第23条 学問の自由は、これを保障する。この条文が日本国憲法に示された学問の自由についての規定である。
この「学問の自由」という意味は中々深い意味を持っていると思う。300年以上前の事件がある。社会の学説として支配していたものが地球中心の、天動説である。それは地球の周りを太陽が回転している宇宙観。当時の権力者は宗教であったのだろう。ガリレオ・ガリレイが権力支配者の世界観に対して、反対の地動説を唱えた。宗教裁判によって、ガリレオ・ガリレイは300年間も不届きな学説を唱えた罪で有罪と判決された。「学問の自由」は生活をも賭けた本気が試される大切な生きる「自由」の尊さなのだと思う。平和への戦いでもあるのだ。自由の学問・研究が保証されない世界がどの様なものかを思ってほしい。
10億円もの政府予算が・・。だから総合的、俯瞰的(高い所から見下ろす、という意味のようだ)な活動を求める観点から‥。と、専門的な研究者組織の「日本学術会議」に政治的権力の行使(任命拒否)は学問の専門性の内容に政治家が評価を下す奇妙な事件と思う。『俯瞰的』な能力を要求することが果たして政治家・行政組織に許された評価権限と言えるのだろうか。10億円の言葉は経済的な権力支配で『学問の自由』と言う崇高な現代社会の守るべき未来への希望の砦を掻き崩す虞を感じる。政府予算は必ずしも日本の為だけでなく、世界に学問の崇高な価値で、経済的だけでなく貢献する施策でなければならない筈だ。
『学問の自由』は未来への平和と希望を生かす砦である。思想・信条の精神の独立を守る砦でもある。
『自由』の尊さは、それが困難な闘いを勝ち取ってこそ得られるものだから。学問は本来経済的でないところにその価値があるものと考える。
日本の教育制度について。
先日新潟県の高等学校の校則について、教育長が質問に答えていたようだ。行政官が教育内容の生徒の校則について答える姿は異常に思える。学校教育に現場でどれだけの経験と能力があって、子供の教育に精通していると言えるのかと疑問に思わざるを得ない。教育委員会の責任者は教育委員長で、教育現場での実績を積んだ教育の専門家が担うべき役割の筈だ。行政職の役割ではない筈だ。
文部科学大臣。教育の行政トップは「教育の政治的中立性」からして、本来政治家が担えるものではない筈だ。教育界から実績のある現場を知り尽くした教育の専門家しか担当できないはずであろう。『学問の自由』と言う重い政治行政の判断は専門家の意見に従ってこそ担保される筈である。教育勅語に郷愁を抱くような大臣は、教育における政治的中立性の意味からも失格の筈だ。
今日、30年以上かけて、漸く辿り着いた。エネルギー流が電圧・電流 (2020/10/1) に懐中電灯の直流電気現象として自然の神髄に辿り着いた。決して日本国家のために学問の自由の思想はある訳ではない。世界の子供たちが、本当の教育を受けられるようにとの思いが根底に在って辿り着いたと思う。平和と真理は尊いものだ。経済に代えられないとも思える程の尊さ。経済競争が原因で戦争になる危険を学問の自由の砦で阻止しなければならない。子供たちが懐中電灯の自然現象を、決して『電子』などの偽りに依らないことを理解する教育であってほしい。学校が学習指導要領に縛られない学問の自由が教育できる場であってほしい。
学問の自由、当たり前である。限定排除は学問の自由に反する。反証、反対意見は大いに結構である。ただし行政に実力を持って介入すことは越権である。。行政には選択がある。。だから民主主義国家には選挙があるのだ。不完全性定理・不確定性原理は学問にも行政にもある。
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コメントありがとうございます。意味が分からず少し困惑。「限定排除は学問の自由に反する。」をもう少し日常用語で願えればうれしい。「行政に実力を持って介入」とはどの様な意味でしょうか。
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