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焚火の科学

追記(2018/06/02) 燃焼の不思議。焚火の科学などと記事にした。後から考えるとまた分からない事が増えた。焚火は古代からの人の生活文化でもあった。現代では焚火は生活からほとんど消えた。残ったのは炭素と酸素の化学反応方程式だけのようだ。温かみも無く、ただ無味乾燥な記憶の科学理論だけである。薪が何故燃えるのだろうか?炭素と酸素が結合して、炭酸ガスになると何故熱エネルギーが発生するのだろうか。科学理論の本来の有るべき意味は何だったのだろうか。自然現象を前にして、その因って立つ原因や本質を自分の心に納得出来るかを求める作務ではなかろうか。化学方程式で書き表されただけで、何故燃焼が起き、熱エネルギーが発生するかを得心出来るのだろうか。その求めるべき科学理論の有り方を考えて来なかったのではなかろうか。決して『電子』では得心には至らないと思う。

燃焼の不思議 燃料が燃焼して熱エネルギーを発生する。酸素と薪が有っても決して燃焼しない。化学方程式には何の燃焼の条件も示されていない。発生する大事な熱エネルギーさえ無視されている。燃料電池が最先端科学技術として研究開発されている。水素元素の放射スペクトラムは物理学基礎理論として仰々しく論じられてきた。しかし燃料電池の水素の燃焼条件は理論的には何も分からないのではなかろうか。実際は技術として確立しているから、どのような温度とかどのような触媒で有れば効率が良いとかは分かっているだろう。その条件の訳が理論的に分かっているかと言うことが科学理論の求める姿であろう。その水素の変化とか酸素の変化とかが無ければ特別燃焼、酸化反応の環境条件など必要ではない筈だ。元素が化学反応する為に変化する条件が必要な訳であろう。薪が燃焼するに必要なその環境がある。熱エネルギーに因って蒸気ガスにならなければ燃焼には至らないという物理的条件がある。持続して熱エネルギーを採り出すにはどのような条件が必要かを明らかにすることが科学理論として求められている事ではなかろうか。『電子』では説明できない筈である。燃焼の条件を満たした炭素や酸素は、それまでの前の状態と異なっている筈だ。炭素や酸素が燃焼可能条件に達するに必要な熱エネルギーを吸収して、その後に燃焼反応に至る訳だから、その差の熱エネルギーが有効に利用可能な熱エネルギーになる訳である。燃焼の自然現象を理解するという意味には、そこにとても複雑な内容を含んでいるということを理解する必要があろう。少なくとも熱エネルギーを付け加えた方程式で表現する必要があろう。熱エネルギーを『電子』で理論的に説明できれば良いのだが?御免なさい、電荷を捨てて、元素ってどんな構造をしているのかと考えるから益々混乱した事を書いてしまうのだろう。済みません、過去に同じような記事焚火と蝋燭を書いていた。

焚火をすれば、周りの人は暖かくなる。その自然現象を表現してみよう。大雑把に考えてみた。(2018/10/18)追記。この記事を書いた後、最近になって初めて知った。高等学校の化学では、化学反応式にエネルギーが示されていることを。エネルギーと結合にも述べた。従って以下の記事は時代遅れの知識の基での内容であり、大変失礼なことで申し訳ない。少し安心した。

C + O2 = CO2       (1)

焚火の燃料を薪とすれば、その主な燃料成分は炭素 C であろう。炭素の燃焼には酸素が関わる。炭素と酸素の燃焼の化学式は上のように表される。学校で学習するのはこのような式の意味を理解することであろう。

さて、焚火をして寒さを凌いで温まるのを目的とする。その自然現象を式に表すとしたらどうなるか。上の式では温まれない。何が足りないか?体を温める焚火の炎から放射される光や熱線が式には表されていない。

C + O2 = CO2 + [光・熱エネルギー]    (2)

化学方程式には『エネルギー』が書き表されていない。大事な物理的自然現象の意味はその『エネルギー』にある。炭素Cと酸素分子O2が結合して炭酸ガスCO2となる。(1)式と (2)式の違いは[光・熱エネルギー]の有る無しである。化学式の左右が等号で結ばれている意味は左右の表現する科学的内容が等価であることと認識している訳である。

何が等価であるか 炭素も酸素もその元素記号で示す内容が同じものとしたら、即ち質量などが等しいとしたら、[光・熱エネルギー]を付け加える訳にはいかないのである。しかし自然現象に隠されたものは、左右の炭素、酸素が決して同じものと考えてはいけない事である。[光・熱エネルギー]分だけ炭素と酸素が化学結合することに因って、素の炭素と酸素とは異なったものであると考えなければならない。[光・熱エネルギー]で暖を採れるのだから、それは確実に実在している物理量である。この『エネルギー』を書き表さない化学式は間違っている。

鉛蓄電池のエネルギー 鉛蓄電池はとても優れた『エネルギー』源である。その『エネルギー』源としての化学式を書いてみましょう。

Pd + H2SO4 = H2 + PdSO4

H2 + (1/2)O2 = H2O

と化学式では表現される。

さて鉛蓄電池の『エネルギー』はどこに行ったのか?利用するべき『エネルギー』が何処にも無いのである。焚火の場合は、温まるという実感が分かり易い現実としてあるから、[光・熱エネルギー]を付け加えることが必要とは理解出来よう。しかし、鉛蓄電池になるとちょっと説得するのが困難なほど、科学理論では『エネルギー』の意味が良く理解されていないようである。上の硫酸と鉛の化学反応式には必ず『エネルギー』が付け加えられなければ、科学理論式とは言えない筈だ。

むすび 電池の化学式には『エネルギー』が書き加えられない限り、理論式として不完全である。その『エネルギー』の意味を焚火に託して一言述べた。電子で『エネルギー』を供給すると言うなら、電池からどのように電子がその役割を果たすかの論理的な解説ができなければならない筈だ。論理性が大切な科学論で、ただ電子が負荷を通るだけじゃ、理屈の分かる科学者の論としては「ただ子供の使いじゃあるまいし、もっと理論的に説明すべきだ」と非難されても止むを得なかろう。ただ電子に曖昧さをの責任を負わせて逃げている事では教育に成っていなかろう(2019/06/17追記)。

電池における電子の役割を問う

はじめに 半導体のpn junction (pn接合部)のエネルギーギャップの意味を考えてみた。電池の意味との関連を考えた。電池の原理を問う (2014/11/27) があった。

電池電圧とエネルギー 電池はエネルギーの貯蔵庫であり、エネルギーの供給源である。人の思考における常識が如何に自己に立ちふさがる障壁となるか。すべてが『エレクトロニクス』の支配する世界に居る。その語源でもある『エレクトロン(電子)』の存在の意義を問うことになる。人は高いことを低いより有利と考えがちであろう。電圧が高ければ高い程、それは影響力が強いと考えるだろう。電圧が高いという表現は良くないのであるが、技術用語としては電位が高いとなろう。科学技術用語の持つ常識に『電圧』が有り、プラス極とマイナス極でその電圧の高い方と低い方を区別している。電池はエネルギーの供給源であることは誰もが知っていよう。しかし、誰もがその『エネルギー』とは何かを知っているかと問えば、さて答えられるであろうか。答えられなくても、決して気にしなくてもよい。『電子』に因って解説している人は殆ど『エネルギー』の意味を考えていない人が殆どであるから。ましてや化学方程式に因って解説する場合は、殆どその方程式の変換過程の中でその空間に実在する『エネルギー』を意識することは無い筈である。乾電池も蓄電池も+端子から電流が流れて、負荷にエネルギーを供給すると考える。しかし電流と言うものが電池のエネルギーを負荷に運ぶことなど出来っこない。電気理論では、電池のマイナス端子から電子が導線の中を流れて、負荷を通り電池の+端子に戻ると解釈している。電子の逆流が電流であると電気理論の常識が世界の共通認識になっている。それではその電子が電池からエネルギーを負荷に運ぶか?と解説者に問えば、答えないであろう。『電子』あるいは『電荷』に『エネルギー』をどのような意味で結び付けて解釈しているかが明確ではなかろう。2年程前に電圧ーその意味と正体ー (2016/05/15) に纏めてあった。

電池のエネルギー供給端子は-極である 直流の電気回路はプラスとマイナスの2本の導線でエネルギー供給回路が構成される。電池からのエネルギーは-極から送り出される。プラス側の導線は殆どマイナス側のエネルギー供給を支える脇役と考えて良い。負荷にエネルギー供給時、プラス側導線を通して電池へエネルギーは戻らない。電池のプラス端子はエネルギー供給に直接関わらない。電池の負側端子からエネルギーは放出され、負側導線近傍空間を通して主に負荷までエネルギーが伝送される。勿論導線の金属内などエネルギーは通らない。電池は-極がエネルギー放出源である。そのエネルギー(電気や熱あるいは光)を陰極線や電子と考えてきたのである。

エネルギーを運べない電子(科学的願望との乖離) 原子核の周りを回転する電子で世界の構成源を捉える原子像が世界標準である。電子が回転すると解釈する科学的根拠はどこにあるのだろうか。『電荷』否定が結局とんでもない現実にぶつかってしまった。科学理論の根源さえ信用出来ない自己を観る。そんな意味を卑近な日常生活の電池の意味に探し求めて見ようと考えた。簡便な科学的解釈を示すに『電子概念』がとても便利であろう。電池のマイナス極から電子が外部回路を通りプラス極に戻ればすべてが説明出来たことに成る。その不思議な論理が科学論理の正当性を世界標準として認められるのだから。 『エネルギー』を置き忘れていませんか? 電池はエネルギーの供給源です。電子論であれば、電子がそのエネルギーをどのように負荷に届けるかの問に答えてこそ科学論と言えるのではないか。そこに電子の実像が問われることに成るのです。電子の特性:質量me=9.1083 ×10^-28^ [g]、 電荷e=1.60206 ×10^-19^ [C] と質量と電荷の混合素粒子。この桁数の算定基準の厳密らしさと混合空間像の認識不可能の不思議に包まれている電子。電子が背負い籠に『エネルギー』を入れて負荷まで届けるのですか。帰りは『エネルギー』分だけ身軽に成ってプラス極に帰るのですか。 『エネルギー保存則』とはどんな意味なんですか。 『エネルギー』が観えますか?そこで、エネルギーに対して電子に求めると無理に仮定した時の科学的願望を絵図にしたみた。

電子の責務と珍道中 電池はエネルギーの貯蔵庫である。そのエネルギーを負荷で利用する訳だ。どのようにそのエネルギーを電池から負荷に届けるかを科学論として完成しなければならない。高度の量子力学は電子に重い責務を課しているように思える。太陽光発電で電子にどんな物理的機能を果たして欲しいと望んでいるのだろうか。電子がエネルギーを担うべき責務を無造作に要求しているようである。電子の身に成ってその心情を汲んで少し考えてみた。電池も太陽発電パネルも電源としては同じものである。ただ太陽発電パネルは負荷の前にエネルギー貯蔵庫に繋がっている。負荷の影響は直接受けない。さて電池のエネルギー貯蔵庫からどのように負荷に必要なエネルギーを供給するかを考えるべきだろう。検索で電池の原理を尋ねると電池のマイナス極から化学方程式の反応によって、電子が外部導線を通って陽極に廻り込み、その電池内で電荷を遣り取りして解説が終わっている。電子は何の為に負荷を通ったのか。 『子供の使いじゃあるまいし、ただ通り過ぎるだけじゃ理屈も通らぬ!!』 何故電子が通り過ぎるだけで電池からエネルギーが負荷に届けられると考えるのだろうか?電子は何故マイナス端子から導線を通ってプラス端子に行くことが出来るのだろうか?電子の移動はどんな理論で可能だったか?電界と電荷の関係は無視されても理屈が通るのか。上の図は電子に御足労願う訳だから、その科学認識に寄り添って何とか電子の責務とエネルギー運搬の道筋を考えて描いた図である。電子の(行き道)は、重い責務に喘ぎながら。負荷にエネルギーを届けた(帰り道)は、身軽に成って鼻唄まじり。そんな電子に期待された仕事の責務が想像できる。電子も行きと帰りで異なる姿に。しかし、量子力学には背負い籠でエネルギーを運ぶ意味はない。むしろ質量に頼った運動エネルギーの増加で電子がエネルギーを身に纏う意味に似ている。その場合は電子の帰り道は速度の遅い電子の姿を描くことに成るのか。当然理屈の通らぬ無理な道理ではあるが。もう一つ、化学方程式で『電荷』の辻褄を合せようとしても『負荷御殿の主から必要なエネルギー量が発注される』のである。エネルギーの発注に合わせたエネルギーの発送をしなければ電源・送配電線路・負荷間の辻褄が合わなくなる。勝手に化学方程式に従って、電子を送り出す訳にはいかないのである。負荷の要求をどのように電池側で処理するかが極めて重要な瞬時電力の話に成るのだ。電子に自動的にそんな責務まで負わせては酷と言うものだろう。

電子にエネルギー伝送責務は無理な注文である 電子は不要である。電池からのエネルギー(熱エネルギー即ち電気エネルギー)そのものが負荷の要求に応じて電線路空間内を伝送されるのである。電子不要の科学論。

エネルギーから電子殻を問う

はじめに 電子殻(ダッシュボードに掲示された)という用語を初めて知った。その電子殻についてどう考えるかと問われているのかと思った。『電荷』概念の意味が分からず、30年以上にも亘って教科書の科学理論に疑問を感じてきた。むかし(1982)『静電界は磁界を伴う』という電気磁気学理論の科学常識に反する内容を電気学会全国大会で発表した。今となれば、それが技術屋の感覚的挑戦であったが,間違いなく的を獲ていたと驚くばかりだ。静電界という電場がむしろ磁場とも看做すべきエネルギーの流れであったという発見だから。たった一つのその実験結果の意味が如何なるものであるかを科学理論の根幹に照らし合わせながら考察を積み重ねてきた。物理学の根本である電子殻に因る原子像さえ否定しなければならない羽目に陥ってしまった。もう一度、先人が創り上げた科学理論ではあるが、その根幹を成す電子の概念および機能をエネルギーとの関係で、考えを整理して置かなければならないと思った。結果的に図らずも伝統的科学理論を否定するような仕儀になってしまった事誠に申し訳のないと思ってもいる。『電荷』の自然世界での実在を否定するという事がどれ程大きな社会的混乱を教育に与えるかは想像に難くないから。手元にあった 科学革命の構造 トーマス・クーン 中山 茂訳 みすず書房 (1987 第19刷) を開いて読めば、余りにも溝が深すぎると・・。電子とは『エネルギー』の一つの姿でないかと思いながら。

原子構造 原子の周りを電子が何故回転していると分かるのだろうか。最近も新しい113番目の原子の発見が話題になっていた。それ程厳密な科学研究の証拠が示されている中で、電子が原子核の周りをまわっている意味が理解できないと言ってみても意に介されないとは思うが、エネルギー感覚から述べておかなければならないと思う。

電子の責務 電子に対してどのような科学的責務が課せられているか。電子が獲得したものでなく、人間が付与した役割である。自然界が『電荷』と質量を持った電子に取り囲まれた原子核の原子構造体から成り立っていると理解されていると思う。その原子にもいろいろの特性がある。シリコン、酸素、窒素、炭素あるいはネオン等とそれぞれ際立った特徴を持っている。それらがすべて電子殻の電子によって構成されている。みんな同じ電子殻構造の話で統一されるものと思う。筆者の拙い高校生程度の知識に因る電子像を先ずまとめてみたい。

電子統一情報 ウイキペディアから拾った。とても理解できない専門的な電子像の規定であると思う。空間に占める大きさまで分かっているようだ。この9ケタ、10ケタの数値が堂々とまかり通る電子像に近寄りがたい科学理論の畏れ多さを感じる。

電子に付与された任務・責務(期待される電子像) 昔教育の審議会で期待される人間像という考え方が論議されたことがあった。電子像を的確に捉えようとしても期待される任務・責務が超人的な機能でなければならないかの如くに思われ、科学理論の世界が巨大な構造体で入り口から怖気づいてしまう。電子も観方によって哀れとさえも思える。過重労働の期待で瀕死の状態にならなければ良いがと陰ながら心配である。筆者のお粗末な電子像の認識をまとめてみた。

さて、上に挙げた電子像が普段頭に描く姿に思える。原子同士が隣り合わせれば、先ず原子の外周を取り囲んでいる電子同士が相手との情報交換の遣り取りを任され、相手原子を認識する責務が課されている。手を繋いで良いと判断するのも電子で、原子同士を繋ぐ役目も電子の仕事だ。化学結合とか共有結合とかイオン結合とか、とても判別し難いような複雑さの判断も電子自身に任されている。「オラ―そんなのやだ―」などと言って、「東京さ逃げる―」てな訳にはいかないのだ。それが電子の科学的宿命だ。何しろ過大な期待が掛けられているのだから。期待を掛けるお偉方はどこに居るのか姿も見えないが。兎に角電子は大変な重責に怯え続けているようで、何とか少しでも開放してやれないものかと思う。

4番目の任務 原子エネルギーの収支取締役という、日々雑兵の激務に追われる中で、特段のお役目を頂戴してしまった。原子に降り注ぐ『光』がある時、先ず外堀の電子にすべての的確な対応が義務付けられている。電子はどのようにその光との関係を処理すれば良いか、与えられた責務を忠実に執り行おうと考えた。決して外堀から母屋の御主人・核主(お昼寝中かもしれない)様に影響が及ばないように処理しなければならないのだ。最初に挙げた1番目の任務との関係では、足を踏み入れてはいけない禁制帯とかがあり、そこは飛び越えなければならない事になっている。現代物理学の大きな学問領域を成す量子力学では、光と電子の責務との関係がとても詳細に分かっていて、その関係が自然科学を理解する根本原理になっているようだ。しかし、その材料などの量的評価に因って科学技術が進歩したかといえば、それは理論と実際は余り関係ないようだ。光エネルギーをどのように電子が苦労をして責任を果たそうとしているかを拙い科学認識で掘り起こして考察してみたい。すべての電子はどれも同じ電子統一情報に因って細密に規定されているようだ。光エネルギーを処理するに当って、もしうまく禁制帯を飛び越えて伝導帯の位に跳躍出来たとする。その時光エネルギーをどのように、統一電子情報との関係を厳守したままで、処理出来るのかに悩んでしまった。エネルギーというものは電子の情報という質量、電荷および空間寸法には全く影響を与えないで済むものなのか。高等数学式で考える能力が無いので、日常言葉でしか解釈できずにいる。さて、もしもの仮定での話ではあるが、電子が雲のような掴みどころのない波動(その実体が何を指すかを理解できないのだが)であるとしたら、それも質量と電荷を波動の中に備えているのだろうか。その波動もやはり原子核の周りを周回運動していると考えるべきなのだろうか。そこでその波動が光を外部から受けたときは光エネルギーをどのように電子波動の中に取り込むことになるのだろうか。兎に角、陰に隠れた主の核主様に影響が及ばないようにしなければならないとなれば、電子雲の全てが総がかりで対応しなければならないように思える。連射砲のように降り注ぐ光を禁制帯を飛び越えながら処理する技は如何なる理論で可能なのかが理解し難いのだが、その理論まで電子に負わせるのは期待する電子像の範囲を超えてしまうだろうと気掛かりだ。

電子とエネルギー 電子がエネルギーを保有するという意味はどのような物理的現象で捉えるのか。電子にはいろいろな状況があるように思われる。自由電子と電子殻内の電子とでは必ず違う筈と思うが、その訳・状況がハッキリと認識されているのか、説明できるのかそこが良く理解できない。電子には速度の違う状態があると理論では唱えられているように思える。教科書によれば、導線内を流れる電子を自由電子と唱えているように思う。その自由電子でもそれぞれにはエネルギーに違いがあるのか、無いのか。その伝導帯の自由電子には速度の違いがあるのだろうか。酸素の電子が電子殻から解放されて自由電子に成る議論は無いから、原子核の束縛から解放されて自由電子に成る場合は、金属導体や半導体原子だけに当てはまる電子とエネルギーの関係なのだろう。電気回路の導線には電子が充満して流れるように解説されている。超伝導等のように、極低温のエネルギー環境の低い場合は、電子殻の電子は特別の能力を賦与されて、自由に原子核の束縛から解放される自由電子となる資格(特殊任務)がある電子なのだろうか。その自由電子のエネルギー状態はどのようなエネルギーレベルと捉えるのだろうか。原子の環境がエネルギーが高い場合が自由電子の生まれる条件かと思えば、極低温での超伝導の自由電子とはエネルギーが多いのかあるいは『無』なのか良く意味が理解できない。

原子の司令官は誰か 周期律表という科学分析の宝がある。原子の個性と特徴で分類されている。原子の特性を発揮する司令官は誰か。原子の本基は原子核が握っている筈だ。司令官という機能の物理学的基幹は如何に在るか。外堀を守る電子じゃ役不足であろう。

原子構造体と役割分担? 原子構造が原子核と電子殻から構成されているとの解釈に因る意味とその電子機能について考えてきた。殆どの教科書の解説は原子外殻の電子が担っているように説明されている。原子の質量は殆ど中心の核が占めている。一体核は原子の特性に因る外部事象との関係機能としてどんな役割を担っていると考えれば良いのか。核は分裂の時だけ意味を持つような、日頃は原子の中心に隠れた存在であるように見受けられる。電子殻の電子だけが仕事をするような原子で周期律表の顔が立つのだろうか。

電子殻電子が原子の特性を表せるか 元素にはそれぞれ異なる特性がある。その中で幾つかの原子を取上げて、原子の特性がその電子殻の電子でどのように解釈すればその電子殻を論理的に適正に評価出来るのかに思いを寄せてみた。

炭素C この原子の結合の代表例がダイヤモンドの宝石であろう。ダイヤモンドの結合空間構造は炭素原子の表面を4等分した立体角π毎に結合面を持つものであろう。決して平面結合ではない。もし電子殻で4価の電子で炭素原子を解釈するなら、その電子にはエネルギー差はなく、同一の電子殻内に存在する筈だ。そこで、その電子が隣の炭素と結合する時、電子は原子表面を周回運動していると考えるのだろうか。結合する時には運動は停止するのだろうか。電気磁気学理論によれば、クーロンの法則で同一電荷は反発することに成っている。今でも電気の教科書がクーロンの法則を基本理論に据えているなら、どのような論理性で負の電子同士が結合の責務を担い得ると解釈できるのか。しかもダイヤモンドという特別に結合の強い状態を電子が担うという科学論理は余りにも矛盾と欺瞞で構築されているとしか思えない。共有結合とは一体どんな電子の魔術結合力を利用しているのか。電子が周回運動しながらとなれば、とても電子に因る結合論に論理性があるとは見えない。科学は平易な基本に分かり易い忠実な解釈がなされなければならない筈だ。

炭素C (2) 炭素といえば、電気回路では抵抗体のカーボン被膜抵抗などがある。さて、炭素の特性で電気エネルギーの熱変換機能が日常の電気技術の基本に成っている。こんな考察は誰もしないだろう。何も得るものがなく、反発を買うだけであるから。しかし電気技術に携わった事がある者として、少し専門家としての解釈を示しておこうと思う。ここでの話は矛盾の中の教科書の解釈理論からの内容であり、『電流は流れず』という筆者の論理の視点とは異なる。事実は、電線路導体内を電子が流れている訳ではない。しかし教科書に依れば、電子が流れていることに成っているので、その電子が抵抗負荷内を通過する時どのような電子の機能で炭素原子の外殻周回電子にエネルギー的働きをすることが出来るのかという疑問を提起しようということである。炭素抵抗は負荷としては熱を発散している。触れてみれば熱いから分かる。その電気エネルギーを熱に変換する機能は炭素原子の電子殻電子のどのような与えられた責務として働いた結果の現象なのだろうか。こんな基本の基の字のような初歩的な愚問が現代科学理論に欠かせない入門の課題なのである。高度科学理論が取上げられても、足元の理論の根拠が矛盾なく説かれなければ、砂上の楼閣にも見えてしまう。

酸素原子O 酸素は生命の維持に欠かせない。呼吸の問題。 等とまた愚問を取上げれば科学には相応しくないと常識の世界では非難される。常識という科学理論がおかしいとの思いに掛けての科学論であれば止むを得なかろう。酸素が燃焼を司る元素であることは間違いない真理である。酸素を燃焼機能原子として知ることは自然科学の基礎知識として重要であろう。そのことと酸素原子の電子殻電子の科学論理との関係はまた別の基礎科学論である。自然の真理を説き明かすに欠かせない科学的思索・考察でもあろう。原子構造論の基本が電子殻の電子概念に委ねられていることだあれば、その論理性を質しておかなければならなかろう。酸素原子の外殻電子殻の電子数は6個であろう。その電子が何故燃焼の機能を発揮すると考えるのか。電荷と質量を持った電子が周回運動をしていると考えているようだ。燃焼に電子の何が機能するのだろうか。電荷か質量か運動か?電荷も質量も速度にも燃焼エネルギーを発生する機能が観えない。酸素原子の特性は熱エネルギーを放射する自然現象を司る機能である。無から熱エネルギーは生じない。何かを熱エネルギーに変換するのである。それが何であるかは分からない。原子構造そのものの解釈の問題に通じている課題であるから。

ネオン原子Ne 不活性ガスとして捉えられているようだ。外殻電子殻が8個の電子で充満され、化学反応機能が無く安定した元素と看做されているようだ。気体分子結合(Ne2)もしないとの解説がある。同時にネオンサインとして、夜の街の広告照明灯に活躍している。酸素と違って、熱でなく発光現象である。このネオン原子も8個の電子が同等のエネルギーを持って、電子殻内を周回運動していると解釈しているのだろう。どんな軌道で平衡を保ちながら運動できるのか空間的描像を描き難く、理解の域を超えてるが答える能力も無いので我慢も止むをえない。さてネオンサインの発光現象では不活性原子の電子が電気エネルギー(高電圧のエネルギー供給空間)に反応して、どのような光エネルギー放射変換機能を発揮すると解釈するのだろうか。本当のところは電子が存在して関わる現象ではないのであるが、電子殻で理論が構築される限りは、その発光現象の訳が示されなければならないと思う。ネオンサインに量子力学は場違いな話で笑われそうだが、ネオン原子の電子が高電界中を飛んでくる電気の電子と衝突し、禁制帯を飛び越えて高エネルギー電子に成り、再び原子に戻るから発光機能を発揮できのだろうか。電子殻電子の原子構造論から判断すれば、そんな特殊任務付与解釈にしか辿りつけない。内心は無理なこじ付けと思いながら。

リチュウム原子Li とても興味を覚える記事「リチュウムは躁病と欝病を治すだけでなく、それにかかりやすい人を病気から守る働きもする。さらに、リチュウムはほかのさまざまな精神病や情緒不安定、とくに鬱病に効果のあることが知られてきている。」(発見と創造 科学のすすめ W.I.B.ビヴァリッジ著/松永俊男・鞠子英雄 共訳 培風館 p.60.  昭和58年初版)を見た。最近は携帯電話の電池にも使われ、核反応の三重水素とも関係が深いとある。3価で、反応性の高い原子のようだ。電子殻の電子の機能と考えるには理解に戸惑ってしまう。原子とは不思議だ。

むすび どんなに原子とその特性を電子殻構造論から理解しようと思っても、納得できない現実に突き当たる。『電荷』あるいは電子概念に基づく電磁気現象解釈は一見理に適っているように思えても、細かく考えてみると全体としての統合性で辻褄の合わない点や矛盾が見つかる。結局『電荷』に基づく基礎的論拠は物理学理論にそぐわないとしか思えない。『エネルギー』の千変万化する自然の現象に思いを寄せれば、『電子』もその一つの姿に思える。

半導体とバンド理論を尋ねて

追記(2018/05/16) 反省を込めて追記。既に前に同じような記事を投稿していた。半導体とバンド理論の解剖 (2014/01/25) である。さらに太陽電池の解剖 (2014/02/06)にも有る。辿れば、その前年のトランジスタの熱勘定 (2013/01/30)から始まっていたようだ。そこで、電気エネルギーと熱エネルギーが同じものであると考えていたようだ。現在は、『電荷』概念では自然現象の本質を理解することは無理であるとの認識にある。このトランジスタの熱勘定で論じた意味が極めて大切なことを示唆していたと思う。荒っぽくて、反感を買うようの記事が多くて誠にお恥ずかしい。2013年には「量子力学」とは何か?電子科学論の無責任など。

半導体の電子とは? 電力技術における電子の意味を尋ねて30年以上過ぎた。結論は『電荷』も自然界には実在しないと確信するに至った。それならば当然電子も『電荷』などとは関係ないことになる。電気回路の金属導体中を電子が通り、電流になると解釈されている。ただし、筆者は電流は流れず等と言ってきた。だから以下の記事も科学論として認知されるようなものではないかも知れないが、市民や電気の初学者が疑問に思うことに対する『問答』としての価値は十分にあるものと思う。言わば統合的な理屈の自然科学論として見て欲しい。専門的な領域を超えた論理として。さて、現代物理学理論の根幹を成すものに量子力学がある。その代表的な適用が半導体である。半導体の電子のエネルギーレベルとその動作領域の抽象的認識概念が理論構築の原点になっているように思う。フェルミ準位がその要のエネルギー基準値として存在することになっているように思える。そのフェルミ準位は半導体の物性特性に因って、そのエネルギーレベル(電子のエネルギー量)が何ジュール[J]、あるいは何[eV]と決まった値があるのだろうか。

エネルギーバンドとフェルミ準位 電気工学、電気物理と同じ電気エネルギーを取り扱うのに、その専門分野ごとに理論的解釈法や概念がまったく異なる。ただ、原子構造については原子核とその周りを回る電子から構成されているという解釈は自然科学論の基本原則として世界の共通認識になっている。原子構造が科学論の原点にある。『電荷』否定はその科学論から除外されてしまう。永年電力技術で感覚的に身に付けたエネルギーの実在性が染み付いた論理構成の習慣が『電荷』概念の曖昧性に拒否感を抱くようになってしまった。電気物理での半導体の電気現象解釈理論はバンド理論で、正しく原子構造論の電子のエネルギー論を論じているように思う。それは『電荷』概念に基づいて理論構築されている。半導体結晶は基本的にダイヤモンド結合の構造と解釈されている。電子による共有結合が基本になっているように思う。原子核の周りをどのような速度で電子が周回運動をしているかは分からないが、それぞれの電子が回転し互いの隣り合う原子同士の間では、核の周りは複雑な電子回転に伴う『負電荷』の空間場になっているように思われる。単純な電気理論から考えると、負の『電荷』の空間場で、隣り合う原子同士の間でダイヤモンド結晶になる訳が理解できないのだ。電子が回転しながら隣の原子同士が結合する姿が現実世界の空間概念で描けないから理解できない始末にいる。そんな理解能力の無い者が現代物理学理論のバンド理論の意味を考えるなど誠に恥ずかしい極みではある。しかし、初めてバンド理論を学ぶ若い方々も同じような疑問を抱くのではないかと思うので、少し考えを述べてみたい。電気材料を導体、半導体および絶縁体と三つに分けてバンド理論の基礎が説かれる。全てに価電子帯と伝導帯がある。半導体と絶縁体にはその帯の間に禁制帯と言うバンドギャップが存在する。それらのバンドの『帯』と言う幅で表現される意味は電子の持つエネルギーの量の大きさに関係したように見受けられる。電子が回転運動していることに因る運動エネルギーの量の大きさを意味しているのかと思う。電子には質量があるから、その御蔭で運動エネルギーの解釈だ可能である。水素原子は原子構造が単純だから、電子のエネルギー量は基礎物理学では良く算定されて議論されているが、シリコン原子の電子になれば、その運動エネルギーは算定は可能なのだろうか。どの程度の回転速度になるのだろうか。その算定が出来て初めて、新しい半導体の技術開発にバンド理論の意義が生きて来る訳と考える。決して理論が理論の為の理論であってはならない筈だ。『電荷』の実在性はその理論構成に具体的に生かされてこそと思う。リン(P)やヒ素(As)の不純物が添加されると実際の電子のエネルギー量はどの程度のジュール[J]になるのだろうか。

太陽光発電理論と電子 量子力学の理論として大まかに理解している事は、原子や分子にエネルギーを与えると、原子の外殻周回電子がそのエネルギーを受け取って、電子の質量の運動エネルギーの増加を来たし、遠心力と釣り合う様な電子軌道の膨らみを来たすと理解している。光などのエネルギーが電子の運動エネルギーとして吸収される訳をどのように理解すれば良いかも分からないので困惑している。更に何らかの原因で逆に電子の軌道が下のレベルに落ちると光としてエネルギー放射を来たすらしい。勝手な解釈と言われれば、致し方ないが電子の運動エネルギーと光との変換過程が理解できない。量子力学の基本理論を理解している訳ではないが、太陽光発電での半導体は太陽の光を吸収して、電気エネルギーに変換する発電機能設備である。発電パネル内で、電子が光エネルギーを吸収してエネルギーの高い状態で伝導帯に入る。その伝導帯では電子が自由電子となり、原子の束縛から解放されると解釈して良いのだろうと思う。伝導帯の電子はどの程度のエネルギー増加になっているのかを知りたい。発電パネルから次は電気回路を通して負荷に電子はエネルギーを運ぶのかと理論のつながりを考えるのだが、電気回路内の電子による電流概念となると、どうも電子はエネルギーを担う役割は想定されないことになっているようだ。一体半導体内で光エネルギーを受け取ったかと理解するが、回路理論になるとそのエネルギーを担う電子と言う概念は無いようであるため、どこか論理的な繋がりが無いようで理解に苦しんでしまう。もう一度述べる。量子力学における半導体のバンド理論では原子の周回電子のエネルギーの増減を論理構成の基本に据えている。伝導帯の電子は増分エネルギーを電子質量の運動エネルギーとして余分に担ってエネルギー供給機能を果たす役割が期待されているようだ。そこでの電子は速度の増加としての特別の電子になるのであろうか。次に半導体理論によって理論付された電子に関係して、その太陽発電パネルをエネルギー源として捉える電気回路理論では、折角のバンド理論で担ったエネルギーの増加分を電流の根拠である電子には求めていないのである。当然のことであるが、電気回路論では電子に質量に関わる概念は意味を持たないから、電子における『電荷』と電界との間の電気磁気学理論に基づく論理しか考察対象には成らない。だから原子構造論における電子エネルギーに関する運動エネルギーは全く無意味に成る。総合的に全体を見渡した時、半導体パネルで受け取った太陽光エネルギーは電気回路のエネルギー伝送にどのような機能で関わり、負荷に太陽光エネルギーを供給することになると考えるのだろうか。『エネルギー』を基本に考えると、太陽光線も電気回路を伝送する電気エネルギーも負荷に供給されるものも、みんな同じ『エネルギー』でしかないのである。電子の『電荷』は理論的に『エネルギー』を持ち得ないのである。

過去の関連・関係記事 今迄に取上げた考察記事は半導体、電荷およびエネルギー論については次のようなものがある。

「金原の物理」を繙いてみて

手元に大好きな本が残っている。筆者が高校生の頃、物理の受験参考書として一世を風靡した本である。今でもその内容は、重厚で考える理想的なものに思える。
物理の研究 (上巻) 262頁 旺文社 昭和31年3月1日 重版 定価200円。『金原(キンバラ)の物理』と言って大学受験の有名な参考書であった。時代の雰囲気がある。

今、電気工学の回路理論を電気物理と言う視点から考えた見たとき、物理学理論の教育的に取り扱う教科書の内容が何か不都合な状況にあると思えてならない。現代物理学理論が本当に自然界を理解するに有用な未来への指針を示していると言えるかに大きな疑問を抱かざるを得ない。『非力学的エネルギー』と言う視点で『エネルギー』の意味を考えている。どこか物理学では『エネルギー』の意味が間違って捉えられて、そして教育されているとしか考えられない。

金原の物理の緒言  はじめに緒言として述べられていることが、今読んでも古典的名著としてのその風格の高さに敬服させられる。相当長い文章(42字× 60行)であり、その内容には深い哲学的な意味合いが込められていると思う。そこには

『われわれには自然界に向かってかくあるべきだと命令する権利は少しもないのである。このようにして得られた法則を基礎としてこれを一つの体系に組み立て、学問としたものが自然科学である。』とある。その最後の文章に

『こうして根本を掴み理法を整え、整然とした完全無欠な体系を作り上げることが物理学の目的であって、この体系が出来上がれば今度はこれを基にして新しい現象を説明することも出来るし、応用して種々の発明をすることも出来るのである。 しかしこれはどこまでも目的であって、現在の物理が、この域に到達しているわけではない。今までの物理学者達が練りに練って作り上げた体系もまだまだ不完全なものであって、この体系では到底説明の出来ないような新事実が次から次へと発見されている。矛盾するような新事実が発見されたときにはその都度体系に修繕を加えて、これをも包含するように作り変えてきた。しかし変えても変えても、矛盾の種が尽きることがない。恐らくは、体系の作り変えというこの努力は永久に絶えることはないであろう。これが生きた物理学の姿であり、そしてその物理学を生かして行くのがわれわれに課せられた任務である。』と締めくくられている。

この緒言には、自然に対してとても敬虔な姿勢で向き合っている気持ちが表れている。それに対して現在の物理学教育の姿勢が、何か全てが分かってしまって現在の理論をそのまま学習すれば良いと言わんばかりの硬直性に縛られているようで、危険にさえ思える。

研究的態度の養成 寺田寅彦』 が検索に出る。そこにも上の『金原の物理』の緒言の心掛けに似た思いが綴られている。

世界は不思議

地球と言う生命の星。科学的思考で理解しようと考えても無理な事がある。人間と結ぶ絆の世界がある。これは『詩心 乗せて観世の・・』第百五号 嬉しい「スズメの恩返し」2001年8月の記事が基になっている。おそらく多くの人はこの記事の話を信じられないだろう。ある本をある理由で、嬉しくて読んでいると、上の記事のスズメとの不思議な思い出が突然頭に浮かんできた。何故そんな過去の話が思い出されたかも、その連想の訳も分からない。この連想という事実も不思議であるが、それ以上に雀との稲穂の事件が不思議でならない。味の落ちて食べられない古米が2キロほどあった。それを毎日庭に撒いて、雀に与えた。近所迷惑な、悪い事をしたと今は恥入っている。3月頃から7月まで長い間の餌やりであった。雀は、何家族も集団で仲良くえさを食べる。一番いの親が年に2回以上子育てをするようだ。時たま、ヒヨドリも来て雀との間の事件もある。雀が人になついて人の手から餌を取るという事がある事も、テレビで知ったが、自分にはそれは出来なかった。7月になると、雀はピタッとある日から来なくなる。それからしばらくした秋の晴れた日、開け放してあった小屋の床に籾殻が落ちていた。ただそれだけの話でしかない。しかし、もみ殻を誰も持ち込まない。そこに持ち込まれた籾殻を風が運んだとも考えられない。謎は謎のままである。『雀の恩返し』と捉えたら、自然世界の科学的認識には組み入れられない話になる。以上夢のお話でした。

津波と圧力水頭

はじめに 自然現象を理解するに、『エネルギー』の意味を理解する事がとても大切だと思う。理科教育で、物理学で日常生活に関わる大切なエネルギーが津波と言う生命の危険を察知すべき自然現象の根底にある事を教えて欲しい、学んで欲しいと思う。エネルギー論の一つとして取り上げたい。『エネルギー』の意味を『物が仕事をする能力』と言う解釈で良いのか。

津波 日本語の津波がそのまま tsunami と世界で言われる程日本列島にはその災害が多く発生する。複雑な地殻・プレートの重なり合いの上にある列島である事が地震と巨大津波に遭遇する理由と成っている。その津波について、特に巨大津波の発生現象やその仕組みについて明確に認識されているであろうか。地震によってプレートの重なる海底領域で特別な現象が発生する事が原因であることに間違いはなかろう。その海底の状況がどのように成ると巨大津波の発生源となるかを認識することが必要である。津波と言うと、その姿は陸の生活圏に突入して来る水の階段衝撃波として見て、その恐ろしさを理解している。災害をもたらす津波像はその通りであるが、その姿は津波の本質を示してはいない。津波の到来高さをもたらす原因は水力学の物理学の理論に因る筈であるが圧力水頭の縦波伝播現象として物理学では捉えているだろうか。津波の本質は発生源の海底の地殻変動現象とそれに因って発生する衝撃パワー(エネルギーの時間微分強度とエネルギー量)の海洋伝播現象にある。それは地球の活動の一つである地殻変動の結果の地震が基で起こる現象である。

地震はどのような地球活動現象か 地球の生命は中心核に隠されていよう。核は暗黒の灼熱地獄であろうと思う。そこではすべてが、どんな岩石も溶融した熱源と成っていよう。熱力学はそのエネルギーが高温部から低温部(地球表面)へ流れる事を教えている。エネルギー保存則から地球熱源核の熱量は新たな補給が必要であろう。地球が生きている限りは地殻変動で中心核への熱源の供給活動が必要であろう。中心核のエネルギーは、その核が超高圧力(ボイル・シャルルの法則)に因ってもたらされているのだろうと思うが、万有引力説でも説明できないから、全くの素人感覚での解釈でしかない。地球表面に起こる地殻変動現象は専門家によって、断層の分布が詳しく解説され、地震発生メカニズムの説明がなされている。地球は人間にも容赦なくその活動が災害として襲いかかって来るが、そこに生きる者の宿命であろう。地球の構造について検索すると、マグマやマントルそして中心核の事がそれぞれ別に解説されている。決して中心核とマグマや火山との関係では捉えられていないようだ。何故同じ地球の中で核が活動の中心にあると考えないのだろうか。何故核がマグマと繋がっていると考えないのだろうか。何故地球核の熱源と火山活動が関係していると考えないのだろうか。それは科学が実験的証拠によって初めて科学的論理と認知されるという検証基準があるからであろう。地震がなぜ起きるかを考えたとき、何故地震と核が関係付けられて論じられないか不思議であった。地震は地球の生きる活動の実相であり、その心臓部が核である。地球活動のすべては核が握っている。決して証明できない解釈ではあるから、無責任な素人論かもしれない。『正電荷』の実在証明が出来ないと同じ程度かとも考える。

津波の記憶と記録

  1. 1993年7月12日北海道南西沖地震(マグニチュード7.8)での奥尻島への津波31mの高さまで達したとある。この津波映像をテレビで見たのが地震と津波への関心を抱いた切っ掛けになった。専門家が津波の到達した高さに「何故こんな所まで?」と訝しげに解説していた。しかし、筆者には特別不思議に思う事もなく、水の特性として当然に思えた。しかし、その訳をハッキリと認識しては居なかったと。
  2. 2004年12月26日スマトラ島沖地震(マグニチュード9.1) 新潟県中越地震の歳の暮れに起きた巨大津波である。この地震に関するテレビ映像で特に驚きとやっぱりだったと印象に残ったのは、震源から遠く離れた海岸の引き波であった。海岸が海水が引いて魚が跳ねている映像だった。その後津波が遅れて到達し街に襲いかかる様子があった。この津波映像が巨大津波の発生原因についてある確信を得るに至った。更に、翌年の2005年3月の朝日新聞記事の海底亀裂写真がその意味を裏付けたと考えた。
  3. 1960年 チリ地震(マグニチュード8.6)の記録 丁度地球の反対側のチリ海岸で起きた地震。22~23時間後に大津波が日本に到来し大きな被害をもたらした。日本の東海岸でも津波到達前に引き波があったとある。
  4. 1896年(明治29年)6月15日明治三陸沖地震津波の記録 38.2mの津波の高さとある。日本列島の何処でどのような津波の高さに襲われるかはすべて予測できないと覚悟しなければならなかろう。30mを超える可能性がある事だけは認識しておくべきだ。防潮堤で防げるものではなかろう。

圧力水頭 圧力水頭と言う言葉は水力学の用語である。特に水力発電技術の用語として馴染んで来た。津波現象を理解するにはこの圧力水頭の意味を知っておくことが大事であろう。その意味は海底の深い地点での水圧が強いことがその海水の空間がエネルギーを保有していることと関係しているからである。海底の深さは技術用語の圧力水頭の意味に通じている。水深の深さがその海底空間のエネルギー量を表すと看做せよう。空間の持つエネルギーはボイルの法則の体積V[]と圧力p[N/]の積でエネルギーE=pV[J]となる意味から分かろう。発電技術ではダムと発電機水車の関係で捉えるようだ。フランシス水車の水力学を例にその圧力水頭の解説をしておこう。

フランシス水車と水頭 水車にはカプラン水車、ぺルトン水車などがあるがフランシス水車が水圧、圧力水頭の理解には適していよう。高い位置のダムと低い場所の間の水圧差を利用して、そのエネルギーを電気エネルギーに変換するのが水力発電所である。ダム水位と放水面はともに大気圧である。だからそのダム水位の高さ(それが総水頭)がそのまま発電エネルギーに利用できる。導水路管の図のq点の水の持つエネルギーはどのように表されるか。その単位体積当たりの水の質量は密度ρ[kg/㎥]で表される。

その位置エネルギーは水が流れていても、ある瞬間のその位置の水のそれは

ρgh[J/㎥]

である。

水の流速度v[m/s]とすれば、速度エネルギーは

(1/2)ρv^2^ [J/㎥]

である。

圧力エネルギーは、その点の水圧p[N/㎡]とすれば 1[㎥]の体積との積で

p[J]となる。それは単位体積当たりのエネルギーであるから

p[J/㎥]

となろう。

総エネルギーE[J/㎥]は損失のエネルギーElを加味して、

E= ρgh + (1/2)ρv^2^ +p +El       [J/㎥]

である。

上の各エネルギー成分を水柱の長さ[m]で評価するのが水頭になる。Eを水頭に変換するには、ρg[(kg/㎥)(m/s^2^)=(N/㎥)]で割ればよい。

H= h + (1/2)(v^2^/g) + p/(ρg) + El/ρg  =  h + hv + hp +hl [m]

と表される。

 圧力水頭 hp [m]は流水量の調節によって変化する。もし水車の回転を止めたとする。その時、水車の入水面の羽根に掛る水圧pは総水頭H[m]分の水柱の圧力と等しくなる。p= ρgh [J/㎥ =N/㎡]となる。その点の水の単位体積当たりの空間エネルギーがp[J]である。そのエネルギーを水柱の長さで捉える手法が水力学の「水頭」の意味である。フランシス水車のタービン羽根の入射面と出口面の圧力差は圧力水頭H[m]に近い。出口面の部分的水圧が大気圧以下になれば、キャビテーションと言う状態が発生し、効率が落ちる。フランシス水車は圧力水頭を利用する水車とも言えよう。さて、この水頭と言う意味を海の海底を例に考えてみよう。海底1万メートルの水頭の海水の単位体積当たりの保有する空間エネルギーは幾らであろうか。海水が静止状態で保有する空間の圧力エネルギー量(熱など他エネルギーは考えない)である。海水密度と水深1万mから、10万[kJ/㎥]程になろうか。地上の大気圧の空間エネルギー密度が100[kJ/㎥]に対して。しかしこれらのエネルギーは仕事をする能力は持ち合わせていない。利用できないから物理学の対象に取り上げられないと言うことであろう。利用できなければ、存在しても「見えない」ものになる。自然の真理を説き明かすより、利用する現実が物理学の対象となっているのかもしれない。しかし、津波の問題となると、完全な地球の自然現象の現れである。地球は人の為の自然活動ではないから、そこに自然の真理を認識する必要性が、津波現象解釈に持ち上がる。津波を圧力水頭の関係から考えてみよう。

水深圧力水頭 大気圧の海面空間のエネルギー密度は大よそ100[kJ/㎥]である。この空間の持つエネルギーと言う概念は物理学理論では余り認識されていないようだ。そこに更に加算して、海底の空間が持つエネルギーも同様に存在する訳である。大気圧を除いて、水深だけの圧力水頭を水深圧力水頭として図に示した。海水の密度ρ[kg/㎥]は水深D[km]によって多少は変化するだろう。日本海溝の水深5000m当たりに成ると、ρ=1[t/㎥]一定と仮定して、その海底の空間の持つエネルギー密度Edは49[MJ/㎥]程になる。この空間の持つエネルギーが地震時の巨大津波を引き起す原因であると解釈する。

津波の海洋伝播波形 遠い地点で発生した津波が海洋を伝播して到達する。その波形はどのような特徴を持っているか。その波形の形状は丁度雷の衝撃波形と似たものである。波の先頭部、波頭が急に競り上がりその後はなだらかに波高値が低下する減衰波形の長い波尾長で続く。津波の特徴はその波形の解釈に隠されている。しかも、その伝播する波は海水の質量が流れる訳ではない。海洋の津波には運動方程式の速度を担う『質量』に当たるものがないエネルギー伝播現象である。研究所で津波の水流の強さが実験されているが、それは地上に上陸した後の津波の水の質量の持つ運動エネルギーを実験的に検証していることでしかない。それは特に津波には無関係の普通の水力学の実験でしかない。津波の本質は海洋を伝播するエネルギーをどう認識するかに掛っている。先ず第一の問題は何故そのような長い波尾長の波形になるかの原因を明らかにする事である。それは特に巨大津波の問題として重要である。その波尾長がどのような意味を持っているかを理解する事は巨大津波の到来エネルギー量の意味を理解するための要である。普通の短い周期の波動なら、高い波高が海岸部に到達しても大量の水の上陸とは成らない。堤防で阻止出来よう。しかし巨大津波の特徴は長い波尾長の連続した到達エネルギーが水の質量のいわゆる運動力学に因る水流として上陸する点にある。階段波のエネルギーの長さが巨大津波の特徴である。津波発生源で、そのような長周期波尾長となる波動がどのような状況で生まれるかを考えることが大切であろう。専門家の解説では、プレートの重なり領域で『ずれ』と言う結果が地震により生じるとされている。その『ずれ』にもいろいろの現れ方があるようだ。

『ずれ』と海底亀裂・海底陥没 ずれにも水平ずれや垂直ずれなどがあるらしい。地震時には、陸上でも活断層に大きなずれが起きる。そのずれには大きく口を開けたような裂目もできる。断層帯では跳ね上がりより陥没、崩落が多いように思える。その事が海底における断層帯のプレートの重なり領域となれば、陸上の活断層とは比較にならない大きなずれが起きるものと考える。水平ずれや垂直ずれとその地震時のずれの様相も様々と解説されている。水平ずれと垂直ずれの意味も、その現象の違いを的確に理解できている訳ではないが、自己流に捉えている。垂直ずれの場合はプレートの重なりの断層で、プレートが下方に陥没するものであろう。地震後の地殻の変化は、兎に角地球中心方向へのエネルギー源の供給が成される筈と解釈する。そのエネルギー源の核での燃焼結果の噴出現象が火山活動としての溶岩流や噴火活動となっている筈と解釈する。殆どの地震活動で、震源が海底であれば、海底陥没か海底亀裂を引き起す結果に至る事が多かろう。海底が深ければ、その海底の空間保有エネルギーも大きい。その高エネルギー密度空間で、突然亀裂や陥没が起きれば、その瞬間は急激な真空空間が生まれると同じ状況になる。その空間の時間微分が発生のパワーになる。地球にはその途轍もないパワーでも寝返りを打つ程度の日常的なことでしかない筈だ。

海底亀裂・海底陥没と引き波(津波前の)と津波波動波尾長 巨大津波が襲来する場合に、必ずしも引き波があるとは限らないが、引き波があったら巨大津波が襲ってくると考えなければならない。巨大津波はその海洋伝播波動の波頭値だけでなく、その波尾長の長さがエネルギー量の大きさを持っているのである。波尾長が長いと言う事は、海岸に到達した場合に、押し寄せるエネルギー密度が長い時間に亘って途切れなく押し寄せ続ける訳であるから、どこまでもそのエネルギー量を陸に向かって流し続けることになる。止めようがないのである。水の保有エネルギーは全体が慣性体として働くようにとても避けられるものではない。海底亀裂・海底陥没が大きければ、その衝撃波の影響は海の全体に及ぶ。それが震源地に海水を引き寄せる引き波として海面のあらゆる方向へ伝播される。その引き波現象として引き寄せられる水の周期が津波波動の波尾長の長さや波頭値に現れるのである。

海洋の津波波形 津波源から海洋を伝播する津波波形は図のようであろう。この伝播現象の特徴は波頭の海面の立ち上がりとその波尾のなだらかに減衰する波形にある。その海水面より高いhoの海水は進行方向に流れる訳ではない。順次水面が上昇しなだらかに下降する、上下運動の海水の波である。海水は基本的に運動エネルギーを持たないエネルギー波の伝播媒体である。海水面の高さだけ平常面の海水の圧力エネルギーが海底まで増加した、圧力エネルギーの進行方向への縦波伝播現象と看做せる。しかしこの圧力エネルギーが海岸の浅瀬に到達すると、圧力エネルギーでエネルギーを保持できなくなるから、水の質量mの進行方向への運動エネルギーにエネルギー変換されることになる。それが津波の上陸の波動になる。この海洋の津波波形を産む原因が地震震源域の海底陥没や海底亀裂に因る突然のエネルギー欠損空間の出現であると考える。その欠損空間エネルギーを目がけて海水の突入現象が起き、海洋に引き波が伝播する事になる。海水全体が一体的な慣性流体のつながりの運動として引き波となる。その引き波の物理現象をどのように解釈するかの問題であろう。

引き波の物理現象 この引き波の物理現象をどのように解釈すべきかは未だ思案の中で、捉え切れていないが取上げる。巨大津波の発生原因となる引き波の物理現象を認識する事が大事だ。単発のプレートの運動に因る海水の跳ね上げで巨大津波が発生するとは感覚的に理解できない。水の力学は水泳などで感覚的に感じ取れる。信濃川の遊びで、アユや鮠(ハヤ)のあの俊敏な泳ぐ速度を見るにつけ、水の慣性体としての不思議を思わずにはいられない。こんな水に対する感覚が津波現象への筆者の解釈の基になっているようだ。海底陥没に因る高密度エネルギー空間の欠損空間出現(真空状態)が津波発生の源となり、そこへの海水突入が海洋波動伝播現象としてに広がる。その波動到達海岸で引き波が観測されることになる。海岸では水が海洋に流れゆくように、海底が現れる。しかしその水が津波源まで流れて行くと解釈するべきかどうかは、未だ納得しかねている。水のエネルギー欠損を補うように移動するだけであるかとも思う。津波波動の波尾長を決める水流は津波源の周辺からの流入量でほぼ決まろう。海洋周辺から津波発生原(地震震源地)への、その流入量を決めるのは震源地の海底陥没あるいは海底亀裂の体積とその時間的体積微分値のパワーである。それが基本的津波の大きさを決める要因である。引き波(津波発生原因としての)の物理的伝播現象は残された課題でもある。津波上陸後の引き波は普通の水力学の話であるが、その意味とは異なる。

東日本大震災(2011/03/11)の津波 海洋研究開発機構(JAMSTEC)が2017年に日本海溝の調査結果を発表している。それは海底のずれが65メートルであると報告されている。そのずれの意味を陸側のプレートが海洋側へ水平にずれたという意味と解釈する。その報告のずれがどのような訳で、あの巨大な津波を引き起した原因となったかを考えた。日本海溝は太平洋プレートが日本列島のプレートの下に入り込んでいる。何故陸側のプレートが太平洋側にずれを生じたかに、その地震の持つ意味を理解する重要な鍵が隠されているように思う。プレート境界が地震の震源となる場合に、巨大津波が発生する可能性が多いのではないか。今回の陸側が太平洋側に65メートルずれたとしたら、それは地震震源の太平洋プレートが大きな領域で地殻陥没が起きたからであろうと解釈する。地球の内部がどのように成っているかは分からないが、相当大きな空洞が出来ているものと考える。地殻が陥没するのは空洞があるから当然と考える。その結果が地震であり、海底地殻陥没が巨大エネルギー空間の欠損を産み、そこへの海水流入が巨大津波を産む原因であると考える。65メートルの地殻のずれと地震震源域での海底亀裂も報告されている。海底亀裂がどの地点に生じたかは知らないが、ずれた陸側プレートの上であるのかとも考えられる(?)。