科学は『科学的』と言う一種特有にして、日常生活と隔絶した別世界で発揮される高度な知的能力が要求される学問分野と看做されている。そこは伝統に縛られ、過去の業績に支配された共通認識の上に積み重ねる競争的発見の慣習の世界である。しかも、分野ごとに概念や手法が必ずしも共通であるとも限らない。そんな『科学的』と言うべき対象に人の眼球の機能があるように思う。そんな中で全く医学には無知の素人の私が考える事であるから、『科学的』と言う範疇には入らない話になる事には間違いなかろう。しかし、『科学的』から外れた日常感覚だけからの考え・思索でも『科学的』以上の科学的な論理があると思うのだ。それは光とは何かを問う事から始まる視点が必要であろうからだ。光の意味を、その空間像を捉えることに於いては実験的には無理であろう。光一粒の形状を見ることなど困難であることは誰もが分かろう。そんな光と眼球の関係を理解することは大変かもしれない。しかしカメラと言う科学技術の結晶が日常生活に生かされ溶け込んでいる。それは光と人間の世界認識の間を繋ぐ架け橋の具体例でもあろう。眼とカメラの間の光の綾取りを考えてみようと思う。
眼球構造の光学的機能
眼球構造と焦点距離 光の形と同じく眼の中味を理解することは困難かもしれない。殆ど水とタンパク質でできた構造体であろう。殆どの専門的解説図には『硝子体管』は描かれていない。それは解剖しても『硝子体管』と硝子体液の区別がつかないからであろう。『硝子体管』は発生過程で血管が通りレンズの水晶体の成長に重要な役割を持っていただろうから、その時点ではその存在は確認できたのであろう。眼がどのように成長するかの過程までは謎であろう。何故『硝子体管』があると考えるか。それはカメラの原理と比較した時に網膜上に視覚の像が結ばれると解釈することは無理であると考えざるを得ないからである。光の屈折はどのような条件で起こるか。光の伝播空間の媒体の物性的変化で起こるのである。眼球は殆ど蛋白質と水であろう。屈折を起こす場所は空気と角膜の境界であろう。光が眼球の中に入れば、水晶体でも殆ど伝播媒体の物性的変化はないと考える。水晶体構造は発生学的な関係から積層構造ではないかと仮想する。水晶体内部における光の伝播状況を空想すれば、その積層分布構造が光の垂直進行を整える役割になっていると思う。カメラのレンズのような伝播媒体間での物性的差による屈折現象は起きないと解釈せざるを得ない。なおこんな素人の水晶体解釈は、魚類の眼球構造が蛋白質の球状積層構造をしていると言う遊び心の発見からの推察でしかないが、生物的共通性からの類推でもある。それは魚眼の標本?に在るように、眼球は玉葱状の積層を成していることを類推した。さて次に『黄斑』の解釈である。眼底検査で、粒粒の点が見える場所が『黄斑』であるらしい。その『黄斑』の点は何故『点』に見えるのか。その訳は何なんだろうか。眼球の解剖学的所見は大昔からの解釈であった筈だ。『光ファイバー』等の科学技術もない時代の解釈である。だから、伝統的解釈の科学論には『硝子体管』など有りようがないのだろう。一本一本の蛋白質の線状繊維の光ファイバーなどが光の伝播通路・光路になるなどの解釈概念は存在しないかもしれない。光がエネルギーの縦波と言う概念がないと横振動波ではなかなか感覚的にも捉え難いと思う。しかし『黄斑』部が視力・視覚認識の重要な部位である事は専門的に共通理解されている。網膜全体ではない事は分かっていると思う。さらにその中心部は「中心窩」と言う窪んだ形状をしていると言う。カメラでフイルム面に視界を映す事と比較してみたい。
眼球型カメラ
眼球型カメラ 眼の機能をカメラの機能で解釈するのが教科書的常識であるようだ。だからその事を逆にカメラに眼の構造を応用して、カメラを作ったらどうかと考えた。それがこんな設計図になった。特に工夫した点はフイルムの形状である。その面は基本的に球面の一部を成し、更に焦点距離の概念を覆すべく窪みを付けた点である。なかなか難しい撮像面であるが、こんなフイルム面を工夫したら、教科書の解説用カメラになるかと考えた。日本人の眼球の長さは平均的に24~25㎜程らしい。レンズの『焦点』の物理学的解釈が間違いだと指摘した。平行光線が焦点に集まると言う理論は有り得ない。その『焦点』の解釈が眼球の中心窩の窪みについても焦点距離の意味にそぐわないとは感じない教育的問題になっているのではないかとも思う。光の屈折現象がどのような伝播媒体の境界で起きるかも感覚的に理解していないのではないかと危惧する。みんな教育効果であろう。