(2021/04/04)追記。今思う、世界は科学技術によってその生活環境が予測しがたい状況 に直面している。その地球環境の未来への希望は、すべてその基本が子供たちの教育に掛かっていると思う。日本及び世界の教育の課題が改めて気掛かりである。その期に及んで次の点がある。それは『教育の基本』である。
記念誌に、南原 繁 の書(どなたかの寄贈)が体育館に掲げられていたとある。どんな書か知りたかった。昭和22年3月31日、新しい日本の教育制度の基礎が『教育基本法(原)』として制定された。その教育刷新委員会 委員長が南原繫である。東京帝国大学総長であった。その新しく制定された教育の理念の意味について、南原繁は次のように述べたと言う。
「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようと、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」
改めて、その『教育基本法(原)』の前文を記す。
“ われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かの文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。”
以上がその『教育基本法(原)』の前文である。
しかし残念な事にその『教育基本法(原)』が 2006年12月22日に『教育基本法(改)』に変わった。なお、(原)と(改)は筆者が区別の意味で付けた。残念という意味はその『前文』までも変えたその理念が理解しかねるからである。教育の政治的中立性(2020/07/22) 。
(2021/03/ 28)その閉校記念誌を頂いた。やはり寂しさがある。貝野校の歴史を記念誌から知った。
昭和31 (1956) 年9月30日 中魚沼貝野村は閉村となり、残念ながらそれ以降、故里はその学校区ではなくなってしまった。
貝野小学校新築記念 (2016/08/31) が昭和3年12月3日の事だ。記念誌には校舎増改築落成式挙行とある。
姿校 明治7年 (1874) 2月 創立し第6中学区第4番小学姿校(興源寺)と称す。
明治22年6月 村立姿尋常小学校と称す。
貝野校 明治7年 (同) 3月 創立し貝野校と称す。
明治22年6月 村立貝野尋常小学校と称す。
合併 明治25年7月 合併により、村立貝野尋常小学校となる。
以上が創立当時の歴史と知った。
記事などから、
明治6年6月 柏崎県が新潟県に統合され、新潟県となった。知らなかった。
歴代職員(明治25年以降)
その4人目に、祖父 金澤 信策(ノブツグ) 明治26年4月~同29年3月 が載っている。年齢を数えれば、15歳ほどだ。村で若い頃に教えていたと聞いたことがある。また、金澤 憲治(大正6年)(我が家の先代:金澤喜代治の長男で、新潟師範の学生であったが、原因不明で死亡)の名も載っている。
明治30年9月。姿と宮中で赤痢が発生し、41人死亡とある。何か現在のコロナウイルスの状況との関係を考えさせられる。
明治32年5月 私立塾設置。塾長に石原信 氏を招聘(姿 金澤 道賢が招聘)とある。金澤 道賢は筆者の祖父:金澤 信策(ノブツグ)の父。