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ゆっくりと遠近の世界をー速度「理科基礎」-

大それた疑問は生きている意味を問う自己確認の旅かも知れない。それが人生か。生まれた時の産声は人生を問う第一声でもある。何も知らない世界だから、保護されながら生きられる。すべてが恐怖の世界の筈だから。そこに向けた第一声が記念の産声だ。その時から長く生きながらえると、生意気にも哲学などと訳の分からない事を穿り返したくなる。始末に負えない生物になる。しかし、特段社会に害を及ぼす訳でもなく、極めて冷静・平穏な筈であるが、幾ばくかの差し障りを生むかもしれない事は我知らず。自然科学などと数式を頼りに論を展開している内に、いつの間にか余り数式が頼りにならない心境になってしまい、己の数学的能力の限界を悟る。止むなく学術的でない日常用語での科学論を展開する仕儀になってしまったのかと。感覚だけが頼りの『時空論』をと考えてみる。自然世界の現象を理解するには『速度』が物理現象には欠かせない。究極は『光速度』とはどんなことかを認識することに尽きるように思う。華やかな世界の科学理論「一般相対性理論」は理解の程遠い話だから、産声を立てる心算で、身近な感覚から眺めよう。高等学校での物理で取上げる自然現象の『速度』とはどんな意味かを考えながら。
空間 『空間』は世界の基盤である。世界の事象を考える、考えないに関わりなく、その空間の意味を疑問には思わなかろう。生まれた時からその空間世界に同化して生きて来たから。

写真285手のひら 手を広げてみれば、その空間は宇宙の果てまでつながっている。手のひらに宇宙を乗せていると思っても良かろう。世界の考え方は自由である。青空の下であれば、その空に向けた手のひらには微かでも何百億年前に遠い星の放った光が届いているのだ。今手のひらの向きとその光の基の星の位置とはどんな関係にあるかと不図思う。今届いた光の軌跡は観る事は出来ない。想像する以外に軌跡を知ることは出来ない。星は何百億年の時を経た今、手のひらの裏側に在るかもしれない。空間の意味を世界を知る基準として捉えようとすれば、そこには不可能の意味を同時に知る事にもなろう。灯りの無い砂漠の平原で満天の星を眺めた時、一つ一つの星の光はすべて遠い過去に放たれた、しかも時間の違う時代の光なのだ。1万年前の星座と今見る星座とにどんな違いがあるかも知ることは出来ない。世界はすべて流れているから。決して静止していないのだ。すべての星の光は星との相対運動の下での観測になる。だから観測波長も相対速度の下での観測になる原則から逃れられない。世界の存在する『空間』も、その意味を知ることはなかなか難しい。空間を少し数式で考える時空間ベクトルと単位ベクトルで扱う。
時間 『時間』とは何かと問う人がいる。それに答える人もいる。様々な事柄がインターネットの中に行き交う。『相対的・・』などと問答が展開されるのが多いようだ。日常当たり前に疑問も抱かない時間とは何かと問う人は、きっと現代物理学論の話題に興味を持ち、勉強をしているからなのかも知れない。そんな疑問を持たれる人がいる事に興味を持って、少し考えてみた。私は思う。『時間』など自然には無いのだと。自然はただそこに今ある姿を示しているだけで、『時間』などと言うものは無い。『時間』で自然を見ようとするのは人間の『性(サガ)』故のことでしかない。理屈を付けて因果関係を理解するために時間を必要とするからである。日の出と日没で生命にリズムが生まれるが、それは人間の為に創った訳ではなく、自然そのものでしかない。『時間』と言う概念がどうしても欲しい。そう感じるのが人間だから、その訳を探ってみるのも良かろう。太陽も地球も空間に存在する為には静止しては居ない。回転によってその存在形態を造っている。その結果が回転に伴うリズムを生む。そのリズム(生命のリズム)そのものが生命の存在するリズムの基本となっている。回転は輪廻転生と言う同じ事は許さない原理を創りだしている。生命に限りがあるのも自然のリズムがある故である。「生きたい」という願う心にはリズムの『時間』が刻みつけられている。生きる安心の為に『時間』を意識するように自然に生かされた存在なのだ。大した事ではないのだが、自然を『モノの理』として納得したくなるのも人間の性であろう。大自然の実相を悟るなど度台無理な筈なのだが、何とか理屈を付けておきたくなるのも人間であるが故だ。纏めれば、『時間』には二つの意味があるか。一つは人間の概念:社会集団生活上不可欠な『時間』。二つ目に生命のリズム:自然の本質である回転のリズム。宇宙の空間と時間を考えた時、世界の始まりも終わりもない。地球や太陽系は無くなる時が来るかも知れないが宇宙は輪廻転生の原則で決して消えない。特別の理論など要らない。

光速度 『速度』という意味をどのように理解してるか。「空間」と『時間』について述べた。世界に静止する実在は「空間(何もなく、動かない広がりであるが故に世界が存在できる)」である。太陽の運動、地球の運動と言えば、その運動(位置と『速度』)を定義する基準座標が決まらなければ運動を論じられない。自然の世界を理解するということは、安易な法則で捉えようとしても無理がある。自分の運動を考えるに、『速度』は地球の自転、公転の上に地上の観測できる速さの総体として受け取らなければならない筈だ。それでも太陽系内での話である。短距離走100mの世界記録と言えば、トラックの地面を『速度』の基準座標として捉えている。しかし本当は太陽系全体が回転エネルギーの局所化された運動形態である。この辺の事について地球の自転と万有引力を考えるで少し論じた。その中の日常には関わりないとしても真理は全体の中の一部になっていると頭の片隅に置くべきであろう。物理学では、運動などの力学的エネルギーとして、運動エネルギーと位置エネルギーの二つで捉える解釈法が採られている。我々は太陽に拘束されて生かされている。ならば、地球に対する太陽の重力加速度(もし位置エネルギーを唱えるなら)など余り考えないようだが、それも無視出来なかろう。運動法則が自然世界の真理と言うなら、地球の太陽系での力学的エネルギーも宇宙論の基盤に理解できなければならない筈だ。『エネルギー』は力学的エネルギーだけが物理学で基礎概念として教育内容の対象に論じられるが、その教科書的エネルギーなど世界の『エネルギー』の内の一部でしかない。太陽から放射されるエネルギーは光などに質量を定義していないから、力学的エネルギーの範疇には入らないだろう。物理学理論のエネルギー論は片手落ちではないか。そこで再び『速度』とは何かを考える。何故地表座標基準での『速度』だけではいけないかは、『速度』の極限を示す光の『光速度』を問題にしたいからである。光は何を運ぶのか。振動数を運ぶ訳ではない。『エネルギー』を運ぶのである。光を周期波として解釈するが、その半波長でも『エネルギー』なのである。『速度』とは『エネルギー速度』なのである。いわゆる運動エネルギーは質量を媒体とした『エネルギーの速度』と解釈すれば普遍的に捉えられる(私だけの感覚かな?)。『光速度』はアインシュタインの『特殊相対性理論』で世界を席巻して有名である。しかしその理論では、光の速度を規定する空間座標が明確に(慣性座標系は曖昧である)定義されていない。どう考えても理解できない。1887年のマイケルソン・モーレーの実験結果を過大評価した結果、アインシュタインは間違ったと思う。だから『特殊相対性理論』は詭弁論だと。光が特殊な現象を演出する訳でなく何も日常の感覚とかけ離れてはいない事から光の速度と空間特性として纏めた。また関連して、光速度は空間定数(H/m,F/m)で決まる に記した。地球の運動が光の速度との関係で、相対的である事は当たり前な事である。1676年にレーマーが光速度を計算した。それは地球と木星との相対的な運動の影響が、光の速度『光速度』の算定に役立つと考えての事である。もし、アインシュタインの『特殊相対性理論』を唱えるなら、レーマーの実験での地球の運動に基づく『光速度』の算定結果を否定しなければならない筈だ。すべての光は光源と観測者との相対的な関係が観測結果に含まれるのだ。ただ光速度が地球の公転速度(約30km/s)に比べても比較出来ない程の速さである。その光速度測定法における算定には誤差が伴い易い筈だ。マイケルソン・モーレーの実験結果はその誤差を取り除けなかっただけだと解釈する。1933年、Dayton C.Miller, The Ether-Drift Experiment and the Determination of the Absolute Motion of the Earth  Rev.Mod.Phys.5,203(1933) にはマイケルソン・モーリーの追認実験が成され、測定結果も示されている。何故この結果が検討されないできたのか不思議だ。

最後に、速度とは『エネルギー速度』だと結論付けた。水の波、水圧エネルギー波、空気波(音声圧力波)等の波も『エネルギー速度波』であり、エネルギーの伝播速度はその媒体空間特性が決めると解釈する。それに関して専門用語『振動数』の解剖がある。

布団乾しー温度の理科基礎(仮称)-

寒い冬が去り、陽射しも強くなる。日向での布団乾しの光景が目に入る。日常生活の中にこそ、本当に求められる「理科基礎(仮称)」がある。地球温暖化が人々の生存環境さえ脅かす恐れ問題に発展している。しかし、『温度』と言う物理概念も余り具体的な意味が捉え切れないようだ。気温と言うと物理学理論では、気体分子運動論でボルツマン定数kが取りざたされるが、生活空間の空気の保有エネルギーがいくらなのか具体的な問題になると、学識経験者からは余りお答えが得られないようだ。理想気体でないと理論が適用できないのかもしれない。そこで、日常生活の布団乾しに温度の物理的意味を探ってみようかと考えた。初めての事で我儘な論理の展開に成るが、結構面白そうだ。前に『温度とは何か』が問うもの で少し論じた。今回の布団乾しの中で、少し『温度』の意味が分かったように思う。

布団干しと熱布団乾しと熱 乾した布団はふんわりとして、太陽光線を浴びた独特の匂いがする。布団の中まで熱が通り、暖かい。布団は日光を浴びても『光合成』をする訳でもなく、布団の内部にそのエネルギーが浸透するだけである。光が布団の中に入り込むことは間違いない。布団の中に入る時、光はいわゆる物理学の『光子』のままでは無理であろう。まさか振動数のまま布団の中に入れてはもらえないだろう。玄関で靴を脱ぐと同じく、身支度を変えなければ入れないと思う。布団に御這入りいただくには『熱』姿に身支度を変えて頂くことになる。姿は変わっても、本質の『エネルギー』が変わる訳ではない。布団の中では『光速度』と言うエネルギーの姿は採れないのだ。布団の中の物質的エネルギー伝播媒体が変わるのだから、光のままではお通り頂けない。媒体の中に身を留め、周辺環境のエネルギー分布との関わりに因って自ずから留まるか、伝播するかあるいはエネルギー蓄積が進み、布団外部空間に再び光となって輻射・放射するかが定まるであろう。そんな意味を図の②の絵に表した。光が熱に、そのエネルギーが変換するだけであるから『エネルギー保存則』は守られよう。ただエネルギーの変換過程で影響するのは、布団綿などの材料の『比熱』であろう。布団綿の比熱と言っても綿の繊維とその空間の空気との混合物体であるから、これこれだと言う物理学理論に乗せられるような代物ではない。しかし基本的な意味は物の『比熱』と同じ次元の意味である。ボルツマン定数はk=1.380×10^-23^[J/K]であるが、比熱の単位はc[J/kg k]で、単位質量当たりあるいはモル比熱c[J/mol K] 等である。ボルツマン定数は理想気体において、絶対温度T[K]との積でエネルギーE[J]が得られるが、気体分子の運動エネルギー(3/2)kT[J] などで評価するが、水蒸気を含む気温の生活上のエネルギーをどのように算定するかで学術的価値が示せるかが課題であろう。その点『比熱』は理解し易い概念と思う。そんな意味を布団内部の温度分布で考える図が③である。実際に布団内部の温度分布がどのようになるかは全く分からないが、エネルギー分布の高低差の微分が一定であれば、エネルギー流は一定になると思う。そのエネルギー流(ベクトル)をS={d(ρA(-gradE)) /dt} [Js^-1^ m^-2^] と表した。

温度とエネルギー 評価絶対温度T[K]の媒体の比熱をcとすれば、そのエネルギーはE=cT[J/kg] と解釈できる。従って、『温度』とはその媒体の持つエネルギーを比熱で除した評価概念だ。と大雑把ではあるが、そう言える。エネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系 で温度の物理的意味がエネルギーとの関係で捉え切れなかった。しかし、比熱に因り温度のエネルギーとしての意味が理解できた。ただ『比熱』が実際に数値で評価できるかどうかはまた難しい。『比熱』も温度あるいは圧力の関数であろうから。

体温と身体活動エネルギー「理科基礎(仮称)」を想定して

すべての市民が現代社会においては科学技術に関わることの大きな比重を占めて生活している。私も、少しは自然科学の事を記事にして公開している。そこで高等学校の理科(物理、生物、地学および化学)教育で習得して置かなければならないと決められている文部科学省の『学習指導要領』の内容を知る為に、『生物』の参考書(新課程版2012年4月以降入学生対象 大学入試で云々・・)を読ませて頂いた。高校生が学習する内容は一般市民として理解していなければならない内容なのだろうと思う。しかし能力不足で、内容がまったく理解できなかった。そこで『アメリカ版 大学生物学の教科書 第1巻 細胞生物学 D・サダヴァ他著 石崎泰樹/丸山 敬 監訳・翻訳 BLUE BACKS 』で勉強させて頂こうと購入した。

恥ずかしい生物学理解不能力 私は殆どの記事を読んでも、全く理解できない。こんな難しい生物学を高校生は理解できるのかと驚きだ。そこで、自分の生物学的能力の無さの原因はどこにあるのかと考えた。確か高校の1年生で、生物を習った覚えはある。赤ガエルの足の皮をむいて(今は生物生存環境が人間に因り劣悪化して、殿様ガエル、赤ガエルなど殆ど見掛けない)、神経の反応で筋肉がピクピクするのを電極を使って調べた記憶がある。先の細胞生物学の教科書の中で、第3章 エネルギー、酵素、代謝 の部なら『エネルギー』の事が関係しているから少しは理解できるかと思って読み進んだ。世界は、医学・生物学の分野で新しい認識に因り、細胞の再生医療が現実味を帯びている。高度医療に因る恩恵の一方、医師不足が社会問題として将来に暗雲さえも感じられる事態に成った。余りにも自分の医学的理解力の欠如と現実的医療内容の高度化との乖離が大き過ぎて、社会的不安感が自分を苛む。そんな現実の中で、己の生物学に対する無知が恐ろしくもある。高等学校の理科教育の未来の指標「理科基礎(仮称)」を想定してみれば、その内容がどのようであるべきかと己の無能を一つの基準として考えるのも有効な視点に成るかと思った。エネルギーとアデノシン三リン酸(ATP)の解説を読みながら疑問を拾い上げて考えてみようと思った。

アデノシン三リン酸とエネルギー

ATPとエネルギーATPとエネルギー アデノシン三リン酸の意味は細胞をはじめ生物の身体活動の『エネルギー』との関係で理論的解釈が示されている。その説明の殆どが理解できないので、図のように?マークを付けざるを得ない。解説を読んでも理解できない能力不足の自分を曝すことで、高校生が理解できると言うその意味を確認してみたい。先ず基本的視点として『エネルギー』とは何かが問題なのじゃないかと思ったのでその点を考える事から始めたい。

?体温とエネルギー 生物学的理論では、分子構造とその合成・分解に伴うエネルギー論が主体的論点に成っている。しかも解説によれば、エネルギーは物理学的認識に基づいて運動エネルギーと位置エネルギーの二つを基本的認識に据えている。さらにエントロピーやエンタルピーと言う熱力学的概念を取上げて基礎と説明されている。しかしATPの化学反応過程の説明では、『エネルギー』と言うが、それがどのような運動エネルギーなのか、位置エネルギーと関連する事なのかの理論的結びつきの説明が全くない。その解説の中味を追っても論理性がまったく見えず、ただ解説内容をそのまま鵜呑みして覚えなさいと強制されている様な圧迫感を受ける。どこにも「考える」意味が見えないのだ。これが自然科学の論理性なのかと恐ろしくも感じる。『エネルギー』の実体がまったく解説の中に見えない。不図思った。素人ながら、電気磁気学の考察感覚から考えて、生命を保持する基本的身体的条件があるのじゃないかと。『体温は生命体の保全環境基準』と言う意味で捉えるべきなのじゃないかと。送配電線路のエネルギー伝送設備で、線路電圧と言う電気概念がある。今まで『電流は流れず』に因り、電線内を電荷が流れると言う電気概念は間違っていると説明して来た。『電荷』概念に基づく電磁気学理論に矛盾がある事に留意して、送配電線路の『電圧』とは何かを探って来て、結局エネルギーで観る線路電圧 においてその本質を示した。何かその電気回路の『エネルギー』と身体の『エネルギー』とが同じ意味に見えた。そこからの類推しての解釈でもあるが、体温は身体全体に分布した『エネルギー』の姿であると。送配電線路は発電所でただ電圧を制御すれば末端までのエネルギー供給が成され、電力系統は保持される。身体もただ体温を制御すれば、どこの筋肉の動作にも必要な『エネルギー』が容易に得られる筈である。『熱エネルギー』が光や電気信号(神経)のエネルギーとまったく同じものである。医学・生物学について全くの素人解釈ではあるが、高校生が学習する初めに同じ思いを持つかと思って、アデノシン三リン酸のエネルギー論に対する疑問を拾い上げておきたい。それは高校生の考える『生物学』の参考にもなるかと思うからでもある。

?1 最初の?としてアデニンと言う分子(遺伝子DNAを決める塩基)を取り上げたい。この分子は?2のDNA(4種の塩基)の中の一つである。大よその理解で考えれば、この4種の分子が全ての生物の遺伝情報を支配する基本分子であるようだ。人間に必要な『必須アミノ酸9種』は人が外部から取り込まなければならないとされている。しかし、このアデニンはどこで合成されるのか。植物の光合成でのみ得られるものなのかと疑問がある。人が細胞内で合成生産できるものなのか。他の3種の塩基も同じくどこで産生されるのか。細胞内での細胞分裂では無限に必要な分子であるから、常に細胞内に取り込まれていなければならない筈だ。4種の塩基、リボースの糖およびリン酸が十分に供給されなければならない筈だ。その上で、生命活動に必要な『エネルギー』の供給に何故ATPだけが論点に成るのかも知りたい。他の3種の塩基チミンT、シトシンC更にグアニンGはなぜ『エネルギー』論の対象から外されるのか。例えばグアニンGもアデニンと似た分子構造であるから、リボース、リン酸と合成されGTP等と言うものも有っても良かろうと素人は考える。何故アデニンだけが『エネルギー』論の対象に成るかが考える理科教育には重要な論点ではないかと考える。教育者及び『学習指導要領』関係者はその辺の事も「考える」疑問に答えて欲しいのだ。そこに今、今日からの子供達の未来が掛っているのだ。

?3(リボース) 勉強不足で申し訳ありませんが、時どき結合手の表現でこのような太線表現がある。炭素結合の表現法であろうが、特別の意味があるのだろうか?

?4 ATP アデノシン三リン酸の『エネルギー』論の解説で、ATP→ADP+エネルギーと示される。リン酸が3個から2個に減少して、その結合分の『エネルギー』が放出される意味らしい。じゃあ、2個から1個にもならないのかと疑問が浮かぶ。更にそんなリン酸1個が分離するだけで『エネルギー』が得られて、そのエネルギーはどこにどのように使われるのかと質問したくなる。自分の高校時代を思い出すが、授業中に質問ばかりして、授業の進行を妨げた事をお詫びしなければと思いだした。御免なさい。それにしてもリン酸1個が合成されるか分解されるかで、『エネルギー』が論じられるなら、アデノシンの部分は大げさで、図体だけの邪魔なのじゃないかと思った。そのアデノシンの部分は『エネルギー』供給にどんな役割を担っているのだろうか。アデノシンの分子構造が酵素との結合に重要らしい事は説明されているが、『エネルギー』の発生にどんな役割があるのかが見えない。結局『エネルギー』とは何かが見えないのだ。

?5 結合手 結合手の2本線と1本線の違いは意味があるのか。ベンゼン核の分子構造とその立体構造の問題であろう。『電荷』の電気結合手表現であるのだろうが、ベンゼン核の炭素は6個とも対等であろうから結合手1本と2本の違いは無い筈だ。しかも空間構造も平面的ではなかろう(2018/01/03 考えが変わった。ベンゼン核が平面構造であるとすれば、その対称性は軸性とエネルギー貯蔵の機能を担っているのかと考えられる)。そのことから、アデニンも立体的な構造を考慮した表現では、結合手1本、2本の差は無かろう。もし窒素Nに1本と2本の差があるとすれば、その立体空間構造でもその差異を示さなければならない筈だ。すべてが『電荷』概念の結合手に基づく科学理論の根本的問題なのだ。この世界に『電荷』等実在しないのだ。なお生物学においてはベンゼン核は殆ど無関係のようで、取り上げられない。

?6 水素とプロトン 分子結合には必ず水素-Hがある。水素とプロトン(陽子)にはどんな違いがあるのだろうか。水素は世界に存在する最小の原子で、質量の構成単元とも言えよう。その陽子と水素原子は質量で差はなかろう。元々もし電子・電荷を仮定しても、その『電荷』は核の陽子と電荷的に釣り合っていて、外部と結合する電気的力の働きを持てない筈だ。だからもし水素原子の結合があるとすれば、素粒子の陽子が張り付いて、質量のバランス程の意味しか持たなかろうと思う。陽子なら水素原子以上に小さな質量単位と考えられる。

「理科基礎(仮称)」の生物学 化学とも関係する分子構造に関して、その詳細が解って来たように見受けられる。その構造の決定法が教科内容のトピック的に取り上げられれば、科学技術として有効な教育効果をもたらすと思う。それは素人的にはとても興味がある問題だ。また、人間の身体的機能、臓器の働きあるいは循環器系など保健教科と重なるかもしれないが細胞理論より大切と思う。

神経細胞とその機能 常日頃の疑問。出来たら教えて欲しい。身体活動全てで、その働きを支配し制御するのが神経伝達系だと言うように解説されているようだ。神経細胞を通して指令信号が『脳』から発しられ身体活動が起こると解釈されているように思う。しかし、神経伝達方向は末端から『脳』に向かって神経細胞を通るのではなかろうか。『脳』からの発信信号は神経細胞を通るより、身体構造全体、骨格、靭帯などを通して伝達される。神経細胞はすべての情報を検知し、理解するフィードバック信号の伝達機能を担っているように思う。五感で受け取る情報を常に『脳』で把握していなければならないから。こんな人間臭い素人の話は、高尚な学理の問題として取り上げるべきでないと言われそうだが、蛙の受精論より身近な大切な話と思う。日常生活に根差した新しい理科教育を行うべきと考える。関連記事に脳の機能と個性および脳と生態制御の謎がある。