月別アーカイブ: 2017年11月

光の筋道―眼と望遠鏡ー

光の道 始めに光あり。光無しに質量は有り得ない。光は世界を知る鍵である。光は障害が無ければ真っ直ぐ筋道を通して進む。地球の傍を通る時は、地球は障害物になる。だから光は筋道を曲げる。それは自由空間でなくなるから。光の速度もその筋道も、観測者との相対関係にあることを理解する事が世界を知る鍵になる。光と観測者の関係は普通の運動速度の相対性がそのまま当てはまる。その関係は決して『特殊』ではない。レーマーの光速度の相対性検出の基本認識が大切。光の速度がその伝播空間によって決まっているから。光が空間の距離と時間の関係を規定する世界の基準であるから。いま店先をシクラメンが飾る。じっと眺めて、何故惹きつけるのかと思う。尋ねても応えは無い。何の役にも立たない時間が過ぎる。シクラメンの花弁の分子構造が光の色合いを人の心に届けて人とつながる。光が無ければつながらない。光が『エネルギー』の縦波であるが故に世界が成り立つ。

(1)眼の機能 眼にはレンズの機能は無い。空気との境界を決める角膜の曲率でほとんどの入射光線は決まる。角膜が光の第一門の関所である。瞳への通行手形が切られる。眼の機能については教科書はじめいろいろと解説されている。カメラのレンズ機能と同じく網膜に像を結ぶと。しかしそれは有り得ないと医学の素人ながら筆者は考える。眼にはレンズ機能が無いと考える訳を説明したい。既に眼は一筋の光を観る で述べてはいるが。

眼の機能 確かに眼球には水晶体と言うレンズがある。しかしその成分は蛋白質であろう。蛋白質(角膜)と空気の境界では、光はその媒体間での透過率*(2017/11/29訂正追記。用語の間違いです。訂正してお詫びします。と同時に適切な用語が浮かばない。光伝播空間媒体の特性であるから、その媒体特有の透磁率と誘電率に基づく伝播速度の意味を表現したかったところ、透過率と早合点して使ってしまった。光の空間エネルギー密度分布波が進行方向に縦波として媒体内を伝播する。その媒体の光伝播現象に対する空間特性は、空間に特有の伝播速度が決まっている。その伝播速度は光の波長に因っても少しずつ違いがあるだろう。それは分散として現れる。従って、媒体間での違いを表現する用語としては光の縦波の『伝播速度』が適切であろう)が変わるから境界面に於いて入射角度によって屈折現象を引き起す。しかし眼球内は光伝播媒体が全てタンパク質と水分(?)であろう。そこでは屈折は起きない筈だ。魚眼の標本? が参考になるとも言えないが、蛋白質の玉葱状の積層構造と思える。人の眼もレンズのような屈折現象を起こす境界は空気と角膜の曲率面しかないと思う。そこに到達する光の内、眼の中心軸上の方向に在る対象からの光だけが瞳に入射するものと考える。 図の①一筋光路認識で文字『ア』を読むとする。文字の各部はあらゆる方向へ光を反射している。カメラのレンズ機能は、対象の一点からの多くの幾筋もの光路を通った光がフイルム面の一点(焦点)に集光し、対象全ての各点の集光された集合画像が写真として鮮明に写される。それに対して眼は対象の一点からの光の内唯一筋の光だけを受け入れる。観測対象『ア』の各部からの光のそれぞれ一筋の光路のみの光を取り入れる。眼の水晶体では光を整える積層構造に成っていて、レンズ終端でファイバー(硝子体管)に光が伝送され、黄斑に届く。網膜に視界の映像などできない。次に②の視界距離感をどのように認識するかも不思議である。望遠鏡や顕微鏡は殆ど片目で観測する。両眼で対象の距離は計れると理解している。しかし片目では、一筋の光による画像に距離を計る識別機能は備わっていないように思う。細い紙筒を覗いて、映る対象のその距離をどのように感じるかを確かめて見た。普通は片目でも、周りの光景も一緒に認識出来るから、長い感覚的脳の学習機能で距離を正しく理解できるだろう。しかし周りの景色が遮断されて極限された狭い平面の対象の距離を計る時、少し遠くに在る様に捉えるのかと感じる。それは各人の感覚に因り違いがあるかもしれないが。以上二つの意味が、望遠鏡(顕微鏡も)で対象を観測する場合の眼の機能として捉えておくべき要点と考えた。

(2)望遠鏡の原理 望遠鏡の解釈では、虚像とか実像と言う用語で解説されることが多いようだ。しかしその様なレンズの『焦点(存在しない概念)』に因る光路合成の作図法での虚像とか実像などは存在しないと考える。実像はカメラのフイルム面(写像面)の二次平面全体がすべての対象点からの焦点になるという意味で、そこに写る写真の画像とすれば、それは実像として理解できる。しかし、眼に因る観測視界は実像とか虚像などの概念では説明できない筈だ。レンズを使うか使わないかに関わりなく、普段の裸眼での視界認識と眼の機能は角膜への入射光線の角度で、全く同じ光路に因って認識している筈だ。その意味を次の図で示す。

望遠鏡の機能 望遠鏡の原理なども今回初めて考えた。ケプラー式で考えた。ここには実像も虚像も無い。眼で観測する光学器具はすべて一筋の光の光路から成り立っている筈だ。対象各点からのただ一筋の光だけで認識する原理である。眼は虚像も実像も見ることはできない。ここでも教科書の解釈とは異なる。図では遠方の大木を観る様子を描いた。天体望遠鏡なら星を観測する事になろう。観測対象の或る一点からの光は四方八方に放射している。その光の内、望遠鏡に入射し、観測の光となる光路は唯一筋の光の道しかないという意味を示した。ここが教科書での解釈と全く異なる。普通の解説は少なくても二筋の光で、望遠鏡内にその交点として在る像を結び、その像がそこに在るかのように考えて、その仮想の像を接眼レンズを通して見ると解釈している。その接眼レンズでの眼に因る観測となっている。それに対して図では、対象の観測点の光情報はある仰角θoの一筋で対物レンズに入射する。対物レンズで僅かに屈折しθで接眼レンズに入射する。接眼レンズの位置を動かせば、レンズ面の曲率によりレンズ入射角が変わることになる。それは屈折角が変化し、結局眼への入射角度が変わることになる。その角度を図ではθeとした。視野角度θeを観測対象の大きさを観る角度として認識する事になる。ただ観測対象の距離を片目でどのように認識するかは理解できない。

レンズの焦点・焦点距離とは?  に(2016/10/28)以降のレンズの記事をまとめた。

富士の霊峰を仰ぐ

(2018/03/26)追記。柱状節理の発生原因について、地質学の専門家は実験的証明としてメリケン粉を揺らして溶岩の冷却によると解説している例がある。NHKのブラタモリでも放送されたようだ。しかし、3000mを超える奥穂高が溶岩のどのような振動現象によって巨大な柱状節理状の岩石構造になるのかとても専門家の解釈を信じられないのだ。メリケン粉と水を容器の中で揺らせる実験が奥穂高の岩石の解説になるとは理解できない。

富士山は関東地方の平野に立つ、孤高の独立峰だ。仰ぐと言っても登った事も無いし、傍に立った事も無い。それでも神々しい思いになる。それは広い裾野を広げて聳え立つ。何故と尋ねても応えはしない。その安定感を観る人に与える山の姿。見る人の心を落ち着かせるだけの何事にも動じない悟りの形だ。霊峰と言うに相応しい。世界にも似た形の山がある。富士山大好きな方必見!世界各地に・・。富士山の記事を書こうと思い付いた訳が奥穂高岳に在る。確かに富士山は火山噴火の山でもある。山頂は大きな噴火の火口が口を広げている。火口周辺の距離も相当の長さだ。火山噴火による溶岩が山頂を覆っている。しかし、溶岩とは考え難い岩石が見える。剣ヶ峰(富士山)の岩、釈迦の割れ石あるいは雷岩(イカズチイワ)等は溶岩とは思えない。

奥穂高岳山頂から富士山を連想 奥穂高岳の写真を観た。ヨーロッパアルプスの山の呼び名に関連したジャンダルムとも言う山の壁が聳える。その岩の形状は木の木目の化石に見える。どの岩を観ても木目に見えるではないか。この岩に圧倒される、奥穂西穂縦走「27歳男子二人のロックな山登り―3/。山頂のこの岩石の意味をどのように理解するか。決して火山の山ではない。地球物理学の問題でもあろう。3000m級の山でも巨木の化石としたら、当然富士山ももしやと思った。火山である富士山はずっと溶岩の山と思っていた。しかし考えて見ると、噴火溶岩だけであの素敵な形に成るとは不思議過ぎると思った。四方に対称に裾野が広がっているから。だからと言って巨木の痕跡が山頂に有ったからと言って裾野が広がる理由になる訳ではないが。

富士山剣ヶ峰 富士山の山頂の尖端に構える絶壁である。決して溶岩ではない。剣ヶ峰は霊峰の心意気を突き上げた拳に見える。2018/01/04 追記。NHKの番組《ブラタモリ》で富士登山があった。剣ヶ峰に富士山気象観測所がある。その観測映像に雷の放射現象を捉えたものがあった。雲海の上からの観測映像だから、当然雷は下の雲で発生する。雷の専門的解釈は雲と地上の間あるいは雲海中での『電荷』のプラスとマイナスの火花放電と成っている。『電荷』などでなく「熱エネルギー」の爆発現象でしかないのだが。富士山観測映像を見ると、雲海内での爆発現象の如くに、雲海から宇宙に殆どの光が放射されているように思えた。その放射を見て、雷(神鳴り)様がその名に相応しく地球の加熱エネルギーを宇宙に光エネルギーとして放射して、地球を助けているように思えた。熱も光も同じ『エネルギー』であるから。

石の囁き 聞こえますか に関係して。

気掛かり 奥穂西穂縦走「27歳男子二人のロックな山登り」さんが投稿したロック(岩石)の写真はどれも迫力があり素敵だ。しかし、2011年以降の記事が見えない。

ハミルトンの風車からエネルギーを観る

はじめに (またの文末の自分の恥さらしで御免なさい。憲法と市民権など全くの無知であった。権力と市民権の関係の教育を受けた記憶も無い)。ハミルトンの風車はブログの最初の科学の記事で、放電現象と電荷・電流概念(2010/08/02)にある。何故ハミルトンの風車を取上げるかには理由がある。新世界ー科学の要ーで示した静電界のエネルギー流についての解釈を早合点したようだ。訂正しなければならないと思ったからである(2017/11/07追記・修正した)。それはコイルとコンデンサの磁気ループについても訂正になる。

ハミルトンの風車

極性とエネルギー流 ハミルトンの風車を検索すると、その回転現象の解説にはイオン風と言う電荷が原因となった説明が成されている。マイナスの3万ボルト程で大きな卍型の針金が相当の速度で勢いよく回転する。しかもプラス側の電極が無いのに、マイナスを印加するだけで良く回転する。昭和40年頃の高等学校での公開実験での強い印象が残っている。1.6mmΦの屋内配線用銅線で構成した直径30,40cm風車実験結果が思い掛けずも成功したのも不思議であった。何も傍にプラス電極が無い、空間に置かれたマイナス電極の風車である。針金の先端からジーと音を立てて噴射しながら回転する。ただし、印加電圧が正極性の時はそれ程強い回転力は得られない。明らかに極性によって異なる電気現象であることははっきりしている。放電管内の流れがマイナス電極側からしか流れない事も良く分かっている事だ。その流れを陰極線と名付けたのだ。その流れる実体を『電子』と呼んで解釈するのが現代物理学理論の根幹である。『電荷と質量』を備えた素粒子が『電子』である。その電荷と質量の空間的描像も明らかに説明できないにも拘らず、『電子』と言う素粒子(レプトン)が実在し得るとの前提で構築された電磁界理論である。その電子と言う『電荷』概念への疑問を抱いたのが電磁界の新世界に踏み込む事になった原点である。ハミルトンの風車の回転現象を電子とイオンで解説されているのが常識論である。結局、電子もイオンも『電荷』と言う実在しない物理量概念で、見えないが故に、簡便な解釈で伝統的に積み重ねてきた理論体系の基礎概念となって、社会的な常識論の根幹となって来たという事であろう。今唱えたい事は電子やイオンに替わって、それに対応する『エネルギー』一つで統一的に解釈すべき基礎理論が求められていると言う結論になる。

針電極 針電極のような金属の先端を尖らせて、負の高電圧を掛けるとコロナを噴射する。それは導線に沿ってエネルギーが針先端から空間に噴射されるからと解釈する。導線周辺にコンパスを近付ければ導線を周回する向きに磁気ループが存在するだろう。それは電流で解釈すれば、それが先端部から流れ込む向きと同じ方向ではある。このエネルギー流の解釈は、電子・電流の解釈との明確な違いを説明するだけの根拠を示せないのが残念ではある。残念であるというより、目に見えないものを科学技術で自然現象を利用するように概念化して来た多くの先人の業績を讃えるべきであろう。然しながら、自然の真底に横たわる眞髄は科学技術概念の奥に隠れているのだ。それはを認識するのは各人の自然科学的感性に委ねられていると言えよう。

平板コンデンサ内のエネルギー流 そのエネルギー流での解釈は、平板コンデンサ内へのエネルギー貯蔵をどう捉えるかに、その有意性があろう。『電荷』貯蔵に因る解釈よりも矛盾は少ないだろうから。コンデンサ内でのエネルギー消費は殆ど無かろう。従って、エネルギー流は平板コンデンサ内で何らかの回転流として貯蔵されるだろうと考える。二枚の電極板に対して、エネルギー流がどのようであるか、上下二つの流れであるか、一つの流れであるかは見えないものを解釈する訳で、そこに悩ましい決断が求められる。新世界ー科学の要ーで示した解釈は二つのエネルギー流で決断した。それは下部電極表面での磁界の方向が決まるエネルギー流を上部と同じ電極表面に沿って流れ込むと解釈したからであるが、その点が少し早合点であったと反省している。それは新世界への扉ーコンデンサの磁界ーで示したように、下部電極表面でのコンパスの指示方向が電極表面に流れるエネルギー流との合成流に因ると解釈したことに因った。コンパスの磁気の意味をそのエネルギー流が原因と解釈する捉え方そのものが新しい科学的世界観でもあり、その事との関係で迷いがあったと反省している。今回上に示した図の平板間の一つのエネルギー流で解釈する方がコンデンサ内でのエネルギー貯蔵の姿としては共感し易いと言う感覚的な意味合いをも含んで決めた。誠に科学実験による検証方法という手法が採れずの感覚論で誠に不甲斐なさも抱かざるを得ないと同時に、混乱を与えたらと申し訳ないと思う。コンデンサ内のエネルギー貯蔵で、二つの流れは不自然であろうと感じるからである。以上の考えから、結論を図のようなエネルギー流で捉えた。この平板電極内の空間とその外部との関係は明確な描像を描くことはできない。コンデンサ貯蔵エネルギーが完全に電源との繋がりがなく、独立したエネルギー流になるかと考えれば、それは無いだろうと思う。その曖昧なまま表現した図である。負極性の場合で示したが、エネルギー流は電源の負側からの供給が主流になるとの解釈をハミルトンの風車から類推したことで、正極の電極板に対して少し反発する流れになるかと考えざるを得ない。それがその電極近傍でのコンパスの指示方向の原因となる貯蔵エネルギー流とコンパスのエネルギー流との兼ね合いの問題であるから。基本的にはそのエネルギー流がコンパスの指示方向・磁気ループの解釈の拠り所と考えざるを得ない点にある。

アーク・火花放電 高電圧工学と言う分野がある。それは電力系統の保全対策として、送電線路への落雷に対する対策や、支持絶縁碍子の性能向上に欠かせない研究分野である。その電気的特性は高電圧試験によって基礎研究が成される。平板電極間でのアーク放電現象はその基本観測である。電界強度の空気限界は大よそ30kV/cm位と考えられている。それ以上の電界で火花放電し、絶縁は破壊される。その火花放電現象の原因は電極間に塵などが入り込めば、その局部的エネルギー密度が高くなり、局部のコロナが全体としての放電に移行してしまうだろうと考えられる。その辺の現象を電極板の『電荷』で解釈しようとしてもなかなか難しいと思う。丁度、雷が空間の状況と水蒸気の熱エネルギーの供給・放出との兼ね合いで決まる事から思えば、電気現象も『電荷』では捉え切れない謎が多いだろうと思う。

『電荷概念の否定』の観点 伝統的科学理論が常識として世界に受け入れられてきた。正と負の対称な二つの『電荷』が世界の根源を支えていて、その『電荷』無しには科学理論を論じられない事になっている。伝統的科学の世界観で共通理解に在る社会的安定性の観点から観れば、『電荷』否定の反社会的科学論は誠に迷惑な事ではあろうと理解はしている。2000年にワープロ代わりにパソコンを購入した。雨蛙や日本カナヘビ、揚羽蝶など身近なものを眺めて、生活の術もなくただ漫然と流されて来た。科学研究の機関に所属する事も不可能な人生の状況に追い込まれた。今過去を知って見れば、職歴も書けない現実が身に染みている。退職の手続き一つした覚えが無い現実。翻弄され続けている身には日本国憲法(特に、第98条1項 この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない。とあるが、その条項は何の為のものか理解できない。)が欲しい。まさか昭和14年12月1日や昭和39年4月1日に戻る訳にもいかないし、どうしたら良かろうか?平成7年7月(11月の間違い?)には、国会で事務局職員にわざわざ筆者の正面写真までお撮りいただいたので、不審者リストにでも御登録されているかも知れない。身分が不明のまま捨て置かれているかと疑いたくもなる。昭和63年2月にも国会で物議の基になったかもしれないが。当の本人筆者は何も知り得ないまま今日に至る(*1)人定証人喚問。しかし正規でなくても幾らかの現場での経験から、身に付いた電気工学の技術感覚から物理学基礎概念の意味が腑に落ちず、光の伝播現象と物理学基礎概念の実相を我儘勝手な解釈で追い求めてきた。今思う、『電荷』概念否定の感覚に間違いは無かったとそれだけは安堵した。種々雑多な内容をITの世界に恥ずかしげもなく、恐ろしさも知らず綴って来た。パソコンでの情報発信で、学会での正規の学術研究には成らないかもしれないが、専門的学術に無関係の方々にも科学の基礎とは何かと考える意味は伝えられたと感じる。どれも特別科学研究となる様な新しい事でもなく、日常生活で感じる科学感覚が基での考えを発表して来た。しかし、『電荷』否定一つが、科学理論と自然科学の解釈論に未来への課題として無視できない処に在ることだけは示せたように思う。未来に向けた、子供たちへの教育の問題として。

(*1) 人定証人喚問:昭和63年1月中頃、自宅に何処からか『長岡工業高等専門学校の健康保険証』が送付されて来た。長岡技術科学大学の電気系事務室で電気系長にこんなものが送られて来たと見せた。そんなものを持って居てはいけないと取り上げられた。その後、その保険証がどのように処理されたかを確認していない。その数日後、長岡工業高等専門学校の事務職員がやはり自宅に「未だお返し頂いてない保険証をお返しください」と封書が届けられた。身に余る不可解に対処し切れずに、無知を曝して今日まで彷徨って来た。今も不届きなへリコプターが飛んでいる。畏れ多くも国会で不届き者と人定喚問でもして、我が身の悪行の所業を解明して頂かないと死に行く人生に辻褄が付きそうもないと考えている処でございます。(2018/10/12)追記。誠にお恥ずかしい次第であります。『静電界は磁界を伴う』電気学会全国大会(1982)の発表から、脱藩したと観られる 瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義 電気学会電磁界研究会資料 EMT-88-145 (1988) の発表まで、すべてロゴスキー電極間の静電界中の磁界模様の実験写真である。電場が磁場であることの証明写真である。電気磁気学の電荷概念を否定しなければ、この写真は嘘になる。世界の構成根源要素は『エネルギー』一つに集約される筈と、ハミルトンの風車の実験(1965年頃実施)に結びついた。

時計二題

こんな時計があった。

木箱に収めた。何時作ったかも忘れた。右の丸い時計は防水ラジオについていたがラジオが壊れたので時計だけ生かした。ツインバードの時計だ。何十年も正確に時を刻んでいる。木の木目は自然の芸術作品だ。どんな模様でも決して偽りはない。

水の妖精七変化(エネルギー)

水は産業革命の力を象徴して科学の世界を広げた。蒸気機関車が今もその威力を見せてくれる。水を加熱すると水とは思えない魔法の力を生み出す。燃料電池はエネルギーを生み出す。水を介したエネルギーと力の関係は日常生活の湯沸かしから巨大科学技術機関の発電所まで広い。酸素分子O2と水分子H2Oに悩むの記事を読んで、また自分の頭の知識貯蔵庫に違和感を覚えた。蒸気機関の熱サイクルで、水蒸気の乾き度と湿り度と言う用語がある。乾き度100%は高温・高圧の水蒸気状態である。水蒸気は酸素と水素の混合状態に簡単に変化する。乾き度100%の水蒸気は完全に酸素と水素のガス混合体と考えて良かろう。高温高圧のガスである。酸素と水素と水とエネルギーの間は、日常生活の中で、いつもそこに潜む妖精が支配している世界のように感じる。酸素と水素と水の間柄には、お伽の世界が現実に現れたようにさえ思える不思議を感じる。湯沸かしの沸騰で幾らかが酸素と水素に分解するのもあろう。と言っても湯の中を上昇する内に水蒸気に戻ってしまうだろうが。

水の電気分解 水の電気分解と言う化学反応は良く知られた現象である。水に電気エネルギーを加えることで酸素と水素に分離される。水の電気分解は酸素と水素の原子が結合したものを『電子』と言う素粒子(?)の電気回路を通した供給で元の原子に分解する現象と解説されている。『電子』と言う『電荷と質量の集合粒子』が水の原子結合をどのように分離するのかの詳細な解釈を知らない。理科の大切な実験例として取り上げられ、観察する機会も多かろう。ただ解説によれば、水酸化ナトリュウム等の電解質分子成分が必要らしい。水は電流を流さないからと説明がある。電流と言う電子電荷(質量不要)の逆流は一つの解釈方便でしかないので、『エネルギー』の関係で解釈する以外ないのだ。イオンの『電荷』を否定すれば、酸素と水素の結合・分離は『エネルギー』で解釈するより他になくなる。水酸化ナトリュウム等の電解質イオン水の電気分解で、得られたガス成分の検証を火に因る燃焼音などの現象で確認しているが、それだけで水が電気分解で発生した分離酸素と水素だと言い切れるのだろうか。また、そのガス内に炭などを電極にして発電作用(燃料電池)の確認が出来るかも興味がある。また『エネルギー』で、電気エネルギーと熱エネルギーにどんな違いがあるかと考えるてもその差が分からない。電気エネルギーには二本の導線の間で流れる方向が決まっているから、負の電極(水素)側からエネルギーが供給されるだろう。正の電極(酸素)側のエネルギーはどのよう考えるか。水酸化ナトリュウムは電極と水との間の触媒としての働きを成しているのだろう。原子、分子あるいはイオンの媒体環境でのエネルギーレベルの差がイオン化傾向として理解されている事に関係しているのだろう。ナトリュウムがその鍵を握っているかも知れない。

何故酸素か 南極上空のオゾン層が増減したとニュースになる。物は酸素と結合して燃焼現象を呈する。燃焼は熱・光エネルギーを放射する。その訳を説き明かすのは物理学だ。何故酸素原子が他の元素と違って、結合でエネルギーを放射するのか。そのエネルギーは何がエネルギーに変換したものか。燃料電池は酸素と水素の結合でエネルギーを作り出す電池だ。水に電気のエネルギーを加えると酸素と水素に分解できる。酸素と水素と水の間の変換を取持つのがエネルギーである。酸素と水素の化学結合と言う現象が元の酸素と水素原子に変化が全く無くてエネルギーが創りだせる訳は無い。エネルギーに何が変換されたのかが物理的解釈の要点であろう。決して『無』からエネルギーは生まれない。エネルギー(光や電気)に何かが変換するのである。その何故かが説かれなければ、エネルギーの意味が分かりはしなかろう。いつまでも同じ事(戯言と言われそうだが)を言って申し訳ない。燃える『酸素』の力とは?(2013/11/07)、   『水素』に思う (2013/09/29)など。以上理解力の弱い頭で科学常識について行けない迷い事を述べた。理論無しの、自然の真理はただ純粋の一つに因って解釈すべきだろうと創造力・妄想力を働かして描いた。それが次の絵図である。水とエネルギー流 酸素は2価、水素は1価と考えている。酸素1原子に水素2原子で丁度分子構造が安定した水H2Oになると。酸素、水素の単独では2個が対の分子を成すと。エネルギーの吸収か放出かで水と酸素、水素の関係が決定されるようだ。その辺を『エネルギー』一つで関係付けたらと考えたのが上の絵図である。『電荷』無しの『エネルギー』での解釈である。マグネットじゃないけれども、空間に粒子性のエネルギーと言えば、エネルギー円還流しか思いつかないので、結局磁石と同じような軸極性を持った物になってしまう。序でにもし『電子』と言う科学概念の解釈粒子を考えるならそれも最小のエネルギー円環流になるだろうと考える。水素は最小の原子として少し中心にエネルギー流の塊(質量化)があるのだろう。こんな研究を細々続けられるところが大学の自主体制に必要なのだと思うけれども。経済的利潤・価値を求めた競争研究だけでは、研究の幅が狭まり、延いては大学の独立性・教育力が危ぶまれる。役立たずの夢の絵図かもしれない。