らしき偽装形態?)をも経験していたから。その時に、昭和62年2月、前もっての難波江教授から津端教授に会って欲しいとの要請をお断りした。多分人事関係の話と思った。4月から何が始まるか全く意識もしていなかった。人事の意味を正規で経験した事が無かったから、考える余裕も無かった。

第2点。人事の発端とその問題。新潟県教育委員会での採用の身分でなかったから、昭和55年4月の移動も転勤の人事ではなかった。前職無しの不可解な、技術科学大学への転勤でない採用人事であった。如何にも転勤らしさを新潟年教育委員会は表面上繕った。新聞で昭和55年3月退職者になっていた。最初から怪しい技術科学大学への転勤らしき様相の採用形態であった。『公立学校共済組合』の加入事務手続きも、一切県での採用事務関係の手続きは無かった。十数年後に突然と言う感じで、昭和54年8月「新潟県知事部局(君 健男知事、金子 清副知事-長岡技術科学大学参与)」から自宅宛てに『極秘県外出張の要請書面』が届いた。昭和53年母が亡くなったと同時に新潟県庁、教育委員会関係から不可解な人事関係の要請が届き始めた。『公立学校共済組合の組合員』ではなかった。昭和39年4月から新潟県教育委員会との採用事務手続きを一切受けていない。何処とも契約をしていなかったことを最近始めて知った。みんな偽の『らしき採用形態』で処理されていた。そのような過去の関係からして、文部省人事が可能とは考えられない当時の状況であると解釈できる。

第3点。上記の経過後、昭和62年5月。連休を妻と柏崎の米山会館に行ってきた。その直後、長岡技術科学大学のパワー研、研究棟の廊下で、難波江教授が妙な事を尋ねた。「柏崎に行って来たか?」と、行って来たから「そうだ」と答えた。それが不思議な事に、そのすぐ後に、当時韓国から留学生『ホウ』君がいた。その『ホウ』君がすぐそのあとすぐに難波江教授と同じことを尋ねた。だから行って来たとは答えたが、誠に後で考えれば不可解極まりない事であった。結局その意味が分からず最近まで過ぎてしまった。

この石が柏崎米山会館で購入したものだ。「石の囁き 聞こえますか」に載せた石だ。多分紹介の記事のも書いたと思うが、ある時期この石が戸棚から消えていた。しばらく後に不思議にも戻っていた。気味が悪いが捜査機関の仕業かと考えられる?しかしその記事気がいつの間にか削除されてしまった。全く不可解続きなり!!この石がどうも私が『万引きした』と言う人権侵害事件にでっち上げた物ではないかと気付いた。恐ろしき犯罪国家❓行政❓。不都合な記事は削除される。留学生迄事件の中に取り込んだ、不可解な恐ろしき次第なり。大学事件の顛末がこの辺にあるようだ。

結局筆者の引きこもり事件として片付け続けているようだ。大学でも人事の「退職事務手続きさえさせても貰えず」に今日を迎えた。新潟県教育委員会はじめ、長岡技術科学大学でも人事事務の正規な関係を受けた経験もなく今日に至る。

『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づく電磁界の本質- この意味を生かしたい。

コロナ放電の空間エネルギー

見えるもの 見えないもの (2015/03/12) 。にコロナ放電と電荷の関係が載っていた。今、電気回路の電圧の物理的意味が空間のエネルギーギャップだとの認識に到達した。『電荷』など自然界には存在しないとはっきりと理解できた。

不図上の記事を見ながら、疑問が浮かんだ。何で、コロナ放電はマイナス電極側が大きく成長するのか?と。以前は未だ分からなかったが、『エネルギーギャップ』の電圧概念が認識できていたから、直ぐに気付いた。これが、観照という意味なのかと思う。

電線の先端部には高電圧を掛けると『コロナ放電』が起きる。その放電の様子は、マイナス電極側が大きなコロナの伸びを呈する。プラス側も小さな放電の玉状の放電を示す。電気回路で、プラス側の電線路にはエネルギーは分布していないと解釈する。しかしコロナ放電がプラス側でもわずかに起きる。それはその電極近傍空間にエネルギーが分布するからだ。しかしコロナの発生は、電線などに突起状の極端な状況が無ければ起きない筈だ。

極性による放電現象の差は電極空間に生じる空間のエネルギー分布現象が原因であったと分かった。

これも昭和62年春の電気学会での発表『静電界は磁界を伴う』からの一つの結果でもある。その時拾った火中の栗の意味か?

結論。また一つの電気現象の解釈を通して、自然現象には『電荷』など全く無関係である事の証明となったと言える。

電圧・電流の物理的概念

「電気回路から物理学理論と教育を考える」で漸く結論に至った。しかし、過去のすべてに不可解のまま、科学論の土俵への道も知らずに来た。ただ教育現場が如何に在るべきかと思う。

2年程前、電圧・電流とエネルギーと時空 (2019/08/11)、それに続いたこれが電気回路の実相だ (2019/10/01) および電気回路のエネルギー問答 (2019/10/02) 等に、その当時は未だ『エネルギー伝播現象』の実相を捉えてはいなかった様子が観える。その後の2年間で漸く到達した。振り返れば実に不思議な感慨を覚える。疑問を抱き続ける事に。

電圧・電流はエネルギーの伝送特性量

電圧・電流とエネルギーと時空 (2019/08/11)。そこに示された波形だ。

物理的概念と表題にした。その意味は物理学理論の物理ではない。自然現象としての電気エネルギーが伝播する現象を物理的に解釈するという意味、即ち自然の屈という意味である。

現代物理学理論は既に自然現象を理解するには役に立たない過去の遺物論となっている。自然界に存在もしない『電荷』や『電子』で解釈するあらゆる学術論は、自然現象を理解するに色眼鏡の度がきつ過ぎて、人の解釈を迷わせる存在に観える。

光のエネルギー量。hν[J]で評価する光。その解釈では、光の空間エネルギーの分布を理解できない。光のエネルギーを振動数のみで解釈する理論では、決してエネルギー量のジュール[J]を認識することが出来ない。単一周波数の光が幾ら高密度であっても、その振動数での解釈では決してエネルギー量を評価できないから。空間を伝播する光のエネルギー量が自然現象に影響することを評価できないから。それは電気回路現象の理解が出来ない。電圧、電流の自然現象としての意味が認識できない。その意味で将来に向けた理科教育として相応しくない。そこで上の波形の意味が問題となる。

さて、物の理屈として上の電気現象波形の意味を考えてみよう。電流波形や電圧波形の意味が分かれば物の理屈の例となる。これぞ物理学となる。

図の横軸は角度表記である。それは同時に時間軸と見做せる。ωtのt[s]軸と同じ。オームの法則は実に優れた科学技術法則だ。自然の奥底の現象を技術量に置き換えて評価している解釈法が素晴らしいのだ。その概念『電圧』と『電流』が含む自然現象の真理は決して自然界に存在しない『電荷』などで解釈する事は出来ないのだ。誠に有り難い事は西洋哲学が自然現象を活用する意味において、特段の意義を発揮している点である。その御蔭で現在の科学技術の恩恵に浸れるのである。科学技術競争社会はその思想の延長線上にある。しかし、東洋哲学の方向性は少し異なるように思う。自然の中に深く入り込み、自然と思いを同化する方向性のように思う。自然を守る方向性と。

ー苦言。エネルギーの大量消費で発電エネルギーと同じ分を海の加熱で賄っている事を全ての電気エネルギー利用者の科学リテラシーとして認識しなければならない。豪雨災害の原因や高温異常のフーン現象はすべて海の加熱エネルギーの自然的放射現象をその根源にしている事を。ー

東洋思想は科学技術的進展を目的とする方向性とは考え方が異なる。自然現象の本質を求めるには、科学技術概念の自然的真相を理解する為に、その概念の中身に『削ぎ落し』の思考を重ねて、理解に到達するように思う。自然はすべて空間の『エネルギー』一つの千変万化の具象像でしかないと漸く考えられる。それは光一つが空間の『エネルギー』の密度分布の縦波現象でしかないのだ。電界や磁界の概念はその『エネルギー』の空間状態を科学技術的解釈法に合理的な手法を編み出した、自然界に実在する物理量ではない仮想的概念なのである。その様な意味を踏まえて、電圧、電流波形の意味を単なる技術概念という意味でのみ解釈すべきでない。光のエネルギーの空間伝播現象との関係付けで認識すべきである。

波形図の横軸は角度量である。それは又、ωtの関係から、時間軸 t[s] とも見做せる。この図の波形の意味は、電線路のある位置で観測した時、その位置での、その電圧と電流の値が時間的に変化する様子を表現したものである。波形の値はその位置の値で、離れた位置の波形は違う値なのである。その事をこの波形で表現した深い意味の数量であると理解しなければならない。波形一つも漠然とした意味ではないのだ。この波形の同じ意味を横軸に距離を採って表現すれば、右に波の進む位置の方向を採った場合、左右が逆転した波形になる。空間図形の表現内容も注意してみるべき意味を含んでいる。

電圧 v(ωt) の波形、電流 i(ωt) の波形が正、負に変化する正弦波形である。この電圧と電流と言う物理的概念が何を定義したものかを理解するのはなかなか難しい。科学論では、『電荷』が存在するとの仮想的認識に基づいて理解しようとする。そこに、根本的な不明確にならざるを得ない原因がある。その『電荷』概念に基づく解釈では、子供たちが満足できる明快な説明が出来ないのである。理屈で非の打ちようがない論理性は期待できない。説明者自身が、おそらく分からないからなのであろう。『電荷』に因る解釈である限り、教科書の正当性が保障されていないのである。『電荷』は自然世界には存在しない、科学論用の仮想概念でしかないから。

(1)電圧について。1[V] と言う電圧値は何でしょうか。

電線路間に掛かる電圧の意味が、先ず物理的に明確でなければならない。電圧が正の波形の場合の電線路に生じる原因が何か?『電荷』で説明できますか。電圧波は光速度で電線路を伝播する。電源から正の電荷(陽子?イオン?その具体像?)と負の電荷(電子像?)が電線路に流れ出て、その電荷が光速度で進むのですか。ここで既に「電荷」論には無理があると分かる筈であろう。電子の流れでは電圧の解釈は無理であろう。電気回路は、その回路特有の回路空間に静電容量と言う定数値を持っている。その定数を εo[F/m]とすれば、電線路の空間に分布するエネルギー密度は

εo V^2^[J/m]

と、電圧の2乗で表されるのだ。電源のエネルギー供給能力と回路空間定数に関係した技術概念が電圧の意味なのだ。

(2)電流について。1[A]、その物理的な意味は何かを明確に示さなければならない。

電圧の電源に電線2本で電気配線空間を張る。電線路終端に負荷抵抗を繋ぐ。電線導体に電子が流れて電流となると解説される。そんな理屈が厳密な物理論として通るだろうか。電圧と同じく、電線路空間にはエネルギーの流れる速度を決める回路特有の定数がある。誘導定数をμo[H/m]とすれば、そのエネルギーの流れる伝送密度は

μo i^2^ [J/m]

となるのだ。電流値の2乗に因るのだ。電流と言う概念の意味もそのエネルギーの流れに関係したものとして在るのだ。

記事の冒頭に掲げた波形の V^2^ [J/H]およびi^2^[J/F]はそのような意味を表現した意味を持っている。空間の『エネルギー』分布に関係した概念を持っているのだ。

ここ迄述べれば、誰でも『電荷の科学論』は教育現場での緊急課題だと気付くと思う。

交流回路現象は、直流と違って、負荷でのエネルギー反射現象が電圧エネルギーギャップに対して、時間位相が少し複雑になる。

蠟燭と灯り

有名な書籍「ロウソクの科学」がある。電磁誘導現象の発見として有名な、イギリスの科学者マイケル・ファラディー(1791-1867)の公開実験と講演(1860年から翌年までの6回のクリスマス講演)の内容と訳者の解説に在る。身近な化学反応に関する内容のようだ。

その本が手元に在り、公開実験で市民に当時の最新の科学の、今で言えばサイエンスコミュ二ケーションに相当する意義を認識しての講演であったと言えよう。その本の記事に触発されて、同じ蝋燭の物理的現象を考えてみたくなった。当時のファラディーの科学知識に比べても、何も分からない者が考える内容だから大したものではない。しかし、今でも物理学理論から蝋燭の燃焼・発光現象を解釈したらどうなるか?少し、電気回路から物理学理論と教育を考えるから離れて。

化学方程式は炭素と酸素が結合して炭酸ガスになる。炭素(黒鉛)の燃焼熱あるいは二酸化炭素の生成熱として、

E = 349 [kJ/ 1 モル]

と検索結果に出る。この数値はどのような科学的根拠から算定されたのか?ただ根拠なしに、唐突に示されると、それは科学論としては訝しい思いになる。電子の電荷と質量が10桁も示される科学理論と同じく論理性の無さで社会的な欺瞞科学論に思える。この数値、349[kJ]も空間に現れる『エネルギー』の測定量の筈だ。物理学での数値ではなく、化学における数値のようだ。「基礎理科」への統合理科への道筋としても両方の科目で、相互に理解し合えるものであって欲しい。その科目統合の基準として『エネルギー』に視点を置かなければならない。

蝋燭の蝋が熱でガス化しないと燃え難かろう。燃え芯が旨く蝋を熱で溶かし吸い上げるから、少しぐらいの風にも消えずに灯りを灯し続ける。『エネルギー』は空間で物質が変換して初めて発生するものである。ロウソクは、蝋と酸素の化学的結合の燃焼現象の結果として、熱と光への変換が起きている訳だ。結合前の炭素と酸素から炭酸ガスが生じる。その時、『エネルギー』が発生するには炭素と酸素の質量が変化せずに『エネルギー』が生まれる訳はないのである。『エネルギー保存則』という意味が科学論の根底に捉えられていない。

自然現象で『エネルギー』に関わりないものは無い。何時もその『エネルギー』の実像、空間像を探してきた。エネルギー(energy)とは? (2011/09/07)。糸電話―力学的解剖ー (2014/03/06)。等から、『電子』の科学理論の基礎概念としての矛盾が確信となった。電子論は論理性で矛盾に耐えない。

蝋燭の灯りは空間に放射される光の空間エネルギーである。物理学では、その光の空間に流れる『エネルギー』の縦波現象だとの認識が無ければ、未来への理科の役割を果たせない。349[kJ]の論理的算定根拠が化学論に欲しい。それが質量のエネルギー変換現象だとの物理学での認識が欠かせない。

過去に同じような記事が有った。すみません、少しボケかな?焚火の科学 (2018/05/26)。焚火と蝋燭 (2013/02/03)。

電子とエネルギー(バンド理論は魔界?)

時は今、エレクトロニクスの時代。エレクトロンとは何者だ❕

電子の実像を探し求めて、長き彷徨いの中を過ごした。電子は質量と電荷の二刀流の使い手だ。その変幻自在のあり様は正に魔境に誘い込まれたが如くに、その意味不明に惑わされる感覚になる。問答実験(2014/01/31 )にも。

何の知識も、学術研究の取り立てて自慢できるものは何もない。『バンド理論』が量子力学の主戦場の英雄となって、君臨している。

物理現象の本質はすべて、空間での『エネルギー』の振る舞いにしか見えなくなってきた。長く『バンド理論』のその周辺の意味を理解しようと考えを確かめてきた。過去の記事がある。

謎(pn接合は何故エネルギーギャップ空間か) (2017/05/07)。

『エネルギーギャップ』と電圧に関係した記事に、

電池と電圧(エネルギーの基礎研究) (2019/11/19)。電池と電圧(エネルギーの実験) (2019/11/19)。ダイオード電圧 (2020/08/26)  等がある。

バンド理論の『バンドギャップ』とは何か?その代表的な解説がある。半導体の部屋にその図が示されているので参考にさせて頂く。

半導体の伝導現象は『バンドギャップ』と電子及びホールがその解釈の基本的対象概念である。そこで、電子がエネルギーレベルで高い状態になるか、ならないかで伝導帯に上がるか、価電子帯に留まるかが決まるとの解釈である。

さて理解できない事。それは次のような解説である。

『半導体は、電子が運動エネルギーで価電子帯より増加して、伝導帯に励起され、若干の電気伝導を示す。また、価電子帯から励起した電子の抜け殻にホール(正孔)が発生し、正の価電子の様に振る舞って電気伝導に寄与する。』

その解説内容は、電子が若干、そしてホールが正の荷電体の様に伝導の役割として働く意味の解説と理解する。さて、半導体は電気回路の銅線あるいはIC導線の金線から銅線に繋がって外部負荷につながる。そこで、電子は運動エネルギーが増加して、更にホールのエネルギーも高レベルの値で外部回路での伝導に寄与するとの意味での解説と理解する。

ここで、気掛かりの事がある。バンド理論の解説も意味不明であるが、繋がる電気回路がその電気エネルギーの伝導現象に重要な意味を持っている筈だ。電気回路で、電子(運動エネルギー?)あるいはホールが『エネルギー』をどの様に負荷に届けるかが、その技術の粋としての半導体の機能を発揮する役割の筈だ。それは、一般の電気回路の解説では電流が流れるという意味を、それと反対向きに電子が流れて電流の意味の機能を発揮するとなっている事との関係から見れば、全く無意味になる。

科学理論はあくまでも総合的に、広い場面との整合性が取れた解釈が出来ないと誠に不明確な分かり難いものになってしまう。どうも現代科学論は、とても専門性が重視され、その狭い専門的科学論によって総合的な整合性と言う面で、とても曖昧な理論となっていようだ。どの様に電子あるいはホールが負荷に如何なる理屈で『エネルギー』を届けるかが示されなければとても科学理論としての解説としては納得できない。誰もが何も疑問を呈しないところもまた不思議の極みに思う。

専門家とは、一般の市民が理解できるように易しく、詳しく(「電荷」の空間像等)解説するところにその真価が発揮されるべきと思う。筆者には、『電荷』像さえ理解できない為か、なかなか『バンド理論』の意味が理解できない。新潟県教育委員会での採用事務手続きも無かった16年間の教職員歴(?)はじめ、職歴不明(?)で悩む筆者の電気回路現象解釈論からの疑問に対して、専門家のご意見をお聞かせ頂ければ望外の喜びとの思いを込めて。

 

私と雨蛙

それは1994年7月22日早朝5時の事だった。庭の足元に小さな蛙が居る。よく見ると、お腹に虫が付いている。未だその頃は雨蛙に何も意識を持っていなかった。雨蛙と言う呼び名も知らなかった。青ガエルと言う意識で居た。

不図気づいたその蛙に惹かれて写真に撮った。幾つかのその時の写真を載せる。当時は、南陽団地のある大きな食品工場の排水処理設備の管理の仕事をしていた。お世話になった。曝気による食品の油性分処理。とても不思議な微生物との関りで、面白かった。曝気設備が機能すると、臭かった設備が芳香に包まれた場所に変わった。「風来坊」の額と共に。そんな朝の出かける前の2時間ほどの間の出来事だった。

腹部に何を❓ 意味も分からず、写真に収めた。1997年7月22日朝5時。

抱えて保護のしぐさか?

同日朝。7時半。

地面から1mほどの高台の土鉢のヘリに上っていた。未だ不安そうな表情だ。

素敵なポーズ。安心して、寄せる信頼の表情。名刺などにも使う。

 

版画の下絵の素描。驚きを詩に寄せた。

2002年の絵柄。1997年から5年経った。その間に、狭い庭の中で、雨蛙の不思議に思いを重ねて、その在り様をじっと眺めてきた。水の無い小さな場所に、多くの雨蛙が居る。決して「オタマジャクシ」の生態を雨蛙は採らないと判断する時間が必要だった。

雨蛙に思いを寄せた覚悟の版画。2003年年賀状。

比較的良い出来だ。それにしてもこの版画を受け取った人はきっと、『こりゃ何だ?』と驚いただろう。小生は気付かなかったが、人がNHK新潟放送局の放送でこの版画を見たと言っていた。当時は誰もが「オタマジャクシ説」を信じていた筈だ。トンデモナイ版画だ。この版画にする決断を迫った事件がある。十日町市内のある温泉施設で、「日本雨蛙」と言う写真の載った解説本を見た。山と渓谷社の本だ。そこに日本雨蛙の写真として、相当図太い形状の赤みを帯びて、長い尻尾を付けた姿で、日本雨蛙として示されていたのを見た。専門図書のような解説本として。その当時平凡社の百科事典(全七巻)でもオタマジャクシ説で解説されていた。何処にもみんな同じ解説で、オタマジャクシ説を否定する人は居なかった。最近までwikipedia もオタマジャクシ説だった。

しかし、どう考えても水の全くない場所で、オタマジャクシの生息は無理だと確信した。そこに一つの大きなヒントが土の中に隠されていた。ある日土を掘っていたら、15㎝程の深さと思うが、そこに白い細長い虫が塊状になって蠢いていたのに遭遇した。太さはマッチ棒程度で、とても多くが一塊に絡み合って居るのを見た。しかしその時は全く特別に注意を払わなかった。直ぐに土を埋め戻した。おそらく1年くらい過ぎてから、その情景を思い出した。あれは何だったのか?と不思議が脳に上った。完全にその事と雨蛙の生態が繋がった。それがいつの日かは今は忘れてしまったが、日本雨蛙は決して「オタマジャクシ」の生態を採らない事を確信した。

それを文集に纏めたのが2006年7月である。雨蛙―その謎― (2011/08/31)。

日本雨蛙の肖像権を汚さないように、きっと自分に自然世界の真実を伝えてくれと頼まれたように思った。『静電界は磁界を伴う』-この実験事実に基づ電磁界の本質― (1987年4月) 以来の精神的葛藤を覚えた。漸く『電荷』が自然世界には存在しない、科学論的仮想概念であったと確信できたのと重なる。自然は不思議の魅力がいっぱいだ。

今思う。雨蛙の腹部の生物はいったい何なのか?未だにそれは謎だ。土の中が雨蛙の誕生の場所である事は間違いない。しかし土の中でどのように卵塊が産み落とされ、それが何年かかって成長し地上に生まれ出るかは全く分からない。蝉が7年と言うが、雨蛙の場合は特別何年と決まっていなくて、何かその状況によって相当の年数土の中で過ごすかと勘繰れる。早いものも、遅い者もいるような気がする。最近年に数匹しか生まれ出ない様子から、相当古く土の中に生まれたものが出てくるのかと思える。蝉以上の不可思議を未だ抱えている。最近はセミの声も聞けないようになりそうだ。人間の自然への畏敬の念が欠落し、自分自身の自然の生命さえ冒す経済成長と言う魔物が住み着いているようだ。コンクリートジャングルの言葉も消えて久しい。『エネルギー』の意味を教育で教えて欲しい。自然の多様性は『エネルギー』一つから生まれている事を!

 

雨蛙と自然

梅雨の終わりには豪雨災害に悩まされる。最近は災害の犠牲が尋常でない。

自然の巡り会わせで、気になるのが雨蛙である。今日は7月4日、ネジバナの咲くころだ。日本雨蛙 (2011/05/16)をはじめ関連記事を書いてきた。英語では Tree frog と言う。木のカエルで、雨と関連した意味が見えない。その意味には水に関連したカエルでなく、木に生息するカエルという意味で解釈したい。日本語では雨との関係で表現する。しかし、雨蛙は余り水が好きではないようだ。何故「雨」の文字を付けて呼ぶかと言えば、梅雨の時期の雨が降った頃に多く発生するからという意味で付けたと解釈したい。丁度今頃の特に梅雨の終わりごろ、ネジバナが咲く頃に雨蛙は多く生まれることに関連して付けたと思う。不図気づけば、小さな雨蛙が幾つか全く水辺の無い庭に生まれていた。

先ず一つ。

 

 

 

 

 

 

2匹目。

 

 

 

3匹目。

 

 

 

 

4匹目。

 

 

 

 

 

5匹目は素早く逃げられた。今年の雨蛙を見て、少し気になることがある。どうも雄系ばかりの様な気がする。雌はもう少しぷっくり太った形の筈だから。それにしても、それ程逃げ足が速くないから、2,3匹目あたりは形態から雌かも知れない。

少し雨が降ったから、土が柔らくなって、土の中から生まれ出たのだ。最近は以前のように3,40匹も生まれることは無くなったが、数匹は生まれ出る。時には9月頃になっても生まれる蛙もいる。

ここは全く水が無い場所だから、土の中から生まれ出るのだ。親雨蛙は春に既に土の中から這い出している。雨蛙がオタマジャクシから成長すると言う、専門家の自然認識は間違いである。雨蛙は、人の目に触れ時には決して尻尾は見せないのが雨蛙の自然の生態だから。学校教育で、水田の中からオタマジャクシを採って、育てる愚かな観察がある。とんでもない間違いだ。

最初から常識的な、頭で決めてかかる自然解釈が間違った論理を広めるようだ。

自然をじっくり観察し、疑問を持ってから自分の感覚と自然との間の関りを見つめ直すことをしてほしい。

専門家と言う使命。専門家は受けた教育を受け継ぎ、広める業界の枠組みの中で社会的役割を担う事に成る。だから、津波の解釈やあらゆる科学論がその先輩の指導の枠の中での社会活動の定めに在る。さもなくば指導に反旗を翻した道しか残されない。 雨蛙―その謎― (2011/08/31) にその意味の一端(2006年7月の事)がある。

雨蛙の「オタマジャクシ説」をその代表例として挙げる。