レンズの機能

教育と科学がとても大きな問題に思える。今過去の、いや現在の教育内容で何か空(ムナ)しい、無意味なものが多くあるように思えて来た。来年度の新入生を迎える為の学力評価の『入学試験』が始る時期に来た。日本の教育制度では「理科教育」で『科学教育』ではない。理科の問題に既に伝統のレンズの問題も予定されているだろう。レンズの『焦点』と言う概念が何時から使われているかは知らないが、長くレンズの機能解釈の基本原理として教育内容に位置付けられて来た。『焦点距離』は重要な概念であるが『焦点』は存在しないのである。電磁気の『マグネット』の意味はその自然現象の本質を理解するには難しいかもしれないので、磁束で教育されている事をそれ程非難できないかも知れない。しかし、レンズの『焦点』については余りにもお粗末すぎるだろう。一体理科の教育者は何を教えているのか。考えない教育する側の社会的問題と言えないだろうか。天眼鏡、ルーペ、拡大鏡と呼び方もさまざまにある程に身近なレンズで、メガネなどもその機能を使う日常生活の必需品である。その機能がレンズを手に持って誰も確認しなかったなどとは信じられないじゃないですか。レンズの中心軸に平行な光線が一点の『焦点』を通過するなどと言う理論が罷り通る科学・理科とは何なんだ。ここに記す内容もただ感覚に頼るだけの思考が導くだけなのだが。

レンズに二つの機能 レンズには大きく分けて二つの機能があると観る。一つは拡大機能(ルーペ)、もう一つは写像機能(カメラ)の二つであろう。天体望遠鏡も顕微鏡も拡大機能を利用する器具・道具である。しかしそこには写真に記録する写像機能も重要なものになっている。拡大機能と写像機能の二つを兼ね備えているのである。肉眼で観測する拡大機能がレンズの基本の利用価値になっている。カメラのフイルムに映す仕組みは眼で観測する拡大機能とは異なるのである。カメラの焦点距離の位置で眼で見ても全く像は見えないのである。フイルムに映す写像のピント・焦点距離と眼で観測する視覚像の光の関係は全く異なるのである。眼は何を・どんな光の入射を見るかの認識の問題かもしれない。

拡大機能 レンズを使うのは拡大して、詳細に視たいからである。

%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e6%a9%9f%e8%83%bd%e8%a6%96%e7%95%8c拡大機能 レンズの焦点距離をFとする。単位は勿論[cm][mm]の長さである。確かに焦点距離が重要なレンズの機能を表す科学概念・用語である。ルーペで文字を見ようとする時、文字とレンズと眼の位置の間には自然にある関係があろう。レンズと文字の間の距離にはD<F、眼とレンズの間にはF<leの関係があろう。しかし丁度文字とレンズの距離Dが焦点距離Fと同じくなると何も見えなくなることが分かろう。その何も見えない状態は何故かと考えないだろうか。何か訳の分からないぼんやりとした普段経験しない視界が見える筈だ。何か見えるが、見えている物が何かが分からない視界である。きっとカメラの焦点ボケと同じ事と簡単に解釈して、気にも留めないで過ごすのだろう。拡大機能でレンズが使えれば何も不満はない訳だから、そんな見えない視界の意味を考えるなどの無駄はしたくないのが普通の生活の人だろう。何の得にもならないから。本当はそんな意味の分からない事にこそ大切な意味が隠されているんじゃなかろうか。その眼で見ている物の正体は、文字の一点の像(光)がレンズの全面から眼の瞳に入っているのである。だから眼は文字の一点の拡大像だけを見ている状態である。眼の位置を動かせばまた文字の異なる部分の光だけを瞳に取り入れている状態になるのである。その眼の位置にスクリーンを立て、像を写せばレンズを通した文字の像が写像される筈だ。なお、D=Fの状態は丁度レンズを通した像が正立像の拡大から、縮小の反転像に切り替わる境の点である。また、眼に映る視界、脳で認識する普通のルーペ利用時の視覚像は即ち拡大機能の場合は、眼の位置が変わっても拡大像の大きさは変わらないようだ。leが大きくなればレンズを通した視界が狭まり、眼をレンズに近付けleが小さくなれば、視界が広くなるだけで像の大きさはほとんど変化しないだろう。

拡大機能と眼の光路 眼のレンズからの位置が変わっても、拡大像の大きさは変化しないように見える。その訳はどう解釈したら良いか?

%e6%8b%a1%e5%a4%a7%e3%81%a8%e4%b8%80%e7%ad%8b%e5%85%89%e8%b7%af拡大と一筋光路 あくまでも拡大の視界は感覚的な認識が基である。厳密に測定できるものではなかろう。拡大像の位置は感覚的に基の対象の位置と同じ所に在るように思える。その条件で解釈すれば、観測対象の或る一点からの光はレンズのそれぞれ無数の方向に入射している筈だ。その無数の光路の内眼の瞳に入る光の筋は一筋である。眼の位置をレンズに近付けても対象からの光の光路の内その位置に対応した光だけが眼の瞳に入ると解釈する。その様子が図となる。眼の光路の入射角が同じかと勘違いしたが、拡大像の位置が変わらないと感覚的に思えるので、結局角度が変化してしかも大きさが変わらないと言う現象で捉えた結果が図となった。拡大像の位置は全く感覚的なものであろうから、その意味では上の解釈図は場合に依れば人によって違うかもしれない。

スクリーン拡大写像 実験による確認。厳密な距離設定が必要だが、そんな装置は持ち合わせていない。天眼鏡の柄をクランプで挟んで固定。LEDランプ光源を観測対象に選ぶ。レンズの焦点距離Fも太陽光線の反転写像(そこには一緒に空の青色や白い雲の姿も一緒に写っている)の状態から大よその寸法として測る。残念ながら実施した科学実験の厳密性など保証の限りではない。しかしこれでも立派な科学実験として通用すると思う。レンズの機能の原理くらいは大体理解できるから。少なくとも『焦点』などの誤りはない。

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%8f%8d%e8%bb%a2%e5%86%99%e5%83%8fdfスクリーン拡大反転写像 D=F時のスクリーンの写像である。レンズの拡大機能を実験で確認した。光の像を写す必要から、LEDの小型ランプの光をレンズを通してスクリーンに映した像である。それを写したカメラの性能が良くないので鮮明さに欠けるが、紙面のスクリーンに写した像は拡大されて、LEDのランプの中のリード線らしき2本の影まで映っているのが分かるほど鮮明な写像である。この像の意味はもし眼で見るとしたら、視界の意味が分からない茫洋としたものになるのである。像が見えないのである。レンズとスクリーンの間で、眼で像を観測すれば、写像の一点に当たる位置に対応する瞳の点に入る光は同じ観測対象の一点からの光だけが全方向から入射するから、何も像は見えないのである。

実験結果に対する考察 少し距離の厳密設定での測定が出来たら良いがと思う。数mm程度の精度で実験できたら申し分なかろう。この大まかな実験では、測定対象距離Dと焦点距離Fとの間の関係が厳密にどのように切り替わるかは確認できない。D=Fと言うが、その今回の実験上の精度は曖昧なものである。クランプで挟んでランプとの位置関係は目視で適当なものでしかないから。さらにスクリーンの位置もいい加減である。何しろ光に関係した科学実験だから、もう少し光の物理的厳密性に沿った実験でなければ、世界の王者の光(『エネルギー』の素粒子と言う意味で)に失礼かとも思う。実験結果は拡大機能と写像機能の両方の機能を同時に映し出した結果である。D>Fで写像機能に移り、カメラの縮小反転写像となると思うのだが、このD=Fなのかどうか厳密ではないが、実験結果の写像は拡大反転写像である。Dが遠い遠方の大きな値なら、例えば太陽のような場合なら、縮小反転写像が焦点距離のスクリーン(スクリーンが燃えてしまうが)に鮮明に写る訳である。

レンズの写像機能 観測対象が遠い場合のレンズの機能である。スクリーンやカメラのフイルムにレンズを通して像を写す機能である。

%e5%8f%8d%e8%bb%a2%e5%86%99%e5%83%8f%e6%a9%9f%e8%83%bdレンズの反転写像機能(カメラ) この場合も、眼で観測するのとスクリーン上に映すこととは違うのである。写像機能のスクリーンで映る像は、その位置で眼で観測しても何も見えない。その位置は焦点距離で、ほぼls=Fに近い(少し大きい)関係にある。眼でレンズを通した反転像を見ようとすれば、相当距離leが大きくないと見えない。しかもその位置はどこでも見える。反転した小さな像が見える。

 

%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e5%86%99%e5%83%8f%ef%bc%88d%e2%89%abfスクリーン写像機能(カメラ) D>FでのLEDランプの反転写像である。いわゆるカメラの機能である。ルーペの姿も影で写っている。そのルーペの像はランプの影絵であるから何も反転等していない。その中心の光の像がLEDのランプの光の写真の像に対応するものであり、それがレンズの機能に依る反転した像である。このレンズとランプの間の距離Dが変化するとその像を写すスクリーンの位置も変えなければならない。それがカメラの焦点距離を調整するピントを合わせる操作と同じ事になる。

自然の心 レンズは世界を見る不思議の窓である。レンズは教育の意味を考える要に見える。自然はただそこにその心を伝えている。君の居るそこで、君が見ている物に自然の心が開かれている。君がその思いを読んでくれなければ自然も哀しかろう。物理学は自然を見つめることがその学問の肝心である。自然を見ないで数式に頼り、数式で理解できると考えるような教育をしてはいけない。眼もレンズも自然そのものの心である。数式ではレンズの心は見えないだろう。身近で、自然の不思議を見つけることに教育の本源があろう。眼もレンズも世界を見る為に在る筈なのに、その本質(機能)を見ていなかったのである。理論と言う人間の創りだした色眼鏡の頭脳意識で都合よく考えていただけだったのである。いつ官製理論の『学習指導要領』による官製統制教育から日本が解放され、自由の学習が出来るようになるのか。

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