日別アーカイブ: 2014年12月10日

人の色覚と光の三原色

人の色覚。人が身の周りを見渡せば、そこには彩り豊かな世界がある。何故こんなに豊かな色の感覚が目に備わっているのか。光に色がある訳ではない。光に色が無いのに周りは色彩の世界だ。色彩は光が運んで目に入ることで生まれる、脳の認識世界なのだ。人は共通の色彩感覚を備えている。こんな常識外れの疑問や『問答』は、経済的な利益からは全く無関係の領域の科学論考と言えよう。むしろ科学と言うより哲学の領域かもしれない。きっと誰もが薄々気付く事であるかも知れないが、社会的・時間的束縛や置かれた競争的立場から、追究するだけの余裕が無いのが現実である為の、無関心の部類に捨てているのであろう。しかも科学論文にするだけの、説得できる資料・データを揃える事が難しい。論ずる視点も、論点も広い範囲を俯瞰しなければならないから、データを揃えられない。そこに描く世界は、自分の感性に響く現象の姿を、感覚的認識の世界を、矛盾のない未来像として示す論述になるだけである。光の物理的本質と人の光に対する神経細胞の間に存在する総合的統合の解釈を示すことが必要になる。IT検索すると、光は横波の振動波だと決め付けられる。その教科書的論理を筆者は理解できない。光の振動波ではとても色覚について論じるべき筋道は見えてこない。光はエネルギーの縦波である。この光の捉え方で初めて色覚の疑問に沿える話になる筈だ。眼球内の光伝播現象が最初の論点になる。眼球の構造認識の問題である。光伝播の導路である『硝子体管』の光ファイバーの認識が関門である。眼球の光ファイバーと光量子 第65回日本物理学会年次大会で、発表資料のOHPシートの印刷が濃すぎて、投影できなかった恥ずかしい経験がある。研究機関にも所属していないため、予行練習も出来ず、ブッツケ本番で臨む。その資料が次のものだ。

OHP朝日の分散OHP資料(襖上の模様は金魚鉢の傍の襖に映った朝日の分散模様である。暫くした時間経過後にその分散模様が移動して、畳上に投影されていた。その二つの太陽光線の分散模様を、運良く捉えた写真である。自然が語りかける一瞬の姿である。)

眼球の色覚の説明資料が示せなかったので、失礼な発表であったと後悔。眼球の光ファイバーと色覚 に既に論考を示したが、光の三原色と言う観点を含めて、改めて考えてみる。なお分散に関するIT解説で光の分散がある。

写真224光の三原色と分散 (疑問追記、2015/01/03)絵具は24色などがあるが、光の三原色は紫や土色など何色を演色出来るのだろうか。

光の三原色という大変重要な人の色覚に関係する原理がある。TV等の色彩はこの原理によって可能になっている。この光の原理は人の色覚と色彩世界の間に秘められた不思議を提示している。科学技術との結びつきと言う面で見れば、この三原色の色の関係そのもので十分である。しかし、色の世界の物理的意味は何も理解できていない。何故かと言う『問答』に何も答えられないのだ。たとえば、赤(R)と緑(G)の混合色が何故黄色(Y)になるかに答えられるか?人の色の認識が何によって決まるかと言う本質的疑問には何も答えられないのである。生理学と物理学の統合した科学論の問題であろう。生理学で、神経細胞の情報伝達の物理的認識が如何なるものであるかに掛かっていよう。光ファイバーのタンパク質の繊維構造がどのようであるか?情報はすべてエネルギーの縦波である。電磁波ともいうエネルギーである。それはおそらく『熱エネルギー』とも言えるであろう。エネルギー波の解釈は電気磁気学の教科書的解釈では捉え切れない問題である。電界、磁界論では神経細胞を伝達する情報網の解釈には対応できない筈だ。電界、磁界と言う概念そのものが如何にも人間臭の科学概念であるのだ。電磁エネルギー伝播現象は空間であれ、細胞内であれ横に触れる波の実体など何処にも存在しないのだ。その物理的解釈・認識が科学論の基本的認識にないと、矛盾や混迷から脱する事が出来ない筈だ。そこで改めて、赤と緑の混合色が何故黄色になるかと言う『問答』を取上げる意味が成り立つ。物理学と言うものはその問答を拾い上げて初めて成り立つ学問であろう。この『問答』に今答えられるもの等何もない。しかしその答えられないと言う事を認識した上で考えを深めるべきと思う。なお、上の朝日の分散の色で、緑色が殆ど無い。その訳も理解できないが、畳上の分散模様には緑色がはっきり分かれている。一つの疑問として置きたい。

色の世界を尋ねてを参考に挙げておく。

追記(2014/12/13) 疑問に疑問が重なり続ける。単純な疑問が不図浮かぶ。光の三原色で「茶色」はどのように構成されるか。土色は自然のありふれた茶色だ。TVで「黒色」は光を零にすれば得られる。しかし茶色は三原色には無い。IT検索にはいろいろ質問があるが、満足できる回答が余り無いようだ。光と絵具の混同した質問もあるが、絵具の発する色彩の物理的意味が光の場合と何故異なるかも明確に理解できている訳ではなかろうから、混同するのも当然であろう。絵具を混合すれば、その混合絵具の分子構造により、光の変換特性が決まるからと解釈したい。分子の空間格子のColor Cellが光変換の原因であろうと解釈する。蝶の鱗粉と同じ意味である。絵具と光の三原色の間の関係も放射光と人の色覚との関係で全てが決まる訳である。だからその間の物理的意味合いは理解できる筈である。光が色を持っている訳ではない。解決できなくても、疑問が理解を深める基になる望みにしたい。

庭に石器か?

毎日新聞2014年12月9日(火)の記事、「論争」の戦後70年 第8回[「石器か否か」の半世紀]を読んで。前に、庭から化石化と思う不思議な石を集めて置いたものを思い出した。何故石器ではないかと思ったかを述べよう。出土した石とその土との取り合せが謎めいた関係にあった。その地層の深さが30cm程の所で、赤い混じり気のない完全な粘土質の中から出土した石である。その層も厚くなく、おそらく田圃であった処で、その水漏れを防ぐために、山から取り寄せた粘土を敷き詰めた地層と看做した。その粘土の中から特別に埋め込んだとしか考えられない取り合わせで出て来た石である。粘土の中に石が分布する事はないから、故意に埋め込んだものと解釈した。その粘土の土質から、長岡市の栖吉の奥の山の粘土質に近いと思った。昔の古代人が住んだ山の上は川の洪水を避ける場所であった。その古代人が石器類を埋めた土を掘り出して、運び込み、田んぼの造成に使った粘土質と解釈した。

IMG_1049石器か?(大きい石は、丁度手に馴染む獲物の皮むきや肉切りに手ごろ感がある。小さい物は鏃か?)

IMG_1050の覚書(恥ずかしい無意味な文字)

学問に無関係な素人の収集物である。