響けよと 打つ小面にその丈を 込めても高が 鑿の画数 空道
昭和から平成に変った年に、やり場のない思いを能のお面『小面』を彫りながら、高が27画のノミ程度と。出来上がったお面は柱に掛けていたが、それも今はない。今も思い出す。昭和63年1月の大学入試の時、何故か監督の出番がなく、待機組になっていた。終了後、菅野学長が機械系の教授と話していた。『これで終わったね』と。どうも自分に関係ありそうな二人の素振りに思えた。全く意味が分からず、只流されるより「道」はなかった。仰る通り、その年の年末には自分の居場所はなかったのだと考え、新たな『道』はないかと旅に出た。小面を刻みながら老子と『空』から『空道』の雅号を付けて過ごした。既に32年が過ぎた。空間ベクトルと回転軸 (2017/09/07) の記事の隣の記事がここに在ったので読み返した。もちろん舞鶴鎮守府のことなど知る由もない。当時の学校町で、狭い前の道に自動車をはみ出し、すべてに反抗して迷惑を掛けながら過ごした。テレビ画面の片隅に新潟NHKの番組で、三角状の青い不気味な符号に踊らされ、郵便ポストに新聞のチラシを投げ込んだり、何かに誘導されてきたようだ。自動車も勝手に警察が処分したようだが持ち主の本人は知らない。あれから30何年過ぎたか。『静電界は磁界を伴う』の実験的科学研究論の物理的意義は十分解釈できたと思う。学術研究の機関に居てはおそらく無理であった筈だ。すべては、宮入先生にお逢いし、研究室で教えて頂いたことが、特に「磁束は電圧時間積分」の解釈からアンペアの法則への疑問につながり、ここまでの道のりを歩いてこれたと感謝です。
実は、小面を打つ」は今年の正月、お世話になりながら失念していた、横山蒼鳳先生を思い出して当時を振り返ることになって詠んだ。長岡駅前での書道教室に、参加させていただき教えを頂いた。本棚に先生の著書「越後・笹神 五頭に抱かれて」を見つけた。中に赤い「振込通知票」が挟まっていた(ご迷惑をお掛けしたことお詫び申し上げます)。著書は平成4(1994)年7月発行とある。記事の中に、平成元年2月13日午後7時10分。七時のNHKニュースが「リクルートの江副逮捕」を・・。とある。そのニュースのことを知らなかった。きっと小面を刻んでいたかもしれない。『長命は 最高の芸術だ』の御筆墨が載っている。添え書きに元県議会議長 角谷久次さんの好んで・・。とある。本当にその通りと思いながら、感謝。思えば平成4年7月の中頃、小出の閉鎖病棟から退出して、娑婆に戻ってきた。戻ってきたが、さて何を目当てに生きればと、様々な経験を積んだ。店の裏方で、天ぷら揚げや巻きずし巻きなど思い出せば、無礼も多かったろうが楽しかった?平成5年5月末には舞鶴鎮守府の旧い講堂を案内しても貰った。その1月下旬には、失礼ながら宮澤内閣に『辞表』を送付させて頂いた。NHKのニュースで宮澤内閣総理大臣と河野官房長官が困惑している様子らしき映像が有った。自筆の「風来坊」の額を掛け乍ら汚泥処理に励んでも見た。飛んでもないお恥かしき仕儀を重ねて、長生きをしてきた。30年以上にわたって、多くの方々に陰から御支援いただきながら、浦島退屈の介よろしくご支援にお応えできずに過ごしてしまった。これからは「無法松」の振る舞いは何とか無いように心がけたく存じますが。今「視界と光の科学」をと考えながら、少し御遠慮しようか思案。以上振り返って追記。
異常な日本の30年を過ごして。
『愛燦々』 テレビの歌謡番組を観るようになったのは昭和が終わり、平成になってからであった様に思う。後から振り返って、あの歌が自分と関係が有りそうだと気付く。特に美空ひばりが歌った歌を何十年もたってから、その歌詞に込められた意味に気付く。始まりは、『愛燦々』昭和61年(1986)秋のようだ。ー(2021/04/12) 追記。『愛燦燦』は秋でなく春のようだ。自分も電気学会論文誌Bに、昭和61年4月の論文が掲載された。その頃の意味もあるかと勝手に解釈するー。長岡工業高等専門学校で、殺害から逃れる秘策(観世の文言札)で生命を守りながら、『静電界は磁界を伴う』の実験に挑戦していた頃かもしれない。その年の春、久しぶりに電気学会春の全国大会で、561 瞬時ベクトル空間モデルと空間瞬時アドミタンス を発表した。しかし発表者名は自分一人だった。共同研究者名を書くようなゆとりも、長岡技科大との行き来もなく当然他に居なかったと解釈していた。しかも内容が電気磁気学の偏微分式での変梃りんな内容であった事もあり、他に賛同は得れれないだろうと。ただ、その具体的なかたちでまとめたのが文献(1)である。その研究会資料は相当なストレスと緊張の中でまとめたものでありながら、良く出来たと満足できる。電力系統の瞬時監視機能として有用な手法と思った。この資料も一つの評価を得て、ひばりの『愛燦々』の意味となったかと勝手に解釈している。またその昭和61年(1986)4月、電気学会論文誌Bに文献(2)が掲載された。半導体電力変換器の基本動作解析を論じた。その解析手法には自分らしい特徴があったと思う。少し世間が騒がしくなり始めたのがその頃であったのかと、相当年数がたって歌謡番組を観ながら感じ始めた。
『みだれ髪』 この詩は昭和62年(1987)秋の頃を歌ったものと思う。昭和62年春殺害の危険から逃れて、やっと約束の長岡技術科学大学に戻った。しかしそれも独り善がりの世間常識から外れた仕儀であった事を愚かにも何十年も経って初めて気付いた。その『みだれ髪』の意味は今でも分からない。昭和62年春には良かったが、秋にはどうにも成らない結末となってしまった。春3月高専の校長に4月からの転勤について確認した。大学から『割愛』の話が有る。『割愛』の意味も昭和54年(1979)秋と二度目の事だから、結果がどう出るか自分が決める事ではないと予定通りの行動しか取れないと覚悟していた。だから高専の校長の言う事を聞く意思もなかった。3月31日『保険証』を会計課に返して二度と戻らないと4月2日の東北大学での電気学会の発表に向けて高専を去った。『保険証』が身分証明書などと言う事も聞いたことがなかったから知らない無知であった。発表内容は『静電界は磁界を伴う』と言う『電荷』否定の発表であるから、そんなトンデモナイ内容が世間で通用する筈はなかった。科学理論の根幹を否定する内容だから。前の年の電力技術解析理論の話とまるで180度方向転換した内容であれば、世間も相当戸惑っただろうとは推測できる。とんでもない仕儀となり御免なさいでした。一体春丁度良かった帯の長さも秋には余ると。春どう行動すれば良かったのか今でも理解できない。4月自宅に高専の校長から手紙で教官会議に出席するようにと言う要請が有った。それは『転勤』していないと言う意味であったかどうかも分からない。筆者には意味の分からないいろいろの仕掛けが無知の自分に仕掛けられたが、常識知らずには対応しようがなかった。相談する者も一人も居ない。ましてや家族が知る訳もないから相談もできない。自分の立場を説明するべき意味を筆者自身が知らない訳だから。能力なしの『助手』と見られているから。今日現在も、パソコンに向かえば、それを見て何と無駄な人生をと非難されるが、そう思われるのも当たり前と自分で思う。家族に説明できる何の実績も示せずに今日が在るから。昭和62年春に長岡技術科学大学の学長選挙が有った。新聞でも取り上げられた社会的教育問題に成ったようだが、自分に関係しているとは全く理解できなかった。薄々感じたのは、8月に成って、電気学会の秋の『電磁界研究会』への論文を書いている時、なかなか捗らずに提出が遅くなり、9月1日以降の受け付けに成ってしまって、何か急ぐような雰囲気を感じた頃からとても気になりだした。斎藤 進六 学長に迷惑を掛けてしまったのだろうと遣る瀬無さと申し訳なさが残る。電力工学と電磁界理論では研究の畑が違う。転勤もしていなくて、研究分野も変われば、世間でも対応できなかった訳であろうと今は分かる。それが全て『みだれ髪』の意味なのかと。義理のじいちゃんが大学近くの病院へ入院していたので、家族に頼まれ毎日洗濯ものを交換に行く。筆者も家族も無知の中世間の常識に対応出来る術は無かった。病院近くで大学事務局の人がいつも周りについて監視していたようだった。みんなみだれ髪の基だったかもしれない。御免なさい。
『川の流れのように』作詞 秋元康 作曲 見岳章 唄 美空ひばり 1989年(昭和64年、平成元年)1月に歌われた。美空ひばり最晩年の歌だ。既に大学には居場所も無く、己の人生の意味を考える手立てもない中で、謳われた彷徨う自分に向けた歌であったかとも思う。『故郷』にどんな意味が有るかも知らず、二葉百合子さんの『岸壁の母』と繋がる故郷には『舞鶴鎮守府』の父の軍歴が有った。“知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた 人生 ああ 川の流れのように ・・” 正にこの歌詞の通り、何も知らずに歩いて来た自分の人生のように聞こえた。今は電気磁気学と電力系統の電気現象を『光』によって統一的に解釈する感覚的な納得を得た。それは過去の電磁界理論とその概念を全く新しい姿で解釈し直さなければならないところに来てしまった事でもある。ただ、電気工学は技術用語で理解できるが、物理学での『電流』や『電荷』が自然界の真理と言うのは頂けない。その辺の混乱を如何に解決するか。
本人は何も知らない 情報化社会と人心操縦の社会問題。世間の動きを筆者は知らない。後から何かあったのかと何となく気付くだけである。本人には知らせず世間が知っているこの不可解な気味悪さが『人権侵害』である。何十年も続く不気味さの中を過ごして来た。近所の小さな消防車が朝の8時前に鐘を鳴らして通り過ぎる日があった。その鐘が鳴る日は悪い日らしい。やっと最近は鳴らなくなった。意味が分からないがどこの誰の指示で鳴らしていたのか、不可解な不気味さであった。昭和63年(1988)以降、初めて経験した事件がある。長岡技術科学大学から、所属身分の無い身を悟り、精神的な過負荷に耐えられず離れた。居場所も無く、長岡市内の釜風呂温泉方面の道の自動販売機で飲み物を飲もうと100円を投入した。途端に自動販売機が電源遮断された。その事件から情報操作が始ったように思う。同じ事がもう一回あった。長野県に新潟県津南町を通って夜辿り着いた。道路脇の自動販売機で、100円硬貨を投入した。途端にそれまで点灯していた街燈も消え町中が停電になった。行き先の無いまま自動車を運転すると、「廻って 廻って 廻れ~・・」と言うラジオの歌で操作される。きっと社会的に処理に困る人間に取る情報社会の手段が存在するのか。現在にも残っている事は飛行機の爆音や飛行機雲の『×印』やヘリコプターの轟音がある。変な『花火』も有る。すべて誰が指示しているかも不明で、執られる不快な人権侵害の所業だ。
中曽根臨教審と人事事件 昭和62年(1987)年末、長岡高専で人事の事件が有ったか?具体的には知らない。昭和63年(1988)正月、春の学会発表の論文を書いている時、突然鼻から異様な鼻汁が出る。早速病院で診察を受け、(鼻空上顎洞炎と歯科で診断され、治療して頂いた)回復。病院で待っている時、周りに高専の先生らしき者が数人いて話しかけて来た。自分に関係する事が事件に成っているらしい事を後から感じ取れるが、それが何かも知り得ず、本人が無視されたまま『何か』が決められていたようだ。本人が知らずにいるその意味を世間は知っていて、いろいろ仕掛け話をして来たのだろう。大学の保険証を使っていた。1月中頃に自宅に高専から『保険証』が送付されて来た。高専では大学に転勤したと言われ、高専から自宅に『保険証』が送付される不可解。昭和60年7月1日履歴が『以下余白』となっている事も2015年(平成27年)1月に初めて知った。高専の事務局に行って尋ねた。後で調べて連絡すると言われたが、後日電話で「少し待って・・(?)」と言われたきりで何もない。何も本人が知らないで、世間が騒ぐ人権侵害。昭和14年(1939)12月1日舞鶴鎮守府への戸籍転籍が存在を無視した諸行無常の30年に亘る人権侵害の意味か。
以下余白の不可解 昭和60年(1985)4月1日 長岡工業高等専門学校 電気工学科講師(校長)。昭和60年(1985)7月1日 同助教授(松永 光 文部大臣)。同日付 以下余白(高橋校長)。昭和60年7月1日から履歴が無しと読める。翌61年(1986)4月の辞令もなく、以降は履歴が消えている。だから4月以降の殺人専門学校の意味が読み取れる。生きていては困る訳だ。様々な工作があり、昭和61年(1986)の電気工学科の雰囲気が異様な空気になった。学科事務室が殆ど使われない幽霊室に思えた。昭和63年(1988)8月1日長岡技術科学大学の身分喪失の意味か、銀行通帳口座が無効になる。昭和39年(1964)4月1日新潟県教育委員会での辞令交付もなかった。(2021/04/12)追記。昭和39年4月中頃、給料を手にした。しかしその中に長岡からの通勤手当が支給されていなかった。五十嵐事務長に尋ねた。「通ってみなければ分からないだろう」と言われた。その月の通勤手当は未だに頂いていない。その後に20日過ぎと思うが「新潟県の辞令」を頂いたことは確かだ。しかしその「辞令」の意味も何の事か全く知らなかった。新潟県教育委員会に採用されたという事務手続きをしたことが無い。後でそんな書類がある事を知った。
昭和61(1986)年12月年末に、高橋校長に校長室に呼ばれた。意味が分からなかったが、何の研究をしているのかと尋ねられた。高電圧の磁場検出の話をしたと思う。最近気付いた。その時に、文部省に何かの申請をしたのではないかと。それがその年の秋9月から、電気系の事務室が誰も使わないような薄ぐら闇に成っていた原因かと。しかし、年が明けて何もなかった。1月の末に教官会議があった。その席で校長が「代議士に聞いたら大丈夫だと言われた」と言う何の意味か分からない話をした。きっと代議士と言うのは、長岡市の渡辺秀央、官房副長官ではなかったかと思う。2月のはじめに、長岡技術科学大学の電気系のある教授の方から電話があった。『残念でした。』と。その後尾白鷲の話をされた。そんなことを覚えている。それが何の意味かも全く知らないできた。最近何かやっと意味が理解できた。2月20日頃に難波江教授から誘いの話があった。逢って話を聞いた。津端教授が会いたいと言っていると。しかし、意味を知らずにお断りをした。人事の話だったのだと今わかった。その後部屋の窓から見ていた時、下を黒塗りの車が来た。その意味も今わかった。3月初めに、校長室を尋ねて、烏滸がましくも自分は4月からどうすれば良いかとお尋ねした。『大学から割愛願いが来ている』と言われたので、また予定通り大学に『助手』で戻れば良いのだと覚悟をした。新潟県から大学に移った時と同じく、『割愛願い』とはそういうものと解釈していたから。自分には未だ学術において、研究者としての能力が不足しているのだと解釈していた。今思う程、『静電界は磁界を伴う』が物理学の根幹を揺する事になると迄は考えてはいなかった。ただ食物については十分気を付けて、『鍵掛』で対応して3月末まで命を守り過ごすだけであった。ただ、長岡技術科学大学の大学名のように、科学理論より技術を重んじた意味からすれば、物理学の理論は余り大学の理念には合わなかったかも知れない。結局文部省で拒否されたのだと今意味を理解した。
文献
(1) 空間瞬時ベクトル解析と交直変換器への適用 電気学会電力技術研究会資料 PE-86-39 (1986)
(2) 電圧型PWM変換器を用いた瞬時無効電力補償装置の動作解析と設計法 電学論B.106,p.323 (昭61-4)