(2015/01/10)追記。歴史科学博物館に下記の土器か?を持って行き、判定をお願いした。すぐさま、『泥岩』と言われた。何十万年と言う歳月で、微生物等の土中生物により消化され、粘土質に変換したものだと教えて頂いた。それが何層にも積み重なり、圧力を受けて岩石に成ったのだと言う事だ。植物が微生物で消化され、粘土になるとの解釈は誠に地球の不思議の深さを思い知らされた。それは途轍もない微生物の繁茂を想像され、植物と微生物だけの地球の古代史に誘われたような気分だ。勿論人間のいない先史時代である。粘土とは微生物の消化廃棄物と言う事なのだろうか。その粘土の成分分析はどんな結果に導くのだろうか。何故粘土は積層構造を呈するのだろうか。不思議がいっぱいの地球だ。
今から15年ほど前になろう。笠堀ダム左岸を散策した事がある。余りはっきりした道が有ったとは記憶にない。自分の身の置き所も無く、ただ彷徨い続けながらに訪れただけの場所ではあった。そこに行く道筋には、下田村(今は三条市)の諸橋轍次記念館がある。大漢和辞典を編纂した有名な漢学者である。漢学の里として知られている。その先に笠堀ダムが有る。
笠堀ダム左岸の山の斜面で少し気掛かりなものを見つけた。どう考えてもそれは土器にしか見えない。
土器片1
土器の面2
土器の欠片の一つに思えた。先日庭に転がしておいた事を思い出して、拾って話題に取り上げる。土器の破片の三つの面から写したものである。相当大きな壺で、厚みのある土器に見える。1の面は土器の破断面で、何層にも粘土を重ねた製作過程が見える。古代人は川の洪水を避けて、川岸から相当高い場所に定住していたであろう。笠堀川岸の古代の定住民の土器ではないかとの素人解釈の興味の拾い物である。決して自然にできた土の塊ではない。しかし、一般に取り上げられる土器の破片とも全く違う感じもする。15年も雨、外気に晒しておいたが、形状が崩れもしないで無事であることも土器との感触を強くした。長岡市に自然科学博物館が有る。いつか確認に訪れようとは思っていたが。