月別アーカイブ: 2014年12月

大学入試と大学教育の目的

(2015/01/12)追記。大学入試制度の改革を論議する時、大学人が考える事がどう学生を確保し、大学の存続を計るかであろう。日本の教育制度の理想はどうあるべきかはほとんど考慮しないだろう。大学人が学生の卒業を認定する基準を公開して示すだけの判断基準を持っているかと言う事である。厳密な入学試験制度を創る事は至難の業である。どんなに制度を改革しても、また問題点が生じ、大騒ぎをしなければならなくなる。入学しようとする学生自身が希望大学の卒業基準の高さを理解し、その上で学生が決める方式にしなければ、教育制度の改革にはならない。卒業基準を大学自身が長い歴史を創りながら、広く知らせる事にしなければ意味が無い。大学人がどのような学生を育てようと考えているかが問題である。その時に初めて、大学毎の独自の入学試験の方式を決める事が出来る。その選定基準は、大学毎に決められ、ある程度厳密・公平性だけでなく、余裕のある独自な選抜が可能になる。全部同一歩調と言う日本式拘束・全体主義方式はやめるべきである。

大学入試制度 現在、大学入学試験制度の共通入試がある。制度の変更が取りざたされている。何故制度を変更しなければならないのか。現在の制度を導入する時に、どのような目的で実施されたのか。その制度が教育にどのような改善と前進をもたらすと考えて導入したのか。その目的が達成されたのか、設計ミスで巧く機能しなかったのかをどのように検証しているか。制度導入時だけで、その結果が目論み通りに巧くゆかなかったのか、予想通りだったのかを制度設計機関の責任で、きちんと検証結果を出さなければ、何度制度を変更しても教育自体が良くなる保障はない。行政機関の設計ミスのつけが繰り返されているだけである。今回新しく中央教育審議会が答申を出した。その内容で、大変気掛かりがある。注意すべき点それは、試験制度は選別される側で、明確に「合否」の判断基準・内容に万人が納得できる公平性が最大に求められる。面接や作文では公平性が見えなくなる。特殊技能については特別の希望がある者に限る必要が有ろう。曖昧な評価が入る制度ははじめから欠陥制度である。いやしくも公立大学においては、評価基準に曖昧性の入り込まない公平性が最低限の試験制度の原則である。思考力、主体性がそもそも大学人の教育に・・。『電荷』一つの意味を認識出来ているか?試験は公平性を原則にする限り、ある程度の欠陥はあって当たり前である。大幅に制度変更するには、過去の制度設計システム、設計機関の問題点を曝け出さなければ前進しない。

大学教育の目的 大学自身が学生減少の中で、大学教育の理念も目標も示し得ずに、自身の存在意義を確信できずにいるのではないか。大学人が迷いの中にいる。

入学試験制度の原則 公平性が示される事

実用新案かな?-洗濯ゴミ取り袋ー

日常生活の中で、気付く事が有る。以前から気になっていた。洗濯機のゴミ取り袋の改良。洗濯槽の中を覗けば、水流の中から綿やほこりを取り除く袋が見える。見た目を良くするには、その袋の縫い目が袋の中にあるのが当然だ。しかし洗濯の度にそのゴミを取り除くには、袋を裏返して、縫い目に纏わり付いた物を取り除くに苦労する。縫い目が袋の外側にある方が、生活者としては作業が楽だ。縫い目一つで、生活者の利便性と、商品の寿命が延びる。これは実用新案になろう。誰が採るかな?

笠堀ダムと土器

(2015/01/10)追記。歴史科学博物館に下記の土器か?を持って行き、判定をお願いした。すぐさま、『泥岩』と言われた。何十万年と言う歳月で、微生物等の土中生物により消化され、粘土質に変換したものだと教えて頂いた。それが何層にも積み重なり、圧力を受けて岩石に成ったのだと言う事だ。植物が微生物で消化され、粘土になるとの解釈は誠に地球の不思議の深さを思い知らされた。それは途轍もない微生物の繁茂を想像され、植物と微生物だけの地球の古代史に誘われたような気分だ。勿論人間のいない先史時代である。粘土とは微生物の消化廃棄物と言う事なのだろうか。その粘土の成分分析はどんな結果に導くのだろうか。何故粘土は積層構造を呈するのだろうか。不思議がいっぱいの地球だ。

今から15年ほど前になろう。笠堀ダム左岸を散策した事がある。余りはっきりした道が有ったとは記憶にない。自分の身の置き所も無く、ただ彷徨い続けながらに訪れただけの場所ではあった。そこに行く道筋には、下田村(今は三条市)の諸橋轍次記念館がある。大漢和辞典を編纂した有名な漢学者である。漢学の里として知られている。その先に笠堀ダムが有る。
笠堀ダム左岸の山の斜面で少し気掛かりなものを見つけた。どう考えてもそれは土器にしか見えない。

土器面1土器片

土器面2土器の面

土器面3土器の面③

土器の欠片の一つに思えた。先日庭に転がしておいた事を思い出して、拾って話題に取り上げる。土器の破片の三つの面から写したものである。相当大きな壺で、厚みのある土器に見える。1の面は土器の破断面で、何層にも粘土を重ねた製作過程が見える。古代人は川の洪水を避けて、川岸から相当高い場所に定住していたであろう。笠堀川岸の古代の定住民の土器ではないかとの素人解釈の興味の拾い物である。決して自然にできた土の塊ではない。しかし、一般に取り上げられる土器の破片とも全く違う感じもする。15年も雨、外気に晒しておいたが、形状が崩れもしないで無事であることも土器との感触を強くした。長岡市に自然科学博物館が有る。いつか確認に訪れようとは思っていたが。

人の色覚と光の三原色

人の色覚。人が身の周りを見渡せば、そこには彩り豊かな世界がある。何故こんなに豊かな色の感覚が目に備わっているのか。光に色がある訳ではない。光に色が無いのに周りは色彩の世界だ。色彩は光が運んで目に入ることで生まれる、脳の認識世界なのだ。人は共通の色彩感覚を備えている。こんな常識外れの疑問や『問答』は、経済的な利益からは全く無関係の領域の科学論考と言えよう。むしろ科学と言うより哲学の領域かもしれない。きっと誰もが薄々気付く事であるかも知れないが、社会的・時間的束縛や置かれた競争的立場から、追究するだけの余裕が無いのが現実である為の、無関心の部類に捨てているのであろう。しかも科学論文にするだけの、説得できる資料・データを揃える事が難しい。論ずる視点も、論点も広い範囲を俯瞰しなければならないから、データを揃えられない。そこに描く世界は、自分の感性に響く現象の姿を、感覚的認識の世界を、矛盾のない未来像として示す論述になるだけである。光の物理的本質と人の光に対する神経細胞の間に存在する総合的統合の解釈を示すことが必要になる。IT検索すると、光は横波の振動波だと決め付けられる。その教科書的論理を筆者は理解できない。光の振動波ではとても色覚について論じるべき筋道は見えてこない。光はエネルギーの縦波である。この光の捉え方で初めて色覚の疑問に沿える話になる筈だ。眼球内の光伝播現象が最初の論点になる。眼球の構造認識の問題である。光伝播の導路である『硝子体管』の光ファイバーの認識が関門である。眼球の光ファイバーと光量子 第65回日本物理学会年次大会で、発表資料のOHPシートの印刷が濃すぎて、投影できなかった恥ずかしい経験がある。研究機関にも所属していないため、予行練習も出来ず、ブッツケ本番で臨む。その資料が次のものだ。

OHP朝日の分散OHP資料(襖上の模様は金魚鉢の傍の襖に映った朝日の分散模様である。暫くした時間経過後にその分散模様が移動して、畳上に投影されていた。その二つの太陽光線の分散模様を、運良く捉えた写真である。自然が語りかける一瞬の姿である。)

眼球の色覚の説明資料が示せなかったので、失礼な発表であったと後悔。眼球の光ファイバーと色覚 に既に論考を示したが、光の三原色と言う観点を含めて、改めて考えてみる。なお分散に関するIT解説で光の分散がある。

写真224光の三原色と分散 (疑問追記、2015/01/03)絵具は24色などがあるが、光の三原色は紫や土色など何色を演色出来るのだろうか。

光の三原色という大変重要な人の色覚に関係する原理がある。TV等の色彩はこの原理によって可能になっている。この光の原理は人の色覚と色彩世界の間に秘められた不思議を提示している。科学技術との結びつきと言う面で見れば、この三原色の色の関係そのもので十分である。しかし、色の世界の物理的意味は何も理解できていない。何故かと言う『問答』に何も答えられないのだ。たとえば、赤(R)と緑(G)の混合色が何故黄色(Y)になるかに答えられるか?人の色の認識が何によって決まるかと言う本質的疑問には何も答えられないのである。生理学と物理学の統合した科学論の問題であろう。生理学で、神経細胞の情報伝達の物理的認識が如何なるものであるかに掛かっていよう。光ファイバーのタンパク質の繊維構造がどのようであるか?情報はすべてエネルギーの縦波である。電磁波ともいうエネルギーである。それはおそらく『熱エネルギー』とも言えるであろう。エネルギー波の解釈は電気磁気学の教科書的解釈では捉え切れない問題である。電界、磁界論では神経細胞を伝達する情報網の解釈には対応できない筈だ。電界、磁界と言う概念そのものが如何にも人間臭の科学概念であるのだ。電磁エネルギー伝播現象は空間であれ、細胞内であれ横に触れる波の実体など何処にも存在しないのだ。その物理的解釈・認識が科学論の基本的認識にないと、矛盾や混迷から脱する事が出来ない筈だ。そこで改めて、赤と緑の混合色が何故黄色になるかと言う『問答』を取上げる意味が成り立つ。物理学と言うものはその問答を拾い上げて初めて成り立つ学問であろう。この『問答』に今答えられるもの等何もない。しかしその答えられないと言う事を認識した上で考えを深めるべきと思う。なお、上の朝日の分散の色で、緑色が殆ど無い。その訳も理解できないが、畳上の分散模様には緑色がはっきり分かれている。一つの疑問として置きたい。

色の世界を尋ねてを参考に挙げておく。

追記(2014/12/13) 疑問に疑問が重なり続ける。単純な疑問が不図浮かぶ。光の三原色で「茶色」はどのように構成されるか。土色は自然のありふれた茶色だ。TVで「黒色」は光を零にすれば得られる。しかし茶色は三原色には無い。IT検索にはいろいろ質問があるが、満足できる回答が余り無いようだ。光と絵具の混同した質問もあるが、絵具の発する色彩の物理的意味が光の場合と何故異なるかも明確に理解できている訳ではなかろうから、混同するのも当然であろう。絵具を混合すれば、その混合絵具の分子構造により、光の変換特性が決まるからと解釈したい。分子の空間格子のColor Cellが光変換の原因であろうと解釈する。蝶の鱗粉と同じ意味である。絵具と光の三原色の間の関係も放射光と人の色覚との関係で全てが決まる訳である。だからその間の物理的意味合いは理解できる筈である。光が色を持っている訳ではない。解決できなくても、疑問が理解を深める基になる望みにしたい。

庭に石器か?

毎日新聞2014年12月9日(火)の記事、「論争」の戦後70年 第8回[「石器か否か」の半世紀]を読んで。前に、庭から化石化と思う不思議な石を集めて置いたものを思い出した。何故石器ではないかと思ったかを述べよう。出土した石とその土との取り合せが謎めいた関係にあった。その地層の深さが30cm程の所で、赤い混じり気のない完全な粘土質の中から出土した石である。その層も厚くなく、おそらく田圃であった処で、その水漏れを防ぐために、山から取り寄せた粘土を敷き詰めた地層と看做した。その粘土の中から特別に埋め込んだとしか考えられない取り合わせで出て来た石である。粘土の中に石が分布する事はないから、故意に埋め込んだものと解釈した。その粘土の土質から、長岡市の栖吉の奥の山の粘土質に近いと思った。昔の古代人が住んだ山の上は川の洪水を避ける場所であった。その古代人が石器類を埋めた土を掘り出して、運び込み、田んぼの造成に使った粘土質と解釈した。

IMG_1049石器か?(大きい石は、丁度手に馴染む獲物の皮むきや肉切りに手ごろ感がある。小さい物は鏃か?)

IMG_1050の覚書(恥ずかしい無意味な文字)

学問に無関係な素人の収集物である。

 

世界を描く

自然世界は複雑で、捉えようがない。それは多様性に在るのだろう。一つ一つを追究すれば、迷路に迷い込む如く結論が遠ざかる。自然を見るのに、とかく色眼鏡を通して見易い。そんな色眼鏡は捨ててしまえば、只そのものの存在する姿に向き合うしかなくなる。こちらが素直に向き合えば、その時に対象がこちらに語りかけて来るように思う。驚きの発見に遭遇する。その色眼鏡が『電荷』だったかもしれない。『電荷』を捨てたら、科学理論の根幹が何も無くなってしまった。自然の多様性とは、根底に隠れている本質が単純であるからこそ、見えにくかったのだと分かった。元素の周期律表を見れば、その並びには理解できない原子と言う存在に心が躍る。分からない事に気付くこと程世界の魅力はない。そんな大きな不思議を目の前の存在全てが教えてくれる。世界を単純な美の世界として描いてみたい。

世界は変わりながら世界像

世界の王者は光である。光が熱から変化し、また光が質量に収まる。みんな変化し続けてとどまる事がない。その瞬間瞬間が世界である。世界の全てを繋ぐのが光だ。光は絆の運命を担っている。少し物理的解釈を加えると、光も熱も質量も全て本質は同じものである。その中で光だけが全ての束縛から放たれた自由の存在である。しかし、熱も質量も束縛の下での存在である。

光の絆Light

英語知らずの英語で済みません。