月別アーカイブ: 2021年1月

2020年のまとめ[1] 電気・磁気とエネルギー

(2月24日) 電流と磁気と哲学

(2月/26日) マグネット 摩訶不思議‐ハルバッハ配列‐

(3/07) 鋏の磁気

(3/22) 摩擦熱とコンパス

(4/12) 電気回路要素の『エネルギー』処理機能

(4/17) 電磁界と空間エネルギー

(5/23) 『エネルギーギャップ』の意味

(5/29) 電気磁気学とエネルギー

(6/18) ロゴウスキー電極空間の磁界

(7/10) 電圧とエネルギー

(7/11) What determines the battery voltage?

(10/25) 電磁誘導現象の真相

(11/8) 導体と空間とエネルギー

 

懐中電灯の特性

(2021/01/18)。懐中電灯

右は少しクラシックの高級懐中電灯だ。電源は単一乾電池4個直列に成っている。白熱豆電球が負荷だ。

 

 

電池の放電特性。

右は単一型乾電池のある会社の放電特性の試験結果だ。乾電池と花一匁 (2021/01/13)のデータの意味が不思議で再び取り上げた。放電条件で、電池容量が大きく異なる結果を示す理由が分からない。

実際の懐中電灯がどの様なものかを調べてみたいと思った。懐中電灯の電気回路現象はオームの法則で誰もがよく知っている。しかし、それは回路に電流が流れるという科学技術概念に因った理解だ。電線に『電流』や『電子』が流れていないとの認識に立てば、そう簡単に分かったとは言えない。懐中電灯回路の日常に有り触れた製品でも、科学技術的解釈理論とその中の自然現象の本質とは違う。本当の物理現象は『電流』や『電圧』と言う科学技術概念ではその真相は分からない。自然現象の本質を理解するには『エネルギー』の流れで捉えなければいけない。それは既に教科書の解説理論と異なる内容になる。教科書は『エネルギー』の流れと言う認識では解説されていない。最近分かったと思ってまとめた記事がある。エネルギー流が電圧・電流 (2020/10/01)。その末尾に、【実験的課題】α<1の時。として疑問を残しておいた。今回その点で新たな認識に至った。 

実際の負荷条件は殆どα<1の場合である事に気付いた。その為、右の図を修正しなければならなくなった。ビニル絶縁電線が屋外配電線路並びに屋内配線のFコード等として使われている。その特性インピーダンスZoの値が500Ωに近いように思う。ビニル絶縁体の比誘電率が2~2.8程度となればそんな値に近いかと思う。乾電池の回路での配線は普通往復の単線回路だ。冒頭に示した製品の内部を見た。そこに観える回路には何か電気技術感覚の優れた直感からの誇りが隠されているように思えた。電気回路の回路定数はその電線路の空間構造によって決まる。分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) に算定式をまとめた。

ここには電線は使われていない。金属導体板で回路が構成されている。直流回路の導線がどの様な意味を持っているかが示されているように思えた。この回路構造で、導体が平板で伝送空間が広く、電線より回路容量 C[F/m] が大きくなり、その為『エネルギー』の伝送容量の増加が見込まれる。以前平板コンデンサ配線回路等と言う記事を書いたこと思い出した。今はもう懐中電灯は新技術やらで、LEDが使われこのような電気現象の原理を考える古き良きものが消えてしまった。ブラウン管テレビが消えたように。

回路構成。

ランプ定格。4.8V,0.5Aと豆電球に記されている。電源電圧を計ると無負荷時 6.4[V] ある。ランプ抵抗は 0.9[Ω]のテスターでの測定結果を示す。ランプ負荷時はフィラメントが高熱になって抵抗が 9.6[Ω]程度に成る。それは500Ωに比べればとても小さい抵抗値だ。負荷は定格容量 P=2.4[W]以上 となろう。

回路現象解釈。

(教科書)。教科書では、当然のごとく、『オームの法則』で解く。電源電圧V=4.8[V] 、抵抗R=9.6[Ω]なら、電流I= o.5[A] と『電流』が求まる。それだけで、負荷電力も直ちに計算できる。科学技術論としてはそれで充分で、それ以上の事は考える必要もない。直流回路では、電気回路の回路定数は考慮しない。実際には特性インピーダンス Zo[Ω]が負荷抵抗R[Ω]との関係で重要な意味を持っている。

(自然現象)。『電流』と言う貴重な科学技術概念の御蔭で、すべてが数式での論理性を持って解析でき、すべて教科書によって理解できる。この科学技術以上の事は世界の電気理論には取り上げられていない。ほぼ『電子』が『電流』と逆向きに電線の中を流れるとの解釈で専門的論理が完結している。そこには負荷にどのように『エネルギー』が電源から伝送され、消費されるかの意味が不明のままである。この単純な懐中電灯の電気回路で、『エネルギー』がどのように振舞うかをまとめた。

(1)α=1の場合。

δp1(α=1の時の伝送エネルギー)を回路整合時の基準値と定義する。負荷抵抗がR=Zoの場合は、電線路伝送の『エネルギー』の分布量δp[J/m]がそのまま負荷に供給され、負荷反射なども起きない。この状態を回路動作の基準と定義し、その値をδp=δp1とする。

(2) α<1の場合。

この場合が通常の回路状態と考えられる。負荷抵抗値Rが回路特性インピーダンスZoより小さい場合である。この1より小さいαの場合が通常の負荷状態であると気付くのに時間が掛かった。オームの法則での解釈と異なる、『エネルギー』流によってどのように認識するかの決断にも時間が掛かった。すべて実験で確認できる内容ではない。従って『エネルギー』と言う物理量がどの様な特性を持っているかを己の感覚に照らし合わせて、決断をしなければならない。これは科学論とは言えないかも知れない。

決断点。『電圧』は電線間のエネルギーギャップ δg[J/m]の技術概念である。そして自然界には決して『電荷』は実在しないという強い確信がその決断の原点となった。その事を纏めれば、電池のプラス側の電線近傍にエネルギー分布のδo[J/m]の滞留分を付け加えるしかないと判断した。その『エネルギー』は負荷への流れには関わらない。反射でもない。その分が負荷増分の『エネルギー』となり、マイナス側を伝送する増加『エネルギー』流となる。

    伝送エネルギー δp = δp1+δo [J/m]

    線路電圧    v=  (δg/C)^1/2^ ={(δp-δo)/C}^1/2^ [V]

 電流      I= ( δp/L)^1/2^ [A]

 電力      P= VI = δp/(LC)^1/2^ = (1/α)δp1/(LC)^1/2^ [W]

となる。以上が決断内容である。

(3)α>1の場合。

消費『エネルギー』が微弱の場合は、電源電圧保持『エネルギー』より少ない伝送『エネルギー』で十分である。負荷が要求する電力P[W]に対する伝送『エネルギー』分δp[J/m] では電圧保持には不足である。そこに流れない滞留『エネルギー』分布δo[J/m]が生じる事に成る。

  伝送『エネルギー』 δp=αP(LC)^1/2^ [J/m]

  電圧         v={(δp+δo)/C}^1/2^ [V]

電池放電特性。冒頭に掲げた放電条件で電池の『エネルギー』量が異なる訳が分かったとは言えないが、負荷が重くなるとプラス側導体周辺の滞留『エネルギー』が増加する。そのプラス側の分は負荷によって増加するから、その分の外部への放射損失が増えると考えたい。

直流回路の電気現象について。教育とオームの法則 (2020/09/06) で指摘した。その疑問の一部について、漸く満足の出来る『エネルギー』による解釈に到達できた。この自然現象を理解するのも、一般の方には難しいかも知れない。しかし、『電子』と言う科学常識論が誤りである事だけは間違いない。これからの理科教育と言う面で、とても大きな課題がある事を明らかにできた。それはみんなが『学問の自由』と教育いう意味を考える課題でもあると思う。

 

危険運転に動転

(2021/04/28) 追記。今日の新聞記事。池袋暴走 意図せず加速「パニック」の見出し記事。この自動車事故に潜む自動車の誰も気付かない『構造欠陥』を思う。

人の運転意識・感覚と自動車の暴走。大きな事故に店の駐車場での店内への突入事故がある。運転免許更新でも、障壁前での停止訓練が教習項目に入ったこともあった。駐車場で、完全に意識は停止の運転になる。しかし、停止しないで加速するから店内に突入するのだ。その事故原因は、間違ってブレーキを踏まずにアクセルを踏むからだと決めつけられる。【ブレーキとアクセルの踏み間違え】という事故原因で処理される。誰が駐車場で、しかも店のウインドウ前でブレーキを踏まずにアクセルペダルを踏むか?人が停止しようと意識したとき、今までアクセルペダルを踏んで停止位置に来て、何故ブレーキを踏まずに加速して店に突入するようにアクセルペダルを踏むか?そこには車に大きな『構造上の欠陥』があると考える。どの様な欠陥か。それは人の意識に対する「運転し易さ」が生産現場の設計上の大きな基準となっているからとみる。常に、車の運転は危険を伴っていると運転者が意識するようには、構造上の設計基準にはしていない筈だ。極めて容易に、運転し易く、アクセルとブレーキの『ペダル』の間隔は僅かに足を動かすだけで、操作が可能にできている。少し靴底が広い場合は、足を僅かに動かしてブレーキペダルを踏める日頃の運転の容易さに慣れているから、「人の意識」に反してブレーキを踏むにも拘らず、【アクセルペダル】にも靴底が触れている。その時「人の意識」にどんな事・動顛が起きると思いますか?停止する筈の車が加速したら、慌ててブレーキを強く踏む。その時靴底が【アクセルペダル】をも踏んでいたら暴走になる。

危険事故回避の設計上の基準。

運転時の危険意識保持のために、【アクセルペダル】は踏み難く小さな寸法にし、【ブレーキペダル】の位置を【アクセルペダル】から遠くに離す。日頃の運転で、僅かな動きで【ブレーキ】が掛かる運転の感覚に、意識的な修正を加えること。足を大きく動かす意識を感覚に加える。それが設計上に考えるべき、人の意識と社会安全性との兼ね合いからの事故回避の基準であるべきだ。『原発事故』にもその事は考えて然るべき要点だ。

人は決して停止しようと意識して、意識的に間違って加速のペダルを踏みはしない。

危険な自動車運転。昨日、買い物で店の駐車場に停車しようと『ブレーキ』を踏んだ。しかし突然加速した。危なかったが運よく停止して無事に済んだ。

『ブレーキとアクセルの踏み間違え』と言う事故に成る寸前であった。

少し気が緩んでいたかも知れない、履物に『ゴム長靴』を使用していた。

足は確かに【ブレーキ】も踏んでいた。しかし同時に【アクセルペダル】にも掛かっていたようだ。もし【ブレーキ】を踏んでいなかったら車は止まらず事故となっていた筈だ。心臓が止まる思いをし、昨日は一日気が委縮して正常でなかった。

【ブレーキ】と【アクセル】のペダルについて。

【ブレーキ】のペダルは大きくて安全に効果的と思う。【アクセル】のペダルも小さくて安全性が考慮されて居て良いと思う。しかし今回の経験を振り返って、思うことが一つある。

【アクセル】ペダルは自動車走行と言う危険につながる状態に踏むものだ。もっと小さくても良いかと思う。

【ブレーキ】ペダルは、停止する意識で踏むから、突然意識と逆に加速したら完全にパニックになる。慌てて、止めようと意識して更に強く踏む可能性が有る。その結果【アクセル】ペダルに少しでも足が掛かっていたら、止まらずに事故となる。

【アクセルとブレーキの踏み間違え】と言う多くの事故がある。普通なら車を停止しようとする時、足は今までの位置から左側に移動して、必ず【ブレーキ】ペダルを踏む筈だ。停止しようと考えた時、今まで走行運転していた足を【ブレーキ】ペダル側に移動しないで、そのまま【アクセル】ペダルを強く踏むとは考えられない。

【踏み間違え】と言う事故は【ブレーキ】と【アクセル】のペダルの位置間隔 “D” をもっと大きく離すことで幾らか防げるように思う。恐ろしい経験から【ブレーキ】の踏み方を反省し、気を付けようと思いつつ感じた。

自然界の基本量と科学技術概念量

自然は決して人類の為だけに存在する訳ではない(2021/01/18)。
ただ自ずから然る。人類が今ここに居て、その自然世界の構成員となっている事さえ不思議に思える。この地球の自然の中で、存在するための歴史を、どの様に格闘して辿って来たかは全く分からない。山のような巨木が育ち、巨大な生物が繁茂し、その為の水や空気がどのように地球上に生まれたかも全く分からない。現在の地下資源、化石燃料を積み上げながら地球が大きくなってきた。みんな太陽の光によって作られてきた。地球の質量全てが太陽光線と言う『エネルギー』によって作られてきた。すべての自然世界の基本料は『エネルギー』一つからの千変万化の姿である。人類が自然の恵みを獲得する術を得てきた。それが現在の科学技術にある。殺虫剤、殺菌剤、消毒液そして医薬品などは自然界で生き残るために、人類が自然を征服して都合よい環境を作ってきた。何処までも限りない、欲望を満たすためともいえる諸行無常の人間界に入ってしまったようだ。

この自然の本性。

この自然の捉えどころのない深さを知る事は永遠に不可能な事であろう。知り得ないからこそその先に何が待ち受けているかも分からず、ただその限りない欲望による発展と言う道を歩み続けざるを得ない。人類同士も、その強欲が故に相手を打ち負かし、消し去ろうとする憎しみの対象にさえしてしまう。『核兵器』がその意味を如実に表している。その存在に人類と言う自然の地球上の生態の意味を問う営みが続いている。決して人間が平和を求めている訳でないと思わざるを得ない状況が続いている。生活の豊かさを求めて、自然を利用するために科学技術が大きな存在となっている。自然の神秘はその根源に隠されていると、その根源の姿を原子、水、酸素、電子などと微細な領域に知的探求を深めて、そこに自然科学としての共通認識を整えてきた。ほぼ原子構造の核子や電子によって科学理論の全体像が科学パラダイムとして完成したかに見える。殆どその領域は科学的発見の余地が無く、その研究によって科学者としての業績を上げる事はない程になっている。と思えるから誰も取り組まない基礎領域となって、教科書の世界が科学理論を支配している。学校教育もその科学常識路線で固められてしまった。

『エネルギー』、『空間』そして『時間』。
科学論は実験的検証をその科学論の必須条件として、共通な理解を基本にしている。科学的計測法で観測できない物は理解されない。そこで、空間に実在する『エネルギー』など、計測できない自然界のものは科学論の対象とならなかった。太陽から降り注ぐ光が『エネルギー』である事は誰もが分かっていると思う。しかしその『エネルギー』量を計測できない。どの様な空間分布密度の『エネルギー』であるかは計測できなかろう。結局それは空間の『エネルギー』が測れないことを意味する。到来粒子の運動エネルギーで解釈しようとする科学手法では空間を光速度で伝播する『エネルギー』など測れる訳が無い。結局取り残された自然の本質はその光のような空間に実在する『エネルギー』を如何に認識するかに掛かっていると言える。その『エネルギー』を現代物理学理論では認識していなかった。質量はその『エネルギー』によって構築された構造体である。それが『質量とエネルギーの等価則』という意味であろう。エネルギーと空間と質量 (2013/11/07)。

科学技術概念。
電気磁気学と言う一つの物理学領域がある。そこでは『電荷』と『磁束』がその科学論の根源的基礎概念に成っている。確かに科学的自然探求の過程で、それらしき解釈の概念を創造する必要があった筈だ。その意味では『電荷』も『磁束』も有効な基礎概念であった。しかし、それらはやはりこの自然世界に実在する自然量・物理量ではない。あくまでも人が仮に唱えて理論構築用に創造した仮想概念でしかない。それらは自然世界が本性として持つ実在量ではない。それらも『エネルギー』の或る解釈量でしかない。『エネルギー』が世界に実在すると考えるか、そう考えないかが『電荷』、『磁束』の存否、その判断の分水領となろう。

[MJs]の世界観。空間次元[m]、『エネルギー』次元[J]そして時間次元[s =(HF)^1/2^]の世界。その意味を『電荷』に対して磁束と対応させるために、電束密度の概念で表現した。『電荷』と『磁束』の次元を『エネルギー』のジュールに依って空間との関係で表現した。

電荷と磁束の次元

磁束の単位 φ[Wb]=[(HJ)^1/2^]であり、電荷の単位 Q[C]=[(FJ)^1/2^] である。この単位系[JHFM]に纏めたのが丁度 1990年春であった。初めての日本物理学会での発表が:物理的概念とその次元 講演概要集第53巻第1号第1分冊。p.13, (1998.4.2).であった。エネルギー[J]と JHFM単位系 (2010/12/18)。

磁界と電子

電気や物理学の話は『電子』無しには出来ないようだ。しかし、その『電子』がどの様なものかを誰も解説できないのではないか。マイナスの『電荷』と質量からなる素粒子・レプトンであるとの解説がある。そのような認識である限り、『電子』の事に関しては教科書は殆ど間違いである。先日NHKで、「世界は教科書で出来ている」と言うような番組が放送されていた。教科書に書かれている内容は、確かに皆がそのように理解するような仕組みに創り上げれば、社会的に共通の常識に統一できるから、教育体制としては都合が良かろう。しかし科学理論がそんないい加減な曖昧性で纏められて、その未来が安全な社会に成ると安心できるのか。科学者への不信が拭えないことが増幅するだけに悩みが尽きない。科学論を展開しながら忌み嫌われなければならない悲しみに居る。単純な疑問から膨らむ感覚的、病的とさえ見られるかも知れない、執念深い科学理論否定、科学パラダイム批判となる科学基礎概念の矛盾を暴き出す科学異端論である。教育上の教科書の拠り所を批判すれば、ウザイ存在となるだろうが、忌み嫌われても未来への希望に掛けたい。

「電子の空間像とは」と検索すると見た事のある記事に当たる。本当に皆さんは『電子』がどの様なものと理解していて、それで満足しているのでしょうか。

磁界中の運動電子と電子顕微鏡。

「フレミングの左手の法則」と言う電気力学を解釈するに極めて簡便にして有効な法則がある。磁場中にある電線の電流が流れると、電線は力を受ける。それが「モーター」の回転の原理としての理論となっている。その法則で『電動機』の原理は良く分かる。それは科学技術法則として重要な法則である。

フレミングの法則。

この法則は磁界ベクトル B[Wb/㎡]に直交方向に流れる電流ベクトル I[A]との間で、電磁力ベクトル [N]が次式のように空間ベクトルのベクトル積の方向に生じると言うものだ。

f = [I × B] l [N]

ただし磁界中の作用を受ける電線の長さ l[m] である。

さて、『電子』 が電流と逆向きに流れるとなれば、上の図のようにやはり磁界に直交の方向に『電子』e が運動する事で解釈できる事に成ろう。『電子』は手前の方に力を受けるとなる。フレミングの法則で解釈するように、間違いなく『電流』の流れる電線は力を受ける。しかしその物理現象としての意味を考えると、『電子』と言う素粒子は磁界の空間で何が原因で力を受けるのかと言う自然の真理が全く理解できないのである。それは『電子』と言う実態が、その空間像が全く不明である事に掛かっている。空間に在るもの同士の間に力が働くという事は、そこに空間的な関りが有って初めて起こる自然現象である。『電子』が保有するという『電荷』がどの様に空間分布を形成しているかが分かって、初めて磁界の磁束との間での『力』の関係を考えることが可能になるのだ。それが理学の論理性である。ただ法則があるから『電子』が力を受けるのだと言われてもそれは物理学としての自然現象解釈の説得性には無理な話だ。そこに科学技術と自然現象の哲学的真相を明らかにする理学との意味の違いがあるのだ。

電線の中を『電流』が流れているとの前提を認めたうえでの話である。『電流』も科学技術概念でしかないので、決して電線の中など何も流れてはいないのだが。その事に関して、実際は『電子』が『電流』の向きと逆方向に流れているのだ、と言うような解説が主流になっている。しかし、そんな『電子』も電線の中など流れる筈がないのだ。何故こんな科学論に反逆するような論を書くのかと言うと、最近『電子顕微鏡』の事を調べた。磁石で『電子』を制御する基礎原理が示されている。しかし「電子」が磁界で制御される科学理論など見当たらない。『フレミングの法則』との関係で教科書の解釈を詳しく検証して、その真相を誰もが納得できるように、その専門的解説の曖昧性を明らかにしなければならないと考えたのが原因である。

電子顕微鏡における『電子』と磁界の関係。

電子顕微鏡の磁界と『電子』の運動方向。電子顕微鏡の磁界の構造はマグネットの磁極中心に穴をあけて、その軸方向に『電子』が運動するようだ。磁界とは『磁束』などで解釈するようなものではないのだ。右図のように、マグネットの中心に穴をあける。N極側はその磁極周辺を時計回りに『エネルギー』が流れているのだ。中心の穴は逆の反時計回りに『エネルギー』が流れている。砂鉄による磁界分析 (2017/10/13) に示した。電子顕微鏡の『電子』はこのマグネットの中心を通過することになる。その方向は磁界に対して横切る事による『力』の発生の解釈には全くなっていない。実際の電子顕微鏡の磁気レンズはこの穴あきマグネットを二つ向き合わせてそのギャップで『電子』の通過中に流れる方向を制御する構造に成っている。磁場とは空間の『エネルギー』の流れであるから、『電子』もその空間像を『軸性エネルギー流』として捉えなければ、電子顕微鏡の『電子』制御の論理は成り立たない。マグネット空間の磁気エネルギー流と『電子』の軸性エネルギー流との間の『流れ』と『流れ』の間に力が発生する現象を利用しているのが磁界レンズの『電子』制御の本質である。このような解釈は教科書には全くない。磁束無しに磁場を描く理論が無いから。磁場とは何かと問えば、磁束などで表現できるほど現在の科学パラダイムによる解釈で矛盾が解消できる筈はない。

過去の『電子』の像に関する記事を挙げる。 電子スピンとは?-その空間像- (2011/02/09) 。『電子』とは何者か (2015/12/23) 。

(2021/01/19)追記。さらに関連記事として、電気磁気学の要-Axial energy flow- (2019/03/03) 。水の妖精七変化 (2017/11/02) を挙げる。

晩秋から冬

君子蘭。

晩秋の色。

落ち葉掃き。

モミジの葉が冬支度で落ちる。雪の重さに耐える準備か。落葉樹は夏に葉をつけ成長する。殆どが太陽の光を糧にして育つ。地球がその分大きくなる。葉は冬の雪に備えて落ち葉となり土に還る。落ち葉に成っても、光を葉の表面で、その色に変換して放射している。落ち葉でも生きて輝いている。

 

 

猿の腰掛。

落ち葉を掃いたら、その下の木株に生えていた。珍しいものを初めて見た。

 

 

 

冬の生活用品。

木鋤(コスキ)。昔、越後の冬は今年のような大雪で、毎年つらい雪下ろしの生活だ。道具はこの木鋤一つで、雪を豆腐のように切って、下の狙った場所に投げ落す。屋根の天頂に行くと、投げ落とす距離も長くなり、腕力体力更に技術が居る。欅かと思うが木目が無く、とても軽く使いやすい。蝋を焼き付けてあるので、スキーのように雪は付かず、良く滑る。今年も自動車の積もった雪の除去に使った。便利だ。「こ鋤の漢字変換が出来ない。」

君子蘭。

1月15日の誕生日の花。花は未だ蕾状態だ。すっくと一輪の花の茎が伸びる。名前の通り気品を感じる。

 

 

 

 

 

ようやく咲いた。

乾電池と花一匁

電池の容量 Q[mAh] (2012/01/13)。

電池は何を貯める技術製品か。単一型乾電池、マンガン乾電池を科学的な土俵に載せてぶつかり稽古としよう。大まかな電池の構造を右に示した。乾電池は『エネルギー』を使っても、電圧が一定である。普通貯めたものは使えばその使った量に比例して減るのが普通である。貯水池の水を使えば、水の嵩が減るのが見て分かる。しかし電池は使っても電圧がほぼ一定の 1.5[V] である。この電圧と言う電気技術概念『ボルト』の意味を教科書では説明できていないのだ。現代物理学理論で説明できないのだ。何がこの 1.5[V] を示す元なのか。決して『電荷』ではないのだ。電池の両端にコンデンサを繋ぐ。このコンデンサには何が貯まるのか。教科書ではプラスとマイナスの『電荷』が電極に分離して貯えられると説明される。プラス電極にどのようにプラスの電荷が電池の働きで集まるかを考えて欲しい。クーロンの法則に反して、同じ『電荷』同士が集合する訳を!

「クーロンの法則」の原理(2021/01/14)以下追記。それは同極性の『電荷』間には反発の力が働く。マイナス『電荷』同士の間、プラスの『電荷』同士の間には距離の2乗に反比例して、排斥力が働く。同じ『電荷』同士が近付くことは出来ないと言うのが「クーロンの法則」の趣旨だ。コンデンサの電極に、同じ極性の『電荷』が集合するには、その反発力が如何程になるか計算して納得したのです。物理学者は、あるいは教科書の執筆者はコンデンサに『電荷』が貯まる時の『電荷』間の距離と力を計算して、その論理的な排斥力に逆らっての集合の意味を説明しなければなければならない筈だ。その排斥力を無視しては「クーロンの法則」が死んでしまう。本当の事は自然世界に『電荷』など存在しない物を、昔の偉いお坊さんが唱えたことが原因で、科学論の基礎が、今悲しいことに成ってしまった訳と諦めようか?どうか物理学者の皆さんに、ここの処の意味を子供たちの未来のためにご説明頂ければとても有り難い。その時少しは未来への希望が見えてきますから。

乾電池の容量は連続して流す一定電流値 Ⅰ[mA] と電圧値が0.9[V]まで放電して低下するまでの時間T[h]の積Q[mAh]で評価するようだ。このQ値は電荷量を表現している。電池の内部構造と二酸化マンガンの化学的特性が電池の貯蔵『エネルギー』の量を決めている筈だ。しかし、そこに『何が』どのような訳で貯蔵されるかが全く分からない。この乾電池が含む不思議が現代社会の根源的な未来の不確実性に繋がっていると認識すべきだ。科学者が必ずしも、未来社会に対して責任を感じているとは言えない。電池が『電荷』を貯めるものという科学者の認識なら、未来は極めて怪しく危険であると理解してかからなければならない。

Q=IT×10^-3^ ×3600 = 3.6IT [C(クーロン)]

がその『電荷』と言う科学計算である。

自然界に存在しない『電荷』を貯蔵しても科学論の論理性が成り立たない。

電池容量の例。

ある会社の容量例。ついでに貯蔵電荷量Q[C] と貯蔵エネルギー量 W[kJ] を計算して示した。エネルギー量は電池電圧が0.9[V]まで低下する訳であるから、図の算定値は仮に 1.5[V] で計算したから、大まかな値となる。さて、この表から貯蔵量が放電条件で異なる結果になることが分かる。それが『エネルギー』の量 W[kJ] の違いとしてよく分かる。この計測データを、電池貯蔵容量として、どこに違いを生む訳があると考えるか。一通り電池に関する「花一匁」の話の準備は出来た。一匁は3.75gの軽い儚い話かもしれない。しかし質量ーエネルギー変換では途轍もない物理学的意味が有る。二酸化マンガンの質量変化は科学計測の対象には成り得ないから。

「電池一本」そこに電気技術と自然の関係が見事に隠されている。求められる理科教育の真髄がそれだ。疑問と言う宝物。みんなに疑問を大切にする、考える姿勢が望まれる。真の科学の歩む道筋。決して経済的利益の為だけであってはならない自然科学の道。『学問の自由』の意味がそこに在る。眞實を求める。自然の深さを愛する。そんな学校理科教育であってほしい。

科学者の唱える電池の機能。図の①のように、『電子』が電池の負極側から豆電球を通過して、正電極へ入る。電球は光は放って、周りを明るく照らす。その電球の放つ光の『エネルギー』はどの様な訳で創り出されるのか。電池の戻った『電子』はプラスの『電荷』と結合して消滅するのだろうか。もし、②のように電球のフィラメントの中で電池からプラスの『電荷』とマイナスの『電荷』が出会って、結合して消滅すると考えれば、その結果光に変換されて消滅するなら少しは理解しようも有るかと感じる。だがそれはない筈だ。では電池の貯蔵したものは、どの様な訳で豆電球から光となって『エネルギー』を放射する事に成るのか。こんな素人が抱く疑問に答えるのが科学者の社会的責任である筈だ。学校教育を司る仕組みが子供たちに向かって、真剣に取り組むべき道筋の筈だ。『参照基準』として示すべきものがこの処にある筈だ。

電池一本の科学論。中味は御迷惑で、競争によって勝ち取る意味など全くない自然の真髄論で申し訳なきことと思いながら。

(2021/01/15)追記。電池の電圧の意味を示しておこう。既に何度も指摘してあるが。電池電圧 V ボルトは、その電池が持つ能力を表していると観ればよい。コンデンサを並列に次々と付け加えて行く。コンデンサには電池の『エネルギー』が入って行く。電池が『エネルギー』の貯蔵庫として機能する能力がある間は、幾らコンデンサが増えても、その負荷に『エネルギー』を供給し続けられる。その能力がある間は電池の端子電圧は一定に保持される。電池の不思議は『エネルギー』が何処に、化学物質のどの様な意味に蓄えられているかが分からないと言う処にある。いくら負荷が変っても、その電池に繋がれた回路に対して常に一定の電圧に保持する能力を発揮する点が電池の命としての科学技術の賜物なんだ。電線を長く張れば、電線路のコンデンサ容量がどんどん増えて行く。その電線間に『エネルギー』が放出されて、電池の化学物質が変化してゆくのだが、それでも常に一定の電圧を保持する機能を発揮できる点がなんと素晴らしいことか。電池技術に乾杯!

V=  √((化学物質の変換エネルギー)E[J]/C[F] )

が電圧の意味だ。二酸化マンガンMnO2と亜鉛Znの間の接触電位差即ち「エネルギーギャップ」がその電圧に成る。陽極の電極炭素棒は化学的な接触において活性が小さいと考えたい。炭素棒は電圧に対して寄与していないと考えたい。だから、電池の『エネルギー』は陰極側の電線近傍空間から放出される。このように解釈する訳は、単一、単二あるいは単三と大きさが違っても同じ電圧値を示す。陰極と二酸化マンガンとの間の『エネルギー』のギャップがその元であるからと解釈する。

獨想的疑念

アーサー・ケストラー(1905-1983)の名言。ハンガリー出身の小説家、哲学者とある。その名言には深い意味が示されていると思う。それらは、

真の独創性は言葉が終わった地点から始まる。

天才の第一の証は完璧さではなく、新境地を開く独創性だ。

独創的発見であればあるほど、後から考えれば当たり前のように思えるものだ。

本当に真実に辿り着く、その一歩手前までは全て誤りである。

と言う言葉。

科学論で注目されるものは、その理論が何らかの新しい科学技術として、人類に新しい生活上で貢献する価値を付け加えた場合であろう。

それに対して、新しい科学的認識に目覚めても、それは少しも科学的・独創的発見に当てはまるようには思えない。今までの科学理論の根幹を否定するような認識がほとんどであるから。

何を否定してきたか。『電荷』『磁束』『電流』が自然世界に実在しないと、それらを否定してきた。それらの物理学理論の根源的基礎概念を否定したら、現在の科学常識としての『パラダイム』に基づいた科学論を唱えられなくなる。それらのすべての概念は『エネルギー』ですべて論じなければならないという事である。それが未来の子供たちに教えるべき基礎的自然認識の感覚であるという事だ。そこには『電子論』の矛盾に教育者・教育機関が気付く必要が有る。筆者も発表する機会に参加したいが、学術機関の所属(元所属も含めて)を表明する事が求められては参加する道がない。公立学校共済組合および文部省共済組合(旧名称)に加入事務手続きなしで教員であったとは表明できないから?

だから獨想的疑念。それが現在の科学認識の基である。アンペアの法則による磁界解釈への疑念。ロイヤーインバーターによる『電圧時間積分』による磁束解釈がアンペアの法則を最初に否定した原点である。分布定数回路の定在波実験での160[MHz]による蛍光灯管点灯確認が『光放射現象の量子論』への疑念。電力の系統制御論での『虚電力』の発見的認識。等からの電気理論全体への矛盾感が大きな疑念となり、『静電界は磁界を伴う』の起点に立った。

 

独楽 その不思議

(2021/01/07)。 独楽、その漢字は中国語かな。独り楽しむと表記される。最近の表記・文章はカタカナ語が多い。明治の文明開化で、西洋文明を理解するに日本語への翻訳が重要な役割を果たした。文化人の翻訳の力によって、優れた訳語が生まれ現在の日本語の基礎を作った。今、インターネットによって情報が溢れる程目に入るが、漢字に依る意味の瞬間認識が出来ず、途方に暮れている。筆者の国際語の能力不足は致命的だ。それでも日本語なら、漢字2文字で『コマ』のすべてが感覚的に瞬時に捉えられる。それが日本語の漢字の威力だろう。

少し漢字の旧い文字形を独楽の形状に表現してみた。「獨」と言う古い形の文字と「樂」の文字を組み合わせた。

お正月。『コマを回して遊びましょう。追羽根ついてあそびましょう。早く来い来いお正月。』などと日本の穏やかな貧乏でも何とか助けられ乍ら生きて行けた時代。生産性向上のため、長時間労働や過酷な待遇に命を削る日常生活に縛られる今。お正月の大切な喜びは何処で味わえるのだろう。何を求めて、どんな未来を求めて行くのか?

科学とは何のためにあるのか。昨日(2021年1月7日)は、人が生活する日常の生き方さえ許さない自然の猛威に晒された。昔の『春一番』の歌が懐かしく思い出された。穏やかな自然の季節の移ろいを。しかし昨日、あるいは最近の自然災害の酷さは尋常ではない。送電線鉄塔が一昨年は千葉で倒壊した。電力技術の誇りも踏み躙られる自然の猛威だ。それが自然の『力』なのだ。しかし、その自然の怒りの猛威は人間が作り出した結果とみる。風の力はすべて海の発生する水蒸気が大きく関わっているのだ。地球温暖化と言う『お題目』の具体的な本質を理解しようとしない人間の科学音痴が生んだ結果なのだ。上空に寒気が来る、風は地上の水蒸気を天空の寒気が冷却し、上空の水蒸気の急冷による体積収縮と言う『ボイルの法則』による結果、地上から空気を吸い上げる渦を発生する現象なのだ。みんな海の『熱量』による水蒸気量と上空の『寒気』との兼ね合いによる現象なのだ。海を加熱する発電システムが大きな原因に成っている筈だ。『復水器』の発電科学技術を勉強してほしい。

『力』とは何か。急に訳の分からない物理学論に入る。経済的に全く価値の認められない『学問の自由』に関する話になるかも知れない。それも妄想のお話でしかないかも知れないが。書く本人が分からない不思議を話題にすれば、それも止むを得ないかと。

『力は空間に於ける“流れ”と“流れ”の近接作用の結果である。』

電子顕微鏡の磁気レンズの中を通過する『電子』なるお伽素粒子に働く『力』の物理学理論での解釈は如何なりや?と尋ねたい。フレミングの法則とは『電子』のお通りなさる道の通行方向が90度違う。さてどんな制御力の発生理論があったかな? 物理学理論には筆者の無知故か見当たらない。それでも科学技術の結晶として世界、人類に貢献している大切なものだ。技術と理論の間の不可解として。ここに学問の自由と教育の大切さとの関りがあると思う。

独楽に働く力を求めて。独楽の周りにどんな力が働くのか測れないから分からない。『エネルギー』の空間分布を観ることが出来ないと同じなんだろう。独楽が回れば、周りの空気との接合面で『力』が生じる。万有引力の法則通り質量に重力ベクトル f1 が働く。回転すれば、物理学理論の通り遠心力ベクトル f2 が働く。独楽の表面に空気との流体間の作用力ベクトル f3(<0) および f4 (<0)が働く。この表面の気流との間の『力』はあの巨大な飛行機が空を飛行する不思議の流体力学から分かるのだろう。なお、全体に掛かる空気圧、1気圧の影響は相殺されて考慮しなくて良いかと思う。問題は f5 = rot w [N/㎥]の『エネルギー勾配』による力密度である。独楽が持つ回転エネルギーの軸流勾配が回転運動の安定に寄与するとの解釈である。しかしこれは“流れ”の近接作用力に因ると言えるか疑問だ?

軸中心力F。独楽が拠って立つ力のすべてがここに掛かっているのだろう。軸に対して、f2 はすべて打ち消して合成力ゼロとなる。しかし、その回転に依ることが生む独楽が持つ不思議がそこに隠されているようで悩ましい。地球の重力と言う f1 だけでは独楽の特性は語れない。しかし、地面に対しての傾斜面でも独楽の軸は重力の方向に向くようだ。

やっぱり謎は解けずに過ぎた。「コリオリの力」の意味も理解できず。 何故、無限に速度ゼロの中心軸に独楽は立つのか。

 

新型コロナウイルス?

昨年の3月にコロナウイルスの話題に触れた。その恐ろしさに身構えながらも、訳も分からず1年が経とうとしている。科学の中でも、医学や生命現象に関する知識がないため、それらについては特段に不可解な不安に陥る。少し学習して、コロナウイルスには7種ある事を知った。

宿主が蝙蝠であり、人に感染するウイルスに変化するに、中間宿主で蝙蝠のウイルス(?)から変化すると解説がある。人に感染するコロナウイルスには4種のインフルエンザウイルスと、更に中間宿主によってMERS、SARSそして今回の新型ウイルスCOVID-19があるらしい。

不思議に思う事。人が野生動物の生活圏に近付き過ぎて、今まで安全だった境界が失われ、蝙蝠を宿主とするウイルス(?)が人に感染する事に成ったと解釈した。その事で、少し理解できない事がある。30年程前に住んでいた家は古いため、家の壁板内には多くの蝙蝠が住んで居た。夕方になると家の周りには蝙蝠が飛び交っていた。蝙蝠と人は生活圏を共有して昔から暮らしていた。

蝙蝠の保有する基のコロナウイルスはどのように蝙蝠の体内、細胞(?)に住み着いても、蝙蝠は何故安全に宿主で居られるのか?きっとその訳は余りにも専門家にとっては当たり前の基礎知識で話題にも成らない事なんだろう。しかし、筆者のような素人にはとても不思議に思える。気付かない内に免疫抗体を運よく獲得出来たらと儚い望みを抱いて、毎日を過ごしている。それぞれの生命体で、細胞膜の異物への防御機能が違っているからなのか程度に解釈している。ウイルスの球表面の突起がどんな深い生物機能を持っているのかも疑問で、またそのウイルスを安全に排除するワクチンを短期間に創り出す医学的科学技術にはただただ驚くばかりである。現代科学技術との科学知識の乖離には無力感を抱かざるを得ない。そんな意味で今回の『コロナウイルス』は大きな現代科学技術社会の困難な問題をも浮き彫りにしたと思う。

ウイルスとの戦いの新しい時代が始まったのか。みんな無事このコロナウイルスとの関りをうまく切り抜けて、抗体を身に付けて本来の人の営みに成る事を願っていたい。