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荷電粒子加速と電磁力

自然現象は法則によって理解する事が科学論理の共通認識に極めて重要となる。しかし、哲学としての自然観から見ると法則の公式に纏められる程自然は単純ではない。やはり電磁気現象を取上げて、その電磁気学的解釈を数式で纏められた法則の中味について、少し詳しく考え・吟味してみよう。代表例として、荷電粒子の加速現象を取上げる。荷電粒子を加速するには、電荷と電磁場の電界、磁界の間に発生する力関係が問題になる。電磁力とは何かを理解しておかなければならない。今年の大学入試センター試験の物理の問題に荷電粒子の加速の課題が出題されていた。何となく暗記していれば、考えなくても答えを選びだせるが、物理的な現象として深く考えると、答えられなくなる。決まり切った常識的な答を選び出す感覚を教育に求めるならば、それでも止むを得ないが、考える物理学としては首を傾げざるを得ない。そこで少し自分なりに考えをまとめておきたくなった。物理問題に挑戦して(2015センター試験)。

電磁力電磁力

自然科学と言う学問分野は、自然現象を解釈するのに、先ず分析して様々な現象の中味を分類し、細分化した基本の概念を定義して、誰もが共通理解できる基盤を整える。その上で、解釈法を新規に開拓する事で新たな進展を遂げる。新しい解釈や発見が科学技術の世界を広げて、社会に貢献する喜びが科学者の生き方と成る。科学技術の世界は見違えるほど進化し、人類は豊かさを享受して来た。その推進力が科学理論であるとみんなが理解して来た。科学理論即ち基礎概念と。その中で、自然科学の基礎概念の矛盾を唱える事は、世界常識を覆すことにもなる訳であるから、専門的科学界からは理解され難い。そこに哲学と言う深く考える意味が生まれて来ると思う。上に挙げたファイルの電磁力の中味を解剖してみようと思う。

電磁界 電気の現象が生じる空間場を電磁場あるいは電磁界と言う。電気磁気の場とも言うように、電気と磁気の二つがそれぞれ独立して、あるいは両方が巧みに絡み合った関係で存在する場(マックスウエル電磁場方程式)として捉える。ところが、詳しく分析してみれば、電界や磁界と言うその場の状況さえ余り厳密に定義されている訳ではない事に戸惑わざるを得なくなってしまう。だから、その電磁場での荷電粒子の加速現象も、良く意味が分からなくなってしまうのである。そこで、荷電粒子の電磁場での加速現象を、電磁力と言う式の意味から解剖してみようと思う。

力ベクトル力ベクトル

荷電粒子の運動方程式は電磁場の空間のベクトル計算で解釈される。電界ベクトルE(物理的な定義が判然としない。電荷からの電気力線の太さ的な強さとでも考えるか?)と磁界ベクトルB(磁束密度:単位面積を通る磁束線量か)の二つの電磁界供給源に因る電磁場が空間に造られたとする。それぞれのベクトル方向は独立して存在する。その電磁場にプラス電荷q[C]の粒子が速度v[m/s]で入射した。その時粒子が受ける電磁力には、磁界と電界の二つの独立した力を受ける。その合成力がf=f_B+f_E である。電界に因る力は電界ベクトルのスカラーq倍で、電界ベクトルと同じ方向ベクトル力となる。磁界Bによる力は、荷電粒子の速度ベクトルvとのベクトル積で決まると成っている。以上の電磁力のベクトルを上に図解した。教科書的法則に因る電磁力の意味を示した。問答はここから始まる。『電荷』が電界や磁界との空間での相互作用で、何故力が生じるのかと疑問を持たないだろうかと言う事である。『力』とは何か。遠隔作用力か近接作用力か、明確に共通認識されているだろうか。等を考えてみたい。

電磁力の意味 先ず磁場による力を考えてみよう。磁場から受ける力は荷電粒子の速度ベクトルと磁束密度ベクトルとのベクトル積で解釈される。[v×B]のベクトル積は、速度ベクトルvから磁気ベクトルBの向きに右ねじを回した時の、ネジの進む方向に力が生じる。vにもBにも垂直の方向に発生する。上の図の場合は、両ベクトル間の間の角度がθであるから、力の大きさはf=qvBsinθとなる。何故そのような力が生じるのだろう。ところが『電荷』が静止している場合は磁場の中でも何も力は発生しない。式の意味からすれば、静止電荷に対して、磁場の強度がどのように変動しようと力は発生しないと言う事になる。それは、『電荷』と言う概念に対して磁界は全く作用性を持たない、不干渉の関係にあると言う事だ。ところが、磁界に対して『電荷』が動くとたちまち力が生じると言う。一様磁場と言う磁界の変化の無い空間で、『電荷』が運動したとしても、磁界との相対的変化は何も生じない。もともと『電荷』には磁界は無いと定義されている。にも拘らず『電荷』が一様磁場で運動するとその速度と磁界の両方に直角の方向の力が生じると言う。この場合の力の発生原因を何に求めれば良いのだろうか。速度に対する電荷のスカラー倍qvの次元はどんな意味か。qv[Cm/s=Am=(J/H)^1/2^m]となる。磁束密度はB[Wb/m^2^=(JH)^1/2^/m^2^]である。その積が力の大きさで、f_B_=qvBsinθ[J/m=N]と確かに次元は問題ない。しかし、速度vやqv[Am]の物理的意味が磁界との間に力を生む原因と考える事に大変抵抗を感じる。それは個人の感覚的なもので、科学の論理に関係ないと言われそうであるが、そのまま済まされない問題と考える。なお次元についてはエネルギー[J(ジュール)]とJHFM単位系をご覧願います。

次に電界に因る力を考えよう。空間に電界があると言うことの物理的意味は何だろうか。電界は真空でも存在する。電気は光と同じであると言う事から考えれば、光は真空こそその本領を発揮できるのだから、電界の正体は光とどんな関係で捉えれば良いのだろうかとなる。電界は空間の単位距離に存在する電圧の大きさと言う単位で理解する。空間に電圧が在るとはどんな意味か。真空空間と違う何かの歪みを含んだ空間であろう。電気力線が密集している空間と考えても、そんな空間歪みでは認識できない。電界ベクトルEに対する『電荷』のスカラー倍の力の大きさf_A=qEの次元は[CV/m=(JF)^1/2^(J/F)^1/2^/m=J/m=N]である。この電界に因る『電荷』に働く力が何故生じるかを理解できない。『電荷』が空間に存在する時、その『電荷』の周辺に自身がその存在をどのような物理的姿によって主張するのだろうか。『電荷』の空間に放射するものは、やはり電気力線と言う仮想概念でしか表現できない。空間の電界強度と言う電気力線と『電荷』の放射する電気力線がどのように結び合うと考えれば良いのだろうか。空間の電界と『電荷』の電界とどのような量的結び合いで、その力を理解すれば良いのだろうか。この場合の『電荷』に働く力はクーロンの法則に因ると解釈する訳でもない。何となく、意味不明な電界強度と言う場では、『電荷』は力を受けるのだと言う専門的常識で説き伏せられるような感じを受ける。反論する側も明確に指摘できない曖昧さを抱えている点が口惜しい。

荷電粒子 不確定性原理と言う表現が在る。粒子の位置と速度(運動量=速度と質量の積)を同時に把握する事が不確実であると言う意味程度で解釈している。荷電粒子の状態を検出する実験的手法はどのように行われているかが知りたい。高速になる程不確実になるだろうと推し量れるが、実際の検出法が分からないと、荷電粒子加速の全体像を理解できない。計測は粒子のエネルギーを必ず検出に取り込む必要がある。その辺の理論的な検証が必要になると、実験手法には必ず伴うと思う。

荷電粒子の描像 『電荷』を否定すれば、荷電粒子を『電荷』概念なしにどう解釈するかに行き着く。全ての素粒子が結局『エネルギー』に集約されると考える。光、熱のエネルギーには質量を考慮しない。質量・エネルギーの等価原理。磁場のエネルギー流空間としての解釈と、荷電粒子のエネルギー回転流体との間の相互作用から『電磁力』を捉えたい。素粒子ーその実相ー

新世界ー科学の要ー  (2017/11/06)追記。新世界ー科学の要ーの記事は訂正し謝らなければならない。平板コンデンサ内のエネルギー流は一つであろうと思う。下部電極からのエネルギー流は無いと思う。科学的検証法がなく誠に申し訳ありません。3月に入って突然忘れていた大事なことに気付き、まとめたのが静電界のエネルギー流である。30年かけた結論でもある。荷電粒子の加速問題は、この静電界の物理学教科書的解釈でない自然界の物理的真理を認識すれば、自ずから取上げた意味が理解されよう。

物理問題に挑戦して(2015センター試験)

久しぶりに大学入試センター試験問題を見た。物理の問題が目に入った。以前からどうしても理解できずに困っていたものに近い問題である。セルンの『ヒッグス粒子』の実験で以前話題にもなった。陽子加速の問題であった。今年の物理の問題を見て、解こうと思った。しかし、理解力の無い頭で考えると、なかなか問題の意味さえ理解できない。そこで、自分の理解できない事をまとめてみた。 センター試験2015物理問題と読み取り 問題文を読み取ることに時間がかかった。なんとか読み取って、不可解な点をまとめた。 電極間と電場電極と電場 電極の材質も一応金属導体と解釈し、高等学校の電気理論でどのように問題の意味を捉えたら良いかと考えた。それが電極と電場の図に示した、図解説になる。電極構造は半円形で無くても、四角の箱状でも良かろう。加速粒子は確かに円形に近い運動をするだろう。更に、向き合った電極面の間が加速の場となるから、それ以外の部分は不要でないかとも思った。

電場 ②粒子加速の電場をどのように解釈すれば良いかが分からない。荷電粒子を加速すると言う教科書的解釈では、『電荷』を解釈の基本に考えると思う。所謂クーロンの法則である。クーロンの法則を斬る を御参考に。『電荷』を加速するのは『電荷』による電気力線の『電界強度』である。それ以外の原理を私は知らない。例え『電荷』が物理的実在量でないとしても、現在の教科書は『電荷』を電気の基礎概念として、そこから理論を考えている。この物理現象・荷電粒子加速の問題も『電荷』抜きには理論構築できない筈だ。電界ベクトルの方向に、プラス電荷が加速される。F=qE=mα[N]の加速度ベクトルα[ms^-2^]を生む電界Eが描けなければ、考える事が出来ない。電圧V[V]で常に加速とは、電気理論上は理解できない。電界をギャップ空間に描く事が先ず考える基になる筈だ。私にはこの問題の電界を描く事が出来ない。『電荷』によれば、③のように電気力線は描かれる。この電気力線では、粒子加速の原理が見えない。問題提出者はどのような電界の描像を描いて解釈したのか、教えて欲しい。

④電界レンズ 実際に荷電粒子が加速されるとしたら、それは電極間の電場・電界が『電荷』による描像以外の原理で描かれると解釈するのであろう。教科書で『電荷』によるクーロン力で荷電粒子加速を説明するなら、当然の事この問題の加速法も『電荷』で説明できなければならない。

『電荷』概念の矛盾を示す物理の問題であると考えて、解けない基本を記した

四季早回り

2015年1月21日は大寒の中である。朝の気温がマイナス5度程度まで低下した。気象予報は、1月になって寒波が来るたび大雪警報を出して注意していた。しかしほとんど雪は降らなかった。通常の季候なら、雪が降って当然である。しかし季節が完全に1っか月早回りに入っている。昨日の朝は、2月下旬の季候である。生れ故郷・魚沼地方では、雪原が凍り付き【凍み渡り(シミワタリ)】の風景を演出する。前日が晴天や雨などで雪原の表面が溶けて、当日放射冷却の晴天を迎えると、雪面が凍り付き、朝の登校も自由に雪の原を何処までも歩いて行けることになる。子供にとっては春手前の喜びの寒気となる。足橇(アシゾリ)(この橇を何と呼んでいたか、方言用語を忘れてしまった)を持って雪原を滑りながら、学校に行く。凍み渡りは朝の内しかできない、時間制限の子供の天国であり、雪原のスケート場になる。
地球温暖化は季節の巡りを1っか月早めた。去年の夏8月は、秋の長雨の季節の様相で、しかも豪雨災害があった。9月に入ると寒椿・炉開きが咲いた。12月に大雪が降った。1月に降る雪が12月に降ったのだ。寒の季節が12月だった。1月の大寒の暦が2月下旬の凍み渡りになった。2月に入ると、3月の桃の季節を迎えるだろう。

足橇足橇(凍み渡りの魚沼)

 

 

民主党への期待と日本人の政治意識?

また勝手な素人解釈をすると顰蹙を買うだろう。役立たずの愚かな戯言と笑われようが。昨年末の衆議院選挙で、自民党が議員数で大勝した。選挙投票率が最低であったとはいえども。それにしても、民主党の伸び悩みは悲しい事だ。投票しようと思っても、残念ながら選挙区に立候補者が居なかった。自民党に対して、対抗する政党があって初めて民主主義の基本である選挙制度の意義が生きる。55年体制を覆した社会党の躍進が歴史的に、その最初の足跡を残した。更に数年前の民主党の政権への大躍進も実現した。しかし、結局自民党に取って代わられる。同じことの繰り返しに見える、野党の団結と分裂の繰返し現象は日本の政治の大きな欠点として認識しなければならないように思える。その民主党の代表者選びの党員選挙で、昨日岡田氏が選出された。何よりも期待する事は、決して分裂せずに地道な政治活動で、民主党に期待が集まるように頑張って頂きたい。

さて、それでは民主党がどのような政治理念を掲げれば良いか。民主党に期待する事は何かと考える。民主党議員の皆さんにも、政治信条や考え方で様々な方が居られよう。最大公約数で、どのような政治理念でなら団結した政治活動ができるかと考えた時、その点が何より難しいのだ。私の様な素人には益々意見を言うなどとても無理とは分っていながら、少し記してみたい。先ず、選挙にもあまり真剣に取り組まない一般有権者が多い日本人の特性。政治がどのように流れて行こうとも、ほとんど無意識で過ごす特徴を日本人に観る。民主主義とは何かも余り考えない日本人。発言はしないで、周りに同調して体制側について居れば、何とか過ごせると無意識に流れるDNAに染まった日本人。その様な日本人に期待される政党の理念など掲げられるのだろうかという絶望的日本人の政治意識を考えてしまう。政党の政治理念など日本人には無意味なのではなかろうか。それが最も政党政治の政権交代という政治活性化を望みながらも、日本人の政治意識を思うと絶望的になる愚かな自分が見えてくる。例えば、所得層、憲法観、選挙制度、防衛・軍備、外交、教育・道徳の教科性、老人対策、働く女性、育児男性、正社員と派遣制度、外国人労働者、死刑制度、沖縄基地、原発など限りなくある問題点の政策方針の難しさ。どうか団結を期待いたします。

政治は、地縁血縁、地の利の顔役に縋っていれば、みんなと一緒の体制に与してゆける暗黙の安心感を望む気質。それが自民党の強みなのだ。教育さえも全国統一化の試験制度。統一制度への意識の固定化。

日本から世界へ道を

武力は武力の報復を生む。過剰な競争は世界を混乱に陥れる。強き者が弱き者をかばうところに人の道が生まれる。資本主義とは世界に平和をもたらすための人の智慧の道の筈だ。過剰な競争は地獄への道である。今年の日本は敗戦後70年であるが、戦後70年と言う視点で捉えられるようである。昭和20年8月15日が終戦の日ではなく、敗戦で終わった日である。戦後70年と言うと、何か原因も分らないが戦争に突入しており、結末の状況も意識に無く、その戦争の意義・責任も十分検証せずに、ただ歴史上の年代としての戦争が終了した事実の年から70年目に当たると言う意味にもとれる。しかし敗戦後70年なのである。昭和20年8月15日、その日から70年に当る年である。敗戦で味わった苦境と悲惨を知っている人の日本人の中に占める比率がどんどん減っている。敗戦という事実をどのような意味で捉えるかは大切な事と思う。日本人自身、日本政府としてのあの敗戦の原因を公的に検証していない。東京裁判さえも占領軍の不当性に因るという批判さえも囁かれる。積極的にその戦争が間違いであったと言う反省は『自虐』という見方で、過去を消し去ろうと言う意識に強く見受けられる。その象徴的な意味が『靖国神社』に示されている。当時の戦争に関わった責任ある人々及びその子孫が戦後も政治・行政機関の要職を占めている事実が、その戦争の意味を全く検証しないで現在に至っている要因であるように考える。敗戦の前後で、体制意識に断裂も無く継続して今日まで続いているのも事実である。一体日本人がアジア太平洋戦争に関わった原因は何であったのか。何故日本の国でない、中国、朝鮮・韓国に踏み込んで、誰の利益の為の戦争であったのか。更にアメリカに戦争を仕掛けたその目的とその結果に対する予測を誰がどのように考えて決め、戦争に突入する決定をしたのか。全て戦闘に入るまでの経過を考えた時、戦争の相手から要請された訳ではなかろう。戦争を始めた意味と何故敗戦の苦境に至ったかを日本人は考えたのだろうか。結果にはその原因がある筈だ。広島、長崎の原爆による非道な爆撃は人道的な意味で許されない事実である。原子核の科学技術の人間が越えられない科学技術的制御不能性(原子力発電の巨大システムとなる時、その現場に関わる人間全員が、どんな状況でも全ての制御系統を把握し、的確に初期対応ができるほど日常の緊張と能力は極めて不確実性を含んだものであろう。)と人間の精神の根本的罪悪性(原子爆弾の製造・保有は人間を殺すための非人道的科学兵器)がその陰に常に付きまとう事実さえも無視、隠蔽しようと非安全に流れる人間世界の実相がある。何故あんな悲惨な原爆の被害を受けなければならなかったのか。国民の生命・財産を守るという大義名分が戦争をする指導者の常套句である。あの戦争で、国民の生命と財産がどのように守られたか?どんな戦争による世界の幸せを生みだしたか。戦争が国民の生命と財産を守る等と言う事は全くのウソである。国民の生命等は指導者層の思惑のための道具としか見なされない。その戦争の意味を考え、誰がその責任を負わなければならないのか。先の戦争で、敗戦の色が濃くなったとき、『特攻隊』が日本軍の戦闘の悲しい作戦として実行された。自分の部下に半強制的な逃げられない死の自爆兵器と成れと命令をする。それは今のテロの自爆攻撃の命令と余り変わりがない野蛮な行為である。その過去を日本人は咎めずに、許すとしたら、未来に日本人の意識に隠れた危険な無意識性が潜んでいると思って恐ろしい。すぐに全体的集団意識化し易い国民性に思えるから。統一・集団意識、行動が好みに思えるから恐ろしいのである。過去を分析せずに未来を展望できないだろう。この日本人の傾向は、文科省の教育体勢の国家的統制意識に強く見受けられる。全国統一試験制度、中には卒業認定に共通試験認定制度をなどと言う言説さえ見える。一見良さそうに思えるかも知れないが、個性的な考え方を抑え込もうとする制度であることには違いない。それぞれに異なる考え方が広まるように、統一制度は廃止すべきである。それが未来への日本の進むべき道である。戦争に突入する前夜の日本を覆う空気は、今も色濃くきな臭く残っているように感じるのが的外れであるように願う。統一と個性は政治制度における命題でもあろうが、戦争という破壊行為に繋がる重要な要因でもある。人間と言う命は何故人間を殺す事に平気なのか。他にこんな命が地球上にいるだろうか。こんな悲しい事を書き記す自分の無能(競争する意欲が元々ないのか?)と愚かさが悲しい。

日本から世界へ と標題を決めて書きだした。ところが思うと少し違う方へ論が流れて行った。実は自然科学の話を世界に広めたいと思って掛ったのである。しかし、御正月の新聞を読めば、戦後70年との見出しが目に焼きつく。その事を抜きに自然科学に心を集中できないのも許される筈と、そんな言い訳をする。科学論に戻ろう。西洋哲学と東洋哲学の違いに関係づけられるかと科学理論の問題点を拾い出して、加算的科学論を削ぎ落し科学論との対比で眺めてみようと思った。東洋哲学は本質を追究する事により、理論と言う常識の中味からその矛盾をどんどん削ぎ落してゆく思考法のように思う。今私の頭の中には、もともと習得できなかった事でもあるが、自然科学理論の大方が無駄のように思えてくるのである。これは本当に自分でも困ってしまう事態である。それにしても、特に理解困難で、難しい数学理論に因る科学論の手法は全く不要でないかとさえ思うに至ってしまった。自分の能力の無さを棚にあげての解釈で誠に身勝手ではあるが。私が考える内容や観点は誠に単純で、複雑な基礎を学習しなくても良い程易しいもののように思える。ただ無いものを無いと言う論がこんなに難しい事であるとは、過ぎ去ったから思うのである。『電荷』が自然科学論の最も基本的概念として、世界の常識となって認知されて来たにも拘らず、それを否定するのが削ぎ落としの具体的事例として挙げたい訳である。『電子』と『電荷』の間の関係も誠に不可解な概念的結び合いになっているのだ。電子と電荷は異なる筈なのに、どのようにその差を認識したら良いかも判別できないのである。結論は『電荷』など実在しない物理量の概念を仮想して科学理論を構築して来たから、『電子』と『電荷』の取り上げる論理的差異を認識せずに、適当に使い続けて来たところに、矛盾構築の因果が生まれたと考える。電流は流れずの意味を又考えておこう。電流は『電荷』の時間的微分値で定義される。『電荷』だけで良いのに、何故質量を持つ『電子』の流れと言うのか。『電子』なら『電荷』の時間微分値と同時に『電子質量』の微分値も加えた合成値で電流を解釈しなければならないと思う。『電子』に質量が無いなら、用語『電子』は不要で全て『電荷』だけで良い筈だ。『電荷』そのものの概念が明確に認識できないにも拘らず、その存在を既定概念としているところに、矛盾の根源がある。存在しない『電荷』を取り上げて、その否定のために多くの側面からその概念の矛盾を暴きださなければならない程、頑迷に科学理論の根幹の概念『電荷』『電子』が科学常識に成ってきた意味は、その人間の意識との関係でとても大きな意味を持つ内容である。

道(魯迅)

今年は書き初めで、魯迅の道を書いた。今年の三が日の新聞記事は戦後70年という重い課題に関わるものが多く、読み応えが有った。朝日新聞4日のオピニオン記事、人類学者川田順造氏の記事に魯迅の言葉が有った。
『希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。』
魯迅の名言として有名な言葉のようだ。確かに初めから道がある訳ではない。

魯迅の言葉希望とは

魯迅の著作を読んだ事が無かった。平易に誰もが理解出来るやさしい表現でありながら、とても深い意味を込めていると思った。とても気に入った。この四半世紀、余りにも科学常識からかけ離れた感覚の世界を彷徨って来た。それはとても科学の道と言えるものではなかった。しかし、今になれば不思議なことに少しも戸惑う事も無く、当たり前の自然世界の実相を唱えて来たのだと確信に変わってしまった。しかし、未だ『道』とはなっていない。多くの人が歩きだすまでは『道』とはならないから。多くの人が歩くとは、教科書に『電荷』否定の論理が唱えられた時であろう。誰がその『道』への導を施すのかである。

道筋道筋に咲く(的は『エネルギー』である)

『エネルギー』に辿り着くまでの流離いの中で、多くの道草から微笑みの実りを得られたようである。

書き初めは墨を磨って書こうと思った。磨りながら墨の香りが心地よく鼻腔をくすぐる。気にもしなかった墨であるが、確かめてみた。文字が読めた、正倉院宝庫云々とある。

墨の銘

若草山の茶店で買う。墨の銘の意味が分からない。