Space of Yoshihira
金澤 喜平(カナザワ ヨシヒラ)の漢字氏名が何故Kiheiと間違って翻訳されるか?
My name is Yoshihira Kanazawa.
我々は2眼一対の眼で世界を見る。2眼で遠近を計り、周りの全景を意識する。遠い対象は望遠鏡で拡大してみる。1個のレンズで両眼を使って遠景を見ることなど誰もしないだろう。無意味な事だから。しかし、眼の視覚の機能を理解するのに役立ちそうであるから、考えることにした。
一個のレンズと両眼視界 観測対象の遠近はどのような眼の機能で認識するのだろうか。単レンズをかざして、遠方の景色をそのレンズを通して両眼で見る。視界がハッキリしないで、二つの遠景が見えるように感じる。レンズ無しでその遠景を見れば、普段の正常な視界が見える。その正常な視界はその距離がどれ程かを脳で評価して認識するのだろう。遠近認識の眼の機能は両眼に届く対象からの光(視界)の角度で脳が判断していると考えていたが、どうもそれは違うのではないかと思う。
レンズと遠景視界 レンズを両眼の中心軸にかざし、遠景を観測すると、像が二つに見える。そこで両眼の内の片方を閉じて、それぞれ片方の眼で観察してみる。するとレンズも遠景の像も左右の眼と反対側に移動した様な視界に代わる。眼で見るレンズを通した視界は予想とは異なるのである。その視界が何故そうなるかを光路とレンズの関係で描いた。この光路の関係が何故起こるのか。この図の意味は普通の遠近認識の眼の機能とは異なる特殊な場合である。その特殊な場合から見えることは、普段の遠近認識の機能の意味を考える実験としての役割を示すと思う。レンズなどの無い普段の両眼に依る遠近の視界認識の仕組みを考える切っ掛けになった。両眼で見るとは両眼の瞳の方向をその対象の方向に回転して揃えることで、両眼の光路が対象に対する角度を確定し、両眼と対象の間に二等辺三角形を構成する。眼に入る光の筋道即ち光路の集合としての遠景は、その対象の各部からレンズに入り、屈折して目に届くまで、すべて一筋の光路の集合に依り全体が構成された視界として眼の情報を脳で総合評価した認識機能になっている。その事の意味は、今まで光の眼の瞳への入射角度で理解していた遠近認識の解釈と実際は異なるように思った。
遠近認識と外眼筋(ガイガンキン) レンズ無しの平常時での眼の視界を考えて見る。眼球には左右それぞれに6本の外眼筋がある。視界はまず脳の水平感覚がその方向性を判断する基本条件になっていよう。それは内耳に在る平衡感覚器官の状態を脳が判断して認識しているのだろう。その上で、眼球の上下左右の方向を外眼筋で調節したその状況を脳は認識し、眼球の回転角で遠近認識をしていると考える。その時の光路は左右の眼の瞳が僅かに内向きに向いているので、対象からの各部の光がまっすぐ瞳に入り、殆ど屈折無しに眼球の硝子体管を経由して黄斑に達する。この解釈の基には眼の内部での視界認識機構が大きな意味を成す。眼での像認識が網膜に映るカメラ機構での解釈を採るか、硝子体管の光ファイバーを通した黄斑の中心窩の解釈を採るかによって変わってしまう。網膜説を否定しなければ、視界認識の脳機能を理解するのは困難であろう。これも素人の光の縦波空間像解釈からの感覚的解釈論である。眼の視界には焦点がまったく無意味であると同時に焦点距離さえも無関係である。従って、眼球や硝子体レンズ調節による屈折制御のカメラから類推した仕組みなど視界に関しては殆ど意味の無い事に思える。メガネに依る調節は角膜から硝子体管の入り口までの間の調整に役立っている事であろうと考えざるを得ない。網膜で像を認識する訳ではないから。
眼の機能に焦点距離の概念は意味を成さない。カメラとは違う。