月別アーカイブ: 2020年8月

太陽電池の機能

電子論の矛盾(2020/08/21)。

電子回路は電子がその動作原理の根幹をなす。それが科学技術を支える現代物理学理論の『パラダイム』である。検索すれば何処にも同じような、電子のお話で解説されている。56年前に筆者も電子工学を工業高等学校の生徒に教えた。当時は真空管の熱電子の解釈理論であった。教科書の解説の通りに講義で教えた。しかし今もし、授業をするとしたら決して電子での解釈はしない。自然界に『負電荷』など存在しないと考えるから。それは『パラダイム』転換ともなろう。太陽電池は電子不要の光エネルギー変換装置の結論になる。

太陽電池。

筆者は半導体の特性について専門的知識がある訳ではない。教科書の解説に従えば、右の様な回路図で表現される。この回路図を使って筆者が疑問に思う点を取り上げたい。n型とp型半導体を接合して、n型側に光を当てるとそこから電子が発生し、負荷に流れ出ると解説されている。しかし、考えるとその意味が全く理解できないのだ。専門家の解説が筆者のような素人には理解できないのだ。初学者は学校で先生がお話すれば、そのまま記憶して覚えようとするから、疑問も抱くことはできない。しかし少し学習を積み重ねてくると、いろいろ理論の可笑しな点が見えてくる。光がn型半導体に入射すると、どの様な訳で『束縛電子』が『自由電子』となるというのかその論理が分からないのだ。

光電効果。

光と電気現象の関係が光電効果として解釈されている。電子は原子構造の外郭の電子殻に分布していると解釈されている。電子が原子核の周りをどのような速度でどのような立体空間軌道を回っているかも殆ど解説されていない。L 、K殻 等と軌道の解釈は示されているが、どの向きにどのような速度で回転しているかなど重要な具体的な意味になると全く示されない。その電子に光が当たると、自由電子になって、原子核の拘束から解放されるとなる。電子が光との相互作用で核の束縛から解放されて、自由になるとはどの様な原理から起こるというのか理屈が観えない。その辺の具体的な『エネルギー』の関係が詳細に示された科学論であって欲しいと思う。電子では論理的な解釈が示せないだろう。何故なら自然界に『負電荷』などがある筈はないと考えるから。ウラン235が核の外側で電子が92個も本当に回っていると考えているのだろうか。どんな空間構造で分布できると考えるだろうか。

光電効果における電子が受ける光の作用。この事の意味が理解できない。

自由電子の速度の大きさとその方向はどのように決まるのか。光を光電素子に当てると電気の『エネルギー』が得られることは確かである。その科学技術は素晴らしい研究成果として現代社会に多大な恩恵を及ぼしている。その半導体の物理現象の解釈理論が量子力学である。しかし、そこには『エネルギー』の具体的な描像が観えない。勝手ながら図3を基に、そこに於ける光電効果と言う物理現象がどのような事であり、そこにおける自由の電子と言う状況がどの様な状態を指すのか、そして自由が故の電子はn型半導体内で機能は具体的にどのような事なのかを理解したい。自由の電子がどのように『エネルギー』を負荷に供給するのかが理解できない。それらはすべて、素人の単純な疑問でしかないかも知れない。このような事は、初めて学習する学生も疑問に感じ、その疑問が解けた時に初めて納得できるのではないかと思う。

1.光は電子のどの様な特性に作用するのか?作用対象は『電荷』なのか『質量』なのか?光と電子の間の物理的作用原理は何だろうか?

2.電子は原子核の束縛から解放されて、自由になるという。その時の電子の物理的状態は何がどれだけ変わったのか?その電子が保有した『エネルギー』とは「運動エネルギー」か?もし運動エネルギーなら、その時の速度ベクトルは負荷まで保持されるというのか?その電子はどの様な仕組みで、導線の中に導かれるのか?

3.もし負荷に『エネルギー』を届けたとしてら、帰りの電子は何がどのように変わるのか?

4.電子に作用した光はその後、消滅するのだろうか?光の『エネルギー』の空間像が明確でなければならないと思う。

結論。上に拾い上げた、単純な疑問が解ければ良いと思う。それは電子の物理的空間像を示す事に集約されているのだろう。空間像を示せないなら、それは『電荷』が自然界に存在しないからであろう。前の記事、ダイオード電圧 (2020/08/26) でダイオードのON ,OFF 機能について解釈を示した。半導体のp型、n型とその接合面の機能は太陽光電池もダイオードも基本的物理現象は同じであろう。その点を踏まえて以下の解釈になる。

太陽電池の機能を示したい。

ダイオードがオンする原理はpn接合面の『エネルギーギャップ』を解消する、外部からの『エネルギー』供給である。電池から供給するか、太陽の光の『エネルギー』を供給するかの違いだけであろう。n型半導体側に光を照射すれば、pn接合面の『エネルギーギャップ』を解消でき、素子はオンとなる。右の図には、電池電圧Voの負荷を示した。電源はpn接合素子を直列に、合成電圧がVsとなる設定とした場合で示した。一般には電源電圧Voの電池に負荷抵抗なしにダイオードを順方向に接続すれば、電源電圧短絡の事故となる。しかし、ダイオードの電圧ドロップの直列段数倍がVoと等しければ、短絡事故とはならない。その時の電圧Voはダイオードオンの役割の為の電圧と見做せる。光の照射量に従って、n型半導体内部の『エネルギー』の量が決まり、太陽電池としての『エネルギー』供給源として、負荷の蓄電池電圧Vo側に『エネルギー』を供給するかどうかが決まる。

 

 

ダイオード電圧

半導体の世界(2020/08/26)。第二次世界大戦後に半導体に関する世界が始まったのかも知れない。今の情報化社会を支えている基本技術は半導体製品に負っている。p 型半導体とn型半導体の接触面に不思議な世界が繰り広げられているようだ。

p n junction と『エネルギー』

p 型半導体とn 型半導体を接触させると、その接触面に不思議な世界が現れる。その基本となる製品の代表がダイオードであろう。トランジスタに成れば、npn等と接合面が二つになり、さらに不思議な世界を創り出す。電気回路に組み込めば、回路を切ったり、繋いだりするスイッチの機能を発揮する。

エネルギーギャップ。物質はそれぞれ特有の保有エネルギーを持っている。その保有エネルギーの外界作用性を物質の特性として発揮すると解釈する。例えば「イオン化傾向」と言う物質の外部作用性の強さの違いもその評価法の一つであろう。半導体の接合面に現れる特徴がそのエネルギーの持つ作用性と考えられよう。p 型半導体がn 型半導体より内部保有エネルギーが多く、接合面に『エネルギーギャップ』を生じる。その接合面の『エネルギーギャップ』がスイッチオフを起こす。スイッチが『オフ』とは電気回路の『エネルギー』を伝送する空間が構成されない、即ち伝送空間が途切れた状態である。導線の中を流れるものが何も無いのに、僅かにその導線が切れただけで『エネルギー』の伝送空間が失われるのも不思議である。その導線切断と同じ機能を、半導体の接合面の『エネルギーギャップ』の存在が果たし、回路遮断の原因となる。その回路遮断を除去するには、n 型半導体に外部から『エネルギー』を供給してその『エネルギーギャップ』を解消すれば伝送回路空間が構成され『オン』と言う状態になる。即ち回路導線の中に『エネルギーギャップ』の部分が無ければ、伝送空間が構成される。図では、『エネルギーギャップ』の電圧 V_off_で表した。接合面のコンデンサ容量 Co [F] とすれば、そこのエネルギー量が Co× V_off_^2^[J] であるという意味で解釈して良かろう。

ダイオードドロップ V 。ダイオードがオンの時、電圧降下が生じる。0.6~0.7 [V] 程度の電圧のようだ。その電圧分に相当するだけ、 n 型半導体側の『エネルギー』が多い状態になっているという事である。(『電圧』と言う技術量は電位の低い側が『エネルギー』の多い分布状態を評価する概念である)。その時、ダイオードはオンとなり、回路の『エネルギー』伝送可能な空間が構成されるという意味と解釈する。ただこのダイオードがオンの時の電圧降下 V は接合面のオフの『エネルギーギャップ』とは異なる意味と解釈したい。ダイオードオンのための消費エネルギーに関わる電圧と理解する。

過去の記事を辿っての道のりであった。

ダイオードの機能 (2016/09/17) 。謎(pn接合は何故エネルギーギャップ空間か) (2017/05/18) 。

『電圧と電流』すべて逆だった

電気現象の解釈は長い歴史を経て、今電気理論として科学技術の根幹をなしている。しかし、そこには大きな誤算があった。『電圧』と『電流』に物理現象としての論理性がなかった。しかし、これからも「オームの法則」として科学技術に欠かせない理論として社会的な文化であり続ける。

科学理論と自然世界。

特に物理学理論として『エネルギー』の実在性を見誤ってきたところに、科学者の現代的責任が問われなければならない。『電荷』は自然界に存在しないのだ。従って、『電子』は誤った科学概念であった。電気現象に『電子』は不要の存在であった。そこに現代物理学の誤りの根源がある。

電気現象はすべて『エネルギー』の流れである。『電圧』は電気回路のエネルギー分布の逆向きの方向に定義した技術概念である。『電流』も電線の近傍空間に流れる『エネルギー』を、逆向きに流れると定義してしまった科学技術概念である。しかも、その『電流』の逆向きに『電子』と言う実在しない概念を創り出して、論理を構築してしまった。そこに科学理論の根本的矛盾を持ち込んできたことになる。光も『エネルギー』の流れである。今太陽電池の現象を考えながら、先に『電圧と電流』の自然現象・理科教育としての矛盾を述べた。

電気工学から物理学を問う (2017/04/09) の回答であったかも知れない。

敦賀駅前から満天の星空の下

75年前の8月15日敗戦の日から始まった戦後。

新聞には当時の多くの体験談が載っている。しかし、筆者にはあまり記憶が残っていない。ただ一つ鮮烈に脳裏に焼き付いたような風景がある。8月15日を境に、突然世界が変ったような事態となったのだろう。もう舞鶴鎮守府の海軍住宅には居られない。4,5日後の今頃はそこを引き払って、新潟県の故郷を目指して汽車に乗っていた筈だ。脳裏に浮かぶ一つの風景がある。それは鉄道線路、北陸線の敦賀駅で降り立って見た風景である。それは敦賀市街のどこまでも見渡せる何もない廃墟の平原が満天の星空の下に、照らし出された無機質に輝く光景である。そこには人の営みも、鳥や動物の命の影もなく、天空に照らされた廃墟しかない。それが何がしかの錯覚であったなら良かったとも思う。

丁度汽車がその先に行かないため、次に来る当てのない汽車を待って降り立った敦賀の街の風景であった。鉄道線路だけは破壊されずに運良く残っていたから、何とか故郷に辿り着けたのだ。しかし、途中の事は何処を通って帰ったかも何も聞いていなかったので覚えていない。母と二人の妹との4人の逃避帰還の旅であった。恐らく汽車賃も、切符もない混乱の中での汽車での旅であっただろうと思うが、本当の事は聞いていない。列車も混乱のごった返す満員の中、窓からの乗り降りは当たり前であったことだけは覚えている。いつ田舎の家に辿り着いたか、その時の様子も何も覚えていない。小学1年生であり乍ら何も覚えていないとは、幼稚であったと恥ずかしい。

故郷の川は美しかった。母の信濃川での洗濯に付いて行き、川の中に手を入れているうちに、小魚を手の中に捕らえていた。今もその魚が⦅砂ッポリ⦆と呼ぶものだったと覚えている。自然に手の中に入る魚がいる川が如何に命輝く故郷の自然かと懐かしい。フサお婆さんも元気であった。父が年末に帰ってきたかも覚えていないが、相当遅くまで戦後の仕事があったようだ。

舞鶴国民学校の一年生に4月入学した。学校の近くに矢野歯医者さんがあり、治療をして頂いた記憶がある。しかし、敗戦の混乱の中貝野小学校への転校の手続きもなく9年間の義務教育が過ぎてしまった。その後の75年間は不可解の闇の中に過ぎた。

 

熱の正体と不明

投稿したら不快な気分を味わった。「フォローマーク」が表示され自分の投稿でないかの意味になる?

 

はじめに(2020/07/28) 。熱の正体は?と検索してみた。熱は原子、分子の運動エネルギーと解説されている。気体分子運動論が現代物理学理論の一つの基礎論となっているから当然だろう。それが現代科学の『パラダイム』でもある。しかし、その理論が分からないと30年も頭を掻きながら不可解と過ごした。結局、熱も『エネルギー』の一つの姿でしかないと確信に至った。記事『熱電変換現象に思う』を書き始めたが、ここにまとめる事にした。強力な理論体系となってきた「量子力学」がある。それは半導体理論の基礎をなす。トランジスタのnpn型のコレクタ側の吸熱現象を量子力学論ではどのような解釈をするのかを筆者は知らない。独自解釈でそれも『熱電変換現象』の一つであると考える。そのトランジスタのコレクタ側も熱を『エネルギー』に変換する一つの発電器である。その現象は太陽光発電が光を『エネルギー』に変換する発電現象である事と変わりない同じ原理である。科学理論となれば、現代物理学理論の基礎概念に基づいた『パラダイム』の基での解釈でなければ、科学論としての評価が得られ難い。『エネルギー保存則』一つを考えても、その『エネルギー』とはどのように定義したものかを明確に共通理解しているだろうか。『パラダイム』違反の論理であろうが、自然はとても純粋で単純な基本原理の基にあると考える。だから、トランジスーのタコレクタ吸熱現象も『エネルギー保存則』から考えれば、その『エネルギー』は何処かに利用されている筈だ。だから自然世界の『熱』も『光』も『エネルギー』のそれぞれの自然の姿でしかないと考えざるを得ないのだ。

それは空間の『エネルギー』である。
何故科学理論は複雑で分かり難いのか?深く考えると分からない事ばかりだ。その原因は自然界に存在しない『電荷』や『電子』などで理論を構築したところにすべての原因がある。この事が導く究極の科学理論批判が原子構造論になる。決して電子が核の周りを周回する電子殻構造論が論理的に成り立つ訳はないという批判に向かう。具体的な例を今後の課題として取り上げたい。

『エネルギー』は自然界のすべての根源である。
電気も光も熱もみんな『エネルギー』の姿なのだ。太陽系も一つの空間に浮かんだ『独楽』みたいなものだ。重さも解らないし、その『エネルギー』も解らない。『エネルギー』でも正体不明な事も多い。熱が『エネルギー』だと言っても、金属棒の一端を加熱したとき、他端にその熱が伝導する。その熱の『エネルギー』の伝播速度は相当遅い。電気『エネルギー』は金属内を伝播しないが、熱はその中を伝播する。その速度は幾らか?その伝導の仕組みを分子運動とは捉えたくない。その解釈は『パラダイム』違反という事になる様だが。金属棒の組成の中を熱はどのように移動するのだろうか。熱電変換特性のゼーベック効果やペルチエ効果などのキャリア解釈を否定すればそれも『パラダイム』違反の論となろう。

この記事をトランジスタの吸熱現象と熱電変換現象を統一して論じたいと思い立ったが、やはり個々の問題として論じることにしたい。『熱』について纏められなかったが、上に述べた目標、原子構造論と電子論の矛盾を明らかにすることを目指して。

 

観自在菩薩

魔訶般若波羅蜜多心経の最初の五文字である。それは経文全体の本源となるべき最も大切な意味が込められていると観る。ここに述べる事は、全く門外漢の解釈であり、一般の解釈とは相容れないものであることを先にお断りしておきたい。

この心経と言う経文全体が漢字の羅列に思えるほど、内容を理解することなど筆者には土台無理な事である。だがしかし、一つだけ『色即是空。空即是色。』の意味については筆者にも強く共感できる思いがある。それは物理学理論の欠陥を指摘していると思われる深い自然界の実相を洞察した真理の標言と考える点である。それが空間の『エネルギー』である。

『質量』は『色』の一つである。それはよく見える世界の姿である。その『質量』が光となって空間に放射されると、その光の『エネルギー』を見ることも測ることも出来ない『空』となる。物理学理論の対象とできない実験的検証不可能の自然世界の実相が『空』の『エネルギー』と理解した。

大昔、理論など何もなく、ただ自然の事象を己の心に照らし合わせて、納得できる結果として辿り着いた悟りの言葉と解釈したい。心経の言葉としてまとめられる迄には長い伝承を通して受け継がれ、その結実の花となった東洋思想と理解したい。

経文の漢字で気掛かりが二つある。

一つ目は『波羅蜜』の『蜜』の字である。これは『密』の字の間違いではないか。真言宗でもある密教の『密』の字の筈だ。なんで心経の中に甘い蜂蜜の『蜜』の字が入るのか、それは場違いだ。

二つ目は最後の『ギャー諦ギャー諦』の『ギャー』の漢字(変換されない)は無意味である。『諦』の字義はとても深い意味を持っていて、不明な事柄や事象を分かる様に明らかにするという意味である。諦観などと使う。経文の最後のまとめとして、『掲諦』の文字によって、明らかになった道標を掲げて、みんなで前に進みましょう。という意味と解釈する。それが経文の最後の言葉に相応しかろうと。

さてそこで、『観自在菩薩』の意味はどの様なものと考えるかである。その意味として、これは『菩薩様がこう述べた』などの意味では全く納得できない。『禪』の根本原理は民主主義と解釈する。権威によって自由を妨げる事はしない筈。権威を作らない。全体主義を嫌う。その禅的な捉え方からすれば、菩薩様とはならない筈だ。これから述べる筆者の解釈はとても今までの標準的な論説とは全く異なり、常識外れであろう。『自在』と言う用語は自在鉤等、囲炉裏の鍋を自由に上げ下げできる吊り具を言うことから「自由に」と言う意味を込めて使われる。それが一般的かと思う。しかし、それでは大切な生きる指針を伝える『心経』の冒頭言としての『自在』の意味としては無意味に思える。『菩薩』は『菩提薩埵』の『菩提』と『薩埵(サッタ)』を合わせた言葉とも採られているようでそちらを採りたい。『菩提樹』などと使われる『菩提』は迷いから目覚めること。悟りの智慧等と解説される。『薩埵』は衆生と言う悟りに至らない人の意味かと考える。このように考えた時、「観自在菩薩」の意味は最後の⦅掲諦⦆と合わせて、『物事の本質を己の中に観つけるように進んでゆきましょう。』位の意味と勝手な解釈をしたい。

『波羅多』の意味を自然は災害の波も、また柔らかい絹織物の穏やかさ「羅」も多い。とまた勝手な解釈をしたい。だから「三密」ではないが『密』の漢字を当てたい。

自然科学にもたらす数学の功罪

自然界に『負』の物は実在しない(2020/08/03)。

『負数』について考えた。数についての学問が数学であろう。数には正数に対して負数と言う概念が加わり、数の計算が拡張された。しかし、実際の生活に『負数』が存在するのだろうか。例えば、経済で利益を正数としたとき損失を負数として対応させれば、加減算したとき誠に分かり易いと言えよう。しかし損失も『正』の損失額という意味であり、決して負数という事ではない筈だ。純粋な意味で損失が負数であると決まったものではない筈だ。計算の便宜上で負数としただけでしかなかろう。そのような意味で考えた時、日常生活上で自然現象を観察した場合に『負数』で対応しなければならない事物が存在するだろうか。

数学は論理性の象徴的学問分野であるかのような絶対的な捉え方で解釈されている傾向があるように思われる。それが常識的であるように見える。

数学に規則では、

(-1)×(-1)=+1    (1)

(+1)+(-1)=0       (2)

等と決められている。

このような規則、条件がどのような意味であるかを考えてみたい。具体的に自然世界の現象として、この規則を取り入れるとき、それがどの様な意味を持つかという事を明らかにする必要が有ろう。(1)式、(2)式には自然世界に実在しない概念の導入によって成立するという条件の仮定が根底に在る。

ここで考えてみる。どんな自然現象で(負数)×(負数)と言うような計算をしなければならないものが存在するだろうか。あるいは(+1)+(-1)=0と言うような事象があるだろうか。(負数)に対応する自然界の物理量が実在するだろうか。

そこに唯一思いつく物理量があろう。それが(・・)であろう。皆さんは何を考えるでしょうか。

数学の特徴で抽象性を挙げる事が出来よう。それに対して自然はすべて具象の世界である。その自然からある面を抉り出して抽象性を表現してみても、それはあくまでも自然ではなく人の恣意的な自然にない解釈が組み込まれた可能性のものだ。そういう意味で、数学的な解釈が如何にも絶対的であるかのごとき捉え方は正しくなかろう。

数学の解析の具体例。幾つか拾い出して考えてみたい。確かに数学的解析手法が無ければ、現代生活は成り立たないと言ってもよい程、その恩恵は計り知れない。それが数学の功績である事に間違いはない。その上で考えてみたい。特にその威力を感じるのは、様々な現象のシミュレーションにあると思う。時々刻々と変化する状況を的確に予測する計算手法である。そんな人の能力を超えた計算処理が計算機(動かないものは器で動くものが機と理解していたが違うようだ。)で可能になったのも数学の規則があるからだ。

1.気象予報。

気象の予測の精度が格段に向上している。そこには気象観測衛星の技術があっての事ではあろう。ただ一つそこに気掛かりがある。それは雷発生注意報が発せられているが、余り雷の発生は起きていないのではないかと思う。最近残念ながら「雷」の稲妻も見ない。気象条件で、雷の発生が予測されるのだろうが、予測が外れて起きていないのではないか。そこには人の科学理論の誤った認識が入るからではないか。雷は決して『電荷』などの自然現象ではなく、『熱エネルギー』を原因とした現象なのである。雨によって空気中の塵芥が洗い去られて、気中に水蒸気の熱が貯えられるチリが無いから、雷現象が起きないのだ。雷は気中の熱爆発現象だから。『熱』の正体 (2014/05/15)-この記事も年間リポートで大花火を頂いた- および雷は熱爆発 (2014/05/23) がある。

2.津波伝播現象。

海洋を伝播する津波波形をどのようにシュミレーションで解析するか。地上の津波波形は運動エネルギーの波であるから、普通の物理学理論の運動方程式による解析で可能だ。しかし海洋伝播する津波波形は海水が流れない現象だから、運動エネルギーではないのだ。海底沈没現象がその巨大津波の発生原因である。高速度計算能力が可能の時代になった。海底陥没でどのような現象が起きるだろうか。突然の真空空間を作る実験は不可能である。しかし計算機なら可能かどうかと期待を膨らませたい。古い記事、地震とは何か(2011/10/20) および地震・津波発生の原因 (2014/06/15) -この記事は年間リポートで大花火を頂いた- がある。

3.電気回路現象。

電気回路現象は微分方程式を解く過渡現象として詳しくシミュレーションによって解析できる。それは電気回路の『電流』と『電圧』を基礎概念として解くことができるという条件の成り立つ場合に限る手法である。それは電気回路内における送電端と受電端間での光速度による遅れを考慮しなくてよい場合に限るという条件がある場合だ。『オームの法則』と光速度伝播現象の関係を考える必要が有るのだ。回路電流は電源と負荷の値が等しい条件で『オームの法則』が成り立つのである。分布定数回路の電線路長と電気信号波長の関係で、電線路長が波長の何倍となれば電磁エネルギーの光速度伝播現象を考慮しなければ解析は困難である。定在波分布現象を考えれて初めて電流という物理概念が電線導体内を流れるとは考えられないと気付くのかも知れない。そこには電線路空間内の『エネルギー』光速度伝播現象しかあり得ない筈であるから。分布定数回路空間の世界 (2019/10/14) がある。

まとめ。

数学と言う学問はとても広い内容を包含している。数の加減乗除算はその基礎になる。それでも(負数)×(負数)=(正数)が至極当たり前の学習の基礎として身に付けなければならないと学習指導要領で決められる。この計算の意味はとても深い哲学的な思考を伴わなければ理解できない高度な内容と思う。それをいとも簡単に「是はこうだ!」と覚えさせる教育の態度では、そこに創造性など生れない。其処に数学の抽象性の教育上の大きな問題があると考える。知識として積み重ねても、その深い意味を理解するには、そこに疑問を抱いて後に初めて分かるというところに到達するものであろう。教育の意味はそこにこそあると思う。

『電荷』は科学理論構築の根本的基礎概念である。数には(正数)と(負数)がある。それが数学の基礎である。自然界の現象を心に納得できる対象として感じた時、そこには(正数)や(負数)の対象となる実在物理量が無いのだ。負の電荷の『電子』が自然世界に存在するなど感じ取れないのだ。そこには数学の(負数)の基礎概念が大きく影響を無言の圧力として人の意識に及ぼした結果ではないかと考える。数学の罪として。規則の式(2)を考えてみる。(+Q)+(-Q)=0 と『電荷』に適用したとき、数学はその内容に責任をもって答えられるだろうか。物理学では如何であろうか。正の『電荷』と負の『電荷』が結合したら『零』になるのか。光とは何かにつながる哲学的意味を含んでいるようだ。

こんな記事を過去に書いていた。数学と自然科学 (2016/11/19) 。