エネルギーとは何かと検索する人がいる。確かに『エネルギー』とは何かと尋ねたくなる。それ程漠然としたものかも知れない。(挿話)例えば、光『エネルギー』を光の振動数で物理学では解釈しているが、光の何が振動すると言うのかに答えなければ、理屈としての物理学とは言えないと思う。だから光エネルギーと言ってもピンと感覚的に捉え難いことになるのだ。振動数で解釈するのは、実験的に光を計測、分別するにはそれしか方法がない事から来る科学的便法でしかないのだ。光は振動等していない。『エネルギー』の縦波でしかないのだ。『エネルギー』そのものが空間に実在して、それが光速度の縦波となって伝播しているのだ。少し途中で光の話を挿入してしまって筋に混乱を入れたかもしれない(挿話)。エネルギー政策と言えば燃料・電力を指すようだ。物理学では運動論のエネルギーや摩擦熱のエネルギー、生物学では植物や細胞の話に出てくるが具体的にはっきりしないようだ。食品ではカロリーと同意語を成すのか。同じ『エネルギー』と言う言葉にも使う人の所属する分野によってそれぞれ異なっているようだ。
電力系統の『エネルギー』 市民が日常的に接する『エネルギー』は電気エネルギーが代表的であろう。冬は石油ストーブの灯油も思い浮かぼう。灯油は自動車のガソリンと同じものであるが、感覚的には「熱」と『動力』の違いで受け取られるかもしれない。今電気現象の空間ベクトルについて考えている途中で、電力系統の全体像を市民感覚で捉えておいた方が、ベクトル解釈の話につながり易いかと考えてその『エネルギー』からまとめてみようと思った。
電力系統の『エネルギー』 電力系統には『エネルギー』の様々な意味が含まれている。みんなたった一つの『エネルギー』の実相世界である。自然科学や科学技術を認識するのに広く全体像を捉えることがとても大事であろうと思う。狭い専門分野からのみ考えると、一方的な見方に偏ってしまう危険がある。特に理論的に偏った具体性の無い場合には、気を付けたい。学校の理科教育を考えた時思う。昨年科学技術社会のエネルギーと運動力学(理科基礎)で同じような話題を書いた。エネルギーとは何かに答える一つの具体例として良かろうと思って取り上げた。発電所は水力発電所では燃料は要らず、水の水圧の『エネルギー』や運動の速度『エネルギー』で水車により発電機を回す。今は殆ど火力発電が主流となっている。燃料に核燃料や重油を使い、その発生する熱『エネルギー』で水を熱して、水蒸気の高圧で高温の状態を作り出し、それをタービン羽根に吹き付けて回転動力に変換し、発電をする。発電機で電気『エネルギー』に動力『エネルギー』をエネルギー変換して、超高電圧の電気『エネルギー』に変圧器で変換し、電圧と言う電線路空間の三本の導体構成で、『エネルギー』の伝送分布を作りだしているのである。電気『エネルギー』は光とほぼ同じで、電線路空間内を光速度で伝送されるのである。この発送変電電力系統は『エネルギー』の様々な姿で現れている、科学技術の粋を集めた機能設備なのである。核燃料から家庭のテレビを見る間の自然現象は『エネルギー』一つを利用する科学技術であり、すべて『エネルギー』の醸し出す自然の姿なのである。
世界を描く 熱と光と質量の間に在る繋がりを何に求めるか。質量と光は明らかに異なる『モノ』である。物理学的には、原子に光を照射すると外殻電子のエネルギー増加を来たし、電子運動『エネルギー』が増加する現象と認識するのだろう。何らかの原因で、その電子がレベルの低い準位に落ちると、その差の運動『エネルギー』を原子外部に放射すると解釈する様に思う。その『エネルギー』が光であると。プランク定数と振動数の差と言う解釈で考えるのだろう。厳密に論理性を追究しようとしても、目に見えない原子世界の事だから何故電子が光を吸収して運動『エネルギー』レベルが高まるのかも良く分からない。電子の主要な物理概念は『電荷』で特徴付けられている。光が電子の質量に作用するのか、電荷に作用するのかもよく理解できない。光の振動数がその解釈には重要な役割を担っているとして、電子の質量に衝突して電子加速を引き起すと言うのだろうか。その辺の詳細な解釈の理由付けが見えないのだ。世界に『電荷』など存在しないと考え、光は振動等していないと考えると、全く物理学理論について行けない頭になってしまうのだ。こんな科学認識では、科学の世界に通用する訳はないかもしれない。『電荷』も捨てて、『エネルギー』一つを頼りに考えると、質量も光も熱も皆基は同じ『エネルギー』でしかないのだと思わざるを得ないのだ。そんな思いで世界を表現したのが世界を描くの図になった。そんな思いを発変電および送配電線路空間で解釈をしてみた。電気回路は光現象と結び付けて解釈しなければ、その本質の理科教育には成らない。