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エネルギー変換物語(炭火とエジソン電球)

はじめに  火は人類の生活基盤を成す。人類の文明の始まりにも関わる生活科学であろう。炭火や囲炉裏火は生活そのものであった昔に思いを馳せる。それはエネルギーと科学論の懸け橋にもなる深い意味を含んでいる。そんな日常生活の古い姿を振り返って、誰もが思い描ける生活の中にとても深い科学の視点が残されていることを拾い上げてみたい。難しい数式も要らない、しかし現代物理学理論が疎かにしてきた『エネルギー変換論』を展開しようと思う。物理学理論が『エネルギー』の意味を認識していない事を考えてみたいと。

炭と光熱 木炭がいつ頃、何処で使われたかははっきりしなかろう。木を燃やし、残り火を灰で覆えば炭が残る。火の扱いは生きる技術として必須の知識であった筈だ。図1.炭と光熱 科学の知識や科学理論を知らなくても、生活の中心に在った囲炉裏の火や火鉢の炭火が人の繋がりに欠かせない居場所を作っていた。ただ燃える火の揺らめきが心にぬくもりを与えてくれた。ゆっくりとした人の生業が穏やかで、効率で監視される現代の心の歪みなど有りようがなかった。寒い雪国には、行火(アンカ)が有った。夜の就寝時に布団の中に入れる個人用移動炬燵である。朝までに炭はすべて灰に成り、熱源としてのエネルギー変換作用を応用した生活道具であった。図2.行火がそれである。

炭火や焚火にはとても不思議な意味が隠されているように思える。今までも、その不思議に誘われて幾つか記して来た。焚き火と蝋燭 (2013/02/01) 、焚火の科学 (2018/05/26) など。しかし、それでもまだ肝心なことに気付かずにいた。それは炭や炭素原子のエネルギー変換作用についてである。それは不図した気付きでしかないがとても大きな意味に思える。最近は年の所為か夜中に目が覚めて、詰まらぬことを思い巡らす。なぜ炭素や抵抗体は熱エネルギーに変換する機能を持っているのかと、不図思い付く。それが記事の基だ。

図3.mc^2とエネルギー変換 図に①電池エネルギーと②燃焼エネルギーの場合を取上げた。①の電池エネルギーで電池のエネルギーとはどのようなエネルギーなのかと不図疑問が浮かんだ。すでに電子は破棄してしまったから、科学論を展開しようとすれば、電池に蓄えられているエネルギーとは何かを明らかにしなければならないことに成った。たとえ電子論を展開するとしても、電池の陰極側の化学物質に電子を負荷に供給するだけの電子が蓄えられていることを前提にしなければならないとなろう。その電子論では電子は負荷を通って電池の正極に戻ることに成っているようだから、電池内から供給したエネルギーはどのようなものと解釈すれば良いのだろうか。電池の質量が減少する理屈にはなっていないようだ。エネルギーと言うものが電池内に蓄えられていて、それが負荷で消費されると考えるのだが、電子論ではそのエネルギーをどのような理屈で消費すると解釈するのか。図①で表現した電池の陰極側からのエネルギーが電線路空間にどのように分布するかの見極めがまだ付いている訳でなく、疑問符?を書き込まなければならない不明は残る。ただ、電線路空間に表れる電圧とは空間のエネルギー分布によって生じる電気技術量・概念であることだけは間違いのないことである。だから如何なるエネルギー分布かを明らかにすることも自然現象の解明の学問として物理学の究める研究対象である筈だ。ランプから放射される光や輻射熱は紛れもないエネルギーである。『エネルギー保存則』とはどのような意味と解釈するのか。電池にエネルギーが有ったからそれがランプを通して高熱のエネルギーに変換されて放射されたと考えなければ、『エネルギー保存則』の意味までも曖昧になってしまうだろう。これはエジソンが工夫した木綿糸のフィラメントにどんな思い入れで取り組んだかにもつながろう。

①エネルギー変換原理は?   エネルギーとは誠に不思議なものである。ランプ・白熱電球は抵抗体の中で元々電池などの冷たいエネルギーを高温度の熱エネルギーに変換する機能が有っての結果に因って利用できる現象である。電線路空間に分布するエネルギーの大きさは電線路電力送電量の規模を規定する電気技術量・電圧の大きさで認識、評価できる。その電線路の負荷端に抵抗体が繋がった時、その負荷端子空間には光と同じ冷たい電気エネルギーが分布しているだけである。光も光速度伝播するエネルギー密度分布波では何も熱くはない。皮膚や吸収体で受け止めたとき熱エネルギーに変換されて熱くなる。光の速度が零に成る現象と看做せる。電気負荷抵抗の物理的機能は光エネルギーを吸収し、抵抗体の構造格子の中にエネルギーを速度ゼロの状態にして、吸収する熱化現象とも見做せよう。その詳細な物理機構は炭素などの結合格子構造に原因が有ると観なければならなかろう。マグネットの磁極近傍空間に在る軸性エネルギー回転流もおそらく電磁現象としての速度流で有り、光速度に近いと見做せれば、そのエネルギーも冷たいエネルギーである。それらの光的エネルギーは熱を持たないが抵抗体内に吸収された時、エネルギーの熱化現象が起き、新たな光エネルギー化に因る生まれ変わりの輪廻転生の一コマを演じる光と見られよう。物理学として極めなければならないことは、抵抗体内で何故冷たいエネルギー・光エネルギーが熱い熱エネルギーに変換されるかのその訳を解くことであろう。それには光エネルギーの正体を空間エネルギー分布として捉えない限り困難であろう。なかなか電子の逆流では解けそうもない事だろう。

②化学式の意味は? 炭火の話に成るが、炭素の炭と空気が混ざっても火は起きない。煙草の吸いがらでも、マッチ一本の火でもある条件が整えば、発火・燃焼に成る。化学式では炭素記号Cと酸素分子記号O2が有れば炭酸ガスCO2と熱・光エネルギーに成る様な意味で表現される。先ずこの両辺を結ぶ等号はどのような意味を結び付けているのか。勿論エネルギーのジュールでもないし、質量でもない。化学式に使われる原子、分子に込めた意味は何か?図3.のように炭には炭素だけでなく燃え残る残差物も含まれていて、燃焼後に灰が残る。その燃焼で発生する熱と光エネルギーは『無』からは生じない筈だ。それでは何がその光熱エネルギーに成ったのか。等号はその何がを意識に含んだ意味でなければ自然科学論としては肝心要が抜けているように思う。光熱エネルギーを含むからには、科学論としての等号にはエネルギーの次元で成り立つ意味でなければならないだろう。何が言いたいかと言えば、質量とエネルギーはその本質で等価であると言うことである。両辺の炭素原子記号と酸素原子記号の持つ意味で、質量が同じではない筈だ。炭素原子と酸素原子が結合して炭酸ガスに成ったとすれば、その原子質量が両辺で等しいならば光熱エネルギーなど発生する訳がない。無からエネルギーは発生しない事ぐらいは、高度な科学理論を学ぶまでもなく分かる筈だ。そんな日常生活上で感覚的に感じる科学常識を身につける為の理科教育でなければならないと思う。如何でしょうか?教育専門家の皆さん。塾の教育関係者もどのようにお考えですか。mc^2=E[J]と言う式をどのような意味で捉えていますか。特別素粒子など無くても質量とエネルギーは相互変換を通して等価なのです。

mc^2^から物理学を問う (2019/04/29) でも述べた。その意味を具体例として、独楽の心 (2019/01/05) や 熱の物理 (2019/02/07) でも考えた。

津波前の急激な引き波-専門家に問う-

(2021/03/10)追記。先月、NHKのニュースで東日本大震災の津波の解説で、地震・津波の専門家の学説通りの解説があった。即ち津波はプレートの沈み込みによる歪みの蓄積が起き、その開放の為の地盤の跳ね上げが原因だと解説されていた。大学などの専門家の教室で学習した卒業生は、その学説を守らなければ、その分野の仕事は出来なくなるからと思えば、それも哀れの現実だ。科学理論はとても保守的だ。それは社会的繫がりを守れば止むを得ないから。明日は、その東日本大震災から10年の日に当たる。最近やはりNHKの番組で、その時の様子で、津波が発生する時間的に、相当前に、大きな「引き波」の観測現場の映像が映し出された。巨大津波の発生原因は震源地点での海底陥没あるいは海底亀裂の大きさだ。それを専門家・その学説では認識していない。

また、良く津波の映像がシュミレーションとして示されることがある。海岸でのその到達波形は、余りにも実際の波形と違い、シュミレーションと言うにはお粗末の極みだ。基本的に、専門家が津波の『エネルギー』の伝播現象を理解していないところが大問題だ。今度高性能の『富岳』でのシュミレーション波形を期待したい。海洋伝播時の津波は決して水が運ばれる運動エネルギーではないことを基本に理解しなければ、海岸に到達する実際の津波波形を示すには、無理であることも付け加えておく。陸上に上陸する前の波形が重要である。

2019/06/18 新潟・山形地震が起きた。夜の地震に緊張した。津波警報が出されたが、津波被害は無く安堵した。

専門家に問う 津波前の引き波が何故起こるか。その原因を何と解釈するか。津波前の引き波が大きければ、確実に巨大津波が襲ってくる。その訳は何が原因と解釈するか。

「津波から守りたい」多くの漁船が沖へ の見出しで、新潟日報(6月22日)の記事が有る。記事の中には、「山北支所によると、1983年の日本海中部地震や93年の北海道南西沖地震の際、津波で港内の海水が急激に引き、船が転覆しかけたケースがあったと言う。・・」とある。93年の北海道南西沖地震は自分も地震に伴う津波現象の物理的意味を意識して考えた最初の事件であった。奥尻島への津波襲来で多くの犠牲者が出た。その時地震の専門家の話で、『何故こんなに高くまで津波が押し寄せるのか?』と話すのをテレビで聞いた。その話を聞いて思った。一体専門家とは水の特性を知っているのかなと不思議であった。それが切っ掛けで、津波現象の原因を自分なりに整理して、納得した。巨大津波の原因は断層付近における海底陥没に因る海水の流れ込みであると。その流れは水の特性としての波動現象として遠い海域の範囲におよび、地震震源地まで次から次と海水が流れ込むことが起きる。その膨大な海水の流れ込みが巨大津波となって、海岸に襲いかかる現象である。

その後の津波現象の原因に関する地震専門家の学説を聞くと、みんな海洋プレートの重なり地点で長い期間に亘る『ひずみ』が蓄積し、その解放で上部の地殻が跳ねあがる現象だと解説されている。そんな馬鹿な現象であの巨大な津波現象が起きる訳など無い。2011年3月11日の東日本大震災の津波で、大陸が跳ねあがるとすれば、太平洋側に向けて跳ね上がる筈だ。波は太平洋に向かって進む津波となり、日本の太平洋側に等あれ程大きな被害を起こす訳がない。大陸の跳ね上がり現象が津波の原因と言う学説は決定的な専門家の誤解である。小学生のころから、夏は信濃川の川底の深さが解らに程の深い崖で飛び込みや泳ぎで水の慣性を肌身に感覚的に染み込ませてきた。そんな感覚から津波の原因が海水の急激な地震地点への流れ込みだと捉えた。しかも津波のエネルギーは決して海水の運動エネルギーではないのだ。沖では海水の移動する速度など持っていないのだ。圧力エネルギーが海水に乗って流れる現象であり、海水は移動しない。津波は海岸に到達して初めて海水の流れの運動エネルギーにエネルギー変換する現象なのだ。政府が東南海地震の津波の映像として示すピコピコと跳ね上がる波形は津波の姿ではない。

今回の新潟日報の記事に在る、過去の「津波前の海岸海水の急激な引き波」現象の証言は実際の津波現象の原因を如実に物語っている。漁師さんが船を沖に避難させるのは、必死の思いでの行動であろう。しかし海岸での地震は津波の危険から逃れる為には、素早く高台に逃げなければならない。船は沖に逃げれば、被害を免れる。新聞記事にも 専門家「柔軟に基準を」とあり、専門家もある程度意味を理解してきているのかとも思う。国や県「生命を優先して」は漁師さんに対しては少し違う意味があるのではないか。一般住民への意味としてはその通りであろう。漁師さんには、引き波に因る被害を避けられれば、船は沖で津波に真向かいに向かっていれば安全にやり過ごせることは確かである。時間と危険のきわどい賭けではあるが。

エネルギーで見る世界-津波- (2011/03/27) 東日本大震災の直後に記した記事である。何故かこの記事も標準的な表示と異なっている?

エネルギーとは何か

科学論としては『エネルギー論』が核となっている。ようやくその意味の全体像が捉えられるような心境に在る。そこで、改めて『エネルギーとは何か』と検索してみた。とても有益なエネルギー論考に出会った。少し古い(2009年)が、とても論理的で、よく考えられた記事の小人さんの妄想である。(2021/04/24)追記。小人さんの妄想を読み返したら、少し数学的な標準の関係に論旨が流れていて、変ってしまった面がある。今まで、エネルギー(ENERUGY)とは? (2011/09/07) などをはじめとして電磁気現象の自然世界を『エネルギー』一つによって捉える論理的世界を捉えたかと思いたい心境に在る。それでも、『エネルギーとは何か』に答える助けになれればと論考を重ねる。(2019/06/15追記)また、EMANの物理学・力学・エネルギーとは何かと言う記事が有る。136万件の検索のトップに在る。この記事は所謂物理学教科書の解説に成っている標準的内容であろう。「エネルギーとは仕事をする能力」と言う定義に因って、「力×移動距離=仕事(エネルギー)」の解説に成っている。しかし、ここで考える内容はその解釈では通らないものに成っている。重力場(加速度g[m/s^2])での持ち上げる力も必ずしもf=mg[N] とは限らない。

小人さんの妄想の論考に応えたい。位置エネルギーを主題にして、重力加速度g[m/s^2]と力の関係を論じている。そこで論じられていることはその通りである。考える拠り所として、図に表した。m[kg]の質量が有る。基準からh[m]の高い位置に有れば、その物は位置エネルギー E=mgh[J] を保有していると解釈する。小人さんが論じていることは、物体を持ち上げる時重力 f1 と 持ち上げる力f2 の間に力が釣り合っていて、物体に掛る力は常にゼロではないか。それなら位置エネルギーは増加しないだろうと言うことの論理的矛盾を問うものと理解する。しかしそこのところは少し違うだろう。物 m[kg] に掛る力 f [N] はその物に生じる加速度によって捉えることが力学論の定義であろう。もし加速度  α[m/s^2^] で運動するなら、それが力の意味になる。その時は力 f [N] はゼロではない。だからと言って、小人さんが指摘した力の関係の問題に納得出来る訳ではなかろう。そこで更に問題となることが図の(※)の場合だろう。上昇速度が一定なら加速度はゼロである。従って、加速度ゼロなら力の定義からやはり力はゼロとなる。エレベーターを一定速度で上昇させた時、加速度ゼロだから力学論の定義によれば、エレベーターに掛る力はゼロとなる。力と距離の積で解釈するエネルギー即ち位置エネルギーはゼロと言うことになる。幾らなんでも、それは理屈に合わない。エレベーターを上昇させれば運転動力を使いエネルギーを消費する。エレベーターが高く上がれば、それだけエレベータは位置エネルギーを増加して保有することになる。少し付け加えて置くが、エレベーターの場合は平衡重りが掛けれれているので、重力あるいは位置エネルギー量には注意しなければならないことが有る。 それにしても加速度ゼロでの運転では、位置エネルギーの問題は小人さんの仰る通り、運動力学の理屈に合わないことは事実である。それを『力と位置エネルギーのパラドックス〈理屈と実際の間の矛盾〉問題』としておこう。

力と位置エネルギーのパラドックス問題。この問題の解釈の仕方について筆者の考え方を述べよう。地上から高くなれば、そこに在る物体は地上に落ちる時そのエネルギーを利用できることは間違いない。その物理現象は十分エネルギーの意味を説明するに役立ち、正しい。それが力学理論の『エネルギー』とは仕事をする能力として定義したことに対応した正にその意味でもある。しかし、重力に基づく位置エネルギーの増加の意味の力の概念は一般的力学理論による解釈に因る理屈で素直に受け入れられない矛盾が残る。(2019/12/31)追記。我々はただ地上に居るだけで重力加速度の支配下にある。加速度運動は勿論のこと、全く運動して居なくても「加速度」運動しているかの力を受けているとなる。一般の力学理論の「加速度」の意味とは全く異なる運動方程式の解釈を強要されているような感覚に陥る。偉大な権威付けされた物理学理論に従うべき科学論社会のパラハラを受けている様だ。運動していないのに何故加速度運動となるのか?地球の回転運動エネルギーの視点で解釈する必要が有るのではなかろうか。そこに位置エネルギーの意味も重なって明らかになって来るのだろう。地球上の座標で運動を論じるに、地球自身の運動エネルギーが関わらない訳が無かろう。

追加されるパラドックス。人が重い荷物をじっと持ち上げて居るとする。荷物を動かさないで、静止状態とする。それは仕事をしていることに成るのか?運動力学の問題になるか。力学が人の日常生活に結びついた、生きた学問となるにはどうしても『エネルギー』に視点を置いて納得できるものでなければならない筈だ。子供を負んぶしているだけで、人はエネルギーを消費し、仕事をしていることに成る。力と移動距離の積が零でもエネルギーのジュール[J]の消費に成る。この場合の力は、速度ゼロであるが、正しく重力に等しい値だ。エレベーターで、モーターに電源を繋いで回転停止の途中階で静止した状態の運転に等しかろう。モーターをロックしていないから重力に平衡した上向きの力で、運転エネルギーは消費している。法則は解釈の手法としては便利である。科学的な一律の解釈法が実際の世界の真理を示しているとは限らないことも有ると言う事を意識の片隅に認識しておくべきであろう。

結論と解答。 以上、小人さんの妄想の論考に応えたい で考えを述べた。しかし何も答えに成っていない。如何にも尤もらしい解釈をしたが、加速度と力の関係で間違いが有った。多分気付かれた方も多いと思う。何が間違っていたかの問題としてそのまま残しておく。図で再び訂正する。それは『加速度とは何か』の問題であった。重力場で、上昇力ベクトル fo  の加速度ベクトル αo [m/s^2] とする。今、質量m[kg]が地表面に対する加速度α [m/s^2] で上昇しているとする。その場の重力加速度 g [m/s^2] が高さに関係なく一定と仮定すれば、上昇力 fo [N] の加速度 αoα と更に重力加速度 g の合成加速度となる。静止した質量mを支えるだけで、重力加速度に対抗した力を掛けることに成る。その時位置エネルギーは増加しないが、力を掛けるだけでエネルギーは消費する可能性がある。mを荷台に乗せたとする、その時は荷台がエネルギーを消費するとは考えない。エレベータのモーターを機械的にロックしておけばエネルギーは消費しない。さて、速度が如何なる値でも、加速度α=0 ならfo=mg[N]で上昇するから、その力 fo と上昇距離との積の分だけ位置エネルギーは増加することに成る。従って、位置エネルギーは E= mgh [J] となる解釈に矛盾はなかった。しかし、α≠0 の時にE=mgh が成り立つかは分からない。そこには、位置エネルギーと言う概念が規準面からの高さh [m] だけで決まり、過程の状況には無関係に決まると言う意味にみえる。一つ簡単な例で確認してみよう。質量 1 [kg] の物体を1秒間だけ加速度α=0.2{m/s^2] で上昇したとする。その時の力の加速度はαo=10[m/s^2] となるから、力はfo=10[N]となる。この1秒間の上昇距離⊿hは0.1[m] だから、力との積は10[N]×0.1[m]=1[J] となる。しかし、位置エネルギーの算定は E=mg⊿h=0.98[J]となる。これは 1≠0.98[J] で等しくないから、力と距離の積に因るエネルギー量[J]の関係は成立しないことが検証される。そこに、位置エネルギーの高さ h[m] とは何か?と言う意味が持ち上がる。暗中模索式導水路。暗中模索さんに水力発電所の導水路の設計をお願いした。誠に穿った設計をなさった。途中の水流速度が複雑に変化する。速度v1の位置は水流が加速度の有る状態で、速度v2の位置では低速度の定常流に成る。ベルヌーイの定理で解釈するが、位置エネルギーはすべて規準面からの高さ h[m] だけで捉える。水の加速度や速度が如何なるかには関わりなく、ただ高さのみで位置エネルギーだけは決まることに成っている。速度エネルギーや圧力エネルギーのような相互間の変換は考慮されていない。位置エネルギーと言う物理概念も、考えればその論理性で単なる科学技術概念でしかないのかも知れないと。規準面を何処の位置とすればよいかは論理的に厳密ではない筈だ。地上5mの高さに10kgの重りのハンマーを設置し、地表から100mの深い穴に楔を打ち込むハンマーに利用する。利用するエネルギーは幾らか?しかしそのハンマーを地表面に戻すにはエネルギーがいる。差引科学技術利用エネルギーはやはり地表面を基準とした解釈に成る。さて、自然現象としての位置エネルギーを物理学理論として定義付けるには、本質的な意味で納得出来るかと言う疑問が残る。地表面に居るだけで、我々は地球の自転・公転の運動エネルギーの支配する自然環境に居ることに違いはない。折角回転運動エネルギーの意味を物理学で学んでいながら、地上高さがその回転運動エネルギーとは関わりのないものだとは解釈出来なかろう。位置エネルギーの『位置』と言う意味は、エネルギー利用技術からの量と看做したい。結論としては、地表面での重力加速度概念の場での位置エネルギーは、上昇力や消費エネルギーがどの様であろうと、過程には関わりなく、ただ高さ h[m] に在る質量 m[kg] の地表面で利用できるエネルギーは E=mgh [J] であると言う科学技術概念でしかないのだ。

 

電子とエネルギーと質量

『エネルギー』を窮めよう。エネルギーと繋がりのない世界は無いから。全宇宙、この世界で『エネルギー』の構成要素となる素粒子は決して存在しないから。

mc^2^から物理学を問う (2019/04/25) で述べたかった質量の意味。独楽の心 (2019/01/05) や熱の物理 (2019/02/07) にも繋がる。

時代はエレクトロニクス全盛期。
電子(Electron)と光子(Photon)が科学理論の根幹を担っている。物質の元素は原子である。原子理論は電子あっての基に成り立つ。そんな時代のど真ん中で、独り妄想にふける。端無くも記事、電流は流れず (2010/12/22) にはじまる多くの顰蹙の種なるお騒がせを招き申し訳なく思いつつも已む無き事情に流されながらここまで遣って参りました。古くを辿って、再び電池の回路(電池のエネルギー)に戻る。電池は何を貯めているのかと不図の病が頭を支配する。電池の重さの意味に耐えきれず、その質量を計らんと無理を承知で心の感性に乗せて観んと思い付く。不図の病、それは電池からエネルギーが負荷ランプに供給され、エネルギーが光と熱に変換されて消費される。電池は少しも熱くはないが、電池の何が負荷で熱に変わるのか。ここの『エネルギー』と言う意味・物理量が現代物理学理論で捉えられ、説明されているのか。それは決して高等数学の式では説明できない自然の易しさの中に隠されている真理と言うもので御座いましょう。電池の中味がどのような化学物質ででき、構成されているかは分からなくても、自然の心を捉えるには特別難しいものではない筈なんだ。『エネルギー』が何たるものであるかを感じ取れれば宜しいのだ。それは電池の中に確実に溜って実在しているものなんだ。重量が計れなくても、化学物質の質量増加分として蓄えられているものなんだ。『質量』とは何かとまた顰蹙(ヒンシュク)の《問答》にもなる話だから、誠に御迷惑かも知れない。化学物質を顕微鏡で覗いても見えるものでも、質量増分を計れるものでもないから科学論証も出来ない話であるので、ご迷惑か混乱の基となるかも知れないが。筆者は原子質量が『エネルギー』の局所集合体としての、電子も陽子も無視した「Axial energy flow」結合構造と看做す物としての科学常識離れの認識に在る。マグネット近傍空間のEnergy flow は全く熱に関わりのない『エネルギー』であることも心に乗せて。それが電池の『エネルギー』と『質量』の等価性の原理の基である。E=mc^2^[J] の物理的意味である。ここから電池が電子を導線の中に流し出して、回路を還流したら、どのように電池に蓄えた『エネルギー』を負荷ランプに供給することになるかの《問答》が始るのだ。特別数式など無くても日常用語で説明できる筈だ。それが『電子』の意味を問うことになろう。

電子の実相を尋ねて。
最近の電子論、エネルギーから電子殻を問う (2018/05/21) や電池における電子の役割を問う (2018/05/24) で論じてきた。電気回路の問題では、必ず電流が含まれる。その電流概念で、正の電荷が流れるとは言えない為、電子が電流の流れと逆向きに流れていると解説される。この解説が検索情報の標準的なものとなっている。誰もその解説に疑念を表明することも無い。だからそれは世間の科学常識として子供達に教えられることになる。多分学習塾でも同じ説明がなされているのだろう。ここで再び、電流は電子の逆流か?と言う事を考えて置きたい。考えるにはその電子の逆流と言う回路状況を具体的に図に表現して見るのが良い。まず電子が電線路にどのように分布している状況かを示さなければならない。大事なことは、解説する人が先ず自分がどのように考えているかを空間的に図に表現することが必要だ。筆者もその意味で、皆さんが電子の逆流だと解釈する意味を、電気回路の電線に書き表してみた。電子が電流の方向と逆向きと言うことは、電線路全体に均一に分布していることと考えてよかろう。その分布電子が同一の速度で均等分布の流れとなっていると考える。それが図のようになる。この図の表現内容が間違っていると言うなら、それの間違いを指摘して欲しい。どのような電子の密度で分布するか。それは電子の速度が何によって決まるかにも因る訳で、その訳が明確に示されなければ分布も決まらないと思う。 『電子電荷』の速度を決める力学原理は何だっけ?電気回路の現象も特別難しい訳ではない筈なのである。解説する原理や論理性が明確であれば、それは日常用語で十分説明できる筈なのである。クーロンの法則に従うのか従わないのかを解説者自身が立ち位置を明確にして述べれば分かる筈である。上の図を見て、教科書を執筆されている専門の方々が、怪しいと思うか思わないか。そこに抱く意識に問題の解決の糸口が有る筈だ。ネット上の解説が正しいか間違っているかを。まず電子が電線路導体を流れると言うことは、図のように『負』の電荷だけの分布で良いのか?『正』の電荷の分布は無いのか?電池とは電子の回路循環機能だけなのか。電池の『エネルギー』はどのように負荷に供給されるのか?解説の中には、電子が移動すると、逆に電子の抜けた殻の穴が『正』の電荷の意味を担って、電流の方向に流れると考えれば良い。等の解説をする方も居られる。その方も自分の思う電気回路図を描いて、その全体の図で御説明されればよいと思う。兎に角、上の図では電気回路は『負』の電子だけで『正』の電荷の出る幕がないことになる。今までの説明には数式は使わないできた。どこか数式がないと説明にならない処が有っただろうか。科学の心を伝えるには数式など無くても良いのだ。政府の津波対策の防災情報で、海岸線の津波波形の図が余りにも滑稽過ぎて、誰があんな波を津波と考えるかも水の心が理解できていない科学論が招く怪しさなんだ。科学とは自然の心を心で受け止めて、心で伝えることだろう。解説者が自分の心に偽りのない意味を伝えてこそ科学論になる筈だ。偽善科学はやめましょう。

 

電子は流れず

電流は流れず (2010/12/22) と述べてきた。しかし、この記事は説明が冗長過ぎたので、少し表現を変えた方が分かり易いと思う。電流は科学技術理論の要として重要な計測量である。電流計で計れると言うことが如何に優れた科学技術文化であるかを認識することが重要である。ただ、その電流と言う計測量が電気回路の導線内を流れている訳でもないことも確かなことである。さらに、その意味を解説する時、導線内を『電子』が逆向きに流れていることが電流の物理的現象の意味だと説明されるのはもっと科学理論の怪奇さを深めることになる。電気回路の自然現象は『エネルギー』が導線の近傍空間を流れるものである。導線の中など何も流れてはいないのである。電流だけでなく電子も流れてなどいないのである。

中学2年生の理科勉強法として、向きが逆なのは何で!?電流とは何かを・・が検索569万件のトップに在る。何故中学生にこんな意味の分からない内容を教育に取り入れているのか。結局このような内容を覚えさせることが、理科の国家教育統制で、考える力を失わせる原因になっているのだ。若い考え方の柔軟性を失わせているのだ。電池における電子の役割を問う (2018/05/24) で取上げた電子の責務と珍道中の図を載せておくので電子の役割を考えて欲しい。

参考に、電流は流れず (2010/12/22) 。