日別アーカイブ: 2020年6月23日

戦後75年間の不可解?

わが身に起きた愚かさの思いと戦争と政治の現実を伝えたくて。行政とは何か?

人権と政治行政の関係。人が人として平等に生きる社会でありたい。行政が人の個人としての情報をどのように取り扱っているかを教えることが民主主義の教育の基本の筈である。三権の意味や日常の生活で誰もが意識して居なければならないことがある筈。戸籍の意味。住所届の必要性と意味。労働契約の意味。知らないでは済まないことをすべて教える義務が教育機関・行政に課されている筈だ。それが民主主義と言う社会制度における義務教育に課された役割である。隠して、不平等は許されない事だ。筆者のような無知による愚かさを生きないで済むように。

日本国憲法。労働基準法。教育公務員特例法。その法律の存在する意義は何か?人権とは?

今から56年前の昭和39年6月16日。新潟地震が発生した。その時、新潟県立新津工業高等学校の電気科実習室に居た。遠く蒲原平野の先には新潟コンビナートの石油基地がある。その燃える黒い煙が遠くに見渡せる場所だ。揺れる中で、危険も顧みず大きなボール盤を倒れないように抑えていたことを思い出す。帰りは列車もなく、兎に角帰ろうと徒歩で帰途に就いた。途中でバスに乗ることが出来、乗り継ぎながら長岡までたどり着いた。その年の春4月から、そこで教育と研究の仕事で16年間過ごした。今日こんな写真を見つけた。忘れていた。昭和39(1964)年の7月とある。秋には東京オリンピックが10月10日開会式での祭典があり、その初年度に参加していた。申し訳なくも最前列で写って居た。主催:全国工業高等学校長協会。後援:島田理化工業(株)、三菱電機(株)。90名ほどの参加者。

しかし、新潟県教育委員会と言う教員の採用機関に採用されていなかった。教員は『公立学校共済組合』に登録して、正式な教員と認定され、正規の処遇が成されるようだ。愚かにも筆者は新潟県教育委員会での採用事務説明を受けたことも、その採用に関わる諸手続きをしたことも無かった。新潟県教育委員会に出向くことが全くなかった。しかし、愚かにも少しも採用されていないなどとは気付かなかった。

不可解と疑いの関係事項

1.学級担任。

2年目(1965)4月から、学級担任を任された。電気科2年生、翌年続いて同3年生で卒業させた。その年(1965)の夏休み中には、教育委員会の指導課からの要請で工業科教員の研修講習会に参加した。茨城県の日立製作所の各工場、最後は本社研究棟で1週間程の研修を受けた。各県からの指導的中堅(筆者を除き)の参加教員での構成(7人程)であった。

続いて4年目(1967) から再び2年間、電気科2年生、同3年生の担任をした。そして卒業させた。4年続けて学級担任をした。その訳は何故か?昭和50年度も電気科2年生、翌年3年生と続けての学級担任。アルバイトでの学級担任とは子供達に対して許されない筈だ。

2.半年間の内地留学

昭和44年(1969)、丁度大学紛争で荒れていた頃であったが、希望して東京工業大学の電気工学科の研究室に内地留学をさせて頂いた。秋の10月1日から翌年3月31日までの6月間であった。確かに今になって考えれば、その内地留学申請書を正式に提出した覚えがない。その時は高野校長であった。どの様な手続きであったか不明だ。それ程世間知らずで居たかとお恥かしい。その内地留学で、最新の研究室の魅力を経験し、パワーエレクトロニクスの技術の高さとその魅力に取りつかれた。学校に戻ってからは、実験室に閉じ籠り、新しい半導体制御技術を生徒実習に取り入れようと実験装置作りと自己研修に深入りした。電力用半導体制御回路、ワードレオナード等を生徒実習に取り入れる等は指導要領の逸脱であったかも知れないが、全国的にもおそらく無かっただろう。電動機の始動法などには意義が見えなかったから。

最大の不可解

3.新潟県教育委員会の任命状および委嘱状。「知事部局」からの手紙。

昭和53(1978年)母が亡くなり、長岡市役所で何かの手続きをしていた。急に呼び出しの管内放送が掛かった。電話だと言うので出ると、新津工業高校の八子校長であった。内容は⦅県からの引き受けて欲しいという話がある。承知した方が良いが、どうするか?⦆と言われた。「分かりました」と答えた。今は、その事の意味が悪意に満ちた「策略」以外に何も思えない。新潟県教育委員会に採用されていない、全く新潟県教育委員会には教員としての管理台帳もない筈だから。

それは昭和53(1978)年4月28日。任命状 発令者は新潟県教育委員会教育長。

 

 

 

 

 

 

 

この、工業「電気工学1」の専門調査員に任命する。㊙の文書である。筆者は「電気工学1」(電気理論)の授業担当をしたこともなく、専ら電力系(電気機器、発変電、送配電など)の授業しかしていない。この指定の日に参加したことは確かである。しかしその一度きりで、内容は3回とあるが他に調査の会合への連絡もなかった。その担当の代表者は長岡工業高等学校の柳町教諭であった。何の意味の㊙任命状か?これが教育を担う教育委員会の事務責任者、行政職の教育長の発令とは如何なものか?教育委員長ではないところに『教育の政治からの中立性』が懸念される。

 

翌昭和54(1979)年6月にはまた委嘱状が来た。

この委嘱の意味は、その年の7月16日から7月21日までの 昭和54年度産業教育指導者養成講座(工業科)ー文部省主催の東京工業大学での養成講座ーでの講座参加の意味であったのか?

 

 

 

 

実はその後に、とんでもないことがあった。夏休みに入ってから、突然自宅に「新潟県知事部局」から極秘の書面が届いた。しかしそれは結局新潟県教育委員会が取り仕切る『県外先進校の視察業務』であった。昭和54(1979)年8月6日~8日の2泊3日の工業科指導主事の指定の高等学校訪問であった。昭和57年度から新しい教育カリキュラムが実施されることになっていた。工業科の教科内容が大幅に変更され、学習能力の或る意味での対策でもあったのかとは思う。当時長岡技術科学大学が開学され、そこで少し研修を受けていた。

その昭和54(1979)年の12月初めに、川上学長の面接を学長室で受けた。「割愛人事」だと言われた。しかしその意味も知らなかった。その後いろいろ不可解な事があったが、翌(1980)年3月7日に、長岡技術科学大学で『宣誓式』があり、行った。電気系の二人の先生と3人一緒であった。その日は工業高校の卒業式であったが、教頭に連絡して欠席した。3月末に教員移動が新聞に掲載される。自分の名前も隅に、「退職」?とあった。新潟県教育委員会の発表として。正式登録も無い者を社会的に体裁を取り繕った行政手法としか思えない。筆者の採用を管理していない訳だから。

その後の長岡技術科学大学での処遇はどう考えても闇の中での取り扱いであった。正規の事務的手続きは全く執り行われていなかったようだ。『文部省共済組合』への登録手続きもしていない。だから教員とは見做されていなかった筈だ。大学に入る時も、去ってからも一切事務手続きに関わったことが無い。それを人権侵害と言わずに何と言えるか。

自己反省。何でここまで愚かな人生を歩いて来たかと呆れるだけだ。すべてが暗闇の中を過ごしてきた。一人の人間としての取り扱いをされていなかったように思う。意味の分からない事ばかりに最近になって初めて気づくのだ。電気学会に加入していなかったように思う。会費を納めていなかったから。新潟県長岡市学校町に古家を購入して住んだ。

以下については、不動産屋が処理していたようだ。当時の話を後で何故かと思ったことがある。原戸籍や除籍簿を要求された。今ならその訳が分かる。

しかし、その不動産登記(?)もなく不動産取得税も請求された覚えがいなかった。銀行通帳が無かったから、銀行の借入金も通帳に記録がない筈だし、給与の振込もないし、記憶にない。全く不可解だ?

新潟県教育委員会(新潟県知事)にお尋ねしている。

先般、正式の教員として採用していない。新津工業高等学校での非正規アルバイトのような仕事であろう。公立学校共済組合員の登録はない。と教えられた。

確かに給与の振込銀行口座も無かった。昭和55年の給料明細書に、共済短期掛金:9110円。共済長期掛金:12908円。は何処に収めたのか?さらに電気科主任手当てが支給されていた。しかし振込先は労働金庫本店口座である。しかも昭和55年4月分として5360円の振込がある事になっている。既に存在しない職務に支払われたのか?何故私の銀行口座が無かったのか?すべて印鑑を押して、手取り額の支払いを受け取っていた。考えれば、内地留学中の給与は受け取っていなかったのかと理解できない?

公立学校共済組合にも登録されていない者が、新潟県の産業教育指導者養成講座への参加要員として選定されるのか?新潟県教育委員会には筆者の教員としての管理台帳もない筈だ。しかも文部省主催の講座である。文部省が正規の教員でないこと位知っていた筈である。上のことについて回答を待っている。

それから、僅か6年後の昭和60(1985)年3月長岡技術科学大学から長岡工業高等専門学校へ邪魔者排除の対策が採られた。其れが中曽根臨時教育審議会である。文部省はすべて承知の上で(舞鶴鎮守府戸籍転籍)の社会的に抹殺する仕組みを執ったとしか思えない。政治には全く無関心のノンポリであったが、その後の数年間で経験した理解できない社会的不条理に身の危険を感じ取り、止む無く昭和63(1988)年身を隠さざるを得なかった。理解しかねる身に降りかかった「不可解な出来事」の意味を解くための長い暗夜行路の旅であった。振り返れば新潟地震のあの災いが56年間の闇の始まりであった。

舞鶴鎮守府と義務教育。

昭和20(1945)年4月、京都府舞鶴市の舞鶴国民学校に新1年生として入学した。8月15日の終戦を迎えた。その後故郷には昭和24年4月まで『戸籍』が無かった。恐らく新潟県中魚沼郡貝野村立貝野小学校には転校手続きもなく、中学を卒業するまで、義務教育の履歴が日本政府機関には無いと思われる。

舞鶴鎮守府の軍の公舎で、その館に入った処の右側に大きな「鯉の滝登り」の絵図が掛けられていたのを覚えている。その館の前広場に、戦闘機か小型の飛行機が据えられてあった。父ともう一人の軍人が飛行機に乗せてくれた。精々2人乗り程度の座席であった。

昭和14年(1939)12月1日。舞鶴鎮守府へ戸籍転籍 貝野村役場 村長。  昭和16(1941)年 9月2日。充員召集 舞鶴鎮守府。   昭和16年12月19日。香取丸へ戸籍移動 香取丸。   昭和20年(1945)9月1日。海軍上等兵曹。(以上、父の軍歴票)。

昭和19年2月7日。香取丸被弾沈没。   同年3月31日。香取丸船籍除籍。

昭和20年4月。舞鶴国民学校へ新1年入学。  昭和20年8月15日終戦。終戦時の住所:京都府舞鶴市字溝尻 海軍住宅。即刻、父(戦後の後片付けがある)を残して汽車を乗り継ぎ故郷に帰る。

昭和20年8月28日。厚木基地にマッカーサー司令官着く。   昭和20年9月2日。ミズリー号甲板で日本代表団、無条件降伏調印式。

昭和22年5月3日。日本国憲法発布。   昭和23年1月1日。民法(戸籍法)改正。

昭和24年4月・・日。父母の子供(三女)の出生届により戸籍編成と戸籍事項。昭和14年からの舞鶴鎮守府の関連期間が記載なしの不明のままだ。

今ようやく専門家(?)として、電気現象の意味を自然界の中の深い『エネルギー』の仕組みとして捉えるところに到達した。しかし、日本社会の中で、得た認識をどう生かせるのかとその社会的活躍の場が見当たらない。余りに己の愚かさを日本社会で弄ばれている様だから。日本が法治国家なのかと理解できない!