電池は何を貯める技術製品か。単一型乾電池、マンガン乾電池を科学的な土俵に載せてぶつかり稽古としよう。大まかな電池の構造を右に示した。乾電池は『エネルギー』を使っても、電圧が一定である。普通貯めたものは使えばその使った量に比例して減るのが普通である。貯水池の水を使えば、水の嵩が減るのが見て分かる。しかし電池は使っても電圧がほぼ一定の 1.5[V] である。この電圧と言う電気技術概念『ボルト』の意味を教科書では説明できていないのだ。現代物理学理論で説明できないのだ。何がこの 1.5[V] を示す元なのか。決して『電荷』ではないのだ。電池の両端にコンデンサを繋ぐ。このコンデンサには何が貯まるのか。教科書ではプラスとマイナスの『電荷』が電極に分離して貯えられると説明される。プラス電極にどのようにプラスの電荷が電池の働きで集まるかを考えて欲しい。クーロンの法則に反して、同じ『電荷』同士が集合する訳を!
「クーロンの法則」の原理(2021/01/14)以下追記。それは同極性の『電荷』間には反発の力が働く。マイナス『電荷』同士の間、プラスの『電荷』同士の間には距離の2乗に反比例して、排斥力が働く。同じ『電荷』同士が近付くことは出来ないと言うのが「クーロンの法則」の趣旨だ。コンデンサの電極に、同じ極性の『電荷』が集合するには、その反発力が如何程になるか計算して納得したのです。物理学者は、あるいは教科書の執筆者はコンデンサに『電荷』が貯まる時の『電荷』間の距離と力を計算して、その論理的な排斥力に逆らっての集合の意味を説明しなければなければならない筈だ。その排斥力を無視しては「クーロンの法則」が死んでしまう。本当の事は自然世界に『電荷』など存在しない物を、昔の偉いお坊さんが唱えたことが原因で、科学論の基礎が、今悲しいことに成ってしまった訳と諦めようか?どうか物理学者の皆さんに、ここの処の意味を子供たちの未来のためにご説明頂ければとても有り難い。その時少しは未来への希望が見えてきますから。
乾電池の容量は連続して流す一定電流値 Ⅰ[mA] と電圧値が0.9[V]まで放電して低下するまでの時間T[h]の積Q[mAh]で評価するようだ。このQ値は電荷量を表現している。電池の内部構造と二酸化マンガンの化学的特性が電池の貯蔵『エネルギー』の量を決めている筈だ。しかし、そこに『何が』どのような訳で貯蔵されるかが全く分からない。この乾電池が含む不思議が現代社会の根源的な未来の不確実性に繋がっていると認識すべきだ。科学者が必ずしも、未来社会に対して責任を感じているとは言えない。電池が『電荷』を貯めるものという科学者の認識なら、未来は極めて怪しく危険であると理解してかからなければならない。
Q=IT×10^-3^ ×3600 = 3.6IT [C(クーロン)]
がその『電荷』と言う科学計算である。
自然界に存在しない『電荷』を貯蔵しても科学論の論理性が成り立たない。
ある会社の容量例。ついでに貯蔵電荷量Q[C] と貯蔵エネルギー量 W[kJ] を計算して示した。エネルギー量は電池電圧が0.9[V]まで低下する訳であるから、図の算定値は仮に 1.5[V] で計算したから、大まかな値となる。さて、この表から貯蔵量が放電条件で異なる結果になることが分かる。それが『エネルギー』の量 W[kJ] の違いとしてよく分かる。この計測データを、電池貯蔵容量として、どこに違いを生む訳があると考えるか。一通り電池に関する「花一匁」の話の準備は出来た。一匁は3.75gの軽い儚い話かもしれない。しかし質量ーエネルギー変換では途轍もない物理学的意味が有る。二酸化マンガンの質量変化は科学計測の対象には成り得ないから。
「電池一本」そこに電気技術と自然の関係が見事に隠されている。求められる理科教育の真髄がそれだ。疑問と言う宝物。みんなに疑問を大切にする、考える姿勢が望まれる。真の科学の歩む道筋。決して経済的利益の為だけであってはならない自然科学の道。『学問の自由』の意味がそこに在る。眞實を求める。自然の深さを愛する。そんな学校理科教育であってほしい。
科学者の唱える電池の機能。図の①のように、『電子』が電池の負極側から豆電球を通過して、正電極へ入る。電球は光は放って、周りを明るく照らす。その電球の放つ光の『エネルギー』はどの様な訳で創り出されるのか。電池の戻った『電子』はプラスの『電荷』と結合して消滅するのだろうか。もし、②のように電球のフィラメントの中で電池からプラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が出会って、結合して消滅すると考えれば、その結果光に変換されて消滅するなら少しは理解しようも有るかと感じる。だがそれはない筈だ。では電池の貯蔵したものは、どの様な訳で豆電球から光となって『エネルギー』を放射する事に成るのか。こんな素人が抱く疑問に答えるのが科学者の社会的責任である筈だ。学校教育を司る仕組みが子供たちに向かって、真剣に取り組むべき道筋の筈だ。『参照基準』として示すべきものがこの処にある筈だ。
電池一本の科学論。中味は御迷惑で、競争によって勝ち取る意味など全くない自然の真髄論で申し訳なきことと思いながら。
(2021/01/15)追記。電池の電圧の意味を示しておこう。既に何度も指摘してあるが。電池電圧 V ボルトは、その電池が持つ能力を表していると観ればよい。コンデンサを並列に次々と付け加えて行く。コンデンサには電池の『エネルギー』が入って行く。電池が『エネルギー』の貯蔵庫として機能する能力がある間は、幾らコンデンサが増えても、その負荷に『エネルギー』を供給し続けられる。その能力がある間は電池の端子電圧は一定に保持される。電池の不思議は『エネルギー』が何処に、化学物質のどの様な意味に蓄えられているかが分からないと言う処にある。いくら負荷が変っても、その電池に繋がれた回路に対して常に一定の電圧に保持する能力を発揮する点が電池の命としての科学技術の賜物なんだ。電線を長く張れば、電線路のコンデンサ容量がどんどん増えて行く。その電線間に『エネルギー』が放出されて、電池の化学物質が変化してゆくのだが、それでも常に一定の電圧を保持する機能を発揮できる点がなんと素晴らしいことか。電池技術に乾杯!
V= √((化学物質の変換エネルギー)E[J]/C[F] )
が電圧の意味だ。二酸化マンガンMnO2と亜鉛Znの間の接触電位差即ち「エネルギーギャップ」がその電圧に成る。陽極の電極炭素棒は化学的な接触において活性が小さいと考えたい。炭素棒は電圧に対して寄与していないと考えたい。だから、電池の『エネルギー』は陰極側の電線近傍空間から放出される。このように解釈する訳は、単一、単二あるいは単三と大きさが違っても同じ電圧値を示す。陰極と二酸化マンガンとの間の『エネルギー』のギャップがその元であるからと解釈する。