月別アーカイブ: 2021年3月

エディターが変って投稿が困難になった。

『ブロックエディター』は止めて欲しい。投稿が混乱して、記事が消えてしまう。『旧エディター』だけで投稿したい。

ダッシュボードから表示をすると、何故「フォロー」マークが出るのか?筆者の投稿と認識しないのか?

御蔭さまで『旧エディター』が使えるようにして頂いた。有り難い。

操作が分からない。どうしたら良いか?

図版の投稿が上手く出来ない。

固定ページは『旧エディター』が可能なのに、何故記事は出来ないのか。

スパムメールがコメントに在り、削除して『現在1件のコメントをスパムとして捕らえています』とそのまま有るかのように表示されている。

『現在保留中のスパムは有りません。』となった。

旧エディターに戻らないかな?

少し古いエディターが使えるようになったので、画像を載せられ安心した。しかし、古い投稿記事のリンクがし難い。古い記事の『年・月』検索が困難で困る。これは回復していたので安心した。しかし、まだダッシュボードでの検索が出来ない。

新規投稿記事の短縮URLが取れない。

貝野小学校が閉校になった

(2021/04/04)追記。今思う、世界は科学技術によってその生活環境が予測しがたい状況に直面している。その地球環境の未来への希望は、すべてその基本が子供たちの教育に掛かっていると思う。日本及び世界の教育の課題が改めて気掛かりである。その期に及んで次の点がある。それは『教育の基本』である。

記念誌に、南原 繁 の書(どなたかの寄贈)が体育館に掲げられていたとある。どんな書か知りたかった。昭和22年3月31日、新しい日本の教育制度の基礎が『教育基本法(原)』として制定された。その教育刷新委員会 委員長が南原繫である。東京帝国大学総長であった。その新しく制定された教育の理念の意味について、南原繁は次のように述べたと言う。

「今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようと、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい。」

改めて、その『教育基本法(原)』の前文を記す。

“ われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かの文化の創造を目指す教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。”

以上がその『教育基本法(原)』の前文である。

しかし残念な事にその『教育基本法(原)』が 2006年12月22日に『教育基本法(改)』に変わった。なお、(原)と(改)は筆者が区別の意味で付けた。残念という意味はその『前文』までも変えたその理念が理解しかねるからである。教育の政治的中立性(2020/07/22) 。

(2021/03/ 28)その閉校記念誌を頂いた。やはり寂しさがある。貝野校の歴史を記念誌から知った。

昭和31 (1956) 年9月30日 中魚沼貝野村は閉村となり、残念ながらそれ以降、故里はその学校区ではなくなってしまった。

貝野小学校新築記念 (2016/08/31) が昭和3年12月3日の事だ。記念誌には校舎増改築落成式挙行とある。

姿校  明治7年 (1874) 2月 創立し第6中学区第4番小学姿校(興源寺)と称す。

明治22年6月 村立姿尋常小学校と称す。

貝野校 明治7年 (同)  3月 創立し貝野校と称す。

明治22年6月 村立貝野尋常小学校と称す。

合併 明治25年7月 合併により、村立貝野尋常小学校となる。

以上が創立当時の歴史と知った。

記事などから、

明治6年6月 柏崎県が新潟県に統合され、新潟県となった。知らなかった。

歴代職員(明治25年以降)

その4人目に、祖父 金澤 信策(ノブツグ) 明治26年4月~同29年3月 が載っている。年齢を数えれば、15歳ほどだ。村で若い頃に教えていたと聞いたことがある。また、金澤 憲治(大正6年)の名も載っている。

明治30年9月。姿と宮中で赤痢が発生し、41人死亡とある。何か現在のコロナウイルスの状況との関係を考えさせられる。

明治32年5月 私立塾設置。塾長に石原信 氏を招聘(姿 金澤 道賢が招聘)とある。

 

自然と言う世界

(2021/03/28) 追記。下記の記事で、光と視界認識の機能について述べた。眼球構造とその機能は生活環境、即ち水中か地上かによって多少は異なるだろう。しかし人だけでなく他の動物、馬や牛あるいは鯨や蛸など目の機能はほとんど同じ筈だ。全ての生体の殆どの眼球の構造は同じで、黄斑円孔が視神経となって、何処かで繋がっている筈と思う。牛や馬の眼球の解剖により、その視覚機能が分かれば、人も同じ機能と構造と解釈して良かろう。こんなところに科学理論の少しでも専門的な研究対象を広げた、より自然に寄り添う哲学的広がりによって、真の自然感に因る科学論が展開できるのではと思う。

(2021/03/22)。こんな素晴らしい不可解。それは光の世界。

上の眼球の図はーカラーでみせるやさしい解剖(南江堂)ーの絵図を写させてもらった。眼球の光ファイバーと色覚 (2010/11/28) のブログのはじめの頃の記事に関わる。その記事は改めて科学理論の常識に大きな衝撃を受けて書いたものだ。筆者のような医学の素人が、眼科学会の専門家の科学論に反論するなど正気の人間のすることではない。改めて、現在の『電子』否定の確信からの、科学理論全体への疑念をどう伝えればと悩みの中に在る。専門家はそれぞれの科学業界理論の中で、論議はするが、筆者のような素人の論は無視されて、反論もされない。眼球構造で、網膜に視界の像が結ばれるとの解説が眼科のお医者さんのお部屋には掲示されていると思う。上の図で、網膜は硝子体膜と脈絡膜の間の厚い部分であると示されている。水晶体のレンズなどで、光が屈折して網膜に像を結ぶと本当に解釈しているのかと思えば、原子力発電所の危険な科学技術程ではないとしても、みんなに考えて欲しい科学理論の現実として提起せずにはいられない。網膜全面に亘ってどのような光検知の細胞が、しかも色覚の基となる光の空間エネルギー分布波迄検知できる細胞機能が備わっているなど理解できない。光の物理的空間像が物理学理論で認識されていないことが全ての科学理論の曖昧さに関係している原点である。プランクの定数の次元が [Js] である意味をどの様な物理的概念として理解しているかが問題と思う。今日もある新聞ニュースレターの記事に、『老害』と言う言葉が使われて‥とあり、筆者の様なものも『老害』には成りたくないが、しかし・・。自然の中に現れる千変万化の不思議は、科学論で示そうとすれば、その純粋な自然の心に沿う思いが基に無ければ、観えないように思う。光が網膜に視界の像を結ぶという科学常識は間違っている。硝子体管は光ファイバーである。

心 ホウズキに遊ぶ (2021/03/14)。で、「木瓜(ボケ)の真赤な花が咲く こんな素晴らしい不可解 風景の意味でも極めんと」と訳の分からないことを綴った。

念頭に光の不思議を思い描いての事である。

真赤な花弁は木瓜だけではない。

なぜ花弁が赤いか?と己に問うてもその訳を説明できない。決して花弁が赤いという色の光がある訳ではない。光に色はない。光の本性を考えれば、それは空間に分布した『エネルギー』の縦波でしかない。だから色など光には無いのだ。光の空間構造が赤い色を本質的に備えている訳ではない。その意味を分かって頂けると思うが、如何でしょう。光を振動数で捉える習慣の理論物理学の専門家には異論があるかも知れない。しかし光の『振動数』と言う概念は誠に意味の分からない概念に思える。何かが振動している状態と解釈するとすれば、それは何が横向きに振動するものかの何かを示さなければならない。電界とか磁界とかが横に振動する訳がない。マックスウエル電磁場方程式の信奉パラダイムにおられる専門家には承服しがたいことと推測する。しかし、光に色彩の差を示す性質はない。それは自然が人との間の心のつながりを演出した結果と思えばよい事であろう。それ以外特別な物理的本質などない。同じ光が花弁に当たれば、その花弁の表面の空間構造(あるいはその内部に侵入して)、に対して屈折して波長(エネルギー分布の空間構造)に変化を生む。そのエネルギー分布の縦波の構造にその花弁の特徴が現れるからと解釈する。光は何も振動などしていない。光は単にエネルギーの空間分布波形の縦波でしかない。その単純性が光の基本特性だ。だから光は無限の変化で人に計り知れない複雑な世界の印象を与え得るのだ。

物が見え、風景が見える。

それはすべて光と目の関りに因っている。先ず、光が空間に展開される訳だから、その本質は光の空間像を認識することから始めなければならない筈だ。光の振動数とはどの様な意味かを理解しなければ『振動数』と言う物理概念が余りにも曖昧なまま使われてしまう。それは科学理論の基本である論理性を無視した科学論に成ってしまう。自然の基本は極めて単純なのである。風景や物を見て認識できる訳は光が決して曲がらない。その意味は極めて日常生活の中の単純な事にある。真っすぐ光は進むから風景が見える。光が曲がったら風景や物の像など見えない。そんな単純な意味を感覚的に意識する事しか、自然の世界と分かり合える道は無いと。

眼球の機能で全く分からない事の一つ。視神経と黄斑の繫がりがある筈だ。その解剖的構造が知りたい。

科学理論に危機感を!

科学技術の驚異的な進展社会に生きている。それはまた、自然を人の思惑でその環境を作り替える事に成る。どれだけ過去に科学技術の過剰な適応によって過ちを犯してきたか。今は、全世界的な科学技術による経済競争と言う坩堝の中に嵌まり込んで、自然が破壊され、地球の命の輝きが消え失せようとしている。海の温度が高まれば、魚貝類の生存領域が狭まる。結局人の自然による恩恵が失われ、人の生存が出来なくなる。そんなことさえ考えない、論理矛盾の経済競争が繰り広げられる。必ず全ての人に、一本の木を育てる義務を課さなければ、酸素も水も貧弱な環境に生きなければならなくなる。町の中に、住宅の傍に、大きな葉を広げた、桐の木さえ何処にも見掛けなくなってしまった。哲学を忘れた専門家の世界になったからだ。

(2021/04/07) 追記。

以下の記事がすべて削除された。

今足元の生活を思えば、空恐ろしい不安に駆られる。全く身の周りの環境の科学技術の現状を理解できない自分を観るから。

 生命に関わる、生物・生化学、医学生理学などの基本の基の字も理解できていない自分を分からない。高校生の学習する教科の理科の中でも、「生物」となると全く解説の意味が頭に入らない。DNAや細胞の中の機能など恐ろしい程無知である。世界は『クローン人間』の怪しさにも科学技術の可能性が重なる恐怖に、成す術もない自分を知る。分かる、分からないのレベルをはるかに超えた世界、宇宙を遊泳するに等しい現実離れの中に居る恐ろしさ。

 人は体温がどの様な細胞の機能によって保たれているのか?体温中枢の働きに因ってと言われても、体温の仕組みさえ理解できないのだ。ヘモグロビンが呼吸による『酸素』を体に運び、生命維持の機能を果たしていると言われても、何処でどのように『酸素』が使われて生きていられるかも分からないのだ。高度の細胞内の生化学と比べれば、余りにも基本の話の筈と思う内容で、日常生活の基礎の内容と思う。こんな命の話の基礎への不安、無知の我が身である。

 科学技術と科学基礎理論。

 DNAの細胞編製技術の壁に対して、電気回路の中に解かれる『電子論』の嘘が罷り通っている現状をどの様に捉えればよいかと、危機感が募る。

 命の水を心に載せて!

 『水』は酸素と水素の原子結合分子だ。と解説される。教科書で、学校教育によって教えられている。酸素も水素も電子が核の周りを回っている原子だと教科書にある。みんなそう理解している筈だ。そんなことが本当な筈はない。教科書が嘘を書いている。自然界には決して『電子』など存在し得ない事だけは間違いない。水の分子が酸素一つと水素二つの結合から成っているらしい。電子が核の周りを回っているなら、どの様な空間構造で、回転する電子が水分子を構成し得ると理解できるのか。120度の空間角度で水素が酸素に結合するとも言われる。回転する電子がどの様にそんな空間構造構成の力を発揮できると考えられるのか。皆そんな訳を説明できるのか。

 水の妖精七変化 (2017/11/02) 。この記事で水への疑問や思いを記した。水分子の構造を周回電子で解釈することは無理である。全ての分子がそれぞれの空間的な構造体をなす。原子の周りを結合を担う『電子』なる粒子が回転していて、一定の方向性を持った構造体を構成できる論理性等どこにも無い筈だ。周回電子なる仮想概念で、原子結合論を論じるなどできない。科学パラダイムは狭い科学論者の理論の寄せ集めとして教科書に纏められているだけだ。専門家は決して狭い他の専門領域に口を挟まないし、異論を唱えたりはしない。電力制御技術者が決して原子構造論など論じない。『電荷』否定論など決して唱えない。そんなことをするのは余程の愚か者である。気が狂ったと専門業界から排斥される。水の分子構造が分からないなどとは決して言わない。電気回路の専門家は、その専門家同士の積み上げてきた科学論の中での共通に理解し合える内容のパラダイムでその集団の力を高め、結合力で社会的、経済的利益を得る為の共通の目的に邁進する。

 専門家の理論。それは極めて保守的に伝統の維持に働く。だから曖昧な真の基礎概念など誰も研究対象にしない。『電子』は役立たなくても、専門家集団の理論の安泰の為には異論など挟まない。哲学など経済的所得に役立たないだけでなく、社会的の技術家・専門家集団から葬り去られる。

 科学者に欲しい哲学。空間に存在する『エネルギー』を認識してほしい。それは感覚的に自然との心の関係によって得られるもののように思う。薬缶(ヤカン)で湯を沸かす。沸騰する水を見つめる。水面に到達して、大きく膨張した気泡。水面から沸騰して飛び出す水蒸気。直ぐに消えて見失う。水の姿と熱エネルギーを沸騰現象にどのように解釈するか。『エネルギー』が分かりますか。心に描けますか。物理学理論には無いでしょう。水の膨張と水分子に関するアボガドロ定数の意味は?気体分子運動論?

以上が削除された。恐ろしや!!

科学と哲学

『電荷』概念の否定に思う。

科学は専門分野から構成される学問体系。

哲学は専門分野の解体によって始まる学問。

科学理論は専門家によって創られる。

科学理論を論理によって崩壊させたところに哲学が生まれる。

専門家・技術者。
大学等で、専門教育を受け、所謂科学パラダイムの信奉者として、特定の専門分野の科目・学術に精通して、その分野の研究・学習の積み重ねによって、その技術・知識の伝承の役目を担った社会的専門家となる。
国家試験、資格試験あるいは学術論文などにより、一定の専門的能力の基準を超えると認められることが多い。
その専門的学識は、その取得者にとっては生活が守られ、また社会的権威を保って、その専門分野の集団的組織の拡大が人によっては人生の一つの目的化となり易い。それは拠り所の科学パラダイムの死守につながる。

哲学者。科学革命が起こり難い。社会的専門家集団の科学パラダイムの死守に因る抵抗が大きな社会的壁となるから。安定した生活の糧と社会的指導者としての権威および社会的混乱回避の願望によって起きる変革への拒否。

『電荷』否定。それはやはり科学革命と呼ぶにふさわしく、社会的達成困難な哲学に成ろう。

(2021/03/17)追記。お恥ずかしながら同じような 哲学と科学 (2018/04/08) があった。

嫌われる鬼の灯

反社会的と科学常識批判が嫌われる鬼の話。

人を創った神 それは自然

地球も太陽も神即ち自然の産物である

光によって色を演出するのも自然の意思の表れだ

人が科学理論として弄ぶは電荷虚飾の世界

これが教科書の中身だ

ダイオードの回路に電子の出る幕はない。

交流電圧の整流動作をダイオードが担う。その ON,OFF に電子は必要無い。電源電圧は電源のエネルギーの供給能力レベルを示す。エネルギーは電線路の電圧の負側から流れ出す。ダイオードはpn半導体の接合面に『エネルギーギャップ』を生み出す。n型半導体側にエネルギーを付加すれば、『エネルギーギャップ』は解消され、ダイオードのスイッチ機能は ON に転ずる。p型側にエネルギーを加えても、『エネルギーギャップ』は拡大するだけで、OFF が強まる。

電気回路に電子の出る幕はない。

心 鬼灯に遊ぶ

(2021/03/14)。鬼灯(ホウズキ)と読む。遊び心を綴る。

トーマス・クーンの書「科学革命の構造」を理解しようと読む。混沌として、言葉にした。

地球は生命の歴史だ

禪と科学理論

木瓜の真赤な花が咲く

こんな素晴らしい不可解

風景の意味でも極めんと

我が在るも知らずに

心鬼灯に遊ぶ       辛丑 弥生

 

摩擦とエネルギーギャップ

(2021/02/19)。

摩擦による火起こし。火は煮炊きや料理に欠かせなかった。人類の文明の起源にも関りを持つとも思える。生活に欠かせない、そこには『神』への思いも繋がる。燈明は神棚に捧げる。

科学論と摩擦。

科学理論と摩擦となると、摩擦電気と言う解釈が生まれる。そこに摩擦電気とはプラスの『電荷』とマイナスの『電荷』と言う対照性の解釈が自然発生的に存在するが如く、科学的な理論的根拠としての解釈が創られる。何故プラスとマイナスであるとの論理性が科学的な検証を裏付けるとなるのだろうか。

(+Q)   +   (-Q)  =  ( ? )

上の式の (?) は何を意味すると認識するか?

正の『電荷』と負の『電荷』が結合したら、何が生まれるか?を問うのである。この事の意味は物理学であるから、基本的には数学の論理に関わる筈だ。数学ではこの場合は『零』と答えて正解となる筈だ。素粒子論では、正解はどのようになるか?その専門分野は日常生活感覚と相当懸け離れているから単純ではないようだ。

プラスとマイナスの『電荷』は引合うと解釈される。その引合う力が何故起きると考えるのか?この意味も決して論理的な根拠を持ったものとは思えない。

正と負の『電荷』間に、その『電荷』の周辺にどのような空間的引力の発生原因を生じると解釈するのか。『電荷』とは空間にどのような状況を生み、影響力を発生する物理量なのか?一般的には、『電荷』はその周辺空間に電界と言う電気的歪を生むと教科書に解かれる。電界が空間に生じれば、それは空間に『エネルギー』を分布すると同じ意味である。電界をE[V/m]とすれば、

w=(1/2)εoE^1/2^ [J/㎥]

その点に上の式のような『エネルギー』が分布する意味である。即ち電界とは『エネルギー』と等価なのである。『電荷』が電界を発生するなら、その『電荷』は周辺に広く分布する『エネルギー』を自分自身が発生した物理量と捉えなければ成らなくなる筈だ。それは『電荷』そのものと解釈しなければならないのではないか。しかし、そんな空間に広がった物を『電荷』と言うのは、点電荷 -Q[C] 等と言う捉え方、表現の仕方との関係で論理的に矛盾している。この『電荷』に因り発生する電界と言う空間概念の物理的実体が空間の『エネルギー』であると認識しないとなれば、これもまた論理性の欠落した、それは虚創(幽霊)概念と言わざるを得ない。

摩擦すると、摩擦し合う物体の間に滑りに抵抗する作用が起こる、その抵抗の力に逆らって力を掛けて動かすから、エネルギーを接触面に与える。そのエネルギーが接触面に蓄積され、熱エネルギーの増加を来たし、温度上昇から発火現象につながる。この摩擦による火起こしと言う現象には『電荷』などは無関係であろう。

下敷きを軽く摩擦すると、何かを吸い寄せる現象が起こる。それを『電荷』の性と解釈するのが摩擦電気の解釈である。異なる物質同士を摩擦させると、どちらかに摩擦熱の『エネルギー』が多く偏って分布する。それは自然に備わった『エネルギーギャップ』としての現れ方と捉えたい。

原子力発電への技術過信

(2021/03/07)。2011年3月11日のあの忌まわしい原子力発電所崩壊事故から10年を迎える。原子力発電と住民の覚悟 (2021/02/04) にも関係して。

2月の新潟日報の新聞報道で知った。

右がその記事の一部だ。地下2階に高圧代替注水系ポンプが設置されている。地上1階に核燃料の核分裂による原子力発電の心臓部である原子炉が据えられているのかと思う。

この注水系ポンプの配管貫通部の止水工事の未施行の問題のようだ。この注水ポンプは原子炉の重大事故時の注水の非常代替え設備だ。気掛かりは福島第一原発事故では、地下の非常電源設備が津波で水没して機能を発揮できずに、原子炉溶解・メルトダウンで水素爆発での致命的な放射性元素の拡散を起こした。近隣住民の生活を奪い、街とその市民コミュニテーを崩壊させたのだ。その重大な過失への反省があるとは思えない今回の問題だ。床を突き抜ける注水配管が激震に対して安全と言えるのだろうか。それは最後の非常用の設備と思えば、絶対浸水しないという安全志向の気休め設備でなければと思う。

地震と津波災害が起きないという前提での安易な、安全志向から少しも抜けていない東京電力首脳の意識、そして政府の原子力依存の電力政策が相も変わらずの危険感覚の欠如が起こす結果の姿だ。

原子力発電設備は人が非常時に的確に対応できるほど単純な科学技術の機能ではない筈だ。地下に非常設備を据えることは津波による水没など意識しない安全神話をそのまま踏襲しているとしか考えられない。高度な制御機能を備える事はどれ程の制御ケーブル、電源配線等が複雑に張り巡らされるか想像もできない筈だ。地震で配電盤の接続端子と配線ケーブルの間に起きる力学的加速度による断裂応力など想像だに難しい筈だ。重いケーブルの束に加速度でどれ程の応力が掛かるか、地震の揺れの加速度方向によっても全く力の強さは異なり、何処で断裂するかは予想などできなかろう。平常時での安全設計ではなく、非常時での安全率がどれ程かは知らないが、今回の未施工問題がある事から推察して、決して原子力発電の放射性物質放出の危険を回避できる安全設計などできる訳が無いのだ。運良く非常事態にならずに済むことを神頼みとしての運転しか保障などされない複雑怪奇な制御システムの筈だ。経営責任者にそんな危機意識が持てるほど単純な設備ではない筈だ。技術を何も知らない経営責任者でしかなかろう。経営責任者が安全運転に責任持てない知識で、原子力発電設備の運転など放射性物質放出の阻止の責任をどこに求められるか。原子力規制委員会の姿勢も気掛かりになって来た。

福島第1原子力発電所の崩壊の原因。以下の制御棒の問題は筆者の間違いであった。原子炉は制御棒投入で無事停止していた。停止と言う意味は、核燃料の核分裂が停止したという意味ではない。核分裂による熱エネルギーは運転に近い発生であろう。制御系統が正常に機能することが必須の条件だ。運よく呈しなければという危険が拭えない。

以下が間違い「津波襲来以前に既に制御機能を失っていたのではと思える。地震から津波到達までに時間があった筈だ。あれだけの激震があれば、発電所停止に向かって安全処置が執られる筈と思う。制御棒が核分裂停止のために何故投入できなかったが大きな疑問だ。もし大きな震度で自動的に停止動作に入る制御が組まれていなかったとは考えたくないが、何故制御棒が入らなかったのか。激震時の原子炉停止制御が組まれていたとしたら、津波到達前に既に制御信号系が機能不全の状態になっていたかとも思われる。制御ケーブルなどの基本の仕組みが既に激震で破断していたのではと危惧される。

それは本質的に、原子力と言う核分裂制御の科学技術が余りにも複雑な要因に覆われた設備である為、人が対応できない『化け物』なのだという事を突き付けられていると考える。人は技術を過信するべからず。と肝に銘じたい。