月別アーカイブ: 2014年8月

IH調理器と電気コンロに技術劣化社会

科学技術は何を求めてきたか。昨年暮れにIH調理器をインターネット通販で購入した。カタログの定価は数十万円である。通販は5分の1の値段だ。しかしそんな調理器は欲しくなかった。今までの電気コンロ式の調理器で充分である。有れば一万円程度の筈だ。しかし電気製品製造企業は既に製造していないから、市場には存在しない。全電化住宅方式には、ガスも無く電気しかエネルギー源が無い。原子力発電方式で、夜間電力を給湯方式に利用して、電力の24時間平準化の政策を進めてきたのだ。夜間電力は今石油燃料の消費に、為替円安の逆効果を受けている。科学技術完熟時代の生活は、融通性のない極端に統一化された生活様式をせざるを得ない。白熱電球が市場から消える運命と同じだ。その電気調理器に現代科学技術の矛盾と技術劣化の社会状況であることを問題点と指摘したい。技術革新と言う製造現場に求められるものは社会生活の豊かさと幸福を市場を通して届ける事ではなかったか。ブラウン管テレビで十分な質素な市民生活の豊かさを根底から崩したのは何か。VHSのビデオ録画は簡単で、市民生活にはそれで充分であった。いま新しいデジタル方式のテレビになって、映像が鮮明になったと言うが、そんな鮮明さを本当に誰もが欲しかったのか。全て業界の思惑で、市民のささやかでも、貧しくても生活できる市場環境を強制的、強権的に破壊してきたのではないか。
今日(8/20)、you tube でGLOBIS TVの動画 G1サミット イノベーションと社会変革 茂木健一郎氏×社会学者 古市憲寿氏 および、知性とは何か 茂木健一郎氏と国領二郎氏 を聞いた。自分よがりに解釈して、どうしても『電荷』否定の科学論が世界の物理学概念を根底からひっくり返す事柄になっていると、そこにつなげて考えてしまう。話の中に、質問で、イノベーションを妨げている壁は何か。や、非典型的知性と言う言葉が語られていた。とても興味がある話で、楽しませていただいた。その講話質疑を聞いて、筆者も思いを述べてみようかと思った。トーマス・クーンの科学革命の本を読んでから、自然科学の世界に隠れている本質は何かと探ってきた。もし、英語で表現できたら、自分の科学の世界観を広く知って頂けるものをと考えるが、英語表現世界からは昭和63年で完全に抜けてしまった。まさかここまで、電磁気学の具体的諸問題を『電荷』否定の論理で解明できるとは正直思っていなかった。どうせ英語は、日本語でITの世界に発信するとも考えられなかったから、やる意欲も生まれなかった。何と言っても、ワープロで文章をつづり、配布していたがワープロが壊れると困る。そこで2010年にPCを購入した。インターネットの世界に日本語でも考えを発信できることを知る。訴えるべき内容は途轍もない科学革命の真相を示すことであれば、日本人の保守社会であってもその衝撃は計り知れなかろうと思った。ほぼ4年間が過ぎて、多くの分野と具体的問題の解釈を示せた。少しでも物理学を考えられる人はもうすでに『電荷』の存在しない事は理解できるはずだ。しかし、膨大な科学論全体を俯瞰して『電荷』概念を否定する認識に与するだけの自信と覚悟で論ずるには心許無いであろう。それは科学理論の持つ概念集積の共通認識の宿命であるから。特に日本の教育関係機関に関わる物理学の専門家にとっては、科学論の根底まで掘り下げて、確信しなければ『電荷』否定の立場は取れないのと伝統的科学論手法との間のジレンマの壁に突き当たる。科学会の権威ある立場になれば、誰もがその専門分野から離れられない宿命を背負い、本音を隠した体制の道しか残されていない。しかも筆者が認識する自然科学の世界は社会的常識から離れ過ぎているから、科学論に乗せる用語も適切にならない。『電荷』も電界、磁界の用語も使わないで、電磁気学を論じることが世界共通用語認識に繋がらないから進退が極まるのだ。『不立文字』の科学論に成ってしまう。日本でこの科学革命の論理を取り上げるには、内閣・日本政府関係機関特に文科省が戦後問題に関係するからなお難しい課題に思える。

全体と個人 「戦争と平和」の問題が大きく現在の日本に関する世界の課題に成っている。政治・行政組織の現行制度で、イノベーションの意味を考えてみよう。イノベーションの壁は大学である。既存の社会形態を保持することを最大の権威と体制保守にしている。『電荷』なしに授業ができるか?個人として、舞鶴鎮守府の戦後未処理問題に突当ってしまった。その壁は論理の世界ではない。哲学の世界でも自然科学論の世界でもない。繋がりの絶たれた、杜子春流の世界から抜け出す術が見えない。存在を日本政府に否定されたとしか理解できない者がどう存在を主張できるか理屈が見えない。存在を否定した日本政府の全体に個人が関われるのか。全体の壁に対する個人の問題だ。答えは日本政府に在る。故郷と未確定の戦後に 。

技術と理論 科学技術に無知、または経験のない科学者は感覚的な物との響きに無関心になり易い。理論を専門に経験的に関わっている人は数学的記述の世界にしか姿・像を捉えることができなくなる可能性が大きい。空想は何次元にも広がるのだろう。世界は時間を含めて4次元だ。5次元、多次元は空想の世界だ。世界の実在性から離れた世界観だ。理論にはエネルギーそのものの実在性は見えにくい。感覚的に「エネルギー」を感じ取ることで初めて技術的実世界の意識が芽生える。

哲学と経済 哲学は経済的利益に無関係である。哲学は世界の真理を探る学問である。哲学を学問とするには、自然科学を学ばずには不可能である。人間の全ての面も社会制度の全ても一体として捉えなければ哲学の世界にはならない。経済的利益は自然科学の真髄とはつながる訳ではない。哲学は専門領域をすべて俯瞰しなければその真の姿には辿り着かない。

革新の壁 革新は経済効果を生むとは限らない。経済的利益を目的にした変革・改革はない。根底を揺さぶるものは心の純粋に響くことだ。社会意識の変革である。儲けを考えるのはイノベーションにならない。人は儲けたいから、変革に進まない。それが壁である。教科書に『電荷』無しで電気理論が書けないから。真理は嫌われる。結果的には変革が経済的利益に結びつく場合があるかもしれない。しかし、科学技術は既に利益を求める大量消費の可能性は飽和に達してしまった。

IH調理器と電気コンロ 科学技術に経済的利益を重ねて追い求めてきたが、その現代社会の矛盾が表題のIH調理器と電気コンロに象徴的に示されている。人がその人間的価値をたった一つの金の力で評価する時代になってしまった。金儲けが嫌いな人間は「人」としての価値がないように見くびられ、捨てられる社会になってしまった。日本の過酷な労働条件下、派遣の不安定な人の政治的虐待社会が当たり前とみなされる異常さ。家と水と僅かな食べ物でも生活できる多様な生き方が社会制度として保証されなければ、何が変革・改革と言えるか。安い電気コンロが使いたい。高度の制御機能は不要で、自分の意思で動作が管理できる電気製品が欲しい。真理が生き、嘘のない世界が欲しい。儲け競争だけでない世界が未来の変革だ。

求められる意識改革 エネルギー大量消費社会は、地球環境を人類・生物の生存を不可能にする未来につながることを認識することである。大都会の冷房空間で豊富な資金力に物を言わせる指導者に社会変革の意識は生まれない。未来の自然予測能力がない。

浮足立った基盤技術劣化社会

科学技術万能で進んで来た世界。科学理論には『嘘』が無いと信じて歩んできた。しかし、とても悲しい現実に突き当たってしまった。自分が子供の頃、日本が敗戦の中で何も知らずに過ごしていた中に、湯川秀樹博士のノーベル賞受賞と古橋広之進の1500m競泳の活躍に嬉しい思いをした。科学という世界は途轍もなく難しい。そんな世界があると知った。高等学校での勉強で、理解できない無力感も味わった。大学での電気工学の勉強は、一通りこんな学問領域があると言う事を科目を通して知ることが出来た。それだけでおおよその内容を概観出来た。しかし、習得した内容は怠けで、お粗末であった。技術的な学習は、高等学校で教える為に初めて勉強して身に付けた。理論は教科書の内容を、技術は変圧器の設計製作、電子回路設計・工作で感覚的に習得した。高等学校という処は、余り学問的ではないと気付き、昭和57年教科改定に失望し、反対していた。特に、文部省の改定に向けた教科研修会最終打ち上げ会場で、担当の関口調査官にずうずうしくも否定的的な意見を述べた。畏れ多い事と。何も知らずに、高等学校から大学に転がり込んで(転勤でもない?)、電気理論の未確認的な部分に触発され、自己の身分と共に科学理論の浮遊世界を彷徨って来たようだ。今、湯川博士が唱えた、『中間子理論』さえ『電荷』否定から見れば、解釈しようがないことになってしまった。筆者にとって科学理論全体の信憑性が無くなってしまった。雷は熱爆発。電気エネルギーの何たるかを端的に表しているのが「雷」であろう。これじゃあ、理論数学に因る科学論にならないから困るのである。しかし、この雷解釈が現代科学論を、その真髄から俯瞰する視点として欠かせないものである。科学教育はそこから始めなければならない。
現代科学技術 科学技術の巨大化した例を挙げてみよう。原子力平和利用という『原子力発電所』。それも原発利用核燃料の廃棄物処理に『原爆』製造(プルトニューム処理の水爆)の道。宇宙開発(?)という宇宙ステーションと人工衛星の必要宇宙ごみ空間化。地球環境の空間エネルギー分布変動による悪化・汚染。素粒子研究設備の巨大化の浪費と論理矛盾。リニア新幹線の必要性の未検証ーエネルギー多消費高速輸送機関の有意性、環境汚染(脱原発に関わる将来課題)ー。(人口減少化の未来に対して)飛行機輸送との競合性の検証。産業革命に始まった、科学技術社会の豊かさの追求は技術の最終段階に到達した。社会秩序と生活環境を決定的に変革した自動車産業も高所得者向けの税優遇の不公平社会化の所得配分の矛盾。科学技術に基づく技術革新は、すでに飽和状態に達し、小手先の改善が残されているだけ。科学技術の未来総合予測力が求められている。

蒸気機関車に牽引された力強い満足感はもう味わえない。PCと情報網化が基本的に軽量微細化の極限に達してしまった。エネルギー輸送の直流送電や地域エネルギーネットワーク方式も地球温暖化対策の未検証下では未来予測できない。北極、南極の氷河の融解が地球環境の生物生存限界指標となる。『エネルギー』の物理学的認識が間違っている。今年の日本列島の真夏の豪雨災害は北極の氷河冷気と太平洋高温海水とのせめぎ合いの気象現象である。気象状況は食糧の地球生産能力を決める。エネルギー源の火力発電所と原子力発電所が人間が使用するエネルギーと同じ熱量を海などの水温上昇を引き起こす『復水器』で捨てなければならない必要性を認識しているか?汽力発電所(水蒸気サイクル発電)の熱効率が40数%という事実を。

カミキリ虫

大きなカミキリ虫だ。名前の由来は女の人が髪の毛を切らせたからかなどと勝手な想像を巡らす。髪切虫と想像。子供のころを思い出す。京都府舞鶴市溝尻の海軍下士官住宅に住んでいた頃、近くの野原には時々カミキリ虫が居たので捕まえて遊んだ。カミキリ

いままで見たこともない大きさだ。サビカミキリと言うのかもしれない。

縞蛇

困ったことに庭に蛇が住み着いた。何十年ぶりに遭った小さいながら、縞蛇である。カナヘビは皆呑まれてしまったか。雨蛙も運命が尽きるか心配だ。この縞蛇は臭みが無く、焼いて食べられる。子供の頃の話だ。今は、蛇もあまり見かけなくなった。珍しく遭遇したのだから、喜んで良い筈だが、他のものが呑み込まれてしまうので心配だ。紅紫檀の盆栽に。頭が撮れず残念。縞蛇

近くに八方台と言う山の頂上がある。その窪みに谷内池と言う大きな池(噴火口か?)がある。今から53年も前になるが、その池の周りには大きな縞蛇が多く出没していた。学生仲間と一緒に登ったある時、大きな縞蛇が何匹も出ていた。その一匹を首に巻いてみたが、蛇も逃げなかったことを思い出した。

空理空論の法則を斬る

自然科学の根源的概念『電荷』によって全ての理論が構築されて来た。フランスの物理学者クーロン (Charles de Coulomb (1736-1806)) の功績をたたえて、その電荷の単位「クーロン」を[C]と頭文字で表記した。世界には二種類のプラスとマイナスの『電荷』があり、その二つの関係で、全ての自然現象が理解できると考えて来た。そのクーロンが唱えたと解釈するクーロンの法則がある。クーロンが活躍した時代は18世紀であろう。その唱えた法則がクーロンの法則であり、電荷間の距離の逆2乗に比例して、二つの間の力が決まると言う考えの法則である。距離の逆2乗則という。この距離の逆2乗則という自然解釈法は、ニュートンが最初に唱えたのかと理解している。余りにも有名なイギリスの物理学者で数学者の(Sir Isaac Newton (1642-1727))が地球上の落下現象を見て、全ての物の間には「万有引力」という力が働くと解釈した。その力が国際単位でニュートン[N]と決められ、二つの物体間の中心距離の逆2乗に比例した力[N]が生じると唱えた。クーロンはその法則が電荷間にも適用できると見做したのであろう。『電荷』否定から、電気的な意味はクーロンの法則を斬るで論じた。
『重力波』 現代物理学の研究対象として世界の物理学者の多くが取り組んでいる研究課題に『重力波』の観測がある。ニュートンの重力理論が宇宙にまで及んで、その星の生成・消滅時に『重力波』としての現象を検出しようと言う研究であろう。そんな衝撃波は何も『重力波』などではなく、普通の爆発の衝撃波でしかない。前に、NHKの朝のニュースで、トランポリンの振動に関係付けての『重力波』の解釈説明があったが、余りにも幼稚過ぎて話しに成らない『仮想話』と思った。そんな研究の原点もニュートンの万有引力則があるからである。

逆2乗則の変数『距離』の意味 何故『距離』が力の大きさを決める物理的原理と成るのか。そんなに『距離』は力の変化に影響を及ぼす意味を持つのか。筆者は『否』と主張する。皆何故かを考えていない。林檎が下から上空に向かって勝手に飛び上がる様な自然現象は決して無い。上から落ちるだけである。水力発電所の水の力も、水圧管を通して上下の落差で、はじめて有効なエネルギー源として利用可能である。決して逆な上下の力学的関係は起きない。だからニュートンが唱えた「万有引力の法則」が極めて理解し易い現象説明の法則に成っている。しかし、決して「万有引力則」も『クーロン則』も実験的に確認出来る訳ではない。実験的な検証はできないのだ。地球の質量など分かりっこない。『電荷』の量など検証できない。

クーロンの法則ー空論之法則ー 少し皮肉気味であるが、『電荷』など存在しない事を物理の基本に据えることが教育上避けられない。そんな緊急な教育上の意味も載せて皮肉交じりの絵図にした。

空論の法則斬り

標題『空理空論』の文字の意味 筆者も電気技術者の心算で電気工学に関係して来た。それが『電流』も『電荷』も自然世界の真理を理解するにはすべて邪魔物であると覚悟して来た。今考えれば、何と世界の自然科学が虚偽に満ちているかを認めなければならない事態に付き当たってしまったと面喰っている。自己否定から始まったような科学漫遊の旅もそろそろ終着駅に着く頃かも知れない。高度な数学式で表記される現代物理学の内容が、理論と成るとすべて怪しく観えてしまう。数学の現代科学技術社会を支えている実用性は極めて有意義であり、無くてはならないものになっている。しかし理論物理学に対しては、とても信用できるものとは納得できないで、自身でも困っている。日常生活者の視点で自然現象を観る姿勢が大変重要と感じる。

科学漫遊の旅 一介の中魚沼郡から出た田舎者。3年もの浪人生活でやっと大学入学を果たし、工学部、電気工学科卒である。今では学歴社会で、学卒等学術世界では価値が無いとみられる。しかし、今思うに世界の物理学の根本は私の科学的感性がひと際重要であると考える始末に成ってしまったことをどう取り繕えば良いかと収拾できない処で、結末を付けなければならない。自然科学という学問分野は裾野が広く、なかなか全体を見通すことは無理なようにも思えるが、世界に『実在』する『エネルギー』という物理量を感覚的に感じられれば、自然世界を思うがままに俯瞰する十分な基礎を会得したと考えて良かろう。『エネルギー』を認識するには、結局『電荷』を否定する事でしかない。『電荷』で科学理論を取り繕って来たことに科学の権威化を産み、市民から乖離してしまったと観る。筆者の辿った道はただ一つ『電荷』否定への道 (2014/06/03)であった。様々な分野を尋ね歩いたその様子を帆掛船ー面舵取舵梶の跡ーに纏めた。

鉄Feに思う

元素の多様性 元素の多様性は科学の基本認識に成っていて、そこに見えるそれぞれの特有な性質が不思議な世界と成っている。何故それほどに元素毎に異なる特性を示すかが不思議でたまらない。原子の核とその周りの空間形状がどのような特性上の意味を作り出すかがとても興味のあることだ。外殻電子の周回運動での原子論は、原子間の結合に対して矛盾が多過ぎる為、受け入れ難い。そんな単純な疑問を基にして、元素論で、鉄Feが最も安定した位置にあると考えられている。全ての元素は何らかの変化をしながら最終的には鉄元素になるだろうと言うように考えるのが、現在の科学常識論である。そんな科学論が信用できるかと疑問のまま抱えていた。
2014年8月9日朝日新聞記事(be版 e6面) 今さら聞けない 鉄 の記事の内容に触れて考えた。科学論は宇宙の彼方の話に結びつけて語られる場合が多い。この記事もそうである。日本原子力研究開発機構、原子核物理学の専門家の考えが参考に成った記事のようだ。原子核物理学と宇宙の科学論が繋がる話としての、とても広範囲の学問領域を俯瞰する哲学的専門家の壮大な宇宙論と原子の核論とを結びつけた科学論であるようだ。それを一般市民への啓もう科学論としての意味付けで記事にされているように考えた。
鉄は酸化すると何故赤い? 鉄の酸化・還元の例には良くヘモグロビンが取り上げられる。血液が何故赤いかの解説に鉄の酸化現象で解説される。鉄錆は赤っぽくなる。顔料(ベンガラなど)や絵の具にも鉄分が多いのだろう。鉄錆が赤いのは鉄原子の結合が空間的に変化し、酸素原子との結合での光吸収の原子結合による格子構造に、入射光の波長を変換する変化現象が生じるからである。光を吸収すると言う事は、その光エネルギーを吸収するだけではエネルギー保存則原理を説明していない。酸化鉄がその格子構造内で吸収した光エネルギーの波長を変換して放射するから反射光が赤く認識出来るのである。光が赤い訳では勿論無い。人間の色覚との関係で波長を識別しているだけである。その時の鉄元素がどのように空間的に変化しているかが物理学・化学として究めるべき点である。何しろ原子の空間形状を観測できる科学技術的手法が確立していないため、それは究極的な疑問点・課題でもあろう。

(2014/9/5)追記。人の血液は赤い。マグロの赤身も赤い。検索で調べれば、みんなヘモグロビンやミオグロビンの分子構造の中の鉄原子の酸素結合で解説されている。例えば、マグロ等のミオグロビン分子量は1万7800で、1個のヘムを持つなどとある。1個の鉄原子の酸化がそんなに強力に、マグロの赤身肉の赤色発色の意味を持つだろうか。人の血液も、ヘモグロビンの鉄原子が赤色の原因だろうか。血液中の全成分比率で、鉄原子Feの占める割合は体積、重量比で如何程だろうか。それ程鉄の色彩効果があるだろうか。人が光の中で、赤色波長の6000~7000Å付近の色覚で認識する原因が鉄原子の寸法数Åとの関係で、理解しようとしても空間寸法で何千倍の差をどのように納得すれば良いのだろうか。鉄が水の中に在るからと考えても、その寸法の整合性が取れない。科学論的解説は私のような市民的科学観からは理解困難な事柄が多過ぎる。血液の赤色の不可解を取上げた。

鉄安定論への疑問 新聞記事への単純な疑問がある。鉄と地球磁場。ウランと鉄の行き来過程(ウラン元素まで鉄元素通過後の質量集積過程の理由とウランから質量減少して、鉄元素に戻ると言う意味不明な論理?)。元素構成・変化過程の基の物体・素粒子・エネルギーは何か?水素は何故無く成らないか。水素は何が基か?

8月8日書き出しのままの保存記事。公開し、追記で進みたい。「赤色」は本当に不思議がいっぱいだ。スイカの赤、バラの赤の分子構造は?(9/5)追記。ヘモグロビンの赤の原因が分からないと同じく、何となく似た色の『スイカ』を思い付いた。検索で調べたら、同じように『スイカは何故赤いか?』と質問している。疑問を持つ人が多いようだ。しかし原因がヘモグロビンとは言えないようだ。水の中で赤く見せる謎を市民科学論で解けたら嬉しい。スイカの中味は殆ど水であろう。スイカの中味を構成する格子状の網目が水分とスイカ養分を蓄えているのだろう。そんな切れ目に光が当たると、赤色の光を反射・放射する訳である。入射光を波長変換する光変換作用がスイカの赤色の訳であろう。網目分子空間構造と水分の光屈折現象以外捉えようがない。ついでに、薔薇の深紅も表面の結晶構造が光変換するからと解釈する。光も粒子 等ではない事を理解しないと光の変換作用を感覚的に納得できない。光は波長が変化する。色の世界を尋ねて

放射性原子核物質

(2014/08/19)昨日は火事でもないのに、前の道路に梯子車の大型消防車と救急車が留まっていた。総務省の関係か?今日も大型消防車が前の道路に留まっていた。胸糞悪い鐘と同じか。

福島原子力発電所が崩壊した歴史的事実をどう捉えるかは科学技術社会の生き方を考えると同じ程大切な事である。『原子力平和利用』という国際的用語がある。平和と付けば、良い事のように思い易い。その現実的世界の姿は『原子力発電所』である。しかし、『原子』とその「放射線」の物理的意味さえ科学的な認識が正しく確信的であるかと言えば、『否』と言わなければならない。放射線が粒子か波かも曖昧なのである。『エネルギー』の意味さえ捉えきれていない物理学理論であれば止むを得ない。人体への放射性原子核物質の影響を的確に捉える事も出来ていないのである。年間許容の放射線量という言い方も、極めて曖昧な科学認識に基づいているのである。筆者のような学術機関に属せずにきた、いわゆる素人がそんな大それたことを言っても何の影響も無かろう。しかし、放射線医学の専門家の方々が、統計的に過去の放射線量の医学的資料を把握しているから、それに基づいた標準的判断と評価は認めなければならない。問題はそのデータが原子核理論の不確定な部分に依存していることからくる、評価基準のあいまいさは逃れられない。時にいい加減な専門家群が政治的な関係から曖昧さを更に悪用することが起こり得ると言う危険性を、専門家村は持っている。『電荷』の否定が原子核理論の根幹を揺るがしているから、曖昧さの科学理論と言う事になるのであり、それがまた残念なことでもある。

書き出し(8/14)のまま下書き保存もうまくないので公開する。今朝(2014/08/17)の朝日新聞に政府広報「放射線についての正しい知識を。」が載っている。「放射線の線量」ミリシーベルトの単位の意味が気になって書き出した記事であるので、政府広報を参考にして少し考えてから、まとめたい。

政府広報を参考にして 読ませて頂いたが、やっぱり殆ど理解できない。政府広報の標題が「放射線についての正しい知識を。」である。科学用語を使うには、その用語の科学的意味が明確でなければ何の説明にもならない。専門家群の為の共通理解用の専門用語では本当の専門家ではない。その用語の意味が市民が理解できるような解説でなければ意味がない。その市民の為の科学者であり、その処遇で保障されている訳だ。誰もが理解すると言う事は、日常用語で翻訳して誰もが分かる理屈の通る解説でなければならない。評価基準は何何ミリシーベルト[mSv]という単位で解説される。100mSv以下であれば安全だ。というとき、それは(100[mSv])どんな意味を含んでいるのか。物理学では、単位1[Sv]=1[J/kg]の換算である。シーベルトとは日常使うMKS単位系では全く使わない。そこで、熱エネルギーの単位ジュール[J]なら、何とか理解につながる可能性がある。そこで、1[kg]当たりのジュール[J]量がシーベルト[Sv]という事になるが、その1[kg]当たりという1[kg]は何を指しているのか。計測量を普通の野外計測器で測るとき、何[kg]当たりという、計測対象の質量[kg]を計っているのか。そんな幼稚な基本的評価に関する量的基準値が理解できない。専門家とは、そのような専門的評価量を噛み砕いて、一般の市民が分かるように解説して初めて専門家と言える。今回は、東京大学医学部付属病院 放射線科準教授 中川恵一氏が解説されている。更に国際原子力機関(IAEA)保険部長《当時?》 レティ・キース・チェム氏である。筆者のような素人は、何[kg]という「何」を計測対象の人の体重かとも勘違いしそうである。何のキログラムかさえ説明がない。政府広報としては、一般の市民を対象にした広報であるから、市民が理解できない数量を解説しても税金の無駄使いである。その事を良く心掛けて欲しい。

100[mSv]とは? どうも話によれば、年間被ばく量が100[mSv]以下であるかどうかの話のようだ。放射線とは、普通はその強さは単位時間にどれ程の放射線を人体に照射されるかが問題であると思う。例えば、ある放射線放射元素の物体が塊に成ってそこにあるとする。その放射線量を計測する時、その塊の質量を計り、その値を基準として、放射線計測器で全四方に放射する線量を計れば一応何[Sv]という意味に通じる。それにはその塊を計測器内に取り込み、放射線量全部を量[J]で計らなければ、何々シーベルトという意味にはならない。さて、その塊が藪の中に有ったとする、そこを人が通るとき、被曝量をどのように評価するかである。その塊の傍に何時間も居続ける必要がある時と、瞬間的の通り過ぎる時とをどのように評価するのか。時間的な物理概念が全く入っていない計量値である。時間が長くても、短くても被曝量の評価をどう解釈するのか全く分からない。

内部被曝 庭や道路、公園あるいは山林の放射線を計る。相当の高レベルの放射線が計測された。空から地表に降り注いだのだ。人が生活し、住んでいた場所である。空気中を放射性原子核物質が降り注いだ。人は呼吸をする。空気中の放射性核物質も一緒に体内に取り込んだのだ。文科省はそのデータが出るのを隠して、隠蔽している。政府の責任で生じる放射線障害を隠して、責任逃れの為である。屋内退避など何の役にも立たない防災対策である。

(続く)

魚眼の標本?

魚が見る世界はどんな景色か。水中の光速度は真空より遅いだろう。魚には魚なりの色を見ていよう。魚も眼球はタンパク質から出来ているのだろう。魚を料理すると、眼玉も一緒に煮る。その眼玉を取り出して、乾燥させて集めた。桜の木片に接着した。鱈の眼球の直径は6.8mmと大きい。魚眼と寸法

相当昔に取りまとめた標本だ。人間の眼玉も煮れば同じようになるのだろう。当然硝子体管(光ファイバー)など全く見えなくなるだろう。魚眼も機能は光を検出するのだから、人間とそれほど違わないだろうと思う。網膜は空気中でないから、カメラの機能のフィルムとは全く違う。眼球の光ファイバーと色覚。眼球の機能は光学、生物学上も面白い。

故郷と未確定の戦後に

「故郷は遠くにありて思うもの」と室生犀星。帰るに帰れない悲しみを詩にぶつけたのだろうか。

故郷古淵

上の絵図は故郷の信濃川を思い出の図柄で描いた。夏は毎日その信濃川に癒されながら、泳ぎ、潜り水と共に過ごした。大河としての記憶は、信濃の国、長野県で大雨が降ると泥水が特有の臭いを撒き散らして、川岸の高みを乗り越えるかと心配する程の大水の流れと成る事の記憶がある。広い川幅一杯に流れる大河の濁流がぶつかり、深く川底を抉り取って、深い淵を形成したものと解釈した。古淵というが文字はどう表記するかは判然としない。絵図の左に自分が大きな川鯉に迎えられた時の思い出を乗せた。

しかし、今は宮中の堰堤で信濃川の水量のほとんどがせき止められ、隧道(昭和7年頃の土木大工事)を通して、二つの水力発電所(千手発電所、小千谷発電所)に利用されている。水量の無い信濃川は信濃川ではない。

何故か『記事が消えた』。保存を拒否するように。 、千手発電所、小千谷。

貝野小学校、貝野中学校の義務教育に理解できない不可解あり。学校の入学は、舞鶴国民学校昭和20年4月(入学者名簿に、筆者の名前が無いと聞いた。戸籍が巡洋艦:香取丸(被弾沈没、船籍除籍船)で、海軍住宅に家族5人で住んで居た。市民行政の対象外であったか?当時の舞鶴市長 立花一様)である。敗戦の混乱の中、舞鶴から汽車を乗り継ぎ故郷に辿り着いた。信濃川が優しく迎えてくれた。澄み切った清流の中に、手を差し入れたら手の中に『砂っ掘り(スナッポリ)』と呼んでいた砂に潜るカジカのような魚を掴んでいた。感激した。そんな小さな思い出が自分の感性を育ててくれたと思う。9月に入って貝野小学校に通った。その時の担任が誰かは忘れてしまった。小学校の中学年時に、担任は『羽鳥隆二』であった。小学校の前が校庭の続いた貝野中学校であった。中学入学と同時に、小学校の羽鳥隆二も中学校に来た。中学校の担任を『羽鳥隆二』が3年間受け持ちであった。しかも、教科は何も持たれなかった様に、何も覚えていない(社会科を担当したか?)。何か今考えるに、『羽鳥隆二』は筆者の存在が消されている事を隠すために、小学校と中学校の両方を学級担任の役割を担ったのじゃないかと、不可解の取持ち担当であったと。総務省管轄下の憲法編に属する「行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律」がある。特別な法体系の要の法律である。そこに気掛かりな規則がある。《同法第三章情報処理の開示及び訂正等 第13条 何人も、・・を請求することができる。ただし、学校教育法(昭和22年・・)に規定する学校における成績の評価又は入学者の選抜に関する事項を記録する個人ファイル、病院、診療所・・》とある。開示請求に対して、第13条のただし書きで、学校教育に関する学業の成績等を公開から外すとか(その法理論上、日本国憲法の法思想上の妥当性、理由は?)?

新潟県、新潟県教育委員会は闇の人事を行う。私を採用辞令も出さずに16年間利用した。昭和39年3月20日ごろ、教員免許証の一枚が送られてきた。しかし、新潟県教育委員会からは採用に伴う諸手続きに関する、採用辞令交付などの一切の事務連絡は何も無かった。現在も新潟県教育委員会には人事に関する記録は存在しない筈だ。新潟県教育行政の過去と未来ー犯罪性?-

新潟県公安委員会から、運転免許証の住所欄には新潟県の県名が無い。Wikipediaには三重県表記の免許証が例示されている。新潟県の例はどこか真新しい、新潟県なしで、聖籠町と偽物らしい免許証が例示されている。

長岡市の行政の基本、住民基本台帳に『新潟県』が欠落したままの、犯罪行政に思えて、恥ずかしさを耐えている。何年か前に、新しい『実印』を登録した。その実印登録の証明書には、『新潟県長岡市』が欠落して居て、その次の町名だけが書かれていた。そんな証明書を恥を忍んで受け取った。行政は偉い権威を持っているらしい。民主主義の主権者に対する役人の立居、姿勢は。日本人の意識構造の根底にあるガラパゴス性の正体。非民主主義的な『国は』、「国側」に意味不明用語使用の日本の曖昧さが象徴的にある。氏名に拘るのは基本的人権として日本国憲法で保障されているはず。私は何者でしょう(2)氏名と長岡市政責任私は何者でしょう(3)故郷貝野村と舞鶴鎮守府

存在を否定されている 私は偽者か

未確定の戦後とは?  敗戦で戦後が始まった。連合国のアメリカが主導して日本の戦争責任を問い、「東京裁判」で一応のけじめを付けた。そこから始まるべき本当の『戦後』が未だに確定していないと言わざるを得ない。その「アジア・太平洋戦争」と言う計り知れない近隣諸国への侵略的暴挙の殺戮と破壊、更に日本国家・国民の犠牲と苦しみを強いた真の戦争犯罪者、責任者は誰かを日本人は問うてきたか。日本が誇るべき『日本国憲法』に対して、アメリカの押し付け憲法と毛嫌う人が国会議員の中に多い。惨憺たる姿を晒して、無条件降伏の惨めな敗戦の悲しみを受け止めて、必死に生きる辛さをみんなが耐えてきた。経済成長と言う果実を手にし、世界第二位の経済大国の豊かさも手に感じてきた。落ち着いてから振り返ってみれば、「村山総理大臣の戦争への痛切な反省と謝罪」『河野談話』で表明したように、対外的な日本の姿勢を示す必要に迫られた。しかし、日本人自身がその戦争の責任とけじめを日本人自身にしてこなかった。日本人の政治に対して物言えば唇寒しで、黙って得する気質は役人行政の思惑を利するだけである。昭和10年の日本の政治情勢と日本人の意識構造に変化はない。民主主義という最大の武器での《選挙権》の行使さえ怠って、その選挙棄権の危険性を意識しない日本人の無関心さ。家庭で政治の話は御法度の無関心さ。不断の努力とはこんな嫌われる記事を書くことでは決してないことは分っているつもりだ。A級戦犯が戦後の政治を担い、戦争の推進役の行政官、軍人がその戦後を引き継いできた。少しも日本人は戦争の悲惨な結末を押し付けられながら、『誰』が『何故』と『戦争責任』を問わないできた。それは物言わないでただ従ってきた自身が悪いと思っているからなのだろうか。これから経済競争で、日本が過去の豊かさは得られず、財政破綻の危機に立ち向かわなければならなくなる。それが近隣との摩擦となり、武器に手を出す危険な事態を迎える危機。経済界は政治の戦前への逆戻りを少しも気に掛けない意識がどんなに危険か。「生命と財産を守る」は戦前、戦争前のうたい文句で、人に戦場で生命を掛けさせる口実でしかない。経済界はそれでも儲かれば良いから黙っている。宗教界も何の発言も無い。平和は身を削る犠牲で初めて戦争を拒否することができる。みんな戦争をしたいのか?「想定外」の戦争ではない筈だ。

過去の記事 戦争と平和 日本の魔境ー靖国神社ー 「日本国憲法・基本的人権」、「海軍・戦後処理」、「父と私」と「教育・研究の意義」 『特攻隊』に観る集団的・反人道的・日本全体主義ー良き未来を願って!- 『愛国心』の正体を尋ねて 国家・民族とは何か 

戦後は法体系から始まった

アジア太平洋戦争ー第二次世界大戦ーが敗戦によって終わりを告げた。戦争がどのような実体かを今若い人は知らない。しかし、感心するほど一生懸命戦争の事を勉強する若い方々も多く居られる。筆者も社会常識は全くなく、日本という社会状況を知らなければ「自然科学」を取上げるにも自分の立ち位置を知ることが重要であると取り上げたのが『日本国憲法』の条文解釈であった。「曖昧な日本と憲法」43頁ほどの冊子にまとめた。その初めに纏めてみた一覧表がある。

戦後の法体系

こんなところが社会科学の入り口かと思ってまとめた。