科学者の社会的責任

長く科学漫遊の旅を続けて来た。ここまで辿り着いたと内心安堵できる面もある。しかし、何しろ日本語しか理解できず、研究歴も殆ど無く、未来設計が出来る環境にない。ただ、科学の基礎、特に教科書の内容について、教育を受ける子供達を考えた時、余りにも虚飾的な伝統に縛られた『嘘』で固められていると思う認識をどう繕えば良いかに戸惑うばかりである。学歴も怪しく、基礎資格の博士号も無い者がいう事でないかもしれないが、教育の関係者、科学者は科学技術社会における教科書の内容をどう構築すべきとお考えなのだろうか。その意味で、全ての科学者に問う。その社会的責任は何かと。

浮かぶ印象?印象は?

光も電荷も水も日常的に聞き覚えあり、目にする用語です。この用語にどんな印象を受けますか?この言葉・用語に対する科学者の印象を尋ねたい。科学を数学的に解釈する慣習に習熟されておられる方々はどんな印象を受けるだろうか。この三つの用語を日常用語で、数式無しに説明して欲しい。そんな意味を科学者の教育に対する社会的責任として考えて頂きたい。科学の世界も、盗用や、間違い論文が多く指摘されている。競争に潜む科学研究の宿命的な危険であるかも知れない。公的資金を注ぎ込む上での受給者の社会的責任観の希薄さがそこに潜むのであろう。中には信じられない『200回も・・』という発言の真意と研究実体の狭間に何が?とも・・。自分も『電荷』否定を唱えた時から、物理学基礎理論の矛盾を確信していたからここまで来られた。他には何もない。

学説を疑え学説を疑

教科書の学説を疑ってこそ科学者であろう。『光』を物理学的にどう認識するか。光速度とはその定義空間をどのように捉えているか。光の振動数という時、何が振動していると考えるのか。自分に正直にその意味を理解しているのかと。『電荷』が存在していると信じているのかと。『水』はどのように造られると考えているのかと。水蒸気を気体分子運動論で解釈しているのかと。などなど多くの事を物理学は教育の場で役立っているのかと。失礼とは思いながらも、愚かな者の戯言と。

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