月別アーカイブ: 2014年7月

地球温暖化原因・CO2説は嘘だ

年々過酷さを増す豪雨災害、酷暑気温は人間が造り出した地球環境だ。原子力発電、火力発電の水蒸気サイクルに伴う、復水器冷却の海水温過熱がその一つの原因だ。呑気な二酸化炭素原因説が専門機関から流されている。海の海水温1度上昇がどれほどの熱エネルギー吸収量に成るかを計算ぐらいして欲しい。それが専門家の役割だ。

京都議定書で地球温暖化防止の国際的取り決めが始まった。原因が炭酸ガスと言われて、その削減目標を国際的に取り決めた。アメリカ等の議定書に参加していない国も多い。しかし、炭酸ガスが温暖化に影響していないとは言えない。石炭燃料の消費で空気の汚染は空気の汚れと熱蓄積を促進するから。日本の独立行政法人 国立環境研究所 がある。その中に、温暖化リスク評価研究室がある。そこに解説がある。しかし論理的な解釈など示されていない。何故CO2が他の原子、分子より温暖化の原因になるかの説明がなされていない。熱源はすべて太陽熱しか考慮されていない。地球上での熱は、人間が使用する熱エネルギー、主に電気エネルギーが殆ど地球の空気中に放出される事を考慮していない。海の温度上昇にも何の評価も示していない。国立環境研究所とはそれなりの期待がされて設立された筈だ。専門家として、余りにも狭い範囲の見解ではないか。多分、大石環境大臣の頃に設立された機関であろう。CO2の比熱を調べてみた。水素分子H2:14.38[J/g K] 酸素分子O2:0.922[ 同 ]、炭酸ガスCO2:0.832[同 ] と理科年表にあるらしい。水H2O:2.051[J/g K]で水素と水が大きな熱容量を持っているようだ。(2017/11/18)追記。地球温暖化問題に対して、この理科年表にある比熱の意味が有効な数値であるとは考えられない。水素と水の熱容量を比較しても意味を成さないように思う。筆者のような理科年表を利用しない素人には利用をする能力が無い。

不思議を夢に乗せ切れず・・

電力回路開発研究から外れて、今でも消化不良のままに心残りで、わだかまりを持っている。そんな古い回路がある。研究の歩みにも、その回路図と電流波形だけを載せてある。共同研究者に連絡なしで、その電気学会での資料を載せたい。

電気回路動作解析 電気回路の電流分析は回路解釈の主眼である。その電流解析には専門家としての自負を持っている。しかし不可解な都合により、その道から外れざるを得ない事になった。「電流は流れず」と言う物理学の根幹に挑戦する道に入り、その事の少しも間違いで無かった確信を得た現在、改めて電気回路の電流分析に、思い入れを強く持っていた当時を振り返る。半導体回路の動作解析は、スイッチングの連続動作で、強制的な回路切り替えがその動作の基本となっている。その連続過渡現象を電流の振る舞いとして的確に押さえる事が重要な研究手段となる。技術屋の面目を掛ける仕事である。「電流は流れず」を唱えるには、そこまで電流の深い解析が出来て初めて言えることと思う。少し自惚れであるがご勘弁の程。

並列多重化・・PWM変換装置1

並列多重化・・PWM変換装置2

上の実験結果の三相電流波形で、一本学会側のミス?、都合?で、写真に白い白線(紙くずの痕?)が映っている。

 電気回路制御の不思議 電気技術者は制御方式に、自己流の自負を持って複雑な方法を採り易い。しかし本回路の制御法は極めて単純であり、その単純な制御法が巧く働く事の驚きを持つのである。その理由を回路解析の単純化の等価回路で解析したのだが、決して解決した訳ではないのである。何故上手く電流制御が出来るかが未だに分らないのである。こんな不思議は回路解析で、初めての経験であった。電気学会電力部門の研究から離れて、既に30年近くたったので、この並列型制御回路の実用化等の状況がどのように成っているかも全く知らない。この並列型PWM変換装置は、感覚的にはどの半導体素子が故障しても、自動的に安全の方向に補償して自動的に働くように思った。それなら極めて実用性の高い回路方式である筈だ。複雑な制御方式にしないことの利点を生かすのがこの回路の主眼である。回路のリアクトルがその回路エネルギー流を巧く回流させる働きをするのだろう。

人工的気温上昇

先日岐阜県で39.3℃気温になった。昨日(2014/07/26)は長岡でも、36℃を記録した。熱中症対策で、クーラーなどで部屋の温度を下げて安全に過ごせと、テレビ放送等で警告される。しかしそれはおかしい話だと思う。科学技術社会で、クーラーや冷房装置が気温を上げると言う意味をきちんと認識してもらわなければならない。クーラーは気温上昇の原因であると認識しなければならない。巨大なコンクリートジャングルのビル冷房装置で、どれ程の電力を利用していると考えるのか。電気エネルギーを使うと言う事はその電力ワット数は毎秒のエネルギー消費量を言い表しているのだ。エネルギー消費は空気中にその使用エネルギー分を放出しているのだ。電力は空気の加熱に少なくても半分は変換されていると観るべきだ。現在の異常気温はすべて人間の我儘に因る人工的気温を示しているのだ。経済競争で利益を得た者が好きなだけエネルギーを使って、自分だけ涼しい環境で過ごせれば良いという意識で居るのなら、それは科学技術の未来性を否定する人間の意識である事を知るべきだ。

新芽のやけど

椿の新芽が無残に焼け焦げた。昨日の気温36度が椿の生命・新芽を焼いたのだ。1っか月程前に、椿の剪定をした。そこに新芽が吹き、新しい枝を伸ばそうと新芽だ吹き出していた。前日までは大丈夫で、元気な新芽であった。今朝見たら焼け焦げていた。クーラーも使えず、肌をさす気温の中で過ごした。しかし植物は生命を育む基であるのに、気温の高温に耐えきれないのだ。畑仕事が出来ないような気温は、人間が作り出した人工的我儘人間に原因を持つ現代環境の姿だ。

酸素分子O2と水分子H2Oに悩む

原子が結合すると分子に成る。分子には水素分子から蛋白質の高分子まで、その種類は無量大数程あるのだろう。分子構造をどのように判定するのかは筆者のような素人には理解の域を超えて、難しい。ただ素人には素人なりの自負心を持っている。その素人が不思議に思う事がある。水素分子H2は分子で最も質量が少ない分子だ。それに比べると酸素分子O2は16倍の質量だ。それらは大気の標準状態では、共に気体である。(追記)ここに書いた事は、前にすでに書いた二番煎じのようになった。水のお伽の世界で述べていた。

水分子H2O 酸素原子1個に水素原子2個(水素分子分)が結合すると、水分子H2Oと成る。この水と言う代物が誠に不思議な存在に思える。水溜りになれば、水分子は水で、それは確かに液体だと思う。しかし空気中には標準状態で、酸素分子も水分子も全く区別がつけられない混合気体の構成分子と感じる。空気も標準気体で考えれば、偉い定数アボガドロ定数の支配する科学常識の世界で解釈しなければ、科学的でないと強制的に排除される。水分子と酸素分子の空間的大きさはどのように異なるのかと考えると、科学常識の世界からはみ出さないと思考が進まない。質量は酸素分子の方が明らかに重たい。酸素原子に軽い水素原子が結合した水分子は酸素分子より重い訳ではないのに、感覚的には液体と言う特質で、酸素分子より重いと解釈しなければならないように感じるが、それは錯覚と言うもので認識すべきなのだろうか。アボガドロ定数の顔を立てれば、酸素分子も水分子も空間的体積は同じでなければならないと成るだろう。酸素原子と水素原子は空間的大きさ・体積は同じだろうか。同じだとしたら、水分子は酸素分子の空間的には1.5倍程になるだろう。そうするとアボガドロ定数にはその辺の理解不可能な辻褄をどう合わせれば良いかをご解説頂かなければならない。(2019/12/20)追記。自分の疑問を書き連ねているだけのようで誠にお恥ずかしい。水の分子(気体)も酸素分子も水素分子も気体であれば、すべてアボガドロ定数の分子理論に従うとなっているようだ。しかし、水の水蒸気を考えれば、水分子が温度(エネルギー量[J]保有評価量基準)によって膨張や収縮をすると解釈したい。そうでなければ、あの蒸気機関(水蒸気タービン)の力は生まれなかろう。水蒸気の空間占有量・体積[㎥]が変化すれば、アボガドロ定数に従う訳ではないと考える。水分子も酸素分子も同じく気体分子運動論で解釈すべきと言うのだろうか?

単純な疑問 常温で、重い質量の酸素分子が気体で、軽い質量で、しかも空間体積は大きく密度が小さいにも拘らず(?)、水分子が液体になるとはこれ如何に?こんな誠に詰まらない疑問を披露する事自体を恥ずかしくも思う。

空間感覚(詩心 124号)

独楽に見惚れて(詩心 125号)に関係する空間ベクトルの空間感覚の記事がある。少し接ぎ張りして載せる。大工の棟梁が曲がりくねった棟木を組み込む技術に、どんな技が秘められているか、その職人の空間感覚に感服して。人が技術に習熟してくると、余り考えなくても感覚的に手足が空間に溶け込み、自然に空間的な構築の正確さが生まれると思う。身体と空間と考えが統合されている。そんな棟梁の手腕にあやかりたいと願って。棟梁にあやかり

空間感覚

 

微分演算子(詩心 第123号)

古い自主文集「詩心 乗せて 観世の 帆掛舟」に独楽の記事がある。その予備資料に微分演算子の意味をまとめた。ファイルを載せたい。写真085

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写真088写真089写真090ここにあげた資料は独楽の力学的意味を解釈するときに微分演算子の回転 rotation の計算に参考になればと言う意味である。筆者独自の解釈例も挙げてある。

独楽に見惚れて(詩心 125号)

独楽の回転に秘められた物理的意味が分らない。一本の軸心にその運動の生命が隠されている。2002年4月に記した自主文集「詩心 乗せて 観世の 帆掛舟」の記事がある。ずっと気掛かりになっていたが、改めて記事を起こすのも面倒だ。独楽の力学にはコリオリの力が論議されているようだ。しかしその言わんとする意味が理解できない。筆者の勝手な解釈であるが、独楽が何故軸一本に安定して立つかを微分演算子rotation で試みた。10年以上前の公開記事であるが、そのままのページを載せたい。ファイルのページ数が13㌻程になる。長くて済みません。文章形式が縦横入り乱れて、醜い点をご勘弁下さい。

なお、計算の意味にまた解釈の変更が無いとも言えない。時間的な微分の意味が考慮されていない点で気に入らない。
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日本の風物として弥次郎兵衛に魅力を感じている。不思議の国の弥次郎兵衛

ハイビスカス

ハイビスカス

ここ北の国、雪の降る越後にも夏が咲く。ハイビスカスは沖縄の彩りに見える。夏になると毎年植える定番の花だ。その大きな花が真っ赤に誘う。物理学の専門用語『振動数』を解剖した。この佛相華ともいう花の赤には光の色を分解したくなる誘いを受ける。光には『振動数』も無ければ、色も無い。物理学の実験題材として、この花ハイビスカスの赤い色を波長分析して見たい。どんな波長のスペクトラムを示すだろうか。『振動数』が無くても光には、その光特有の波長を持っている。振動数が無くても波長はあると言う意味を理解していただけるだろうか。科学理論を市民的目線で解剖して、市民の手元に科学の理解力を根付かせ、未来の科学技術社会の安全を願いたい。科学者が自然科学を独善的に支配する未来は危険である。常に市民目線で監視する感性を社会が持つ必要性がある。分らない不思議を科学者の言いなりに信じる事が如何に危険かを指摘したい。このハイビスカスの赤い色が何故赤いかを考える事が科学なのだ。そこには物理学者が独善的な理論では説明できない多くの意味を含んでいるのだ。数式で表わせないのだ。《赤》が何故赤いかを問答する。以前の記事、色の世界を尋ねて を思い出した。

専門用語『振動数』の解剖

物理学の基本概念『電荷』を否定すれば、現代物理学理論の根本から問い直さなければならない。『電荷』否定への道。物理現象の記述概念に「波動」が有る。波動には『振動数』あるいは「周波数」と言う専門用語が必ず含まれている。特に光の周波数あるいは『振動数』が物理学理論の専門的常識用語と成っている。その『振動数』を物理学的観点から、問い直してその曖昧な論理を曝け出そうと思う。身近な所に確かに振動する現象を見る事が出来る。イヨマンテの夜

太鼓と撥捌き 夏祭りになれば、太鼓が響き、その音に心が鼓舞される。太鼓は人の腹にその空気圧の振動を伝える。腹に響いて、身体を夏祭りに誘い出す。太鼓と言うと、敗戦の苦しみの中でみんなが一生懸命に生きていた中で、その切なさを癒してくれたものにその歌があった。筆者が中学生のころか、歌手伊藤久男が唄う『イヨマンテの夜』があった。太鼓に結びついて思い出されたので、絵に描いてみた。太鼓はその振動が生命である。膜の振動を物理的に解剖したらどのように解釈できるかである。筆者は、その様な自然現象を解釈するとき、勝手に自分の感覚的共感によって認識するのが普通である。具体的な力学的解析も教科書には無かろう。だから勝手に現象の解釈を展開する。太鼓の膜がどのように振動するかは誰でも見れば大体分ろう。如何にも膜に垂直に波打ち振動している様子が捉えられる。しかしそれだけでは、膜の振動する力学的意味を捉えているとは言えなかろう。だからと言って、太鼓の膜の振動現象を数式で厳密に表現しようとすると中々難しそうだ。しかしその基本的な力学現象を言葉で説明する事は何とか出来よう。太鼓の振動現象は膜が垂直に振動する事に本質的な物理現象が有る訳ではない。その奥に大事な力学が有る。枠が何故あるか。太鼓の振動と音

太鼓の皮の面が振動するが、その意味を図にしてみた。①太鼓の音色と響きはその撥捌きにある。膜は反対面との間の空気圧の振動も影響を受けて、その太鼓の音を決める一因にもなって居よう。撥の捌き方と膜の張り具合が音色・迫力を決めるだろう。膜の振動は膜に掛る張力の円周への縦波によると考える。②その張力波の往復振動が膜の垂直振動を作り、外表面の空気の圧縮と伸長を引き起こす。結局空気の膜面に垂直な粗密波を創り出し、その粗密波が縦波と成って、太鼓の響きになる。③音の波の中を解剖すれば、それは空気媒体を伸縮させるエネルギーの密度波となっている。空気密度が高いのがエネルギー密度が高密度の部分で、空気密度が低いのはエネルギー密度も低いのである。

音のエネルギー 太鼓の膜によって叩き出される空気の波はやはり正弦波と言うより、衝撃波に近かろう。その空気の粗密波が、音のエネルギーとして音速で進行する縦波なのである。空気は太鼓が叩き出す膜の振動エネルギーを空気の圧縮高密度として、そのエネルギーを乗せる伝播媒体でしかない。空気は進行しない。進行するのはエネルギーであり、音圧として進行する音になる。丁度、空気の圧力p[N/㎡]と単位質量あたりの空気体積(空気密度の逆数)v[㎥/kg]の積が空気のボイルの法則になると考えて良かろう。即ち、E=pv[J/kg]となる。少し詳しく表現すれば、音圧も体積も微分表現でなければならないのだが、おおよその解釈の考え方として示した。

かがり火と光 イヨマンテの夜の歌詞にかがり火がある。かがり火の光を光エネルギーの伝播と言う意味で絵に書き加えた。発光ダイオードの光であろうとかがり火の光であろうと光に違いは無い。光の発光源の熱源であろうと電気発光源であろうと、そのエネルギー放射の原因に違いがあるが放射された光には周期性が揃うか揃わないかの違いは有っても光に違いは無い。

振動の有る無し 物理学的には、自然現象を波として捉える場合が多く、そこでは『振動数』と言う単位時間当たりの繰返し数で捉えるものがほとんどである。特に目で確認できない現象の代表として、光が挙げられよう。光は振動などしていない。しかし物理学理論では光の『振動数』あるいは「周波数」をその光の保有する基本特性と見做して論じる。物理学理論で光の『振動数』と言っているのに、筆者が光は振動などしていないと強情に主張するには、そこにそれ相当の重要な意味が隠されていることを理解しているからなのである。『振動数』と言う専門用語の意味を少し分析しておきたい。太鼓の膜のように明らかに『振動数』の意味を持つ自然現象が有る。だから、『振動数』が有る場合と無い場合とを区別する定義は何かと考えた。それは振動する現象が、振動を支える固定体を持つか持たないかで解釈の区別をしたい。太鼓は膜が張られた固定した枠が有る。光は光速度で進行するから、振動する固定端が無い。太鼓の音はどうかと言えば、音は科学的常識からいえば、『振動数』を持っていると考えられようが、振動などしていないのだ。音の中味をどのように解釈するかに掛っているので、ただ何となく波と言う捉え方で、深く波の中味を理解していない処に大きな問題が隠されているのだ。波の本質は『エネルギー』の縦波である。日常生活で認識できる物に関わる現象で、空気に関わる音を例に挙げてみれば、そこに『エネルギー』を認識できるかの問題である。津波現象に『エネルギー』を認識できないと同じような事が有れば、そこには物理的解釈が生きていないとしか言えない。教科書が問題の核心を捉えていないのである。

波の伝播依存空間媒体 音は空気(音速毎秒340m)、水(音水速?毎秒200m?ITで検索すると、驚く事に毎秒1500mとあるが確認できない)によってその伝播速度が決まっていると観る。津波は伝播媒体が水であるから、そのエネルギー伝播速度(圧力波)はほぼ毎秒200m(太平洋対岸のチリ津波の伝播到達速度からの推定であり、深さには関係しないと観る―気象庁の解釈と異なるー)と解釈する。光は伝播媒体を必要としないと観て良かろう。ただ厳密に考えれば、空気が有るか無いかで、光の速度は当然変化すると考えなければならない。アインシュタインが問題にした、水星の近日性の光の伝播現象も重力で変化する訳などでは決してなく、光も空間伝播時にはエネルギーの回折現象でエネルギー分布が変化する、その結果でしかない。光と音の伝播速度が違う。光は何もない空間でその速度の本領を発揮する。音は空気の存在が無ければ伝播できない。真空中では音は伝わらない。昔は光もエーテルを伝播するとの解釈があった。伝わるものはすべて『物』が必要と考えていた頃の話である。一つだけ、認識しておいて欲しい原則が有る。伝播するものの本質はすべて、『エネルギー』である。光もエネルギーの一つの形態であり、音波も銃弾の飛ぶ現象も、全てエネルギーである。運動エネルギーと言うが、質量にエネルギーが乗って質量のエネルギーに加算された運動エネルギーとして見るべきである。その様に、『エネルギー』と言う本質的な物理量が認識されていない処に現代物理学理論の重大な欠陥があり、そこに矛盾が内在しているのである。光が振動などしていないにも拘らず、光を『振動数』や「周波数」でその本質を捉えると考えている。運動エネルギーは質量と一緒に飛んでゆく。しかし光と音はエネルギーだけが飛んでゆく。音も質量は運ばない。丁度、水を伝わるエネルギーと音のエネルギーは同じようなエネルギー伝播現象と見做せよう。海を伝播する津波は海底の地形でエネルギー伝播面積が変わり、伝播媒体である海水の深さによる水圧が変化する訳だから、そこでの津波エネルギー伝播がどのように分布を変化させるかまでは分からない。空気も上空と地表ではその空気密度が変化しているから、気圧が異なり、音の伝播にもその影響が有るだろう。光だけは伝播空間媒体を必要としない。真空がその本領を発揮する。しかし、空気、水あるいは透明なガラスなどではその伝播速度に影響を受ける。光伝播速度・光速度に対して不思議にも真空空間の空間定数が物理・技術定数として定義されていて、その数値から光速度が決まると言う意味にも何か深い意味が隠されていると観るべきかもしれない。真空透磁率と真空誘電率である。しかしこの定数については宇宙論でも、素粒子論でもほとんど無関心であるところに理解できない不可解さを技術的観点から強く感じる。そこには宇宙・素粒子の論理では、光を『振動数』で基本的特性を捉えているから、空間定数が速度と結びつきにくい論理性なのかとも思う。太鼓の表面を伝播する張力波を数式で表現しようとすれば、何よりもまず膜に掛る張力のエネルギー密度を仮定しなければならない。張力波の伝播速度も太鼓の皮の特質とその張り具合が決め手となる係数を仮定しなければ数式には表現できない。伝播するエネルギー量はエネルギー保存則の上で広がると考えるべきだ。それは正弦波では捉えようがない物理量である。太鼓の撥で打つ撥捌きの時間微分に関わる衝撃波となろう。こんな日常の現象も正確に理解しようとすると、とても難しいと思う。なお波が太鼓の枠に達した後は反射波として膜の中心部に向かって来ることになる。その反射現象も、送電系統で問題になる雷撃波の反射現象が同じ自然界の姿として繋がって見えるのである。物理現象を解釈するにはどうしても技術的感覚から捉えようとする習慣が身体的感性になっている。技術を理解しない理論は甚だ危険な結論に行くような畏れがする。科学技術の巨大化が、人間の技術的感覚を磨いておかないと『想定外』と言う逃げ道になる、当然起こると予想できる事件さえ、予測が出来ない社会状況を生みだすようで恐ろしくもある。その代表例が『原子力発電所』の巨大科学技術の混合機構の複雑化であり、思いもよらない落とし穴が待ち受けているという現実が見落とされる危険だある。『振動数』一つから見る物理学理論の虚構が見える筈だ。この『想定外』と言う意味を柳田邦男氏が 「想定外」の罠 大震災と原発 (文芸春秋)に良く表わされている。

エネルギーの伝播速度

 

参考資料 三味線と縦波 中々数式で太鼓の膜の振動を表現するのは簡単でないが、円周波の往復伝播として表現は出来よう。三味線の場合を以前式に表現して見た。光速度は空間定数(H/m,F/m)で決まる に光の速度と空間定数の関係を記した。

また日本雨蛙の謎

時たまひょっこりと雨蛙が生まれる。幼生生殖で、土の中から地上に誕生する。平成5年頃、小さな庭に梅雨時には数え切れないほどの多くの日本雨蛙が生まれた。最近は、時々1っ匹2匹と新生の雨蛙が生まれ出る。1匹生まれ出た。

IMG_0985朱鷺草の葉に居た。産れて数日も経っていなかろう。最近は、たまにしか生まれて来ない。日本雨蛙だけでないのかもしれないが、特に日本雨蛙について必ず注意して見て頂きたいこと。産まれたてでも決して尻尾は無いと言う事を。日本雨蛙の専門書で、山と渓谷社の本に稲株に居る堂々とした尻尾を付けた写真が載せてある。しかもその尻尾の色は少し赤みを帯びている。そんな尻尾の有る日本雨蛙は存在しない。他にも雨蛙の種類はあるのだろう。外国で雨蛙はどんな生態を採るかは知らない。背に負ぶって育てる雨蛙(?)がいるらしい。しかし日本雨蛙は一種類だろう。全て土の中に卵塊(この卵塊は勝手な想像の域の話)で産み落とされ、何年かの地下生活で成長し、雨が降り、土が柔らかくなった時に土の中から生まれ出るのである。生まれる前は、白くて細長い体型で、弱弱しい尻尾を付けた幼虫の姿(これは偶然に観察した事実)をしている。それは真っ白い細身のオタマジャクシが成長した手足の伸びた姿である。人の眼に触れる、産まれた時には完全に緑色の日本雨蛙になっている。親になるまで何年かかかる。親雨蛙は環境に合わせて色も変化する。冬籠りで、必ず地下に潜る。日中生活では、水は必要としないようだ。強く雨が降ると、雨を避けて吹きかからない処に隠れる。日中は夏でも、暑い日射しを背に受けてじっと背中を焼いて居ても平気で過ごす。夜まで木や葉の上でじっと過ごし、夜行性の習性で、必ず糞(大きさはネズミの糞に同じくらい)を一つ残して食料探しに起床し、行動に移る。朝になると大きな親雨蛙は、また同じ場所に戻ってくる習性がある。その日も夕方まで全くびくとも動かないで過ごす。日本雨蛙の生態観察による結果は上に述べたような事になる。毎日何回も同じ日本雨蛙と接していると、その親雨蛙は人を識別するのかと疑いたくなるほど、信頼して安心している様子を示す。だから、筆者は日本雨蛙を『悟りの者』と見做したくなる。余りにも堂々とした立ち居振る舞いだから。
日本雨蛙の新しい謎 幼生生殖でこんな数少ない雨蛙が生まれ出るとは不思議である。疑問・不思議は一体何年土の中で過ごすのかである。蝉は7年と言う。雨蛙はその年数が決まっていないのじゃないかと感じられる。それにしても、上の写真の雨蛙は何年で世の中に出たのか。しかも1匹である。雨蛙の土中生活年数は?

雨蛙と幼生生殖  幼生生殖だが、雄、雌の区別が良く分らない。鳴くのが雄とは思うが体型を見て、雄か雌かを判別できない。親雨蛙は皆雌のようにも見える。雨蛙の交尾を見た事も無い。だから日本雨蛙の生態で、分るのは昼間の観察できる事だけである。モリアオガエルの生殖は交尾ではなさそうだが、似て非なる日本雨蛙の生殖については謎のままである。土の中で卵塊(卵塊と幼生生殖の繋がりも見えない)での受精と言うのも中々理解し難い。幼生生殖は受精なしかと疑問が増える。