月別アーカイブ: 2016年12月

空間エネルギー

エネルギーとは何だろうか?残念ながら現代物理学理論で認識されていないのである。世界に『エネルギー』を持たない現象、物質は存在しない。『電荷』はエネルギーを持つかと尋ねても、電子の質量にお出まし頂かなければエネルギー論には成らない。それは『電荷』が世界、自然界に存在しないと同じ結論に成らざるを得ないことの証である。

%e7%a9%ba%e9%96%93%e3%82%a8%e3%83%8d%e3%83%ab%e3%82%ae%e3%83%bc空間エネルギー 『空間エネルギーの実在認識が自然観の要なり』ここで、空間エネルギーとは、体温であり、電圧であり、光であり、雷であり、水であり、水素である。そこに生命が生まれる。それが世界の全てだ。自然こそ、その偉大さに於いて神となろう。

空間エネルギーと検索すると、5次元世界とか霊的世界に関したものを言う論が出て来る。ここで言う空間エネルギーとは、そんな世界ではなく、日常の生活に徒然に在る自然のことである。

電気回路の電力とは何ですか?

電気回路を考える時、電圧、電流及び電力と言う技術概念量を思い描く。電力に関係して力率などの用語も使われる。電気製品にはその消費電力の定格値が示されている。電子レンジでチンする時に、電力500Wか600Wかで加熱時間が違う。少し専門的になると、電力にも有効電力と無効電力がある。更にもう少し専門的になるとpq理論では瞬時虚電力などと言う用語も使われる。日常生活に関係しているにも拘らず、考えて見ると電力と言う意味が結構難しい事のように思われる。消費するのは電力(エネルギーの時間微分)ではなくて『エネルギー』なのである。消費電力量と言う言葉でエネルギーを単位キロワットアワー[kWH]で計算して電気料金を払っている。誠に巧い電気技術計測法が確立している訳である。電力とその消費時間の積を『ワットアワーメータ』積算電力計(アラゴの円板の原理)で計るのである。電圧にも電流にも、その概念には『エネルギー』が見えない。何故『エネルギー』が伝送されるのか。『エネルギー』は何が運ぶのか。まさか『電子』が背負い籠に入れて運ぶ訳ではなかろう。その『エネルギー』の時間微分が電力だ。
[問答 電力とは何か?] 電力の意味を『エネルギー』との関係で、実際の電線路上に於いてどのように解釈すべきか?
『瞬時虚電力』の不思議を考えながら、先ずはその手始めの問題として取り上げた。

銀行通帳の変

どうしてこうも不可解が身に纏わり付いているのか。科学理論や自然現象の常識的解釈に多くの疑問が湧く。矛盾を感じることが多い。

銀行通帳の不可解 自分が知らない内に銀行通帳を作ったことになっていた。その日時は確かに精神的な混乱に、ストレスが追い打ちを賭けていた頃である。昭和63年8月1日 が銀行通帳を新規に作った日となっている。その通帳開設者の署名と印鑑の字体を見たが、確かに似ているがはっきりとは確認できなかった。通帳を作る必要など無かった。既に給料(?)の受け取り用の通帳があり、それを破棄して新しく作り変えるような事をする訳がない。当時は、「瞬時電磁界理論の実験的検証とその意義」電気学会電磁界理論研究会(同研究会資料 資料番号EMT-88-145.  昭和63年10月)への投稿論文執筆に忙しく、他の事に関わるような暇はなかった。この論文の内容は、昭和61年秋に長岡工業高等専門学校電気科の高電圧実験設備で撮り留めておいた静電界中の磁界検出実験の写真データが殆どを成すものである。長岡技術科学大学には、高電圧実験設備がなく、実験を続ける事は出来なかった。また、一つ思い当ることがある。その年の7月に大学の図書館で調べ物をしようと、カードを差し込んだら、入館を拒否された。電気系長にその事を話したら、『そんな事をするからだよ』と意味も分からない言葉で笑われた。そのカード事件が身分失効の電算機処理に掛かったのかもしれない。それにしても、新しく銀行通帳を作りかえる必要は何もなかった訳で不可解にして薄気味悪い事件。

初めての銀行との関係 昭和35年夏の事、新潟大学六花寮でアルバイト募集に応募し、大学研究者のお手伝いをした。山下地区の平地広場で、アイソトープに因る地盤調査の研究のようであった。アルバイト代の支給場所が新潟市大畑町に在る日銀新潟支店で、そこで頂いた畏れ多い事があった。日銀のアルバイト代の支給など有り得るのかと?

給与振り込み用銀行通帳 新潟県立新津工業高等学校に16年間いた。しかし銀行通帳への給与(?)振り込みはなかった?だから通帳は持っていなかった。初めて銀行通帳を作ったのは、住宅取得のため、昭和50年頃の年末であった。その通帳への振り込みは長岡技術科学大学、昭和55年であった。その通帳がどこかで切り替えの昭和63年の事件通帳になる。

人権事件だ。

世界はなぜ天然色か

この問いに答えることは科学論か哲学か。光と波長は物理学の話になろう。色覚と認識は生物学の話になろう。その両方とも科学論のようだが、両方を合わせて考えると科学論では収まりきれないように思う。光には色はない。色がない光を瞳に取り入れるとそこには色彩豊かな風景が見える。赤いバラの花びらが何故赤いかは答えようがない。紅葉の葉はアントシアニンが云々と解説されるが、アントシアニンがなぜ赤いかには答えられないだろう。眼と脳の認識の生物学的解釈が関係して来るからなかなか難しい。光には本質的に色彩は無いのだから。この世界の生物全ての生まれ来た存在の因縁に関わる事柄と観る事も出来よう。何故空気があり、水があるかを尋ねる事にも匹敵する存在の根源を問う事でもあろうから。それは哲学の領域の話となる。世界は調和と多様性の創造物で創られている。目の前の世界の意味を一つ取り上げても答えは見つからない。簡単に科学論で世界を理解できるとは考えない方が良いのだろう。多様性と個性が世界の豊かさの指標でなければならない。山の樵(キコリ)、炭焼き、街の仕立て屋さん、文房具店、靴屋さん、そこにはそれぞれの専門の職人が居た。コンピュータ制御ミシンが故障すれば廃棄するより方法がない。人の世界が貧相な色彩の世界に変わって行く。この競争と言う世界、それが人類が求めて来た理想の未来なのか。

木工・大工道具

自分に困っている。木材という程のものでないが、いろいろな材質の木の板やコロが溜まっている。捨てるに捨てられずの未練の材だ。何時か彫りたいと思いながら残っている『一位の木(岐阜高山で購入)』もある。同じく始末の付けようがない道具類がいっぱいある。義理の父(大工)から貰った年季入りの道具など。

%e9%91%bf鑿(ノミ) 歯幅5センチが最大。最小幅2ミリほど。

%e9%89%8b鉋(カンナ) 右の二つは使う機会なし。

%e5%91%bc%e3%81%b3%e5%90%8d%e4%b8%8d%e6%98%8e呼び名不詳 特殊な道具。

%e6%b7%b1%e3%81%95%e6%b8%ac%e3%82%8a自作道具 深さを計る。

%e9%87%8d%e5%9e%82重垂 重力加速度には関係ないが、垂直を計る。264グラム。姿の新家に在った。

単レンズでの両眼視界

Space of Yoshihira

金澤 喜平(カナザワ ヨシヒラ)の漢字氏名が何故Kiheiと間違って翻訳されるか?

My name is Yoshihira Kanazawa.

我々は2眼一対の眼で世界を見る。2眼で遠近を計り、周りの全景を意識する。遠い対象は望遠鏡で拡大してみる。1個のレンズで両眼を使って遠景を見ることなど誰もしないだろう。無意味な事だから。しかし、眼の視覚の機能を理解するのに役立ちそうであるから、考えることにした。

一個のレンズと両眼視界 観測対象の遠近はどのような眼の機能で認識するのだろうか。単レンズをかざして、遠方の景色をそのレンズを通して両眼で見る。視界がハッキリしないで、二つの遠景が見えるように感じる。レンズ無しでその遠景を見れば、普段の正常な視界が見える。その正常な視界はその距離がどれ程かを脳で評価して認識するのだろう。遠近認識の眼の機能は両眼に届く対象からの光(視界)の角度で脳が判断していると考えていたが、どうもそれは違うのではないかと思う。

%e3%83%ac%e3%83%b3%e3%82%ba%e3%81%a8%e9%81%a0%e6%99%af%e8%a6%96%e7%95%8cレンズと遠景視界 レンズを両眼の中心軸にかざし、遠景を観測すると、像が二つに見える。そこで両眼の内の片方を閉じて、それぞれ片方の眼で観察してみる。するとレンズも遠景の像も左右の眼と反対側に移動した様な視界に代わる。眼で見るレンズを通した視界は予想とは異なるのである。その視界が何故そうなるかを光路とレンズの関係で描いた。この光路の関係が何故起こるのか。この図の意味は普通の遠近認識の眼の機能とは異なる特殊な場合である。その特殊な場合から見えることは、普段の遠近認識の機能の意味を考える実験としての役割を示すと思う。レンズなどの無い普段の両眼に依る遠近の視界認識の仕組みを考える切っ掛けになった。両眼で見るとは両眼の瞳の方向をその対象の方向に回転して揃えることで、両眼の光路が対象に対する角度を確定し、両眼と対象の間に二等辺三角形を構成する。眼に入る光の筋道即ち光路の集合としての遠景は、その対象の各部からレンズに入り、屈折して目に届くまで、すべて一筋の光路の集合に依り全体が構成された視界として眼の情報を脳で総合評価した認識機能になっている。その事の意味は、今まで光の眼の瞳への入射角度で理解していた遠近認識の解釈と実際は異なるように思った。

遠近認識と外眼筋(ガイガンキン) レンズ無しの平常時での眼の視界を考えて見る。眼球には左右それぞれに6本の外眼筋がある。視界はまず脳の水平感覚がその方向性を判断する基本条件になっていよう。それは内耳に在る平衡感覚器官の状態を脳が判断して認識しているのだろう。その上で、眼球の上下左右の方向を外眼筋で調節したその状況を脳は認識し、眼球の回転角で遠近認識をしていると考える。その時の光路は左右の眼の瞳が僅かに内向きに向いているので、対象からの各部の光がまっすぐ瞳に入り、殆ど屈折無しに眼球の硝子体管を経由して黄斑に達する。この解釈の基には眼の内部での視界認識機構が大きな意味を成す。眼での像認識が網膜に映るカメラ機構での解釈を採るか、硝子体管の光ファイバーを通した黄斑の中心窩の解釈を採るかによって変わってしまう。網膜説を否定しなければ、視界認識の脳機能を理解するのは困難であろう。これも素人の光の縦波空間像解釈からの感覚的解釈論である。眼の視界には焦点がまったく無意味であると同時に焦点距離さえも無関係である。従って、眼球や硝子体レンズ調節による屈折制御のカメラから類推した仕組みなど視界に関しては殆ど意味の無い事に思える。メガネに依る調節は角膜から硝子体管の入り口までの間の調整に役立っている事であろうと考えざるを得ない。網膜で像を認識する訳ではないから。

眼の機能に焦点距離の概念は意味を成さない。カメラとは違う。