太陽と雪

突然科学論を太陽と雪が仕掛けて来たようだ。だから比べようも無い二つを想念に重ねて見る。似ていることと似ていない点を拾ってみようか。太陽は太陽系を司る中心の存在だ。太陽系と雪の結晶で、似ていることはどちらも平面形状をしている点だ。こんな無意味を文字にすることも、勝手に許されると我儘をする。科学論に乗せようとしても、片や果敢無い(ハカナイ)夢の一瞬の姿で、その実在性も幻の世界にすぎない。しかし、そんな在るかないかに迷う素性も時と処で巨大な姿に変幻し恐怖の世界を演出する。こんな雪の一片も本当に科学論を深めようとすれば、その不思議さ故に素敵な対象なのだ。他方、太陽系は推し量るにも五感に触れる術さえもない、その全体像の巨大さ。ただ毎日太陽の光の中で、その源の循環を知るのみである。自分で確かめようもない理解の縁にやっとしがみ付いているだけだ。太陽は光と熱による活動の支配者。雪の結晶はやはり光と熱の放射による活動停止の姿。太陽の光と熱の基が何であるかは分からないが、雪の光と熱の織りなす素は水の世界だ。発熱と冷凍の対極でありながら、どちらも命の源の役割を担っているようだ。理屈を付けようとしてもどちらも手のひらの指の間から抜け落ちてしまう。ただ確実に言える事が一つある。太陽の光も雪の結晶もその根源は『エネルギー』一つの具現の姿でしかないということだ。

平面形状 太陽系も雪の結晶もどちらも平面形をしている。何故平面形かと頭の中を探しても答に窮してしまう。太陽系の軸性回転体系の訳を有名な万有引力則から理由付けしようとしても無理である。始めから同一方向に回転しているから何とか万有引力で解釈しているだけで、万有引力則や重力理論で軸性回転が生じる訳ではないのだ。自然は何故回転を基本に形作られるのかに答を見つけられない。雪の結晶構造も平面形であるが、何故六角形に展開するのかも水の素性に隠されているのだろうが意味は知らない。「何故か」に自然は彩られている。高尚な一般相対性理論が世界の統一理論の鍵となるとの論議があるが、数式で自然が解釈出来ないように感じるから難しい。雪の結晶一片にも、その心に迫るに数式では太刀打ちできない。関連記事:太陽は何故燃える? 雪と天然 。

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